また来る春は
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機動部隊ろ-8”祝祭の裏方”がいつものように異常存在の確保作戦を完遂したのは夕方の事であった。夕焼けが美しく空を染め上げる一方で、夕陽に照らされた地上の方は美しい状態とは言い難い。自分たちが繰り広げた嵐のような戦闘で、蕾のほころびかけていた梅の木がへし折れて地面に花の残骸を散らしている。まあ、作戦が終わった後はいつだってこんなものだ。血が落ちていないだけ上々と思うべきだろう。

道明寺どうみょうじ のぞむは地に落ちて踏みつけられた梅の残骸から視線を上げた。少し離れた所では仲間たちが作戦後の証拠隠滅のために動いている。山の中といえど、不自然な戦闘の痕跡が見つかっては問題だからだ。指示はないかと隊長の方に視線を向ける。隊長はこちらに背を向けて、作戦の完了を報告していた。作戦中とは違い、今はそこまで張り詰めた空気を纏っていない。なんだか普通の人間みたいだ。

そういえば今回の隊長アルファは一度も銃に手を伸ばしすらなかったな、と思った。それは少しばかり珍しい事だった。危ないかもしれない、と思った時にはすでに隊長が銃を抜き終えているのが常である。この人がいる限り、自分たちは本当の"手遅れ"にはならないのだろうな、というのが隊員たちの一般的な感覚であった。

隊長、佐竹さたけ ひかるは時折隊員に対して「死んだ方がマシだと言うような目にだけは合わせないと約束する」と口にするような人である。そうなる前に止めは刺してやるという意味だ。幸い、道明寺が記憶する限りでそのような目に遭った者はいないが、この隊長はそれをやってのけるだろうという事を道明寺はよく知っている。

自分の視線に気づいたのだろう、無線を切った隊長は素早く周囲に視線を走らせながら「どうかしたのか」と問いかけてきた。あわてて「いえ何も」と答えるが、彼は黙ってこちらを見続ける。道明寺は観念して「今回は呆気なかったなと思ってただけですよ」と答えた。どうにもこの隊長が時々見せる何もかもを射抜くような視線が、道明寺は少しばかり苦手だ。佐竹隊長はそれで納得したらしく、収容対象を閉じ込めた簡易コンテナに視線を戻す。

「そうか。普段とそう変わらない気もするが……まあ、そうだな。何もなく確保出来てよかった」
「毎回こうならいいんですがね」
「本当にな。……悪い、チャーリー、手伝うよ。そんでそっちはブラボーの方に居てくれ」

そう言って佐竹は別の場所で片づけをしていた仲間の方へと歩き出した。了解、と答えて道明寺は指示された方へ足を向ける。片づけをしながら、今回はデルタと呼ばれなかったな、と道明寺は思った。

佐竹隊長は時折デルタという呼称を避けて自分を呼ぶことがある。勿論作戦に関わっている時は普通にその呼称を用いるから、他の誰も気づいてはいないだろう。何なら本人だって自覚はしていないかもしれない。おそらく、この人がデルタを呼ぶ声にたまに滲む奇妙な響きに気づいているのは自分だけだろう。感慨とも感傷ともつかない、本当に小さな感情の欠片だ。

隊長アルファになるまでこの人は長らくデルタと呼ばれていたらしい。佐竹がデルタであった頃に何があって彼がどんな風だったのかは、道明寺は殆ど知らない。知っているのは、その時期の大半には近くに”エコー”がいたという事、そして今はいないという事くらいだ。それでも、4年前に起きたというエコーの死とそれに纏わる諸事象が今も隊長の在り方に色濃く影を落としているのだという事は道明寺にも察しがついている。

そもそも、銃に一度も手を伸ばさなかったことが目に付く、という事態がおかしいのだ。財団の任務は常に命がけと言えど、それは「下手をすれば命に関る事もある」という意味である。毎回死にかけたり発砲したりする羽目になるという事ではない。道明寺とて、そのような目に遭ったのはこの2年半で1度だけ、Keter案件に関わった任務の中の一瞬だけである。サイト司令部は出来る限りの準備を整えて送り出してくれているし、何よりこの隊長自身が優秀なのだから、そう危険極まりない仕事ではないのだ。大抵のエージェントたちはそう考えているだろう。自分たちが帰って来られないかもしれないという事を真に想定している者がどれほどいるか、道明寺は内心疑問に思っている。

それに、言ってしまえばいつ死ぬかわからないのは人間である以上表の社会だって一緒だ。3度も死に直面した自分はよく知っている。財団の任務だけが特別に、異様に死に近いわけではない。理想郷にも死神はいて、結局のところ、さよならだけが人生なのだ。道明寺はもはや自らの終焉を厭う事を手放してしまった。前線に立つ者には時折見られる精神状態だ。

死の事実からわずかばかりに目を逸らす事。死への恐怖を少しばかり麻痺させる事。どちらも、決して恥じるべき事ではないと道明寺は思っている。当然のことだ。そんなものに向き合い続けて戦い続けられるほど、人間の精神と言うのは強くない。

だけれども、隊長はどちらも選ばない。何度となく、ひどく強張った表情で銃の位置を確認している。そして、任務を完遂する度に、疲れた顔で少しだけ笑うのだ。全員が生きてそこに立っているという、ある意味当たり前の事実を噛みしめるように。

勿論、能天気すぎるリーダーを持つのに比べれば多少神経質で慎重である方が部下としてはよほどいいに決まっている。それでも、自分は考えずにはいられない。何枚かの薄皮を隔てた所に横たわる死の可能性から目を背ける事もなく、それに対する忌避と嫌厭の情を鈍麻させられずにあり続ける事は──あるいは、鈍麻させない事を敢えて自らに課し続けるという事は──、そしてその状態で機動部隊員全員の命を賭して戦場に立ち続けるという事は、どれほどの重荷としてこの人にのしかかっているのだろう、と。

