クレジット
タイトル: 夜より黒い空の下に桜の花は咲き誇る
著者: Tutu-sh
作成年: 2023
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空から星が消えた。月と太陽も消えた。ただ何者よりも黒い帳が俺の頭上に聳えている。
天球は圧倒的な重力を感じさせる絶対的な暗黒を湛え、禍々しい精神的圧迫を孕んでいる。どこまでも深く沈んでいきそうな闇は俺の感性を超越した事象らしく、むしろ俺は無色透明の壁を己の精神に立てたかのごとく、取り立てて狼狽することなく世界を見つめることができた。遥かな蒼穹は、組成も起源もまるで検討の付かない、底知れない半球の天蓋に挿げ替えられたようだ。
タールや墨汁を三日三晩煮詰めてぶちまけても到底届かないだろう黒の下に居ながら、異変など何一つ生じていないかのように地上に光が降り注ぎ、気温も特筆することのない平常のままを保っている。肌にじんわりと温かみが染み込み、草木の傍には影が落ちている。光源も熱源も闇の中に消えたというのに、世界はいまだ動き続けているらしい。
とはいえ、それらは物理法則が最低限働くことの証明でしかなかった。手元の通信端末は無意味な雑音ばかりを拾い上げ、インターネットも不通になっている。この騒動で人工衛星もその機能を失ったと見える。あるいは頭上に広がる境界が電離圏に何かしらの干渉をしたのかもしれないし、あれそのものが新たな電離境界層となったのかもしれない。少なくとも、人類文明は破綻 ⸺ 少なく見積もっても大変革を迎えただろう。
「さて、これは俺のせいなのかな」
世界が変貌しておおよそ170時間。太陽があれば7回ほど昇ったことだろう。俺は何もすることが無く、ただ手持無沙汰に、収容対象の居た電波暗室に漫然と向き合っていた。光も音も物質も存在しない見かけ上の無の空間の中に、かつてSCP-280-JPは収容されていた。触れた何物をも消滅させる、さながらブラックホールのような代物。直径と引き換えにあらゆる物を切り、削り、処分する ⸺ ちょっとした便利な道具として扱われていたSafeクラスオブジェクトだった。
縮小用海水注入プロトコルの実行中にそれは消えた。重力波の観測装置がnullを叩き出した時、俺の頭に疑問符が浮かび、数舜遅れて波のような悪寒が体中を駆け巡った。可視光や赤外線、放射線、音波にニュートリノ、その場にある限りの観測機器をありったけつぎ込んだ。機器はSCP-280-JPの存在を否定した。
機材への信頼が揺らいだ俺は、危険も顧みず房の中へ飛び込んだ。激痛が走ろうとも、時空間異常の実在を観測できればそれで良い。しかし、視覚・聴覚・触覚・嗅覚 ⸺ 味覚は試しようも無かったが ⸺ 五感のほぼ全てを以てしても、あの球体の実存は感じられなかった。まるでこの世界に最初から存在しなかったかのように、忽然とSCP-280-JPは姿を消した。
それと入れ替わりに現れたのが、空に架かったあの天蓋だ。人類の宇宙観を一変させるような黒い空は、万象を拒絶するような圧倒的虚空を感じさせた。その漆黒たる絶無の容貌は否応なしにあの時空間異常を想起させる。論理的な紐づけのアプローチはついぞ脳内で具体とならなかったが、生物学的な衝動とでも言うのだろうか、本能的な直感は2つのアノマリーを因果関係で以て固く結ぼうとしている。
⸺ 思考の糸ががんじがらめになってしまった。もしこの天変地異が俺のせいなのだとすれば、状況をこの目で見ておかねばならないだろう。天球の縁は判然としない。千や万が端数になってしまうほどの、世界中に散らばる80億の同胞をこれに巻き込んだのかもしれない。外の世界、とりわけ人間界に何が起きたのか。責任の所在が俺なのだとすれば、全てを見聞きし、この身で体験し痛感しておくべきだ。それが仁義にして贖罪というものだ。
まず向かうべきは隣 ⸺ といっても優に100キロ以上は離れている、他の財団サイトだろう。通信網がお陀仏になってしまった現状、直接訪ねるほかに財団の叡智を知る術は無い。ハイラックスのエンジンをふかす。自動車の加速を感じながら俺はサイトを後にした。
◆ ◆ ◆
東へ車を走らせる中、いくつか集落が目に入った。山間部の暮らしぶりは空が変化する前と後とでそこまで劇的な変貌を遂げなかったと見える。
……1つ違いを挙げるならば、土地の防備が固められていることだろうか。田畑や敷地をぐるりと取り囲むように、電気柵はもちろんのこと、トタンや木材、竹やレンガ、果てには机や棚を置いてバリケードを作っている家が散見された。これから命を懸けた争いでも起こるかのような、外部より迫る何者かから生活を護るかのような、横を通り抜けるだけでも張り詰めた雰囲気が感じられた。
空が真っ黒に塗り潰され、昼と夜の区別も消滅した今だ。人間は高い知能を持ちながらそれを適切に支配する能力を持たない。うねりを上げる恐怖や焦燥は理性の堰を切ることもあるだろう。多かれ少なかれ恐慌状態に陥った民衆の暴走は免れまい。SNSやテレビが大方遮断された今となっては遠隔で通じ合って結託することもそう無かろうが、その代わりに各地で小競り合いが頻発しているのかもしれない。家庭が武装し、自警団も出現しているのかも、と思考を巡らせた。
