或る遺書
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 あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にいないのでしょう。
 長いようで短く、短いようで長かったこの二十余年、私がどれほど世界に貢献できたかは、見当のつけようもありません。それでも私は、この組織の一員として、数多の重要な任務に関われたこと、素晴らしい仲間たちと共にそれらに当たれたこと、このような形で世界と繋がれたことを、心から、嬉しく思います。

 ──とろけるような紫のインクが、罫線の隙間を縫っていく。

  私には過去がありません。正確には、私は過去を捨てました。もう会えない家族のことを思うことが、ふとした瞬間に故郷の景色が蘇ることが、私には耐えきれなかった、のだと思います。思い出も、後悔も、今や記憶処理の向こう側ですから、確信はないのですが。ただ、私自身と今までの私が別人であることは、容易に想像が付けられます。この酷い癖字を見れば、過去の私が手紙など好いてこなかったのは明らかでしょう?

  忘れることは、忘れることを選べることは、私を気楽にさせました。
  私の手元の一本のライター、これは友から借り受けたものです。靴紐が絡まり脱げなくなった私を見兼ねた彼女から、これで焼き切れと投げ渡されました。火の付け方すら分からなかった私の脚には、あのときの火傷の痕が、まだ残っている。

  そして数分後、彼女は死にました。

  それがどのような事件だったか。記録が取られた事象の他に、私は何も覚えていない。

  私の報告書を覗き込み、歪んだ「す」の字に笑い転げた数日後、新しいのを買ったからと、古いガラスペンを私に譲った先輩がいました。良い筆記具を使えば良い字が書けると、まるで自慢でもするように、扱い方を教えてくれたのを覚えています。

  そして数ヶ月後、彼は消えました。

  多くの仕事を押し付けて去った彼への不満も、記憶と共に消えました。

 ──僕は左手をちょっと伸ばして、インク瓶の蓋を外すと、ガラスペンの先をそれに浸けた。

  私はそれを悔いてはいない。
 種々の記憶の欠落と向き合ったとき、私は自身が弱い人間だと気付くことができるのです。友を、仲間を、愛する人を失うことの耐え難さに、気付くことができるのです。
 私はまだこの地獄に慣れてなどいないのだと、気付くことができるのです。

  私がどのような終わりを迎えたか、私自身に知る術はありません。予測を立てようにも、導となるような経験など、私は持ち合わせていないのですから。
 あなたは、きっと、私の姿を何枚かの写真に収めたのち、それを忘れることでしょう。それとも記録にとるべき身体など、もはや残っていないでしょうか?
 どちらにせよ、あなたは私の最期を忘れる。あなたがあなたを守るために。私がそうしてきたように。責めるつもりはありません。何を記憶に留め置き、何を忘れるか選ぶことは、あなたの自由であり、権利です。

 ──ガンホルダーの締め付けが、僕の大腿をひりひりさせる。

  それでもひとつだけ、願いがあるとするならば。これを読んだあなたには、どうか笑ってほしい。
 臆病者の生き様を、当てのない予兆に掻き立てられた私のことを、笑って、そして忘れてほしい。
 あなたが笑顔で送り出してくれることのほかに、私は何も望みません。

Agt.████

 
 ガラスペンを水の入ったグラスに浸け、封蝋とライターを、デスク左手の抽斗から取り出す。火傷の痕はもう増やさない。小さく震える手を制しながら、ゆっくりと、封筒に蝋を垂らしていく。さっきまで左薬指に鎮座していたシグネットリングが、パーリーアイボリーの蝋に均一に縁取られるのを見届けて、僕はほっと息を吐いた。

 これを見つけてくれる人は、いるのだろうか?
頭の中で、友人と呼べる人々の顔が、次々と浮かんでは消えていく。僕と同じ、今日死ぬかもしれない人々の顔が。
 軽く首を振り、掛け時計を見やる。集合時間の10分前だ。封蝋から剥がしたリングを嵌め直し、僕は自室を発った。
 


 
 その部屋は、壁掛け時計の針の音で満たされていた。名入りのライターも、使い込まれたガラスペンも、本も、デスクも、この部屋中の何もかもが、自らの二人目の主人の帰りをじっと待っていた。埃っぽく、薄暗く、狭い、狭い部屋だった。
 秒針の瞬きが数万回目に達するころ、遠く扉の向こう側から、軽快とは言い難い足音が紛れ込んだ。
 扉を開いたその姿は、別人のようにやつれていたが、部屋は包帯塗れのその人を、自らの主人と受け入れた。
 部屋の主人は深いため息を繰り返しながら、デスクに横たわる紙切れを拾い上げる。裾から覗いた手首には、古びた腕時計がしがみ付いていた。部屋中の遺品たちは、それを新しい仲間と認めた。
 主人はポケットから鍵を取り出し、デスクの右側の抽斗に挿した。開かれたそこには、役目を忘れた紙束が、何重にも積み上げられていた。
 その頂に投げ入れられた紙切れは、誰の目にも触れることのない、十三通目の遺書となった。

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