削れぬ石を削る、それも幾つも
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 ヨハンは赤い髭をねじりながら、コーヒーマシーンの前でエスプレッソの抽出を待った。出会ったことのない部門の職員と会話するというとき、その直前には毎回少しナーバスになるのが常だった。

 死者の名前や素性を光の下に取り戻すこと⸺喩えそれが再び██████トムストーンに伏せられると解っていても⸺が職務である墓碑部門は、どうしても他部門職員からその存在意義を問われることが多く、一般に共感性の低い財団職員どもには、その疑念、および侮りを、無意識かそうでないかに関わらず明け透けにして接して来る者もいる。無論、ヨハンを含む墓碑部門職員は、この部門が財団を人類に拠って立つものとするための重要な責務を負っているという誇りを胸に働いているし、侮りを露わにした者への毅然とした対応くらい心得てもいる。だがそれでも、同胞と信じていたい者達からあからさまな侮蔑の視線を向けられるのは、いつになっても多少は堪えるものだった。

 まあ、その点で言えば……今回会う人物は、墓碑部門と同様の視線を向けられることが多い部門に属していた。

*

「墓碑部門特務エージェント、ヨハネス・カストンヴェヒターだ。ヨハンと呼んで欲しい。こんなサイトの奥深くまで足を運ばせてしまって済まなかった」

 殺風景な部屋に入ってきた人物を見て立ち上がり、握手を求めながらそれとなく相手を観察した。長身痩躯と28という年齢に比すると童顔な、爽やかな黒人男性。着慣れた風の、折り目正しいネイビーのスーツ。ヨハンの脳の隅は「一般部門」への漠然としたステレオタイプと目前の人物を密かに比較し始め、彼の理性はそれを詮無いことと断じて打ち止めさせた。

「一般部門研究課のヴィタリス・ダン博士です。この度は本当に有難う御座いました。そして、我々の管理不行き届きの後始末を貴方達にお任せしてしまった形になったことを、改めてお詫びさせてください」

「いいや、思いもよらない場所から思いもよらないものが出てくるのは財団ではよくあることだ、ヴィトー。そして何より、本件は一般部門だけの過失とは言い難い。掛けてくれ、紙の調査資料をお渡ししよう。薬は飲んでいるだろうね?」

 ダン博士はサスペンションの効いた椅子に奥まで腰掛けてから、テーブルに身を乗り出した。「……薬の説明を見て解りました、ヨハン。貴方達は我々の人員喪失に対して、我々の想像以上に真摯に向き合い、尽力してくれたようだと」

「とんでもない、これが我々の唯一無二の職務なのだから」ヨハンは頷きながら応えた。「だが、それを解ってもらえて有難いとも言っておこうかな。謙遜抜きに言えば、今回私はそれなりに危ない橋を渡ったと言えるだろうから……」

*

 調査対象の名前はミレイ・カデノコジ勘解由小路美玲博士。一般部門研究課所属。女性。死亡時の年齢は35歳。サンフランシスコで夫イーサン、娘サクラと暮らしていた。家族と共に仏教徒で、死後には一族の共同墓地へと埋葬される、筈だった。

「……一般人と家庭を築いていたと分かったときには驚いたが、一般部門では珍しいことではないようだね」

 ヨハンはペットボトルの水で口を湿し、ダン博士を見た。

「ええ、一般社会に属する親しい人達と共に生活することでその感覚を保つことを試みる一般部門所属職員は少なくありません。僕も出来ればそうすることを勧められましたが、研究職生活の中でパートナーを探すのはなかなか難しいですね。カデノコジさんのご家族はご無事ですか?」

「無事だ。だが、カデノコジ博士の記憶は持っていない。財団の記憶処理によるものではなく、彼女が追っていたものの自己隠蔽性によるものだと結論付けられた」ヨハンは少し言葉を切り、「あー、そうだな、君はここに書いてある“第五教会”について、どのくらい知っている?」

「財団が取り扱うものの中でも最も異常なニューエイジ思想、でしょうか」急に質問されるとは思っていなかったであろうダンは、やや面食らいながら答えた。「財団がその存在を把握したのは2005年のイベント1425以降。その教義は不透明で、外部からは理解不能なワードサラダとして映る。ヴェール内外を問わない既存の如何なる宗教や思想をもバックグラウンドに持たない⸺時に関連を見い出せそうに思えても、その本質は元の何かと比べるのもナンセンスなほど歪み果てたものだ。信徒はしばしば程度・由来不明の現実改変能を持つ。そして何より、彼らは“5”という数字を唯一絶対のホーリーナンバーとする。……僕は異常宗教学を修めてはいますが、新興ナルカネオ-サーキックが専門でして、第五主義について高いクリアランスを請求したことはありませんね」

