悪夢の日-2:胡乱な雨
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"姫"は作戦命令を受けて、サイト-81██へ襲来しつつあった。

人口密集地でない日本の自治体には、財団職員かその関係者しか住んでいないものがいくつかある。財団は巨大にならざるを得ず、世界は未だに腹に超常を抱えすぎていて、それは東方の島国でも例外ではない。

内側から脱走者を出さないために、それこそ彼女のような侵入者を防ぐために、モノやヒトは出るにも入るにも財団の監視を受ける。行政記録には不審な点は一切なく、一般人にはどうやっても辿り着けない町。インサージェンシーは侵入のためにいくらか『骨』を折ったが、発見は免れないはずだ。必ず財団と火力が衝突する時点があるだろう。そのために"姫"は投入されている。

"姫"はコンビニに商品を配送する中型トラック……に見せかけた武装車両のエンジン音を聞きながら、項垂れるようにして荷台の中で揺られていた。周囲には所狭しとダンボールが積み上げられ、彼女は数人の隊員と一緒に詰め込まれていた。"姫"の黒髪はまとめて防弾ヘルメットへ収納されている。耐熱性と防弾性に優れた軍用ジャケットは華奢な"姫"の身体には不似合いだったが、肩に掛けられたカップケーキ柄のファンシーなショルダーバッグが一層不自然さを際立たせる。

インサージェンシー。混沌の中にあって未来を眼差す者達。自分がこれからすること。自分がこれから壊すもの。沈黙の内に聳えるダンボールの山を眺めながら、どこか非現実的な思想にふけるだけの慣れはもう備えていた。このトラックの他にも、いくつかの偽装車両が分散的に配置されているはずだ。突入人員、アサルトライフル、手榴弾、携行ミサイル、それぞれ30kgほどの蠢く毛髪の塊、火炎放射器、箱詰めになったカップケーキ。街には明確な異物が浸透している。異物のひとつとして作為的に身体から力を抜いている"姫"へ、同僚の薄っぺらい声が隣から立て続けに聞えた。

「"ヒメサマ"?」

「何。作戦前だけど」

「前から聞きたかったんですが、"ヒメ"っての、自分でつけましたか」

「趣味悪いかな」

「お似合いですね。腹が立つ所とか」

"姫"の根気が保ったのはそこまでだった。完全な無駄口だ。彼の識別コード「ファッジ3」は覚えていたが、いちいち呼ぶ気にもならない。ただ、その様子を眺めていたファッジ2は"姫"のショルダーバッグを見ながら口を開いてしまっていた。

「コードネームとセンス、どっちがどっちに引っ張られました?」

「なんだ、お前が持ってくれるのか?」

「まさか。死ぬほど似合いませんよ」

そうだね、死ね、と返しながら、"姫"は軽くバッグを撫でた。迷彩上も有効とは言えないカップケーキ柄のバッグは、それでも"姫"を特別にしている物体の一つだ。両者は決して引き剥がせないし、引き剥がす必要もない。このバッグから生まれるカップケーキだけが"姫"に応える。

同僚との会話を途切れさせた"姫"がショルダーバッグに手を突っ込むと、すぐに慣れた感触に行き当たった。チョコレート味のカップケーキだろう。退屈だった。これから起こすことを理解しているから。

バッグからカップケーキを取り出す。彼女はこの存在が好きだった。手の平に収まりながら一つの菓子として独立し、甘くカラフルに転がるカップケーキが子供の頃から大好きだった。カップケーキがあれば何でもできる気がして、ピンク色のカップケーキの残像は永遠に瞼の裏で踊り続ける。"姫"にとって、自身はカップケーキの付属物でしかない。カップケーキによって地獄から這い上がり、カップケーキによって価値を認められ、カップケーキで誰かを殺す。

各種車両には予め"姫"が生成したカップケーキを詰め込めるだけ詰め込んである。作戦実行時になれば箱を開けるだけでカップケーキは"姫"の手足となり、戦場を縦横無尽に駆け回るだろう。何万ものカップケーキの位置や状態をまとめて処理すると誤って味方を吹き飛ばしかねないため、数十個、あるいは百個ごとに小分けしてナンバーで管理することで「どこ」で「どう」使うかを的確に指示する、というのがパターン化されていた。必要に応じて必要な規模の箱を開けることで、適切な規模で戦力を運用できる。

