あか、あお、みどり。
世界は色彩で満ち溢れている。
大部分の哺乳類は網膜の錐体細胞を二種類以下しか持たず、それほど豊かな色覚を有してはいないらしい。光を三原色に分けて知覚しているのは、ヒトを含む霊長類などごく一部だけ。だから彼女は、自分がヒトに生まれて良かったと思う。こんなにも色とりどりの世界を、自らの目で見ることができるのだから。
人間は情報の八割を視覚から得ている、なんて話を聞いたことがある。だからかどうかは知らないが、様々な場面で目に飛び込んできた光景が強い思い出となって心に残るということはよくある気がする。だから本当なら、彼女は今頃、燃えるような夕焼け空の茜色を目にするたびに、あの日の出来事を思い出すようになっていたかもしれないのだ。
だけどそんなことは起こらない。あの夏の日のことを、彼女はもう憶えてはいないから。
ある年の八月十六日。曇り時々晴れという天気予報に反して、上空はどこまでも雲ひとつない快晴が続く、そんな真夏日の午後。客のまばらなローカル線の車内、長い座席の真ん中辺りに、一人の若い女性が腰かけている。歩き易そうなスニーカーにパンツスタイル、頭部にはフェルメールの絵画よろしくターバンを巻き、露わになった首筋は絹のように滑らかで白い。その双眸は、列車後方へと流れていく窓の外の山並みをじっと見つめている。
普段過ごしている職場ではとてもお目にかかれない光景に彼女は息を呑んでいた。どのくらいの間そうしていただろう。三十分か、一時間か。眼前を過ぎゆく空の青と木々の緑のコントラストが余りにも瑞々しくて、思わず釘付けになってしまって。
釘付けになっていたものだから、うっかり七駅分も乗り過ごしてしまったのだ。
部署にもよるが、財団にもちゃんと夏休みはある。勿論全員が一斉に休むわけにはいかないから、その時期は各人でばらばらだし、そんなに長い休みは取らせてもらえない。
この夏、朝夕検査員は夏休みとしてお盆過ぎに五連休を確保し、うち三日間でちょっとした旅行に出かけることにした。言ってしまえば大したことではないが、連休はともかく泊まりがけの旅行について許可を貰うのはなかなか難儀であった。朝夕のセキュリティレベルは最低値のゼロで、その点では旅行の申請は受理されやすいほうだ。問題はそこではなくて、彼女自身の身体のほうにある。彼女の髪の色と性格は、その時々の天気によって変化する。晴れていれば透き通った青い髪に明るい性格、曇っていれば黒っぽい灰色の髪に無口な性格、という具合だ。自分にも周囲にも実害は特にないのだが、異常であることに変わりはない。なるべく人目に付かないことを要請されるのは、財団の方針からして当然であった。
そんな訳で、彼女が旅行らしい旅行に出かけるのは、彼女の髪が今の状態になって以降初めてのことだ。彼女の提出した申請書ひとつのために、人事部門、倫理委員会、その他の関連部署の間で侃々諤々の議論があったとか、なかったとか。最終的になんとか許可は下りたが、代わりに色々と条件を付けられた。外では常に頭部を覆い隠すこと、人混みは避けること、エトセトラ、エトセトラ。
従って必然的に目的地は人口の少ない地域に絞られた。最終的に彼女が選んだのは、とある山間のマイナーな温泉地。特急と地元の私鉄と路線バスを乗り継いで数時間の道のり。予定では今日の六時頃には着くはずだった。
はずだったのだが、降りるべき駅で降り損ねたとあっては予定は狂わざるを得ない。どうやらもう少しかかることになりそうだ。
初めて乗る路線で勝手も判らないが、とにかく次の駅で降りてみよう。
そんな場当たり的な判断を下してしまったのは、雲ひとつない快晴でいつになくアクティブな性格になっていたからかもしれないし、久々の旅行に浮かれていたせいかもしれない。いや、多分両方だ。
鬱蒼とした森の中。風に揺らぐ枝葉のさざめきに混じって、いささか場違いなカリカリという金属音が鳴る。見ればそこには深緑のテントが張られている。中にいるのは二人の男女。二人ともが同じデザインの登山服に身を包んでいるが、互いに色が異なることから個人の識別は容易だ。
「ねえねえお兄ちゃん、コンビーフ食べていい?」
桃色の服の女が、青色の服の男に言う。金属音の正体は、彼女の手許のコンビーフ缶の開封される音だった。
「どうぞ。というか開けてから言うなよ、伊藤」
「心優しい鈴木お兄ちゃんなら絶対許してくれると思って」
「やかましいわ。まあ許すけどな」
