奇想天獄 2021年第10号

表紙写真=喜代村実来
表紙装丁=喜代村実来
特集 スシブレードは実在する?
寿司は本当に回っていた!
お寿司が回転しながらぶつかり合ったら、とても楽しいだろうなぁ。
君も一度はそう思ったことがあるだろう。私たち日本人にとって寿司とは馴染みの深い食べ物だ。コンビニやスーパーから一人前の板前が取り仕切る店まで、様々な場所で様々な寿司が提供されている。今日のイメージではレーンに載って流れてくる回転寿司の印象も強い。日本全国津々浦々、鮮魚がダメでもハンバーグ、菜食主義にはサラダ寿司。客の需要に応え、寿司の領域は範囲を広げている。
そして近年、この種類の増えた寿司を戦わせるスポーツが爆誕した。その名は『スシブレード』。寿司を模した形状の玩具をコップ型と箸型の射出機で飛ばし、回転する玩具同士をぶつけ合う。自機がフィールドの外に出るか、自機が回転の持続力を失い停止すると負けとなる。2000年頃を発祥とするこの競技は当初は児童向け玩具としてスタートしたが、2010年代には世界規模で遊ばれるようになり競技化が進行した。2014年以降はメディア展開のリブートが盛んになり、2018年放送のアニメは社会現象となった。これが現在のスシブレードの地位を確立し、2021年東京五輪で新競技として選ばれるまでに至る。
大人気スポーツ、スシブレード。誰も信じて疑わないこの競技にある事実が隠されていたことに、君はお気づきだろうか。そう、玩具ではない寿司、本物の寿司によって行われるスシブレードが実在するという事実だ。本来、寿司は回転しない。現実で回転しているのはあくまで個人及びメーカーによって製造された可食性のない寿司だ。しかし、もし本物の寿司が回っていたらどうだろう? このスシブレードのムーブメントはこの可能性を覆うために作られたのだと考えられるではないか! 今回、本誌は特別編成でこの可能性について追究する。本誌記者が入手した検証箇所からスシブレード実在の可能性について探り、真相を明らかにしようと思う。
即刻否定されそうだから宣言しておく。それでも寿司は回っているのである。
補足 2018年のスシブレード革命

漫画雑誌コミカライズ版
単行本表紙
2018年放送のアニメについて知らない読者諸氏のため、このアニメについて言及しておく。
タイトルは『爆天ニギリ スシブレード:異聞伝』。2015年から2017年にかけて放送されていた日曜朝の4クールアニメ帯から撤退し、玩具販売目的のホビーアニメとしては異例の深夜枠にて放送された。キャラデザインや作品テーマは従来通りの朝アニメの作風に近いにもかからわず、大人向けとされる時間帯での13話構成。ネットには当時の混乱を伝える書き込みが数多く残されている。
いざ放送されてみると、チープでポップなホビーアニメという前評判を覆す展開が連続した。ライバルキャラの闇落ちと異形化、Cパートで血に染まる兄貴分、ヒロインの洗脳など、ホビーアニメ王道の作劇を活用しながらその過程を鮮烈に描いた。
寿司の声を聞く少年・タカオは複雑な人間関係の糸の中で翻弄されながらも、相棒のサーモン寿司・サルモンとともに困難を打ち破っていく。このとき発生する爽快感。これに子どもだけでなく大人までもが夢中になった。寿司が回転するという珍奇な現象を、気付けば視聴者全員が受け入れていた。最後はすべての文化に通底する伝統とその変化もテーマとして回収した。
ホビーアニメを装いながらもブラックでパンチの効いた、それこそワサビのような薬味を秘めていた『異聞伝』はまさしくシリーズとしてもアニメ界全体として異色作だった。アニメ放送と同時にスタートしたコミカライズ連載ではアニメで拾い切れなかったエピソードが展開されており、『異聞伝』の深みが味わえる。一例として、アニメではカイに敗退し早々に退場した美木というキャラクターの設定が掘り下げられ、その悲劇的な大会参加経緯が語られた。詳細はコミカライズ版第6巻を参照。
現在は『異聞伝』をベースとしたコンテンツ展開が行われている。2021年はスシブレードシリーズ6作目にして『異聞伝』ベースでの3作目、『爆天ニギリ スシブレード:失聞伝』が展開中。
ここからはスシブレード実在の可能性について、ライターの体験談を提示していく。謂わば文化調査の活動報告と言えよう。本誌は追加の情報をいつでも受け付けている。
活動報告.1 築地の少年

少年を目撃した寿司屋
バイトの給料日を迎え、月末のご褒美に江戸前寿司の店に入った日のことだ。私事で申し訳ないが、私(担当ライター)が一番幸福を感じるのは旨いものを食べている瞬間である。自分でも食通を自負しており、渋谷の某ラーメンと新宿の某カレーの次に築地の某寿司屋の出す大トロが何よりの好物だ。
カウンターでいつもの10巻セットを頼んだとき、視界の隅に制服を着た高校生ぐらいの少年が席に座っていた。3000円ほどする夕食だが随分とリッチな高校生だな、と私は玉子寿司を放り込んだ。少年は寿司をいろんな方向から吟味し、香りを嗅ぎ、ゆっくりと食していく。食うがよい、食うがよい。自分が大人なのが生まれて初めて嬉しかった。少年は表情を変えず、淡々と寿司を飲み込んでいった。
私が大トロに差し掛かった頃、少年は席を立つ。金を払うと、レジ付近をうろちょろして誰かの名前を呼んだ。若い板前が一人寄って来て、少年に保冷バッグを手渡す。開いて中身を確認して、会話内容から察するに魚を受け渡しているらしい。少年が板前を慕っているのを見て先輩と後輩みたいな関係かと予想もしたものだ。大トロと微笑ましさが口の中で溶けて舌に染みる。それだけなら、私が気持ち悪い笑顔をするだけで済んだはずだ。
「それじゃまた今度、回しましょう」
回しましょうって言った? 何を? 読者諸氏からすれば何でもない動詞かもしれない。しかし、私はダーク・カルチャー同人雑誌『奇想天獄』の編集部員にしてライターだ。追わなければ奇想の名が死ぬ。泣く泣く大トロの余韻を殺して会計を済ませ、少年の追跡を開始した。
しばらく尾行は続いた。東京は怖い街だ。街灯と電光看板が明るいだけに闇が一層暗く見える。少年は光の下にチラチラと映っては消え、また映っては消える。警察官に出くわしたら一発アウトなだけに緊張感が凄まじい。少年は港の方面に向かっていた。市場があった場所近くの倉庫群まで、少年と私は来ていた。
突然、少年がキッと鋭い視線を飛ばした。私は大急ぎで物陰に隠れた。不良を通り越した高校生反社だった場合、私に命はない。見つからないのが大前提。震えながら数分数秒待つ。片目で表の様子を見る。少年は消えていた。少年がいた地点まで駆け寄っても何も落ちていやしない。
冷静になって、あの目つきの凄味を私は思い返していた。矢みたいな目線だった。だが、頭に浮かべるうちにもっと異様なものを思い出した。私は視力と記憶力だけはいい。ギラついた目から焦点を下げて、下げて、下げて、腰。
箸と、湯呑。制服の上着を掴み上げて覗かせた腰のベルトに専用ホルダーにかかったそれが見えた。スシブレードを発射する装置と同じ。だけども、真顔でさもクイックドロウをするような位置に下げておくものなのか? その日から、私はスシブレードの実在を疑い始めたのだ。
後に知った話だが、少なくとも築地駅を最寄駅とする中学または高校は存在せず、私の見た制服は都内のどの学校とも一致しなかった。では、あの少年はどこの生徒なのだろうか?
活動報告.2 豊洲の怪音と痕跡

豊洲市場
先日の一件から私はスシブレードに関する調査を開始した。私はWifi代を払えないので調査の際はネットカフェを拠点にするのが最も効率がいい。白ブドウジュースとハンターハンターを無限におかわりできるから他のライターにも薦めているのだが、みんなして下唇を噛むタイプの笑いしかしない。
とりあえずダークウェブにアクセスして情報を探ってみる。東京で鮮魚取引の中心となっている築地や豊洲について手当たり次第に漁っていくが、クジラの変死画像がオチの怪談しか出てこない。他にも奇妙な話は山ほど出てくるがノットフォーミーだ。今は寿司の話がしたい。そんななかで唯一、寿司と関係がありそうな話題が匿名掲示板で上がっていた。
「豊洲市場は別名を豊洲死場って書くんだ。流行してるスシブレードの闇試合があそこの地下で行われていて、殺し合いの様相を呈しているんだってさ」
この情報は信憑性が高い。豊洲死場なんて洒落が言いたいなら格闘技でも剣技でももっと殺し合いが似合うものを持ってくればいいところを、ただ鮮魚市場という理由でスシブレードを持ってきている。対象年齢3歳以上の玩具は誤飲以外で人を殺せないはずだ。私はこの情報を頼りに、営業が完全終了した後の豊洲市場へと向かった。
20時。市場は2時から始まると漫画で読んだので、6時間前ぐらいなら人はいないだろうと踏んで豊洲を訪問した。朝が早ければ早いほど人が捌けるのも早くなる。翌日もバイトを控える私にとってこれは有難い。現地の看板での開場時間は朝5時だったが、まぁこの辺りは何でもいい。
塀を乗り越え、事前にチェックした監視カメラを躱しながら水産卸売場棟へ。ダンボールと発砲スチロールが積み重なった塔が高い天井へと伸びていて、閑散とした空間でリズムを生み出していた。人気は全くと言っていいほどない。壁を叩いても硬い質感が返ってくるばかり。1時間ほど探索してしても成果がないので立ち去ろうとしたときだった。
シャーッ。キィィィィィン。
ローラーの滑るような音と金属の摩耗音。それが同時に聞こえた。靴の裏に伝わった振動から音が地下から発せられていると知る。どこだ。どこで響いている。床に手をついて微弱な振動を頼りに音を追いかける。冷えたコンクリートが私の体温を下げていく。ひたひたと這ううちに、卸売場を支える巨大な柱の一本にぶち当たった。ここが近い。近いが、柱に隙間は見られない。この柱がエレベーターになって地下施設に降りられる構造なのだろう。ただ、私にはその資格がないらしい。
感情の高ぶりから床を殴った。滅茶苦茶な痛みが全身を駆け巡る。悶えて床を転がると、周辺に赤い点と線が散らばっているのが分かった。ライトで照らしても点は赤黒い。赤は柱で不自然に途切れていて、この柱に先があることを私に確信させた。だが、それ以上の興奮をこの赤は与えてくれた。
鼻腔を刺すような臭いがした。若干だが、直視していると目に痛みも覚える。私は震える指先で赤に触れ、結晶化した赤を削り取る。意を決して、迷わず口に運んだ。
辛い。血痕、否、チリソース。
どうして鮮魚卸売場にチリソースが散乱していたのか? この謎は私を3日ほど悩ませた。そうして『異聞伝』を見返すうちに理解した。伝統に反する調理によって生まれた寿司の集団、闇寿司。アニメでの敵組織だ。スシブレードが実在するだけでなく、彼らもまた実在するのではないか。そして闇の実在は光と闇の争いをも彷彿とさせる。隠匿されてきたスシブレードの世界。それはアニメによって描かれた物語と変わらないのかもしれない。そうなればこのようにも考えられる。
熱き主人公たるタカオと相棒のサルモンすらも実在の人物として存在するのだと。
実録 私は寿司が回転するのを見た!
