私が1度目に死んだあの日は、人生で最良の日だった。
それまでの人生が酷かったのかというと、実のところそうでもない。それでも、精神的負荷や期待を完全に捨て去る感覚というのは、人に起こる出来事として私が想像できる中で、素晴らしく解放的なものだ。SCP財団に加わったあの日は、私にとって、別の誰かとして新しく生まれ変わった始まりの日だった。
シメリアン博士なら、昔の私と同じ不安を抱えてはいないだろう。シメリアン博士なら、高校時代の友人に片想いしたまま5年経つのに、デートに誘ってもいないなんてことはないだろう。シメリアン博士なら、世界がどれほど絶望的でも気にせず前を向いて、一度くらいはちゃんと生きていけるだろう。シメリアン博士なら、もっと自信に溢れていて、アルコールに頼らなくもなって、真に生きている人間だと実感できるかもしれない。シメリアン博士なら健康に良い食事を取る。運動ももっとする。
1週間も経てば、そんな新車の匂いは消えていた。死んだ後の私は、ただ名前が違うだけで、元の私のままだった。これまでと同じ不安。同じ悩み。
そうしてやっと、本当は私のほうに問題があるのだと気付き始めた。周りの世界のほうではないのだと。人は自己の多くを、外在化した見方で関連付ける。自分の行動を、親のせい、環境のせい、名前や帰属的身分のせいにする。もし自分の過去にそれほど執着を持たずにさえいれば、人はみな、もっと良い人間になれるのかもしれない。
だが、こんな内省をしても障害を生み出すことにしかならない。私は自分の問題を外に押し付けて、真実と向き合わなくてもいいようにした。
自分が悪人だという真実と。
そして、それは恥ではない。大半の人間はそうなのだ。大半の人間は、子供に危機が迫っていたとしても、それより自分の身の安全を優先するはずだ。頭の中ではヒーローを演じて、いざという時にどう一歩を踏み出すか、何通りものシナリオを頭に駆け巡らせる。
時には自分でも驚くことをして、ヒーローになったりもするだろう。しかし、そういう出来事は原則の例外だ。みな自分という人間は自分でしかなく、何があろうとも変わりはしない、それが真実だ。
しばらく前に、高校時代のあの娘を捜してみた。気になって仕方がなかったのだ。結婚して十数年になっていた。子ども6人。どの写真でも嘘偽りのない笑顔を浮かべている。彼女は完璧な人生を送っているのか? いいや。仕事も、お金も、幸せも、家族で過ごしていくには十分とは言えない。それでも、彼女は笑顔でいる。そしてそれは心からの笑顔だ。私は知っているはずだ。目を閉じると、あの笑顔だけが思い浮かんでくる。
その時、内省が過去へと遡り始める。想像が駆け巡る。もしあの時、はっきりと声に出していたら? 本心からの言葉を言っていたなら。築き上げた友情は大切だが、自分にも、彼女にも、もっと正直でいられたはずだ。そうしていたら?
結婚して? 子供を6人設けて? 彼女は笑顔を浮かべるのか?
そうかもしれない。だが恐らくそうはならない。そして笑顔の回数は今より少なくなる。
私のことは私がよく分かっている。私は壊れた人間だ、どれほどの愛や理解を以てしてもそれは変わらない。幸せになる資格が私にあるのか? 当然ある。しかし、他の誰かの幸せを犠牲にしてまでの価値はあるのか? 絶対にない。真にその人を大事に思っているのなら。誰かのためにできる最善手が、そっとしておくことだという場合もある。
だから、私はFacebookのタブを閉じて仕事に戻る。私の1度目の死は、全てを捨てて新しい自分に生まれ変わった時だと思う。
私の2度目の死はどんなものになるだろうかと考える。記憶処理を受けた後。元に戻った後。また一般人として順応した後。
私は健全な人間になるのだろうか? それでも自分のことを分かっているのだろうか? それでも周りの人を傷付けているのだろうか?
私が3度目に死んで、地に埋葬されたとして、誰が気にするのだろうか?
どうだっていい。私にはやるべき仕事がある。
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