さらにしばらく進んで山間を走ると、崖下を流れる川が目に入った。特に何を見るでもなく視線が一瞬釣られたが、その一瞬は俺の思考をかっさらっていくのに十分だった。川岸の岩の上を動く影。ヒトではない。その影はヒトよりももっと大きく、四本の脚で歩いていた。エゾヒグマだ。ブラキストン線の彼方の異物、甲信越に居るはずのない存在が、河川敷の岩の上を対向する向きに歩いている。車の音に反応したクマはすぐさま顔をもたげ、追いかけるように巨体をこちらに向けた。
逞しい剛腕、丸太のような胴、頑丈な頭。その全身が濡れている。つい数秒前まで沢にどっぷりと漬かっていたらしいその毛並みは背中までびっしりと水気を纏い、まとまった体毛の塊が立体的な模様を描いていた。汚れを濯ぎ落とし終えたかのような風貌のクマの背後では、土砂か何かが混じったのだろう、川の水が焦げ茶色に濁っていた。
追いつけないことを瞬時に見て取ったのか、クマは1歩たりとも踏み出さないうちに速度を落とした。しかし興味を失ったのか、そして歩みを止めたのかは定かでない。車に顔を向けたまま距離が広がっていく。バックミラーに移った最後のクマの姿は、長い舌でべろりと口の周りを舐め取る様子だった。
見えなくなったヒグマとは裏腹に、俺は強い疑念を掻き立てられていた。本州に野生のヒグマが居る。そんなニュースは耳にしたことも無ければ、まず現実として考えにくいものだった。寒冷化の騒がれる今どきの気候を踏まえても、仮に津軽海峡を渡り切ったとて、長野と山梨の県境までは途方もない距離と障壁がある。それらを乗り越えてヒグマが現れるとは、やはりこの空の異変と関係があるのか、ヒグマの行動に何らかの異変を誘発したのか ⸺ と、短絡的な空想に走る。
⸺ 隣県のサイトの惨劇の様は、ほどなくして目に飛び込んできた。
サイトの入り口は突破されていた。ガラス扉は粉々に砕け、その縁や平面には乾いた赤黒い血痕がこびりついている。驚いて車のエンジンを切って飛び降りると、原形を失った扉の奥から漂う吐き気を催す鉄臭さと汚臭が鼻を突き、まだ極めて淡く残されていた単なる事故の可能性を打ち消した。中に人間が居るのならば、確実に死に果て、その遺体を明白な殺意と共に荒らされていることだろう。
フロントガラス越しに脳裏をよぎった「収容違反」の4文字も既に立ち消えていた。ガラスの破片が屋外よりもむしろ中に飛び散っているからだ。サイトの正面扉は内側でなく外側から破られている。幸か不幸か、この建物に収容された魑魅魍魎が惨劇を引き起こしたわけではないらしいことは見て取れた。しかしそれは逆に外からやってきた何者かが財団サイトを陥落させたことを意味する。
「人間業じゃあないよな」
鼻を袖で覆いながら、かつて扉のあったろう位置に立ち、内部の様子を窺ってみる。メインフロアは薄暗く見通しが悪かったが、壊れた玄関から入る光や立ち込める猛烈な臭いが崩壊を如実に物語っていることはすぐに分かった。床には血溜まりが広がり、折れた刺股や転がった拳銃、楔を打ち付けたような乱雑な爪痕、貪られたヒトの屍が至る所に浸っている。殺戮の具現、獣性の徴証だ。
奥は暗がりでよく見えないので、鞄から懐中電灯を取り出して照らしてみる。遺体の上に自らの所有権を主張するかのように、直腸の太さを思わせる巨大な糞便が置かれているのを目にし、悪臭の根源の1つはこれだったかと顔をしかめた。夥しい数のハエも群がっているらしく、小さな黒い点の集合が光の中を慌ただしく飛び交っている。
メインフロアでかすかに鼓膜を震わせる羽音を除けば、サイト全体は静寂に包まれている。アノマリーの様子も気になったが、心理の内奥から湧き上がってくる生理的嫌悪と脳を壊死させそうな不快なアンモニア臭、そして大音量で警告を発する原始の逃走本能には根を上げざるを得ない。俺はそっと足を動かし、音を殺して玄関を離れた。
これをやったのは先のヒグマか、さもなければ他の猛獣だ。クマはここから離れる方へ歩を進めていたが、なにせ執着心が強い。戻ってくるまでに離れなくてはならないだろう。
急ぎ車に戻ってエンジンをかけた。焦りから手が震える中、指を括りつけるようにハンドルへ押し付け、どうにかアクセルを踏み込んで公道に出る。車の加速と共に安堵が心へ戻り、ようやく手汗がにじんできた。
「⸺ あれ、ヒグマ1匹でやれることじゃあねえよなあ……」
幹線道路に出て暫くした後、文明を浴びたからか、安定した思考が帰ってきた。いかに日本最大の脊椎動物といえども、財団サイトの警備を撃滅した上でサイト全域を沈黙させ立ち去る、そんな芸当が容易くできるとは考えにくい。群れていたか、あるいは他の猛獣か介在したか。野良のアノマリーという線も捨てきれまい。今もなお天上に広がる純黒の帳との関連だろうか。
そして、地元住民が武装していた理由も掴めてきた。人間同士の衝突ではなく、おそらくはヒグマのような野生動物の脅威に対抗していたのだろう。財団サイトを壊滅させるような化け物が相手では素人のバリケードは糞の役にも立ちそうにないが、気休め程度にはなることだろう。現実問題としての安全性よりも精神的充足と安寧の効果の方が意義としては大きいように思われる。
都留を抜け、八王子方面へ。野生動物が異常行動に出ている今、頼みの綱は首都圏の財団施設だ。安全に寝食を遂げられる場所、そして身を護ることのできる武器のために、俺は東京へ向かった。
◆ ◆ ◆
