一日の終わりには、鏡の前で笑ってみよう。全てはそこに現れる。
エージェントの筋肉はどれもこれも悲鳴を上げていた。彼女のピンク色のハンドバッグには数本のガラス瓶が常備されており、それぞれ異なる種類の錠剤が収められていた。慎重に指の腹で錠剤を数え、手の平に載せる。
水の入ったコップを用意し、ゆっくりと息を吐いてから錠剤を口に詰め、水で流し込む。口の中は異様に苦い液体で覆われた。糖類でのオブラートといった気遣いの発想は開発部には無いらしい。軽く咳き込んでから顔を上げる。
「それを毎日か」
「はい、まあ。受けている厚遇を考えれば、この程度は」
呑気に声を掛けてくる上司の声は携帯端末から聞こえてくる。ビデオ通話越しでも、このみっともない姿を見られるのは良い気分ではなかった。ただ、医師の指示通りの時間に薬を飲まないことがどれほどコンディションに影響を及ぼすか、彼女もその上司もよく知っていた。彼女は上司のことを性別すら知らないが、特に気にしなかった。単純に、考慮する余裕がない。
「そう気を張るな。任務に支障があってはならん」
「申し訳ありません。何分、こういった作戦の経験が乏しく」
「珍しい任務ではあるが、そのための珍しい人材だ」
「光栄です」
錠剤の強烈な苦味は未だに口内を侵して止まない。肩や手首を回して異常が無いかを確認してから、もう一度軽く水で口をすすぐ。椅子に座って強張った筋肉を思い切り緩め、意図して腹を動かして深呼吸する。外出用の衣服の感触は気分が良いものではなかったが、着替えるような気力も湧かなかった。
「伝達事項は以上でしょうか。準備を整えたく思うのですが」
「ああ、明日の〇八〇〇に再度連絡しよう。エージェント・後醍醐勾への通信を現刻で終了する」
糸の千切れるような音を残してビデオ通話は切れ、室内には再び静寂が訪れる。エージェントの眼前の机には数冊の資料が散らばっており、全く同じデータが財団支給端末にも受信されている。エージェントはそれを拾い上げ、改めてページをめくる。既に何十回と確認したものだが、神経質になって損は無いだろう。後醍醐はこういった点でいかに自分が凡か、痛いほど理解していた。
後醍醐は無性に煙草が吸いたくなっていた。ページを捲るエージェントの指は彼女自身舌打ちをしたくなるほどきめ細かく輝いており、それでいてなめらかに動きすぎた。それが既に生来の指でなくなっていることを認識したくなかった。
机に放り出してあるガムの包装紙を剥ぎ、いくつか纏めて口に放り込む。錠剤の苦味の上から覆い被さるようにしてミントの刺激が広がっていく。セーフハウスに滞在する時には必ずガムを持ち歩いている。任務上、外で噛む訳にはいかなかった。
印刷された文字の上で視線が流れる。脳内に構築されているものと齟齬がないかを確認し、実際の動きをシミュレートしていく。そして、事態が深刻であることを、受け止めつつもどこか脇に置いておく。財団へスカウトされて以来、この作業を延々と一人でこなしてきた、と思う。昔に比べれば成長しているはずなのに、何故か負荷が増しているような気がしている。自分の中に明日の自分が形作られていく感覚を、誰かと共有したような思いがある。
後醍醐は芸能界に数多く潜入しているエージェントの一人だった。ただ、実際にステージに立つという意味では財団内でそう豊富とは言えない人材でもある。人材の浪費は避けるべきだろう。薬剤と記憶処理にまみれた腕も顔も名前も、今の後醍醐には十分に馴染んだものだ。
元々は違ったのかもしれない。純粋にステージに憧れて、何百何千何万という観客の視線と興味を一点に集めるあの場所に立ちたくて、只管にステップを踏んでいた頃があったのかもしれない。もう忘れてしまった。普通の芸能人が何年経っても忘れられないようなあの感覚は、別の衝撃によって日々塗り潰された。薄れるのではなくより濃い何かに押し流されるようにして、ステージの輝きは後醍醐から離れていった。
資料の内容は完全に後醍醐の脳内に複製された。ガムを吐き出し、ティッシュで包んで隅のゴミ箱に投げ捨てる。自分はどうだろう。果たして、投げ捨てられないような人生を送れてきたか? 摩耗し、損失していく身体と精神を技術で支えながら歌い続けて、もう何年経ったのか? エージェント・後醍醐勾は、『後醍醐勾』を投げ捨ててから何をどれだけ救えたのか?