決して大きくないテントは本来は一人用であるらしく、二人ではいかにも暑苦しく窮屈そうだ。それでも彼らは文句も言わず、テントの外の同じ方向を眺めている。
「今年もつつがなく終わりそうでなによりね」
「油断は禁物だぜ。どんなイレギュラーが起きるか判ったもんじゃない」
「言われなくても解ってるよ」
二人の視線の先には、木々の合間から小さな駅が顔を覗かせている。彼らは財団の五人組フィールドエージェントチーム"エージェンツ田中ズ"のうちの二人。今回の任務の相手は目の前に見える駅、SCP-281-JPだ。お盆の三日間だけ活性化するSCP-281-JP、および附随して出現する人型実体であるSCP-281-JP-1の監視を彼らは命じられている。
「でも、つまんない仕事よね。毎年同じ内容の現象をただ見てるだけなんて」
「楽チンでいいじゃねえか。なんにせよ今日で最終日だ」
「あ、見て見て、電車来たよ!」
「どうせ誰も降りねえって」
遠巻きに見張る彼らの予想は、次の瞬間には呆気なく裏切られることになる。ゆっくりとホームに停まった単行列車。左右に開いた昇降口から、乗客が一人、ホームに降り立った。
車外に出た途端、むわっとした空気が全身にまとわりつくのを感じた。偶然にも辿り着いたその駅はひどく簡素な造りだった。駅舎すら存在せず、純粋にプラットホームのみで成り立っている。簡素さを感じる理由は周囲の環境にもあった。ホームに立つ彼女の前方には山。後方にも山。人家も舗装路も見当たらない。俄かに嫌な予感がして、ホームに掲示されている時刻表を見た。
果たして嫌な予感は的中した。面積の無駄遣いではないかと言いたくなるほどに数字の少ない時刻表。さっきとは逆方向の、次の列車は。
「にじゅうじ、さんじゅう、はっぷん……」
浮かれた気持ちは一瞬で霧消した。
列車が来るまで三時間ちょっと。それはすなわち、この山奥であと三時間、時間を潰さなくてはならないことを意味した。
しかし、くよくよしても仕方ない。まずは周りを見回ってみよう。駅の外に出てみると、人の足で踏み固められた原始的な道が伸びている。この道はどこに続いているのだろう。心のどこかにあった冒険心を刺激された朝夕は、予定外のハイキングと洒落込むことに決めた。
小一時間ほど散策した結果、駅の周囲は決して完全な無人ではないらしいと判った。山の陰に隠れて駅からは見えなかったが、駅から少し離れたところに小さな集落が存在した。
とはいえ建造物は数えるほどしかなく、ほとんどが古びた民家だ。数少ない例外のひとつは、集落の中心辺りに建つ一軒の商店。軒先の陳列からして、昔ながらの駄菓子屋であるらしい。
「いらっしゃい」
店内に入ると奥のほうから老婆の声がする。この店の主に違いない。
「オヤオヤ、見ない顔だ。登山のお客さんかい」
「いえ、実は降りる駅を間違えてしまって」
「そうかい。それは御苦労だ」
「この辺は登山客が多いんですか」
「いいや、滅多に来ないね。ただ、一昨日珍しく来たもんだから。五人も」
やはりここは旅行者の来るような場所ではないらしい。名所旧跡の類は期待できそうにない。
何か面白いものはないかと周囲を物色してみる。一山幾らのフーセンガム、煙草形のチョコレート、スナック菓子、百万円札。薄暗い店内には所狭しと商品が陳列され、まるで巨大な玩具箱の中にいるようだ。端から端までひとしきり眺めて楽しんだ後、店外の熱気を思い出して、アイスバーを一本買うことにした。
「毎度あり」
「すいません、この辺りで何か、変わったものとかありませんか。なんでもいいんですが」
「そうだねえ。変わったものは特にないけど、強いて言えば」
広葉樹に覆われた山腹に、突然現れる開けた空間。長い石段を上がった先のその場所に、この集落で唯一の神社が鎮座している。そこからもう少し山を登ったあたりに、もうひとつのテントはあった。
テントの主は男二人、女一人の三人組。聡明な読者諸賢はピンと来たかもしれないが、何を隠そう、エージェンツ田中ズの残りの三人である。
「面倒なことになったね」
そう言った黄色の登山服の女は、奥歯で裂きイカを噛んでいる。
「何が」
赤色の男は双眼鏡を覗いている。
「さっき連絡があったじゃん。列車から一般人が降りてきたって」
「面倒ではあるけど、こういうときのために俺達が派遣されたんだ」
「真面目だね田中兄ちゃんは。まあいっか。神社まで来なければ無問題だし」