東京で俺を待ち受けていたものは、想像の埒外ではなかったものの、期待を悪い意味で裏切るものだった。かつて栄華を誇った日本最大の都市は原形を留めながらもスラムと化していた。日本政府はもはや市民を押しとどめるだけの力を失い、つい数十時間前、興奮のあまり暴徒と化した民衆が怒号と暴力を撒き散らして街を荒廃させたらしかった。残された街並みは台風が過ぎ去ったか、洪水が引いた後のようだった。煤けたビル街は塗装が剥げ、割れた窓ガラスが寂寥の雰囲気を帯びている。横転した乗用車が何台も放置され、まともに通ることのできない場所も存在した。
車を捨てて徒歩で歩く。いかに無政府状態といえども、話の通じる人間の方が野獣よりよほどマシだろうと念じ、喧噪の中を練り歩いた。信号機は根本から折れて光が消え、文字盤の割られた時計は針の動きを止めていた。しかし静寂は無い。一千万人の雑踏がそこかしこで無秩序に蠢き、たまに殴り合いと思しき音や、重い何かが吹き飛ぶ音が遠くから聞こえる。
幸いにも、スラムの人間が俺に食って掛かることはなかった。余所者を排斥するでも歓迎するでもなく、ただ距離を置かれた。周囲の人間は皆、口元に布を覆って顔を隠している。その真意はすぐに分かった。通りを歩くうち、道端に遺体を放り棄てる家族を見たからだ。遺体はすぐに新聞や雑誌を投げ込まれ、灯油のような液体をぶちまけられ、その上から火を付けられた。焼却処分ということだった。先のサイトのように肉食獣の食べ残しや排泄物を撒き散らされては敵わないし、そもそも公衆衛生の死んだ今、ウイルスや細菌を媒介する死体は残してはおけないらしい。
「世紀末だな、こりゃ」
そして東京都心の財団施設もまた正常な運用下には置かれていなかった。割れた窓からホームレスが何人も忍び込み、安住の地を手に入れている。彼らは疾病にある程度の意識を向けつつも我が物顔で暮らしており、居住の権利を堂々と主張する者もいた。どうも廊下の一区画や一つの階を縄張りにして分かち合っているようだった。俺はここのサイト管理者でもないし、そもそも法の秩序が今も生きているとは思えなかったので、揉め事を起こさないよう穏便に立ち回った。ある程度のセキュリティクリアランスが求められるセクターは無事だったが、バール片手に辺りを破壊して回るゴロツキがうろつく以上、いつまで保つかは分かったものではない。
事実、武器庫の出入り口は擦痕をいくつも残しながら大きくへしゃげていた。既に目ぼしいものを持ち去られた挙句、壁には品の無い落書きが残されている始末だった。本来なら苛立ちを覚えるところなのだろうが、荒れに荒れた財団サイトというものもあまり目にする機会がないし、肉食獣の餌場と化した山梨のサイトよりは遥かに見ていられる様相だったので、そこまでやりきれない思いはしなかった。
武器庫には特に宝を望めない状況だったので、資料室や書庫を巡ってみた。扉をこじ開けられた部屋はいくつかあったが、この期に及んで本をタダで読もうという酔狂な者は居なかったらしく、書類や書籍の類は手つかずで残されていた。このまま放置されれば湿気や害虫のせいでいずれ読めなくなってしまうだろうが、それを惜しむ者が今の世界にどれほど居ることやら。
この状況の打開策に繋がりうる文献は全てかき集めておく。宇宙の異常、大気のアノマリー、目や脳の機能に影響する存在、色素や光の波長を支配するオブジェクト、地球規模の諸現象。今の天蓋に掠る可能性のあるものは片っ端から手に取り、ひとまず持ち運ぶことにする。今すぐに全て読み込む必要は無い。知識は手元にあるだけでも有用だ。「書斎は世界最強の武器庫」とは、『ドクター・フー』の言葉だったか。
まだ生きている誘導灯に従い、文献を集めたその足でAnomalousアイテムの収蔵庫にも向かう。仮にもアノマリーを扱う現場だけあって、ただの野盗に漁られることは無かったらしい。高く聳える棚の間に身を通して物色するうち、使い勝手の良さそうな消防斧が目についた。軽く放り投げてキャッチしてみると、ずしりとした重量感と共に手になじむ実感があった。付属の報告書に目を通せば、オブジェクトクラスの変更に伴って遥々兵庫から輸送されたものだという。
「これにしよう。良品だ、頼んだぞ」
収蔵庫を抜けて通路に出る。どこかで試し切り、もとい試し打ちか何かをしようと考えながら廊下を歩いていると、中庭沿いのセクターへ辿り着いた。空を見上げる気にはならないので、自然と下に目が移る。ブナ科の樹木が茂り、地面を覆う草原は青々とした自然を描いている。その中に見慣れない者たちが居る。おおよそ現代には似つかわしくない2本の脚で地面に立った動物が、互いに何らかのコミュニケーションを取りながら中庭を闊歩している。手には羽毛が生えている。細長い尾を軽くしならせながら、しかし力の入った様子で、その動物は舵取りをしながら歩んでいる。植生が邪魔で良く見えないが、5, 6頭は少なくとも潜んでいるようだった。
「⸺ 恐竜?」
小型獣脚類の恐竜はやがてどこかに焦点を定め、真っ直ぐにそこへ飛び掛かる。弾着の瞬間、その引き締まった強靭な脚が残ったガラス窓を貫くと同時に、けたたましい音が生じた。ガラスの割れる音、硬い何かがタイルに叩き付けられる音、そして甲高い、鶏を数段逞しくしたような鳴き声。次々に砲弾のごとく飛び込んでいく群れに遅れてホームレスの悲鳴が響き渡る。
俺は急かされるように階段を駆け下りた。救助ではない。逃走のためだ。
