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タイトル: 善行
翻訳責任者: Witherite
翻訳年: 2025
原題/リンク: The Good Work
著作権者: HarryBlank
作成年: 2021
初訳時参照リビジョン: rev.43
善行ザ・グッド・ワーク
コンテンツ警告: このTaleには組織的なホモフォビア、トランスフォビアの場面が含まれます。
あなたが口をあんぐりさせることはあるのでしょうか。
その考えが頭によぎると、ヴィヴィアン・レスリー・スカウト博士は目が細くなるのを感じた。細い唇の端がわずかに上がるのを感じた。わざとそうして、大きな帽子の小男に彼がなぜニヤニヤしているのか考えさせた。相手がそう思うことに疑いようはなかった。レイナルド・ワッツ監督長は、大きな帽子の小男の例にもれず並外れて自意識が強く、他人が実際にどう思っているかまるで知らないがために取り乱させられていた。
ですが性癖を制御できるほど自意識はないのでしょう、レイナルド? 狙ったかのように、ワッツは再び蛇のごとく舌をチロリと出した。彼は緊張するといつもそうしていたのだ。スカウトがオフィスにいると、いつも緊張していた。スカウトは場の主導権を握り、ワッツも何としてもそうしたかったのだ。
王立カナダ騎馬警察オカルト・超自然活動委員会の監督長は、そんな大層な肩書きを支えられるほど精神的な筋肉を持たない緊張した顔の小物であり、大きすぎる机の向こうからあからさまな軽蔑の表情でスカウトをにらんでいた。彼はグローブの手で書類の束を振った。「今日どれだけ書類を渡されて、どれだけ仕事をする必要があるか、知っているかね?」
暫定サイト-43共同管理官は、頭を前に傾けて眼鏡と黒いフェドーラで目を隠し、相手を威圧した。ワッツのために帽子を脱いだことはなかった。「そこまでする必要のある量ではない、と思いますが」
ワッツは書類を卓上に叩きつけた。「この試験は皆にしているのだよ、管理官。政治的、教育的に繊細な立場の者全員にだ。国家の安全に危険をもたらす者にだ」
OSATは本質的にRCMPの超常業務を担う部門だった。この件がその領分だという考えは、スカウトにとってはブラックユーモアだった。スカウトはニヤニヤから嘲笑に顔をゆがませた。ワッツとの会話は素晴らしい演劇の実践だったのだ。「私が国の安全よりも喫緊の問題を扱っていることは、当然ご存じでしょう」
ワッツは笑った。自分では響き渡る笑い声だと確信していたようだが、当然、むしろ耳障りな声だった。「お前と私の両方がな。お前たちが不法占拠する森の何が特別なのか私が見つけるのは時間の問題だ。その遊び場を均したとき、お前がどれだけ生意気なのか見ることになるだろう」彼はコチニールレッドの制服のチュニックのしわを伸ばし、スカウトの嘲笑に対抗しようとした。悪意こそ見られたものの、自信が欠けていた。「お前の問題が何か知っているか? この手の話は大好きだろう。私のひいひいひいひいじいさんグレート・グレート・グレート・グレート・グランドファザーの話をしたことはあったかね?」
「されていません」とスカウト。「ですがとても素晴らしいグレート人だったようですね」
「ハハ」ワッツはグローブをきつく引き、その間舌を動かし続けていた。「彼はお前のようだった。この意味不明な魔法に目がなかった。それで乱心した。死に追いやられた。ついにはバハマで跡形もなく消え、噂によればコミュニティ全体を道連れにしたという。野心の大きさに耐えられず沈んだわけだ。考えさせられないかね?」
スカウトはうなずいた。「あなたが過去にとらわれすぎていると考えさせられましたよ、ワッツ。現実の世界に目を向ける必要があるのではないでしょうか? そんな教訓ではなく、対処すべき現実のことを聞かせてください」
「いいだろう、現実の話もしてやろう。お前のような……傾向のある人は超常世界に近づくべきでない。お前は信用ができない、だからテストされねばならないのだ」
スカウトはあきれ顔をして、ワッツはあざけった。「何だ、私が真剣だと思っていないのか? アカどもがそういう人を脅迫すると思っていないのか? お前は──」
「無理はしないでください、レイナルド」とスカウトはさえぎって言った。「私の思っていることはあなたをはるかに超えています。思っていないことを知ればあなたは発狂するでしょう」彼は立ち上がり、スーツジャケットのボタンをかけた。「あなたの愚かしいテストは受けません。財団の誰もがそうでしょう。私たちはあなたに従いません」
「お前のような人は誰にも従わない」とワッツは口答えた。「国の人にも、同郷にも、神にもだ。お前のような人はな。つまりだ──」
「言いたいことはわかります」スカウトは努めて平静を保ち、扉を引き開けた。「あなたがそれを声に出して言うに値しない人だとわかっているほどには」
扉を閉めたとき、彼は背後に小男のビーズのような小さい目の感覚を覚えた。

1829年
10月11日
ウィーン: オーストリア
彼は再び、脳の表面に閃光が走り、脳脊髄液が燃え、頭蓋骨内面に衝撃が走るのを感じた。生きてきたこの半生、その感覚に慣れることは決してなかった。ある意味では不快ではなかった。というのも、なんだかんだ言っても人々は本を読んでいて、彼は文学の人を変える力をずっと信じていたのだった。
言葉には力がある。
しかし、彼はその力に複雑な思いを抱いていた。彼のおかげで、人間を焦げて煙る灰の山に変える文学が存在しているからだ。脳内のチリ付きは、彼が知らず知らずのうちに母語に与えたその呪い──拡散してヨーロッパの言語の半分を覆っている──が新たな犠牲者を屠るのを実に知らしめていた。ティロ・ツウィストは中世ドイツ語の子孫言語の中に文字通り存在していて、不幸な者が本の中に、プラカードの中に、黄ばんだ新聞の切り抜きの中に彼を見つけると、その者は決まって体を壊し、民間当局も科学機関も頭を悩ませる死に至るのだ。そして、それが起こるたびに、彼はその者へと体を引かれるのを感じた。ほんの少しの時間で、その人となりと住んでいる場所を──なぜそうなるか知らないが──知るのだった。直接介入するには曖昧過ぎたが、代わりに間接介入の大家になった。
彼は書き物台に目を落とし、地元の薬屋で購入した安物の骨相学マニュアルを目に入れた。最上段の引き出しに手を伸ばして1枚の白紙を取り出し、万年筆にインクを満たして筆を執った。
「フラウド博士の不一致頭蓋カタログ」この危険なゴミが与えるダメージを考え、人々の頭に開けられた穴を思い描き、身を崩して死に至る人々、その頭蓋骨の形ほどに凡百な人々のための監獄を想像しながら、彼はそうつぶやいた。「好ましくないものの同定、薄弱精神者への治療薬、有害な隣人の侮辱用」その小冊子の虚偽が明らかであればあるほど、彼の業は強力になるのだった。言葉選びにその奇妙な力を注ぎ、完全に超自然的な文法で感染させると、額の奥の泡立ちがいくらか治まるのを感じた。彼はまた──そう認識できるのは彼のみであるが──傑作を作っているのだった。秀逸な作品グッド・ワークを書き進めていた。
夜遅くまで全くのナンセンスを書き散らし、ろうそく光ではなく日の光で書くようになったころ、彼の魔法的病気の患者をハエのように引き付ける表紙に、自然発火をすぐさま抑える散文、人の頭の凸凹を測ることにためらいを持つようになる熟練した図説を持った、1冊の本が出来上がっていた。
印刷所が営業を始める前に、シュニッツェルとコーヒーを口にする時間があった。

「それで、あの帽子の望みは何だったか?」
スカウトはラックに帽子を掛け、コートを脱いだ。「私たちの森で魔法を見つけられなかったことに憤慨していて、上司がそれに注視しているものだから、代わりに私にテストを受けさせたいようです」
「ほう?」逞しい胸で髪の薄いウィン・リゼレフ博士は、2人の共有デスクの自分側の席に覆いかぶさっていた。両手に別々の色のペンを持ってグラフ用紙に殴り書きしていた。「公務員用の負荷テストか?」
スカウトは頭を振り、パートナーの向かい側に座った。「教えませんでしたっけ? あれは負荷テストではなく、無理強いの嘘ですよ。今は何をしているんですか?」
「いや、教えてくれなかったな」リゼレフは同時に2種類のデータプロットを描いていた。上下が逆でも、スカウトは化学分析であることに気づいた。リゼレフは、スカウトは当然気づくだろうと思い、質問を無視した。「今教えてくれ」
スカウトは手を組んで伸びをした。「彼らは猥褻な男性の写真を見せます。男性に猥褻な男性の写真を見せるんです。同性愛者か見分けるために」
リゼレフのペンの動きが止まった。「ありえない」
スカウトはウェストコートのボタンを外した。「ワッツは首相に同性愛が異常だと納得させています。水着の男を見せて瞳孔拡張を測る機械を作ってくれる狂人をマギルで見つけたようです」
リゼレフは頭を振り、プロットを再開した。「受けたのか?」
「いえ、きっぱりと断りました」スカウトはネクタイを緩めた。「私たちの資源がなくとも、それが無意味だとわかるほどには彼らは科学的なはずでしょう」
リゼレフはデータから目を離さないままうなずいた。「受けるべきだったな」
スカウトは反応しなかった。
「どうせ無意味だからだが」とリゼレフは顔を上げずに付け加えた。「ワッツが追いかけてくるのは嫌だろう?」
スカウトはため息をついた。「仮に彼が記憶処理される理由を自分で持ってきたとしても、それは彼自身の問題です」
リゼレフはため息をつき返した。「それは君の問題だ、ヴィヴ。僕のでもある」
スカウトは再び反応しなかった。リゼレフは唐突に両ペンを放していたずらっぽく笑みを浮かべた。「水着の男だったか? 君の瞳孔がどうなるかは知っている」
スカウトは笑みを返し損ねそうになった。「前に起きた話じゃないですか」

これはいたずらです。いたずらを受けているんでしょう。 スカウトはストッパーで開けられた扉をくぐった。 毒物学者は体育館に行きません。
彼は、手に持ったオレンジ色の液体入りコルク栓つきビーカーに目を落とし、ため息をついた。その液体で彼はゆっくりとおかしくなっていたのだった。1週間前、今こんな行動をしているとは夢にも思わなかっただろう。しかしこのビーカーの内容物のせいで3人の教授と研究パートナー2人ともに見限られてしまい、答えを求めることに躍起になってしまった。寮の共有場に助けの嘆願書を貼った。苦しい4日が経ち、シンプルな返事が付け加えられた。「ウエイトルームで会おう」
彼は体育館のレイアウトには全くなじみがなかった。率直に言えば、研究室が1つもない建物では迷子になってしまうのだ。彼はジョギングもハイキングもする人ではあったが、ウエイトリフティングもスイミングもする人ではなかった。
「──察に通報するぞ!」両開き扉の裏から、イングランド人の男性の深い声が聞こえた。スカウトはすでにウエイトルームには全く科学者がいないことがわかっていたし、好奇心がそそられた上に好奇心を大好きなペットのように甘やかしていたから、扉にすぐに向かった。
「ならばお前を国の医療制度に報告しなければならないが、残念だ、この国にはその制度が何一つない」その声はウェールズ人で、耳障りなれど自信家の、とても怒った声だった。スカウトは扉を押し開けた。「みんなの粘液と小便の中泳ぎたいなら勝手にしやがれ、だがまずは僕の話を聞け!」
大学の屋内プールを擁する巨大な空間に入ったとき、スカウトはイングランド人の男性には見向きもしなかった。その関心はウェールズ人の男性──ピッタリの縞模様の水着を着た赤髪、逞しい胸の健康体──に完全に向けられていた。その男は手をがっしりした臀部にがっしりと置き、胸を挑発的に突き出し、丸い顔を紅潮させていた。「学部長から許可はもらった」とうなった。「数か月もこれに取り組んでいるんだぞ。完璧に安全だ」
もう一方の男性が口を開き、スカウトはようやく相手──オーバーオールを着たヒゲのフェロー──に気づいた。「テメエは化学物質をプールに流すのか?!」
「僕だけじゃない!」
「どうしてこんなことが安全だと思う? 俺が安全だと思うとでも?!」
スカウトはスイマーがもっとよく見える場所を探して忍び進んだ。彼の何かに微妙に見覚えがあり、それが興味を引いた理由だと自分自身に言い聞かせた。
「それは僕が化学技術者で、それを研究したからだ。腸チフスを忘れたのか? 上水道の塩素消毒を始めなかったなら、今頃みんなが腸チフスだろう。これも同じ原理だ」
科学技術者? スカウトはいたずらであれ何であれ、目的の人物はウエイトルームでは会えないことに気づいた。このことを、怒れる逞しいスイマーを近くで見たい理由に新たに決めた。
保守員は頭を振った。「プールの塩素消毒なんて聞いたことがない。学部長を探しに行く。戻るまでにそいつは取り外せよ」保守員があまりにだしぬけに背を向けたから、スカウトは驚きに襲われた。2人は強くぶつかり、スカウトはすぐにしりもちをついた。
「すまんな」と保守員はつぶやき、扉を押し開けた。
「白痴が」とスイマーはつぶやいた。「大丈夫か?」彼は歩み寄り、手を伸ばした。その包まれたクロッチがメガネすれすれまで近寄り、スカウトの目は落ち着きを失った。
「大丈夫です」スカウトはスイマーの手を取り、引っ張られて姿勢を取り戻した。いともたやすくそう動き、一瞬自分の体重がなくなったように感じた。「あなたは化学技術者と言っていましたね?」
スイマーはうなずいた。「そうだ。僕はウィン・リゼレフ、毒物学の博士課程2年だ。君を見たことがあったか?」
スカウトはフィンガースナップした。「学部のオリエンテーションにいましたね。私は同じ課程の1年です。ヴィヴィアン・スカウトです」
「仲間の毒の使い手か!」リゼレフはクツクツ笑った。「あまり学部には行っていない。水泳をしているほうが作業がはかどる」彼がプールのほうに行くと、スカウトはプールに浮かぶ銅管でいっぱいの牛乳箱に気づいた。「かもしれない。あのバカどもに水の浄化を納得させられればな」
スカウトは片膝立ちになって装置を検めた。「塩素消毒器を自作したんですか?」
リゼレフはその隣に片膝立ちになってうなずいた。「原理はしっかりしている。何が浮いているのか知ったままそこで泳ぎたいなんて、わけがわからない」
スカウトはいまだに手に握っている小瓶を思い出した。「なら、化学物質の分解法がわかるんですね」
リゼレフは歯を見せて笑った。その歯は大量にあるようで、さらに、とてもきれいだった。「カーディフで僕より知っている人はきっといない」
スカウトはビーカーを渡した。「こういうものを見たことは?」
リゼレフは受け取った。ビーカーにはオレンジ色の混合物に浮かぶ黒い薄片が入っていた。それを揺らして回転させると、薄片は逆の方向に渦巻いた。彼の笑みが大きくなった。「これはどこで?」
「私が合成しました」今やリゼレフは目を見張り、スカウトも話し続ける間に笑みを浮かべていた。「図書館で古い錬金術の本を見つけて、その調合に科学的根拠があるのか確かめようとしたんです。これは」とビーカーを指さし、「無敗水アクア・インヴィクタという名前です。既知の化学処理法では分解することができません。真に受けてくれる人を探すために2人の友人と3人の指導教官を失いました」
「ふむ」リゼレフは立ち上がり、再びスカウトに手を差し伸べた。「1人の秀逸なパートナーは5人の悪い同僚に勝ると思う」

