エンディングに告別を
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終末エンディングにはどんな音楽が流れるだろう。

ドラマや映画のエンディングを装飾する旋律。それがこの世界にもあるのなら、一体どんな音色になるのだろうか。無機質な病室。其の外からは朝を告げる小鳥の囀りが聞こえた。

2019年3月5日に世界の終わりが来る。

いつもだったら胡散臭い予言みたいな、話題がない会話で取り上げられるような、そんな話。でもどうやら今回は違ったらしい。世界中でたくさんの人が死んでしまって、遂に私の病院でも自ら命を断つ人たちが現れた。

初めての自殺者が出たのは、白雪が降り積もる寒い冬の日だった。どうやら誰かが首を吊って死んだらしい。それが合図だったのか、その日からドミノを倒していくように人が死んでいった。そして今日、3月4日。どうやら最後のドミノは私だったらしい。

ベッドから立ち上がり、白い病室を見渡した。部屋の傍らには以前の春、彼が持ってきてくれた桜の造花が飾られている。病気が回復しつつあったのに、今年も本物の桜が見られないのは少し残念だった。自分の足より少し大きなスリッパを履いて、私は病室を後にした。

空になった点滴のスタンドを杖にして足を1歩1歩動かす。少し足が震える。久しぶりに歩いたからだろうか、それとも恐怖が拭いきれていないからだろうか。アルコールと何かが混ざった臭気が漂っていたが、其れが何なのかは考えたくなかった。

覚束無い足取りのまま廊下を抜けると、其処には階段があった。段数は20段。死刑台までの段数よりも僅かに長い。点滴のスタンドを置いて、手摺を握りながら登っていく。1段登るごとにスリッパがペタペタと乾いた音を立てた。

そういえば、退院したら彼と一緒に桜を見る約束をしていたが、其れはどうしようか。この感じだと、彼も既に此処には居ないのだろう。 1人で勝手に逝ってしまうなんてつくづくマイペースな人だ。そう笑うと同時に、目の前の景色がぐにゃりと歪んでぼやけた。

死にたくない。本当はもっと生きていたい。彼と桜だって見たいし、色々な所へも行ってみたい。でも、それはもう叶わない。きっともうみんな死んでしまったのだろうし、自分だけが取り残された世界になんて意味はないだろう。未だ溢れ続ける涙を拭って、私は錆びた金属のドアノブに手を掛けた。

春風が吹きつけ、ふわりと髪を靡かせる。屋上から見渡す街はあまりにも静かで、抜け殻のようになった街は終末の存在を実感させた。スリッパを揃えてフェンスを乗り超える。ざらついたコンクリートの感触が足に伝わる。

別に死ぬのが怖いわけではなかった。病気に蝕まれた体には、いつだって死神が付き纏っていたから。大丈夫、きっと怖くなんてない。空気を肺いっぱいに吸い込み、吐きだす。でももしも、天国で彼に会えたなら、一緒に桜が見れたなら。そう思うと祈らずにはいられなかった。

「天国に行けますように」

地面を蹴る。仰向けの体勢で落下していく。
視界を独占する青は、アクリル絵の具のチューブからそのまま出したように鮮やかで1点の曇りもない。最期に独り占めするのには勿体ない程美しい光景だった。

そういえば、あと数時間もすれば世界が終わるというのに、エンディングに流れるような音楽は未だ流れていない。もしかしたら私の他に生きている人がいるのかもしれない。もしそうならその人の幸せを祈って。私たちのエンディングを託して。体に纏わりつく春風の冷たさがどうしようもない孤独を感じさせる。

頭に衝撃が走った。



終末エンディングに音楽なんてのは流れないらしい。

2019年、3月4日。初春の柔らかな空気が優しく流れていく。薄明、空が紫やオレンジの色彩を纏う魔法のような時間。鉛の足を持ち上げて一歩一歩地面を踏みつける。

『もしも、世界の終わりに音楽が流れたりしたらロマンチックで素敵だよね』

あの時も春だっただろうか。薄いピンクの花弁が粉雪みたいにはらはらと落ちるのを病室の窓の外に見た。

『どういう意味?』
『ほら、映画とかドラマって最後の方で音楽が流れたりするじゃん。この世界が終わる時もそうなったら素敵だなって思ってさ』

現実でそんなことは起こらないと返すと、夢がないねと言われてしまった。ロマンチストとでもいうのだろうか。君は夢見がちな性格だったが、音楽が流れないなら自分で流せばいいだなんて発想に至る自分もきっと大概だろう。

スマートフォンから流れるクラシックピアノの音色が空虚に響く。この世界のエンディングに流す音楽としては最適解だろう。僕のエンディングに流すのなら、少し勿体無い気もするが。

君は死んだ、病院の屋上から飛び降りて。アスファルトに横たわった君は、まるで糸が切れたマリオネットみたいで。でも僕は其れを信じたくなくて、血溜まりから君の体を掬い上げた。触れた肌はとても冷たくて、思わず力が抜けてその場にへたり込む。紅がこびりついた手が震える。

其れは目の背けようのない事実だった。君はもう死んでしまってもう生き返ることはない。やり場のない怒りと無力感が喉を焼くようにして込み上げた。ピントの合わない君の顔、その横に流れた吐瀉物の匂いがやけに鼻についた。