神社の境内には白いワンピースを着た少女の姿がある。SCP-281-JP-1。田中の双眼鏡は"それ"をじっと捉えていた。駅側の鈴木と伊藤がSCP-281-JPの監視を担当しているのに対し、SCP-281-JP-1の監視は神社側の田中、山田、木村の担当だった。
「とか言ってるときに限って、来ちゃったりするんだよなあ」
「……噂をすれば」
今まで黙っていた緑色の服の木村が、鳥居のほうを指差して呟いた。指先の示すほうに視線を向けると、石段を下から登ってくる人間の頭頂部が見えてきた。
「げえっ。えっと、どうするんだっけ、こういう場合」
「……SCP-281-JP-1と一般人の接触は特に制限されない。ただし、接触後すぐに記憶処理を受けてもらう」
「つまり、しばらくは様子見ってことか」
「ちぇ。仕事が増えちゃった。って、あれ?」
石段を上がってきた女性の顔が気に留まって、山田は少し目を細めた。
「どうした、山田」
「いや、気のせいかな。あの顔、どこかで見たような」
朝夕は駄菓子屋の店主に勧められ、集落の神社を訪れることにした。今でこそ過疎化の影響で廃止されたが、かつては集落総出の盆祭りも開かれていた場所だと、駄菓子屋さんは教えてくれた。
買ったアイスを食べながら石段を登り切り、立派な石造りの鳥居をくぐる。目に映ったのはもうほとんど廃墟同然の社殿。それ自体は予想していた通りだった。だがもうひとつ、そこには予想外のものがあった。ワンピース姿の女の子。歳は中学生くらいだろうか。
「こんにちは」
朝夕はその女の子に軽く会釈した。
「お姉さん、誰?」
「観光客、ってことになるのかな、一応。ちょっと降りる駅を間違えちゃいまして」
「ふうん」
答えは生返事。余りこちらに興味がない様子。
「きみ、この村の子? お名前は?」
「千夏。お盆だから帰ってきてるの。お姉さんは」
「私は……朝倉まゆみ」
財団の規定で、外部では偽名を使用することになっている。
朝夕はもう一度、千夏をまじまじと観察してみる。さらさらの黒い髪。白いワンピースから伸びる四肢はこの強い日差しにも関わらず、ワンピースに負けないほど白い。
「怪我、してる」
少女の柔らかそうな肌の随所には、山の中で遊んでいて拵えたのだろうか、複数の小さな傷や痣がある。
「大丈夫よ、このくらい。慣れてるから」
「一人で遊んでるの?」
「うん。友達はいないわ」
確かに子供の少なそうな村だ。無理もない。ならば。
「ねえ、お姉さんね、ここでもうしばらく時間を潰さないといけないんだけど」朝夕は、駄目元で提案してみることにした。「一緒に暇潰ししませんか?」
「私と?」
千夏はきょとんとしている。
「駄目かな」
「いいけど、まず、それ」
千夏がこちらに指を差す。つられて自分の手元を見てみると、そこには溶け落ちる寸前のアイスがあった。大慌てで残っているアイスを食べ切る。
「大丈夫?」
「うん、ありがとう」
べとべとになった指先と口許をハンカチで拭きながら、朝夕は答えた。
「あっ、見て、これ」
朝夕は俄かに顔を綻ばせ、持っていたアイスの棒を千夏に見せる。棒にはカタカナで三文字、"アタリ"と印刷されていた。
「何かいいこと、ありそうですね」
「見ぃつけた!」
大樹の幹の後ろを覗き込んで、朝夕は叫んだ。指差した根元には体育坐りの千夏が潜んでいた。
「お姉さん、かくれんぼ強すぎだよ」
「隠れてるものを見つけるのは得意なんです」
鬼ごっこ、かくれんぼ、達磨さんが転んだ、などなど。朝夕と千夏は思い付く限りの遊びを神社の境内で繰り返した。こんなに全力で身体を動かして遊ぶのは、朝夕にとっては久しぶりのことで、すっかり童心に帰ってしまった。もうどれくらい遊んだだろう。少しずつ日も傾いてきた。
「かくれんぼ終わり。他のことしよう」
「そうですね、次は何をしましょうか」
朝夕は少し困ってしまった。大体の遊びはもうやりつくしたような気がする。アイデアを出そうと何気なく目を閉じたとき、周囲で響く音に気付いた。
「そうだ、蝉採りしましょう」
「蝉?」
「ええ。こんなにいっぱい木がありますから、すぐ見つかりますよ。例えば……ほら、あそこ」
朝夕は千夏をおぶって、高いところが見えるようにしてやる。千夏の顔の正面、木の幹に一匹の蝉が止まっていた。
「これはクマゼミですね。暖かい地域に多い蝉です。身体が黒くて大きいので、クマゼミと言うようになったらしいですよ」
「へえ、詳しいんだね」
「友人に蝉マニアがいまして」
「あ、あれ!」
今度は千夏が何かを見つけたようだ。促されて振り向いた先には、立派な蝉の抜け殻があった。