活動報告ではその実在を認めない読者もいることだろう。だが、本誌のライターは実際に回転する寿司に遭遇したという。豊洲での調査を終えた後、そのライターは引き続き周辺の寿司屋での調査を進めていた。寿司屋はいずれも寿司の回転を否定し、疲労を足に抱えて帰路に着いた。ちょうど、海辺が近かった。
物音。豊洲で聞いたシャーッと、キィィィィィンが。即座にライターは走り出した。
予感がしていた。ヒーローが現れるような、芝居みたいな事件の予感。
音を頼りに、私は何かの工場内部へと忍び込んだ。水産物加工の施設らしく私の周りには磯が漂っていた。照明の落ちた工場内をすり足で移動していると、一点だけスポットライトに照らされた箇所が目に入る。手術台のような椅子を囲み、2人の男が何かを話していた。
「できた、できたぞォ! 禁忌のスシブレードがァ!」
「闇にすら恐れられたこの寿司なら、回らない寿司が支配するこの世界だって変えられらァ!」
手術台の真ん中には銀色の皿が置かれている。その上は反射光で見られず、何が載っているかは分からなかった。男のうち1人が箱型のリュックサックを開き、皿をそのままリュックへ入れる。リュックには流行りの出前サービスのロゴが書かれていた。身分を偽装して東京の夜に消えるつもりなのだろうか。
闇。言葉が私の頭に引っかかる。アニメ『異聞伝』のボス、闇親方を指しているのか。だとすれば、やはり闇寿司も存在するのか。その思考に割り込むように、工場内に声が渡った。
「それはそれは、ご苦労様でした」
女性の声だった。冷える空気に似合った抑揚のない静かな声。
彼女は男たちの前に姿を晒す。黒一面のキャンバスから飛び出したような人だ。乱れなくスーツを着て、目をサングラスで隠している。右手に握ったアタッシュケースが異様に白く見えた。
「テメェ! 何者だ!」
「申し訳ないですが、あなたたちに教える義理はありません」
「その黒づくめの格好……お前、財団だな?」
「だったらどうします?」
「舐めんじゃねェ! へいらっしゃい!」
財団。タカオに協力する秘密組織の名前。それに驚いている時間はなかった。男の1人が手許から何かを発射する。手にはステンレスの箸とグラス。やはり、やはりそうだった。
スシブレードは実在した。しかし、撃ち出されたのは明らかに寿司ではなかった。
「焼き殺せェ! 『テスラコイル巻き』ィ!」
「掠っただけでも感電死だァ! 避けられるとも思えねぇがなァ!」
シャリらしき米の塊には銅線が巻き付けられていた。電池も取り付けられていて、そこから流れる電流が増幅されたのか両端から白い光の線が弾けている。あれが本当にテスラコイルと同様の効果を持ち高電圧を発生させるのであれば相当に危険な代物だ。そのテスラコイルは今、空中で速度を上げながら女性へと接近している。
危ない。叫びそうになる。私は声を押し殺した。そんな私とは裏腹に、彼女は表情一つ変えていなかった。
「理科の実験でもしているつもりですか?」
彼女の顔の目の前でテスラコイルが弾かれる。私ははっとして彼女のアタッシュケースを見た。蓋が開いている。
男たちは何が彼女を守ったのかに気付いていないらしい。スポットライトがあるとはいえ工場の中は薄暗い。宙を舞ったテスラコイルは着地し、未だに回転を続けている。
「言っとくがなァ、コイツは接触する度に確実にダメージを与える! お前がテスラコイルを止めねェ限り、お前は常に死の危険が伴う! ま、触れれば感電すんだけどなァ!」
男は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。電流を纏うテスラコイルであれば、相手はどうあってもダメージを覚悟しなくてはならないわけだ。自分でも理解できているのが怖かった。
が、彼女はその理屈を一笑に伏した。
「くだらない」
「……ハァ!?」
「テスラコイルを当てれば相手を感電させられる? 防いでも電気を纏っているから防いだ物体に持続的なダメージ? だから私の状況が詰み?」
ギュルンと音を立て、再度彼女にテスラコイルが迫る。
「小学生が考えたみたいで、くだらない」
またしても彼女の顔の前でテスラコイルが弾かれた。今度は真横からぶつかられ、テスラコイルは大きくバランスを崩す。フラフラと回り、回転ははっきりと弱くなっている。男たちは動揺を露わにしていた。
テスラコイルが破られかけたからではない。脅威が、眼前に顕現したためである。
「オイオイオイオイ、何なんだよそれ……!」
「もう寿司でも何でもねェだろ!」
鉄鍋。
読んで字の如く、鉄の鍋。半球型の鍋に持ち手と蓋が付いた、卓上でつつくタイプの鍋。蓋はガードでしっかり固定され、どんなに回転しても外れなさそうだ。シャリも海苔もどこにもない。容器の中身が戦っているわけでもない。近い寿司があるとするなら、アニメで闇が使っていたラーメンか。
電撃を無効化していたのも納得できる。金属に効きようがない。鉄鍋は回転を続け、弱り切ったテスラコイルへと肉薄する。重圧に勝てないと悟ったのか、テスラコイルは鉄鍋を撒くような回転を始めた。機動力で上回るテスラコイルは鉄鍋の圧殺攻撃を何度も躱す。だが、どのみち時間の問題だ。
「お前! 早くリュック背負ってバイクで逃げろ! 俺が時間を稼ぐ!」
「けど、お前──」
「俺とお前でマンネリの世の中壊すって決めたンだろが!」
その一言が決め手となって、男はがむしゃらに走り出した。男は遠退いていく。迷い迷って、私は逃げる男を追うことにした。彼らの事情は分からない。闇を粗雑に呼んだからには闇寿司の一味でもないのだろう。それでも、何か思うところがあってこの行動を取ったはずだ。あのアニメに出てきたキャラクターはみんなそうだった。
音を立てないように駆け出した。しばらくして、男の悲鳴が後方から聞こえたのだった。
テスラコイルの男と別れたもう一人は工場の出口付近まで辿り着いていた。停めたバイクに跨りエンジンをかけようとするが一向に稼働しない。
「車体が凹まされている……」
「誰がやったか教えようか?」
上から聞こえてきた男の声はあの女性と同じように冷めていた。見上げると、中空に渡されたパイプに誰かが立っている。彼はふらりと片足を遊ばせ、そのまま落下した。頭から落ちていることは意に介さず、彼は手を構えて呟く。
「3、2、1、へいらっしゃい」
熱のない声の後、手許から橙色の物体が撃ち出された。高速回転する物体はリュックを背負った男を狙撃せんと迫る。男は飛び退き、辛うじて回避する。その背後で凹みのあるバイクが直撃を食らい、鉄の塊には完全な穴が空いた。
落ちてきた男は身を捩らせ、両足から着地する。オレンジのジャンプスーツに白のスニーカー。工場の出口から差し込む電灯の光が彼の姿を照らす。体格的に高校生くらいだった。夜の冷えた空気の中、息を吐く。歯の隙間から漏れる音が反響していた。
バイクを砕いた物体が地面を滑ってジャンプスーツの男へと戻っていく。高速回転する橙が跳ね、彼の右手に収まる。回転が止まったことで撃ち出された物体の正確な形が分かった。
「お前、タカオか?」
「だったらどうする?」
サーモン寿司だった。瑞々しいオレンジと脂の線。他の魚介寿司より長く切られた切り身が堂々とシャリに載っている。しっかりと手で包まれたその寿司は、微妙なバランスを崩さず淡麗なフォルムを保っていた。
私は呆気に取られていた。タカオとサルモン。架空の存在とされた2人が立っている。私が愛した2人が、そこにいる。ただしかし、素直には喜べなかった。
タカオと呼ばれた彼の目は冷めきっていた。何の情も覚えないような冷淡な顔で相手を睨んでいる。アニメで纏っていた熱気はどこにもない。敵の抱える悩みにも一緒に立ち向かう真摯さを、どこかに置き忘れて来たかのようだった。彼らはタカオとサルモンじゃない。直感的にそう思った。
だったらどうする、そう返されたリュックの男は尻餅をついた。表情は歪み、口許を引き攣らせていた。
「俺みたいな木っ端ブレーダーが、お前みたいな伝説に勝てるわけがねェよ」
その姿勢のまま再び工場の奥へ後退しようとしたとき、彼の背後から音が鳴る。金属とコンクリートが擦れる鈍い音。男は音のした方を見た。テスラコイルとやり合っていたスーツの女が、回転する鉄鍋を携えて歩いてくる。鉄鍋にはチリソースのような赤が付着していた。
ハッと短い声を吐いて、男はリュックサックを下ろした。抱くようにそれを持ち、チャックに手をかける。男は一気にチャックを開き、片腕を突っ込んだ。
「でもな、俺たちがマジだった時間を無駄にはしたくねェんだ」
息を飲んだ。鉄鍋スーツの女性も警戒して引き下がる。タカオと呼ばれた男は微動だにせず、リュック男の手に握られたそれを見つめていた。
表面にノイズが走っていた。ブラウン管テレビの砂嵐に似た模様が現れては消える。ランダムな点滅を経て具材が切り替わる。マグロ、アボガド、サーモン、照り焼きチキン、穴子、キャベツ、玉子、トマト……複数の具材が載った寿司、そのネタが何度も入れ替わっていく。
寿司でありながら寿司でない。寿司という料理のバグ。これがもし、言葉で言い表せるとするなら。
「虚重うつろのかさね」
取り出した直後、男の周辺が歪みんだ。不安定な空間で虚重うつろのかさねは回転する。右でも左でもなく、乱雑な方向に。何度も回転方向を切り換え、無重力下のように捻じれ回る。
次第に虚重うつろのかさねを中心に突風が起こった。歪みの作用だろうか。鉄鍋と女性は巻き込まれないように踏ん張ることしかできない。私もその裏に身を隠している機械を必死に掴んだが、少しでも気を抜くと吸い込まれてしまいそうだ。正面から相対するタカオだけは、風など吹いていないかのように堂々と立っていた。
なァ、タカオ。虚重うつろのかさねを握る男は呼びかけた。
「お前にはこいつの声も聞けるのか?」
タカオは反応しない。虚重うつろのかさねを持つ男の腕にひび割れが生じ始めた。震える腕を別の腕で押さえつけ、男は叫ぶ。