全長3メートルほどだろうか、ヒトの腰ほどの高さのある俊敏な盗賊 ⸺ 一般に「ラプトル」と呼ばれるドロマエオサウルス科の恐竜。後ろ足に付いた鋭利な鉤爪は、死神の鎌のように相手の命を刈り取る代物だ。取り囲まれたホームレスは、既に体中の肉という肉を切り裂かれ、血を滝のように流しながら啄まれていることだろう。彼らとの対峙だけは絶対に避けなければならない。
階段を飛び降り、廊下を駆ける。既に低層階で被害は拡大しているようで、ホームレスの叫び声とラプトルたちの歓喜の声が間近に聞こえ始めている。
「たッ、助けてッ」
曲がり角で、服を赤色に染めたふくよかな男が突っ込んできた。猛烈な反動を受けて俺の体は弾き飛ばされ、廊下の壁へ強かに頭を打ち付けた。予想外の激痛に火花が走るが、衝突した男の末路を目にして痛みは消し飛んだ。
ふわり、と奴らは空を飛んだ。限定的な飛翔能力の行使。前肢に生えた艶やかな羽毛で揚力を生み出し、人間にはとても真似のできない動作で以て、彼らのメインウェポンたる鉤爪を男の頸動脈に刺し込んだ。カッターナイフを粘土に押し込むかのように爪は男の喉をそのままぐるりと切り取り、鮮血を周囲に飛び散らせる。言葉にならない呻き声を上げ、血飛沫と赤い泡を振り撒きながら、男はバランスを崩して床に膝をついた。
ばたばた、と続けざまに羽音が聞こえた。2匹目、3匹目、と、次々に飛翔するラプトルが飛び掛かり、男の皮膚をズタズタに引き裂いた。ボロ切れにされた男はついに重力に敗れ、いやに水っぽい音を立ててタイルに顔面を叩き付けた。壮絶な痛みの中で男は事切れた。
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
自らを奮い立たせる怒号。脚に力が伝わらず、適切な挙動が起こらない今、そうでもしなければ俺はこの場で殺されてしまう気がしてならなかった。事実、その本能的衝動は正しく、興奮状態にあるらしいラプトルの眼球はしっかと俺を見据えていた。先の男の血を滴らせながら、群れは次なる標的に俺を選択した。
「クソッ、クソッ、クソッ!」
脚がもつれそうになりながら必死で逃げる。斧を振り回しても連中には当たらない。人間を超越した滑らかな動作で以てラプトルたちは斧の一撃一撃をかいくぐり、床や壁を縦横無尽に駆けながら俺との距離を着実に詰めてくる。やがて曲がり角で廻り込まれ、洗練された歯と爪が虐殺の準備を完了した。
「だらァッ!」
斧を滅茶苦茶に振り回す。追い詰めた獲物の暴挙を前に奴らも一瞬たじろいだが、狙いはそこにはない。俺の振るった斧は弧を描いて壁のある一点を劈いた。設置された消火器を、ガラスケースごと叩き斬る。圧縮された白い煙が爆発的な風圧で撒き散らされ、流石のラプトルたちもこの異変を前に混乱は避けられなかった。立ち込める煙幕を破れかぶれに走り抜け、獣脚類の射程圏を一気に強行突破する。
息が上がり、腹筋を攣りそうになるまで駆け抜けた。乳酸の蓄積から限界を感じ取ると、来た道を咄嗟に振り向いた。
連中が追ってくる様子は無かった。緊張の糸が切れ、どっと疲れが出た。こみ上げた胃酸が喉を焼く思いがして、急いで呑み込んで押しとどめた。心臓の拍動が全身に木霊す。しかし長居はできない。脚を引きずってでも、どこか安全な場所に移らなくてはならない。
◆ ◆ ◆
都内の駅や学校、博物館なんかを転々としつつ過ごし、100時間ほどが経った。当初は捕食者をやり過ごすために地下鉄や地下街に逃げ込むことも考えていたが、人による管理を失った水というものは強敵である。水は上から下へ重力に従って流れるが、その動きは柔らかく、微細な間隙をも通り抜けて必ず下を目指す。浸水した地下空間は立ち入りを固く拒み、人間の活動域は恐竜の犇めく地上に制限された。
巨大な竜脚類の脚を躱しつつ、角竜や鎧竜を刺激しないように気を配りながら陸路を歩き、ようやく車を停めた場所まで帰ってくることができた。鍵をかけたにも拘わらず、東京まで走らせた車はその行方をくらませていた。おそらくは盗まれたのだろう。感染対策を講じながら、誰が汚物を振れた手でハンドルを握ったかも分からない車をよくも盗むものだ ⸺ と矛盾を覚え、それが人間というものか、と納得させた。
自分も誰かの車を拝借しようかと周囲を窺っていたが、目につく車の多くは窓を割られていた。車上荒らしではない。割れ窓から中を見てみると、鶏のものよりも一回りか二回り大きい何かの卵が、独特な臭いを放つ植物の中に埋められていた。おそらくは発酵熱を利用した孵卵器だろう。確かに白亜紀の動物の中でラプトルは賢いが、ホモ・サピエンスが急速に発展させた科学技術の残骸を1週間たらずでこうも狡猾に利用してみせるとは、どうにも舌を巻くものだ。
こうして、『ジュラシック・パーク』さながらので世界で俺は徒歩での移動を強いられた。今は地上駅の入り口に腰を下ろし、壁面に背中を付けて天敵たちから身を隠している。この100時間の間に思考を整理して、現状について理解したことは各段に増えたし、何なら空の謎もかなり解明が進んだ。外に巣食う恐竜の群れは、確固たる手がかりを与えてくれた。
⸺ 時空は瓦解している。時間軸という規律が形骸化し、破断され、この世界では過去の事物が同一空間上に存在している。これまで単なる知識に過ぎなかった歴史が今は目の前を歩いている。太古の事象が砕け散り、押し流され、異国からのメッセージボトルのようにどこからかこの世界に漂着しているのだ。中生代の恐竜の群れはその最たるものだ。
