夜より黒い空の下に
評価: +11+x
blank.png

どこまでも黒く沈んだ天球にミルキーウェイの粉は降らない。

世界は産声を上げて瞳を刺し、焦げた帳の下で大地が育つ。底知れぬ黒さを湛えた天球は遥かな空を塗り潰し、山を跨いで立ち塞いでいた。広がるドームの向こうから森羅の続きが染み出でて、地面が伸び、汚れた雪が姿を現し、濾された野山が生まれていた。

戸を開き肺に外気を込めると、普段通りに酸素が巡る。黒衣の空が星を喰う中、肌は光のぬくもりを帯び、草木の傍に影が落ちる。

鼓膜を警告音が蹴りつける。異様な皆既日食をさておいて、冴え切った人工知能は電波暗室の異変を告げる。耳に攻め込むサイレンは黒の空間の収容違反──消失の事実を突き付ける。別れを口にすることなく、SCP-280-JPは既に部屋を旅立っていた。




私のせいか。



世界を覆う天蓋と洞に浮かぶブラックダイヤは、脳細胞に連想ゲームを巣食わせていた。観測の拒絶、絶無の亜空、ブラックホールと呼ばれる代物だ。思考はそれを否定するが、隔てなく全てを呑み込む事象地平は壁の形容に相応しい。

プトレマイオスの天動説も、アインシュタインの宇宙項も、素朴理論は誤りを拓く。轟音と共に常識が破れることを、信念が薙ぎ倒されることを怖れ、人は想いを守り難色を示した。しかし古代バビロニアより4000年、エイダ・ラブレスから200年。人の子たる計算機群は冷徹であり続ける。

私は逃げた。脚を棒にして走り続け、爆縮しかける筋をなだめ、この宇宙の縁を求めた。どれだけ駆けようと理解は残酷に脳を蝕み、不安と寒気、恐怖と震えが体の胸を押し潰す。体を伝う汗と涙は加速する体温をすうと奪い、まだらな熱が後に残った。







ルーズソックスの高校生がケータイをいじり向かって来る。丁度私と同世代だったかもしれない、スクールバッグを振り子にした彼女たちからは、平成の香が漂って来る。なびく髪が視界から外れ、牛が水田に波を立てた。重たい装具を引きずる牛は足を沈める農夫と共に、開けて間もない昭和を見せる。

全てを吸い込む悪魔の星は腕をずるりと伸ばして贄を獲る。健脚たる光までも、かの魔の手から逃れられず、捕らわれ呑まれ散っていく。因果の奴隷は如何に軽やかに舞おうとも、無関係には居られない。

気配を感じ振り向くと天突く馬体が迫っていた。背を打ち付けた頭上から「気を付けろ」と荒い声を浴びた。御者の背後で過ぎゆく窓から西洋かぶれが視線を送り、同席の婦人が口角を隠す。

光は走り、留まることなく走り、指に絡め取られてなお走り続ける。彼の脚は腕と釣り合い、やがて綾取りのごとく手繰られる。時間の矢は捻じ曲がる。光の駆ける向きこそが矢の向かう先だからだ。

狼の遠吠えがこだまする。

枝葉を揺らし朱鷺トキが飛び立つ。

蹄に遅れ、武者の鎧がこすれ合う。

悪魔の庭では符号が捻じれ、時計と分度器は役目を終える。

──濡羽のケージに集まった、混沌の歴史の生け簀だった。

繰り広げられたありとあらゆる歴史事象が一斉開花を遂げていく。石墨として紙面を走り、液晶の上を流れた知識が、今は目の前を歩いている。誰かの砕けた年表は潮の流れに揺られた末に異国からのボトルとなった。削れたカセットテープのように時空は地べたを這いずり回り、循環の中をとぼとぼ戻る。

遺物は彼方へ遡り、時間の波も整合する。1次元時間軸を揃えること、それこそ黒い悪魔の為せる業だ。







絶対たる無秩序の物差しは──エントロピーは増大する。熱は低み低みへ漏るよう流れ、高低を消し去り全てを均し、秩序なき均衡を目指し続ける。ぱしゃんと地に染む覆水は決して盆に返ることなく、ふうと吹かれたダンデライオンは果てなど知らず広がっていく。

エントロピーは全ての状態を予言する。0と1の二進法、二重螺旋の四進法  情報は状態をコードする。風に乗った綿毛はその座標と速度に縛られ、螺旋を描くアルファベットに細胞群は隷属し、皆が定理に付き従う。粒子が暴れ、数字が躍り、エントロピーは詳しさを増す。物差しとは情報量だ。

ブラックホールに堕ちた綿毛はアイデンティティを悪魔に託し、悪魔を名乗るアーキビストは地平線に指を伸ばす。綿毛を定める数字の羅列は黒く敷かれたヴェールに撒かれ、地上絵として化けていく。両界曼荼羅に溶けていき、情報量は保たれる。



地平の従う変数群はたったの2つぽっちに過ぎない。鳥が飛び、人も歩き、魚の泳ぐ次元から、綿毛を描くスコアリングはZ軸なき世界へ下る。綿毛の溶けた曼荼羅は2次元世界に従いながら高次の真理を紡ぎ出す。絵に描いた餅は実を持ち、河床のスッポンは月を生む。隔たる変数を跳び越す破綻、準位の反跳が横たわる。

ホログラフィック原理においてZ軸は実在しない。

最早我々は平面上の0や1の射影に過ぎない。私が見て触れるもの、そして思惟する私自身も、全てがコードの投影だ。第3の軸はまやかしに過ぎず、立体を棄てこびり付く。目を覚ましたアーキビストは真摯な指で古書を纏め、壁を照らすプロジェクターが光子同士を重ね合う。大気を纏った遺物たちは、皆が複製、全てが虚像、徹頭徹尾架空だった。


翼竜が空を飛び、甲冑魚が川を泳ぐ。


三千世界を跨ぐ虚空は知りうる全てを呑み込んでいた。


画面を歩くスーパーマリオは己の虚数iを見つめていた。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。