後始末を終え、セクター8105へと戻ってくる頃には夕陽が山際を赤く染め上げていた。帰還用のポータルを通り抜ければ、山中に佇む自分たちの居城と、その最上階に輝く窓の光が目に飛び込んでくる。今日は比較的早く帰ってきたから、その灯りは建物や山並みとともに赤い陽光に照らされる中で穏やかに光っていた。その情景を目に映して、”祝祭の裏方”は示し合わせるでもなく、ゆっくりと息を吐きだす。いつものことながら、ここまでたどり着いてこの光を目にすると、ああ今回も安全に帰って来られたのだ、という実感が強く湧く。ここにいる者は皆知っているのだ。どれほど遅くなっても、辺りがすべて深い夜の闇に沈んだとしても、あの最上階の灯だけは暗闇の中には吞まれない。あの光は、常に自分たちの帰路を照らし続ける燈火なのだ、と。

だから、自分達はあの光を常夜灯と呼んでいるのだ。

「そういえば、常夜灯って最初に言い出したのは誰なんでしょうね」

日が沈み切る前の常夜灯を目にするのは道明寺にとってこれが初めてだった。それで、ふと率直な疑問を彼は口にしていた。ブラボーとチャーリーは「そういえばいつからだろう」「気が付いたら広まってたよね」と口々に顔を見合わせる。自然、彼らの視線は隊長のところに集中した。その視線を受けながら佐竹隊長は、

「ああ、多分最初は矢沢だったと思う。よく変な比喩を言うやつだったんだけど、常夜灯は珍しく当たりだったな」

と、本当に何でもない調子で、悪夢に魘される時以外は決して口にすることのなかった名前を告げた。

暗闇の中で、その名があてのない謝罪の言葉と共に呼ばれるのを道明寺は何度も耳にしている。寝室が隣にあるから、道明寺はこの隊長が時折酷く魘される事があるのを聞いているのだ。何も見えないような暗い部屋の中で、何かから逃れようと暴れる身体を抑えつけて叩き起こす事にも、もう随分と慣れてしまった。

いくつかの過去の書類と、悪夢の中でしか接する事のない存在。

矢沢やざわ ひびき。4年前に死した”エコー”。佐竹隊長のかつての相棒であり、親友でもあったという男は、”常夜灯”の名付け人として今なお自分たちに影響を残していたらしい。

"常夜灯"と呼ばれている光は、セクター8105南棟最上階の休憩室から漏れたものである。

あれから数日後の夜、道明寺はその休憩室を訪れていた。息を吸って、堅く閉ざされた扉をノックする。このセクターで、鍵がかかることなく空いているのはトイレの空き室だけだ。扉の向こうの気配に向かって、道明寺は声をかける。何を言うべきかはとっくの昔に決まっていた。

「こんばんは、博士。Bブロックの道明寺です」
「僕は修士ですよ、今はまだ。少しお待ちくださいね」

間の抜けたやり取りを経て、扉の向こうで人が立ち上がる気配がした。"常夜灯"では通例となったやり取りである。知恵ある人型オブジェクトを多く取り扱うセクター8105では、ドアの向こうにいる存在が人間のような見た目で人間のような声を出すことは何の保証ももたらさない。それで、こうしていくつかの慣例的なやり取りが挟まるという風習が根付いている。実際のところ、収容違反時にどれほど効果があるのかは知らない。ただ、外部から来た人間を困惑させる事にかけてはすこぶる効果的である、と道明寺は認識している。

黒い影が扉の前に立つ。足元を見て、一つ息を吸って、鍵が開く音を聞く。扉の開く音とともに、どこか不吉に揺れている黒衣の裾を視線に入れないようにぱっと顔を上げる。そこには穏やかな顔の男が一人。ほら大丈夫、ここには自分の命を脅かすようなものは何もない。道明寺はにっこりと笑って片手を上げた。

「お久しぶりです、今田さん。博士を取ったらあの挨拶も使えなくなりますね」
「そうですね。今後はどうしたものやら」
「どうするかまだ決めてないんですか?」
「同僚はメディカルのドクターって呼ばれるのはどうかって言ってるんですけど。まあ、どうぞゆっくりしていって下さい」

そんな事を言いながら、部屋の主はこちらに背を向けて休憩室の中へと戻っていく。道明寺はそれに従って部屋に踏み入った。壁際には見覚えのある兎のぬいぐるみが白いテディベアと寄り添って暖かな照明に照らされている。以前の祭りで、我らが隊長が射的屋台で取ってきたものだ。道明寺は兎のぬいぐるみの頭を挨拶がてら軽く叩いてから適当な椅子に腰を下ろした。何となく、この部屋にはこの黒衣の男以外にも居ついている存在があるのだ、という事を確認したかったのかもしれない。

眠れない夜があるのなら、居つける場所がないのなら、"常夜灯の主"を訪れてみるといい。暗闇を睨み続けるよりは、孤独に震え続けるよりは、ずっと穏やかな時を過ごせるだろうから。

セクター8105にやってきた新人たちは、どこかのタイミングでそんな言葉をかけられる。しかし、実際にそこを訪れる者はあまり多くはない。その存在を、眠れない夜に行く場所があるという事実を心に留めるだけでも充分に効用があるからだ。むしろ、実態を知らないからこそ安堵できる者もいるのかもしれない。

夜間の大半をこの場所で過ごす、昼夜逆転者の研究員。彼はその名を 今田いまだ 博士ひろしと云う。名前とは裏腹に博士号は持っていない。今のところ、4月になるまではそういう事になっているらしい。

目の前にいるこの重たい黒を纏うこの男こそが、その“常夜灯の主”だ。

常夜灯の主、今田研究員は大半の時間を友人の形見であるとかいう黒い外套を纏って過ごしている。第一印象の大半を決定づけるだけの存在感を持って揺れている外套の黒は、あたたかで明るい休憩室の中では異質さを覚えさせるまでに重く、暗い。特に以前の持ち主の事を知っている道明寺としては、少々落ち着かない気分にさせられるというのが正直なところだ。この人には何も非があるわけではない、それはよくわかっているが、それでも落ち着かないものは落ち着かない。こんな静かで寂しい夜は、特に。世の中には安らかな死の如く、遠くから見上げていたほうがいいものも沢山ある。

