「愛してる」は、またあとで
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「「ねえ」」「アエ」「せんせー」




 
あの子の担当になってから随分と時間が経ったと思う。
彼女はオブジェクトだけど、そこまで凶悪な子じゃないって分かってきた。報告書には彼女が狩人だ、なんて書いてあるけど、そんな凶暴な様子を見せることなんて今まで一度もなかった。
どう見たって優しい一人の女の子よね。
彼女はまだ私に対してどこか一歩下がってる風だけど、いつか分かって貰える日がくるかしら。
 
でも、私は彼女の人生を知らない。どこで生まれ、育って、誰に愛されたのか。
彼女の口からそのことを聞いたことはない。彼女も知らない、いや覚えていないのかもしれない。
私には彼女の苦痛を全てを理解することは出来ない。攫われた時の孤独も、彼女が受けた苦痛も。
でもこれ以上聞くのはきっと彼女には酷でしょうね。
あの時どんな感情で話していたのか分からないけど、辛くないはずがないわ。
 


 
博士は私の事を怖がってはいないみたい。どうして?
博士以外はみんな私の事を醜い化物だ、って言うのに。
私は捕食者で、博士だってその気になれば食べることもできる。そんな事は博士も知ってるはずなのに。
だからと言って博士が優しくしてくれている事実には変わりはないし、もっと博士と仲良くなりたい。

でも、私は私の人生を知らない。どこで生まれ、育って、誰に愛してもらえたのかな。
ちゃんと思い出せない。思い出せたところで何が変わるのかはわからないけど。
私が思い出せるのは、あの閉じ込められていた薄汚く、埃臭くて暗い部屋、大きくて怖い人。
それと、そこであったこと。
あの人が手に取った鈍く光る針。腕に走った激痛。広がった一面の──

痛いっ、頭痛が、する。これから先を拒むように、私の思考を引き裂く鈍痛が。

──1面の赤い水溜り。私の口から流れ出た血の池。
それに伴う異常なまでの空腹。それが同じ「ヒト」であっても、見境なく食事の対象としてしまうほどの。
 
私は私が怖くなった。でもそれをも凌駕する別の感情に押し動かされ、気がつけば人を、人を──
 
もうだめ、耐えられない。痛いっ痛いっ。
脳の中を、刃物と鋭利な棘を持った生き物が蠢くような痛みが駆け巡る。
 
──酷くなる頭痛とともに嗚咽感がこみ上げる。
口から溢れるのは、黒い粘液。どこからどう見ても人が吐くようなものではない。
体を支えようとガラスについた腕の色は緑。ガラスに映った私の顔。
長く光る髪、緑色の肌、口の端から垂れる黒い雫。
 
私は、人間じゃない。
 


 
最近彼女が少し私に心を開いてきてくれた気がする。本当かは分からないけど、私に近づいてきてくれたり、積極的に話そうとしてくれてるように見える。
 
私に娘はいない。だから、これぐらいの子にどう接して良いかも分からない。
でも、助けてあげたい。愛してあげたい。
彼女の口から紡がれる言葉、私を見る目、どれも幼い子供みたい。髪を洗ってもらってる時のあの笑顔だってそう。
今は違う姿を持っているけど昔は、いや今も、れっきとした一人の女の子なんだって。
 


 
ここに連れて来てもらってもうかなりの日がたった。
私が、博士の話をほとんど理解して、こうやって自分の置かれている状況を理解できるようになるぐらいには。
字は、まだちょっと読めないけど。
 
ここではいくつかお願いをして聞き入れてもらったりもした。私の生活環境に会うようにお部屋を整理してもらったりもした。髪だって洗ってもらえる。
でも、結局私は閉じ込めていなきゃいけないものっていう認識だし、そういう扱いだってことも知ってる。
私が危険で、より高い知能を持つのを恐れているのも。
 
でも博士はいつもどおりに私に優しくしてくれる。昨日も、今日も変わらない素敵な笑顔で私と話をしてくれる。
きっと私が知識を持ってることが知られてしまったら、博士には会えなくなる。
私に対して丁寧で、親切で、優しい博士に会えなくなる。
 
この日常が奪われてしまう。
  


 
無機質な廊下を歩きながら考える。
どうしたら良いのか私には分からないけど、彼女に寄り添ってあげたい。
本部の方にも彼女の監視は私一人にしてもらえるようにお願いした。
ワクテルも彼女の過去については知ったはずだし、その辛さを理解していたことも分かる。それでも、許容出来なかったんでしょうね。
彼女はワクテル達から見たら1つのオブジェクト。
その過去が人間であって、さらに凄惨なものなんて思いたくないでしょうし。
彼女を刺激してしまうのも良いことだとは思えない。

これで彼女を愛してあげられるかしら。今以上に彼女を大切にしてあげられるかしら。
でも、行きすぎた感情移入は許されていない。もう十分行きすぎてると思うのに、おかしな話よね。
だから、とても不本意だけど彼女に「愛してる」って言ってあげることはできない。
言ったことと、過度な感情移入がバレたら私はきっと担当を外され、彼女には会えなくなる。
彼女のことを理解する為にも、それだけは避けないと。

私は、何かを本当に成し遂げるためにここにいるのだから。
 


 
優しい博士。私に寄り添ってくれる博士。
「ありがとう」って、「大好き」って言いたい。
「愛してる」って伝えたい。この胸に溢れる想いを言葉に乗せて伝えたい。
でも、言ったらバレてしまう。博士がそんなことするわけないと思うけど、きっと隠し事はできない。あそこにあるカメラだって、映像だけを撮っているとは限らない。
そうなったら、きっと会えなくなる。それは絶対にいや。
 


 
だから、今はまだ言わないでおくの。
私が彼女の魅力を全て理解して、彼女が1人の無垢な女の子だって事を証明するまで。
いつか、ちゃんと伝えられる時が来ると願って。

 


 
だから、大好きな博士には失礼だけど、嘘をつく。
自分に、博士に、そしてみんなに。
 


 
そこまで考え、気持ちを落ち着けドアノブに手をかける。
 


 
「無垢な狩人」の仮面を被る。ガラス越しのドアが開く。
 


 
いつもと変わらない顔が覗く。
 




「「おはよう」」

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