「この世じゃ寿司か寿司じゃないかの線引きが何よりも大事だ。曖昧な領域は存在すら許されない。だけどもどうだい、こいつは今まさに存在しちまってる! 寿司であって寿司でなく、寿司でないと同時に寿司。伝統寿司としちゃ先進的な具材を使っただけで闇寿司だと判定されんだろ? 俺たちは両の状態を凝集して、1つにしたんだ」
どういった仕組みでこの現象が起きているかは推し量れない。きっと、最早それはどうでもいいのだろう。虚重うつろのかさねの実在以上に重大な事実はないのだ。……おそらくは。
「正道と邪道。肯定される寿司と否定される寿司。その2つを同化させたた。前提になっていた寿司対立の崩壊だよ。こいつでさ、俺達は今までのスシブレードをぶっ潰すんだよォ! まずはテメェからだ、タカオ!」
3、2、1、へいらっしゃい。
腰元のホルダーから箸とグラスを取って素早く撃つ。ぐわん。大気が乱れるような聞いたことのない音がして、虚重うつろのかさねがタカオに向けて放たれる。空中で虚重うつろのかさねの具材が何度も切り替わる。その度に右回転の左回転も切り替わり、虚重うつろのかさねは予測のできないジャイロ回転を纏う。
タカオは何もしない。サーモン寿司を握ったまま。その間にも虚重うつろのかさねは彼に肉薄する。薄く開いた目で迫り来る虚重うつろのかさねを視界に捉えながら、タカオは尋ねた。
「教えてくれ」
「……あァ?」
「お前のその理屈に何の意味がある?」
サーモン寿司をノールック、ノーへいらっしゃいで射出する。サーモンは床で暴れ、うねりを伴って角度を変える。射出へいらっしゃい時の手首の角度を状況に最適なものに計算したのかもしれない。アニメでそういう技を見た気がする。
サーモンが跳ね上がった。狂った回転をする虚重うつろのかさねの具材が邪道寿司に揃う。左回転。サーモンはそこに畳み掛けるように、真下から虚重うつろのかさねを殴り抜く。サーモン側の速度は受け流されず、威力のすべてを乗せたサーモンが虚重うつろのかさねにクリーンヒットした。
予想外の方向からの攻撃に虚重うつろのかさねが勢いを失う。勝負は決まったか。しかし、サーモンの猛追は終わらない。
空中で、サーモンは方向転換する。かかった回転が寿司をそうさせる。真下に落ちながら速度を増したサーモンがきりもみ回転する虚重うつろのかさねに衝突する。虚重うつろのかさねは地面へと叩きつけられた。
「う……虚重うつろのかさねが……!」
「聞いてるんだ。寿司の両の状態を凝集したから何だ? 今のスシブレードを潰すから何だ?」
「やっ……やめてくれ……!」
叩きつけられてもなお、虚重うつろのかさねは回転を持続している。具材の切り替えで回転が自動発生する仕様なのだろう。それでも回転自体は弱々しい。
サーモンの連撃が続く。執拗に、執拗に。猛回転しては息も絶え絶えの虚重うつろのかさねに衝突する。陰湿さは覚えなかった。ただ、相手を許さないという容赦のなさが回転に籠っていた。
「お前は間違えた。致命的に間違えた。お前の理屈はお前の寿司を勝利させるのに何も寄与していない」
「頼む……! 頼むから虚重うつろのかさねを壊さないでくれ……!」
「お前のそれが寿司じゃないなら勝負にならない。お前のそれが寿司だと言うなら──」
キィィィィィィン……スピンによって生じる音が工場に轟く。大きなカーブを描いてサーモンは加速する。また、寿司は飛び上がった。宙を切り、斜め方向に割り入って。切り身が光を返す。何かに弾かれたかのように、空から一直線に相手へと接近する。
「俺には勝てない」
衝撃。衝突を受けた虚重うつろのかさねはリュックの男の方へと吹き飛ばされた。弾丸みたく飛んだ虚重うつろのかさねと重なるようにして、男も巻き込まれる。設置された機械何台かを薙ぎ倒し、巨大なタンクにぶつかってようやく速度は殺された。凹みにもたれ、数秒して崩れ落ちる。変形した虚重うつろのかさねと気絶した男がそこに残った。
壊れた機械群を踏みつけながら、サーモンをキャッチしたタカオが男の下へと向かう。位置的に表情は見えない。片や、スーツの女性は無線機を手に取った。どこかへと連絡を入れているらしい。そろそろ私も逃げなければお縄になってしまう。凄まじいものを見たというざわめきと興奮、それ以外の微妙な感情を胸に抱え、機械の隙間から別方面の出口へと向かう。
その途中で、タカオの話す声を聞いた。
「良かったな、お前はまだ夢を見れて」
それ以外の微妙な感情、と押し込めていた煩雑な思いが膨張していく。
取材を経て……
ライターは言う。あのとき出会った彼らはタカオとサルモンではない、と。もちろん彼らがアニメのキャラクターなのは理解しているつもりだ。ただ、モデルとなっているにしては性格が剥離し過ぎている。
タカオは人を許す人物だ。どんな巨悪が相手でも何が間違っているかを見抜き、解決に向けてともに歩もうとする。立ち向かって、打ち砕いて、許す。彼の根底にはそれが横たわっていた。
あの工場で出会ったタカオは何もかもが異なっている。間違いを指摘して、その間違いを許さなかった。勝利に固執しているわけでもなく、ただただ許さなかった。その点ではライバルのカイや闇寿司ともまた違った方向に捻じれている。だから、私も彼がタカオと呼ばれたことは忘れようと思う。
今回のサブタイトルにクエスチョンマークが付いているのに気が付いた読者はいるだろうか。実在を信じているなら、ばん!とエクステンションマークを末尾に付ければいいのに。信じたくないのだ。編集担当のライター自身が。理想とは違った現実が存在してしまうことに。
しかし。私は彼……タカオが心配でならない。最後に言った言葉が忘れられない。
「良かったな、お前はまだ夢を見れて」
彼は夢に破れたのか? あるいは夢の果てを見てしまったのか? もし身勝手な祈りが許されるなら、私はこう祈る。
どうか、彼がまた夢を見られますように。
写真=喜代村実来
取材・文=喜代村実来
ホビーアニメは現実じゃない
「これで良かったんですか、アヤさん」
廃材と化した鉄塊の上で、タカオは空間の隅に立つ女性に視線を投げた。やけに気温の低い夜だ。ジャンプスーツのポケットに手を突っ込み、暖めようとした。腰元のホルダーにサルモンが収まっているのを感じる。呼びかけられたアヤは視線を返す。一瞥、そう表せる程度に。折り畳み式の小型端末に現状の捜査情報を打ち込む作業をしたまま応答する。
「はい。すべて指揮通りです」
「本当ですか? 俺は意図が読めませんけど」
会話の最中も工事音は絶えない。外では妙な男たちを撃破したこの工場を囲むように防音幕の設置が行われている。被害規模に合わせたカバーストーリーの策定は戦闘終了後に即完了、相変わらず財団は行動が早い。思いながら、タカオはジッパーを上まで閉めたジャンプスーツの襟に口を埋めた。誇らしいような、呆れのような。混じっていく感情を振り払おうと、今回の作戦を回想する。
東京都港区周辺の工場にて、協定組織に属さない集団による超常物品開発が行われている。完成品の奪取のため、監視の上で襲撃する。実行は名うてのスシブレーダーであり財団Dクラス職員のタカオ、そして財団フィールドエージェントのアヤ。そこまではいい。相手が何であれ敗北はないので作戦に狂いはない。引っかかる点は1つ。
「あの部外者、何で逃がしたんですか」
自分たちと敵との戦いを常に見ていた人間がいた。スシブレーダーではなかった。奴は決着がつくや否や逃走した。本来の財団なら許容しない、招かれざる客。捕縛して記憶処理でもするのが通例だ。けれど、今回は認識していながら逃げるのを許した。その理由が分からない。
アヤのタイプ音が止まる。外したサングラスを胸ポケットに入れて、タカオを振り返らずに彼女は話した。
「アニメの宣伝です」
はぁ、と口を開けて硬直したタカオを無視し、アヤは「聞いてませんでした?」と続ける。
「来年の4月からアニメをやるんです。スシブレード新シリーズ。テーマは原点回帰と成長」
「あのカバーストーリー目的のアニメが? オイ、それの主人公ってもしかして」
「そうです。『異聞伝』から4年経って高校生になった『タカオ』です」
タカオはへなぁと倒れるように座り込んだ。重く傾く頭を腕で支える。それくらいの脱力感が襲いかかってきた。気付いていないのか、アヤは一定の声色のまま言葉を継ぐ。
「スシブレードも調査が進むうちに様々な発見がありましたからね。毎年のように虚構性を高めねばならない事象が出てきます。スシアカデミアにしても、豊洲死場にしても。設定をどう構築するかを考えたとき、『異聞伝』のキャラクターを用いて更なる暗部を掘る方向性が効果があるそうです」
「だからって、完全な部外者に現場見られて平気なんですか」
「あれは我々が招いた客です」
アヤは懐から冊子を取り出し、タカオへと放り投げた。冊子に書かれた『奇想天獄』と『スシブレードは実在する!』の文字がやけに目立つ。この雑誌のタイトルと今号の特集か。無知なくせに断定するようなエクステンションマークに若干の苛立ちを覚える。
「最近、スシブレード界隈周辺から通報がありました。スシブレードの実在性を嗅ぎ回っている同人雑誌があるのだと。これは我々のプロトコルに利用できます。きっとあの者も帰宅後に記事を仕上げるでしょう」
「こんなの、すぐにでも取り潰さなきゃマズいんじゃないんですか」
「内容を読みましたか?」
ページを捲る。あっ、と声を零した。
目に入ったのはまず2つ。それだけで十分だった。1つは築地周辺に湯呑と箸を携えた高校生が現れたという話題、もう1つは豊洲市場の柱に途切れるようなチリソースの跡があったという話題。正直これだけでは眉唾物と言い切れる内容だが、タカオにはどういった意味を持つか判断できた。
「これ、ほとんどフェイクだ」
築地には、そこに接続点の1つを持つスシアカデミアというスシブレーダーの育成学校がある。それは違わないが、基本的に全寮制だ。学生だけで、それも制服を着ての1人での外出は許可されない。どんな方面から誘拐などの被害に遭うか予測できないからだ。安易にOBに食材を提供してもらい、挙句に「回しましょう」と口走るかどうかも怪しい。
