酒場の忠犬は夢を見る
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ここは雪降る酩酊街。
忘れられた者、誰もが行き着く場所。常冬の街は雪を積もらせ、新たな足跡が付くのを待っている。


時を忘れた年中無休の酩酊街の酒場と言えども、時には店を閉める時間がある。店内の清掃、女将の用事、など理由はあるが数日に1度、数時間は店から客がいなくなる。

ちょうど今、酒場は店仕舞い時で、店内に客はほとんどいなくなっていた。ただ一匹、老い始めた大型犬が店の隅で船を漕いでいた。老犬の首に巻かれたスカーフは擦れて汚れきっている。女将は机を拭いていたお手伝いの少女に声をかけた。

「きぃちゃん、あのお客さん起こしてきてくれる?」
「はい、いいですよ」

少女は老犬を揺さぶり声をかける。居眠りから覚めた老犬はゆらゆらと周囲を見た後、ワフ、と一声鳴いて店の外へと歩き出た。その足取りはとぼとぼとしたもので、ゆっくりと夜の闇に消えていった。少女は雪が吹き込む扉を閉め、のれんを下ろした。

「あのお客さん、いつもいらっしゃいますよね。あの隅っこでいつも寝ています」
「そうね。ごひいきの客がいるのはいいものだわ」
「誰かを探してるんですか?」

女将は目を丸くした。

「どうしてそのことを?」
「あっ、やっぱりそうなんですね。あのお客さんこういった気がしたんですよ。『今日もアイツは来なかったか』って」

少女は声を低くして老いた犬の真似をした。

「きぃちゃん、犬の言葉がわかるの?」
「私、誰かが「失くしたもの」とよくお話してたんです。この街に来ても「失くしたもの」の言葉が分かるみたい」
「なるほどね。確かにあのお客さんは誰かが「失くしたもの」だものね……」

女将はそう呟いて掃除を続けた。少女は女将に問いかける。

「話してくれないんですか?あの犬さんのこと」
「教えてもいいけど、あんまり面白い話じゃないわよ?」
「それは呪いとかそういう……?」
「いえいえ。ただ聞いて楽しくはないと言うだけ。じゃあまぁ、お茶でも飲みながら話しましょうか」
「それなら私入れますね」

雑巾を置いて少女は急須と茶葉を用意に向かった。


「あのお客さんはね、ご主人様が来るのを待っているのよ」

2人の間に置かれた湯飲みからは、白い湯気が上っている。

「まだ若かったころ、子供ができない夫婦に飼われていてね。ある日、夫婦は養子を貰ったの。当時7歳の男の子。その時に夫婦はお客さんに「新しく来る子と仲良くしてあげてね」とお願いされたんですって。それからお客さんにとって男の子は守るべきご主人様になったわけ」

男の子と愛犬の触れ合いは夫婦から見てもほほえましいものだった。児童養護施設から引き取られてきた当初、男の子は警戒しているのか常に沈んだ様子だったが、あどけないペットとのふれあいで次第に心を開いていった。一人と一匹は兄弟のように日々を暮らした。時には少し距離が開く時もあったが、次の夜には仲直りして一緒に眠りについた。

そんな彼らが出会ってから幾度と季節は巡り7度目の夏、別れは突然に訪れた。

「彼らが暮らしていた地域で大きな災害があってね。倒れる家具、崩れる家。彼らは一緒に家からは逃げ出したんだけど、避難中地すべりに巻き込まれそうになって離れ離れになってしまったんですって」
「それは……大変ですね」
「お客さんは男の子を探すため、崩れ行く町の中をそれはそれは走り回ったそうよ。初めて会った時守ると誓ったのですもの。力が続く限りひたすら走り回って、そして……力尽きた」
「そんな……男の子には結局会えなかったんですか?」
「ええ。結局男の子が無事なのかどうか……それすらもわからないままね」

女将はお茶を啜った。

「そうしてお客さんはこの雪の街に辿り着いたの。ここは忘れられた者が行き着く街。いつかご主人様が来ることを信じて、ご主人様を忘れられずにずっと留まっているのよ」
「そうなんですね……でも気づいてくれるんでしょうか?もう現世ではだいぶ時間が経ってるんですよね?」
「あの首につけているスカーフはね、ご主人様から貰ったものらしいの。それをつけてればきっといつか行き着いたご主人様が声をかけてくれる、ってね」

少女は手元に目をやった。先ほど入れたお茶は冬の寒さで早くも冷め始めている。

「なるほど……結局、イツキさんは無事だったんでしょうか?」
「あら、私イツキって名前言ったかしら?……あぁ、さっきお客さんに聞いたのね」
「え、ええ。夢を見てたみたいで寝言で"イツキ"って言ってたので、その男の子かと。違いました?」
「合ってるわ。夢にまでご主人様を見ているとはね。……結論から言うと、男の子はちゃんと避難できていたみたい。その後どういう経緯を辿ったかはよく知らないけど、大学で数学者として大成したそうよ」

