月下美人の愛しかた

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その頃の彼は、何となしに人間そのものに厭気が差していた。憂鬱の元は取り止めのないものでしかなく、たとえばそれは肉を身体に纏って産まれておきながら身を機械に置き換えようとする人類の歪、百余年も続く大正の御代に何となく感じる不自然、自分に人形職人を継がせようとする父から感じる無言の圧力、それから理由もなく湧いてくる厭世感。つまりはすべてだったのだ。

ある晩、彼は独りきりで夜道を歩いた。張り詰めた夜の冷たい静寂の最中、自分の革靴の足音だけが響くことに心地よさを感じ、行く宛もなしに歩みを進めていたときのこと。耳と鼻との奥、衣擦れのような穏やかな音と、酔ってしまうような、しかし柔らかな芳香を感じ取った。

香りに誘われるままにただ歩いた道も尽きてしまった行き止まり、彼が見たのは月に照らされる真白い花と少女。肢体に絡みついて伸びる茎の先、花弁がふわりと解けて此方を向き、嗚呼、いつだったか図鑑で目にした月下美人とはこのように綺麗な花だっただろうか。

理由のないうつくしさもこの世界には存在すると、彼はそのとき初めて知った。

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心の欲の赴くままに少女を連れ帰ろうと手を引いても、彼女は決して拒まなかった。黙って笑うだけの彼女に彼が見出したのは、人間味の欠如を補って余りあるうつくしさ。

食べ物と水さえ充分に与えてやれば、彼女は満足するようだった。夜の窓辺に月光の下、燐光を放つ月下美人はますます華麗に咲き誇った。鼻につくようでない、然して脳髄の奥まで侵蝕するような香りが心地よかった。

花という存在を煮詰めたような生きものだった。そこにあるがままに咲き誇っていた。決して人間に媚びはせず、ただ静謐にうつくしく咲き誇るその気高さをこそ彼は愛おしんだ。

しかし、凛とした気高さを真に自分のものにしたいと願えども、花は初めから人間の所有物ではない。彼らが咲くのは虫のため、蝙蝠のため、鳥のため。詰まるところは自らの繁殖のため。いくら傍で見ようとも我が物には決してできず、その孤高を愛するがゆえに無理にそうしようとも思えなかった。うつくしいという言葉だけでは表せない感情の燻りをもたしかに覚え、彼はどうしようもなく呼吸ができないときと同種の息苦しさを感じた。


彼が呼吸のやり方を見つけたのは、花と暮らし始めて八ヶ月が経った頃だった。父が死に、家督と人形つくりの職を継ぐことになって日頃の憂鬱を殊更に強めていた彼はある日、自分が如何にして生きるべきかを悟った。月のない晩、仄かに部屋を照らす花の少女を眺めていたときだった。

自分は父のようにはならない。ガラテア商會などと自らの団体につけるような傲慢は要らない。自分は民衆のようにはならない。人と人ならざるものとの境界を溶かしてまで生きようとする醜さは要らない。人の身に寄らぬ彫像は、彫像のままに愛したい。

静かに冴え冴えと咲き誇るこの花をこの花たらしめる欠片たちを取り出して、或いはそれだけを表現できれば。

そう、願ったのだ。

人の変わったように、彼は学んだ。磁器人形の繊細を、雛人形の麗容を、絡繰の動作の滑らかを。また電気回路の精細を、人工知能の明晰を。欲したのは技術でなく芸術の技法、自らの感覚を外界に発露させる術、うつくしいものをうつくしく見せるためのすべて。


初めて自分で組み上げた自動人形の回路に埋め込んだのは、そっと少女から摘み取った花弁。まだ燐光を残すそれを心臓部にそっと組み入れれば、出来上がったのは月光を人の形に写し取ったような存在。彼の処女作。顔立ちも体格も着物も、何一つとして少女に似通ってはいない。それでいて、同じうつくしさを覚えるような。

そうだ。これが、これこそが自分の愛する冷たい静謐の香りなのだ。


花の少女はこんな愛を知らなかった。

言葉で以て賛美されているわけでもないのに満たされて、自分という存在に欠落した何かがそっと埋められていくような。沢山の水を摂ったときに湧いてくる、植物としての歓喜ではない。見目を称賛されるたびに思われる、自我持つ花としての満足ではない。では、これは?

そっと引き抜いた自分の花びらを手に仕事をする彼を見ていると、もっと別の何か、花の心ではない何かが自分の中に育っていくようで。

「やはり、月のひかりに似ている。」人形つくりは独りごちた。


人形達にはやがて、人の造りし月光というような名がついた。しかし、名前など人形つくりにとってはどうでもいいことだった。自動人形を見た遠くの誰かが、自分の感じたのと同じうつくしさを見ることを、ただそれだけを願っていた。

たとえば自動人形の陶製の肌を磨くとき、脚の曲線を形作るとき、眼窩に硝子玉を填めるとき。人形つくりはいつだって、脳裏にとある情景を幻視した。

夜闇の閉ざす中。眠る少女の白い肩から茎が伸び行き、生まれた蕾はゆるやかに解け、ひかりをその身いっぱいに孕んで咲く。昼に萎れて夜に花開き、死と再生を繰り返すごとに柔らかな香りが澄み渡り、彼の魅了されたそれは遠くへ、遙かへ、拡がり、流れ、いつか、世界の彼方まで。


夜も更けた頃。作業に疲れ果て手を休めた彼が視線を遣った先、窓辺の椅子に座るのは、いつだって変わらずに微笑み佇む月下美人。

つくり続けようと思った。明日も、明後日も、その先も。

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