こうなると、山梨の財団サイトを壊滅させた存在や、川で出くわしたヒグマについても合点がいく。まだ本州が大陸と陸続きだったほんの2万年前まで、この地にはヒグマの系統が生き延びていた。間氷期が訪れて気候が激変し、巨大な生態系シフトが発生した時、ヒグマは生存競争に敗れて絶滅への道を歩んだ。鋼のような剛腕や天を衝くような巨体を支えるほどの資源は、孤立した島国に残されてはいなかった。時間を超えて戻ってきたとすれば腑に落ちる。
そして民衆が顔を覆う理由。ホームレスに至るまで皆が口元を隠しているのは、単に臭い除けやありふれた雑菌への対策ではなく、既に滅び去った太古の病原体に対するものでもあるのだろうと予想がつく。人の手で根絶した天然痘や、遥かに速い塩基置換の果てに葬り去られた名も無き無数のウイルスがいつまたこの世界で人類に牙を剥くとも限らない。情報が日本の全域に行き渡ることは無かったが、都内では辛うじて出回って市民も対策を始めたのだろう。
⸺ さて。ヒグマ、デイノニクス、天然痘ウイルス。これらが顕現した古代の遺物だとするならば、この世界は黒いケージの中で乱雑に再構築された歴史のビオトープ以外の何者でもない。どこまでも暗い空を見て、浮かび上がる直感があった。先を見通せない空のドーム ⸺ 地球をすっぽり覆っているのだろう、実体の掴めないあの壁を地平線とするならば、非異常科学の領域で似通った物が思考の末端に浮かび上がる。我々はSCP-280-JPにも同じアナロジーを浴びせ続けてきた。
ブラックホール。光すら吸い込む悪魔の星。
質量を持たない光子でも、この宇宙の実存たる時間と空間に隷属するならば、重力と無関係にはいられない。重力とは時空間の歪曲に他ならず、そこに質量の有無は介在しないのだ。秒速30万キロの韋駄天を以てしても、その俊足は圧倒的重力の前で綾取りのように手繰られる。
SCP-280-JPが時間の矢を捻じ曲げているという仮定は、天蓋の大きさにも説得力を与えていた。SCP-280-JP ⸺ 縮小する時空間異常は過去から未来へ一方向に矮小なものになっていく。しかしもし時間の矢を逆転させるならば、SCP-280-JPは古へ遡るにつれてその径を増すことになる。最終氷期のメガファウナや白亜紀の恐竜が出現するような、どこまでも遠い昔へ遡るならば、空に聳える巨大な球としても具現化できるだろう。
そしてこの推論は、俺が今まさにブラックホール ⸺ 否、SCP-280-JPの内側に居ることを前提とする。
あの時空間異常の内側などあり得ない、俺はこうして削られることなく五体満足で生きている ⸺ はじめはそんな思考も盤石な姿勢を見せていたが、やがて信念は記憶に揺るがされ、いつしか崩れ落ちてしまった。プトレマイオスが天動説を説き、アインシュタインが宇宙項を選んだように、信じがたい事柄を拒んだ人間は誤った道を歩むものだ。己の常識が砕かれること、ありそうもないことの受容を怖れ、人類は直感に反するものに難色を示し続けてきた。
ホログラフィック原理というものがある。俺の過ごす3次元空間は、この宇宙の境界面に描かれた2次元のデータとして見なせるのだという。この理論において、俺は2次元平面に保存された存在情報の投影に過ぎない。俺が見て触れるもの、そして思考し疑う俺自身も、全てが0と1の投影。地平面上に記述されたスコアリングが我々の全てなのだという、どこかで耳にしたそんな話が思い出されていた。
実際に、ブラックホールの界面 ⸺ すなわち事象の地平面の面積は、ブラックホールの持つエントロピーと比例するという。エントロピーは状態の数の対数として定義されるので、事象地平の面積はある空間領域の情報量と相関するということになる。ブラックホールは色褪せた古書を電子化するかのごとく物質の符号を変換し、さながら宇宙のアーキビストとして存在情報を保存するのだとか。
あまり深く理解せずにいたこの原理が具現化したものが、この暗黒空間の内部なのではないか。俺は空に架かるドームを認識していながら、実際はSCP-280-JPの境界面、2次元平面上にへばりついているのではないか ⸺。
「画面上のマリオやソニックが、俺たちの正体か」
正直、無傷で世界を永久保存してくれるならこのままでも良かった。元の世界でもホログラフィック原理が提唱されている以上、世界が2次元の射影だろうと3次元の物体だろうと俺たちには関係ない。衣食住が満足に整ってさえいれば次元など些末な問題だ。
だが今の世界は違う。綿々と続くヒトの文明が丸裸にされ、過去による動乱が人類の存続を脅かしている。そして俺には意思があるし、痛覚もある。死と隣り合わせのこの状況に長居するのはまっぴらだった。そして何より、俺がSCP-280-JPに餌を与えた以上、現状に甘んじるのは無責任でもある。どうにかしなくてはなるまい。
遠くで翼竜の声が聞こえ始めたので、半壊した駅舎の奥に入る。斧を手に取ると、その重みが負荷となって腕にかかり、実存を感じさせた。これが立体を捨てた2次元のコードとは到底受け入れられず、思わず笑みがこぼれた。
「さて、行こうか」
もしSCP-280-JPがブラックホールと似ているのなら、突破口も見出せる。この消防斧ともう1つのアノマリーで世界を元に戻せるかもしれない、そんな算段と共に階段を上がって行った。
◆ ◆ ◆
