新しき夕日
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「いつも通り書いただけですが、問題でもありましたかね?」

1998年7月。ポーランドでショパンの顔をしたセミの形をした神格存在が暴れ回り、ヴェールが崩壊した。その余波もあり、恋昏崎新聞社は創立以来かつてないほどに騒がしく、記者たちはオフィスの中を忙しなく駆け回っていた。その狂騒の中で、広末孝行1はデスクと話をしていた。

「確かに、いつもであればこれで十分な内容ではあるんだがな」

読谷山デスクは座席にどっしりと座りながら、原稿の文字をなぞった。財団がいつものように失敗して、それを批判する内容だ。デスクが再度原稿から目を放しても、広末は腑に落ちていないような顔をしていた。

「孝、お前が手際良くそれらしい記事を作ることができているのは事実だ。だが、今我が社を取り巻く状況に目を向けてみろ」

恋昏崎新聞社は日本の超常コミュニティの端の単なる地方紙でしかない。隔離次元である恋昏崎内では市場を独占しているが、一歩恋昏崎から出ればいくつかの個人や団体が購入するぐらいの小規模なものである。

小さな新聞社は資金も乏しく、そこにジャーナリズムとしての規範を持ち出すほどの余裕はない。恋昏崎内におけるニュースはともかく、非異常の出来事に関しては全国規模の新聞社の記事を切り貼りしたものも多い。

恋昏崎は多くの超常コミュニティの構成員を抱える街だ。そのコネクションを活用することで、複数のツテから情報を得ることができている。しかしそこに一次ソースは少ない。風の噂といった類の情報も多く、時には事実無根のデマが含まれることもある。それでも、情報が錯綜する超常社会の情報を仕入れることができる新聞には十分な需要があるのだ。

広末は脳内で自社の現状を客観的に評価したが、ますますどのように今回の記事を改善するのか分からなくなった。広末の視線が飛び回るのを見て、デスクはゆっくりと口を開いた。

「ポーランドでの神格存在の出現によるヴェールの崩壊。さて、今回の件で一番喜んだのは誰なのか?」

「まぁ、蛇の手ですかね」

広末は突然の問いかけに戸惑いながらも答えた。

「確かに奴らは超常存在の社会進出を狙っている。だが、それは一部の派閥に過ぎないし、こんな形でのなし崩し的な超常存在の露出を望むか?」

「ありえない話ではないと思いますけどねぇ」

広末は小さく言葉を零す。

「分かった、じゃあ他の候補は?」

「そうですね、パラテック企業群でしょうか。市場が広がる訳ですし」

「それも一理ある。だが、今までは超常コミュニティの中だけだと見逃されていたものも、これからは正常性維持機関からは厳しく締め付けられるだろう。そんな希望に満ち溢れた世界じゃない」

広末は溜息をついてから口を開く。

「ヨミさん、答えがあるならもったいぶらずに教えてくださいよ」

読谷山デスクは人差し指でトントン、と机を叩く。

「俺たちだ! 知ってるか? 今あの月刊ムーが山ほど売れてるんだ。科学の信用は地に落ち、社会の実在は疑われている。この世界は混乱の中で情報を求めている。この状況は俺たちを必要としている」

あぁ、と広末は納得した声を漏らす。

「世界の裏側を支配していたMIBのことを世に誰よりも早く知らしめることができるのは僕たちだけで、顧客も増えてくれること間違いないってワケですね」

「そうだ。読売にも毎日にも朝日にも、いや新聞社だけじゃねぇ、NHKにもCNNにもBBCにも負けねぇようなメディアに俺たちはなれる! それだけの超常社会への理解という強みが俺たちにはある!」

読谷山は席から立ち上がり、熱弁する。

「これから一般社会にも新聞を発行して恋昏崎新聞社の名前を広げていきたいと思っている。孝の速筆を見込んで、ヴェールの内側の人間に向けた記事を任せたい。いけるな?」

「了解です」

広末はそう返事をすると、自分の席に戻っていったと思いきや、後ろを振り返り読谷山に対して疑問を投げかけた。

「最後に一つお聞きしたいんですけど、なんで今日のヨミさんこんなにやる気に満ち溢れてるんですか?」

「なに、俺だけじゃないだろうさ。蛇の手も、パラテック企業も、ヴェールの内側の人間も、財団でさえも──前を見ずにはいられないだろうな」

「前、ですか」

「そうだ。これから始まる新しい時代に、俺たちはついていかなきゃいけない。これまでの旧態依然とした恋昏崎新聞社からは変わっていかなきゃいけない」

読谷山は背後のブラインドカーテンを引き上げた。朱光がオフィスの中を明るく照らしていく。

「これから始まるんだよ、恋昏崎新聞社は」

窓の外側には、輝く夕日が六時ヶ浜の向こう側から昇ってきているのが見えた。水面が光の道を導き、海の先まで続いていた。


初夏の東京の朝。駅のコンビニの棚には見慣れない赤色の新聞が差しこまれていた。多くの人は普段から愛読する新聞を買っていくが、中には試しにそんな怪しげな紙面を購入する物好きもいた。新聞の一面には人面ゼミの顔面が映されており、購入者の男は驚嘆の声をあげる。そのフックに惹かれた読者は歴史の裏側を暴く本文を読み進め、電車が目的地に着く頃にはその新聞の虜となっていた。これは恋昏崎新聞社という名前が日本において知られるようになり、恋昏崎ニュースエージェンシーとして成長するようになるまでの前日譚である。

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