次に豊洲のチリソース。確かにあそこの地下には隠匿された闘技場が存在する。が、そんな施設は財団も常日頃から監視している。脅威に繋がりかねない人物や寿司の情報を掴むためだ。その情報は勤務するタカオにも流れてくる。豊洲死場でチリソースを使ったオーガニック寿司の情報は、今のところ確認されていない。
「場所の一致から、噂話などの調査は徹底していると考えられます。しかし、確証に至る情報が得られなかった。そこで、この文章を書いた人物はスシブレードの実在の線を強く持たせようと尤もらしい虚偽を書いた」
「なんでそんな、何の得にもならないことを……」
「イカれたスシブレード好きだからじゃないですか?」
記事の著者や撮影担当の名前、見ました? 立て続けにアヤは言った。慌てて確かめる。発行前の印刷だからかところどころに抜けはあるものの、書かれている名前はすべて同じだ。
「調査のため、それの家に侵入したことがあるんです。ワンルームのアパートがグッズでいっぱいでしたよ。誰のって、そりゃ」
「みなまで言うな」
「残念」
足の踏み場もなかったんですよ。嫌がらせめいた一言を付け足して、アヤはその話題を終えた。
「とにかく、あなたの言う部外者については我々が呼んだんです。わざわざ思考誘導ミームまで使って。心配しなくても結構です。他に何か質問は」
「あー……はい。ありますよ」
タカオが片手を挙げる。気怠そうに、空いた片手で頭を掻いた。
「じゃあなんで、そこまでして招き入れた?」
「大衆を騙すためです」
人を騙すのって難しいんですよ。アヤは他人事みたく呟き、タカオへと向き直る。
「我々がカバーストーリーの構築のため大がかりなシステムを作っているのは知っていますよね。何百人と人を動かして、何億円も金を動かす。寿司が回る現象を隠すために、派手なメディアプロジェクトまで本当に創り上げる。何故か分かりますか?」
「下手にチープにすると意味がないから、でしょ」
「そうです。そのために、我々は本気で嘘を吐く。使えるものは何でも使う。ただし、条件があります」
人を寄せ付けない針に似た雰囲気。威圧感を覚えながらもタカオはアヤに相槌を打ち、先を促した。
「嘘を吐くことが目的であれ、出力されるものは本物でなければならない。でなければ、人は騙せない」
嘘を信じさせるには真実を混ぜるといい。有名で危険な話。混ぜられている真実が核心を貫いているほど、真実を取り巻く嘘は効力を増す。
「あの雑誌に籠っていた熱量は紛れもなく本物でした。だから、後は一手間。本物を見せて、そこに嘘をパッケージする」
「分かりやすく言ってくださいよ」
「雑誌『奇想天獄』はスシブレード新番組のタイアップを受けたのだと、そういう体裁を取らせます。実録レポでも書いたところでライターを回収し、タイアップを受けたというように記憶を改変します。内容も微妙に弄りつつ。嘘の上に書かれた本物は嘘になって、みんなして嘘として面白がる。本物なのにね」
「そこまでやらなきゃダメですか」
「えぇ。どうもプロトコル班としてはもう一度、社会現象クラスの改変を望んでいるようですから。経済方面からの支援も行いますが、こういうのはあり得ない場所からの広報が作用するそうですので」
私だって納得はしていませんよ。投げやりに言い、アヤは腕時計を見た。顎で工場の出口を示してから自分がその方向へ先に歩き出した。
「撤収の時間です。行きますよ、D-1028」
アルファベットと数字の羅列。自分の別名。呼ばれてタカオは立ち上がったが、地面に釘留めされたかのように動かない。不審に思ったアヤがタカオを振り返る。
「まだ、何か」
「すみません。質問、もう1つ」
指を立て、顔を傾ける。質問があると打ち出してから、長い間が入る。唇だけがもぞもぞ動いて、肝心の言葉が出てこない。アヤの視線が鋭くなる。タカオは唾を飲み込んだ。粘着性のある液体が喉を流れていく。落ちていくまでの時間が永遠に続いてほしいと思った。そうすれば何も言わなくていい。
「俺がスシブレードやめることって、できますか」
身震いが顔の肌を伝う。はぁ、と大きく息を吐いた。荒れる心を表に出さないようにするのも限界が近かった。口で息をして、直視するアヤの鋭利な目を受け止める。彼女は声色を変えず、タカオに尋ねた。
「何故ですか?」
「いやいや、深い意味はないですって。なんか、なんかですよ。嫌になっちゃって」
軽薄なフリをする。足元に転がっていた小さな礫を踏み潰して、そこへと視線を落とす。これ以上彼女と目を合わせているのは耐えられないと思った。足程度の重みじゃ砕けない石を何度も靴の裏でなじり続ける。
「俺に挑んでくる連中はみんなして何か抱えてる。今日の奴らだって、正道と邪道の対立を壊すとか意味不明な理屈捏ねてたじゃないですか」
自分の声がトリガーになってフラッシュバックが起こる。相棒とともに造り上げた力作を掲げ、打ち破ると宣言したリュックサックの男。腕が犠牲になってもお構いなし。描いた未来と比べれば安いと算盤を弾いたのだろう。自分を倒して物語の続きを歩めるなら……つまり、奴は自分に価値を見出していた。
伝説。奴が得物を取り出す前に発した単語を反芻する。馬鹿らしくなって、ふっと笑いが零れた。
「なんでかな、俺はいつの間にか伝説になってるんですね。本当にアニメの主人公みたいで。『異聞伝』の『タカオ』も凄いですよ。あいつの熱気にやられてみんな笑顔になっていく」
繰り返し視聴した。昔は興奮した。財団のカバーストーリー。その名目で、自分のしてきた冒険がアニメになった。容姿は当然別人だが人物の名前は据え置き。浜倉さん曰く、頻繁に活動する自分やカイ、他のスシブレーダーや事件の名前がどこかから漏れ出たとき、うっかり聞いた一般人にアニメの存在と混同させる目的があるらしい。その事情とは関係なく、嬉しかった。あの闘いの日々が画面の中で再生されているみたいだった。
「だから嫌いなんです、あのアニメ」
昔は何も知らなかった。無邪気な子どもでいられる時間はもう終わり。胸の中心から染み出した感情のうねりが手を震えさせる。震えを止めようと力を籠めた。掴んでいた雑誌にシワが生まれた。
「だって、俺はそうじゃない。そうじゃないんですよ。この本のライターも、知ったら傷つくでしょうね」
「D-1028」
アヤが呼び止めた。正しくは、名前を呼んだだけ。タカオが呼び止めたと解釈したのは、アヤの声が道の真ん中に石を置くように唐突だったのと、これ以上このことに言及するのが自傷行為になると自分でも理解しているからだろう。
タカオ自身は微塵も止まるつもりはなかった。
「現実のタカオが、母親と妹を殺した殺人鬼だなんて」
すかさずアヤが割り込む。庇うような早口でなく、あくまで訂正するような口調で。
「その件については、あなたには責任能力がなかったと証明されています。あれは──」
「臼倉膳座の洗脳だからなんだって言うんですか」
伝統寿司を統括する人物、臼倉膳座。回らない寿司協会の会長である臼倉は自分の意向に沿わない寿司を迫害し、寿司の領域から追放した。自身が追放した寿司職人の息子に寿司の声を聞ける人物がいると知ると、自身が持つ寿司領域の改変能力を利用してタカオを支配下に置いた。スシブレーダーは自分が寿司と見なす存在を寿司として使役できる。臼倉はタカオを寿司と見なし、タカオを操作していた。
「臼倉膳座の介入については我々財団にも責任があります。あなたをDクラス職員にした時点で気付くべきでした」
「黙ってくださいよ。俺は母親と妹を殺した。俺が殺したんです。それは変わらないでしょう」
臼倉が操作していたのは財団や国家制度も同様だ。タカオに死刑が適用され、Dクラス職員として雇用されるに至ったのはすべて臼倉による操作があったからだ。しかし、殺人を犯したのがタカオであるのもまた事実だった。
雑誌を握り締めるタカオの手にあの日の感覚が蘇る。血は人肌と温度差がさほどなく、浴びると異物感が体表を滑り落ちていく感覚だけが残る。あの異物感を手の甲に感じる。そんなわけないのに、手首を回して手の内側を見ようとした。何気なく手を開いて、掴んでいた雑誌が地面に落ちる。カラン。雑誌ではない、硬い物体とフローリングがぶつかる音。手から落下したものを凝視する。
包丁。ついさっきまで掴んでいたらしい。開いた手では、手の甲から流れてきた血液が線になって流れていく。異物感に手が覆われている。足元が覚束ない。ぐらぐらと頭が揺れる。視界をどうにか固定しようとしてあらゆる方向に目をやった。暗い室内が反映され、視線は最後に床で留まる。
幼い身体が倒れている。真新しい制服は一面赤に染まって、血だまりが身体の下に生じていた。服には深い刺し傷が、目で見える範囲でもいくつも入っている。
ニカ。名前を呼んでも起き上がらない。近くで母さんも死んでいる。助けてくれ。これがなかったことになるなら、どんな罰でも受けるから。視界が暗転する。立っているのは瓦礫の山、金属のランダムタイル。変えられるはずがなかった。
アヤが様子を伺って、僅かに近づいてきていた。タカオは絶叫し、アヤの接近を拒んだ。
「ニカはまだ13歳だった! 俺はそれも忘れて、楽しく寿司を回してた!」
自暴自棄になっている自分が情けなくて笑いが起こる。臼倉膳座と対面して真相を打ち明けられ、すべての記憶は戻った。1年以上が経つ。何度もこうして自傷に走っては、何も変えられずに疲れ果てて倒れる。成長もなく繰り返している。
叫び過ぎて声が枯れそうになり、呼吸をすると肩まで動いた。アヤは表情を変えない。変えないが、暴れるタカオを捕縛するような挙動も取らない。ゆっくりと呼吸をして、タカオは地面に崩れる。接地している膝から伝わってくる地面の冷気が気持ち良く感じられた。
「家族に手をかけた以上に重大なことって何かありますか。俺には思いつきません。だから全部、俺からすり抜けていくんです。寿司のことも、寿司以外のことも」
「あなたの行動で様々なものが守れたはずです。臼倉膳座の影響であなたは自由な行動が可能になり、財団の組織体系を超越して数々の事件が防がれた」
「でも大事なものは何も守れなかった!」
タカオにスシブレードを教えた勝親方。出会った数日後に対立する闇寿司勢力により病院送りにされた。そこからタカオが闇寿司を追う日々が始まり、闇寿司のとある幹部と出会う。打ち破ったその人はタカオの実父。物心つく前にいなくなった父親だった。打ち破った傷の影響で、父は程なくして帰らぬ人となった。
