
Nx-54("四十八町") / サイト-81UOの物語
0: 財団における"幽霊"についての非公式な見解
"幽霊"? それは間違いなく臨床的クリニカルな呼称ではない。とはいえ、財団が数世紀ほど前に超自然現象の研究に乗り出した時、「ヒトの死後意識に関連する異常な事物」について科学の見地から見た呼び方は決まっていなかった。では何と呼ぶべきか?
財団の超心理学部門では、古いオカルト研究でのエーテル仮説に基づき、幽霊に類するアノマリーについて"アストラル幽体"という用語を用いた。対して認知脳科学課は、体外に放出された神経電気活動が幽霊の正体であるという理論からそれらを"スペクトル結像"と名付けた。同様のものを超常物理学セクションでは"死屍災害"あるいは"死後ベクター"と呼び、現実論・ヒューム学の分野では"幻像実体"、非標準生物学では"霊素生命体"と分類した。
この状況について、財団のアーキビスト達は呼称を最もシンプルな"霊的実体Spectral Entities"へ統一すべきだと長らく主張していた。しかしそれぞれの分類が幽霊の存在を説明する別々の理論に基づいて為されている以上、"幽霊"と呼ばれる多くのオブジェクトに対してそれらの用語が指す範囲は僅かに異なっている。結果、各分野で好き勝手に独自のラベルを貼り付ける蛮行を止めるまでには至らなかった。
そもそも幽霊とは何なのか? 目に見える幽霊と見えない幽霊の違いとは? 他の実体を持たないアノマリーと幽霊との区別は? 神格化された故人は霊なのか神なのか? 死んで幽霊になる人物とならない人物の差異は? 無数の宗教が語っている死生観の中で、どの部分が真実でどこまでが迷信なのか? 死後の世界と比定されるいくつかの超次元空間との関連性は?
……つまるところ、幽霊は確かに実在し、財団はその実物をいくつか捕らえてすらいる。だが、それがどういう理屈を持ってそこに存在しているのかという点では部分的にしか解明されていない。幽霊それ自体と同じように、この世界における"幽霊"の科学的な定義はおぼろげで頼りないままだった。
少なくとも、Nx-54が発見されるまでは。
1: Nx-54 四十八町、日本国、青森県

Nx-54、血潮川からの風景。
ネクサス番号: Nx-54
民間呼称: 四十八町よそはちまち、日本国、青森県
人口: 11,975
エリアクラス: Asphodel
対ネクサス・プロトコル: 財団のWebクローラBot(I/O-CHARŌN)はソーシャルメディア及びオンライン上におけるNx-54に関連した記事/ページ/投稿の中から、"幽霊"、"心霊現象"、"都市伝説"、"祟り"、またはそれらの変化形(同義語)に1つ以上言及したものをタグ付けします。
タグ付けされた情報は全てサイト-81UO内の公衆虚偽セクションによって審査され、ヴェール・プロトコルを侵害していると判明した場合は改竄もしくは削除の後、関連する民間人への接触と工作が為されます。
また、青森県内には世界オカルト連合極東部門の本部拠点施設であるステーション-FE-392、および同組織の108評議会加盟団体である国際統一奇跡論研究センター(ICSUT)の恐山キャンパスが所在しています。これらの組織からの過度の干渉を防ぐため、連繋・外交セクションはネクサス内における財団の統制力を維持・正当化することを目的として各組織との折衝を行ってください。
収容施設: サイト-81UO(JPAOYS-Site-81UO)
説明: Nx-54は日本の青森県に位置する、周囲の森林と2本の川を境界とした92.01km2の領域です。この領域は日本国政府が認知するところの地方自治体、四十八町の管轄する範囲とおおむね一致します。
Nx-54に固有の特異な性質として、しばしば"幽霊"や"心霊現象"と形容されうる、ヒトの死後意識に関連した異常な実体や事象の出現/発生率が非常に高い点が確認されています。世界の標準的な領域における1平方キロメートルあたりの平均と比較して、Nx-54の領域内における同種アノマリーの実例は財団が認知しているだけでも約830%多く、実例ごとの能力・活動も活発なものとなっています。