リゼレフはいつも微積分カルキュラスを楽しんでいた。彼はその情熱を危険物質を不活性物質に変質させること、すなわち変化に注いでいて、微積分は変化を理解可能に、予測可能に、知覚可能にするために作られた数学の分野だった。ただ、社会政治学的な意思決定カルキュラスはいつも目の敵にしていた。その用語を皮肉ではなく、正しい科学に対する侮辱だと捉えていた。
ヴィヴィアンは社会科学者だ。 彼はワッツのオフィスに入るとき、そう心の中でぼやいた。 僕はここで何をするんだ。
内部の光景は、すぐに動揺していなければ滑稽に見えた。ワッツはデスクの裏には座っておらず、デスクの裏に座っている男の裏に座っていたのだ。真っ赤な騎馬警察の制服に、大きな茶色の帽子、膝で組まれた黒いグローブの手が、彼をハロウィーンに叱られている不機嫌な子供のように見せていた。
デスク裏の男はもっとひどい様子だった。荒々しくにらむ目に、魅惑的に黒と白髪が混ざった短い縮れ毛で、バセットハウンドが誇りに思うようなあごの肉をしていた。リゼレフはそのあごの肉を見てすぐに誰かわかった。
「首相」とリゼレフ。
ジョン・ディーフェンベーカーは向かいの椅子を手振りで示した。「席をどうぞ、博士。そう長くはかからないだろう」彼は肩越しにフィンガースナップした。もう一度行うと、ワッツは不承ながら立ち上がった。
「スカウト博士は間違いなくお前にテストする装置を教えただろう」と監督長。彼はデスクの縁に座ろうとするが、ディーフェンベーカーから印象的な凝視を受けて動きを止め、代わりに気まずそうにデスクによりかかった。
「君たちが計測できないものを計測しようとしていると教えてくれた」リゼレフは心配ではなく侮辱しているように見せかけた。
「それが計測できないとは思っていない」とディーフェンベーカーは威張った。リゼレフはセントバーナードが震えて雨粒を振り落としているような気分になった。その動きは奇特で、声は深く、言葉のパターンは泣き言のようだった。「我々のデモクラシーのためには、できないはずはない」
ためには……ふん。 ディーフェンベーカーは政治家になる前は弁護士だった。
「それになんだ、これは君たちがしていることじゃないのか? 逸脱を定量化することは?」
リゼレフは指を1本──それも上げたくはなかった指を──上げた。「第一に、これは逸脱ではない。同性愛は動物界で見られているし、性的活動を繁殖のみに限定するのは最悪の部類の生物学的還元主義だ」ディーフェンベーカーは「同性愛」の語に眉をひそめ、「生物学的」と言うころには聞く気もないようだった。しかし、ワッツは急襲を待つ毒蛇のようだった。「第二に、瞳孔拡張は誘引とは何ら関係がない。君たちが持っているのは偽陽性生成器だし、そんなものは人間の頭でも十分できる」
ディーフェンベーカーは仰々しく頭を振った。彼はどんなことも仰々しかった。「マギル出身の人は機能すると言っていた。手元には彼の資格証明もある。それで、君の資格証明はなんだ?」
「カーディフ大学で毒物学のPhDを取得した」とリゼレフはこともなげに返答した。他の学術者のように、すぐに答えが用意できるのだ。
「カーディフか」とワッツ。ディーフェンベーカーの凝視をなんとか無視して、彼は片手をデスクに置いた。「ウェールズ。リゼレフ博士、ウェールズに最後に帰ってからどれぐらいかね?」
リゼレフはこの問答の行く末を嫌って、肩をすくめた。「数年だ。今はここがふるさとだ」
ワッツは頭を振った。「そうなのか? お前は市民権を得ていない。お前はカナダ連邦政府の寛大さに甘んじてここにいるのだ。理由さえあれば、いつでも国外退去はできるからな」彼は笑みを浮かべる。「理由をくれないかね、博士?」
「彼がイギリス人だとは知らなかった」とディーフェンベーカーはつぶやいた。「イギリス人だと伝えてくれなかったな」
「それで何が変わる?」ワッツは無視するように手を振りかけるが、自分が今何をしているかに気づいて、手をジャケットのポケットに突っ込んだ。「この男はセキュリティーリスクです。彼がロンドンから直接来たかは重要ではありません。微妙な立場の他の人のようにテストを受けさせるべきでしょう。私たちの人の動きを知る人に、欠点があってはなりません」
ディーフェンベーカーは困惑しているようだった。「私には彼は猥褻な人に見えないが」
「ありがとう」とリゼレフ。その心はすでに動揺していた。 2人はヴィヴに手が出せないが…… 人道的な意思決定が再び始まった。財団は望めばカナダ政府を転覆させられるが、望むことがあろうか? 監督者は活動している国との協働を推奨している。そうしたほうが簡単だし、効率的だ。リゼレフは研究者としての有用なキャリアの終末に近づいていた。もし国外退去になることで首相がより扱いやすく、ワッツの欲望が丸々満足するならば……
「フルーツマシンホモ発見器はまだ十分な準備が整っていないのだよ」とワッツ。「まだ調整が必要だ。だがお前はきっと前もって知っておきたいだろうからね! 個人的な習慣を自省するために数か月与えようではないか。荷物をまとめるためにもな」
「レイフォード」とディーフェンベーカーは警告した。
「レイナルドです」とワッツは哀れに言った。
リゼレフは独りでに席を立っていた。足は弱々しく、再び座り込みそうになった。「こんなことはしたくないだろう」彼はディーフェンベーカーを見下ろした。その細い青目には不確実さがあったが、それはパラノイアの海に失いそうになった。ここに助けはない。「歴史は偏見者に優しくはない」
ディーフェンベーカーはあざけった。「カナダに偏見はない、博士。我々は皆カナダ人だ」彼は考え込むように下唇をかんだ。「カナダ人であるべからざる人がいるだけだ」

現在2人はルームメイトになっており、借りたり買ったりした科学装置、キャンパスの図書館からくすねた論文、つまらない計算と空想的な理論で満たされたノートの無限の山で散らかった、寮の2人部屋で暮らしていた。PhDの学生はキャンパス外に住むことを期待されていたが、2人とも学部長に広範な研究室仕事をボランティアですることを約束して、部屋の割り当てを勝ち取っていたのだった。実用的価値を持つPhDの学生という考えは学部長にとって印象的で、よく取りなしてくれたらあら不思議、という具合だった。
リゼレフが毎日毎晩部屋で過ごしてスカウトのルームメイトを怒らせて、2人一緒に割り当てられるようにするのにはひと月もかからなかった。
「父は悪魔に憑かれたんじゃないかと思っている」とリゼレフはため息をついた。ベッドで背を伸ばし、ミミズが這ったような文字の図表の山を誤って蹴飛ばした。「クソ」
「悪魔に憑かれたんじゃないでしょうか」スカウトはデスクに座り、毒物学の定期刊行物のページをめくっていた。「ウェールズには悪魔がずいぶんいますよね」
「だけれどそのどれも憑くようなものではない」リゼレフは背後から完全につぶれた『フィロソフィカル・トランザクションズ』を引っ張り出し、床に放った。「父は罪悪感を抱いている。アシュリーをあの仕事に就かせたからな」
スカウトはうなずいた。「彼はどう感電したんですか?」
「暗愚なウェールズには電気がなかったという冗談は抜きで?」リゼレフはぼうぼうの赤い眉を片方上げた。「まあ、アシュリーは衣類工場で働いている。もう言っていたか? そのオーナーが省力のための新たな機械を試験していた」彼は顔をしかめた。「それで同じ分の従業員に賃金を払う必要がなくなった」
「技術万歳」とスカウトは喝采のふりをした。
「万歳」とリゼレフは同意した。「アシュリーは不幸な運転者だった。上司は接地の概念を理解していなかったんだろう。ともあれ今は知っているようだが」
「なんてことを」スカウトはその事実をしばらく曖昧にした。「お兄さんの怪我はどれほどひどかったんですか?」
「とても。手足の痙攣に、一部記憶喪失。他の人は大概ぶよぶよな肉体のほうに気を取られて、電気が主導権を握っているのだということを忘れた」
「あなたは違ったと?」スカウトはジャーナルを閉じた。「あなたはぶよぶよな肉に気を取られないですよね」
「そうではないと思いたい」リゼレフは寝返りを打って彼を見た。「僕はスイマーの体型だ。ぶよぶよではない」
スカウトは移動してベッド脇の床に座った。リゼレフの腹を小突いた。「3年前のあの日は間違いなくそうでしたね」
「おいおい」リゼレフは笑顔になった。「ともかく、父は最近アッシュがアッシュらしくないと言っている。スウォンジーを飛び出して世界を見たいらしい。大学に行くのかもしれない」
「その考えは止めましょう」スカウトはベッドフレームに寄り、リゼレフを背にした。「ただ、恐ろしいですね」
「何がだ?」リゼレフの声色は奇妙だった。
「電気です。今でも、電気についてわからないことはあります。私たち自身のことも」彼は首をこすった。
「僕たちのことか」リゼレフはスカウトの手をあしらい、彼の肩をもみ始めた。「僕たちは電気だからな」
スカウトは笑い、メガネを外した。メガネをベッド脇のテーブルに置いて、目を閉じた。「言い過ぎではないですか?」
「いいや」リゼレフはバカ真面目に言った。「化学と電気だ、ヴィヴィアン。僕たちに関する全ては、僕たちの全ては大量の化学物質か電気の閃光で表される。精神はこの惑星で最も複雑な科学装置で、その一つ一つが固有だ」
スカウトはマットレスに頭をもたげた。「素晴らしくも恐ろしい話ですね。ありがとう」
「僕には安心する話だと感じる」リゼレフはスカウトの肩から手を放し、少しためらってからスカウトの髪束で自分の額をこすった。
スカウトは努めて表情を平静に保った。「どうして安心するのですか?」
リゼレフは彼の額を2度優しく叩いた。「自分の化学と電気で何をするかで、人となりが決まる」とささやいた。「他人からどう見られるかが決まる。だけれど科学的に定められた制限がある。不可能なものになるのは不可能だ。僕たちは自分では決められない範囲の中で活動するわけだ」
「ああ」スカウトは目を開いた。「それなら安心できますね」
「どうして賛成したんだ?」リゼレフは今やとても穏やかに話しており、スカウトは言葉を聞くというよりも感じていた。
彼は深呼吸した。「私たちの望みと欲求は己の過ちではないと言っているからです」
彼は穏やかなシューという音に続いて芯が閉められる音を聞いて、部屋は真っ暗闇になった。リゼレフが灯油ランプを消したのだった。
「それは、過ちでは決してない」とリゼレフはささやいた。彼がスカウトを引っ張り上げようと手を伸ばしたとき、スカウトはすでにベッドに登っていた。

管理官複合施設の扉が叩き開けられ、スカウトは驚きの中顔を上げた。リゼレフは顔を赤くしていた。口を音もなく動かしていた。明らかに泣いた跡があった。取りつかれたような目でスカウトをしばし見つめ、扉をさらに強く叩き閉めた。口を激しく働かせ、顔は一瞬原形をとどめないほどゆがめられた。
スカウトはデスクから立ち上がった。「何が起きたのですか?」
リゼレフは拳を握って立ちすくみ、ひどく震えていた。歯を食いしばっていた。首の静脈が浮き上がっていた。顔が青ざめていた。
「もしもし」スカウトは慎重に近づいた。「もしもし。何が起きたのですか? 何と言われたのですか?」
リゼレフは泣き始め、スカウトは彼の背後に回った。「大丈夫です。大丈夫ですよ」彼は体格のいい男を、腹に手を回して強く抱きしめた。「好きなだけこうしてください」
それで私が計画する時間ができますから。

「ちょっとした卒業祝いだ。君がカナダの地階アーカイブで命を費やしているときの僕の思い出になってくれれば」
スカウトはラベルのない瓶をいぶかしげに眺めた。同居アパートのキッチンの暖色光で瓶は光っていた。「ですが、これは一体?」
リゼレフはコルクにペンナイフを突き立て、スポンと心地いい音を立てて抜いた。「君の無敗水を打ち負かした。熟成させていたんだ」
スカウトが食器棚からメガネを探す間、リゼレフは目を合わせようとしなかった。スカウトはせき払いした。「いくつか質問があります」
「当然だな」
「まず、これを除却する方法はいつ発見したのですか?」
「昨年の1月に」リゼレフは1対の陶器のマグを出した。水晶製品は新たな焼却炉を買うために質に入れたことは覚えているようだった。「本物のヴィンテージになるまでは飲む価値がないからな」
スカウトは両肘をキッチン台に置き、両手で四角いあごを支えた。「次に、どうやって除却したのですか?」
リゼレフは2つのマグを満たすまで瓶から液体を注いだ。「ふむ、僕がどれほど天才か知っているよな?」
「聞いたことはありますね」
「それは事実だ。だから、君の使った儀式を検査して、原文のラテン語テクストを追って、最高の翻訳者をして錬金術法の正確な意味論的反転を解明させた」瓶には2つのマグをなみなみと満たすのに十分なワイン──それがワインであったのなら──が入っていた。あのビーカーにはそれほどの液体は入っていなかった。
「ならば、あなたは秀逸な翻訳者を知っているから天才なのですか?」
「科学は共同事業だからな」リゼレフは向かい側に座った。
「うーん。3つ目に……」
「どうして僕たちがこれを飲んでいるか?」リゼレフは笑顔になった。「それは君がグリンドゥールの白ワインを使っていて、無駄にするにはもったいないからだ」
スカウトは座りなおして、リゼレフから出されたマグを受け取った。「あれをワインに戻すことができたのですか? 完全無欠にワインに?」
「もちろん」リゼレフの深茶色の目はスカウトの深灰色の目を貫いた。「僕を信じてくれないのか?」
スカウトは頭をやや傾けて、マグを呷って一息で中身を飲み干した。リゼレフは大笑いしてそれに続いた。「葡萄酒愛好家クラブイーノフィリック・クラブならクラクラするだろうな」
スカウトはハンカチで口を拭き、ほほ笑んだ。「実際には、何に変化したのですか?」
「塩素だ。それは体育館のプールに注いだ。僕はいつも最後には欲しいものを手に入れられる」リゼレフは瓶を取り、愛おしそうに眺めた。「アシュリーが僕の誕生日に贈ってくれたものだ。今彼はグリンドゥールで働いていることは教えなかったか?」
スカウトはほほ笑みながら頭を振った。「いえ、教えられていませんね」
「すっかり頭から抜けていた。それで、これがあの悪しきビーカーではないことにどう気づいた?」
いくつかの答えが頭を巡ったが、彼はそれを無視した。代わりに身を乗り出してパートナーの眼前でささやいた。「あなたの言った通りです。あなたを信じています」
リゼレフも身を乗り出し、2人は唇に残るワインの味を共有した。

1963年
12月5日
サイト-01: アメリカ合衆国 非公表地点
O5は普段、それぞれのデスクの手前にブラッシュド加工のプラスチック製スクリーンを立て、闇の中人相を隠して冷たい逆光効果を作り出していた。スカウトはそれを20年前に見たきりであった。今日はスクリーンは会議室の隅に積まれ、照明がついていた。スカウトが顔の知っている3人の男が、目の前の心地よい椅子に座っており、彼自身も心地よい椅子──サーティーン用のものだとシックスから有益にも教えられていた──に座っていた。その椅子は他のと比べてはるかに新品だった。
「人狼ウェアウルフか」とシックスはため息をついた。「なら、夜間外出禁止令は必須だろう。今度は捕獲を試みるんだろうな?」
スカウトはメモを取りながらうなずいた。「もちろんです」
「君の特別ゲストからの面倒事は?」
スカウトは顔をしかめるも、頭を振った。「1960年以来ありません。彼はだんだん気難しくなっています」
「いいね」
「それで」とエイト。「この作戦報告書についてだ」彼は膝に置いた整頓された書類の束を軽く叩いた。「ヴィヴィアン、これは現時点ではとても信じがたい」
スカウトは肩をすくめた。「状況は変わりません。私たちは毎回ツウィストのミームに引っかかっています。決して捕獲できない可能性すら十分にあります。近づいた人を皆無力化ニュートラライズしてしまうのですから。」
「無力化という言葉選びは間違いだ」シックスは前かがみになった。「その言葉を我々がどう使うかは知っているだろう。やつは人を打ちのめすか、使いに送るか、実力行使せずに鎮圧する。人体を発火させる病を英語に感染させたミーム学者が、君のエージェントたちとソフトボールしているわけだ。こんなことがあっていいのか?」
「その病は事故でした。彼は命を奪うのではなく救おうとしています」スカウトは、英語はSCP-5382の範囲の一部に過ぎないことを加えそうになったが、そのままでいいかと考えた。
「あなたは彼をとても気に入っているように聞こえますが」とナイン。
「私が彼を意図的に野放しにしていると言いたいわけではないですよね」とスカウトはいら立った。この特別ないら立ちはずいぶん前から経験していたのだった。
「ヴィヴィアン、君が忠実であることは知っている」とエイトはため息をついた。「わからないのは、どうして君はツウィストを捕獲するために下された鉄槌を送るよう要求しないかだ」
スカウトは自分が大笑いしそうになる姿を見せつけた。彼は望めばとても分かりやすい顔になれたのだった。「ツウィストは危険ではありません。しかし下された鉄槌の派遣は確実に危険です。彼は自分で生み出した問題を正そうとして、明らかなよい行いをしています。人目を惹く取り押さえは最大の利益にはならないでしょう。彼の活動の副影響は、実のところさらによいものです。彼の治療が隠しこまれた三文作品は、どれも世界をより騙されにくい世界にしています。私たちの仕事を容易にしているのです」
シックスはスカウトの報告書に目を落とし、うなずいた。「ここには、スターリンが文字通り赤子を食べる方法を書いた大量のポスターをやつが出版してから、新聞中の反共プロパガンダが3パーセント減少したと書かれている。ミーム学は複雑怪奇だな」彼は再び顔を上げた。「だが、3パーセントだ。統計学的に有意なのか?」
スカウトはほほ笑んだ。「お言葉ですが、サー、統計学は私にお任せください」
「確かにな」シックスは報告書を床に放った。他の人なら、会議に来る前の場所に戻るとき、それを拾ったことだろう。「なら、君はやつを控えめに追跡しつつ自由にさせたほうが、確実な捕獲に資源を浪費するよりいいと考えるのか?」
「間違いなく。さらに、訓練用の価値は計り知れません」スカウトは笑顔をやや大きくした。「エージェントは、ティロ・ツウィストの特別授業を修めない限り一人前ではないと思っています。そうしたエージェントはその後の人生その頭痛を忘れないでしょうし、この主張を支持する統計は微塵もありませんが、そちらの人のほうがより長く生きられると信じています」
「よろしい」ナインは肩をすくめた。「報告ありがとうございます、ヴィヴィアン。他に何かありますか? なければ、来月再招集があります」
スカウトは椅子の脇に手を伸ばし、旅行鞄からフォルダーを取り出した。「私には常に他に何かあることは、ご存じでしょう、サー」

