鉄と蜥蜴
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金属音が鳴る。

歪曲した鉄骨が軋みを上げ、湾曲した銅線が蛇のようにうねり、屈曲したチタンプレートが研ぎ澄まされていく。着実に周囲から金属を吸収しつつあるSCP-210-JPが、自身の知覚に直結させたカメラに捉える風景の中央には、まさしく異形としか言いようのない何かがそびえ立っている。

最後の脱走から3年目。当時の肉体の94%を失った"それ"は、耐腐食性の板金の容器に塩酸が満たされた檻の中で、長いあいだ沈黙を保っていた。財団はそれをほぼ無力化できたという事実に安堵しながらも、完全に満足してはいなかった。当然のことだろう。その怪物は決して、非科学的で理不尽な性質で物体を破壊するわけでも、生き物の精神を汚染して発狂させるわけでも、世界の理に干渉し現実を改竄するわけでもないが───しかし、どれだけ危険なアノマリーよりも多くの人間を殺害しているのだから。事の発端は、今や3000を超える数の超常的アーティファクトを擁する財団の米国本部が、終了実験に使える手札を切らしたという理由で、世界各国の支部へ怪物の破壊を要請したことだった。

かくして渡海の喧騒に乗じ、財団の収容を出し抜いた狡猾な怪物はまず、酸によって溶解した自らの肉体を再生しにかかった。周囲に散乱していたあらゆる物質──脱走に伴って少なからず発生した犠牲者たちを含む──を食い荒らし、咀嚼し、呑み込んで、己が血肉へと変える。そのような過程を経て、怪物の肉体はゆうに5mを越すまでに成長しており、全身がいびつな形の棘を持つ甲羅に覆われていた。胴体からは上質な丸太を束ねたかのように太い剛腕と、増大した自重を分散するために無数の触手へと分かたれた脚部が伸び、冬の海岸線に打ちつける怒涛が如く波打っている。ひとつひとつが30㎝ほどもあるサバイバルナイフ状の犬歯が生え揃った口腔の上に据えられているのは、千年の憤怒と憎悪を閉じ込めた暗黒の瞳。全身から猛烈な蒸気を噴き出しながら、怪物は依然として脱皮と変形を試み、より巨大かつ凶暴に進化していく。

「何故だ」

唐突に、怪物の口元が蠢いた。熱帯の積乱雲から放出される暴風にも似た大音響が、濃密な殺意を帯びて虚空を震わせる。その声は、動物的な生理機能など存在しないはずのSCP-210-JPでさえ、どこか寒気を感じさせるほどの猛悪極まりない威圧感を孕んでいた。

「お前のような輩を知っている。土塊つちくれ、あるいは青銅、くろがねで出来た人形。遥か天上に座す彼の者らの御使いよ。何ゆえ、我が道程に立ち塞がるか。私のかいなはお前たちを殺すために在るのではない。お前が具えている力とて、私を討つために在るものではないだろう」

その台詞に心当たりのある単語は含まれていなかった。SCP-210-JPが自分の思考回路に残存している全ての永久記録と経験記録を洗い出しても、民俗学の書物か何かにある記述に近いか、という推察しかできなかった。

「あなたの仰る言葉の意味はわかりません」

自身に接続したスピーカーを通して、210-JPは返答した。怪物は少し驚いたとばかりに肩をすくめ、息を上気させる。

「ですが、あなたが非常に危険な存在であり、現在私の後方で撤退を開始している人員にとっての脅威であるということは理解できます。よって、私は可及的速やかにあなたを無力化し、彼らと合流することが最善の行動だと考えます」

「愚かな」

怪物は210-JPの言葉を一蹴した。嘲笑とも憐憫ともつかぬ、その怪物の性格を思えば、不気味なまでに柔和な嘆息だった。昆虫のように節くれ立った無数の副肢がぞわぞわと砂をかき分ける。ゆっくりと、しかし確実に、怪物と金属の距離は縮まっていく。