「これは抜け殻ですね。結構大きいですねえ」
「ここからどこかに飛んでったんだね」
「今頃どこかで元気に鳴いてるんでしょうか」
二人はふと会話を中断して、耳を澄ました。人工的な音は何ひとつ聞こえない。二人の息遣いと、けたたましい蝉の声だけがそこにあった。
「力強い声ですね」独白のように朝夕は呟いた。「真夏に聴こえるどんな音よりも力強い音です。七日間だけの儚い命の燃える音」
気付けばもう時刻は夕暮れ時だ。耳をくすぐるようなクマゼミの鳴き声は、やがてノスタルジックなヒグラシの鳴き声に替わっていく。
「なんだか、寂しいね」
「だけど、また来年も、蝉の季節はやって来ます」
朝夕は少しばかり体術の心得がある。だからこそ、彼女は途中から気付いていた。千夏の身体の傷と痣が、山で遊んでいてできたものなどではないこと。見た目以上に重い怪我を負っていること。こんな怪我を負いながら元気に駆け回ることなど、本来なら不可能だということ。そして、背中におぶった少女に、重さというものが存在しないこと。
「千夏ちゃんも、また帰ってくるんですか」
雲よりもなお軽い少女は、朝夕の頭の後ろで答えた。
「うん。来年も、再来年も、その次も」
朝夕は鳥居の前まで移動して、千夏を地面に降ろした。
「じゃあ、私はそろそろ行きますね」
さようならと手を振って、石段のほうへ向かおうとする。夕焼けに染め上げられた山間の景色は、どこを見渡しても茜色だ。透き通った空、山肌、点在する家々、そして、ターバンの下の朝夕の髪もまた。
「お姉さん」
千夏に後ろから呼び止められた。名残惜しそうな彼女の心をほぐすように、朝夕は優しく語りかける。
「夕焼け、綺麗ですね」
朝夕はこの色が好きだ。夕方の空の色と、夕方の自分の髪の色が。
「明日も、きっといい天気です」
「ありがとう。楽しかった。今日のこと、忘れないから」
黄昏時の暗さの中でも明るく映える少女の笑顔。その笑顔に、こちらも満面の笑みで応える。
「私も、楽しかったです!」
「朝夕まづめさん」
神社の石段を下りた辺りで、二人組の男女に名前を呼ばれた。女が片手に持っているスプレー缶に、朝夕は見憶えがあった。
「財団の方ですか」朝夕は問いかける。「速いですね。連絡を入れる手間が省けました」
「フィールドエージェントの田中と申します。こちらは同じく山田」名乗り出たのは男のほう。「これは例外的な措置ですが、貴方は財団の職員ですので、掻い摘まんで説明をいたしますね。そのほうが話が速いので」
男は少しだけ勿体ぶってから、実に簡潔な説明を始めた。
「今日貴方が遭遇した一連の事象は財団の収容対象であるオブジェクトです。具体的にはあちらの駅と、神社にいた少女。プロトコル上、目撃者には記憶処理が施されることとなっております。ですので」
女がスプレー缶の口をこちらに向ける。
「ええ、判りました」
「協力的で助かります」
「でもよかった。あの子はもうとっくに保護されていたんですね」
「まあ、我々はただ観測するだけですが」
十分だ、と朝夕は思った。彼女の帰郷に、毎年気付いている人間がいるだけで。それだけでも十分だ。
「では、クラスA記憶処理を開始します」
スプレーから噴き出るエアロゾルが鼻腔と口腔に満ちていく。なぜかなんとなく懐かしい香りに包まれて、朝夕の意識は混濁していく。今日この村で経験した出来事の記憶が、混ざり合って溶けだしていく。
意識を手放す間際、脳裏に少女の顔が浮かんだ。私は彼女を忘れてしまうけれど、彼女はこれからも私を憶えていてくれるかな。私と遊んだ思い出が、素敵な記憶として彼女の中に残り続ける。そう考えると朝夕はとても嬉しくなった。
次に目が覚めたとき、私は温泉街にいるだろう。始まったばかりの夏休みに期待を膨らませながら、朝夕はしばしの眠りに就いた。
十九時四十七分。少女はプラットホームに立っている。額から血が伝って落ちる。目から赤い涙が溢れてくる。何もかも去年と同じ。
だけど去年と違って、少女は嘆かなかった。去年と違って、少女は悲しくなかった。少女が夏の日に囚われてから数十年。こんなことは初めてであった。
人間は情報の八割を視覚から得ている、なんて話を聞いたことがある。だからきっと、少女はこの先、燃えるような夕焼け空の茜色を目にするたびに、今日の出来事を思い出すようになるだろう。
十九時五十六分。急行列車がやって来る。満ち足りた表情で、少女は線路に身を投げた。