カーディフのころの彼の最初の博士論文審査会のほうが、はるかに出席者が多かった。ウェールズはどう頑張っても世界の中心ではなかったが、スカウトの誕生地のほうが、国際的な学界においてとてつもなく周縁だったのだ。それでも、彼は自分の研究──今手にしている重い冊子──に誇りを持っていた。
言葉には力がある
──プロパガンダ、毒、ギフトシュライバー(1219-1642)──
V・L・スカウト 著
博士号取得要件に従い提出された論文
大学院歴史学研究科
ニューブランズウィック大学
1915年
初めてスカウトが2つ目の博士を取ろうとしていることを伝えたとき、リゼレフは笑っていた。初めてそれを信じたとき、リゼレフは泣いた。ウィンは、危険物質の分解に関する急進的な理論を試験するための小さな研究室を開設してくれるオーストリアの化学会社と契約していて、スカウトを──いろんな意味で──パートナーとして迎えようとしていたのだった。だが、スカウトは自分が見つけたあの小さな調合本と、その超自然的錬金術の確かな証拠を忘れることができなかった。さらに知りたい、さらに学びたいという欲求に飲み込まれたのだ。ニューブランズウィック大学は奨学金を提供し、スカウトはカナダに舞い戻って歴史に没頭した。
そして彼の発見した歴史の何と奇妙なことか。過ぐる5年で彼はとある古いオーストリアの団体──プロパガンダの技術を極めることに尽くし、大戦前夜に残虐に鎮圧されて終焉した──に関して400ページも書き上げた。このモノグラフは指導教官が知りえた範囲を超えて注意深く資料を集めていた。その研究で発見された事実は、仮に出版されれば教官の学術的な大志をすぐに粉々にできるものだった。
そのような事実の一部は、現在彼の書き物台に乗せられた1個の物体にあった。それは、プロイセン文化財団枢密文書館ゲハイメス・シュターツアーヒーフ・プロイシシャー・クルトゥアベジツの忘れられた片隅に潜んでいた、朽ちて黄ばんだ文書を、タイプライターで翻訳したものだった。
我が師は人の心を動かすその記号と意味の結婚を《仕事》と呼んだが、その用語は適切だと知った。《仕事》は本来正しくも誤ってもいない。《作家》は人の心を撓めて望む効果を得るが、《毒の作家》は人の心を半分に折ってその一部か全部を破壊し、打ち砕くなり完全に解体するなりする。
我が師は亡くなり、《作家》らは亡くなり、《毒の作家》らも、激しく望んだことであるが、死んだ。己のみが残ったが、《仕事》を受け継ぐつもりはない。金も名声も望まない。愛する全てが炎の中に滅びるのを見て、たった一つの圧倒的な望みだけが残された。為した過ちを正し、今なお続く我が存在を正当化しうるやり方で、この恐るべき贈り物を使うことだ。言葉には力がある。我が言葉は、他の言葉の多くより、力があるだろう。
この贖罪のため、我が身に課した言葉がある。ありえないことだが、仮に己が師となることがあれば、弟子にはその言葉を伝えよう。
《秀逸な仕事》を、と。
この言葉は2年以上、彼に付きまとっていた。 秀逸な仕事グッド・ワーク。 ウィンはすでにしていることだった。スカウトも何としてもしたいことだった。単に、どうすればできるかわからなかったのだった。この不思議な紙切れの著者に尋ねられればと願っていた。本当に恐ろしかったのは、十分頑張ればそれができるかもしれないという、ゆるぎない信念だった。
ギフトシュライバー、毒の作家は、250年ほど前に破滅していた。このメモを書いた人物は、その団体を個人的に知っていた。
このメモを書いた人物は、このメモを過去50年以内に書いていた。
ありえない話だった。無茶苦茶だった。だが、彼は無敗水を覚えていたし、ウィンの故郷アヴレンディドでの超自然的出来事の物語を覚えていたし、1910年以来読んでいた、輪郭を垣間見ることさえできない奇妙で巨大なパズルの奇妙なピースのように感じられた、あらゆる文書を覚えていた。そして不思議に思う。やはりこれはありえるのだろうか?
彼は不確実に感じたときにいつもしていたことをした。タイプライターに紙を1枚入れ、海の向こうで暮らしているある男に質問を投げかけたのだった。
その手紙は1週間後にウィン・リゼレフのもとに届き、いくらか熟慮してからリゼレフは上司に手紙を手渡すはずだった。翌日、私服を着た2人の男性がもうすぐPhDを取得するヴィヴィアン・レスリー・スカウトに近づき、仕事を申し出た。

1964年
1月24日
エドモントン: カナダ アルバータ州 ストラスコーナ郡
新聞漫画家の、よく顔を忘れられる恰幅のいいヒゲの老人ウィル・ディーバーは、最新の漫画の最終仕上げを行って乾くのを待っていた。 くだらない。 彼は喜んで考えた。 完全無欠にくだらない。 それは命を救うくだらないものだった。世界中のコミック・ストリップ読者の規範を高めるくだらないものだった。毎日数秒で作るものにしては悪くはなかった。
過去400刊で「描いた」ように、それはネコ(漫画は全てモノクロだったが、彼はオレンジ色だと想像していた)を主演にして、ネコが話の途中からイン・メディアス・レス会話を続ける実体のない声をあちこちに見るものだった。ときに会話は意味を成した。ときに──今回の作品のように──会話は狂気の縁ぎりぎりをさまよった。

ダーリン、それいつ終わるの?
何がいつ終わるんだ?
うん。
うん。
成し遂げた気持ちはほんの束の間でなくなり、不快感が戻ってきた。「ええ」ツウィストは忌むべき作品に向けて言った。「本当にいつ終わるのでしょうか」

スカウトは彼女が泣くまいとしているのを感じ、バッグに手を伸ばして1通の封筒を取り出した。「今日、イルゼから届きました」彼は消印を見ながら待ち、彼女が再び落ち着いたことを示す小さなせきと鼻のすする音が聞こえると、顔を上げた。
「あの子は何て?」その声はかすれていた。リズ・レインデルス博士は彼が会った中で最も強い一人だったが、彼女に起こらんとしていることを知ればどのO5も打ちひしがれてしまうだろう。
スカウトは収容セル壁のスロットを開け、中に封筒を置いた。レインデルスは反対側から封筒を取り、しばしそれを見つめた。「今一番したくなかったことなのに……」彼女は唾を飲み込んだ。「ものを読もうとするなんて」白衣の袖で目を拭いた。「面白いわよね?」
スカウトは彼女の言わんとする意味を理解したが、面白くはなかった。彼女は読んだもののせいでこの災難に見舞われているが、それが何かはいまだに判明していなかった。彼女はアーカイブ研究チームの中でその苦難を引き起こす増殖性語句を見つけてしまった唯一のメンバーだったのだ。彼はそのことに感謝すべきことはわかっていたが、どうすればいいかさっぱりわからなかった。2人の頭上では新年会が催されていた。彼女はそれに水を差さないようお願いしていた。
彼女は封筒を開けて手紙をさっと眺め、滂沱の涙があふれた。彼は仕切りに留められた病状報告書を、あたかも彼女の本当の体調が体全身からはわからないかのように眺めているふりをした。
彼女の肌は橙色だった。彼は暖色の電灯の下では重い日焼けだと装うことができた──肌が燃えているようなものだと知っていることを除けば。 もうそろそろ最──いや。いけません。
彼はその考えを頭から押しやり、希望のほほ笑みであってほしい顔を見せた。彼女は彼にほほ笑み返したが、唇は黄疸の範疇をはるかに超えた鈍黄色で、涙に満ちた目は不自然な赤で縁取られていた。彼女は仕切りに片手を当てた。彼からは見えなかったが、爪のチアノーゼのような不気味な青色を知っていた。彼女は理不尽で不格好な死を迎えつつあり、彼は仕切りを越えて手を重ねて、それが何かを意味することを願う他なかった。2人は透明な素材で仕切られていて、素材はその力に耐えられ──
そんなことをしないで。 彼は深呼吸した。 あなたのことではありません。
彼女は彼の肩越しに壁掛け時計を一瞥した。彼は見ずとも0時ごろだと知っていた。
「新年のキスはできないわね」と彼女はささやいた。
彼は返事ができる自信がなかった。
「あなたならこの原因を突き止められるわ」彼女の声は先ほどより力強かった。「そしてそれに何かをする」
「もちろんです」彼は仕切りを越えてもその温かさを感じられた。「もちろんです。何が原因だとしても、誰が元凶だとしても……」
彼女は頭を振った。「復讐のためじゃないわ、ヴィヴィアン」彼女は最大限ほほ笑もうとするが、わずかにできなかった。そして彼にとって、彼とともに働く皆にとって一番魔法の言葉を放った。「善行のためによ」
それが起きたのは0時を過ぎて間もなくのことだった。

スカウトはヒューロン湖上にうねる小さな白波に風が叩きつけられるのを眺め、マツの木が鳴るのを聞き、そのように思いに耽ったことで惨死しかけたときのことを思い出していた。この場所の精霊たちは、彼自身とその理解に対して──レイナルド・ワッツが決して理解せず、しようともしなかったがために──不安げな理解に至ったのだった。
「では、彼は来ると?」ケトルポイントの長老で、スカウトにとって居留地──今はネクサス-94となっている──との最初の接点であるキシュケデーは、湖を見る彼を見守っていた。はるかに年上の老女は常に見るべき方向を知っていて、それは常に必要に駆られているものだった。
「そう思います」スカウトはメガネにかかるまで帽子を下げてまばゆい光を隠した。キシュケデーに対し考えを隠す理由はなかった。「彼は徐々にやけになっています。OSATは湖を洗って異常を探していますが、湖は彼を排斥しました。彼は戦利品を欲していて、あの機械で得られると思っているようです」
キシュケデーは肩をすくめた。「彼は居留地を避けている。あなたの神経に障るべきでないことは知っているのだろう。もちろん、数週間も森をさまよって私たちの奇跡を探しているが、決して見出すことはない。癇癪を起して帰るだろうが、また帰ってきてもやはり無能のままだろう」
スカウトは顔をしかめた。「人間だれしも我慢の限界はありますが、ワッツは強くありません。きっともうすぐでしょう。この地表に彼が利用できる超自然がなかった場合、森林全体を根こそぎにしないか恐れています」
キシュケデーは笑った。「あなたならそれを止めるだろうに」
「あなたもでしょう」
「ええ、もちろん」キシュケデーは考えた。「もし、実際に何かを見つけたなら、彼は何をするだろうか?」
スカウトは彼女を一瞥し、荒れ狂う湖を一瞬忘れた。「何ですって?」

スカウトはメガネを外して鼻梁を抑え、ため息をついた。タイプライターから紙を取り出し、今まで努力してきたものを眺めた。
要注意人物分類: Pending
対象の名称: ティロ・ツウィスト(推定)
対象の別名: アイラ・ブラウン博士、タデウス・ブロマイド博士、ジェランド・フラウド博士
説明: ティロ・ツウィストは、疑わしい物質有効性の薬剤の提供者であり、その主要な異常性質は極端な長寿命と思われる。彼は少なくとも1800年代初頭から北米で万能薬の広告、販売を行っているが、証拠からはそれより数十年前から中欧で活動していたことが示唆されている。ツウィストによる化合物の化学的分析から発見されたのは
「発見されたのは何です」彼はつぶやいた。その化学的分析を完遂できると信用しているのは一人しかおらず、その人は3000マイルも離れていた。
オフィスの扉からノックが聞こえ、彼は紙をタイプライターに戻した。「どうぞ」
扉が開き、イルゼ・レインデルス博士が入ってきた。彼女は着ている白衣のしわを伸ばしている最中だった。シンプソン政策センターは医師を雇用していることで知られていたが、女性が医者のような恰好で建物に入ると、財団のフロント企業が余計な注目を浴びることになってしまうのだった。主要な大都市に店を構えるための対価だった。プロジェクト・CLIOは歴史的アノマリーを同定するために民間アーカイブや民間研究員にアクセスする必要があり、彼は秀逸な歴史家のように文書の在処へ出向いていたのだった。
レインデルスは1通の封筒を持ってきた。「AAGから。リゼレフ博士の分析よ」ウィン・リゼレフは1914年に財団に加入した直後、ウィーンにて玄妙除却グループAAGを設立していた。彼が人類に仇なす不可思議なゴミを分解するという夢を追う一方、スカウトはカナダで新たなゴミをかき集めていた。
スカウトがタイプライターを脇に追いやると、彼女はデスクに封筒を置いた。封筒にはとても簡単に「ヴィヴィアン」と宛名が書かれていた。財団には独自の配達者がいるが、その2人の博士の文通は配達者の中ですでによく知られていたのだった。
よく知られ過ぎていたのかもしれない。
レインデルスが下の道を眺めに窓のほうに行く間に、スカウトは封筒を破り開けた。彼はこのプロジェクトでは物事を比較的カジュアルにしていた。経験上、学術者は軍隊の規律よりも大学の雰囲気のほうがはるかに反応がいいのだ。
リゼレフのメモはいつも通り短く、核心を突いていた。
ヴィヴ、
君の送った「アスクレピオスのアルコール」の瓶を検査した。ラベルによればサマリウム、アンチモン、ラドン、「ウォルフラム」(タングステンのことだ)が入っているようだが、ならば「スクラムポックス」(格闘技ヘルペス)を治療するのではなく、それぞれ、がん、呼吸器疾患、がん、がんを引き起こすはずだ。
幸運なことに、実際にはスコッチウィスキー、ブラウンシュガー、シナモン、粉末茶葉が入っていた。こやつの企みは何だ?
君の別の難問に関してだが、カーディフの学部のクラブでした僕たちの会話を思い出してほしい。ためになるだろう。
— ウィン
「役に立ったかしら?」レインデルスは尋ねた。彼女はこのプロジェクトでたやすくスカウトの親友となっていた。彼は1917年に姉が死去したことを慰めるために出向き、代わりに彼女を雇用することになったのだった。レインデルスは彼の弔問を受け入れたがり、姉の不可思議な仕事を見たがっていた。リゼレフには金魚を別の金魚に置き換えたと咎められた。その非難は、彼にその後数か月両者に対する罪悪感を抱かせた。
彼はメモを差し出し、彼女は受け取った。「うーん。本物の薬は無意味だってこと? 不死身の人ならもっといいぼろ儲けの方法を考えられるとあなたは思ってるわね」
「あなたならそう思うでしょう」スカウトは椅子に座りなおし、ウィンとカーディフの学部のクラブでしていたことを思い出した。それはためになったが、厳密に科学的な意味でというわけではなかった。
「学部のクラブの話って何かしら?」レインデルスは尋ねた。
スカウトはそれを振り払った。「どん詰まりです。何か尋ねると決まって、彼は何年も前にすでに答えを出していると考えます。彼の賢さは思い出の中で過去遡及的に強まっているのです」
彼女はそれに大きな笑顔で返し、彼は明らかな嘘を機嫌よく受け入れられたことに気づいて、再びちょっとした罪悪感を覚えた。イルゼ・レインデルスは、大衆小説を埋められるほど十分ロマンチックなほのめかしを何年もの間スカウトに対して送っていて、彼とリゼレフのうわさを無視したがっていた。彼が返事しそこなったことには決して気づいていないだろう。彼は、この問題が急速に悪化しないよう先んじて行動を起こすだろうと、彼女に期待されていたのだった。
「私には何かないかしら、ヴィヴィアン?」彼女は理由があるかのように言った。
「いえ。ありがとうございます、イルゼ。日課のブリーフィングで会いましょう」
彼女は失望を隠すべくまた温かい笑顔を投げかけた。「いつも通りね」そして彼女は去り、扉が閉じられた。
彼は未完成の要注意人物プロファイルを眺めた。当然完成させることもできたが、追加を残す情報は単なる情報に過ぎなかったため、再び紙を取り出して新たな白紙をタイプライターに入れた。
ウィン、
素早い分析ありがとうございます。この名医はやはり私たちの1歩先にいますね。学部のクラブでの会話を検討しましたが、'09年の学部長の夏の別荘で学んだことを踏まえて、あなたが再検討するのがいいでしょう。

スカウトは、あたかも自分のオフィスから──サイトで最も機密性の高いオフィスだが──音が漏れて背信のために罪を被ってしまいそうなように、耳にレシーバーを当てた。「あなたの声をこれほどはっきり、扉越しでなく聞くのは奇妙な気分です」
「音質はさほど改善されていないようでございますがね」とツウィスト。
「ええ、通信はかなりスクランブル処理されているようです」
「さもありなんでしょう」
奇妙な状況だった。何十年も絶えず文通をしてきたというのに、相手の声の証拠に直面すると、妙に言葉が出てこないのだ。
「それで、どういう風の吹き回しでしょうか?」スカウトは自分こそ、このときがここ数年で一番心変わりしたことに気づいていた。「追跡にうんざりしたわけではないですね?」
「むろんです」ツウィストはうんざりしているようには全く聞こえなかったが、疲れているようだった。「しかし……長く起きていると突然周りで起きていることがどうでもよくなる気分はご存じでしょうか?」
「ええ。この仕事はたまに妙な時間まで起きていないといけないときがあります」
ツウィストは鼻を鳴らした。「想像はできましょう。ただ、あなたがこの気分を感じることがないことを願いますが……それもすさまじい話でございますな。最善を尽くして伝えたく存じますが、寝る時刻をだいぶ過ぎた後にあらゆる色がまとわりつく感覚を理解していただきたいのです。定命のものにも似た感覚はありますが、我が一番の敵には感じてほしくはないものでございます」彼は、スカウトがその言葉の真意を取れていないのを好機に、付け加えた。「あるいは一番の友にも」
スカウトは独りでにうなずいた。「長生きし過ぎたと感じているようですね」
「ええ、おそらく。わかりませんが。常日頃感じているわけではございませんが……ヴィヴィアン、380年も回転木馬に乗っていると、ときおり降りたくなるものなのです。休憩することも自分で許せましょうが、それは決してなしえないと知っているからなのです」
「なしえますよ」スカウトには心臓の音が聞こえ、それはツウィストの声より大きいくらいだった。「私たちに助けを求められます」
ツウィストは笑った。スカウトはそのような笑い声を、1人のエージェントが死んだ後の兵舎で、戦いに敗れた後のバーで、聞いたことがあった。「それがいかになるかはご存じでしょう。あなたのアクロニムの命令です。あなたは長い間私を閉じ込め、私は多くの患者を失いました。その上で、財団に私の仕事を託すのは──」
「秀逸な仕事グッド・ワークです」とスカウトは割り込んだ。
「ええ、秀逸な仕事です。あなたは私に技術の教えを乞うでしょうし、私は断るでしょう。あなたは私に力を貸してほしいと言うでしょうし、断るでしょう。あなたは、私に長年続けてきたパブリックアートをさせるのではなく、世界で一度に一人の哀れな命が燃えるようにするでしょう。当然ながら、ここでの「あなた」は組織のあなたでございます」
「当然」スカウトは椅子に座りなおして考えた。「ですが、あなたに新たな活力を得させることはできるかもしれません」
通信の向こう側から息をのむ音が聞こえた。「何をお考えでしょうか?」
「私はカナダで最も空想的な物語を経験していると自認しています」とスカウト。「立派なあなたを除いて。取り引きするのはどうでしょう?」

スカウトはその手紙を再び最初から最後まで読んだ。時間ならあった。というのも、普通なら偽装のアイデンティティーを保つためもうすぐファルコナー大学で講義をする必要があったのだが、生徒らには戦没者記念日リメンブランス・デーの休講を与えて、課題に費やすのではなく暴力を思料せよと伝えていたのだった。心の中の科学者は、この発見が目新しいものでなくなったら自分の反応が変わるかどうか調べたがっていた。すでに、比較を完了するためにそれをリゼレフに送って、彼がどう思うか見るのを計画していた。
スカウト博士、
ある者が賢しいと思うとき、その者はかつて愚かだったことを知らねばなりません。私たちは、己の最悪から最も熱心に学ぶがゆえに、過ちを集めたものが最善となるのです。
私は多くの過ちを犯してきましたが、その中で最大はこれです。若く理想主義に心を燃やし、望めば世界を激しくゆがめられたとき、ある者に虐げられて泣き叫びました。母語の文法の隙間に煮えたぎる己を注ぎ込み、私の怒りはいまだそこにこだましています。あなたが私を追う間、私は己の物語残渣を追い、過去の愚行の痕跡を取り除こうとあがいています。
あなたはこの病を追っていますが、私の目からは個人的な熱情で追っているようです。私があなたから誰かを奪ってしまうことは心が痛みます。文通を提案していただいて、その見込みは面白いですが、私の失敗を警告せずには、その気前のいい提案を誠心誠意受け入れることができません。
私の過去について謝罪します。今日でも私は
敬具、
ティロ
リズ・レインデルスの燃え盛る終焉は、スカウトの心の目から決して離れなかった。財団はツウィストが「進行性過剰催胆薬発作」と呼ぶ病の患者を何十人も確保、隔離したが、その誰もが同じ厄介な末路をたどった。スカウトが敬服するようになった男の手は血にまみれていたが、彼は改善しようとし、その事実がスカウトを改善させていた。
スカウトはこれをさらに熟考することに決めた。リゼレフへの依頼をどう書くか考えた。道徳的な選択肢を比較し、その問題を一晩置くことに決めた。
数分後、彼はタイプライターを取り出して、ティロ・ツウィストへの文通を書き始めた。遠方の友人がかつて愚かだったことは忘れないが、賢しくないふりをすることもできなかった。