新しいガムを口に入れる。錠剤の苦味はとっくに打ち消されていたが、休む前に少し考え事をする必要を感じた。明日は後醍醐のライブで、同時にエージェントとしての実験任務でもある。
今や全世界、至る所のライブホールで何らかの異常が発生している。何らか、だ。具体的に何なのか、確たるデータは何も得られていない。ただそれは急速に広まり、微妙な齟齬を生み出している。ライブを終えたアーティストには明らかな記憶障害が認められ、グッズの在庫、観客の入場数、スタッフの動員数、何もかもが妙に噛み合わない。決して大規模な影響ではないが、誤差に思えるような数ではない。何かが、認識できない何物かが失われるか、もしくは付け足されている。
後醍醐はエージェントとして記憶作用薬を服用して現象を観測し、またその動きと装備をもって会場にミーム的な阻止影響を与えるよう命令されていた。後醍醐は大規模なライブホール内の観客の視線が一点に集まる場所でもある。観客に何か細工をしたいなら、後醍醐自身を弄るのが手っ取り早い。おそらく今回の現象は、スタッフや観客のほぼ全員が無意識に関わっているはずだ。後醍醐を媒介として散布したミームと後醍醐自身によって、何としてでも現象を突き止める必要がある。
指で机を叩く。その指はやはり忌々しいほどに傷一つなく、後醍醐のものではない。ステージ上ではもちろん、私生活でさえ変装無しでは視線を集める役柄の後醍醐は、言ってしまえば都合の良いテストケースだ。日に何人の視線に晒されるか分からないような状況下で義指や張り替えた皮膚、組み換えた精神に気付かれないようなら、普通の人間相手ならまずどこで使っても問題のない技術と言えるだろう。そもそも後醍醐が損傷を負っていなければそんな技術に頼る必要も無いのだが、こればかりは仕方がない。無傷を望むには、後醍醐はあまりに長く財団に居すぎたのだから。
二人の弟のことを思い出す。むしろなぜ弟のことを忘れていたのか? そう、後醍醐には同じように芸能界に潜入している弟がいたはずだ。共同任務もここ数年していないし、テレビでも見なくなった弟達。一緒にオブジェクトの……一緒に? 今は一緒ではないのに?
考えながら、衣装を脱いで用意されている寝間着に着替える。財団の仕事はいつも丁寧で、遠回しに世界がまだ安穏であることを示している。寝間着の感触は肌に馴染み、まるで重さを感じさせない。この、人工物で押し固められた腕のように。後醍醐が最も輝くべき10年は既に過ぎたというのに、理不尽なまでに肌が水を弾いている。
洗面所に向かう。備え付けの歯ブラシの封を破った所で、ふと鏡の中の自分と目を合わせる。後醍醐は自分の年齢を数えていない。顔には皺ひとつなく、緩い寝間着の隙間から見える首から鎖骨、また手首のラインには一切の歪みが見られない。笑ってみる。何百回と、何万人の前で披露した笑顔を自分に向けてみる。頬を上げ、真っ直ぐに前を見つめる。その視線は鏡に跳ね返ってそのまま目に戻ってくる。
吐きそうだ。
後醍醐勾が初めてそれに遭遇したのは、デビューから幾許もない番組収録の時だ。慣れからは程遠く、息切れするようで、でも輝いていた毎日の中のワンシーンだった。それは何の前触れもなく訪れて、後醍醐の今までの全てはそれに比べれば紙片の如く軽い、無意味なものに思えた。
後醍醐達にとって緊張が抜け切らない収録中、徐々にそれは訪れた。台本にある程度の掛け合いは載っていたが、ある男性タレントの後醍醐への言葉はわずかにその許容範囲を越えるように感じられて、かつ彼の雰囲気は異様だった。視線は既に後醍醐のどこにも向けられず、脚は妙に落ち着かずにふらふらと動いていた。微妙な異常、そして暴力の匂いを感じ取って口を開けた時、明確にそれは始まった。
襟首への引力、繰り返される顔面への殴打があった。咄嗟に腕を上げていなければ確実に顔のパーツのどれかが歪んでいたはずだ。数回腕越しに衝撃を受け、相手が姿勢を変えて胴体へ狙いを定めるのを感じ取って全力で足を前へ突き出し、よろめいた相手を弟二人が、弟? 弟がいるのか? 弟が要るのか?