Nx-54の住民はネクサス内で発生している異常な諸現象について不正確な形で認知しており、2010年度に実施された公衆認識調査ではおよそ74%の住民が「町内における奇妙な/不気味な感覚」を抱いていることが確認されました。しかしながら現代の一般社会において"幽霊"や"心霊現象"が非科学的な事物として広く受容されていることから大規模な隠蔽工作は不要であると考えられ、現時点でのリソースはNx-54に対する一般社会の関心を削ぐことに注がれています。
補遺: 通常、ヒトの死後意識に関連する異常な実体や事象は死亡した地点、またはその死亡に関与した事物の周囲に出現/発生する傾向にあり、また自発的に長距離を移動する事例は稀です。しかしながらNx-54内に出現するそれらの実例については、日本国外を含むネクサス外での死亡者との関連(外見的なアイデンティティの一致など)が確認される事例が多く報告されています。これらの死亡者とNx-54との間に生前明確な関係性があったという記録は確認されていません。
この現象を含むNx-54の異常性質について、立地や周囲環境、"甘川・血潮川伝説"などのネクサス内に伝わる神話・民話、及び"天明の大飢饉"、"夜見寺一族失踪事件"などの過去発生した事件など、他の標準的な領域と比べた際にNx-54が持ついくつかの特殊要素が注目されました。これらの包括的な調査・研究のため新たにサイト-81UOが設立され、現在までNx-54の管理と監視にあたっています。
2: ネクサスに立つ幽霊サイト
世界各地に存在する特殊な性質を持つ土地、ネクサス。全てのネクサスには共通する法則がある。そこで起きることはその範囲内でのみ発生し、境界線を越えていくことはないという法則だ。ネクサスに関わる異常な事物は領域の内側に留まろうとするか、外に出した時点でその異常な性質が消えてしまう。
つまり、ネクサスには世界を滅ぼすようなアノマリーは居ない。異常なケーキが発見されたとしても地球を埋め尽くすまで無限に増殖することはないし、出現した怪物が全人類を皆殺しにすることはできない。少なくとも、多くの財団職員にはそう認識されている。
「だからここへの配置換えを選んだって?」
運転席からの問いかけに、エージェント・漆戸しつどは「ええ」と短く答えた。「最近の子は正直だねえ」と笑いながら切られるハンドルに合わせ、「公益財団法人 佐原文化保存財団(Sabara Cultural Preservation Foundation)」のロゴが描かれたバンは、舗装の歪みを乗り越えるごとに後部座席の機材をゴトゴトと揺らしながら田園地帯を抜けていく。
「まあ間違ってやしないけどね。ネクサスを管理するサイトは、普通ネクサスのみに対処する。だから他の大規模サイトなんかに比べるとどうしても地味だし影が薄い」
運転席に座る年上のエージェント、八谷はニヤニヤと口角を上げながら、「それこそ"幽霊サイト"だなんて言う奴もいる」と続けた。漆戸は閉口した。誰が考えたのか知らないが、四十八町の特異性を踏まえているならば出来の悪いジョークだ。
しかし実際のところ、この軽口が八谷なりの気づかいであることを漆戸は感じ取っていた。漆戸がここに来る前、かつて所属していた部署で引き起こした出来事について、彼女も事前に把握していないはずはないのだから。
それは言葉にすればありふれたトラブルだった。オブジェクトの初期収容における、いくつかの情報共有ミス。それが結果的に漆戸の同期であった職員2名の命を奪った。漆戸のミスに直接的な原因があったわけではない。例えそのトラブルがあろうとなかろうと、現場での油断がなければ、あるいは専用機材の起動が数秒早ければ、致命的な事態には発展しえなかっただろう。責任という点では、関係者すべてがその一端を担っている。
だが、帰らぬ人となった2人の顔は、未だ彼の心に残像をのこしていた。もちろん心理評価では業務の遂行に問題ないと判断されているし、漆戸自身も、この出来事がトラウマと言えるレベルのものではないと認識している。だから、彼はただ疲れていたのだろう。もっと地味で心落ち着ける、静かな仕事を求めて異動願を出した。そして今、漆戸はこの四十八町に居る。
「八谷先輩は、なぜ81UOに?」
「ああ、私はもとから四十八に住んでたんだよ。フィールドエージェントの地元採用ってワケ。……意外って顔してるね」