1964年
3月9日
ケトルポイント居留地: カナダ自治領 オンタリオ州 ラムトン郡
「それは暴言だ」とキシュケデー。
「なんでもいい」とワッツは言い返した。「私の話はわかっているんだろう。そいつらを全員見て、テストに掛けたい」
2人はキシュケデーの家の、鮮赤の屋根が居留地のランドマークとなっている玄関ポーチで立っていた。鮮赤の制服を着た男たちは、彼女の隣人を捜査する計画を練るために来ていた。彼らは後悔することになりそうだ。
「私をテストするなら」とキシュケデー。「私があなたをテストし返す」
ワッツはグローブをはめた両手を腰に置いて胸を張った。それは弱いクマが自分を大きく見せかけているようだった。「残りがどこで見つかるか教えてくれたまえ。そうすれば話は簡単だ」その言葉は彼女にとってとても馴染み深かった。OSATは長い間扉を叩きには来ていなかったが、騎馬警察全体は居留地では見慣れた存在になっていたのだ。ただ、彼らが普段ここに来るのは子供を連れ去って外部の学校(子供が結核で死ぬ場所)か外部の家(子供が親を忘れるよう教育される場所)に引き込むためだった。今日は大人のために来ていたが、彼女にとっては──ワッツにとってどのインディアンも同じなように──同じことだった。
キシュケデーは頭を振った。「帰れ、二度と戻って来るな。ミシペシュを忘れるな」
ワッツは笑った。「そんなネコを問題にしたことはないし、我々は湖から遠く離れている。そこはケトルポイントでも開かれた場所だ。その怪物が隠れる場所などない。さあ、どこで他のベル──」
「イクウェカーゾ」とキシュケデー。「女性であることを選んだ男性のことだ」
「ああ」とワッツ。「そのことを言っているのではない。だが私の聞いたことが事実であるなら、お前たちはこの界隈の有力者だ。お前たちは儀式を知っている。知識を持っている。精霊の居場所を示せるだろう」
「私たちは皆儀式を知り、知識を持っている。それが人間の道理だろう。あなたは家に帰り己の精神と話すべきだ」
ワッツは肩越しに親指を立て、隣に2名の騎馬警察が配置されている幌車を指した。「あの中にお前がいかなる男か、あるいは女か、測る機械がある。開発に数年かかったものだが、とても効果的だ。お前の友の正体を教えてくれないのなら、見つけるまでケトルポイントの皆にテストをするまでだ」
キシュケデーは肩をすくめた。「ならばそうすればどうだ」
ワッツが肩越しにフィンガースナップすると、騎馬警察2名はキシュケデーの脇に立った。「苦しい事態にしたのはお前のアイデアであることを忘れ──」ワッツが最後の単語を言い終える直前、2人の男はキシュケデーの前腕を掴んで玄関ポーチから引っ張った。
キシュケデーの隣人はのちに、晴天の霹靂を聞いたと報告するだろう。ワッツはかつて砂利道で飛ばしていたときにトラックのタイヤをパンクさせたことがあったが、そのような音が彼の頭の中で響いた。バシンという強烈な音の力で木々はなぎ倒され、ワッツは膝をついて耳を覆い叫んだ。キシュケデーを掴んでいた2名の騎馬警察は石畳に顔を打ち、出血した。別の2人は激しい突風の衝撃で投げ飛ばされ、突風はトラックを完全に倒して中の装置をつぶした。キシュケデーだけが立っていた。彼女は見上げ、嵐の空のように広く暗い翼を広げた1体の巨鳥が雲へと帰っていくのを見た。ワッツは大きな轟音の残響が耳に響いてうめいた。キシュケデーは彼をよぎって家に入り、ヒューロン湖供給・管理・精製所に電話を掛けた。彼らなら喜んで、この来客にオタワへ帰るよう急かすだろう。

「なんとまあ深い」
スカウトはリゼレフの肩を叩き、穴の脇を横滑りした。その土ぼこりは、リゼレフが後ろで横滑りしてできた土ぼこりに合流し、2人はしばしせき込んでから足元が岩棚であることに気づいた。
2人は大きな採石場──いつか機械、人々、壁、床、天井、大量の裏込め土で満たされるであろう広大な掘削穴──の縁にいた。
「彼らはどこまで下るんだ?」リゼレフは尋ねた。
「およそ60フィートほど」
リゼレフはうなずき、かき乱された石灰石のほこりを振り払った。「とても深いな。地下の秘密基地には最適だ」
スカウトはほこりを被ったメガネを外して薄手の亜麻布で拭いた。「ここはサイトの建設予定地ではないですよ、ウィン。建設予定地は」彼はメガネを顔に戻し、パートナーの顔が見えるようになり、「3分の2マイル下です」
リゼレフは口をすぼめて、明らかに大笑いしないようにしてうなずいた。「そうか」彼は髪としては十分な赤桃色の産毛を掻いた。「わかった。なるほど。何だって?」
スカウトは笑った。「地下に洞窟が多いことがわかりました。その理由は主のみぞ知っています。もしかしたら新たに収容すべきものを発見するかもしれません」
「赤子の初めてのユークリッドだな。まあ、それは運がよかった」
「もっと運がいいかもしれません」スカウトは大地の巨大な割れ目に手を振った。「このおかげで、エレベーターシャフトの空間を見繕うだけで十分です。この大きすぎる穴を掘る前にトンネルを発見していれば本当に幸運だったでしょう」
「この裂け目自体が大きすぎる穴だしな」リゼレフは両手をジャケットのポケットに突っ込み、小さな姿の労働者の集団を見下ろした。スカウトは、MTFが穴の縁を歩いてカメラやメモ帳で土塁を記録しているのを見た。
「この建築について、さらに考えはあるか?」リゼレフは尋ねた。
「実のところあります」スカウトはメモ帳を取り出した。「CLIO-4は広大なアーカイブに図書館、それに多くのオフィススペースが必要になります。AAGは大量の研究室が必要になりますし、湖に建設している精製所もあります」リゼレフを小突いた。「サイトは私たちどちらにも均等に属することになりますよ、ウィン」
リゼレフはほほ笑んだ。「他に方法はないだろう、共同管理官」
「ええ、それに関してですが」スカウトは再びメモ帳をしまった。「このところ私たちが見る文書の半分は認識災害性です。サイト本体に玄除施設があったほうが文書の処分が安全でしょう」
リゼレフはうなずいた。
「もしそれを中心部に配置するなら、あなたはそこにオフィスを構えるべきです。そして私はアーカイブにオフィスを持つでしょう。ついてきていますか?」
リゼレフは片眉を上げた。その印象を薄める毛が少なく、とてもいぶかしんでいるように見えた。「ついてこれないことがあるか?」
「あなたがよく注意を払っているか確実にしたかったんです。これから聞く質問は非常に重要ですから。あなたと私がそれぞれのセクションの間に共用宿舎を持たない理由を、もっともな理由を思いつきますか?」
リゼレフは目を見張り、突然強まった日光に目を細めた。下唇をかんだ。
「少し考えてください、ウィン。何か、他人が思いつけるほど良識ある理由を思いつけたのなら、共用はすべきでありませんから」
スカウトは徐々に深さを増す裂け目を見下ろした。答えが出るまで、パートナーと目を合わせることはできなかった。このようなとき目をそらすのは、普通ウィンのほうだった。2人は離れ離れで過ごすほどに、ますます似通うようになったのだった。
「何も考えられない」とリゼレフはついに、とても優しく言った。
2人が穴を眺め、その下での2人一緒の未来が垣間見えるまでどれほどかかるだろうかと考えていると、スカウトは手を伸ばして再びリゼレフの肩を掴んだ。

「私を陥れたな」小男はデスクに大きな帽子を放った。帽子は散らばった書類をするすると滑ってスカウトの椅子の脇に落ちた。「陥れやがったな、スカウト! お前にあれほどしてやったというのに」
スカウトは心地の悪い椅子で足を組み、注意して平静な表情を保った。彼は帽子をいまだに被っていた。「あなたの言っていることがわかりません」
ワッツは笑った。今度はロスライフルが泥の中で弾詰まりしたような音だった。「わかっているはずだ。私のエージェントに悪い情報を渡して、私があそこに行くように騙した」
「私たちの通信を監視していると告白するのなら、首相を召喚して聞いてもらう必要がありますね、ワッツ」
「黙れ!」ワッツはベネシャンブラインドを叩き打ち、まるでミルクプレートを舐めているように舌をチロリと出した。「お前のせいで、あの空の何かにぶちのめされてインディアンどもに赤っ恥をかかされた。部下の4人は二度と耳が聞こえないし、私も耳鳴りが収まらない。メンツも、資金も失った。このボケ……」彼は言葉を言い切らずに拳を握り、新たな言葉を始めた。「素知らぬふりができるとは、なんと厚顔無恥なんだ」
「いえ、素知らぬふりをしているわけではありません」スカウトは落ち着いてほほ笑んだ。「あなたが訴えていることは確かにしました。何が起きるかは知っていましたが、もしあなたが注意を払っていたなら、その習慣をつけていたなら、あなたもわかっていたはずです。あなたを意のままに操っていたことは率直に認めましょう」彼は笑みをいきなり消した。「わからないのは、「お前にあれほどしてやった」の意味です。あなたが私にしたことやしようとしたことの意味でないのなら、あなたは私をだいぶ不利な立場に置いていますね」
ワッツは椅子に強く座った。その衝撃でクッションが音を立てて傷ついた。「ありえんな」とうなった。「ヴィヴィアン・スカウトが不利を被ることは。私が職を保てられれば運がいいほうだとはわかるか? お前のせいで起きた混乱のあとで、OSATが解散させられなければ運がいいほうだ」
「その混乱はあなたが原因です、ワッツ。いつもしているように」
監督長はいら立つように手を振り、吸い取り紙に置いていた小さなカナダ国旗とRCMP旗に手をぶつけ、右手が旗竿の先端に軽く刺さった。聞き取れない悪態をついて窓のほうを向き、長い黒ブーツで羽目板を蹴った。「ディーフェンベーカーは私に休暇を取らせたがっている」
スカウトは、その言葉を認めるというよりも自分の勝利を強調するためにうなずいた。「それが最善でしょう」
ワッツは後退した黒い髪の汗ばむ生え際を手でなぞった。「ともあれ、私はあの湖にはうんざりだ。お前はかつてハイカーだと言っていたような気がするが、私もハイキングを始めようかと思う」
スカウトの心臓は動きを止めた。それは予期していなかった。空想こそして、緊急事態の計画を半分意識的に練っていたが、それでもその瞬間はあまりに完璧で、あまりに唐突で、あまりに恐ろしく壮大で、真実味がなかった。どうすればいいかも──
「モンレアル」とスカウトは心の言葉を中断して言い、アドレナリンの奔流で体が震えた。
ワッツは彼の肩の先をにらんだ。「モントリオールに何がある?」直前に正しい発音を聞いていたにもかかわらず、間違った発音をした。
「モンロワイヤル公園、全てのハイキングを終わらせるハイキングです」
ワッツは上の空でうなずいた。「少なくともお前が役立つものはあるようだ。少なくともお前が役立つものはあるようだ」彼は回転して反対側を向き、帽子を取って慎重に頭にかぶった。スカウトの肩越しに、向かいの壁の姿見を見て、ほんの僅かだけ傾きを直した。スカウトは男の鋭い顔つきの中にほのかな自己満足を見て、致命的な提案を取り消しそうになった。
そしてワッツは「私が帰宅したらリゼレフにテストを受けてもらう」と言い、スカウトの前言撤回は前頭葉で確実な死を迎えた。
彼は立ち上がってロングコートのボタンを留めた。「お待ちします。すぐには帰らないでください」
「他人にはその言葉を言わせないというのにか?」ワッツはうなり、スカウトは扉を開けた。
スカウトは本当に感じているのかわからない同情をもって彼を見返し、唇を細めて険しい顔をして、顔を背けた。これが最後になるであろうことは知っていた。

「あまり暴力について話してきませんでしたよね」
リゼレフは肩をすくめ、テーブルの反対側にプーティンの箱を押した。「お昼時の話題がそれか?」
スカウトはフライドポテトとチーズの山を刺して自分のプレートによそい、もう片手でリゼレフに書類の山を押した。「ツウィストは暴力に取りつかれています。過去に何があったかわかりませんが、彼は献身的な平和主義者です」
リゼレフはその文通を一瞥した。スカウトとツウィストは何年もかけて、スカウトとリゼレフが互いに遠く離れていた30年で送りあったのと同じほど多く手紙を書きあっていた。「献身的だろうな。彼がその態度を続けているのは……彼はいくつだと思うか?」
「300余年ほどでしょう」スカウトは舌の上のポテト、グレイビーソース、チーズカードの戯れをしばし楽しんでから飲み込み、続けた。「もしかしたら年齢が人生の価値に対する見方を与えてくれるのかもしれません」
「君も平和主義者だ」リゼレフは手紙の山を押し戻した。「君が大戦争グレート・ウォーのころ吹きあがっていた強硬愛国主義ジンゴイズムのナンセンスを償っている」
「そんなことはしていません」スカウトは箱を持ち上げ、プーティンの残りをプレートに出した。そのちょっとした仕返しを、リゼレフは無言で見守った。「若いころ私は愚かで、ドイツ人こそゾンビガスを実験していました。覚えていますか?」
「それで思い出した」リゼレフはテーブルの自分側を埋め尽くしていたメモの山に殴り書き、スカウトのほうに本気で押した。「ゾンビガスの治療に取り組んでいたことがある」
「話題を変えないでください。O5が必要なDクラスの数を質問したときのことを覚えていますか?」
リゼレフはプレートを平らげ、口に食べ物を入れたままモゴモゴとつぶやいた。
「あなたは、玄除の近くにこれほど多くの研究者を住まわせるのは安全対策をもってしてもすでにリスクがあるから、単なる部外者を入れるのは危険すぎると言っていましたよね? 「部外者変数」、と呼んでいましたね」
リゼレフは肩をすくめた。「この話はどこに向かっているんだ?」
スカウトはパートナーが自分の暇つぶしの仕事をくまなく調べているのを見て、いつも通り目を合わせようとしなかった。「わかりません。ただ……」彼は再びフォークを取った。「あまり暴力について話してきませんでしたね」
「年齢だけが新たな見方を与えてくれるものではない」とリゼレフはつぶやいた。プレートを持って立ち上がり、キッチンへと向かう中で、空いている手をスカウトの肩にしばし置いた。

1964年
3月17日
モンロワイヤル公園: カナダ自治領 ケベック州 モンレアル
太陽はモンロワイヤルからその下の暗愚なケベック人のほうへと滑り行き、レイナルド・ワッツは山頂と知られる場所にたどり着いた。スカウトの厚かましい主張に反して、困難なハイキングではなかった。モンレアルの中心部から登る坂道にはまるで見合わない交錯する簡素な道を通ろうという衝動をなんとか抑えていたが、それでも汗をかかないほどにきつくない傾斜をゆったりと登るのに数時間もかからなかった。しかし、空気は澄み、木々は生い茂り、彼の最小限の努力は全くの無駄になったわけではなかった。
彼はバックパックを担ぎながら笑顔になり、帽子のへりを直し、赤に染まったオークの間から夕陽を眺められるようにした。制服は着ていなかったが、帽子がないと裸であるような心地がしたのだった。公園は完全に無人だった。市長が数週間前に夜間外出禁止令を宣言していて、ワッツはその理由に困惑していた。
公園に変質者がいたところで誰が気にする? その考えのせいで大声で笑いそうになった。 それが基本的な公園の目的じゃないか。
風が悲しげに木々の間を通ってうなり、ワッツは建てられた中で最も醜い宗教的なモニュメントの隣の木製ベンチに座った。それは金属製で格子状のキリスト教十字架で、数多の電球のおかげで白く光っていた。高さは100フィートあるだろう。バカげていたが、彼にとって愉快なところはあった。
彼は唐突に大声で笑った。悪い休暇ではなかったが、その十字架のせいでオタワで成し遂げていない仕事を思い出した。ヴィヴィアン・スカウトを磔にするつもりだったが、それはウィン・リゼレフを見せしめにしてからの予定だったのだ。
風の音ではない。 彼はその考えを無視したが、それでもうなり声は音高を上げていた。うなり声が突然しゃがれた叫び声に変わると、彼は飛び上がってホルスターから拳銃を取り出した。「誰だ?」
彼はすぐさま愚かな質問を後悔した。その音を知っていて、返事はないことも知っていたのだ。叫び声は……いたるところから、深まる闇の中の木々の間から聞こえていた。十字架の光は簡素な砂利の小道を不気味に照らしていたが、彼は見分けられなかった。見分けられなかったのだ。
暗闇の中、ネコのように閃光で輝く多くの目を。
彼は最も近い1対の目を拳銃で狙って頭を傾け、舌を突き出して引き金を引いた。それに答えた悲鳴は大いに満足するものだった。
彼の背後で爪が砂利を打つ音が聞こえ、感覚が一瞬で失われ、全き恐怖に襲われて振り返ったとき、胸元に剃刀のように鋭い斬撃を食らった。
彼は逃げた。
背後の茂みから迫る音が聞こえ、逃げた。腹の切り傷を掴み、指の隙間からゼリーに満たされた絹のバッグのように柔らかくしなやかで滑らかなうえに管状のものが滑り落ちるのを感じ、逃げた。背後に拳銃を構えようとし、凍えるように冷たい指から拳銃が落ち、逃げた。
彼は地面に倒れ、死にかけの薄命の中わずかに見えたユリの花壇に臓物がこぼれ、光る十字架がないか空を探した。見つけられなかった。舌を突き出して叫び、痛みがついに徹底的に襲ってくると口を強く閉じ、先端をかみちぎってさらに叫んだ。細く毛皮の姿が彼を近寄らない距離で取り囲んだとき、彼は心と精神の中で再び、肉体ができない速さで、逃げた。