後から聞いてみれば、やはり男性タレントはおかしかった、というより、そもそもあれは予定されていた男性タレントではなかったらしい。"本物"がどうなったのかはセキュリティの問題か何かで一切教えてもらえなかった。二度とそのタレントをテレビで見ることはなかった。
そして後醍醐達は咄嗟の判断力を評価され、数十枚の契約書を提示された。弟達とも話し合ったが、正直、当時の後醍醐達に選択肢などはあってないようなものだった。売り込めるなら、評価してくれるなら、どんな所へでも喜んで利用されるような非常に危うい立場に後醍醐達はいたのだ。契約書へのサインは全く滞りなく行われ、彼女らは裏側へ足を踏み入れた。
今日まで、舞台裏から後醍醐達は出てきていない。
後醍醐は舞台裏にいた。昨夜は何か嫌な夢を見たような気がする。
義肢の調子は悪くないし、生身の部分の肌は奇妙なほどに艶がある。記憶作用薬が信じられないほど不味いのはいつも通りで、資料の内容は完璧に脳内にある。指定された動かし方で、指示された通りに手足を動かし、衣装のそこかしこに仕込まれたミームエージェントを観客に見せる。
作用薬のせいか、会場に入った瞬間からずっと違和感を覚えている。何かがすれ違っている。後醍醐勾のライブであるはずで、表面上は後醍醐のもので、後醍醐に会場の関心は集中しているはずなのに、何か浮足立つような違和感が充満している。足音。扉の開閉音。観客のざわつき。いつも通りの開演前の慌ただしさが、どこか違う。照明がやけに目に刺さる。もう、ステージに上がるまで数分も無い。通常のスタッフから隠すように衣装と義肢の運転チェックをし、もう一度手足の動きを脳内でシミュレートする。何も問題はない。心臓がやかましいのはいつものことだが、そのリズムさえも普段のライブとは違って聞こえる。
大きく深呼吸、そして瞬きをする。頬の筋肉をほぐし、取り付けたマイクの位置を指で少し調整し、金属製の階段へ足をかける。音がして、違和感が増大する。ステージは眩しいほどに輝いていて、不自然に後醍醐を迎え入れる。観客達は突き刺すようにこちらへ視線を向け、その声が爆発する。後醍醐はそれに応えて、笑顔を作って全力で声を放とうと試みた。
違う。
何かが違う。違う。足踏みが違う。手拍子が違う。後醍醐のライブでこんなリズムは使われていない。ああ、しかし、このリズムを誰もが知っている。後醍醐のことよりもよく知っている。既に主役は移りつつある。
違う。違うだろ? 二回の足踏み、一回の手拍子。幼稚園児だって知っていて、二本足で立てればいつだって刻めるリズム。観客の奏でるもの、後醍醐の足、開閉するドア、照明の強弱、今流れている後醍醐の曲のボリュームの大小、後醍醐の心臓の鼓動。二回の足踏み、一回の手拍子。
違うはずなのに、言いたいことは痛いほど伝わってくる。彼らは確かに輝いていて、後醍醐とは違う。表舞台で心が行くまで彼らは歌っている。観客を突き動かす。弟がそこにいるのを感じる。後醍醐よりも、彼らと弟はずっとずっと観客の心を掴んでいる。数に縛られない。場所に縛られない。時間に縛られない。彼らはそこにいる。リズムを踏めばどこへでもやってきて、場を最高潮に上げていく。確かに、このクソみたいな地上のステージにはもううんざりだ。二回の足踏み、一回の手拍子。心を突き動かす、どこまでも通り抜けていくような声。頭が痛む。薬に染まった脳がこれを記憶しようとする。でもそんなものに意味があるか? この一瞬の高揚に身を任せたい。じくじくと意識が蝕まれる。思い切り声を張り上げて、体を全部使ってリズムに乗れたらどんなに気分がいいか? でも、それは違う。
We will rock you
……and you rocked us
ここは私のステージなんだよ、クソったれ。
yeah,yeah,yeah,
Exellent.
Thanks for coming,Ms.Godaigo.
……what?
████████████████████
超常現象記録 13189-JP 追跡調査報告より抜粋
当現象に対するエージェント・後醍醐勾を中心とした調査計画により、SCP-905-JPの関与が認められました。
エージェント・後醍醐がステージに上がった直前からSCP-905-JPと酷似した事象が進行し、SCP-905-JP-1が38体、またその他にお互いに異なる20代のアジア系男性が2名出現しました。調査により、この男性2名は財団データベースにそれぞれエージェント・後醍醐鏡、エージェント・後醍醐剣として登録されていたタレントの男性と酷似していることが判明。両名はインシデント-A690ZKによって死亡済であり、カバーストーリーの流布及び記憶処理は完了しています。
この男性実体2体が「ウィー・ウィル・ロック・ユー」を歌いながらエージェント・後醍醐勾を舞台袖へ連れ去り、共に消失しました。後醍醐勾は記憶作用薬の効果か、SCP-905-JPによる精神的影響を全く受けずに抵抗する様子が観察されています。同様に記憶作用薬を服用してスタッフとして潜入していたエージェントによる救出の試みは、興奮した他のスタッフやSCP-905-JP-1の妨害によって失敗しました。エージェント・後醍醐勾を媒介とした鎮静ミーム散布は効果を成しませんでした。
当現象におけるSCP-905-JPは120分程度継続しました。終了後、観客は通常通りに退出し、各種の後処理は問題なく進行していましたが、複数人へのインタビューによると「後醍醐勾は数年前、既に交通事故で死亡している」という虚偽記憶の刷り込みが発生しており、数日中に財団によって保護されていない全世界の全情報媒体及び記憶が改竄を受けました。エージェント・後醍醐勾は作戦中死亡者(KIA)として扱われます。当現象は反ミーム部門との共同管理下に置かれています。
現在、全世界の大規模なコンサートホールで類似する異常現象が発生しており、██名のタレントの死亡に関する虚偽記憶が全人類に刷り込まれています。当現象及びSCP-905-JPは文明破綻シナリオの可能性を大きく上昇させると結論付けられました。
SCP-905-JPのオブジェクトクラス再分類申請は認可されました。対象はKeterクラスへ再分類されます。