ちょっとした驚きも表情に出ていたのだろうか。確かに、漆戸にとってネクサスとは単に異常な土地であり、オブジェクトと一定の距離を持って接するようにネクサスの住民とも財団は一線を引いているものだと当然考えていた。気まずそうな彼の反応を見て、八谷は言葉を継ぐ。
「少なくとも81UOでは四十八の住民を収容対象とは見なしていないし、職員として採用することだってある。そこが普通の土地型オブジェクトとの違いだね。ここに生きているのは、単に異常な土地に住んでいるだけの人間だ」
「……不快に思われたならすみません。自分がネクサスでの業務について物知らずで」
「気にしないで、特殊な場所では特殊なサイト文化が根付くってだけだから。これから慣れるよ」
漆戸が言い淀んでいるうちに、バンは町はずれの森の中に続く道へと入っていく。緑樹がうねる車窓の景色に、ぽつぽつと赤い色が混じっていることに漆戸が気付いたのは直ぐのことだった。目をやると、その赤が下生えの間に咲く彼岸花であることが判る。森を進むごとに立ち並ぶ彼岸花の数は増していき、生い茂る葉の濃い影が木漏れる白昼の光さえも掻き消している中で、その花々は輝くような鮮烈な赤を漆戸の目に残した。
やがてバンは開けた場所でそのエンジンを止めた。手入れされたであろう広場の中心には、鬱蒼とした森の中に似つかわしくないほど整った洋館が立っている。いわゆる明治・大正期の擬洋風建築とでもいうのだろうか。典型的な東北の地方自治体といった様子の四十八町にこのような建物があることに、漆戸は何か場違いな「異質さ」を感じ取っていた。
そんな漆戸の心を知ってか知らずか、洋館を背に八谷は手を広げて「ようこそ、ここが81UOだ」と彼に向き直る。
「ここがサイト……ですか?本当に?」
「そ。まあいろいろ疑問はあると思うけど、とりあえず中に入ろうか」
八谷に促され、漆戸は扉を開いた。エントランスは吹き抜けになっていて、扉を開けた拍子に舞い散ったほこりを天窓からの採光がキラキラと照らし出していた。漆戸はあたりを見渡すが、壁に飾られた絵画や立てられている燭台と、内装もやはり洋館のものだ。ガワ以外は研究施設になっているということでもないらしい。
ふいに、漆戸の鼻先を何かが掠める。左へと横切ったそれを目で追うと、壁際に白いボールのようなものがくっついているように見えた。そのボールが宙に浮く頭蓋骨だと気が付いたのは、それがこちらに反転して眼窩に青白い炎を滾らせながら向かってきてからのことだった。
ドクロは大きく顎を開き、あたかも今度は外さず食らいつくとでも言うがごとく漆戸へと飛び掛かってくる。漆戸は思わず目をつぶって両腕で防御姿勢をとるが、ドクロはそのまま彼の体をスゥっと何の抵抗もなく突き抜けていった。ほっと漆戸が息をついた途端に、壁際の絵画や燭台がカタカタと揺れ動き始める。いや、より正確に言えばケタケタとでも形容すべき音が、いつしか屋敷中から彼をあざ笑うかのように響いていた。
これは、幽霊。腰を抜かしてへたり込む漆戸に、八谷の声が背後から聞こえた。
「さっきも言ったように81UOは特殊でね。元々ここには夜見寺っていう富豪の一族が住んでたんだけど、ある時全員が失踪してしまった。で、調べに入ったら当主が交霊術やら死霊術とかのオカルト系に傾倒してたっぽくて、屋敷全体が幽霊の巣窟になってたんだよ。だからサイト自体が研究拠点であり研究対象でもあるってわけさ」
あまりに数が多いもんだから、それほど危険じゃない霊的実体くらいなら"放し飼い"にしている。と八谷が言うそばから、漆戸のすぐ後ろから「絞め殺してやる」と低いささやき声がした。もちろん八谷の声ではないし、彼女は今声が聞こえた方とは別の位置に立っている。漆戸は身じろぎながら振り返るが、誰もいない。あるいは見えないだけなのか。
「でも、静かな仕事を求めてきた漆戸君にとっては当てが外れたかもね」
茫然自失としている漆戸に、八谷はまたニヤニヤと笑って言い放つ。
「なんてったって、ここでは死人に口がある」
漆戸はヘヘ、と力なく笑い返した。本当に、出来の悪いジョークだ。
3: 四十八町は新たな町民を迎え入れる
「美緒、7時じゃ。早はえぐ起ぎでめし食け!」