目的地まで歩かなくてはならない状況下で、電車 ⸺ とりわけJRが機能を停止している今、その路線は駅から駅まで導いてくれる1本道をなしていた。斧を担ぎ、疲労が蓄積すれば引き摺りながら、西に向かって歩くことにした。数キロ歩いては休憩し、生物が居れば迂回し、倒せるようならば斧を振るった。いっぺんに6駅程度の踏破を目標とし、脚や体に限界が来れば休み、眠気があればベンチや床で泥のように眠った。
とはいえ、線路の導きは確実なものではなかった。最も驚嘆したのは、横浜を南北に貫くように大河が走っていたことだった。どうやら過去の出現を受けて地形そのものもある程度の変形が生じているらしく、この河川は神奈川を東西に分断する向きに走り、より東への往来を遮断したようだった。かつての駅前の一等地も水没したか水流に薙ぎ払われている。辺り一帯は網状の水路が張り巡らされ、巨大な爬虫類に水資源を提供する場に変貌している。
東京の地下空間も単なる地下水の漏洩ではなく、こうした時間の重なり合いの結果だったかもしれない。ここで牙を剥いたのはワニに似た半水棲の爬虫類だった。厳密には偽鰐類か、あるいはもっと原始的な主竜形類に分類されるだろうそれは妙に盛り上がった頭部を持ち、21世紀にはお目にかかることの無い異彩を放っている。連中は水辺に近づく生物を次々に仕留め、水中への片道切符を延々と渡し続けていた。小型の恐竜も何頭か引きずり込まれていたが、彼らにとっても不釣り合いな時代の生物のはずだ。
地形の変動と水際の捕食動物は進路を阻む大きな障害の一つだ。いくら上流に遡っても橋が架かっているはずもないので、ワニの鎮まるタイミングを狙って強引に川を渡ることにした。何時間も待って水面が落ち着くのを待ち、彼方で恐竜の一団が対岸から渡り始めたのを認めると、すぐに水の中へ駆け出した。幸いにも鉄道路線には盛り土がされていたので、比較的浅い部分に沿って膝下を水に浸す程度で横断が可能だった。
川を渡り終える直前になって、背後の水面から猛烈な勢いで大顎が飛び出してきた。吻部の脇に斧をクリーンヒットさせるとワニは強い苦痛に見舞われたようだったが、水音を立てて川に潜り、極めて迅速に水中で態勢を立て直す。泳ぎに覚えがあったところでヒトでは到底叶わない練度の所作だ。再び飛沫が上がり、白い歯の並んだ強靭な顎が顔の前で音を立てて閉ざされ、額からは冷や汗が噴き出た。
抵抗は死に物狂いだった。いつどこから腱や筋肉を引き裂かれ骨を砕かれるとも知れないワニの相手は相当に精神を削剥され、纏わりつくような水の抵抗もあって俺は憔悴しきっていた。体力が湯気や蒸気となって汗腺から逃げ去る錯覚までもがそこにあった。全身全霊で威嚇し、水面の波頭を捉え、遠心力を振りかざす。凶悪な筋肉の塊を秘めた尾が顔を掠め、強風に煽られたように大きくバランスを崩す。荒ぶる体を斧で持ちこたえ、消耗戦を続行する。
脳の指令が腕の末端まで届かなくなっていく中で、どうにか斧を3, 4発頭蓋に叩き込むと、ワニもとうとうその執念を手放した。体を後退させて捻り上げ、尾を強く一振りし、水を赤色に染めながら帰っていく。荒れていた波紋がそのうち勢いを失うと、斧の反動で指や手が震える中、ようやく安堵が心の内に舞い戻ってきた。
火を焚いて床に就いていると、肺から空気を失いながら水の底へ沈んでいく悪夢を見て、焦りとともに飛び起きた。呼吸を落ち着かせ、汗を拭い、川での出来事に思いを馳せた。何億年にも亘って継承された水際の捕食者の生態的地位の強かさ。陸上生物の致命的弱点を突く特等席は今後も綿々と受け継がれていくのだろう。
⸺ 河川が、水圏が、この世に残る限りは。
◆ ◆ ◆
ワニの独壇場を抜けて静岡に差し掛かる頃、生物の挙動が変わり始めたのを感じた。川を眺めていても予兆はあったが、それが補強されていく。対象となる時代がさらに遡っているというのもそうだろう。しかし、注目に値するのは出現する種というよりもその行動だった。
そのうちの1匹がアースロプレウラだ。およそ3億年前のヤスデの仲間。恐竜に襲われた今となってはもう何を見ても驚かないと予想していたのだが、史上最大の節足動物という肩書が伊達ではないことを改めて感じさせられた。キチンに覆われた全身が光沢を放ち、触角をうねらせ、動く魔法の絨毯のように地面の上を滑り歩く。草に紛れた隠密性は確かなもので、少し線路から外れた拍子に思わず踏みつけてしまった。
どうやら怒らせてしまったようではあるが、彼がもたげた鎌首 ⸺ 厳密には首など存在しないのだが ⸺ の先には、テレビドラマで目にする刃物にも似た巨大な顎肢は備わっていなかった。ヤスデに近いその系統に救われたといったところだろう。体を切り落とされようとも反射で動き続ける生物を相手に、斧は分が悪い。
しかし、こちらに明確な危害を加える武器が無いとはいえ、その図体は見事なものだ。今まさに持ち上げて宙に揺れている部分でさえ、俺の伸長に危うく届こうかという長さを誇る。全長は3メートルに迫る勢いだ。背中に並んだキャタピラのような背板やずらりと並んだ無数の付属肢は硬い外骨格の意匠もあって精密機械を想起させる。もし締め上げられようものならば全身の骨が砕けてしまうのではないか ⸺ と、その体躯からたらればの末路を連想する。
アースロプレウラは体を振り、触角を鞭のようにうねらせながら俺に文句を垂れているようだったが、やがて興味を失ったのか、曲線美を描きながら体を地面に沿わせていった。物音一つ立てずに一連の付属肢を律動させ、彼は元々の進路に戻り、器用に障害物を乗り越えながら植物の中へ流れるように消えていった。