僕は死ねなかった。首を縄にかけて、椅子を蹴り飛ばす。後を追おうとしたのだ。陽光が差し込んだ暗い部屋に、君がいないこの世界に、希望なんて一筋もなかったから。

だけど、目を開けて見えたのは三途の川でもなんでもなく、いつもと同じ天井だった。縄が切れたのだ。もう1度死のうと思ったが、そんな気力なんてもう既に消え去っていて、誰もいない街をふらふらと亡霊のように彷徨っていた。

ぱっと街灯がついた。センチメンタルに浸ってるうちに夜の帳が落ちたようだ。淡い光が地面を照らしている。街灯に照らされる道にふと影が横切った。僕と同じ死に損ないの誰かがいるのだろうか。

視線を向けると僕は文字通り目を疑った。頬をつねる。悪趣味な夢か何かだと思った。痛みが、この光景は現実であると確信させた。

がいたのだ。

真っ白な肢体に濃紺のイブニングドレスを纏って、スカートの裾をひらりと翻させながら其処で回っていた。それは間違いなく君だったが、どこか君じゃないような気がした。まるで精巧な造花みたいな、そんな雰囲気。

思わず膝から崩れ落ちた。何が何だか分からず、両目からはただ涙が溢れてきた。君がいる、死んだ筈の君が。幻覚でも幽霊でもなく、正しく本物の君が。何か言おうとしたが、口から出てくるのは嗚咽だけだった。

君はそんな僕のことなんて気にも留めずゆるやかにターンする。回る以外に特にこれといった動作は無いように見えた。けれども其れは酷く美しくて、自然と目が釘付けになった。

ずしり。手に約1キログラムの重みを感じた。見るとそこには1丁の拳銃があった。僕はこれで君を撃ち抜かなければならない、そうしなければこの世界に夜明けは一生訪れない。そうだと悟った。

「綺麗でしょう?」

君の声だ。じわりと額に汗が滲む。心臓の鼓動が早まり、高鳴る。君はこちらを見て笑っていた。言葉がゆっくりと空気に融けて、液晶画面越しに鳴り響くピアノの音色だけが取り残された時、ようやく口から言葉が零れ落ちた。

「な、なんで、君が」
「翔ぶ前にね、お願いしたんだ。天国に行けますようにって」

歌うように言葉を紡ぐ。街灯の光が、まるで舞台のスポットライトのように君を照らす。深い夜の色を映した双眸が僕を捉える。

「だから」

細くて長い指先がこちらに差し出された。


夜が明けるさいごのときまで踊らせて」

 
君の手を取る。上質な夜の空気が頬を撫でた。



ワルツを踊る。

端末から流れるピアノに合わせてステップを踏む。触れた君の手は微かに暖かくてまるで生きているみたいだった。足取りは軽やかで、このままずっと2人で踊っていられるような気がした。それでも、終わりは必ずやってきてしまうものなのだ。

僕らの踊りを遮ったのは、3月5日の1時間前を知らせるリマインド機能の通知音だった。終末が差し迫っている。君もそれに気がついたようで繋いでいた手を離した。

「そろそろかな」

どこか憂いを帯びた声色でそう言った。月の出ていない23:00の花紺青。君は始めと変わらず、ひらひらと空と同じ色をしたスカートを靡かせながら其処で回っていた。取るべき行動はわかっていた。

僕は地面に置き去りにしていた拳銃を、思い出したかのように拾い上げた。震える両手でそれを構えて、君のレプリカの心臓に突きつける。君はそれでいいんだと言う風に笑っていた。

唐突に血溜まりから掬い上げた、氷みたいに冷たい君の身体を思い出す。思わず拳銃を握る手の力が緩む。もしここで引き金を引かなかったら君はずっとここで踊り続けるのだろう。きっともう誰もいない世界で。生きたままの姿で。

でもそれは駄目だった。拳銃を持つ手に再び力を込める。君はもう君じゃなくなってしまったから。僕は僕の手で君を殺さないといけないのだ。言葉が口を衝く。君が君の形をした別の何かだったとしても、これだけは絶対に言っておきたかった。

「愛してる」
「うん。おやすみ」

引き金を引く。耳を劈くような大きな音が鳴って、一瞬後には君はもういなくなっていた。地面は血の代わりに透明な液体で濡らされている。本当に君は死んだのだ。

ふらふらとその場に座り込んだ。君がいなくなった世界に鳴り響くのは相変わらずピアノの音色。ワルツ第9番、別れのワルツだ。ショパンが愛し合っていた女性とお別れをする時に贈った曲。

目を瞑って思い出す。首吊りのロープが切れて死に損なったこと。1度死んだ君を、僕が自らの手でもう1度殺したこと。もう目は背けない。僕は落ちた拳銃を拾うと、額に押し当てた。

此処でちゃんとお別れをしよう。君はあの終末論の所為で死んでしまったけれど、僕はそれに屈してなんかやらない。君のことが大好きだから、だからこそ此処で終わりにするのだ。

ピアノの音色が鳴り止み、辺りが静寂に包まれた。月の出ていない静かな春の夜。本当の本当にお別れだ。空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出す。

もう此処には居ない君に、そしてエンディングに告別を。



銃声が鳴った。

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