そういう訳で、道明寺が夜中に一人でここを訪れるのは初めてのことだった。向こうも、珍しいなと思ったのだろう。

「この時間帯に貴方が来るのは珍しいですね。何か気になることでもありましたか?」

眠れないからここに来た訳ではないのだろう。用件は何なのか、と彼はお茶を淹れながら問うてきた。道明寺は一つ息を吸って、覚悟を決める。話が早いのは、こちらとしてもありがたい事だ。

「一つ聞きたいことがありまして。俺の前任者……矢沢さんという人がどんな人か、ご存知だったりしないかと」
「矢沢さん?」
「……その、ここの事を初めて常夜灯と呼び始めた人だと聞いたので。今田さんなら何か知ってるかな、と思ったんです」
「へえ、あの人が? ここに眠れない方々が訪れるようになったのはあの人がいなくなった後のことなのに」
「えっ」

常夜灯の主というのは思ったよりも最近の存在だったのだろうか。思わず声を上げると、不思議そうに「佐竹さんに聞いてないんですか?」と尋ねられる。答えに迷っているうちに、「僕のところに来るようになる前に、エージェントの方々の間でそういう呼び名が広まっていたって事か」と一人で納得したようだった。

「まあ、ほかにも灯台守とか不寝番とか、統一されている訳でもないようだし」
「そうだったんですね……それで、ここに人が来るようになったのは……その人がいなくなった後なんですか」
「そうですよ。さて、どこから説明したものか」

彼は自分で淹れたお茶を一口飲んで、考え込む。道明寺はその様を見つめながら、ただ黙って待っていた。前任者の不在が自分たちにどのような影を落としているのか知りたくてここに来たとはいえ、彼の不在が”常夜灯”のあり方にどう影響したのかはどうにもうまく想像がつかない。

しばらく考え込んだ末に、彼は背後を指さした。その先にあるのは封鎖された摺りガラスの窓。自分たちが外から”常夜灯”と呼んで見上げている光の正体だ。それを示して、彼は問いかけた。

「セキュリティクリアランスレベルは何でしたっけ。そこの窓が封鎖された経緯はご存知ですか?」
「最近上がって2です。……SCP-1287-JP-Cですよね、確か」
「その通り。本来なら、これこそを1287-JP本体に指定するべきだったのでしょうけれど」

セクター8105の敷地内で偶発的に生まれた異常存在。簡単に言えば、その異常性はセクター8105に戻らなかった者たちの姿を持った霊的実体を帰還ゲートのそばに発生させる事である。当初は窓ではなく、「戻らなかった者が戻ってくる門」と誤認されたので、ゲートの方がSCP-1287-JPにナンバー指定されたという少々厄介な経緯があるオブジェクトである。ナンバーを指定しなおせばいいのではないかと思わなくもないが、特にそういった事は行われなかったらしい。科学とはそうやって積み上がっている、とは知人の研究助手の言である。

それでも異常の本質がこの窓にあると結局判明したのだから、対策は窓に対してなされる。覗き込むことで幻影が発生するのなら、塞いで覗き込めないようにすればいい。そういう訳で、この窓は封鎖されることになった。そして、セクター8105へと帰ってきた者たちが見上げる光を保つべく、嵌め殺しの摺りガラスが代わりに置かれたのだ。

「と、大体そのような経緯って聞いてます」

そうですね、と今田研究員は頷く。そして、「セキュリティクリアランスが上がったなら請求すれば読める事なんですが」と前置きしてから続ける。

「最初に現れた死者というのが、矢沢さんの姿でした」
「……この窓によって現れた、最初の異常存在」
「異常存在というよりはその模倣元ですね、あれは彼自身ではありませんでしたから。それで、最終的にこの窓が封鎖される事になった時、”あの光を消さないでほしい”という声が上がりました。その時ですよ、ここが常夜灯とか何とか呼ばれていたのを僕らが知ったのは」
「それじゃ、常夜灯の主というのも」
「そう呼ばれることを知ったのは……そして、そう呼ばれるようになったのもおそらくは、あの案件の後です」
「そうだったんですか……」

つまり、道明寺の前任者が”常夜灯の主”を訪れたことはないという事だ。振り出しに戻ったな、と思いながら道明寺は出されたお茶に口をつける。一息に飲み干すには量が多いな、なんて事を考えていると、出し抜けに「一度来たことがあります」と声がかかった。

「何がです」
「矢沢さんが。夜、僕がここにいた時にね」

曰く、ある夜に唐突にその人はこの部屋を訪れたのだという。その頃は夜中に眠れない者が訪れるなどという風習はなかったから、少々驚きながら彼は扉を開けた。そして、何故だか自分よりよほど驚いた顔をしたエージェントと出くわした。そう言いながら、どこか懐かしそうに彼は苦笑いを浮かべた。来訪者はしばらく不躾に自分を上から下まで眺めた後、席に着く事すらせずに何故かこちらの健康状態と睡眠状態について一方的に問いただして帰った、と。

「えっ、それだけ?」
「大まかにはそんな感じでしたね。それと、”その遺品とやらはいつまで着ている心算か”だったか」
「わりと失礼な人では?」
「相当に率直な方ではありましたね。……ああ、そうだった。確か僕が聞いたんですよ、何をそんなに驚いたのかって。それで」

来訪者はどこかバツが悪そうに「この場所をたった一人に担わせているとは思っていなかった」と述べたのだという。この休憩室は人通りも多いから別に常に一人で居るわけではない、それに電気が常に点いているだけで誰かが常に詰めている訳でもない。そう言うと、来訪者は露骨に安堵した様子を見せて、「外からここを見上げると帰る家があるような気がするんだ」とこぼして立ち去ったらしい。

「そういう訳で、多分心配してくれてたんでしょうね。善良な方ではあったのだろうと思います」
「なるほど……というか、ここって無人だったり他に人がいたりした時期も結構あるんですね」
「いえ、この窓が封鎖されてからは僕一人ですね。常夜灯と呼ばれるようになってからは無人にもしないようにしています」