トントンと襖を叩く祖母の声に、美緒は重たいまぶたを開ける。見上げた板張りの天井にはまだ慣れない。いつも通り朝の光を浴びて目を覚まそうと、美緒はノロノロと起き上がって雨戸を開いた。流れ込んでくる四月の空気はやはり冷たい。ぼやけた視界を通して、窓の外には小さな庭と塀、隣家の赤い屋根が見える。この景色にも、まだ慣れない。
十分に光で目が開くようになると、美緒は大きく伸びをしてからハンガーに吊るしていた四十八西中学の制服を手に取る。黒いリボンのセーラー服……美緒の好みではない。単に美的センスに照らして気に食わないというだけではなく、その白と黒の指定服は見るたび美緒に葬式の壁一面に掛けられた鯨幕を思い起こさせたからだ。
美緒が慣れ親しんだ東京の家からこの四十八町に引っ越してきた理由は、長々と語る必要はない。父親が癌で死んだ。発見された時には肺から全身に散らばっていたので半年も持たなかった。だから今まで住んでいた父の会社の社宅を出なければいけなくなり、母と共に母方の実家である祖母の家に越してきた。それで終わりだ。あえて付け加えるならば、美緒をこの時間に起こすのが祖母の役目になっているのは、母が早朝から働きに出ているからといった程度だろうか。
食卓に出ると、祖母はすでに朝食を並べて待っていた。今日は目玉焼きとせんべい汁とごはん、それに昨日の菜っ葉のおひたしだ。慌てて美緒も食卓につき、手を合わせる。
「優しい」というのが祖母に対する美緒の率直な印象だった。少々津軽訛りはきついが、とにかく優しい。夫が先立ってからは一人暮らしであった今までの生活から、急に炊事・洗濯・掃除などが3倍のタスクとなって襲い掛かってきたのも同然のはずなのに、だ。孫可愛さというのもあるのだろうが、美緒自身が恐縮してしまうほどに祖母は日々のこまごまとした家事を率先して行ってくれていた。
だからもっと手伝いたいくらいで、家での生活に不満は無い。だが……。出汁を吸った煎餅を齧りながら、美緒はちらりと壁に目をやる。壁には八卦陰陽図と「方位除災御祈祷」と書かれた護符のようなものが貼られていた。
それも一枚だけではない。同じような護符が窓、扉の上、部屋の角と取り囲むように貼り付けられていることを美緒は知っている。居間には「悪鬼退散」と書かれた御札が貼られていて、台所には押しピンに引っ掛けられた御守りが5個6個と鈴生りになっていることも。それらの御守りや御札には統一性がなく、一見したところ仏教や神道、陰陽道など宗教宗派を問わず手当たり次第に集めたようにすら感じられる。
とはいえ、祖母が何かの新興宗教に騙されているわけではなく、単に田舎ゆえの迷信じみた信心深さというわけでもない。食べ終えると美緒は食器を流しへ運び、学生鞄を持って玄関へ向かう。そして引き戸に手をかけ、呼吸を整えてからゆっくりと開けた。
途端に、美緒には"視線"が向けられる。2つ4つの眼では足りない、無数のこの世のものではない者から注がれる視線。常人が見れば何もない空間でも、美緒にはその視線の主たちが「視えて」いる。美緒はそ知らぬふりをして学校への道を歩き始めた。歩みを進めるのに合わせて視線は徐々に、興味を無くしていくかのように美緒から離れていく。
いわゆる「霊感」とでも形容すれば良いのだろうか。美緒自身、昔から他人には見えない妙なものが見えることはあった。世に言うところの、幽霊と呼ばれる存在だ。しかしこの町では幽霊の数もさることながら、その存在感自体が"濃い"。おそらくは、そういった存在を感じとる資質が少ない者であっても、日々ふとした瞬間に何かしらの不安を覚えるほどに。
夜道を歩けば怪しげな人影が後ろから伸びてくるが、振り返ると誰もいない。写真に何かのもやが映り込み、置かれた物がひとりでに動く。そういったこの場所で日常的に起こる不気味な出来事が、祖母のような町の住人の奇妙な慣習の由来となっていることは間違いなかった。1人歩く美緒を、同じ中学だろう、3人ほどの女子グループが楽しげに会話しながら速足で追い抜いていく。
そして、彼女たちの鞄にもストラップかのように、いくつもの御守りがぶら下がっている。
4: サイト-81UO職員向け心霊学講義、その前書き