「酔狂を通り越して滑稽でさえある。もはや地上のどこを探そうと、お前の同胞はらからは鉄杭の一本とて見つけられまい。理解しているのだろう?自分たちは既に敗北しているのだとな」

「あなたは…いったい何をどこまで…」

「屑鉄ごときが侮るなよ。私がどれだけの間、この醜悪な肥溜めの中で、薄汚く臭い生き血を啜ってきたと思うておる。その程度の些事は見慣れておるのでな、おおよそのことは察しがつく…しかし、私が口を挟むことでもないか」

人ならざる形相から冷笑を消し、怪物は再びその虹彩にコールタールじみた漆黒の悪意を滾らせた。常軌を逸した暴力性を秘める眼光が、有効化された即席の戦闘用ボディの各所に焦点を結ぶ度、怪物は全身を脈打たせて痙攣する。神々によって引き起こされた大嵐の暗雲が、裁きの雷を吐き出すべく蠕動しているかのようだった。

「…さて。お前を喰ろうても何の栄誉にもならぬが、邪魔立てするのであれば容赦はせぬぞ。何人たりとも、我が行く手を阻むことは能わんと知れ」

そう吐き捨てると、怪物は雄叫びを轟かせ、その巨躯からはまるで想像できない俊敏さで守護者へと襲い掛かった。分厚い頑強な牙と、数種類の重金属で組み上げられた刃が衝突する。エナメル質が合金を擦る不快な音。すかさず振り下ろされるブレード。強度の差は火を見るよりも明らかで、怪物の歯は口腔ごと斬り砕かれ、完熟したザクロを思わせる亀裂が頭蓋骨に走った。どう見ても致命傷だった。相手が普通のトカゲであったのなら。

怪物の頭部はほとんど真っ二つになり、飛び散った牙と棘の破片が自らの肉体に突き刺さっている。だが、それだけだ。怪物は死なず、その目は未だに激情の焔をたたえていた。あぎとが閉じられんとする。黄土色のよだれと血糊が混じった液体を垂れ流しながら、怪物の上顎と下顎は重工事用の万力を想起させるすさまじい力でSCP-210-JPの胴体を挟み込んだ。それと同時に、8つの指と大剣めいた馬鹿でかい爪を持つ6本の前足が殺到した。

怪物は自慢の再生力に飽かして、折れた爪牙を次から次へと"補充"し、やすりを掛けるように210-JPのボディを切削し始めた。組みついている怪物を振りほどくには、取り込んである石油やガスをエネルギー源とする一般的な──かつての金属生命体にとっては骨董品と呼べるほど旧式の──動力機関ではまるで出力が足りない。

だが、210-JPの対処は、冷静にして即座だった。咄嗟に肩の力を抜き、脚部を駆動させ、半ば背負い上げる形で怪物を"投擲"する。両者の間に蓄積していたエネルギーが一気に開放され、どっしりと膨れ上がった体重に翻弄される形で、怪物の巨躯が猛烈な勢いで射出された。飛翔する牙が、腕が、足が、触手が、甲羅が、棘が、眼球が、高度を失って砂利と擦れ合う度、衝撃と高熱でひしゃげ潰れていく。地鳴りと鮮血の飛沫が織り成す二重奏。やがて怪物は積まれてあった資材の山へと突っ込み、がらがらと崩れ落ちる大質量の下で停止した。

しばし訪れた静寂──30秒にも満たなかったが、相対する210-JPにはまるで永遠に等しく感じられた──を引き裂いたのは、怪物の歯が使い物にならなくなった自身の肉体を咀嚼する音だった。怪物は荒い呼吸を繰り返して莫大な酸素を消費しながら、目に映るもの全てを手当たり次第にはらわたへと詰め込んでいく。