それでも、突き進んできた。敵を破っていけばいつかは誰も悲しまず、寿司を回して楽しめる日々が来ると。間違っているのは人ではなくその行動で、許してやることはできるのだと。辛くとも最後に笑うために進むべきだと思っていた。
現実はそうじゃなかった。自分は純真なホビーアニメの主人公じゃない。罰も受けずに正義を説いていた、ただの傀儡人形だ。今更、どんな顔をして歩けばいいのか分からない。なのに、なのに。
「もう辛いんですよ。俺に挑んでくる奴は消えない。どんなに邪でも、自分なりの夢を抱えて寿司を飛ばしてくる。みんな俺に夢を見てる。俺を夢への障害だと思って壊そうとする。夢を持った奴らが、何度も何度も目の前に現れる……!」
スシブレーダーたちは憧れを抱いている。伝統派も闇派も関係なく、自分に取り入り、または打ち倒して自身の目標や尊厳の保持を達成しようとする、自分がそんな人間じゃないのは自分が一番理解していた。あのキラキラした綺麗な目に自分が映る度に自分を殺したくなる。強くなりたい、権力を持ちたい、世界を変えたい、何でもいい。高みに挑もうとする挑戦心を向けられる回数が増えるにつれ、タカオの心は死んでいった。
あれは昔のタカオだ。何も知らなかった楽しい日々のタカオだ。今は消え去った嘘の時代を生きているタカオだ。アニメに映し出されている架空の『タカオ』だ。できるなら、すべて知る前に戻りたい。
「羨ましい。だけど、俺はあいつらにはなれない」
戻るには知り過ぎた。背負った責任を捨てるには覚悟が足りていなかった。
アヤさん、質問いいですか。俯かせた顔を上げず、タカオは片手をふらりと挙げる。
「最終回が終わった後、ホビーアニメの主人公は何をすりゃいいんですか?」
余白を生きているように思えてならない。黒幕の黒幕の黒幕と対峙して得られたのは、これが単純な勧善懲悪で結ばれる物語ではないという結論だ。真実を暴きたいと突き進んで、最後にはどす黒い部屋に閉じ込められた。ここからは見える景色のすべてに意味がないように感じる。
母親と妹を殺した。変えられない出来事なのは理解している。屁理屈を捏ねて捻じ曲げていいものでもない。ただ、自分にとってすっぽりと抜けていた穴のピースは昔の自分がとっくのとうに壊していた。それを考える度に他がどうでもよく思えてしまう。寿司を回すことすら。
連続して足音がした。遠ざかっていく。アヤが気を遣ってしばらく1人にしてくれるのだろう。無理にでも引っ張っていけばいいものを、相変わらず無口だけど親切な人だ。
その考えは間違っていたと、タカオは瞬間的に察知する。風を切る音、飛翔体、寿司。連想ゲームを即座に成立させ、反射のうちにそこから跳び退いた。空中で体勢を立て直しながら飛んできた物体を認識する。
鉄鍋。距離を取って立つアヤのアタッシュケースの蓋は開いていた。
「死になさい」
一際響く声をしていた。普段から纏わせている気迫を増幅させ、アヤはタカオに命令する。
「死になさい、D-1028。あなたがスシブレードを回さないというのであればあなたに価値はありません。我々はあなたが誘引する事象の収容、そしてあなたの戦闘能力のためにあなたを生かしています。あなたが挫けるというのであれば」
躱された鉄鍋が地面に着地し、回転を再開する。床と鉄の摩擦で起こる不快な音にタカオは耳をそばだてる。回転における重心の取り方、軸の傾き。すぐに突っ込んでくる。同僚とも呼べる人物の攻撃意図については整理できていないが、スシブレードにおける状況把握は完了していた。
力を溜める鉄鍋を警戒しながらもタカオはアヤを振り向いた。普段通りの冷たい表情。だからこそ、だ。いつも表情の変化に乏しいからこそ、軽蔑するように寄せた眉にタカオは凍りつきそうになった。
「単なるSCP-1134-JPの被影響存在と断定し、ここであなたを終了します」
「クソッ、やるしかないのか!」
箸と湯呑を取り、収納していたサルモンを発射する。挟み撃ちを避けるためにバックステップで壁側に移動し、自分を取り囲むようにサルモンを回す。アヤは舌打ちし、素直にも鉄鍋をタカオの正面に移動させた。寿司とスシブレーダーが一直線に並ぶオーソドックスな配置。ひとまず先制のアドバンテージは埋めた。ここからどうするか。こめかみに手を当て、タカオは考える。
その間に鉄鍋がサルモンへ接近する。ゴウン、ゴウン。航空機のプロペラが回るような重厚な音。真正面からぶつかられでもすれば一発でもノックアウトだ。だが、動きはトロい。挙動だって実戦で何度も見てきた。
「避けろ!」
押し潰そうとする鉄鍋の脇をサルモンが跳ねてすり抜ける。ギリギリだ。少しでもズレれば旋回されて受け止められてしまうだろう。それでも敵ではない。これまで闘ってきた寿司と比べれば──。
「やり易いパワータイプ、ですか?」
アヤの目がタカオを見つめる。思考を読まれてタカオは動揺し、タカオと精神を接続しているサルモンの動きも乱れる。そこを突くように鉄鍋が空を跳び、サルモンへ覆い被さった。ちぃ、とタカオは声を漏らして、すぐにサルモンにドリフトをかけさせ、回転を溜めさせる。鉄鍋が跳びかかってくる直前、溜めた回転を解放してサルモンは真下を駆け抜けた。
一瞬、安堵する。切り替え、タカオは戦況を見た。攻撃を避け続けることは可能だが反対に攻撃はできない。仮に隙を突いたとして鉄鍋に突進が効くかは分からない。ただ、勝算はある。回転の持久力で言えばサルモンの方が勝っている。データとしても把握しているし、大きな物体を回すデメリットには回転の持久力が削れることが挙げられるからだ。
「攻撃をすべて避ければ勝てる。そう思ってます?」
またしても思考を読まれた。今度は落ち着いてアヤに返答する。
「ああ。現に、あんたの鍋は少しずつ回転が弱まってきてる」
「財団の対超常寿司班にそんな単純な機体を配置するとでも?」
強い殺気。距離を詰める鉄鍋の後ろでアヤが腕を構えた。腕時計を口許に近づけ、円盤に向けて発声する。
「脅威対処武装第弐段階に伴うSRA抜錨を申請、プロトコルパージ……収容、解除」
回転する鉄鍋が蒸気を噴く。青い電流が周囲を飛び交って、ガードで固定されていた蓋が吹き飛んだ。
「猫は鍋の中キャット・イン・ザ・ポット」
天井近くまで飛んだ蓋がサルモンの付近に落下した。ガシャァンと騒々しい音が鳴ると同時に、タカオは蓋の陰に何かが潜んでいるのを見た。
「逃げろ!」
急旋回を命じられ、サルモンはその場から跳び上がった。サルモンのいた地点を鋭い爪が切り裂く。相手の反応も俊敏だった。跳び上がったサルモンに応じて爪は振り上げられる。サルモンの切り身の端が爪に引っかかった。地面へと引き寄せられる。凄まじいスピードと回転によって切り身が切り裂かれ、辛うじてサルモンは窮地を脱した。
サーモン寿司を象徴する長い切り身の一部。切り裂かれ、普通の握り寿司と同じ長さになってしまった。裂かれた切り身は爪により貫かれた。姿を現した爪の持ち主に、タカオは唖然とした。
「なんで鍋に猫が入ってんだよォ!?」
白地に黒ぶちの猫。地面に座り、切り裂いたサルモンの一部をぺろぺろと舐めている。それだけなら可愛いものだ。細めた目は常に回転するサルモンを狙っている。よだれがだらだら流れ、床に零れ落ちた。
「食べちゃダメ。待て。分かった?」
大きな声で猫を制してから、アヤはタカオへと向いた。タカオに対しては普段通りの静かな声色だった。
「あなたもこの情報については認知していなかったようですね。これが対超常寿司試験機体、本来の戦闘形態です」
「いや……反則だろそれは! 回ってもないし!」
「寿司の定義は使用者が寿司と認識しているか、でしょう?」
まさか。タカオは正気を疑った。記憶処理、その言葉が過ったのだ。記憶を消去するだけでなく、都合の良い記憶を植え付けることも可能だという。記憶処理を用いて猫が入った鍋を寿司だと認識できるようにしたのか。
「脅威となる超常寿司を制圧できるのであれば方法は厭わない。法則を利用してアドバンテージを取れる兵器をスシブレードの土俵に乗せる。結果としてスシブレードのモラルに沿わないのであっても、財団には関係のない話です」
それに、とアヤは付け足す。
「回ってはいるじゃないですか、鍋が」
言われて、タカオは見た。猫の後方で鉄鍋は回転を続けている。注視すると鍋と猫は繋がっている。猫の異様に長く伸びた尾が鍋の内側に入っている。ただの猫じゃない。そう悟ったのは尾の長さを見たからだけではない。尾は2つに分かれ、鍋の回転によって捻じれていく。捻じりが一定に達すると猫は吸い込まれるように鍋の中へ戻った。
「万物を回転させられるのがこの現象の特性。活用しなければ意味がありません」
鉄鍋が一気に逆回転する。蓋が飛んだときと同じ瞬発力が再現された。尻尾が真っ直ぐに伸びて猫がサルモンへと突っ込んでくる。輪郭すら掴めない。青く光る2つの目がブレて映る。タカオは避けるよう命じ、サルモンは間一髪で跳び退いた。
青い目はサルモンを捉えて離さない。着地を経て猫の軌道が変わる。高速で移動する寿司に合わせ、カーブして追跡する。爪がサルモンを襲う。今度はシャリの一部が持っていかれた。
異常な反応速度。タカオはロジックを探す。合点がいき、あっと声を零した。
「猫の習性!」
小さくて素早い物体を追う。紐の付いたねずみのぬいぐるみを追いかける猫の映像が頭で再生された。そのねずみは今やサルモンの役。ボロボロになるまで爪で裂かれ、噛まれ続ける。
させてたまるか。いや、だけど。タカオの思考が詰まる。
「どうすりゃいい……!?」
猫はサルモンの速度を上回っている。鍋から撃ち出されるから射程距離も長い。着弾した後もその機敏さで追跡してくる。猫に突っ込むなんて喰われに行くのと同義だ。本体である鍋を攻撃するのも難しい。かといって、鍋自体も危険だ。気を抜けば圧殺される。そもそも鍋に突進が効くかもまだ不明。
耐久勝負をするにしても、さっきの2回の攻撃でサルモンは物理的に消耗してしまった。逃げ回っても回転が絶えるのはサルモンの方だ。その前に猫がサルモンを捉えるのが早いかもしれない。