同僚である"ファッジ"の面々は"姫"のバックアップのために編成された部隊だった。意のままにカップケーキを経由して現実操作を行う"姫"ではあるが、肉体としてのスペックは人間の域を出ていない。"姫"自体はカップケーキを爆弾、壁、道、拳にして前線補助を行う後方任務だが、護衛小隊をつける程度の甲斐性はインサージェンシーにもあるらしい。貴重な現実改変人型資産、という作戦的な価値も込みで。

今、ある女がサイトへ潜入しようとしているのを、"姫"はカップケーキ越しに感じた。それはインサージェンシーの女であり、カップケーキは成功すれば女がサイト内へ設置する兵器として、失敗すればフェイルセーフ装置として機能する。非常時になれば、カップケーキから噴出する爆炎が全てを葬り去ることを期待されていた。姫はカップケーキの息遣いを感じる。

車内は暗く、目を閉じた視界はそれ以上に暗い。カップケーキの鼓動をひたすらに感じ取っている。カップケーキが転がる。カップケーキが落ちる。カップケーキの周りで、ざわざわと何かが騒ぐ。短い信号を受け取り、"姫"はカップケーキを起爆する。カップケーキは爆炎の最中へ消え、"姫"は目を開ける。

"姫"の生むカップケーキは宇宙より無限大の可能性を持つ。"姫"が命じれば、カップケーキはその容積の限り応えてくれる。金槌にも、手榴弾にも、階段にも、盾にもなる。カップケーキに対する影響力だけで、"姫"はエタノールの香りの巣箱の中で生き延びてきた。そして今日も生きる。子供の夢の延長線上で。カップケーキの奴隷として。

舗装道路を走っているので揺れは少なく、カップケーキを食べるのに支障もない。口の中で溶けていくチョコレートの風味を味わいながら、無骨な軍用時計で時刻を確認する。出発時に部隊全員と合わせたものだ。潜入要員は失敗していた。次の段階に進まなければならない。トラックはとっくに方向を転換している。潜入ではなく、突破を目指す方へ。

"姫"は軽く通信機器に手を当てつつ、チームメンバーへ点呼を取る。

「"姫"より"ファッジ"、チェック」

「ファッジ1、チェック」

「ファッジ2、チェック」

「ファッジ3、チェック」

「ファッジ4」

チェック、は続かなかった。もたれかかっていた荷台の壁がそのまま隊員たちの頭を殴り、山積みのダンボールが軋むように揺れ、そのまま崩れる。大きく傾いだ視界と頭を割るような轟音の中、トラック全体が外部からの衝撃で横倒しになったと気付くまでに数瞬を要した。そしてその間も姿勢は修正されることなく、金属の擦れる音と不気味な振動を伴って、トラックは徐々に減速し、止まる。

このタイミングで、このトラックが、わざわざ攻撃される可能性は一つしかない。周辺からも腹に響くような破壊音が続いていて、インサージェンシーの戦力は殆どが発見されているだろう。隊員は傾いた壁を足場にして各々の小銃を構え直し、囁くように情報を交換する。

「いくらなんでも早すぎます。起爆から二分も経っていません」

「周辺は連中が接収してるんだろ。走ってる車両をとりあえず全部止めてるんじゃないの」

「燃料への引火が心配です。外に出ては」

「狙い撃ちにされる」

隊員たちは運転手については迅速に諦めた。運が良ければ昏倒、悪くすれば血霞になっているだろう。インサージェンシーが補強した装甲車両を横倒しにするような火力を装甲に守られず受ければ、まず命が危うい。"姫"は先程チェックした無線機を繋いで司令部へ指示を仰ごうとするが、応答したのはインサージェンシーのオペレーターではなかった。イヤホンは単一の日本語のメッセージをひたすら繰り返していた。

『投降しろ。抗戦意思の有無はこちらで判断する』

"姫"は軽く舌打ちをして通信機器を外した。武装解除まで何分、何秒の猶予があるのかさえ曖昧にしておいて、できる限りの投降アピールを向こうから誘う手口だった。通信に割り込まれているので、投入された戦力全体で連携を取って反撃を図ることもできない。例え実際には全ての車両を直ちに制圧するだけの武力を備えていなかったとしても、タイミングがズレれば各個撃破されるだけだろう。装甲が裏打ちされた荷台も、濡らした薄紙のように頼りなく思える。そもそも敵は車両そのものを横倒しにするほどの火力を運用している。本物の戦車ならともかく、偽装を第一目的とする間に合わせの装甲車では持ちこたえられない。

(どうする……)