再生する隙を与えてはいけない。そう判断した210-JPは鉄骨で組み上げられた脚部で地面を蹴り、背中に仮設してある虎の子のロケットブースターを始動させた。怪物に対抗するべくかなり大型化していた戦闘用ボディだが、その重量を差し引いても充分な推進力が働き、金属生命体は鋼の隼となって中空を疾駆した。倒すべき敵は目と鼻の先。錬鉄の矛が怪物の心臓を捉える。

しかし、爆発的な加速が乗った一撃は、不死身の爬虫類が突如として"破裂"したことで不発に終わった。怪物の表皮に少なくとも8箇所以上の弁が形成され、大量の血液をウォーターカッターの要領で吹きつけたのだ。210-JPは光学カメラだけでものを見ているわけではないため、目潰しとしての効果は薄かったが、いっとき姿勢を崩すには充分だった。

煩雑な巨体を捨て、俊敏さを感じさせる猟犬のような姿になった怪物が、たたらを踏んだSCP-210-JPを強襲した。体格に比していささか小さいものの、その背には都合2対4枚の翼と思しき部位まで形成されている。怪物は先刻よりも数段素早い動きで210-JPを攻め立て、そこだけは大きくディティールの変わっていない強靭な顎で喰らいついた。ほとんど抵抗する暇もなく、鋳鉄で象られた左腕が引き千切られる。明らかに意志のこもった塩梅で、怪物がニヤリと口角を釣り上げる。

それと同時に、210-JPの右腕から伸びるブレードが、怪物のいくつかある心臓のうち3つを貫いた。軽量化を重視して甲殻が省略された怪物の肉体は、さっきまでの堅牢さが嘘のようにすんなりと刃を通した。怪物がけたたましい咆哮を挙げると、わずかに遅れて、空間が歪んだかのような衝撃波が全周を薙ぎ払った。

痛苦にもがく絶叫。伝わってくる有機的な振動。全てを無視する。慈悲を与える余地は欠片ほどもなかった。210-JPは、半ば恐怖に衝き動かされるような心持ちで、不滅の魔獣を何十個もの破片へと解体した。銀色の尾を引く彗星が幾重にも閃き、そして───

 


 

場所が大規模収容サイトの近隣であったことも手伝い、応援の機動部隊が到着するのにそう時間はかからなかった。かの不死身の爬虫類を一目拝んでやろうと、または金属生命体の安否を確認するために、日本支部の研究員も集まり始めている。

「よくやってくれた、210-JP。外国とつくにには財団の名誉勲章を賜ったDクラス職員が居るらしいが、もしかすると、今度は君がSCiPで初の受賞者になるかも知れないぞ」

「いいえ、私には勿体ないものです、博士。それに…」

「あぁ。切り刻まれたくらいで大人しくなるなら、本部の連中はコイツをKeterになんぞ分類してないさ」

専用のコンテナに収容されたSCP-682の、喉元にある小さな鰓は、弱々しくも未だごぼごぼと囀っていた。傷だらけで血まみれの瞼も、今はきつく閉じられているが、その下に巨大な怒りが燻っていることは想像に難くない。

「…しかし、こう言っちゃ不謹慎だが、個人的には少し残念だな」

「?」

「いや、こんなこともあろうかと、君に操ってもらえそうな装備をいくつか考案してたんだ。合体ロボ作った時にしこたま怒鳴られたせいで、なかなか理事会の承認が下りなくて…ついさっきやっと使用許可を取り付けてきたんだけど、これじゃ後の祭りだ」

「なるほど。ちなみに、どんな装備だったのですか?」

「決まってるだろ」

博士は不敵な笑みを浮かべた。その表情が先刻の怪物に似ていたので、210-JPは反射的に身構えてしまったが、すぐに思い直して次の台詞を待った。

「日本のロボットと言えば───」

後日、日本支部理事"升"が真っ赤な顔でSCP-210-JPの収容サイトにメールを送信したことは、また別の話である。

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