霊体(Ectomorph)に関しては、死、そして霊魂という概念が人類にとって普遍的な概念であるが故に、古来より世界中で様々な視点による研究が続けられています。歴史上のさまざまな学者がこぞって行った"魂の在り処"を探す研究は、オカルトのみならず物理学、解剖学、生理学など様々な科学分野の発展にも寄与しましたが、肝心の霊的実体について専門的に扱う分野は長らく存在しませんでした。
しかし今日こんにちの財団では、霊体の研究に特化した「心霊学(Phasmology)」という学問が確立されています。多角的なアプローチから得られた知見を統合し、近年になって心霊学は目覚ましい発展を遂げました。よく知られるところでは、霊体の組成についての統一理論として考案された「霊子論仮説」や、エクトプラズムの性質に着目した「霊体工学」の誕生などがその一例です。
「霊体の観測はごく限定された資質を持った人物か、長期間の訓練を行った人物にしか行えない」というかつての常識は、K-515型撮像機やハルトマン霊体撮影機の登場によって光学機器での観測が可能になったことで打ち砕かれ、非物質変異無効装置(nPDN)やスラント霊素固着波生成器の登場により、今まで儀式的手法に頼っていた非実体的性質を持つ霊体の収容は、大幅な収容リソースの削減と霊的実体の脅威性の低下に繋がりました。
心霊学はまだ若い分野であり、日夜生まれる新たな発見と発明が霊体に関する常識を覆しつつあります。そして、ここNx-54は多くの霊体の実例を観測することができる場所です。心霊学研究におけるこの世界でも有数の好立地において、あるいは明日、死そのものを解明Explainedすることさえも可能となる発見があるかもしれません。
サイト-81UOにようこそ。この日本の僻地で、あなたは科学の最先端にいます。
サイト-81UO 研究・開発セクション主任
織戸 鹿三郎 博士
Oruto Kasaburou, PhD
Senior researcher, Site-81UO R&D-section
5: 新たな町民は四十八町を受け入れる
「壁に耳あり生者に目あり……」
「今なんか言った?美緒」
友人の問いかけに、おっと、と美緒は口を塞ぐ。下校途中にぼんやりと空を眺めていたところ、ふと無意識の領域から考え事がまろび出たらしい。
眺めていた夕焼けの空には、こちらから見られているとも認識していないのか、鼻に指を突っ込んで悪戦苦闘しているバイカー姿の幽霊が浮かんでいる。おそらくは死ぬ直前に手の先のほうが切断されてしまったようで、太い親指を無理やり穴に押し込もうとしているのがチャームポイントだ。きっと鼻のかゆみを気にしすぎて転倒したに違いない。
美緒が四十八町に越してきてから一か月が経った。例の"視線"やこの町の住民があちこちに霊的グッズを置く文化には未だにギョッとさせられるところがあるが、何事にも慣れというものがある。こうして並んで下校をしているように、少ないながらも友人もできた。美緒が東京育ちということで、もともと外の町に憧れがあった彼女は美緒にいろいろと聞きたいことが溜まっていたらしい。
「で、何の話だっけ」
「だからぁ、イラズの森の夜見寺屋敷ってずっと補修工事してない?ってこと。だいぶ前から一般公開しますしますって言いながら延期してるっつうのにさ。あのなんちゃら保存財団、ちゃんと働いてんのかね?」
「ああ、それは……」
あれ?ふいに、美緒の視界が揺らいだ。ねえ美緒聞いてる?友人のそんな声が遠くなっていく。いや、離れているんじゃない、まるで、何か別の音にかき消されるように
『prrrrrrr!』
けたたましく鳴り響く目覚まし時計の電子音に、美緒は重たいまぶたを開ける。懐かしい夢を見ていたような気がする。十数年ほど前、美緒がまだ中学生だったころの景色の中にいたような。雨戸を上げて日光を浴び、もはや見慣れた庭の風景を横目に身支度を整え、ハンガーに吊るされたスーツを手に取る。黒のジャケットと白いワイシャツ。ふっと思わず笑いが漏れる。中学生の自分が嫌っていた制服が鯨幕なら、さしずめこれは喪服だろうか。
襖を開け、食卓に出る。早朝の台所にはコンロの火もなく、一見すると誰もいない寒々しさのみが広がっていた。しかし、美緒にはそこに居る者が視えている。
「おはよ、おばあちゃん」