見つけましたよ。
「この場所です、サー」と運転手はわかり切っていることを伝えた。スカウトは調査を完了していた。この要注意人物については、重要な発見をほぼ全てこの40年で成し遂げていたのだった。ハモンド・ウォッシュバーンというペンネームの、機知に富み毒舌な小説家は、実の名をティロ・ツウィストという昔のオーストリア人ミーム学者であり、スカウトはこの辺鄙な印刷所が彼のミーム本を出版している場所だと知っていた。
彼は車の扉を開けて外に出て、スーツとネクタイを整えた。ダッシュボードから帽子を取ってこじゃれた角度で被り、扉を閉めた。「行きましょうか」
車は印刷所のある通りの向かい側に駐車した。計4名の招集されたエージェントが、可能な限りカジュアルに広がって横断した。印刷所は2本の路地の間に位置しており、それぞれの歩道を1名づつ確認しに行った。もう1名は非常階段を上って2階に行った。最後の1名は印刷所に入ろうと動いたが、スカウトが静かに頭を振った。そのエージェントは口をすぼめてうなずき、車に戻って、スカウト自身が明るい午後の車道を通っていった。
インシデント報告書: PoI-382-17
報告エージェント: V・L・スカウト博士
追跡・鎮圧セクションによる偵察情報と、記録・改訂セクションによる研究により、PoI-382は、トロントはキャベッジタウンでプライベートカンパニーと商取引を行うと判断された。その地点で、MTF アルファ-43("魔女狩り")が対象と交戦した。
エージェント デニス・ボナビルは、建物の北側路地を進んで裏口を発見したことを記憶している。扉が不意に開き、そこに貼られていた黒い文字で「そうじゃないと言え」とだけ書かれた白いポスターに気づいた。彼は前進を止め、路地がクリアであることを無線で知らせ、車両に戻った。(このポスターは作戦終了後に回収されたが、それまで有していたミーム性質は消失していた。)
エージェント ナサニエル・ハートは、非常階段を上って2階に行き、印刷所店主の個人アパートまで向かって、裏の部屋から印刷所に進入したことを記憶している。その場でPoI-382と遭遇し、拳銃を引き抜こうとしたが、PoI-382は彼の思い出せない奇妙な言い回しでそうしないよう求めた。エージェント ハートは代わりに対象に拳銃を渡し、「あなたの作品の大ファンです」と大声で言った。彼は、自己武装解除は強制されたと主張しているものの、この情報は率直な意見であると認めている。
エージェント スティーブン・マカフリーは、問題なく南側路地を進み、印刷所の2つ目の裏口を発見したことを記憶している。この裏口もミームポスターが貼られていたが、エージェント マカフリーは訓練を思い出してそれを無視し、建物に進入した。
表口は鍵がかかっておらず、スカウトはそのまま入った。印刷所にしては、内装はとてもこざっぱりしていた。大半がマットで、たまに光沢のある大量の用紙に、数多もの画材、そして彼には判別できないいくつもの機械。カウンターにはレジスターがあり、そのそばには整頓された札束があった。
カウンターの裏には店長が椅子で小さないびきをかいていた。スカウトはほほ笑み──
裏の部屋で扉が開き、大声を上げ、静かな会話を交わすのが聞こえ、そしてそれっきりだった。彼は角を曲がり、使うつもりはないが拳銃をチェックし、2つ目の扉が開く音が聞こえ、布カーテンをかき分けると、エージェント スティーブン・マカフリーが倒れる瞬間を受け止めた。
彼はマカフリーを床に下ろしながら現状を見積もった。印刷機の裏の部屋は窮屈で、ボール紙の筒に入ったポスターや、額入りポスター、金属棚に積まれたポスターの入っていない額に、廃棄された紙屑の山で満たされていた。彼はかがみながら3つの扉が見えた。1つはわずかに開いて外の路地が見え、1つは立入禁止と書かれ、3つ目はトイレと書かれていた。3つ目からカチリという音が聞こえ、彼はほほ笑んだ。部屋を進んで木製の表面をノックした。
「入っております」と、耳障りな老人の声が、扉の向こうからややくぐもって聞こえた。
「こんにちは、ティロ」
「こんにちは、ヴィヴィアン」
スカウトは笑顔になり、ひざまずいてマカフリーをより徹底的に調べた。マカフリーの隣に白い長方形の名刺が落ちており、スカウトは努めてそれを見ないようにした。「彼に魔法をかける必要が?」
ツウィストはため息をついた。「驚いたものですから。この場所に裏口が2つあることを知っていれば、ここには来ませんでしたよ。裏口が2つある印刷所などあるものでしょうか?」
スカウトは額入りポスターの1つを一瞥した。「まあ……特別な常連に応じた印刷所なら、あるでしょうね」彼は白紙を何枚か取ってくしゃくしゃにして、マカフリーの頭の下に滑らせた。「他2人のエージェントはどこですか?」
「1人はすでに車に戻っております。道を横断するときは左右を見るよう伝えておきました。もう1人は階上で店主のために夕食を料理しております。彼が料理の仕方を知っていればよいのですが」
「おそらく知っていますよ」スカウトは立ち上がった。「アルファベットスープで不幸な事故が起きてからは、魔女狩りでは皆が自分で料理しているんです」
「炊き出しで私を捕まえようとした報いでございましょう」
スカウトは扉にもたれかかった。「今回は捕まえる寸前まで来ました。いい加減になっていませんか?」
「うぬぼれないでください。リゼレフ博士はいかがでございましょうか?」
スカウトは唐突に罪悪感を感じたが、なぜかはわからなかった。「ぼちぼちです。前回私たちが話して以来、3件しか物質処理の事故を起こしていません」彼はあきれ顔になった。
ツウィストは舌打ちした。「毒物学者なら毒への暴露を回避する方法を知っているとお思いのようで」
「ミーム学者なら自分の本を印刷できると思っているようですね」
「印刷機は重いですし、私は引っ越し続けなければなりませんから」ツウィストは休止した。「あなたの部下には及第点をあげられましょう。床に倒れている方は私のポスターを見ないことを覚えていました。有用でございましょう」
スカウトは扉によりかかりながら床に座った。「あなたがそう言ったことを伝えておきます。きっと励みになると思います」
彼はツウィストがうなずいているところを想像できた。「きっとそうでしょう。言葉には力がございますから」
スカウトはクツクツ笑った。「あなたがそれを一番知っているでしょう。それで、私たちの追跡はどうですか?」
彼はツウィストが扉の反対側から背中で押すのを、聞くというより感じた。「とても楽しいです。これで大事なことの邪魔をしていなければよいのですが」
奇妙な罪悪感が帰ってきた。スカウトはたじろいだ。「ときおり吸える新鮮な空気は嫌いではないです。それに会話もうれしいですから」
1枚のカードが扉の下から隣に飛んできた。彼は顔をしかめた。「私は純真無垢ではないですよ、ティロ」
「信用していただけないのですか?」
ついに罪悪感が圧倒しそうになったが、その理由ならばわかった。彼はカードを取り上げて検めた。メッセージは短く端的だった。「いや、誰も聴いていない」
「よろしい。それで……あなたが本気で私を捕えようとしていないことは知られているのでしょうか?」
スカウトは笑顔になった。「本気であなたを捕えようとしていないと、どうして思ったのですか?」
エージェント マカフリーは印刷機のストックの1枚に印刷されていたミーム災害に驚き、無力化された。
対象は確保されていなかった背後の窓から印刷所を抜け出した。スカウト博士は目視することができず、増援もなかったため追跡できなかった。
結論: PoI-382はいまだに逃亡中である。しかしながら、MTF アルファ-43の能力や行動は申し分のないものだった。

ぶっきらぼうで顔の赤いゴードン・シャイン──元王立カナダ騎馬警察"D"ディビジョン在籍、現OSAT監督長──は、スカウトがオフィスに入ってくると立ち上がった。「来てくれてありがとう、管理官。どうぞ座って」
スカウトは断固拒否することを考えたが、シャインの顔の緊張はパワープレイで大げさにする必要がないことを示していた。彼は座った。
シャインも椅子に座り、デスクの書類をかき交ぜた。スカウトはそれが無記入の用紙であることに気づいた。「議論すべきことはたくさんある。ワッツ監督長の件は知っているか?」
スカウトは指を1本ずつ鳴らした。「あなたからではありませんが、ええ」
シャインは口を顔の片側に移動し、眉をひそめた。スカウトが会ったことのある中で、彼は最低か最高の役者だった。「動揺はしていないらしいな」
スカウトはうなずいた。「ええ。ワッツが死んだことは気にしていません。いえ、違いますね」彼は手を膝に乗せて前かがみになり、「気にしてはいます。とてもせいせいしています。彼はみじめな小男でしたし、さぞ痛かったでしょう」
シャインの口があんぐりと開いた。彼は再び書類をかき交ぜた。スカウトは彼が落ち着く時間をしばし取らせた。もう少し時間を取らせると、シャインがさらに平坦な口調で話し始めた。「きっとそうだろう。生きている間に内臓を抜き取られて、部分的に食べられたのだから」
スカウトは、その話を聞いて左目が少しつるのを感じた。それはメガネに隠れて相手からは見えなかった。「なるほど、それは少し……ですが少しですね」
シャインは手を組もうとしたが、用紙がまき散らされるだけに終わった。 ワッツの立派な後継者ですね。 彼はグローブを脱いだ手をデスクの下、おそらくはさらなる被害が出ないであろうベルトの下に置いた。「この件で対立する必要はない、管理官。首相は──」
スカウトは手刀のジェスチャーをして、その結果に驚いた。シャインが口を閉じたのだ。 素晴らしい。 「首相は狂っています。首相に就任した時点で半ば発狂していて、今や完全に発狂しています。彼の考えていることではなく、あなたの考えていることを教えてください、シャイン。どうして私はあなたとこう話しているのですか?」
シャインは落ち着いた青い目でまばたいた。「お前は自分の優位を主張しているのか」
「全くもってその通りです」スカウトは再び後ろにもたれた。「ワッツは私の前に立とうとしていましたから、私は彼に横で歩かせるようにしました。あなたは横で歩こうとしていませんね、シャイン。あなたたちが向かっている方向は知っています」
シャインは頭を振った。ワッツよりはるかに似合っている帽子が、頭の上で変に回転した。「いいか。我々は同じ──」
「ルーガルーの正体を知っていますか、監督長?」
シャインは声が小さくなった。
「ええ? 知っているのか?」
シャインは吸い取り紙の下に手を伸ばして紙を1枚引き抜いた。上下が逆だったが、スカウトはその正体を知っていた。検視報告書だ。シャインはそれを少し眺めて顔をしかめ、顔を上げた。「ああ、ルーガルーの正体を知っている。当然お前もそうだろう」
「当然です。当然、ワッツは知らなかったでしょう。彼はフランス語を話しませんでしたし、パッと見てわかる以上の知識は集めていませんでした。あなたは違うと示してください、シャイン。どうして私がルーガルーに言及したのか自分で考えて、考えを教えてください」
シャインは返事しなかった。
スカウトは立ち上がった。「私の職員をもうテストに掛けないでください。ネクサス-94に入らないでください。あのバカげた機械を運用停止することを求めてもいいでしょうか。そしてあなたには何も言わせません。私が間接的に何ができるか疑っているでしょうが、財団が直接活動で成し遂げられることを見れば仰天するでしょう」
彼は扉まで向かい、片手でドアノブを取り、シャインを振り返ってほほが痛くなるほど意地の悪い笑顔を見せた。メガネに反射した日光で、相手は全く見えなかった。自分がどれほど残忍に見えるか考え、満足した。
「昇進おめでとうございます」
彼の胃は胃酸でうなり、口は乾ききって、心臓はバクバクし、車の席に座ったときは吐きそうになった。だが、彼は空港までの道のりの間罪悪感を覚えながらも笑っていた。

スカウトは収容セルの壊れない窓に拳を叩きつけ、毒を吐いた。声を抑えて毒づいたが、かろうじてしたことだった。上級職員全員が近くで見ていることは知っていたが、かろうじてしたことだった。
彼は模造ガラスの背後の、乱れる光と色の災害と、空中排出物の濃い煙の中を落ち着いてかき分ける姿、そして中央でうつ伏せになっている姿に釘付けになっていた。前者は後者にたどり着き、身をかがめて持ち上げた。いともたやすくそう動き、スカウトはカーディフの体育館でリゼレフが体を起こしてくれたことを思い出し、その記憶の鮮明さに驚き恐れた。
「いつから」彼は呼吸をして、奇妙に落ち着いた人型の生き物が、黒い薄片の浮くオレンジ色のガスの中、彼の最愛の者を運ぶのを見た。
アイザック・オコリー上級研究員は白衣の袖の上で速やかに計算した。「少なくとも30分は。パイプはまだ換気していますし、中に人が入る前にチャンバーを完全に清浄する必要があります」
人ではない人が、リゼレフを開いたパイプと換気格子から可能な限り離れた部屋の隅まで運んだ。スカウトは、この瘴気の中パートナーがいまだに呼吸しているのを見て、心臓が口から出そうになった。窓に手を押し付け、自分の反射の中にリズ・レインデルスが最期にすすり泣いていたのを見た。
「知りませんでした」リゼレフの研究室助手である、痩躯の若い男エドウィン・フォルカークは、スカウトの深刻な固い顔の中に返事のしるしがないか探した。「コンサルタントを雇うと聞いていました。こんな……」彼はためらいながらも指し示した。「こんなものを雇うなんて聞いていません」
スカウトは通路を眺めた。フォルカーク以外の全員は、臥した共同管理官を現在見守っている存在を知ることが許されていた。彼は気を落ち着けて話した。「これを広めてはなりません。これについて口にするようならば、身辺整理をすべきです」
周囲は皆うなずいた。
ガラス背後の光景が次第に見えてくるようになると、スカウトは血圧とともに怒りが込み上げてきた。このセルは、玄妙除却施設の上の収容チャンバーから深妙廃棄物を供給する導管の1つの周囲に、建てられていた。ここにだけアクセスハッチがあり、廃棄物が最終目的地に着いて無力化されるまでの流れを、研究者が監視したり実験を行うことができた。リゼレフは本日テストの予定はなかったし、確実に朝食の間スカウトに研究中のSCP対象に関わる計画を伝えていなかった。
特にあのSCP対象以外と。 スカウトは選択肢を考えた。例えばこのような。この実体の知識を記憶処理で消し去ることは不可能だと証明されている。フォルカークはクリアランス昇格が間近のようだ。彼はスカウトの第一選択ではなかっただろう。
畜生め、ウィン。
およそ30年の期間の中の30分が過ぎ、収容チャンバーは再び安全な滞在が可能になった。健康・病理学セクションの技師2名が、医療機器や医療品に満たされたカートを押しながら、エアロック扉に近づいた。
ガラスの背後で、リゼレフがよろめきながら立った。彼の共犯者はセルの中央まで向かって、再捕獲される体勢で座った。
スカウトは近くの技師の肩を軽く叩いた。「この種の暴露の隔離期間はどれほどですか?」
技師は肩をすくめた。「最低3日です。服は役に立ちませんから、私たちが終日彼のそばにいる必要があります」彼は勇敢にもほほ笑んだ。「面白い仕事ではないですよ」
スカウトはうなずいた。エアロック扉が開いて技師が入ると、彼もそれに続いた。
「スカウト博士?」とフォルカーク。その顔には混乱が張り付いていた。
「全セクション長に、最低3日は監督することになると伝えてください」スカウトはエアロック扉を引いて閉じた。
召集された研究者らは内側扉が開くのを見た。研究室の技師が座った姿──およそ1時間も吸い込んでいた不可能物質から悪影響を受けていないように見える──のそばをゆっくりと進むのを見た。スカウトが技師を横切ってリゼレフを荒々しく抱擁し、離さないのを見た。
「あれは一体何なんです?」フォルカークは目を見張って言った。