ここが常夜灯と呼ばれている事を僕たちが知った頃……SCP-1287-JPの件が起きた後ですね。佐竹さんがここに来て、屋上への施錠された扉を呆然と見つめていましてね。あんな事があった直後だし、どうにも放っておいていい状態には思えなくてかったんですよ。それで呼び止めて、眠れないならまたここに来たらいい、僕は大抵起きているからって言ったんです。それが風習の始まりでしたね、眠れない人がここに来るっていう。まあ、その間にもいろいろありはしたんですけれど。

そんな事を彼は懐かしそうに喋っている。道明寺は「そうですか」としか言えなかった。相手の視線を気にしないなら今頃仰け反って天井を仰いでいたことだろう。自分の直感が正しいなら、前任者が危惧したことはまさしく彼自身の死を以て実現した事になる。そしてさらに悪い事に、その事に気づいているのは自分一人だ。何を言うべきなのか、道明寺にはわからなかった。

「まあ、僕が知ってる事はその程度です。……それにしても、矢沢さんについて知りたいのであれば佐竹さんに聞いた方がよほど早いと思うのですが」
「聞けませんよそんな事。本人は何も言わないし」

静かに視線が向けられる。何故僕にはそれを聞くのか、そして知ってどうしたいのか。そう問いかけられているような気がして、道明寺は言葉を重ねた。

「親しかった事と……その人に関して酷く後悔している事だけはわかるんですよ。そこに、何も知らない俺が下手に立ち入っちゃ駄目だと思って」
「……それは、そうですね」
「でも、自分の足元に何があるのか知らずに生きていくのも嫌だって思ったんですよ。常夜灯の名を与えたのが誰なのかなんて俺は微塵も知らなかった。知らないうちに何かを踏み抜くのって、やっぱ怖いじゃないですか」
「では、現状を維持するためにこれまでを知りたい、と」
「どういう意味ですか」

どこかその声に含みを感じて、道明寺は反射的に問い返した。”常夜灯の主”は表情を崩すことなくこちらを静かに見る。黒衣を纏ってこちらを見据える姿にどこか身構えそうになるのをどうにか堪えて、道明寺はその視線を正面から受け止めた。黒衣の男はそれを見透かしたように「何か上手く行っていない事があって、それを変えたくてここに来たのではないかと思ったものですから」と告げる。この黒衣と夜間に一対一で対峙する事を苦手としている事に、おそらく気づかれているなと道明寺は思った。一つ息を吸い、覚悟を決める。知りたい事は数あれど、まず問わなければならない事がある。

「あの人は……うちの隊長は、何か変えるべき程に危うく見えますか。放っておけないと判断する位に」
「そう思ったのは4年も前の、友人をなくした直後の事ですよ。今の彼の現状についてはあなたの方が詳しいでしょう」
「近くにいるだけですよ、俺は。……俺は、ただ」

口ごもりながら視線を落とす。思い出すのは、あと少しで隊長に撃ち殺される所だったあの瞬間だ。新入りだった自分がヘマをして身動きを封じられた時。長く苦しい死を待つだけの存在となった自分に、隊長は一切の迷いを見せることなく銃口を向けた。苦しみを長引かせない為の、温情としての行為なのだ、という事は新入りの自分でもすぐに分かった。それは極めて迅速で、そして冷徹であれども正しい判断であったと思う。

結局のところ、自分は撃たれることなく隊長に命を救われた。報告書には、その顛末だけが淡々と記載されている。その後の自分たちの「撃たれるかと思ってすいません」「そうなったらそうなったで苦しまずには済んだだろう」という会話は、報告書を読んだ全員が知っている筈だ。でも、そう言った隊長の指先がどれほど震えていたのか、どんな目をして自分に銃を向けていたを知っているのは自分だけだろう。自分はそれを鮮明に思い出す事が出来る。いくつもの感情が入り混じった、およそ冷徹さとは程遠い表情を、自分は鮮明に覚えている。

命の恩人にして、あと少しで自分を撃ち殺すところだった人物。あの場で自分が苦痛の末に死ぬという事を、おそらくは本人以上に怖れていたのであろう人。それにどう向き合えばいいのか、道明寺はまだ自分で納得のいく答えをつけられていない。ひょっとすると、その答えを探してここまで来てしまったのかもしれない。

ただ、それでも一つだけ言えることがあるとすれば。

「俺はただ。あの人にもう銃を向けられたくはないってだけですよ」
自分はただ、もう二度と隊長にあのような目をさせたくはない。

「その為には、まあ、撃たれないように頑張るしかないんすよね。それだけ」

へらりと笑いながら、最後のお茶を飲み干す。たん、と硬い音を立てて机にカップを戻せば、それが会話の終わりを告げる合図になった。

「御馳走さまになりました。いろいろ教えていただきありがとうございます。今度はまた手土産でも持ってきますね」
「ありがとうございます。佐竹さんにもよろしくお伝え願います。最近はここで見かけませんが……本当は、多分そのほうがいいんでしょうね」
「伝えておきます。まあ、隊長はいつだって元気ですよ、俺らから見る限りはね」

簡単に片づけて、休憩室を後にする。明るい廊下から振り返って見た”常夜灯”は、ありふれた普通の部屋の一つにしか見えなかった。

ありふれた休憩室にいた、普通の一人の人間。そういうものでしかなかったのだ。

それを自分たちは”常夜灯の主”に、眠れない者たちの希望の象徴へと仕立て上げてしまった。自分の前任者が危惧した通りに。

隣室に魘されている気配がない事を確認して、道明寺は自らの寝室へと戻る。寝台に横たわって天井を見上げても、眠気は訪れない。寝返りを打ちながら、道明寺はぼんやりと考えていた。