どうすればいい。戦場を眺めシミュレートしても、サルモンが猫に捕まる姿しか見えない。繰り返すうちに目の前が黒に塗られていく。突破口が、ない。
そのとき、声が差し込まれた。
「寿司の声を聞きなさい、D-1028」
他の誰でもない、まさにタカオを倒そうと迫っているアヤの声。考えの分からない行動に思考を掻き乱されながら、タカオは頭を振った。聞き入れたくない。今は敵対しているから、その理由だけで拒んだのではなく。
「アヤさん……いい加減にしてください」
「私程度であればあなたは打ち破れるはずです。寿司の声を聞きなさい」
「やめろよ! 知ってるくせに!」
助言を振り払うようにタカオは叫んだ。
「俺はァ! 聞こえなくなったんですよ!」
臼倉膳座に遭い、家族を殺めた記憶が戻った後。疲労とショックによって気絶したタカオは庇われながらも撤退に成功したが、そこで話は丸く収まらなかった。
目覚めると、聞こえるはずの寿司の声が聞こえなくなっていた。タカオ固有の能力である有機物との会話能力が失われた理由は現在も不明だ。優秀な財団の研究員たちが何度議論を重ねようと推論の域を出ない。サルモンを回すことはできるが、声は聞こえない。落ち込む度に励まされ、冗談を言い合うような関係だった。今ではすっかり喋らない。ただの寿司として回転している。
これは科学的な裏付けのある、歴とした事実だ。財団の研究班も同様に報告書を書いている。しかし、アヤはそれを覆すかのように反論する。
「本当に聞こえないんですか」
「なっ……財団も同じ結論なんですって。あんたが知らないわけないでしょ!?」
「聞こえないと結論付けるまでにすべての方法を試したか、と聞いているんです」
アヤの声の調子は変わらない。対峙するタカオの心に詰め寄り続ける。
「あれ以来、試しましたか。寿司に語りかける行為を」
尋ねられたが、タカオは答えられなかった。試さなかったというより、試したくなくてしていなかった。苦しみに顔を向けて悶えるくらいなら、傷つかない方がいい。いつか戻ればいい。備わっていた能力の喪失より大きい問題を抱えているじゃないか。蓋をしていた。
タカオの内側でノックの音が響く。分かっている。寿司はいつだって近くにいる。閉ざした扉を懸命に叩いている。応えたくないのは自分だ。扉に触れようとすると、あの光景が蘇る。
血と刺し傷だらけの妹。真っ赤な死体に付いた半開きの目がこちらを見ている。
「そんな馬鹿みたいなこと、できませんよ!」
できるわけがない。母さんとニカを殺したのは自分だ。その自分がのうのうと寿司と喋るなんてふざけた真似をしていいものか。スシブレーダーの制圧は仕事だが、寿司と話すまでに至ったら、それはもう。
スシブレードに夢中になって非道な過去を顧みない、ただのクズだ。これ以上、自分のしたことを蔑ろにはできない。こんな自分がスシブレードの世界に戻るなんて。母さんとニカにはもう謝れやしないのに。
ああ、そっか。謝れもしないんだ。
突然、脚に力が入らなくなった。ガクンと崩れ、また膝が冷気に触れる。何を軸に考えればいいか分からない。思考の焦点が定まらない。ぺちゃり、水滴が床に落ちた。タカオは頬に手を当てる。情けなさ、申しわけのなさ。感情の正体が分からなかった。分からないのに、自覚もなく涙していた。
「馬鹿にするな!」
荒い声に顔を上げる。顔を歪めたアヤが声を張っていた。この1年、職務に同行する機会が多かった同僚の、初めて見る顔だった。
「あなたがいたから勝親方と闇親方は和解した! あなたがいたから回らない寿司協会と臼倉膳座の悪行が判明した! あなたがいたからスシブレード界隈の調和が保たれた! あなたは多くを救った! あなたは多くを守った! それらは寿司と素晴らしい連携を取れる、あなただから成し得られた!」
固く拳を握り締めていた。淡々と敵を追い詰める彼女に似合わない、感情の発露がそこにあった。タカオを直視して、アヤは口を大きく開く。
「あなたの能力の否定は、あなたに救われた存在の否定です!」
「けど、俺は、俺はァ!」
「自分を責めてもあなたの罪は許されません!」
歯切れの悪いタカオの返答をアヤが遮る。しばらく、沈黙が場を埋めた。息を整え、アヤは普段の寡黙な彼女へと戻っていく。静かだけれどはっきりとしたトーンで、彼女はタカオに呼びかける。
「D-1028。今しかありません。自分の苦しみを、自分の罪を、乗り越えなさい」
声に籠った気迫とともに鉄鍋の回転が加速する。鍋はサルモンとの距離を詰め、それに伴って発射される猫の射程範囲も近づいてくる。タカオが戦闘に意識を向けるまでの一瞬で、サルモンが動ける範囲が猫の射程範囲に被せられてしまった。回避に徹しても2撃目で猫の爪を喰らうだろう。
猫が跳ねる。サルモンめがけて一直線。タカオは眺めていた。焦燥も恐怖も彼をすり抜けていく。目に入ってはいたが、タカオはまったく異なる映像を見ていた。
暗い部屋にタカオはいた。四方八方を闇に覆われた空間に扉が佇んでいる。ガタン、ガタンと勢いを纏った物体が向こうから衝突してきているが、扉は固く閉ざされている。扉に触れようと足を踏み出す。1歩、2歩。足の先に柔らかい触感があった。
ニカが死んでいる。ふと、手許を見る。返り血で汚れた手の甲。落下した包丁が音を立てる。何度見ても越えられない。軽々しく越えていいわけがない。俺だけ元いた場所に戻っても母さんやニカは生き返らない。膝立ちし、死体の前で項垂れる。自分の視線が、ニカの頭へと移っていく。あの目を見て、乗り越えられるだなんて思えない。赤黒く濁った腹、胸、首、顎、口、鼻……。
目を、誰かに塞がれた。手で目許を覆われ、視界を奪われた。状況を理解するのに時間はかからなかった。ゆっくりと手を外し、後ろを振り返る。
『だーれだ?』
ニカが立っていた。地元中学の白いセーラー服。いつか見た、お気に入りだと言い張っていた髪型。間違いない。ニカだ。ニカがいる。
何か、何か言わなければ。そう考えてはいるものの、上手く口が動いてくれない。言葉になっていない声が口の端からぼろぼろと零れる。徐々に視界が曲がっていく。顔の筋肉が言うことをきかない。内側に溜まっていた感情が目や鼻や口を通じて流れる。拭っても拭っても涙が出る。力が抜けて、年下の妹に抱き着く格好になった。
情けなくて、申しわけなくて、少し安心した。
「ニカ、ニカぁ。俺、俺ぇ」
あー、はいはい。苦笑いをして、ニカはタカオを抱き返した。タカオには何分も続いた気がした。ひと段落して涙が収まり始めると、タカオは歪んだ口でニカに返す笑顔を作った。ずっと話したかった。まだ何から始めればいいかは見つけられない。
タカオがしどろもどろになっていると、ニカが話し始めた。優しい声をしていた。
『タカオはさ、良いところと悪いところが同じだよね』
ぽかんとした表情をタカオが浮かべ、ほら、とニカが指を立てて例を出していく。
『正義感が強いところ。小さいときにさ、私がいじめられてたら助けてくれたし。それで回り回って、タカオがボコボコにされるようなことも何回かあったのにさ』
そんなこともあった。傷だらけで帰ったら母さんを酷く心配させたっけ。作り笑いが崩れ、自然な笑みに変わる。もう1つ、とニカは話を続ける。
『人を許すところも。それでいたずらっ子を調子に乗らせっぱなしにしたけど、相性の悪い人ともどんどん友達になっていって』
だけど……んー、だから、かな。接続詞に迷ってから、ニカは発した。
『タカオは、許せなかったんだね。私や母さんを殺した悪い自分だけは、絶対に許せなかったんだね』
声と同じ、優しい微笑み。咎めもせず、受け流しもせず。そこにあった綺麗なガラスを拾うように。
タカオは頷けなかった。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。認識しているのは、1人では何も決断できなかった貧弱な自分の存在。最初に話すことをタカオは決めた。ようやく声の形に開いた唇が、震えている。
なぁ、ニカ。ずっと聞きたかったことがあるんだ。
「ニカは俺を許すのか? 許さないのか?」
返事はすぐには返ってこなかった。その間もニカはタカオから目線を外さない。考えているのか、わざと溜めているのかは読めない。それでもタカオは退屈ではなかった。妹の顔を見つめるのは久々だった。
頷いてから、ニカはタカオの両手を取る。小さな手でタカオの手を包み、握り締めた。体温とは違う暖かみがニカの手にはあった。
『私が許しても、許さなくても、タカオは生きていかなきゃいけない』
押し黙っていたタカオが声を上げようとして、その直前にニカが遮る。ねぇねぇ。噂話か世間話をする前のような、ちょっと強引な話題の切り出し方だった。
『タカオって、本物のスシブレーダーになったんでしょ? ずーっと人気だよね、スシブレードって。私はタマゴが好きだからエグドラゴとか持ってたな~。タカオの持ってるスシブレードは知らないけど、私、当てられるよ』
考える素振りも見せず、ニカは即答した。
『サルモンでしょ! 回転寿司に行ったらずっとサーモンのバリエーションをパネル注文してたの、覚えてるんだ』
ふふんと自慢げに言って、にぃと三日月みたいな笑みを見せる。
『タカオも小さいときは言ってなかった? 大きくなったらプロのスシブレーダー! 私も言ってたよ! 何がプロなのかは分からなかったけど。なんていうか、みんな遊びだったけど真剣だったよね。こんな真剣になれる遊び、誰が考えたんだろうね!』
お寿司屋さんなのかな、それともおもちゃ屋さんの偉い人なのかな。いろいろな職業を並べてから、冗談めかして呟いた。
『お寿司が回ったら楽しいだろうなぁ……みたいな、意外と単純な人だったりして』
まさかねぇ、奥さん。ウザったいノリを交え、はぁと感慨に浸った声を吐いた。昔を懐かしむのほほんとした表情をして、ニカはどこか遠くを見つめた。
『みんな、自分のスシブレードを大事にしてたよね。勝負が白熱すると名前を呼んだりしてさ。そういうとき、私たちとスシブレードが繋がってるように思えたんだよね。そんなこと、あるわけないのに』