それぞれの車両に山程積んであるカップケーキは使えない。通信を取ってそれぞれの「箱」を解放させられない以上、爆破しても動かしても味方を巻き込むだけだ。"姫"はカップケーキを音速で飛ばしたり、自由に瞬間移動させることはできない。この車両の中にあるカップケーキを使うにせよ、トラックの外に出すためにはまず"姫"が外に出なければならない。スナイパーか砲台かがどこにあるのかも把握できない状況では、カップケーキを取り出すより先に風穴を開けられる。

諸手を上げて降参することもできない。"姫"は自分の身体を鋼のように硬くすることはできないし、高熱に耐えることもできない。改変能力者だとわかったときの敵の対応はどこも同じだ。グレネードをあるだけぶつけるか、遠距離から高威力のライフルで頭と重要臓器を潰す。相手には捕らえた後にそれがすぐにできる火力があるし、"姫"はそれから確実に逃れられる能力はない。

こうしている次の瞬間に、馬鹿げた速度と重さの弾丸が車両に撃ち込まれるかもしれない。あるいは、既にガソリンに引火していて、間もなく炎に包まれるかもしれない。

(どうする?)


実際の所、財団のサイト-81██周辺地域の防衛機構は何も特別なことはしていない。検査所の爆破に対してただ正常に作動し、そして強化された監視の結果として不審な車両を発見し、対物ライフルと機関砲で中身を刺激しないように運転席を潰しただけだった。それだけで、インサージェンシーの通常戦力は壊滅に追い込まれていた。

検査ゲートでの不審者、及びその所有品によって引き起こされた火災は速やかに対応された。元々勤務していた検査員、そして不審者連行のために駆けつけた保安職員はそのまま犠牲になり、ガス放出設備による消火は成功していないものの、それだけだ。炎が防火シャッターで区切られた空間内で燃え盛る分には何の問題もない。少なくとも、センサー越しにゲートの様子を見る霧甲水博士はそう考えていた。彼はこのサイトの危機管理を担当していた。室内には、彼と同じようにこのサイトの安全を確保する職員達が、想定された事態に対して一斉に動き始めている。

霧甲水は軽く息を吐いて、再びモニタに目を戻し、各オブジェクトの収容状態を確認する。何ら異常はない。当然だ。単なる火災程度で収容に影響が出るような設計はされていない。繋いでいる通信からも特に致命的な報告は無い。サイト周辺の軍用車両は大口径の銃砲で制圧されている。何も問題はない。

財団での非常事態において、最も重視されるべきなのはオブジェクトへの影響、より具体的には収容違反へ繋がるか、否か。オブジェクト収容棟はおろか、人的被害や金額上の被害さえも最小限に収められた。あの威力の焼夷弾がサイト内部で効果的に使用されていた場合の被害は計り知れない。

炎は消えない。ナパームのような親油性の物質による放火らしく、密室内の消火機構だけでは対処しきれていない。現時点では防火扉を貫通して拡散するような炎ではないものの、未確定要素は多い。そして、これは財団の全ての活動に付いて回る言葉だ  「現時点では」。霧甲水はこの世界にどれだけの数の不条理があり、それらがいかにこちらの都合を無視しきって動くか十分に理解していた。

懸念材料としては、何故か焼夷弾がカップケーキの形状を取っていたことだった。まるで市販品かのように偽造されたそれは、紛れもなく爆炎の出所として機能した。なぜ焼夷弾は金属探知器をすり抜け、わざわざカップケーキの形を取ったのか? そこに霧甲水は忌々しい不条理を見出した。同時に、これが何らかの前段階であるという確信があった。既に部隊は動いている。サイト外周でうろついていた車両はどれも暫定的には制圧され、いくつかは炎を上げているものもある。だが安心できない。

捕縛やアノマリーに対する悪影響を考慮せずに、未だ投降していない車両は全て爆破させてしまおうか、と考えたところで耳元で声が聞こえた。周辺を捜査するセキュリティチームではなく、サイトに常駐しているオペレーターからの通信だ。財団の優秀なオペレーターは訓練通りに、極めて端的に、聞き取りやすく現状を報告する。同時に、否応なく危機感を煽り立てるアラートがサイト中に鳴り響く。

今日の悪夢は空から降ってくる。


水滴は光を反射しながら、水野遍にこんな日も纏わりついた。水音を立てて通った痕は、電灯の光を反射して煌めいている。

警報は既に鳴り終えている。最低限のバックアップが取れていない濡れた書類を引っ掴んで保全庫に放り込む。ただの火災なら、二ブロックも離れたここまで警報が鳴る意味はない。わざわざ外側の廊下まで行って窓を見ずともわかる。サイト周辺では、既に要注意団体との戦闘が始まっている。