そういえば、常夜灯の主は眠れないときに何処を訪れるのだろう、と。

お前を撃てる訳がない。

改めて読みなおしたSCP-1287-JPの報告書曰く、4年前の佐竹隊長は自らの親友の影に向かってそう言ったらしい。今の彼の戦場での姿だけを知る者からすれば、まず信じられない台詞だろう。道明寺とてあまりうまく想像はつかない。作戦地点へと向かう偽装タクシーの中で、道明寺は佐竹の方を伺い見た。車窓から桜並木を眺めている隊長の横顔には、その頃を思わせるような面影は何一つ見当たらなかった。

ともかく、今考えるべきなのは現在の事だ。考えを打ち切り、前を向きなおして今回の任務に関する情報を整理する。

自分達が送り届けられようとしているのは、街はずれの一角に佇む廃ビルである。今回の調査・確保対象である異常存在が潜伏している可能性のある地点の一つだ。異常存在については音響に異常を及ぼすらしいという事、そして今のところ人的被害は出していないらしいという程度しか判明していない。後は、ある程度正常性維持団体の目を逃れていたことから、自我やいくばくかの知能が関わっているのではないか、という推測があるくらいだ。作為なく発生した異常現象や自我のない物品、知性のない生命体や調子に乗った現実改変者は逃げも隠れもする事なく異常性を垂れ流す傾向を持つ。そうであれば話が速かったが、今回の一件はそうではなかった。だから獣か人、あるいはそれ以上の知能を持つ存在がいるのだろう、というのが上の見立てである。

そのくらいしか情報がないのだ。当然潜伏先の候補地というのも、決してよく絞り込まれたものなどではない。幾つもある候補地点の一つに過ぎないのだ。可能性を潰せたら上々、かつての潜伏地などを引き当てて手掛かりを得られるなら御の字、といった所である。

異常存在が潜んでいる可能性が極めて高い、などとは決して言えない場所にそんなに人数を割ける筈もなく、自分たちはツーマンセルで挑む事になっている。本命という訳でもない場所にこの隊長とだ。一番安全な配置じゃないか羨ましい、と同僚に小突かれるわけである。道明寺は結局それに肯定も否定も出来ないまま曖昧な相槌を打っていた。否定もできなかったが、肯定したら何かが終わるような気がしてならなかったのだ。

そんな事を思い出しているうちに、車が静かに走行を止めた。目的地に到着したのだ。「御好運を」との声に一礼して、人目がない事を確認して車を降りる。見上げた四階建ての廃ビルは何の違和感も抱かせることなく、街の景色に馴染んでいた。ここは本当に「外れ」かもしれないな、という感想が思い浮かぶ。

とはいえ、何が起こるか分からないのが財団の常である。こんな事で油断していては話にならない。静かに、速やかに意識を束ねて一つにする。ここから先は戦場だ。そうして一つ頷きあって、二人は廃ビルへと足を踏み込んだ。

薄暗いビルの中に踏み込み、クリアリングしてゆく。何ということもない、静謐で埃っぽいビルだ。ただ二人分の足音と、何もない事を確認する声だけが響いている。口の動きと声に何かの不一致があるわけでもない。異常の気配はどこにもなかった。ある種単調とも言えるクリアリングをこなすこと3回。

縦に並んで4階への階段を上る最中、唐突に“それ”は起きた。前を進む隊長が何かに蹴躓きでもしたかのように上体を揺らがせた。あっ、と思った時にはバランスを崩して、その場に倒れこんで行く。そして、道明寺が手を伸ばすよりも先にその体は崩れ落ち、階段の床にぶつかり──そのまま床に染み込みでもしたかのように消えてしまった。

「……隊長?」

呼びかけた声に返事はない。最初からここには道明寺一人しかいなかったかのように、辺りは静まり返っている。そういえば人体が床にぶつかる衝突音も聞こえなかった。”消失”はその前に起きたのか。

いや、細かい話は後だ。素早く周囲に視線を走らせる。視認できる範囲には何も、異常なものは見当たらない。それを確認してからそっと姿勢を下げ、隊長がいたあたりに手を伸ばした。あるのは床の感触だけだ。異常事態発生を報告するべく取り出した通信機は操作に対してなんの応答も示さない。なんの音も光も発することなく、道明寺の手の中で沈黙している。発信機の信号も受け取れないから、隊長がどこにいるのかも解らずじまいだ。まあ、通信機が使えなくなるのはそこまで珍しい事ではない。あの人ならどこかで生きている筈だ、と根拠もなく自分に言い聞かせながら道明寺は通信機をしまい込む。

道明寺はGPS発信機の電源を切り、また点ける。2回の繰り返し。全ての信号が伝わっているのなら、作戦司令部には”通信機能を喪失した状態で異常事態を報告している”が伝わる。すでに信号がロストしているなら伝わりはしないが、それでも”このビルに何かがある”まで伝わるだろう。そうすれば次の誰かはうまくやる。道明寺は自分の見たものをメモに書き、階段に張り付けた。

そこまでやって、道明寺は一歩後ろに下がった。背後には自分の登ってきた階段がちゃんと存在している。前を向いて、目の前に広がる仄暗い闇を睨む。息を吸い、意を決して、一歩その先へと踏み込む。

一段、そして次の一段。隊長が姿を消したポイントを通過しても、拍子抜けするほど何も起きない。自分は依然としてここにいる。道明寺は一つ溜息をついた。何も起きないのは、何か起きるよりなお悪い事態かもしれない。

前を歩いていた隊長が姿を消した時点で、考えられる可能性は二つあった。一つは、「この階段の途中から異常の領域が始まっていて、そこに踏み込んだものが姿を消す」。もう一つは、「自分たちはとっくに異常領域の中に”吞まれていた”」だ。前者の線が消えた以上、自分の認識は最初から何も信用出来なくなる。ロストしたのは自分の方、という可能性だってあるのだ。