スカウトが寝室の扉を開けると、ベッドにウィン・リゼレフが座っていた。パートナーは疲れ、混乱して怒っているようだった。質問の声はしゃがれていた。「君はレイナルド・ワッツを殺したのか?」
スカウトの心は、弾丸のようにいくつものごまかし方を打ち出した。レイナルド・ワッツを殺したのは人狼だ。その間、スカウトはずっと43にいた。スカウトがしたのは無垢な提案だけだ。などなど。しかし弾丸は必然の標的に命中し、いつものように真実を話した。「ええ。私がレイナルド・ワッツを殺しました」彼はコートを脱いだ。
「それは……」リゼレフはせき払いした。「それは、彼が僕たちを危険視して迫害しようとしたとでも思ったのか?」彼はベッドシーツを掴んだ。「それとも、彼が僕たちの正体を知っていたから僕たちに汚れ仕事をするよう脅迫されることを恐れて迫害しようとしたとでも? 彼の想像通りに動こうとでも思ったのか?」それはしゃがれた声だったが、今や叫び声になりかけていた。
スカウトはウェストコートのボタンを外した。「いえ。そうは思いませんでした。最初の2つは事実ではないですし、最後の1つは実際には起きていません」彼はドレスシャツのボタンを外してネクタイを外した。「ワッツは私たちが危険だと思っていませんでした。意志薄弱で逸脱していると思っていて、だから見下げていました。ですが、それでも私たちが何者なのか知っていました。沈黙の約束では脅迫も威嚇も、納得もさせられないことを知っていました。私たちの原理原則を完璧に知っていて、30年もそれと対峙していました」スカウトはネクタイをきれいに畳み、ドレッサーに置いた。「彼は私たちを脅威に思って嫌っていたわけではありませんよ、ウィン。嫌おうと思っていたから嫌っていたのです」
リゼレフは頭を振った。「それで君の行動の意味の何が変わる? 彼が僕たちを暴露する危険があって、君は殺したんじゃないか」
「殺しましたが、それは暴露する危険があったからではありません」スカウトはベッドまで向かった。「ワッツがあなたを国外退去させることを恐れていたと考えているんでしょう? バカ言わないでください、ウィン、私がそんなことをさせると思うんですか?」今まで何度もしてきたように、リゼレフは目を合わせなかった。「仮に監督者が来て「いいかスカウト、リゼレフをオーストリアに返す必要がある」と言われたなら、私は彼らに最後通牒を出すでしょう。サイト全体をオーストリアに送るか、死ねよクソボケというように」
リゼレフの目はきらめいていた。「監督者には最後通牒を出せないだろう」彼は床を見つめていた。
「彼らの持つ権力は私たちが与えたものだけですよ、ウィン。あなたと私です」彼はついに勇気を振り絞って、リゼレフがたじろがないように静かに願いながら座った。リゼレフはたじろがなかった。「私たちは彼らと同程度には、いえ、彼ら以上にこの場所を建設しています。いくら老いて白髪も増え太ったといえども、私たち2人は43で最も賢く尊敬されて貴重な存在です。彼らはあえてあなたを国外退去させることはないでしょうし、きっと私を疎外するより先にワッツを疎外するでしょう」
リゼレフは今度こそスカウトを見た。その表情はスカウトの心を正確に引き裂いた。「ならどうしてあんなことをした? リスクがないのなら、彼が僕のことを傷つけないのなら……どうして?」
「彼がしようとしたからです」スカウトは立ち上がり、ズボンのポケットから鍵を取り出しながら、ドレッサーまで戻った。最上段の引き出しの鍵を開け、封緘された黄色い封筒を出した。「これは、レイナルド・ワッツなる最近まで野放しにされていた危険なバカ者から、サイトと職員を守るのに私が必要と見なした行動を取るための、監督者による包括的権限です。あなたがワッツと会ってすぐに、サイト-01に出向いてこれを要求しました。彼らは眉一つ動かしませんでしたよ、ウィン。O5は3人しかいませんでしたが、わざわざ残りを呼ぶこともありませんでした。3時間で、私はこの封筒とともに帰りました」彼はベッドにまた座り、リゼレフに封筒を渡した。「あの小汚いクズはあなたを打ちのめそうとしていました。実際にするには無能すぎましたが、そんなことは関係ありません」リゼレフは封筒を取り、封を親指で擦った。封を破ろうとはしなかった。
スカウトはため息をついた。「レイナルド・ワッツはヴィヴィアン・スカウトを傷つけるためだけにウィン・リゼレフを傷つけるような人物であること、それだけが問題でした。彼は、私が悩むためには、秀逸な者の人生を破壊してその通り道の秀逸な仕事を止めることを厭わない人物でした。遅かれ早かれ、私たちは彼を処分したでしょう。それを知ったうえで、彼が実際に行動するまで私が待つと思いますか? その紙は私の言い訳です」と封筒を軽く叩き、「ですがそれが理由というわけではありません。仮にクリアランスがなくとも、仮に出口戦略がなくとも、私はああしたでしょう。信じてほしいのですが、仮にスパッツと乗馬用ズボンを着た思い上がりのクソ野郎が、私の愛する者を傷つけるようなことがあるのなら、あなたの言う通り、私はその人を人狼の中に投げ込みます」
リゼレフは唖然として彼を見つめ、大笑いし、すぐにスカウトも笑った。「愛とは恐ろしいな」
「他の人よりは」彼は封筒を顎で指した。「開きますか? 私の言ったことを確かめますか?」
「いや」
「どうして?」
リゼレフは身を乗り出してキスした。「君の言った通りだ。僕は君を信じている」

「ツウィストを夕食に招待すべきなのかもしれない」
「ええ?」スカウトはチェスターフィールドソファで隣に座るリゼレフを一瞥した。相手は彼を注意深く見ていた。彼が分析チャートを読むのを止めていたことに、スカウトは気づいていなかった。「素晴らしいアイデアです。彼のミームでフォルカークを記憶処理できるかもしれません」
エドウィン・フォルカークについて不満を言うことにリゼレフは普段耐えられなかったから、それが起きないときは何かがあるのだとスカウトはわかっていた。リゼレフはスカウトの持っていた手紙を軽く叩いた。「魔法のボーイフレンドは今日は何がお望みだ?」
スカウトはすぐさま裏に手紙を放って、床に落ちる音が聞こえる前にリゼレフのほほにキスした。
「何がしたい?」リゼレフは顔を赤らめた。スカウトは、彼の頭の産毛が赤色だったらどう見えたか想像できた。今の……
……今の産毛こそ、赤色だった。スカウトは後ろにもたれて彼を見つめた。「それは……頭皮を染めたのですか?」
リゼレフは笑い、頭を掻いた。「なんだ? 話題を変えるなよ」
スカウトは立ち上がった。「いえ、本気の話です。髪色が……」白かった。ここ数十年のように、白髪だった。スカウトはメガネを外してコートで拭いた。
「その大げさなジェスチャーは認めるが、ヴィヴィアン、本当に手紙の内容が知りたい」
スカウトはチェスターフィールドの裏に回って紙を取り、ソファの向かいの使い古された肘掛け椅子に腰を下ろした。「彼は最近ロシアでさらなる症例を発見していて、緩徐型精神分裂病ビャラチェクーシャヤ・シザフレニーヤの治療のため広告を出すことに決めたようです」
リゼレフは顔をしかめた。「緩徐型精神分裂病とは一体なんだ?」
「緩徐型精神分裂病は何でもありません。ソビエトが反対意見を病気とするためにその診断を使っています。ティロが疑似科学の政治利用をどう思っていて──」
「監督者は君が「ティロ」と言っているのを聞くべきだ」
「──それをあざけるためにこの汚い方法を取っていることはわかるでしょう」スカウトはパートナーの割り込みを無視して手紙を振り、読み上げた。「ヴィヴ、
努力しました、実に努力しましたが、これは私にも手が負えません。私は辞めねばなりません。この活動の効果は主のみぞ知りましょう。今や、だれもが正常なナンセンスを夢中で喜んで聞く準備ができており、ひとたび治療が効果を成して私の売り物を見れば、彼らは不快に思って放り出すことでしょう。しかし、これは私にとっても不快なのでございますよ、ヴィヴ。発想したときは面白かったのですが、もう二度と「飲尿療法」など聞きたくありません。
リゼレフは「ヴィヴ」と出てくるたびにそれを口にしたが、スカウトが言い終えるまで待って明白な質問を投げかけた。「飲尿療法?」
スカウトはうなずいた。「文字通りの意味です」
リゼレフは身震いした。「老廃物は飲むべきではない」
「あなたが言いますかね」
スカウトは、それが正鵠を得ていることも、大事なことだとも知っていたし、それが引き起こす反応も知っていた。リゼレフは徹底的に頭に来た。「その通りだ。的確な言葉を使いたいんだな。きれいな言葉を、きれいなティロのために磨けよ」
「数少ない目撃証言によれば、ティロは太っていてひげを胸元まで伸ばしているようです」スカウトはメガネを外して、コーヒーテーブルからケースを取った。「新たに言いたいことはありませんが、あなたは最近火遊びに注意を払っていませんから、前に言ったことを言いましょう。あなたは危険を冒し過ぎています」
リゼレフは憤って息を吐いた。「ヴィヴィアン、僕は秀逸な仕事をしている。存在する最も危険な物質を研究室で分解したこともある。安全の配慮に余計な時間を取っていれば成し遂げられなかった」彼はスカウトがメガネをケースに入れるのを見た。「今のところ、幽妙物質は僕を恐れているんだろう。おそらく僕には免疫がある」
「あなたに免疫はありません。不死身でもありません」スカウトはケースをコーヒーテーブルに滑らせた。「それに、そのことがサイトにどれほど影響を与えているか考えたことはありますか?」
リゼレフは冗談はよしてくれという表情をした。「どう影響が? なんの話をしているんだ?」
スカウトは右手の人差し指を立てた。「1つは、あなたがこの場所の管理を実質私に任せたこと。2つは」中指も立て、「あなたが私を心配で取り乱させようとしていること」
リゼレフは笑った。「君を家から出そうとしている、のほうが近い。君は、不始末ができないほどお仲間を連れた巡回に時間を割きすぎている」
2人はしばし、壁の暖房装置の柔らかい駆動音を聞きながら互いに見つめあった。
「あなたが必要です」とスカウトがついに口を開いた。「死なないでください」
「僕は死なない」とリゼレフは言い返した。椅子のクッションからチャートを取った。「僕も君を愛している。気まぐれで口うるさい君を」

1965年
4月1日
イッパーウォッシュ州立公園: カナダ オンタリオ州 ラムトン郡
「それについては色々考えてきた」リゼレフは伸びをした。「共同管理官としての最後の公的活動を。誰かを即時解雇ファイアしてもいいだろうか? 理由もなく? 一世一代の大仕事になるだろうが」
「フォルカークなら構いません」スカウトは紙袋に手を伸ばして瓶を取り出した。「発射ファイアするなら大砲でする必要があるでしょう」
リゼレフは笑った。「大砲カノンなんて持っていたか?」
「いえ、ですが製造できるでしょう」スカウトは瓶のコルクを抜いた。
「ずいぶんな話だな」リゼレフはニヤリとした。「君のような歴史系の人はこういうとき、いつも過去や、僕たちの偉大な功績や無意味な感傷を掘り返すものだと思っていたんだが」
スカウトは頭を振った。「物事はこの瞬間から前に進み続けるだけです」彼は瓶からぐいと呑んだ。「うん。あなたの番です」
リゼレフはクリアガラスの瓶を取り、そこに夕陽が壮大に収まった。「これはどこから?」
「ティロが挨拶の手紙とともに送ってきました」
リゼレフはため息をついた。「僕たちのお邪魔虫は振り払えないらしいな」彼は一気に呑み、袖で口を拭いた。「やたら水っぽいが、無敗水ではなさそうだ。ただ、ブドウはいいな。このビンテージは何だ?」彼は横目で見た。「ラベルがない」
「さっぱりです。フランス産だと思いますが」そのワインは水っぽかったが、それでもスカウトの身を温めた。「今日は私の誕生日ですね」
「そうだな。監督者に頼んで、ちょうど今日に暫定状態を解消させた」
スカウトは片眉をあげた。「そうなんですか?」
「ああ」リゼレフはうなずいた。「信じてくれるかわざわざ訊くつもりはない」
「訊くべきでないですからね」スカウトは瓶を取り、本格的に空にしようとした。リゼレフが再び呑む分は残った。「新たにできる自由時間で何をするつもりですか?」
リゼレフは大笑いした。「新たにできる何だって? 僕はほとんどの時間……保護装置を着て……意味不明な魔法に費やしている。自由時間なんてあるか」
「保護装置については感謝しています。ようやく外交を学んできましたね」スカウトは公園の澄んだ空気を吸い込んだ。2人はあまり頻繁にはここに上がってこなかった。彼は、自然光の中ではリゼレフのスーツが小ぎれいで新品に見えることに驚いた。それはサイトの研究者の半数より年季の入ったものだったのだ。「管理の任務が終わったのですから、少なくとも趣味を始めてもいいと思います」
「君がとても親切に思い出させてくれたように、僕は任務を行っていなかったわけだが」リゼレフはクツクツ笑った。「なんだ、僕がカヌーか何かを始めると思うのか?」
まるで返事をするかのように、巨大な1対の角が湖底から現れた。それに続いて、巨大で柔軟なネコとヘビに似た姿が、2人を物珍しそうに見上げて輝く銅の尾をあちこちにむち打ちながら現れた。2人は固まった。
「彼らは場をわきまえられるのでしょうか?」スカウトは歯を食いしばりながら尋ねた。
ミシペシュは浜辺の冷たい砂に横たわり、2人に向けてじゃれるようにひどく鋭い尾を動かした。スカウトは呼ぼうと考えた。
「呼ぼうとは考えないでくれ」とリゼレフはシューとうなった。「酔っぱらいながら暫定でなくなったサイトに帰りたくはない」
その化け物が2人を食べようとしていないことが明らかになると、2人は恐る恐るリラックスした。スカウトは声を出して笑いそうになったが、それで台無しになるかもしれないと考えた。
「僕たちはいつも綱渡り状態だ」とリゼレフはささやいた。
「何ですって?」スカウトは神話の獣への目線を外してパートナーの顔を見た。
リゼレフは唐突に物思いにふけっているようだった。「ときに物事は徐々に悪化する。間違いが積み重なる。あちらでは何かがこぼれ、こちらでは何かが壊れる。ときに一斉に起きることもある。'60年の収容違反をどう乗り越えたのか、いまだにわからない」
「あなたがあのとき何を考えていたのか、いまだにわかりません」とスカウトは付け加えた。「あの場所にあなたといた存在を考えるとね」
「誰だって、誰かとともにいるものだ。でもそれは僕が言いたかったことではない」リゼレフは、銅のネコがきらめく砂のカーペットで爪のある足を伸ばすのを見て、ウェストコートに手を伸ばしてしわくちゃの封筒を取り出した。「大したプレゼントではないが、大事なものだ。開けるのは……」
彼は言葉を失ったようだった。スカウトはしばし彼の努力を見守ったが、悲し気にほほ笑んだ。「あなたが開けてほしいと言えなくなったとき、ですか」
「その通りだ」リゼレフは彼をこっそりと一瞥して、封筒を渡した。スカウトはそれを自分のウェストコートに押し入れ、眠る湖の怪物がたやすく飛び起き、その黄色の目が見開かれるのをしばし見た。2人は日光がナイフのような尾の縁を滑るのを見た。スカウトはリゼレフに手を回し、近くに引き寄せた。2人はその後1時間以上、寒さを感じなかった。

ウィン・リゼレフはバスルームの鏡で自分をよく見た。1960年以来、1日も年を重ねていなかった。1942年からすら年を重ねていたか定かでなかった。どうしてか今まで、それに気づくことができなかった。この瞬間で鮮明な何かが、このひどく壮観な裸の中にそれを明かし、彼は何をすべきかわかった。
昨晩は、2人が不条理な地下研究室に初めて移動してからの毎晩とほぼ同じように完璧以上のものだった。2人は不器用で愚かな老人のように愛を育み、散発的な睡眠スケジュールを最大限活用すべく別々のベッドに戻ったのだった。彼はいつも通り朝の5時過ぎに起きた。いつも通りシャワーを浴びた。いつも通りネクタイを整えてベルトのバックルを留めた。
シャワーと身の回りの装備の間に、普段彼は服を着ていた。そうだっただろうか? 毎日シャワー室から出た瞬間に服が魔法のように現れていて、今日まで気づいていなかっただけなのではないだろうか? 今日は彼の誕生日で、'47年にヴィヴィアンが買ってくれたひどいピンストライプスーツを着ることについて考えていたから、とっくに服を着ていて、そのために肉体的努力をまるでしなかったことに突然気づいたのだ。彼の外見は単に、意識して変えようとせずとも自己像の通りに変化した。
今や、彼は自分が何者かわかっていた。財団の許容範囲の限度も正確にわかっていた。なぜこれが起き、次に何が起こるべきかわかっていた。
それでも彼は去る前に鏡の外のガラスを殴り、自分のオフィスに続く通路を進む間泣いた。しかし、その傷はとうの昔に癒えていた。

「ヴィヴィアン。落ち着きなさい。ヴィヴィアン!」ツウィストは電話越しに本当に叫んでいた。スカウトは取り乱し、わめき、自分自身でもそれをわかっていたが、止め方がわからなかった。「ヴィヴィアン、深呼吸なさい。冷静になりましょう」
「彼がいなくなった」スカウトの手は震え、保安レッドライン電話をデスクに落としそうになった。歩き回る欲求に駆られて立ち上がり──電話のコードが受話器を床に引っ張るも、カーペットに落ちた衝撃に彼は気づかない──扉の鍵がかかっているか確かめに向かった。「いなくなって、戻って来そうにありません」
「どこへ行ったのでしょう?」
「下に。サイトの下の、トンネルです。そこには……彼はそこに、ええ、彼は工場のようなものを建てています。おそらく……」スカウトは目を閉じて、声を安定させようとした、唐突に座りたくなり、床に座った。今までオフィスの床に座ったことは一度もなかった。「仕事を続けようとしているんです、ティロ。彼は病んでも仕事を続けようとしています」
「どう病んだのです? 彼が工場を建てているとおっしゃいましたね。全くの意味がわかりません」
「彼が! 意味わからないんです!」スカウトは電話を投げ飛ばしたくなった。「壊れてこぼれてだの、あの収容違反だの、いつも詮索しまわって、まるで考えが……あのちく……」彼は努めて悪態を言い切らないようにした。本気で言うつもりはなかった。本気だったらよかった。
「化学の何かが……彼を変えたとおっしゃっているようでございますが」
スカウトは口を開けられなかったが、何とか簡素に「はい」と声に出せた。
「彼を大きく変えたのでしょうか?」
「十分に変わりました」スカウトはMTFが持ち帰った画像を先ほど見ていた。リゼレフがいなくなってから1日で、サイト地下の誰も知らなかった大きく開いた亀裂の中に、工業地区全体が出現していたのだった。「彼は私に手紙を書いていました……これが起きることを知っていたんです。知っていたというのに……」スカウトはメガネを外して目を強くこすった。「今、彼は自分の正体を私に見られたくないようです。私に助けてほしくないようです」
ツウィストは沈黙を保った。スカウトは腰から後ろに傾いた。その年齢ではその体勢は痛いはずだが、今はそんなつまらない感覚を感じられなかった。「ティロ、おそらく私は、彼をなくしました」
ツウィストはもう少し沈黙を保った。ようやく口を開いたときは、とても穏やかな声だった。「それは無理なことでしょう」