再度、目を合わせる。タカオ。兄の名前を零す。
『私には、本物のスシブレーダーの世界がどんなのかは分からない。でももしタカオが本当にお寿司の声を聞けるなら、使っていかないと損だよ。たぶん、特別な力なんだから。……そういえば、だいぶ前に私をからかったよね。「お前が食べようとしてるタマゴ、お前にだけは食われたくないってさ」みたいな感じで』
くすくすとニカは笑う。この笑顔の裏にあるものをタカオは知っていた。ニカはいい子だ。いい子だから、自分が悲しくても悲しみを表に出さない。別れ際になると立ち話をして無理に笑顔を作る。そういう癖がニカにはあった。
ひとしきり笑って、ニカはタカオの手を引っ張る。脆い力に引かれ、タカオは立ち上がった。握っていた手を放し、ニカは拳を作る。その拳でニカはタカオの腹を小突いた。
『行きなよ、タカオ。みんなが待ってる。カイも、マックスも、浜倉さんも、勝さんも、栄さんも……他のスシブレーダーや財団の職員さんも。みんな、タカオが元気を取り戻すのを待ってる』
ニカは背伸びをしてタカオの肩を掴み、ぐるんと回す。強引な方向転換だった。タカオの目に扉が映る。どん、と背中を叩かれた。
『ほらほら、前向いた! さっさと迎えに行かないと時間がもったいないよ!』
言葉に後押しされてタカオは歩き出す。後ろを振り返るつもりはなかった。ただただ真っ直ぐに扉に向かって歩く。足元も見ない。ニカの死体はいつの間にか消えていた。
扉の前に辿り着く。ドアノブに手をかけて、タカオは振り向かずに声を張った。
「お前は本当にニカなのか? ニカじゃないなら、誰なんだ?」
誰かの精神世界に招かれたことは何度かある。スシブレードを通じて心に語りかける存在も知っている。だが、この光景はタカオといえど経験がなかった。
自分の罪を許してほしいが故に生まれた都合の良い妄想なのか。それとも、財団の言う異常存在という奴なのか。あるいは……。可能性はいくらでも提示できたが、どれも確信を持てない。
タカオは返答を待った。後ろにいる存在はタカオに笑いかけた。
『だーれだ? ……なんちゃって。まぁそれは、また会うときにしよう』
「そうだな」
扉を叩く衝撃は強くなってきている。開けろ開けろと声が聞こえてくる。難しい話はまた今度、今は向き合うべき相手が他にいる。
「約束だ」
『うん、約束』
ドアノブを回し、扉を開く。眩い光がタカオを包み込んだ。闇に染まっていた部屋は白に塗られていく。熱。尋常ではない熱を感じる。扉の先へ進む。身体が光に溶ける。ジュウ、と香ばしい匂いが漂った。
タカオは意識を取り戻した。前方を見た。猫が眼前に跳びかかってきている。そういえば、そういう状況だったな。より近くに目線を移す。回転しているサーモンの寿司があった。
猫がそれに覆い被さろうとしたとき、サーモン寿司が急激に回転数を増した。回転に蓄積された速度が一瞬で解放される。寿司が弾き跳ぶ。横からトラックにぶち当てられたかのように横に跳んで、猫と鉄鍋の射程範囲から逃れた。
尻尾を捻じらせ猫は鍋に戻る。アヤが猫の表情を見下ろす。目を見開いて、猫なりに怪訝そうな顔になっていた。今までに見たことがない速度だったとでも言いたげだ。
大きく旋回して、サーモン寿司はタカオの前についた。収まるところを知らない回転が無風だった工場に風を生み出す。
「待たせたな、サルモン」
タカオが声をかけると、サルモンはギュインギュインと左右にぐらぐら回転する。かなり部分が欠けてしまったが、動く分には問題なさそうだ。相棒の状態確認を終え、タカオは対戦相手であるアヤを見やった。
アヤは笑っている。緩く口角を上げ、回転するサルモンを見つめていた。アヤに影響され、猫も凛々しく鍋に寝転がっている。着任から、あの人は楽しんでスシブレードしている姿を一切見せなかった。
これだ、この感覚。解放された熱が、身体の中枢から末端へと爆発して駆け巡る。
「アヤさん、財団のエージェントってその顔していいんですかァ?」
「人の顔を見られるなんて、随分と余裕を取り戻しましたね!」
浮ついてはいないが、普段より数段勢いがあった。来る。タカオは身構えた。鍋から猫が発射される。位置関係は変わっていないから射程範囲にいるのは同じ。
だから、ここしかない。
「サルモン、突っ込めッ!」
撃ち出された猫に向かっていく形でサルモンが突き進む。真正面、猫が口からよだれを垂らしてやってきた。
猫に突っ込むなんて喰われに行くのと同義だ。少し前、タカオはそう判断した。予想していた通り、このままではただの自殺行為でお終いだ。だがその予想を覆せるなら、白紙の未来はそこから広がる。
「廻れ、サルモン!」
跳びかかってくる猫を軸に、サルモンは円を描くようにして飛び回った。意表を突かれた猫が地に足を着け、足のバネを活かして再び喰らいかかる。サルモンはそれすらも躱していった。完全に猫の最高時速を上回り、翻弄していた。やがて猫のスタミナが突き、地面にふらり落ちる。尻尾のねじ巻きはまだ完了していなかった。
物事の長所と短所は重なっている。猫が射出される際の速さは事実として強力だ。だが、そこが弱点でもある。この撃ち出される猫が躱されれば実質的に鍋ががら空きになる。
この狙い目を逃がさない。本体である鍋にサルモンが接近する。軸を斜めに倒し、切り身と地面とで起こる熱を高めていく。バチバチバチ、バーナーで焦がされたように切り身の脂が炸裂する。焦げだけでなく火炎そのものが切り身に生じ、サルモンは焔を纏った。そのまま鉄鍋の側面に向かって跳ねる。
鉄鍋に、サルモンが突き刺さった。焦げた切り身の先端、高速回転、焔。ドリルと同じ要領で鉄を溶解させ、ギリギリとけたたましい音を立てて己の道を切り開かんとしていた。
ありがとう、ニカ。弱い俺を励ましてくれて。
ただいま、サルモン。お前と向き合うまでに、時間をかけすぎたよ。
「灼熱は暗国を断つバーニング・スカンディナビア」
鉄鍋の装甲を焼き切り、反対の側面からサルモンが飛び出した。ただのサーモンが鉄を貫通した。目の前で起きた事象はスシブレードでは当たり前の出来事だ。だが、猫に追われるという危機的状況にあったサーモンがそれを達成したことに大きな意味が生まれていた。
「よしッ」
自然な回転に任せて焔を消したサルモンが拳を固めて喜ぶタカオの元に戻ってくる。鉄鍋があった付近は蒸気の霧に包まれ、溶けた金属が冷える音が絶えなかった。猫は自分の尻尾が接続している鍋の様子を見て、ものの見事に固まっている。アヤは一言も発さずに蒸気が消えるのを待っているらしかった。流石に回転を停止しただろう、とタカオが思った矢先のことだった。
ゴウン、ゴウン。重苦しい音の発生と同時に霧が晴れていく。2つの大穴を覗かせながらも、鍋は未だに回っていた。猫も体勢を立て直し、回転によってまた鍋の中に戻る。すぽんと猫が鍋に収まると、鉄鍋は臨戦態勢を取った。
仕留めそこなった。タカオは落胆しかけたが、すぐに両頬を叩いた。何度でもやればいい。何度でも貫けばいい。焦る必要はない。誰も、俺とサルモンには勝てない。タカオが脚を開き直すと、サルモンも回転を整えた。
両者、対峙の姿勢が続く。緊張の糸が張った空間で、最初に声を発したのはアヤだった。
「ここまで、ですかね」
そう発すると鉄鍋は回転を弱めていった。鍋が自然に止まるまでにアヤは腕時計を空に掲げる。落下した鍋の蓋が腕時計に向かって吸い寄せられるように飛んだ。飛んできた蓋をキャッチし、アヤは屈んだ。アヤを見上げる2本の尾の猫を撫でてから、アヤは鍋に蓋をする。ロックで蓋が固定されると機械音が鳴った。早々にアタッシュケースへと鍋を転がし、その蓋が閉じられる。
ルール上、スシブレードは回転を先に停止した方がその寿司を食べなくてはならない。が、可食性のない寿司を回したがためにそれを無視するスシブレーダーもいる。代わりに名誉や尊厳を失うのだが、財団の人間となればスシブレーダーとしての名誉も尊厳も特に気にしないのだろう。
それより、タカオには気になることがあった。
「アヤさん、まだ勝負はついてないですよ。良かったんですか、鉄鍋を仕舞っちゃって」
「問題ありません。あなたのその様子を見るに、十分な収穫です」
払われた蒸気に奪われたのか、勝負のときの熱はアヤから消えている。いつもの冷徹な彼女に戻っていた。
「この1年ほど、私はあなたの職務に同行していました。あなたの有機物聴取能力の喪失は財団としても痛手です。そのため、危険な作戦の攻略を任せることであなたの能力の再覚醒を促すつもりでした。けれど、手応えはなし。そこで今日、勝負を仕掛ける手筈になった。任務を経て疲弊したあなたなら私でも相手にできる」
「じゃあ、最初から俺に寿司の声を聞かせるのが目的だったんですか」
「はい。私が独断で行動すれば周りにいる隠蔽工作班が黙っていませんよ」
「つまり、終了だのなんだのは」
「はい。そこは私のアドリブです」
くたぁ、とタカオは膝から崩れた。もう何回目かも分からない脱力感に浸りながら、今回ばかりは安堵に包まれた。普通に考えればそうだ。アヤの演技が鬼気迫る様相だったから乗せられてしまった。被さるように湧いてきた疲弊に負けぬようサルモンを湯呑に収めるタカオに、アヤが尋ねる。
「D-1028。スシブレードの本質とはなんだと思います?」
唐突な質問だった。タカオは胡坐を組み、考え込む。スシブレードの本質。考えたこともなかった。がむしゃらに闘ってきたタカオにとってこの質問は難問だった。唸りを繰り返すように挙げて、半ば降参のつもりで諸手を挙げて答える。
「こう……熱血、とか?」
「私は、嘘とハッタリだと思ってます」
相反する答えをぶつけられ、ガクンとタカオの姿勢がまた崩れた。
「で……なんでそう思うんですか?」
「前提として、寿司が回るのは本来ありえない現象です」
ごくりと唾を飲み込んだ。臼倉もそう言っていたと聞くが、寿司は元々回るものではないそうだ。今となっては考えられない話だ。アヤのニュアンスからするとそれを否定する意図はさらさらないらしい。本題はここから、とアヤは付け足した。