それでも自分はここにいて、動ける。少なくとも、自分ではそう思っている。ならば、やることは一つしかない。調査を続けるのだ。

階段を登りながら道明寺は考える。財団から与えられた情報は「音響にまつわる異常の可能性」だった。今起きている”人間の消失”はあまりにもそこからかけ離れている。財団の先行調査技術は盲信こそ出来ないが、決してそこまで信頼できないものではない。この異常の本質は何だ。それは、今自分が想像しているような人間をどこかに消し飛ばすものとは違っているのではないか。

横から空気が動き、何かが接近する気配。振り向けば、すぐさまそれは離れていく。知覚出来ない何かがすぐ傍で機を伺っているというじっとりした感覚。この場に働く異常は何だ。自分は何を見落としている。隊長はどこに消えたのか。そもそも本当にあのタイミングで消えたのか。

道明寺の思考は上から響く二発の銃声によって打ち切られた。そして、床に何か重いものがぶつかる音。道明寺は弾かれたように階段を駆け上がった。あの速度の連撃は隊長がよくやる牽制混じりの攻撃だ。撃つべきものが何なのか、隊長には判ったのだろう。

階段を登りきり、前を睨む。開け放たれた扉の一つから、廊下に血があふれ出ている。脳裏を掠めた違和感の正体もわからないまま、それを追って部屋へと飛び込んだ。

部屋の中には血の海が広がっていた。その中心に、長い鉤爪の怪物が立っている。射し込む夕日を逆光に背負って、黒い影として浮かび上がっている。その足元には負傷した人間が伏して横たわり、怪物から逃れようと足掻いている。その背に向かって鉤爪が振り上げられた。血が凍る、と思った。

やめろ、と叫びながら道明寺は反射的に怪物に銃口を向けた。訓練通りに撃とうとした瞬間、何故か冷え切った頭の一部が警告を発した。引こうとした指が止まる。撃たなければと心が叫んでいるのに指が動かない。

血の匂いが薄すぎる。見聞きしているものと一致しない。

匂いが解らない、それがどうした、狙いをつけるには問題ないだろう。そう思いそうになった所で、異常性の正体に気づく。

弄られているのは視聴覚だ。音響ではなく、そして、視覚までもが対象だったという事だ。

耳に届く音響を信じてはならない。
瞳に映る光景を信じてはならない。
なら、一体何を信じたらいいのか。

その迷いは客観的に見れば、致命的な隙であった。銃口がぶれた一瞬のうちに怪物はこちらへと歩を進めて、鉤爪をこちらに伸ばしている。慌てて構えなおすも、もはやお互いに間合いの内だ。目が見えていなくとも、殺気が全身に突き刺さるのが感じられる。自分は”何か”と対峙している。それだけは確かだ。

自分も怪物も、身構えたまま動かない。先に殺そうと思った方が殺せる状態だ。その状態で、お互いの呼吸だけが響いている。殺される前に殺せと本能が叫ぶ。引鉄にかかった指は凍り付いたように動かない。

うまく回らない頭で、隊長はどうしたのだろうと考える。銃声が聞こえたという事は、ここにいて何かを撃った筈だ。まだ動ける状態なら、とっくに全てが終わっていて何もおかしくないのだ。仮に”これ”が隊長で、俺が俺以外の何かに見えているのだとしたら。そうすればあの人はとっくに判断を終えているに違いない。自分たちの前で迷う所を見せた事がない人だ。

でも自分たちはまだここで睨み合っている。そうしているうちに、そこで横たわっている人物はどんどん死へ近づいていくだろう。

早くそいつを撃ち殺せ。お前は命の恩人を見殺しにする心算か。
違う。お前は何かを見落としている。考えろ。よく見て、考えるんだ。

相反する2つの声が頭の中で鳴り響いている。その中で乾ききった目を見開いて、改竄されている疑いのある視界を睨む。そうしていると、足元に小さな光が輝くのが見えた。目の前の怪物から目を逸らさないまま、そちらに少しだけ意識を割く。倒れ伏している人物の手首辺りが、一定のパターンを持って明滅している。音声による意思疎通に頼れないからと、ここに来る前に決めていた信号だ。

目の前の怪物が、何かを唸る。それは酷く歪んだ音で「銃を捨てろ」と告げているように聞こえた。怪物の輪郭に意識を集中すれば、わずかに揺らいでいる。異常の効果が揺れているのだ、と直感した。声は歪み、誰の声かを判別するのは酷く難しい。ただ、「違う」「嫌だ」「これは幻覚なんだろう」「返事をしてくれ」「銃を捨てろ」という言葉が切れ切れに聞こえる。

隊長の声だとは思えなかった。銃を下ろせとは言っても、手放せと命じる事はない人だ。

銃を捨てろと叫ぶ声が響く。その背後で信号の光が瞬いている。

何故か、夕闇の中で灯る小さな光に見覚えがあると思った。何もかもが違うのに、常夜灯の事を思い出す。多くの者に見上げられているあたたかな光。ありふれた、一つの灯。それを、前任者は何と評したのだったか。一人に担わせてどうするんだ、と彼は言いたかったのではなかったか。

「頼む、示してくれ、俺はもう撃ちたくないんだ! 銃を捨てるんだ、早く!」

あの隊長が上げるとは到底思えないような悲痛な声。それに、道明寺はただ「了解」と口の中で答えた。指は、身体はもう動くようになっている。

鈍い衝撃音。拳銃が手から離れて床に落ちる音。痛みに呻く声。勝負は一瞬だった。

やった事は極めて単純だ。道明寺は構えた拳銃を持ち替えて踏み込み、伸ばした腕に触れたものを押し倒して床に叩きつけたのだ。掴んだ頭を床に押し付けて、左肩の関節を極める。目の前にいたのが見たとおりの怪物であれ佐竹隊長であれそれに擬態した何らかの人物であれ、関節がある事には代わりない。そして、目も見えないような状況で暴れる身体を抑えつける事にかけては、道明寺は他のエージェントたちよりも手慣れている。

膝の下でもがいているのを感じ取りながら、落ちた拳銃に伸ばされた手を上から抑えつけた。拳銃と自分の掌に挟まれた指に、長い鉤爪は備わっていない。抑えられた手の中で唯一自由に動く親指が、自分の手の上を何度も滑った。そして一際強く、短い爪が立てられる。その次の瞬間、道明寺は自らの銃で落ちた銃の向こう側を撃った。