警報が鳴った時、水野は平時と変わらずに書類保管庫で山のような資料を相手にしている最中だった。湿度が常に80%を超える室内で、彼女が歩く度に水音が発される空間。保管庫に窓は無い。彼女は日光を受容できず、蛍光灯に照らされた水浸しの室内に滞在し続け、水分の殆どは彼女自身から発されていた。多汗症の人間には、一人で室内にいる時間が増えるのは一般的なことだった。日光アレルギーも加われば尚更だろう。

必要な書類は必要な場所に配置され続け、湿った情報が頭の中に流れ込む。彼女は周囲の書類の内容を把握しながら、ゆっくりと歩く。相も変わらず、湿気のみが彼女を覆ってくれる。滴る液体の群れが追随しながら慰める。そんな空間だった。だが、もうそんな時間は終わっている。慌ただしい煙とざわめきが迫ってきている。

先程出勤したばかりだったが、警報が鳴ったからには準備をしなくてはならない。遥か遠くからは冗談のような破砕音が聞こえ続けている。水野はデスクの上から三段目の引出しを開け、支給されたコンパクトな自動拳銃を掴む。状況が3m先だろうが1km先だろうが、起きてしまえば安全とは言えない。この世界で、距離は安全を示す指針にはならない。

水野はその外見に反して相当な長期間を財団で暮らし、財団外での生活は既に想像できなくなっていた。年に二度の軽い射撃訓練が日常化しており、今も躊躇いなくスライドを引いて初弾を装填できるほどに。自らから発せられる湿気は日常の一部と化して水野を取り巻き、水野自身も特にそれを疎ましく思うことはない。ただ、数少ない友人や同僚を眺めては、密かにその視点に立ちたいと思うことはあった。また違った境遇で財団から離れられなくなった人間も数多く見てきたが、水野にとって個人の事情は他の誰かのそれと比較できるものではなかった。水野は結局は、財団に縋っている。

内側から濡れた白衣は水を吸って行動を阻害する。その重さが今は腹立たしく、鬱陶しく思える。髪から垂れる水滴もそうだ。財団にいる、財団に在る、ということを、今も続く銃声と共に、水野に思い出させるものの一つだ。

息が荒くなる。髪の先から滴り落ち、床で弾ける水滴を見る。警報が鳴ってから重要書類だけでも避難させ、拳銃を手荷物に加えるまで三十秒とかからなかった。IDカードと携帯端末を確認して、急いで廊下へ出ようとする。マニュアルに従ったものとしては十二分な対応だった。

それでも、不幸ではあったかもしれない。書類管理でなければワンタッチでバックアップは取れたし、多汗症でなければもっと早く部屋を出られたかもしれない。懐の携帯端末とサイトに設置されたスピーカーがとりわけ煩く大音声を上げたのを、水野は認識できなかった。

室内をまとめて噛み砕くような轟音と共に、巨大な質量がサイト-81██資料室へ雪崩れ込む。


異様な光景だった。トラックは完全に壁を貫通し、いくつかの本棚を蹴散らして資料室の中で大きな図体を軋ませている。破砕した壁の欠片はそこかしこに飛散していて、間には透明な液体が滲んでいる。そしてさらに異様な彩りとして、周囲には大小様々なカップケーキが飛散していた。それらは所狭しと立ち並んでいた本棚の上へ転がり、トラックと合わせて景色に違和感を満たし続けている。違和感の中心に居座り続けるトラックの後部扉は少し手間取るような動作を見せたあと、その口を開けて中身を曝け出した。細身の腕が突き出たかと思うと隙間から鈍色のカップケーキが溢れ出し、押し流されるように女が吐き出される。完全武装で軽く咳き込み、身体から肉片を払う"姫"が丸ごと一人、そしてその他の四人分、300kg程度の肉塊。