「スシブレーダーはその嘘に、さらなる嘘を重ねていきます。やれコーンが真横に倒れてもマヨコーンだから回転を継続できるとか、やれ弱みは握れるので概念であっても寿司だとか……常識の範疇で考えれば酷いものばかりです。今日ので言うと、サルモンが地面と摩擦熱で発火したのも酷いですよ」
ねじ式で発射される猫を入れた鍋を操っていたことを忘れたかのようにアヤは話す。正道、邪道を問わずスシブレーダーが使う寿司には筋が通ったものばかりだ。寿司としては紛い物であっても何故強いかが理論化されている。どうやらアヤにはいずれも嘘らしいが、とタカオは頭の隅でくさした。
しかし。アヤは逆接で繋げる。自身のマイナスの論調からプラスを見出していく。
「その嘘の中に本物が生まれる。あなたがたの寿司に向き合う心は、アスリートやアーティスト、冒険家や研究者の自身の領域に向き合う心とさほど変わらない。突き進んだ先の未知へ行く道具、それが寿司だというだけ」
代替わりを繰り返し、夢を引き継ぎ、空白に足場を落として道にする。江戸時代から続くこの催しの場合、足場となるのは嘘だという。
「あなたたちは嘘に嘘を重ねるほど強くなる。成立していない机上の空論や科学的検証を排したロマンがシャリと結びつき、現実に産み落とされる。向き合う心が改変を可能にしている。それが、スシブレードという現象の本質」
アヤが理屈を語り終え、場が静寂に沈む。タカオは腕を組んでずっと話を聞いていた。話の半分以上も理解しておらず、ぼーっとアヤを眺めるに留まっていたのが本当のところだった。退屈さが現れているタカオの顔を一瞥し、アヤは話をさらに噛み砕いた。
「あなたとサルモンの関係は嘘じゃないでしょう?」
「それはそうだ。俺とサルモンには絆がある。だから俺を目覚めさせてくれたんだ」
「それですよ。寿司が回るという現象から、寿司との絆という本物が生まれています」
これも本来ありえない現象だ。アヤは言い切った。寿司と会話し、あろうことかその寿司と友情を結ぶなど。その嘘をあなたは覆した。ですから。
「D-1028……いや、タカオさん。あなたは自分に嘘を吐くべきです」
「嘘って、なんの嘘だ」
「自分は立派な正義の味方だと。正義感に溢れたアニメみたいな主人公だと、嘘を信じてください」
タカオは言葉に詰まった。かつて自分を苦しめてきた理想像。嘘の自分。口が勝手に否定しそうになった、その刹那。
「私がここにいるのはあなたのおかげです!」
アヤの叫びがタカオの否定を打ち消した。
「あなたが臼倉膳座と接触したことで、臼倉の寿司操作技術の末端を財団は入手できた! その活用で、アノマラスアイテムとして収容されていた猫と私が再会できた!」
アヤは語る。自分は家族を異常から遠ざけるために財団職員になったこと。その過程で自分の家族である飼い猫が異常な特性を持ち、収容せねばならなくなったこと。自分の使命と役割が衝突し、自己矛盾に陥ったこと。猫を可愛がっていた父が処理された記憶に疑問を持ち、精神不安に至ったこと。取り返しのつかない罪を犯したという意識から、家族から逃げるように距離を置いたこと。
「これはすべて私事です。あなたは私を救おうとして救ったわけじゃない。けど、私は結果として救われた!」
新しい仕事が舞い込んできた。スシブレードという現象に対処する部署に移ってほしい。君には回転する寿司に対抗する人間として、財団の戦力になってほしい。開発された新兵器は異常存在を格納するそうで、格納する対象は特定の人間と友好的で危険性のない存在が望ましい。そこにアヤの飼い猫が選ばれ、使い手にはアヤが選ばれた。
スシブレードの存在は以前から知っていたが、財団はいくらか消極的だった。理念に反するだのの理由はさておいて、本当のところ現象の核を捉えられなかったという認識でいた。兵器開発にまで至った経緯を個人的に探り、タカオの活躍を知った。
こんな人がいるのかと面喰らった。この人が進むのであれば、私も逃げてはいけない。アヤはこれまでより実家の両親を伺うようになった。罪を犯して嘘を吐くなら、最後まで騙して支えるのは私の仕事だ。どんなに重荷であっても逃げないようにした。
「だから、ヒーローだと信じてほしいんです。できないなら嘘でもいいです。嘘でもいいので、信じてください」
いつになく真摯な目がタカオを見つめていた。戦闘中に寿司の声を聞ける能力を馬鹿にするなと叱ったのも、本気で自分をヒーローだと思ったからだろう。嘘を信じてと願うこの言葉は嘘じゃない。その状況が少しおかしくて、思考は深い溝には落ちていかなかった。
それでも、タカオはまだ自分を許せなかった。ニカが死んだのは嘘にできない。苦しみから逃げていい思いをするのは身勝手だ。タカオはアヤの目を見つめ返した。
「やっぱり、俺は正義の味方なんかじゃないです。けど……」
重く、首を振る。
「あなたが言うように、その嘘を信じてみます」
これは枷だ。棘の付いた枷だ。苦しみから逃げないために自分に課す枷だ。これから先、自分は自己矛盾に苦しみ続けるだろう。消えない痛みに悶えるだろう。それでいい。今までだってずっと逃げていた。今度は逃げない。どんな苦しみが道を阻んだとしても──。
「嘘から本物になるつもりで、やってみます」
みんなが憧れる『タカオ』になる。アニメで描かれたモデルだと疑われるような、それくらいの人物に。
宣言の後、アヤの胸元で無線機が鳴る。応答し、アヤはタカオに出口に向かうよう示した。
「少々話し過ぎましたね。今度こそ本当に撤収しましょう」
応よ、と歩き出したタカオに対し、指示を出したアヤは動かない。
「アヤさんは?」
「私は施設の内部破損状況を再度確認してから帰ります」
「そっか」
すっかり冷めたトーンになったアヤに一抹の寂しさを覚え、タカオは彼女を通り過ぎていく。本性らしいノリの良さや感情の爆発っぷりを知った今となっては無理をしているように感じてならない。あれが彼女なりの仕事への向き合い方なのだろう。
端末を取り出して作業を再開したアヤから離れ過ぎない距離に立ち、タカオは彼女に聞こえる声で呟いた。
「感謝してるってさ。それと、強くなったね、って」
脈略のない呟きにアヤが顔を向ける。疲労から来る眠気にあくびをしながら、タカオは補足する。
「ほら、俺。聞こえちゃうんで。『寿司』の声が」
背を向けたまま当て勘で指をさす。僅かにズレていたが、指はアヤの握るアタッシュケースに向けられていた。
「それは嘘の言葉ですか、本物の言葉ですか」
「さぁね」
返答を濁し、タカオは去っていく。
「あとで自分で確かめればいいんじゃないですか?」
タカオとしてはいろいろと仕掛けてくれた謝礼代わりに放った台詞だった。
「くだらない……本当に、くだらない屁理屈ですね」
アヤの声がした。どうせなら表情も見てやろうかと思ったが、振り向くのはやめておいた。他人が抱える関係に茶々を入れられるほど自分は真っ直ぐな人間じゃない。今は前を向くべきだ。そう考えて、タカオは夜へと躍り出る。心なしか、今日の夜は少し明るく思えた。
ああどうも、浜倉です。アヤさん、お疲れさまでした。タカオくんの相手なんて大変だったでしょう? ……え? あー、すみません。名前で呼んじゃって。タカオくんに釣られちゃうんですよ。
では改めて。エージェント・梅田、要件とは? ……はいはい。お願いと、こちらの進捗確認ですね。まずはお願いから聞きましょうか。何ですか、お願いって。
タカオくんを財団のエージェントとして正規雇用したい。なるほど。あなたもそう思いますよね。そもそも責任能力がなかった時点でDクラス職員として継続雇用は倫理委員会案件ですからねー。実はそれね、1年ほど前に本人に打診済みなんですよ。でも頑なに拒んだんですって。罪を犯したのは自分だからって。財団としても手放したくないし、ずるずると今の形になっちゃってるんですよ。
納得してなさそうですね。まぁ長くなるのでそれは今度にしてください。で、こちらの進捗確認ですよね。大丈夫です。あなたがタカオくんと闘ってる間に仕事はしておきました。
『奇想天獄』のライター兼編集長はバッチリ眠らせました! にしてもいつからだったんでしょうね、随分前からワンマンだったみたいですけど……。まぁこれきっかけで、思考操作ミームでこの雑誌を乗っ取ってカバーストーリーの発信元にしちゃうのもアリだと思いますよ。これもいつか話しましょう。
それにしても、梅田さん。あなた数分ぐらい前に号泣しました? 鼻を啜る音が聞こえてくるんですよ。冗談はやめろ? 何を言ってるんですか。梅田さんって自分が思ってるより感情が顔に出やすいんだから、気をつけた方がいいですよ。
ま、泣く気持ちも分からなくないですよ。タカオくん、たまにグッと心を動かすことを言うでしょ? 前は素でそうだったんですけど……え、なんで僕がこんなに呑気なのかって? 僕もタカオくんに魅入られてるからですよ。幼稚くさいヒーローなんか財団は求めてない。それでもどこか、ああいう突き進む人を求めてる。
ホビーアニメは現実じゃない。でも、現実だったら面白いに違いない。梅田さんも昔子どもだったなら、この感覚、分かるでしょう?
タカオくんにはワクワクさせられるんです。現実にしてくれるんじゃないか、ってね。
編集後記
奇想天獄2021年第10号をご購読いただき、ありがとうございました。
この度、奇想天獄は2022年4月放送予定の『爆天ニギリ スシブレード:蘇聞伝』から宣伝の案件をいただきました。そのため今号は『爆天ニギリ スシブレード:蘇聞伝』のあらすじや設定をサブカルチックに編集した内容になっています。
これまで奇想天獄では3年に渡り、スシブレードに関する研究発表を継続してきました。その成果が認められ、編集部としては感無量です。まるで夢が現実になったようで、編集長は感激のあまりアニメに登場する原作寿司すべてと写真を撮影し食事するという愚行を取ってしまいました。
これからもスシブレードシリーズ及び奇想天獄は邁進してまいります。『爆天ニギリ スシブレード:蘇聞伝』、及び奇想天獄の続刊もよろしくお願いいたします。
次のスシブレードを作るのは、これを読んでいる君たちだ!
総監督=喜代村実来