銃声と、悲鳴。統制者を失った視界と音が無秩序に揺れ動く。音と色の奔流が吹き荒れる中で、道明寺は確かに自分の声が「結局撃ってはくれないんですね」と言うのを聞いた。掌の下の冷えた指が、わずかに震える。そして、静寂。

ゆっくりと目を開けば、目の前には人影が一つ横たわっていた。自分が撃った、銃の向こうにいた存在だ。肥大化した胴体と頭に、小枝のような手足がくっついている。深海魚のように飛び出した大きな目は固く閉ざされていた。気を失っているが、生きてはいる。そして視線を下げれば、佐竹隊長が黙ってこちらを見上げていた。思わず視線を逸らせば、逸らした先にも別の似たような存在が横たわっていた。足から血を流し、小さなうめき声をあげている。怪物の後ろに横たわっていたあの人影は、まるっきりの幻影ではなかったらしい。

「二人いたんですね」
「ああ。そっちの呻いているのはお前に成りすましていた奴だ。応答がおかしい上に合図の信号に応答がなかったから偽と判断して足を撃った」

自分が思っていたよりも分断されていた時間があったらしい。お互いの位置を偽装されていたのだろう。そして、信号の合図を学習してこちらに送ってきたという訳か。信じなくてよかった。隊長は言葉を切ってから続ける。

「ただ、それからも異常が収まる気配も何もなくてな。そもそもお前はどこにいるのかと考えていた所にお前が乱入してきた。それも、何なのか全くわからん姿に見える状態でだ。……俺が撃ったのは誰だったのかと、考えずにはいられなかった」
「……」
「それで、聴覚が信用出来ないのも忘れてずっと話しかける羽目になっていた。情けない話だよ」
「でも片方を仕留めた。俺がここに来られたのはその銃声が聞こえたからです。それに、二人目を撃つタイミングだって教えてくれたでしょう」
「お前の声で『銃を捨ててください』って言ってたんでな。欲しいんだろうと思った」
「俺の方も言われましたよ。言ってないですよね?」
「言う訳がないだろう」
「他の台詞は?」

少しばかりの沈黙。

「お前が何を聞いたかによる」
「なるほど。まあ、連中には確実な攻撃手段が無かったんでしょうね。だから同士討ちを狙った、と」

同士討ちを狙い、お互いを敵に見せた。それでも撃ち合いにはならなかったから、武器を奪えないかと考えたのだろう。とんでもない二人組だった、と思う。いや、果たしてそうだろうか。そもそも最初は敵が複数いるとは思っていなかったのだった。事前に抱いていた印象は何一つ信頼できない。

「そういう訳で、手の届く所に落としたら引っ張られたんでな。どこにいるかが解った訳だ。お前が読み取ってくれて助かったよ」

道明寺は目線を落とす。そういえば、この人は一度もここまで自分の名前を呼んでいないな、と思った。黙って様子を見ていると、「ところで」と声がかかる。

「何です」
「重いからそろそろ退いてくれないか」
「嫌です。あなたが三人目ではないという保証がない。俺の名前を一回も呼ばないし」
「そうか、教えたことを覚えているようで何よりだ。ここで退いたら殺す事を考えなくちゃいけなかった」
「そりゃどうも。で、呼んでくれないんですか?」
「お互い様だろ。……確認用合図を覚えて使ってきた奴らだぞ」

どうやら、解放される事よりも敵かもしれない存在に自分たちの名を明け渡さない事を選ぶらしい。それか、本当に三人目なのかだ。少し考えて、道明寺は口を開く。

「なら、あなたにしか答えられない事を聞きますけど、いいですか」
「ああ」
「……俺の前任者。常夜灯の名づけをしたエコーって人。どういう人だったんですか?」

短く息を呑む音。日頃の自分なら絶対にしない、そして今後もやらないであろう質問だ。最初に返ってきたのは呆れたような溜息だった。

「道明寺。お前、このタイミングで矢沢の事を聞くか、俺に」
「聞くのはこれが最初で最後だから、真似の心配はしなくて済むでしょう。これ以降に聞かれたら疑っていただいていいですよ」
「だからと言ってだな」
「それで、質問の答えはまだですか」

この場で呼ばれる筈のない固有名詞が出ている時点でもう疑いは解けている。それでも、道明寺は上から退きはしなかった。少しして、佐竹は「学校とかで『文句のあるやつは帰れ』みたいな事を言いだす指導者、いなかったか」と言った。

「いましたね」
「そういう時に理不尽だと思ったら真っ先に席を蹴って帰るようなやつだ」
「なるほど」
「こんな事を聞いてお前がどうしたいのか全くわからないが。無駄に頑固で、まっすぐであろうとしつづける変なやつだったよ」

自分が退こうとするより前に、隊長は一瞬で道明寺の下から抜け出して立ち上がった。「満足か」と尋ねながら、倒した連中の捕縛と止血を始める。もう一人の相手をしながら道明寺は尋ねた。

「苦労したんじゃないですか?」
「……まあな。でも楽しかった」

それきり、隊長は黙々と作業を続ける。そうして捕縛を終えてから、ぽつりと「後悔ばかりで思い出すこともなくなってたけどな。そうだな、楽しかったよ」と呟く。道明寺が手を止めずにそちらに視線を向けると、隊長は視線を逸らして離れた床に座り、通信機を取り出しながら続けた。

「笑ってた時の声が思い出せないんだ。思い出そうともしないうちに、いつの間にか最期に聞いた声に全部上書きされて。……そうだな、今となってはそれが一番の後悔かもしれない」

それきり、隊長は通信機に視線を落として黙り込んだ。おそらくは任務完了の報告を打ち込んでいるのだろう。通信機能はとっくに復活している。通信が途絶したと思いこまされていただけで最初から途絶えていなかった可能性も高いな、と道明寺は思った。