女将は懐から一枚の切り抜きを出して机に置いた。切り抜かれた新聞の記事には眼鏡をかけた男性がどこかの教室で資料を片手に講演を行っている写真が載っていた。自身の研究を意気揚々と話すその顔は誇らしげに見えた。

「これがお客さんの飼い主だった男の子なんですか。にち……ほう、樹?」
「これでイサナギって読むのよ。日奉いさなぎ いつき。普通は知らない苗字よね?」

切り抜き記事を読み進める少女。

「へぇぇ凄い人なんですね。私にはよくわからないですけど、色々賞も取ってるんですね。無事でよかったですね」
「その分あのお客さんが会えるまでまだ時間がかかるってことでもあるわ。生きて忘れられてないってことだから。さて、これはもう一つの記事」

女将が出したもう一つの記事の見出しを見て少女は目を見開いた。

「訃報……!?」
「享年26歳。若くして虚血性心疾患にあったそうよ」
「それは、惜しい人を失くしましたね」
「ええ、あまりにも早いわね」
「じゃあ、そう遠くないうちにこの街に来るかもしれないですね。有名人とはいえ、いつかは忘却の道へ進むんですよね?」
「ええ、私もそう思ってたのよ。でも彼は一向に来る気配がないの。亡くなった人はね、最初は死を受け入れられなくても次第にそれを受け入れてく。そして現世を忘れて酩酊に沈むことを願うようになっていくものなのよ。でも……」

女将がギュッと湯飲みを握る。

「現世に忘れてほしくない人。死してなおずっと注目され続けてほしい人。そんな人はずっと現世にしがみ付き続ける。しかも、『若き天才数学者の突然の死』でしょう?センセーショナルで記憶に残るわよね?その記事にもあるように世界中から惜しむ声が挙がっているわ」

女将は大きく息を吐きだす。少女は少し感傷的になっているように見える女将の姿を初めて見た。

「こういう人は忘れられないし、忘れられようとしない。彼がこの街にやってくることはないでしょうね」
「で、でも女将さん、」

少女はなんとか言い返そうとする。このままではこの街で主人を待ち続けるあの忠犬が可愛そうに思えたからだ。

「樹さんが注目されたがりっていうのは推測ですよね?もしかしたらただここに来るのに迷ってるだけかもしれませんよね?」
「そうならいいんだけどね。なんとなくこの樹って男はそういう人に見えるのよ。私もいろんな人をこの酒場で見てきたからね」

確かに、女将の人を見る目は並外れた者がある。少女はもう反論しなかった。呟くように、問いを投げかけた。

「本当に、樹さんは来ないんですか?自分の愛犬が待っているこの街に」
「人間の文明が終われば、もしかしたら。でもそれはいつになることかわからない」
「そんな……それじゃあ、あのお客さんはずっとこの酒場で、来ないご主人を夢見て眠り続けるんですか?」

女将は空になった湯飲みを片付けに立ち上がった。そして背を向けて少女に語り掛ける。

「きぃちゃん。ここはね、停滞の街なの。雪は降り続け季節が進むことはない。あのお客さんはご主人様と出会って先に進むことを望んでいるようだけど、それはこの街では叶わないでしょうね」

少女は首に冷たい風が当たった気がした。扉を見やるがしっかりと閉まっていた。

「それでも」

女将がカウンターから呟く。

「ご主人と再会する夢を見られるだけ幸せじゃないかしら?夢の中ではずっと幸福でいられるんですものね」

少女はもう何も言わなかった。街に来てまだあまり時間が経ってない彼女が言えることは無かった。女将はふぅ、と息を吐きだして呟いた。少女からは見えなかったが、少し寂しそうな笑顔を浮かべていた。

「少し、羨ましくなるわね。私は夢を見れないから。私自身が夢みたいなものだから」
「え?女将さん、それはどういう……」
「私はお客さんみたいな方たちに夢を見せるため、酩酊を与えるためにここにいるの。だから酩酊に沈むことは、できない。……さあ休憩は終わり。私は箒を取ってくるわね」

そう言って奥に下がる女将の背中が、少女はいつになく遠くに見えた。

掃除が終わって、料理の仕込みが終わればまた酒場は開く。するとまたあの忠犬はやってくるのだろう。酒場の喧騒の中、隅の席で静かに夢を見続けるのだろう。少女は老犬が座っていた席を念入りに掃除してあげることに決めた。


ここは雪降る酩酊街。
忘れられた者、誰もが行き着く場所。常冬の街の風景は、移ろうことなく変わらない。

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