"姫"がやったことはシンプルだった。全てのカップケーキを重くて頑丈なタングステンへ変換して動かすことで、カップケーキ群が載った車両を内側から持ち上げ、勢いをつけてサイト-81██へ投擲する。自分の載っている車両以外は、適当なところでカップケーキをトリトナールにでも変換して起爆してやればいい。1車両辺り数千から1万個、おおよそ1.5から2トンほどの炸薬を乗せた航空爆弾になる。これだけでサイトを落とせるとは思えないし、10万個のカップケーキを同時に精密制御することも高速飛行する荷台の中では難しかったため、本来の威力は発揮できていない。どういう理屈の技術を使ったのか撃ち落とされた車両もあり、あちらこちらに中身のカップケーキが飛散している。当然ながら、車両の中に入っていた味方の工作員や武器は粉々になっただろう。それでも、周囲の車両を盾にして防空機能や砲弾から逃れることには成功した。

そこまでしても、まだ"姫"は追加で犠牲を払わなければならなかった。"姫"は白い欠片、人間の歯を肩から落とす。その背後では、手足の関節があってはならない方向を向き、本来の骨格を見失った四人分の仲間の死体が取り残されていた。どの顔も瞼を開いていて、口元と頭は血で濡れていた。

シートベルトもなくできる限りの速さでサイト-81██へ突っ込む、"姫"自身の衝撃を和らげるクッションが足りない。カップケーキを柔らかい素材にするにせよ全てを開封する時間はなかったし、重い素材でなければトラックを持ち上げることができない。手近な水風船なかまを使うしかなかった。撃ち合いになると跳弾が予想されるため、変換して大の男ほどの重さを持たせたカップケーキの箱で同時に殴打して意識を奪い、念入りにそれぞれ頭に一発撃ってから身体をくるむようにして死体を配置し、トラックを飛ばした。着地時の衝撃で死体が潰れたのか、いくらかの中身は浴びたが、"姫"の骨や内臓に異常はなさそうだった。

顔についた血を拭う"姫"の耳に水音が届く。どう見ても資料庫なのに、全体に水気が行き渡っていた。横を見ると一点の床に女が倒れ、机とカップケーキに埋もれて血を流している。衝撃に巻き込まれたのだろう、数十キロの重さの机の圧搾で口から血が逆流し、肺を動かそうとする度に唇の間からごぼごぼと泡を溢す。どういうわけか、女の周囲にはやたらと水気があった。流れ出した血は女の周囲にある水で薄まり、紅色の液体になって床を汚していた。手足が動いているのは明確な意識のもとではなく、出血性のショックで痙攣しているに違いなかった。白衣は鼠のように濡れ、どこにも向けられない目でどこにも見ずに死のうとしていた。女の側には自動拳銃が落ちていて、マスクをつけた顔の側にはカップケーキがあった。ピンク色。女から水溜りが広がっていく。

"姫"はほとんど無意識に女の頭へ小銃を向けていた。カップケーキで殺そうとは思わなかった。そうしてはならないとさえ考えていた。自分よりカップケーキに囲まれて、何の目的もなくただ巻き込まれて死んでいく人間について、わざわざカップケーキを埋め込むことをしたくはなかった。ピンク色の彩りに純粋な火薬と鉛弾を足す必要があった。軽く引き金を引き、音が破裂した。そこで何かが途絶えた。苦楽を共にした部隊をこの手で殺し、水袋として保身に使った"姫"そのものへの区切りが、その一発の銃弾で成されたと思った。通信機器から断続的なノイズ。通信妨害の範囲から外れたのだろう、声はインサージェンシーのオペレーターだった。

『"ヒメ"。状況は把握しています。あなた以外の工作員はロストしました』

「背信になりますかね」

『いいえ。どのみち、もはや逆転は不可能です。あなたがこの地域の指揮系統を破壊しなければの話ですが』

そうですか、と息を吐く。もう体内の爆弾が起動される心配はない。荷台の中から箱が崩れ、中のカップケーキがどんどん零れ落ち始める。車両一台分のカップケーキの群れが蠢き、鈍色に光を反射して"姫"の周囲を覆う。それは殺意の海だ。トラックから漏れたガソリンが今頃になって引火し、赤白く輝いて室内を焼く。空間を満たす熱と煙から逃れるように"姫"は歩き、カップケーキと共にトラックが飛び込んだ穴の向こうへ、廊下へと出る。自分が生んだ爆発の痕、青空を汚す黒煙が見える。オペレーターの声は続けられていたが、そこには何の起伏も感じられない。

『工作員"悪夢姫"はデルタコマンドの要請に従い、単独でステップ86/364を完遂するように。対応戦力は無制限使用を許可します』

「了解。工作員"悪夢姫"は単独でステップ86/364を完遂します」

溺れた生贄を踏み台にして、10000個の甘い夢の下僕と共に、災厄は再び歩みを進める。

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