玄妙除却施設AAF-W: カナダ オンタリオ州 ラムトン郡
ウィン・リゼレフは言葉を絶するほどに大きな施設──現実がただ彼の心の輪郭に応答するようになったがために現実に存在した──の中心に立って手を見つめた。彼は関節炎の最初の痛みを感じるべきか想像した。静脈が見えるべきか想像し、肌がもっと荒れているべきか想像した。彼は手を目の前で振り、そうしただけでコンピューター操作卓がその場の空気を追い出して出現した。それが正常かどうか想像した。たいてい、彼は自分がこれからすることをすべきかを想像していた。
君は彼に借りがある。 それはあまり正しくなかった。 彼には君が必要だ。 より真っ当になったが、それでも十分でなかった。 君には彼が必要だ これだ。
彼は椅子に座り(そして椅子が生えた)指の関節を鳴らし(前から生えていることには強い確信があった)最初のキーストロークをいくつか打ってから生えたキーボードをタイピングした。画面が起動して、スカウトがタイピングした直後にその言葉を見ているだろうと彼にはわかった。長旅を始める前に、プリンターを接続した。
心の底から申し訳ないと思っている。 彼にはわざわざそれをタイピングする理由がわからなかった。ただ、単に言葉を現実に生み出すのはどうしてか冷淡で冷酷に思えたのだった。
ウィン? あなたですか?
それで彼はしばし止まった。これは彼だろうか? 身震いした。彼は手遅れになる寸前にここに降りたのだった。彼は、底にたどり着くころにはほとんど自分を見失っていて、それはまるで、スカウトが近くにいることだけが、彼を他の皆が住んでいる現実に繋ぎとめていたかのようだった。最も単純な物事すら、自分で焦点を合わせなければ頭から抜けてしまい、それはまるで、周囲の全ての原子を制御する力には、他の全てが現実感を失うような果てしない集中が必要であるかのようだった。
僕だ。 それが事実であることには強い確信があった。
帰ってきてください。
それは決して起こらない。リゼレフは目を閉じて涙を予期した。確かに涙が流れたが、それは彼が予期したからに過ぎなかった。涙の予期を止める方法を学ぶ必要がありそうだった。
どうして決して起こらないのですか?
最初の考えをタイピングしていただろうか? そうするつもりはなかった。彼はキーボードを押しやってよろめきながら立ち上がり、目を閉じた。言葉を見るために画面は必要なく、返事するために画面は全く必要なかった。
僕が僕自身でなくなったからだ。 孤独で取り乱したスカウトのイメージが、彼の呼吸を詰まらせた。 僕はここでよくやっている。心配するな。
「私が心配しないなんてどうして思うのですか?!」彼から半マイル上、そして地表から半マイル以上下で、スカウトはその言葉をキーボードにタイピングした。リゼレフは代わりにパートナーが目の前で立って、直接口で言っているのを想像し、それが──リゼレフにはよく理解できない程度で──理由となってパートナーも実際にそうしていた。
彼は目を開けた。スカウトはまだ目の前にいて、やはり目の前にはいなかった。彼は決して本当には 集中できないだろう。
「何に集中するのですか?」スカウトは老け、疲れ切っているようだった。その髪はぼさぼさで、顔には今までリゼレフが認識していなかったしわがあった。そしてその刻まれるしわを見逃していたと想像するのはとても苦しかった。彼は、20年以上もの間直接よく見てきていた男のあらゆる変化を見てきたが、2人の間の分断の大きさはエントロピーの行進を阻まなかったのだ。まるで、2人が互いの変化を管理できないことは、世界の回転を止める理由にはならないかのように、時間は流れていた。
リゼレフはパートナーの顔に手を伸ばしてなでた。「愛している」と言った。

サイト-43: カナダ オンタリオ州 ラムトン郡
スカウトは左を見た。応用隠秘学研究員のエドウィン・フォルカークが、壮観なドットマトリックスで巻き出されるパンチカードの言葉を眺めていた。スカウトは彼の目を疑う表情を見た。これは本当のことなのだ。全てが崩れそうになっていた。
スカウトは右を見た。本人確認・技術暗号セクション長のティタス・ヘインが、リゼレフが残した完全に異常な端末を検めるのをしばし止めて、全く予期していなかった露骨な告白を見つめていた。
そんなことをしないで。 彼は深呼吸した。 あなたのことではありません。
スカウトは、自分にとっての全てだった男との最後の結びつきを表していた明滅する画面を見て、専門家としてたやすく打ち込みながらも、声に出してその言葉を言った。「私も愛しています」

それについては心配無用だ。セーターは全く必要ない。
スカウトが返事にタイピングすべき内容について、3名の研究者が有用な提案をした。彼はそれを全て無視して、代わりにこうタイピングした。「上はとても寒いので、尋ねようかと思ったのです」
ここまで降りてきてお互い温め合えばいいじゃないか。
誰もそれに返せる言葉がなかった。相談役のうち2人はあからさまにそっぽを向いた。スカウトは返事をする間落ち着いた顔を保った。「これは専門的な会話であるべきでしょう、ウィン」
ならば僕のことはリゼレフ博士と呼べ。
君がパイプで送ってきた新たな物質は極めて特殊だ。君のために辞書も編んだ。
「一体どういうことですか?」ヘインはプリントアウトを指さした。「この話は──」
「尋ねてみます」だが、スカウトがタイピングを始める前に新たなメッセージが現れた。
どうしたことだ、僕は何と言ったか? セーターについて聞かれてから何と言っていた?
スカウトはとても泣きたい気分になった。「心配しないでください、ウィン。辞書とはどういうことですか? 微生物の潜んだ砂を送ったはずです」
おかしなことを言ったか? 君を困らせるつもりはなかったんだが。ああ畜生、混乱している。
この虫のことだ。全く黙りやしない。
スカウトは保安徽章をいじっていた昆虫学専門家を小突いた。「彼が砂と会話している可能性はありますか?」
彼女は口を開けたが、返事を返すのにしばしかかった。「その質問にどう答えればいいかわかりません、サー」
彼は途方に暮れ、画面に目を戻した。この状況は完全におかしかった。彼は監督者に10回──8回は文書で、2回は直接──彼自身が降りてパートナーを回収させてほしいと依頼した。ウィンは彼に降りてきてほしくないことは知っていたし、止めようとするだろうと知っていたが、胸が張り裂けそうなほどそうしたいと体が欲していたのだ。それぞれの機会で、評議会はいまだに検討中だと伝えていて、最後には、サイト-01で、暗室に連れられてプラスチックの画面の待遇を受けた。ウィン・リゼレフ、SCP-5520は、いまだに財団の事実上のデファクト玄妙除却専門家であり、それは彼の能力がもはや普遍的制約に限定されなくなったためであり、さらにそれがために専門家となったのだった。評議会には彼のための収容プロトコルすらあった。制御できないほど困難になった場合は、簡単な3人の操作でヒューロン湖の水を裂け目全体に満たし、闇の中のスカウトの旧友を溺死させるのだった。
君は耐えなければならない。
「何ですって?」
君は耐えなければならない。前にも離れ離れになっただろう。今度は水平ではなく垂直の遠さだが、同じ原理が適用される。君は僕の命綱だ。上で唯一僕のことを気に掛けてくれる人なんだ、ヴィヴィアン。君が耐えてくれなければ僕は落ちてしまう。底を見下ろしてもここからは
彼は数秒だけ待った。それ以上待てなかった。「ここからは何ですか? ウィン?」
返事がない。
「ウィン? いますか? ウィン?」
これは砂なのか? それとも
ここはどこだ?
スカウトは、機械のような正確さで端末を切り、職員にリゼレフ博士は今日はもう使い物にならないことを伝え、彼らが部屋から出るのを待ち、扉を閉めた。そして泣き崩れた。

起きてます。 「起きてます」スカウトはベッドの上のインターコムボタンを叩いた。「起きています。何なんですか?」
「5520です、サー。またあなたを求めています。えっと……たくさん求めています」
彼は再びボタンを叩いてうめいた。ベッドから転がり起きたものの、片側のスリッパしか見つけられず、よろめきながらウォッシュルームに向かった。 時間が足りません。 再び寝室によろめきながら向かい、ドレッサーのよくアイロンがけされたスーツを取り、ベッドの下にあったスリッパを蹴飛ばした。スーツジャケットを着たとき、目覚まし時計の時間に気づいた。2:52 AMだ。
「バカ言わないでくださいよ、ウィン」ジャケットのボタンを留めようとしたとき、先にドレスシャツを着ていないことに気づいた。
I&Tは夜のこの時間は活動していなかった。5520の ウィンの 端末を見ている技師だけがいて、技師はスカウトを見て元気になったようだった。「すみません、サー」と申し訳なさそうでない顔をしながら言い、「しかしどうすればいいかわからず」
紙に書かれたメッセージは十分はっきりしていた。
君は僕を抱擁しない
君は僕を抱擁しない
君は僕を抱擁しない
君は僕を決して抱擁しない
スカウトはこめかみをこすり、老いた脳を覚まそうとした。
「サー?」
スカウトは答えなかった。彼はシャワーを浴びているかのように顔全体をこすった。まだシャワーは浴びていなかったのだった。ウィンをその間独りにさせることは認めがたかったのだ。
「サー、他の人で呼べる人はいますか? あなたが寝ている間に緊急事態が起きた場合に」
スカウトは椅子を回して、いっぱいに広げた震える手で相手を叩きそうになった。「他の人を、たとえ誰であっても呼ぶのなら、私はあなたをネコのエサにします」

スカウトは、まるで電話の向こうにいるツウィストが見ているかのように頭を振った。「いえ、'81年以来彼らは厄介を起こしていません。とはいえ、その申し出に感謝しないわけではないです」
「尋ねようと思ったのですがね」ツウィストは軽快な声だった。「それでリゼレフ博士はいかがございましょう? 尋ねるべきでしょうか?」
「いいですが……」スカウトは再び頭を振るのを止めた。「どう答えればいいかわかりません」
「ならば、話題を変えましょう。どうして──」
「どうしてあなたはリゼレフ博士と呼んでいるのですか?」スカウトはほとんど意識せず尋ねた。
ツウィストは止まった。「何です?」
「あなたと話すとき、いつも私はウィンと呼んでいます。どうしてあなたはウィンと呼ばないのですか?」
もう一度止まる。「私が彼を知らないからです。そのファーストネームは……あなた方2人の間の特別なもののようでございます。私は彼とお会いしたことすらございません。そう呼ぶのは失礼に感じるのです」
「わかりませんね」スカウトは膝の帽子を取って、縁に指を滑らせた。「それが失礼だとは思いません。彼のしていることは……彼の学位は今の活動とほとんど関係がありません」
「今まであったのでしょうか?」
スカウトはこう答えざるをえなかった。「確かにそうですね。先ほどは何を言おうとしていたのですか?」
「提案を……いえ、それは後でもよろしいでしょう」
スカウトはデスクから足を下ろして座りなおした。「いえ、聞きましょう」
ツウィストは笑った。「内容も知らないでしょうに」
「あなたが一度止まるものは、どれも聴く価値があると思っています。ですから、ティロ、白状してください」
今度の返事はなかなか始まらず、スカウトは通信が切れたかと思った。「誰かが聞いているでしょうか?」
スカウトはせき払いした。「私の保安通信から、有効な見つけ次第捕獲せよという命令がある要注意人物の保安通信への電話を、仮に聞いている人がいるのなら、止めなさい。彼は秘密を口にしようとしています」彼は声色の仰々しさを一段下げた。「これで満足ですか?」
ツウィストはため息をついた。「それは……わかりませんな。あなたは、私を追って何年になりますでしょうか?」
「それはどこから計測するかによります。ある意味では80年近く、あなたのアイデアを追ってきています」
「それでは……私たちが会ってしまえば、ひどく台無しになると思いますでしょうか?」
指先のフェルトとプラスチック、耳元の受話器、椅子のクッション、服の布が全て彼から離れ、ツウィストのやや早い呼吸の音と、下で闇の中働くウィン・リゼレフの些細な記憶だけが感じられた。
「それは……」スカウトは自分の声が嫌になり、さらに言葉を出すのが嫌になった。「いえ、おそらく……台無しにはならないと思います」
「ですが」
彼は目を強く閉じた。「ですが、それはきっと……失礼でしょう」
彼は向こう側でツウィストがうなずいているのが想像できた。「これはあなたの選択でございますよ、ヴィヴィアン。常に、あなたの選択でしょう」
2つ目の電話回線が点灯し、彼はのどのしこりを飲み込んだ。「通話を切ります。私は……少し考えます」
「私ならしないでしょう」とツウィスト。「その瞬間に正しいと思ったことを言うなりするなりして、それっきりにするでしょう」
「何も正しくないと思ったなら?」
今度こそ、ツウィストは全く返事をしなかった。2つ目の電話がしつこく点滅する中、もうしばらくして、スカウトはスイッチフックを優しく押した。

「わかりません。これはそれほど……わかりません」
「あなたがどう感じているかは、関係がございません。彼がどう感じているかです。彼は苦悩の中におります」
「私は違うと?」
「ええ、今は違います。その端末の電源を切れば、あなたは必ずや永久に苦悩しましょうが、私はここにおります。しかし今は彼にあなたが必要で、あなたは彼のためにここにおらねばなりません」
スカウトは受話器を何が何でも手に持ちながら、何も映っていない画面を見つめた。スクランブリング装置が確実に機能していたから、彼は今やサイトのどこでもレッドラインをリダイレクトすることができたのだ。それはどう見てもする必要がある要求だったから、本人確認・技術暗号セクションの誰も眉一つ動かさなかった。ときに管理官はオフィス外で保安電話をする必要がある。自然でないことがあろうか?
彼は、ある現実改変者がリアルタイムの思考文章変換でおかしくなるのを見ていて、電話の相手は、彼にまくし立てて説き伏せていた。 不自然でないことがあるでしょうか?
「彼は何と?」ツウィストはとても穏やかに尋ねた。「言葉を読み上げてください」
冒涜するような気分になったが、ツウィストが正しかった。ちょっとした背信がかなり助けになり、スカウト自身の言葉の井戸は久しく乾ききっていたのだ。最新のプリントアウトを拾い上げた。「わかりました。ええと……」
君は僕のことを忘れた
僕を愛していなかった
僕を嫌っていた
君が恋しい
君が欲しい
AI(NO2)3
「最後の行は硝酸アルミニウムの化学式です」とスカウトはため息をついた。「何に関連するのかわかりませんし、プリンターが下付き文字を出力した方法もわかりません」
「わかりました」彼はツウィストが一心不乱に殴り書きしているのを聞き、ある考えが思い浮かんだが、口に出す内容を抑えた。
「その……作品を、彼に使おうとしているわけではないですよね?」
「ええ。この距離ではあまりできません」
「最初はしていたではないですか。病において」
「それは特例でございます」ツウィストのペンは嵐のごとく書き乱れていた。「あなたが彼と連絡する方法がどれほど特異なのか考えてごらんなさい。たといあなたのそばにいたとして、この魔法を機能させることはできないでしょう」
「きっとそれが一番いいと思います」スカウトは両目をこすった。メガネはすでにデスクに置いていた。「それを私が……彼が望むかはわかりませんが」
「よし、準備が整いました」ツウィストは深呼吸した。「これから私の伝えることをタイピングしていただきたいです。止まって質問することも、予想することもしないでいただければと思います。どうぞ信じてください」
スカウトは深呼吸して、肺が痛んだ。「言ってください」
ツウィストはゆっくり慎重に、スカウトが以前聞いたことのなかった声色で話し始めた。いつものような甲高い独り言のような声ではなく、やけにメロディアスで心地よく、魅力的でもある声だった。彼は夢中になった。その声とともにタイピングし、あらゆる言い回しを内在化させた。ツウィストがその力について嘘をついていたのではと思った。そうではないと彼は信じることにした。
「私があなたを忘れてしまうような力はこの世に存在しません。これまで生きてきた中で、私は一番あなたとずっと近くにいました。そのようなことは私が許しません。それが起きてしまえば、私たちが分け合ったものの価値が落ちますし、それ以上に心が痛むことはまずないでしょう」スカウトは、ツウィストの文章のリズムにあまりに見覚えがあり、どこに句読点が来るかもわかった。彼は完璧なペースを保った。「もしあなたを愛していなかったならば、決して愛したことはないでしょう。あなたは私を愛しています。さらに、もしそれがありえるなら、もし私たちが制御できない不可視の力がそうさせるのなら、私たちは今ごろ共にいるでしょう。かつて離れ離れになりましたが、それはより近くで共にする結果となりました。あなたがいないことは咎めません。あなたが苦悩していることは咎めません。あなたがしている、しなければならないと思っている物事も、あなたが保っている距離も、2人の間に立てた壁も、咎めません。あなたのことは決して嫌いになれません。あなたほど聡明で力強くとも、あなたの力、優雅さ、正しいことをする活力に対する私の評価を減ずるには、あなたは無力です。あなたを隣にいさせられないのなら、私はあなたをあなたのまま受け取ります。あなたを欲することは止められませんから。たとえそれが苦痛だとしても」
「たとえそれが苦痛だとしても」とツウィストは繰り返した。スカウトは最後のキーを叩いて椅子に座り込んだ。
しばし経ち、プリンターが印刷を始めた。紙に手を伸ばして切り取るまでに、ほぼ1分が必要だった。
これはぼくののぞみではない
これはきみののぞみではない
きみのせいではない
ぼくはけっして
彼は紙をデスクに置き、額を紙に乗せ、泣き始めた。ツウィストは、彼が話す準備ができるまで電話で待った。

スカウトは管理・監督セクション議長の肩を叩いた。「あなたならうまくやれます。いいプランですよ」
アラン・マッキンス博士はスカウトの手を一瞥した。そのなれなれしい手振りに文句は言わなかった。それが彼の付き合い方だった。「自分の能力は心配していない。心配なのはどれほどことがうまく進むかだ」
彼らの1キロメートル上では、カナダ軍キャンプ・イッパーウォッシュはもう混沌としていなかった。5月の大半は混沌に包まれていたが、ようやく昨日衝突者の半分が撤退したのだった。かつての彼らの神聖なる土地を占拠していた軍隊がいなくなったので、サイト-43の地表出入り口を占拠しているストーニーのクリー族は、自分たちを長く占領していると思っていたものに集中していた。
「あなたは弁が立つでしょう」とスカウトの研究室助手が返した。サイトの新入者の1人でありスカウトが民間職を退職する前最後のPhD学生だったハロルド・ブランク博士は、とても哀れに見えた。地下サイトに閉じ込められた人は皆寝つきが悪いが、ブランクは寝つきが悪いことにうまく対応できなかったのだ。「あなた以上におためごかししたい人はいません」
マッキンスはブランクのほうに顔を向けた。「支持ありがとう、ハリー」彼は地上エレベーターの呼び出しボタンを押し、黒いワークシャツの襟のボタンを留めた。「これはあなたの進みたい道なのだろうか?」
スカウトはうなずいた。「彼らの主導者をここに連れ、私たちが提供してきたものを見せ、私たちの保護を約束させなさい。誠心誠意伝えなさい。それは真実ですから」彼はブランクのほうに向いた。「あなたは何をしますか?」
「フォルカーク博士に用事を与えて、これを発見させないようにします」ブランクはあきれ顔をした。「なぜ彼に干渉しないよう命令しないのかわからないんですが」
「彼は私の代理です」とスカウトは叱った。「そのような扱いはできません」
「でも私には指示するんですか」
「その通りです」
「たまに自分が全く卒業してないんじゃないかと感じます」
スカウトはブランクの肩も叩いた。「それは指導教官がまだそばにいるからです。私は姿を消しましょう」彼は立ち去ろうとした。
マッキンスは物珍しそうに彼のあとを見た。「私が宣伝する間どこにいるつもりだろうか?」
スカウトは振り返らず、肩越しに返した。「知る必要はありません。私ももう、必要ありません」