「それで、道明寺。こちらからも一つ質問だ」

何か声をかけるべきか迷っているうちに、隊長は通信機から顔を上げないまま出し抜けに言った。常夜灯の名を出した時点でほぼ自明とはいえ、そういえば自分自身が道明寺である事の確認はなされていなかった。無言で頷き、質問を待つ。

「さっきはどうして踏み込んでこれた。俺が、お前をお前であると認識出来ていなかった……敵に見えていた可能性には当然気づいていただろう。いつぞやみたいに、俺に撃たれるかもとは思わなかったのか」
「9月16日の時みたいに?」
「ああ。撃たれないだろうと思ったのか? ……それとも、撃ち殺されてもいいと思っていたのか?」

平坦な声。顔を上げれば、射抜くような視線だけがこちらに投げかけられている。日付を答えた時点で”確認”は済んでいる筈だが、これで終わる訳にはいかないらしい。

「両方です。俺が死んだとしても、貴方が残っているなら収容は出来ただろうし。戦略的にはあなたが生き残る方が有用でしょう」
「それは、」
「俺はね、佐竹さん。3年前の時点で撃ち殺されても何もおかしくない命だったと思ってるんですよ。あの時撃たれていても、それは決して間違った判断じゃなかった。それがおかげさまでこれだけ生き残ってるんです。今死んだって感謝こそすれど、後悔も恨みもしないですよ」

さらに言えば、それより昔に死んでいたって不思議ではなかったのだ。自分は自殺未遂者として財団に拾われた身分である。もう少し素質がないと見做されたらDクラスか何かになっていても不思議ではなかっただろう、と道明寺は思っている。流石にそこまでは言わないが。

「それでも。俺は何も後悔してないけど、あなたはそうじゃないって事を、俺は知ってます。目の前にいるのが俺である可能性に気づいた上で、もう誰も撃ちたくはないと思ってるんじゃないか、と」
「……そうだな、俺は撃てなかっただろうよ。あの場で、踏み込んできているとわかったとしても」
「俺も撃たせたくはなかった。だからあの瞬間、その前にどうか出来る可能性に賭けました」

酷く暗い表情で、佐竹は「怖かったんだ、2回目が」と呟く。そういえばこの人は自分の偽物の足を撃っていたのだった。それも、名前を呼ぶとか何とかそういった余計な情報を与える事なくだ。何が”撃てなかっただろうよ”だ、と言う台詞を辛うじて飲み込む。少しして、彼は呟く。

「……あのまま沈黙が続いたとして、俺の呼びかけにろくに答えが帰って来なかったとして。俺はあれに耐えられ続けたかどうか、あまり自信はなかった。あの台詞が最後だったら、あれが本当のお前だったらって、そればかりが、それだけが」

言葉の輪郭が形をなくしていこうとするのを、道明寺は半ば遮るようにして問いかけた。

「あの、俺の偽物。何かその前にも言ったりしたんですか?」
「この場でお前に聞かせたくはない」
「じゃあ言わなくていいです」

道明寺は慌てて付け加えた。溜息と共に、佐竹は顔を伏せて片手で覆い隠した。顔を伏せたまま、隊長は呟く。

「ずっと、どうしようもなく怖いんだよ。また誰かを死なせる事が。もう何年も経つのに、全く慣れない」
「慣れるつもりもないんでしょう」
「ああ。それが怖くなくなったら何かが終わる気がして。それが一番怖い」
「それで苦しみ続けられる位には強い人だから、俺は撃たれずに済むだろうって思えたんですよ。……3年も近くにいればわかります」
「そうか。3年だったな」
「俺はもう、撃たれるのを待っているだけの新入りではないんですよ」

他者の命を賭して戦い続ける事がどれほどの重荷となるのか、自分が真に知る事は出来ないだろう。何せ自分で命を手放そうとした身だ。でも、ただの重荷の一部で在り続けるような真似はしたくなかった。隊長がどうしたって他者の命を背負って苦しみ続ける事を選ぶのなら、同じものを背負おうと試みる位の事は出来るはずだ。

「新入りのデルタがいつまでもそのままの存在ではない事を、あなたはよくご存じでしょう。俺だってあなたと同じ恐怖を持つくらいは出来ますよ」

答えは長らく返って来なかった。余計なことをべらべらと喋りすぎたかと不安になってきたころ、隊長は顔を上げて「そうだな」と答える。驚くほどに、普段通りの声と表情だった。

「今回は助かったよ」
「こちらこそ助かりました」
「それと、悪かったな。いろいろと情けない事を言った。何が怖いの何のと」
「いいじゃないですかそれくらい。俺だって怖いものくらい沢山ありますよ」

佐竹は意外そうにこちらを覗き込んだ。

「そういえばお前のそういった話は聞いたことがなかったな。何が怖いとかあるのか」
「高い所が苦手ですね。あと、遠くから見た”常夜灯の主”。笑ってくれていいですよ」
「いや笑いはしないが……何でだ?」
「あの外套の前の持ち主とはいろいろありましてね。正直一人で行きたい場所じゃないんですよね」

釈然としない様子の隊長に向かって「という訳で今度ご一緒させてください」と付け加えると、さらに釈然としない様子になった。多分、どこから突っ込みをいれるか考えているのだろう。そうこうするうちに、階下から、いくつもの足音が聞こえてきていた。

「まあ、また話しますよ。ようやく増援が来たようなので」
「そうだな。ひとまず、帰ろう」

知能を有する人型異常存在が二つ。途方もない仕事だったが、とにかく今回の仕事はこれで終わりだ。増援と共に異常存在を回収して、そして自分たちは帰ることになるだろう。自分たちのセクターに。帰還ゲートの先に佇む、あの、少しだけ寂しい灯火のもとに。

今はそれでよしとしよう。そして、もう一度、今度はこの人とあの場所を訪れよう。戻らない人々の残滓が、残響がそこに見つかるかもしれない。別れの後に、残っているものがあるかもしれない。それが、あのありふれた休憩室の光に望む、道明寺のささやかな願いである。

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