意外にも愛嬌のあるやつだ。頭を左右に振るその様など、俺を警戒しての行動だということを捨て置けば可愛らしさがある。普段は忌み嫌う虫の類でも、ここまで巨大ならば嫌悪も却って薄れてしまうというものだ。
ふと、肌に冷たいものが当たる。
「⸺ 雪か」
結晶はたちまちのうちに水へ変わり、頬を少し湿らせたかと思うと、すぐに体の熱で乾いてしまった。擦った指に水気の感覚は残らなかった。しかし黒色の空からはちらほらと白い点が降り始め、そのコントラストが際立っていた。背景にぽつんと浮かぶほんの僅かな質点のように見えたそれらは、徐々に形を帯びながら目の前の地面に落ちていく。
「こりゃ、積もるかもな」
⸺ アースロプレウラの生息した石炭紀は、その末に氷河時代が訪れたという。彼らを見舞ったその大変動に皮肉を感じながら、俺は西へ旅を続けた。東に向かったヤスデの姿は、それきり二度と目にしなかった。
◆ ◆ ◆
足の痛みをどうにか抑えながら浜松まで辿り着いた。筋肉は爆縮しかけていたが、体を熔融させんばかりに火照った熱は冷気に素早く持ち去られ、その意味では妙にさっぱりとした気分でもある。
既に視界は白銀の大地と漆黒の大空に二分され、ツートンの奇妙な世界に変貌を遂げていた。眩いばかりの白を前にして、反射した光は一体どこからやってきたのやら ⸺ と、とっくに放棄した疑問が再び舞い戻ってきて、ほんの少し可笑しくなってしまう。
アースロプレウラとの対峙の際に見かけた雪は、それ以来やむことが無かった。雪は氷となり、厚く地面を覆って固めていった。時間の重なりによる気候変動だとか、超大陸に押しやられた日本列島の北上だとか、地軸の横転だとか ⸺ そうしたものではないことが俺には分かっている。
『南極物語』で見たような白い粒子を帯びた空気が地表を流れていく。東海には似つかわしくない、ヒマラヤや両極のような光景が広がっている。斧は到底素手で触ることのできない温度に達し、柄も革の手袋越しに掌の熱を奪うほど凍て付いていた。空気中の水蒸気が次々に凝固し、地表の結晶は際限の無い付加を得て貪欲な成長を遂げている。
雪や氷に閉ざされた地面に目を凝らしてみると、その中に死骸が囚われているのが見て取れた。その様子はまさに死屍累々といったものだった。極寒に耐えることを諦めた者たちが永劫に姿形を留めている。ウサギは体を小さく丸めて凍り付き、オヴィラプトルは卵を抱いたまま巣の中に固まっている。ワニ、恐竜、哺乳類、節足動物 ⸺ かつて走り、泳ぎ、跳び、動き、生きていた者たちが分解されることもなく、厚い結晶の中に封印されている。
俺の中でうず高く積まれていた確信が補強されていくとともに、彼らへの申し訳なさも覚えてしまう。冷たい地面の中で果てた彼らにはかける言葉も無いが、彼らの屍が積み重なって厚く累重するほどに、俺の目標は実現へ漸近できるのだ。ふと、氷にディッキンソニアが貼り付いているのが視界に入った。よく見れば、ぴくり、ぴくり ⸺ と、その肉が微かに振動しているのが分かる。辛うじて命を繋いでいるようではあったが、この状況で助かることは天地が引っ繰り返らない限りあり得ない。体内の物質循環は滞り、逆に体温は散逸し、生命活動も風前の灯火だ。バクテリオマットの一欠片さえも無いこの寂寥の地で、こいつは1人で死んでいく。
俺は何も考えず合掌の姿勢を取っていた。ただ死にゆく先史時代の生命に、悲壮を、憐憫を、そして罪悪感を抱いたのだろう。思考が追いつくよりも先に感情は体を制御し、それ相応の行動を俺に取らせていた。
エディアカラ動物群は、先の全球凍結の果てに生まれた生物だ。彼ら以前の生物はその大部分を一掃された。地球全土が凍り付き、海水もキロメートルにおよぶ厚い氷の層で閉ざされた。徹底的な冷気は地表の全てを抗う術なく凍結させ、絶対的な遮断は残された海の食物網を根底から破滅させた。以来地球生命は地獄の辛酸を舐めた。全球凍結を終え、穏やかにして豊穣たる海の中で芽吹いた、複雑な体を持つ生命たちが彼らなのだ。
彼らは二度目の絶滅を迎えようとしている。亡骸の上には雪が降り積もり、それは一枚の氷の巨岩となって、彼らをこの世の一切から断絶してしまうに違いない。
「なあ、ご先祖様 ⸺ じゃあないんだろうが、待っていてくれ」
およそ6億年の時を隔てた、全く異なる系統の枝に位置する者同士。氷の下と上、カンブリア爆発の前と後、那由他に近い差異と相違があってなお、置かれた境遇は同じなのだ。ディッキンソニアに視覚があるかは知らないが、高々と斧を掲げてみせる。低温と重量が掌と腕に主張する。
「アンタを助ける。桃源郷のど真ん中に居座るあいつをぶち折って、俺の手でこの世界もひっくり返してやる」
◆ ◆ ◆
愛知県・豊田市。ヒトの定めた境界線に最早どれほどの価値があるのか知ったことではないが、この地はかつてそう呼ばれていた。そしてここは財団の知る限り世界に確実な終末をもたらす存在 ⸺ Apollyonクラスのオブジェクトが根を下ろす土地でもある。
この地だけは、この植物から半径数キロ以内の領域だけは、凍て付く寒さに晒されることのない絶対安全圏なのだ。周囲の万物から温かみを奪い、自己の周囲にのみ定常の常春を作り上げる。全てを薙ぎ倒さんとばかりに荒れ狂う吹雪や、来訪者を峻拒するかのような氷塊とは裏腹に、むしろこの空間は何人をも受け容れる寛容さがあるようにも錯覚してしまう。