「1週間ほど」とスカウトはタイピングした。「上で軍隊しかいなかったころは、私たちは自由に出入りできました。ですがストーニーはこの秘密を知りませんし、自分たちの神聖な土地に37万2千平方メートルの施設が沈んでいると知って喜ばないでしょうから、私たちは隠れるように行動しています」
隠れるように行動するのは経験したことがある。
それで、君は地下に留まっているんだな? この世界にようこそ。
スカウトは笑った。「あなたがどうしてこれほど耐えられるのかわかりません。私はおかしくなりそうです」
僕には選択肢がなかった。
あってほしかったが。
何一つなかった。
笑顔がスカウトの唇から引くのにしばしかかった。その返事は全く予想していなかったのだ。「どういうことですか?」彼はタイピングした。
水門を制御しているのは誰だ、ヴィヴィアン?
彼は地下深くであることとは関係のない肌寒さが打ち寄せるのを感じた。「私です」
水門を制御しているのは誰だ、ヴィヴィアン?
「言ったでしょう、ウィン。私です」
水門を制御しているのは誰だ、ヴィヴィアン?
スカウトは呼吸が困難になった。「ウィン、何か私にさせたいのならはっきりと言ってほしいです」口に出すよりもタイピングするほうがはるかに簡単だった。
何をはっきり言うんだ?
スカウトはメガネを画面の下に投げて腕で額を打ち付けた。言い換えたメッセージを荒々しく打ち込んだ。「水門を開けてほしいですか、ウィン?」
返事が来ないことに気づいたとき、泣き叫ばないことで精いっぱいだった。

スカウトは、最もよく最も古いスーツを着古していた。スーツはややきつすぎ、やや洒落すぎていた。細い線が入っているせいで、鏡で見ると悪夢のように厳しい見た目になっていたが、それが彼を満足させていた。彼らに、自分のことを恐れ、無理強いさせられ、何をしているか知らずに行動したと言えるようにさせたかった。
「ブランク博士、マッキンス博士、サンダウン・プロトコルを開始します」2人はほぼ同時にうなずいた。無人の管理・監督セクションハブには、その3人だけがいた。
彼は、地上で唯一つけていた黒いメガネを使い古し、サイト外で唯一被っていた帽子を着古していた。彼は、本当の自分である、過ちを犯し感傷的な人間ではなく、自分の名声を反映した亡霊として現れたかった。2人も彼をそのように見ていたが、彼はしばし忘れてほしいと思った。
「ブランク博士、ヒューロン湖周囲の保安を確認してください」スカウトの声は冷淡で落ち着いていた。前もって何錠か薬を飲んでいたのだった。この決定は感情的に下したが、最後の一手は完全に理性的に指そうとしていた。
「周囲を確認しました。南岸はクリアです」
彼の顔はデスマスクにも劣らない見た目だった。その口調は葬式にふさわしかった。最後の運命の言葉を言うとき、ロボットのようにふるまった。「マッキンス博士、水門を準備してください」スカウト自身が運命のボタンを押すのだ。それは全て2人の行動のおかげだった。 あなたの望んだことです、ウィン。本当にすみませ──
「マッキンス博士、水門を準備しないでください」全セクション長エドウィン・フォルカークの声が、天井のインターコムから鳴った。「それはできません。I&Tがパネルをオフラインにしました」
ハブの扉がスライドし、フォルカークがずかずかと入ってきた。それとともに2名の武装エージェントもいた。「スカウト博士を拘置下に」と声高に言った。「彼と私は旅行に行きます」

2月10日
サイト-01: アメリカ合衆国 非公表地点
O5-8はデスクのボタンを押し、テープレコーダーの駆動音が止まった。「いや、感謝するのはこちらのほうだ、スカウト博士。これは大変だったろう」
スカウトは立ち去ろうとしているところだった。インタビューは終了し、理由も全部吐き出していて、気がかりなことは退職についてだけだったのだ。しかし最後の追い打ちの言葉はあまりにも強く、彼は返事しなければならなかった。「すみません、サー、どういうことですか?」
プラスチック製スクリーンは過去の産物だった。監督者周囲の空間を暗くしてシルエットだけが見えるようにする方法が発見されていたようだった。どこからどう見ても段ボールを人型に切ったもの──たった1人だ──の感情を読み取ることは不可能だった。スカウトは答えを待った。
答えが返ってこないことに気づくと、改めて尋ねた。「使わせるつもりがなかったのなら、どうして私は水門の制御を管理していたのですか?」
何もない。
「事実を認めて失うことでもあるのですか? アレルギーでもあるのですか? 誠実という話題では、鶏の骨のようにのどがつっかえてしまうのですか、それとも黙ってしまう習慣でもあるのですか? 誰にも伝えるつもりはありません。どうせ私は来年の今ごろにはもう死んでいることは、よく知っているでしょう」
それはため息だったか、それとも光と空調によるいたずらだったのか?
「なんだって結構です。手紙をお待ちください」
彼は扉まで向かった。
「ヴィヴィアン」
ドアノブに手をかけた。
「ヴィヴィアン」
振り向かなかったが、それでもためらった。
「なぜ私たちが君にそれをさせると思ったのか?」
突然、彼は相手の顔に唾を吐きたい圧倒的な欲求に駆られた。ドアノブをやや押し下げた。「私にはその権利があったからです」
「なぜ権利があると思ったのか?」
「彼が私にくれたからです。彼は私に全てをくれて、私も全てあげたからです」
「物事は正確に言え。本当に思っていることを伝えろ」
スカウトは振り向いて、ネクタイを整え、襟を立て、ジャケットの袖口を伸ばした。彼はメガネが闇の中でどう見えるか考えた。輝いて見えることを願った。目は確実に輝いていた。「ウィン・リゼレフは私のパートナーでした。彼は私にとっての全てでした。恋人でした。あらゆる意味で、夫でした。私が必要なことをすると信じ、そう求め、私は約束しました。私を嘘つきにさせたのはあなたです」彼は無意味で無礼な「サー」で打撃を弱めようともしなかったし、できなかった。
人型の輪郭は彼をしばし見つめた。
「状況を注視しよう」と、相手はようやく口を開いた。
「いいでしょう。してください」今度はスカウトは扉まで足早に進み、監督者が言葉を発せる前に扉を叩き開いた。その視界に、いやらしい目をしたエドウィン・フォルカークの姿が現れた。可能であれば、全セクション長が耳に手を当てて話を聞いていたことを知れただろう。
「こんばんは、管理官」とフォルカーク。
スカウトは肩越しに親指を立てた。「報酬を貰いに行きなさい」彼は指を立てた相手のことを十分に考えなかった。
「もうしばらく留まってほしい、スカウト博士」とエイト。
スカウトは、ワッツの惨死のあとにリゼレフに言ったことを思い出し、後悔のない言葉を返事にしようか真剣に考えた。だが口にはしなかった。43には整理せねばならない事柄があり、彼を頼る人もいて、それを全てフォルカークの有能だが冷淡な手に委ねないほうがいいとわかっていた。フォルカークは無礼にも彼の横を通り過ぎ、扉を閉めた。
「時間はかからない」監督者は平坦な口調を保った。スカウトは自分も同じようにできていたのか考えた。デスクの裏には知っている人がまだいるのか、全く違うものに置き換えられたのかどうか考えた。「スカウト博士の行動の件は終了した。この件を同僚とさらに議論することはない。了解しているか?」
フォルカークは肩をすくめるスカウトを一瞥した。「私ではなくあなたが尋ねられています。私の誠実さは問題になっていませんから」
フォルカークは鼻を鳴らした。「ええ、サー、とても了解しています」
「いいね」シルエットは身を乗り出した。「追って通知があるまで、スカウト博士はサイト-43管理官を続けてもらう。だが彼は以前に、何度か後任者の件を口にしていた」
フォルカークは熱心にうなずいた。
「サイト-43の全セクション長として、君は管理官の次の候補だ。だが最近の行動から、その立場に不適切であるとみなされた」
フォルカークはうなずきかけ、唖然とした。「何ですって?」
「スカウト博士の行動を報告するという適切な手続きに従った一方、その情報を得た手段は好ましくなかった。通常のチャンネルを回避し、上司の直接命令に違反し、秘密の行動を行った。これは管理職にふさわしくない」
「それは……そんなことは──」
「即時に、君はサイト-19に異動される。12か月後、我々は君の立場を再考する。アラン・マッキンス博士が全セクション長に昇進し、スカウト博士の退職に際して、管理官になることが期待される」
「バカげています」スカウトは、フォルカークなら唾を吐くかもしれないと思った。彼は口から泡を吹いていた。「この人が」とフォルカークはだしぬけに指さし、スカウトはメガネの安全を少し心配して、「あなた方の目の前でサイト全体を職場恋愛でゆがめたというのに、その上あなた方は──」
「フォルカーク博士、退室をお願いする」監督者は叫ばなかった。その必要はなかった。フォルカークはかかとで回って去り、扉を叩き開いて開きっぱなしにした。
スカウトは彼が去るのを見て、通路から漏れる光の筋の中でしばし立っていた。「これに意味はあったのですか? 私は感謝すべきなのでしょうか?」
シルエットは肩をすくめた。
「とりあえず、ありがとうございます」とスカウト。帽子を頭に乗せて縁を上げた。エイトの影のもとから立ち去るのはこれが最後になった。

そのベンチは大きく、3人が快適に座れた。2人はスカウトの両隣に座り、必要なときに立ち上がるのを介助しやすいようにした。彼はその手ぶりを感謝し、ほぼ同じ程度に不快に思った。
「もっと多くのサイトに湖は必要でしょう」とブランクは考えた。
スカウトはうなずいた。
「81がある」とマッキンス。
「81は湖の下でしょう」とブランクは笑った。「全く違いますよ」
再び、スカウトはうなずいた。
「言いたいことはわかる、ハリー。ここはとても平和だ」マッキンスは深呼吸した。スカウトはまた、それをしばし不快に思った。
「あなたには感情がないと思っていたんですが」
「2人とも黙れないのですか?」
2人はスカウトのほうを向いて見つめた。彼は午後の太陽を見上げ、最後にもう一度メガネを光らせ、しばらくそのままになってから笑顔を見せた。「帽子が落ちるかと思いましたが、それだけの価値はありました」
ブランクは打ちのめされたようで、マッキンスは陰鬱に見えた。スカウトは再び笑い、2人を小突いた。「元気を出しなさい。もう過ぎたことですし、仕事に戻ってもいいですよ」
「あなたがいなくなれば寂しくなる」とマッキンス。スカウトはその通りだとわかっていた。ブランクのほうが寂しいだろうが、口には出せないだろうとわかっていた。それでもブランクはうなずいているだろう。彼は若い歴史家のほうを見た。彼はうなずいていた。
「私がいなくなっても、あそこを荒廃させないでください」スカウトは心地悪くベンチで姿勢を変えた。まっすぐ座るだけでもとても大変だったのだ。杖と2人の若い研究者の介助があっても、車からこの距離を歩けたのは幸運だった。「それと、私にちなんだ名前を付けないでください」
「あなたにちなんでネコを名付けようと思っていたんですが」とブランク。その声は荒れていた。
「それはいいでしょう。ネコは飼ったことがありませんが、かわいいですか?」スカウトは鼻を掻いた。
ブランクは疑うように笑った。「112歳でしたよね。どうしてネコを飼ったことがないんです?」
スカウトはしばし考えた。湖は今日異様に凪いでいて、そよ風もほとんどなかった。「していないことはたくさんありますよ、ハリー」
2人は何と言えばいいかわからない様子だったから、彼は代わりに自分で言おうとした。「もしあなたたちが……」彼はせき払いした。「あなたたちが何かの手段を見つけたなら……」
彼は考えをまとめられないことに驚かず、2人が肩に手を置いたことにも全く驚かなかった。
「彼のことは連れて帰る」とマッキンス。
「忘れません」とブランクは約束した。
スカウトはうなずいた。湖は、彼があまり流すことのできなかった涙に満たされ、きらめいていた。日に照らされたこの瞬間を台無しにはできなかった。「いいですね」彼はため息をつき、ぎこちなくメガネを外し、目を拭いた。「私は殺そうとしてしまいましたから。彼が望んだからという理由で。私がやり残したことは、彼を望んだとおりに死なせることだけでしたから。しかし私にはできませんでした。彼に過ちを犯してしまいました」
「あなたは誰にも過ちを犯していません」とブランク。「あなたは──」
「やめなさい、ハリー。私たちは皆、どんなときも過ちを犯します。私たち一人一人が過ちを礎ファウンデーションとしているのです。友人に、家族に、恋人に過ちを犯します。それに耐えられる唯一の方法は、それは完全な過ちではなかったと知ることだけです」彼はマツの枝から注ぐ日光に手をかざした。
「彼が求めたとき、あなたはそこにいた」とマッキンス。
スカウトは嘲笑った。「それで彼に何かいいことはありましたか?」
ブランクは真剣な面持ちになった。ブランクが真剣な面持ちになるのは今の今まで一度もなかった。「この世のあらゆるよいことを。昔、あなたは30年間ほぼ毎日手紙を書いていました。そう教えてくれませんでしたか? 画面でタイピングするのはどう違うんですか?」
スカウトは頭を振った。「ともにいられませんでした。彼に触れることも、抱きしめることも、何も……」彼は頭を振るのを止められなかった。「それはただの言葉に過ぎません」
「その通り」ブランクはうなずいた。「それであなたは言葉についていつもどう言っていましたか?」
スカウトは、はるかに若い男の意味するところに気づくのにしばしかかった。彼は口をすぼめた。目を閉じた。うなずいた。
言葉には力がある。
「ありがとう」彼は少し苦労して目を開けた。「わかりますか……何をさておいても……」
「何?」とマッキンス。
スカウトは薄く悲し気な笑みを見せた。「あの2人がどこか向こうにいて、2人とも死ぬことはないと知っていると……それだけが夜に目を閉じることを恐れなくさせるものなのです」
彼は目を閉じた。急に疲れ切ってしまったのだ。彼は記憶を頼りにメガネを手の中で畳んで、ジャケットのポケットに入れた。彼はできる限り深い深呼吸をして、長く吐き出した。
彼は目を開け、2人が固唾を呑んで見守っているのを見た。
「そんなことはよして、老いた仲間を介助しなさい。湖の前で死ぬなど陳腐なことはしません」

4月1日
玄妙除却施設AAF-W: カナダ オンタリオ州 ラムトン郡
彼はそれを、大地の動きのように、自分の正体だと思っている存在の織物のさざ波のように感じた。その最期の場面を、長い人生で感じたことがないほど鋭く感じ、食事も呼吸も、愛することも必要なかったにもかかわらず、恋人の死という感覚は、ひどい飢えのように、突然の窒息のように、制御できない体の痛みのように襲ってきた。
ウィン・リゼレフはこのどうしようもない瞬間を受け入れ、膝頭が冷たい石で打ち砕かれる感覚を想像し、集中しなければ流せない涙を想像した。塩分の割合を暗算し、喪失の苦い塩味を味わえるようにした。
「さようなら、ヴィヴィアン」と、彼は住処であった無慈悲な穴にそう言った。先ほど感じたことの記憶を、いずれ消え去るだろうと知っていても大事にした。残っていた記憶は、その男の名前と顔と、電気化学的奇跡のきらめく道を交差する献身の象徴である、胸に込み上げてきた感情だけだった。

イッパーウォッシュ州立公園: カナダ オンタリオ州 ラムトン郡
当然それはリスクだったが、ツウィストは葬式に参加した。参加しない十何個もの真っ当な理由があったが、そのどれも本心ではなかったし、自分に嘘を吐くのなら定められた時間を過ぎて生き続けたくはないとずっと前に決めていたから、出席した。ある人物──時期がよければまた話したいと思っていたサイト-43の研究員──だけが彼に気づいた。ツウィストもその若い男をよく知っていて、スカウトの言葉から信用してもいいと知っていたから、いつの日か再び会うことに同意していたのだった。自分の物語を伝えるために。だが今日ではない。今日は、過去を回顧するつもりはなかった。
彼は、グランドベンドのスカウトの質素な家を見て、暗黙の了解を破って玄関扉をノックすべきかどうか、1週間考えていた。そこにエージェントがいて自分を見張っているのか、そしてエージェントはそっとしておこうとしているのか考えた。最終的に、2人の知り合い関係の純度を保ち、共有してきた親密な距離を保つことに決め、自分からそっとすることにしたのだった。
彼は湖の脇にある地面の裂け目の隣に座り、手帳の端からその暗い深さを眺め、物思いした。1匹のキツネが丘の上に登り、人間の知能を持っているかのように、彼のことを見下ろした。彼はこの場所で対処したことを知っていたから、挨拶を口にしようとすると、キツネは周囲の木々へと跳ねていった。
彼はほほ笑んだ。
足元の地面にはこのようなトンネルが張り巡らされていて、全てが接続して湖から湖、湖へと続く地下道のネクサスを成していた。いくつかの道は細くとも果てしなく深い孤立した裂け目に繋がっていて、サイト-43の地下に伸び、そこに死ぬことのない孤独な男が住んでいた。直せないものを直す必要性に、見ることも会うこともできない人々の人生を改善する必要性に駆られた、彼のような男だ。ただ、善行をする衝動と意思だけを彼に残した男だ。
紙にペンを置いて字を書き始めると、彼はいつの日か──今日ではない、いつの日か──あの男と知り合いになり、かつていなくなった、古い、愛していた人たちのことを話そうと心に決めた。
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