その霊的実体は何も言わず、ただ座っている。美緒の祖母がくも膜下出血で亡くなったのは、4年ほど前の冬のことだった。居間の床に倒れているところを発見され、豪雪をかき分けて病院に到着したころにはもう手遅れになっていた。享年78歳。それでも、十分大往生と言っていいだろう。だが何が未練なのか、祖母の霊は現世に留まっている。それもこの食卓に座るという形で。
美緒は手早く朝食の用意を始めた。ゆっくりと朝食をとるための時間を確保するのはそう難しいことではない。ほんの少しでも早起きができる、選ばれた人間ならばだが。美緒も自分がそちら側の選ばれた人間だと言いたいところだが、ほうれん草を切りながらついあくびが出てしまう。祖母の霊は、それを黙って見つめている。
霊は未練を果たした時点で現世から離れていくという。どこへ行くのか、どのように向かっていくのかというのも気になるところだが、なにより祖母の未練の解決こそが美緒にとっては最優先すべき事柄だ。早起きして祖母の霊と一緒に朝ご飯を食べるというのがここ最近のアプローチだった。今のところ、効果は見られない。
あるいは。美緒は自嘲のため息をつく。あるいは、祖母はその優しさで、死してなおこちらを見守るとでもいうのだろうか。まだ頼りない孫だと思われているのか。であればアプローチはより簡単になる。ただやるべきことをやっている姿を見てもらうだけだ。彼女が担っている、世界を救う大仕事ではない、世界をほんの少し良くするための仕事を。
食べ終えると美緒は食器を流しへ運び、鞄を持って玄関へ向かう。そして引き戸に手をかけ、食卓の方へ向きなおって声を出す。
「じゃ、いってきます!」
美緒、いや、コードネーム"エージェント・八谷"は、こうしてNx-54での今日を始める。
6: 幽霊サイトに立つエージェント
幽霊相手にやられっぱなしでは何も始まらない。漆戸はそう確信していた。
「で、それ?」あきれた様子で八谷は漆戸の腕に指をさす。そこには、ゴテゴテと機械類や配線が取り付けられた籠手のようなものが取り付けられていた。試作型メトカーフ・ガントレット。小型のメトカーフ非実体反射力場発生装置(MNeRG)が組み込まれたそれは、霊的実体への物理的干渉と作用を可能とする機器としてサイト-81UO研究・開発セクションの主任である織戸博士によって製作されたものだ。
「ええ、ちょうど被験者になってくれる人を探してたっていうので借りてきました。これであのクソドクロに一撃入れてやらないと気が済まないんですよ!」
「それ、あくまでも触ったり持ち運ぶためだけの機器だからね?想像つくと思うけど、殴ったら一発で籠手の方が壊れるから」
はあ、と八谷はため息をつく。初めて迎えに行ったあの日、無気力状態だった彼とはえらい違いだ。洋館でのサプライズは彼の気付けにすこぶる効果的だったらしい。サイト-81UOの地下に位置する小さな実験室は、漆戸が発する熱気に満ちていた。
「あのね、霊的実体は必ずしも敵じゃない。ユウレイ トモダチ コワクナイ」
「わかってますよ。でも自分には八谷先輩みたいな"霊感"は無い分、いろいろ試してみたいんです」
幽霊と一口に言っても、その種類は様々だ。それはアストラル幽体だとか死後ベクターだとかそういった分類の問題とは別に、人間にさまざまな性格や能力を持つものがいるのと同様、元人間である幽霊も一人一人千差万別であるという普遍的な真理へと還元される。ならば、対話の仕方も一通りではないのだろう。霊感であれ、霊話コンバーターであれ、いたずらに対する報復であれ、あらゆる手段の模索を続けることこそが望ましい。
「ま、じゃあ好きにしなよ。先に巡回の準備しておくから早く車来てね」
そう言いながら去る八谷の背中を見て、漆戸は口を開きかけた。それに 。思わず口にしそうになった出来の悪いジョークを、直前で飲み込む。 死人に口があるんなら、こっちだって聞く耳持ってやらなきゃだめでしょ。
片づけを行い実験室を出る。すると、漆戸は左側から何かの気配を感じた。実験室の出口が面した廊下の突き当り、暗くなっていて見えづらいその場所に、何かがいる。1人、いや2人? 八谷がここに残っていれば判別できたのだろうが、漆戸には、それが人間かそうでないかもわからない。「誰だ?」漆戸は暗がりへ声を掛けた。しかし応答はない。
もう一度声を張り上げる。「そこにいるのか?」
暗がりから、まだ応えは返ってこない。