穏やかな眠りを誘うような甘美な暖かさ。もしも強い意志を胸に抱えていなければ、まどろみの果てにとりとめのない夢に溺れてしまうかもしれない。黙示録的な光景の下に散った亡骸を想うと、それはよりいっそうの生命への侮蔑に感じられた。SCP-1857-JP。周囲の熱を根こそぎ吸い取り成長し、そしてその範囲を無尽蔵に拡大するエドヒガン。上陸して以来数億年に亘って幾度となく惑星改造を繰り返してきた、植物の暴挙を体現したような存在だ。世間を賑わせた寒冷化の犯人は、時空間異常が地球を取り込んだ今でさえ活発に生育している。
むしろ、かもしれない。46億年に亘る歴史が具現化した今、奴の吸い取る熱エネルギーは各段に増したはずだ。悠久の時を生きた生物系統、大地を覆い尽くしたマグマオーシャン、そして原始惑星に降り注ぐ無数の微惑星。これらの熱源を全て喰い尽くしたのだとすれば、この大木は当初の財団が想定した以上の化け物に育っているに違いない。
「2次元のコードにも熱があるのか確証は無かったが、お前の様子を見る限り杞憂だったみたいだな」
巨木は顔色一つ変えることが無い。凛として枝葉を伸ばし、大地に根を張り鎮座する。
「お前が急成長したおかげだ。この黒く沈んだ天球のど真ん中から地球を救い出して、皆に太陽を拝ませてやれる」
斧を取り出す。外の極低温を経験した消防斧は春の温かさに充てられてなお、いまだ触れる全てを切り裂くような鋭利な冷気を纏っている。どのような物体でも一方的に傷つける、ありとあらゆる物を破断する完全な鎮圧の道具。その冷たさにある種の痛みをも覚えながら斧を構える。
SCP-1857-JPにもし知性があれば、斧の本質を理解できたかもしれない。もし感覚があれば、斧の危険性を察知できたかもしれない。もし運動能力があれば、身を捩ってそれを回避できたかもしれない。だが現実、かの世界樹は漫然と座して待つ他に無かった。
旅路の中で信頼を寄せられたAnomalousアイテムは ⸺ かつてSCP-3535-JPと呼ばれた代物だ。対象の破壊耐性を、耐久性を、不死性を、完膚なきまでに叩き潰す。SCP-1857-JPの持つ熱エネルギーを利用した超自然的な再生能力も、それに対し絶対的な「親鍵」たる斧の前では無に帰る。他者から分子運動を奪い続けた桜の木は、逆に防御を簒奪される立場に回ったのだ。
しかし、SCP-1857-JPの真価は蓄積された莫大な熱にある。仮にヤツの不死性を無効化したとて、その先の帰結は再生という行き場を無くした熱エネルギーの暴風だ。一度傷つけてしまえば、安定性を欠いたエネルギーの濁流が溢れ出る。エドヒガンが地球全土から集約させた46億年分の高エネルギーはたちまちに全てを焼き尽くしてしまうだろう。地球全土を焼き焦がす、あるいは、瞬時に熔融・沸騰へ至らしめる想像絶する暴力がそこにある。
桜はそれを熟知しているかのように枝葉を揺らした。およそ100里もの道のりを歩んだ来訪者への嘲笑とも取れる。
当然、その行く末も織り込み済みだ。
むしろそれこそが、平面上の射影に過ぎない我々の希望、三千世界を跨ぐ虚空を穿つ魔槍なのだ。俺は桜の幹を斬り付け、次元を昇る反跳を得る。
この大木が抱え込んだ熱の全てをブラックホールの内部で放つ。外部の熱力学系に渡るのだ。ホーキング放射としてその熱を発散してしまえば、この天蓋 ⸺ すなわち、SCP-280-JPはエネルギーを外部に放出し、蒸発する。ブラックホールとて熱的な放射からは逃れられず、全てが正のエネルギー粒子に変わって消滅する。
SCP-280-JPの内部には歴史が嵐のように渦巻いている。この歪みに歪んだ時間の矢に沿って、ブラックホールの爆散消滅もまた四方八方に存在を食らい尽くす。SCP-280-JPの全ては46億年 ⸺ あるいは137億年に亘る一瞬一瞬で残さず駆逐され、我らが地球は正常な歴史を辿って現代へ帰還する。地球が再始動する。40億年におよぶ生命の歴史を載せて、宇宙船地球号が浮上する。地球人本位の視座に立つならば、第二のビッグ・バンと呼んで差支えが無いかもしれない。
「奇跡が起これば、放射で自由になる存在情報から、原子1つの一挙手一投足まできちんと復元してもらえるかもな……」
不確定要素はあまりにも大きい。SCP-1857-JPが吸い残した熱エネルギーで、直径0.7メートルを超えるSCP-280-JPが残り続ける可能性も否めない。時間の矢が未来から過去へ遡るならば、時間軸上の基部たる現在に巨大な天蓋が残る可能性も孕んでいる。
そして何より、SCP-1857-JPの断末魔たるエネルギーの迸りは、外界で凍結した事象たちから吸い上げたものに他ならない。甘い春の世界に留まる限り、俺の熱エネルギーが加算されない懸念も存分にある。斧を叩き付けたならすぐさま絶対零度に身を投じ、完全に息の根を止めて凍死しなくては、元の世界に戻ることは叶わない。
⸺ それはそれで、この世界を作り出した元凶たる俺の、献身の形なのかもしれない。
縮小する時空間異常を無限に続く過去と未来から消し去るには、全てが凍て付いたこの世界においてこれ以外に道は無い。「親鍵」を構え、助走をつけ、あらん限りの力を込めて振りかぶる。遍く宇宙で久遠の調和を保つことになる、いわば常盤の桜へ ⸺ 剪断を叩き付ける。
「光あれ。」