「十分だ」いや、些か十分過ぎる。「カデノコジ博士はその第五主義を専門に扱おうとし、メキシコのキンタナ・ローにあるカルト“五つの動きの上の大きな蟹”に潜入した。2010年頃のことだ。第五主義は財団にとっても未だ研究不足で、財団上層部はその精神汚染力を侮っていると言わざるを得ず、5年も前のこととなれば尚更だ。カデノコジ博士は優秀なフィールドワーカーだったようだが、奴らから精神を守る正しい術を知っていたとは言い難い。結果、彼女は“改宗”した」

「ああ……しばしばあることではあります。一般部門に拘わらず、異常コミュニティを研究するフィールドワーカーが、最終的にそのコミュニティの一員となることは」

 ダンはそう言ってから、ヨハンの顔を見て、何か見当違いのことを言ってしまったのではないかと思ったらしく、眉を寄せて小首を傾げた。「……しかし、墓碑部門には別の見解がおありのようですね」

「ああ、まあ、私には私の見解がある。だが墓碑部門も私も、君と同じで、結局第五主義の専門家ではない。それに、一般部門の人員の認識をいたずらに正さんとすることが愚行に他ならないことは、私にも想像出来る……」

「それなら、ご心配には及びませんよ!」ダン博士は笑って応じた。その笑顔には、他者の無意識下の侮りへの牽制の意図も読み取れた。「一般部門の認識を置き換えてしまうことを心配されているのでしょう? 我々一般部門職員は、異常に拠って立つ者と尋常に生きる者の思考を自在に切り替える訓練を受けています。闇の中でものを見る目、光の中でものを見る目……我々はそれを、猫の瞳の明暗順応に喩えることもあります。そういうわけですから、別の見解がおありであれば、是非それをお聞かせいただきたいのです」

 ヨハンは髭を少し撫で、この若者も自身の職務に高いプライドを持っているのだと、思いを改めた。

「これはすまなかった! 一般部門の人とこうして話すのは私も初めてでね。いつの間にか、勝手に要らぬお節介をしていたようだ。そうだな、私の思うところでは、第五主義とは激甚性の異常ミームだ。極めて侵襲的で、感染すれば人格は破壊される。本質的に宗教というべきものではないし、カデノコジ博士が自由意志によって第五主義者になったわけではないと、私は捉えている。“改宗”と先に言ったのは言葉の綾だと思って欲しい」

「なるほど……その見解に拠って見れば、当時の一般部門の宗教学的アプローチは誤った道筋だったと言わざるを得ないでしょうね」

 ダンは椅子の背もたれに重心を預けながら、手元のペットボトルを手に取り、口に持っていった。かつての同僚の失策を不服ながら受け止めた、という風に見て取れた。

「繰り返すが、当時は財団を含む超常組織による第五主義への理解が今より浅かった。恐らくは財団の一般部門だけが犯した過ちではないだろうな。話を戻そう。カデノコジ博士はそのカルトの中核に受け入れられることと引き換えに、それまでの人格を改竄されたものと見ていいだろう。彼女だったものは奴らの尖兵となり、財団内部に潜伏していた。それは05/25/2012に、何者かによってキンタナ・ローのサイト-23内で重傷を負わされたことが、カメラに残された断片的映像からわかっている。それは財団サイトを離れ、消息を断ち……」

「……3ヶ月前、04/20/2015に遺体が発見された……カンクンのレストランで、天井に五体を串刺しにされた状態で」ダンはうっそりと続きを引き継いだ。

部位 留め具となった物品
頭部 ソメイヨシノ ( Cerasus × yedoensis ‘Somei-yoshino’ ) の枝 ( 直径約 8 cm 、発見時まで 5 輪の花が開花していた )
右上腕 カデノコジ博士所有の傘
左上腕 コモン・スターフィッシュ ( Asterias rubens ) を忠実に模した土器
右大腿 不明な巨大節足動物 ( Arthropoda cla., ord., fam., gen. et sp. indet. ) の関節肢
左大腿 金でコーティングされた、カデノコジ博士の右脛骨

「犯人は不明、確実に尋常の人間の手によるものではない。なぜ3年間も気づかれなかったのか、それは彼女の存在が異常な『反ミーム』の効果によって、人類の意識から抹消されたためであると。なぜその間天井に磔けたままに出来たか、それもまた『反ミーム』によって遺体の重量がカモフラージュされていたからであると。聞いたことのない用語ですね。『反ミーム部門』のエルナンデス博士が業務終了後に発見したとありますが、これもまた聞いたことのない部門だ」

「墓碑部門にいると、それまで知らなかった部門と出会う機会が多くてね、なかなか楽しいよ(ヨハンは内心で、死者は我等を誹りはしないからね、と独りごちた)。私達のやり甲斐の一つと言ってもいい。その多くは死者として出会うのだから、不謹慎な言いぶりだが」

「しかしまあ、反ミーム部門はその中でも例外だな。彼らは財団の中で最も秘匿された部門の一つだが、墓碑部門とは特別に協力関係があって、私などが橋渡しとなっている。彼らは反ミームと呼ばれる力を研究し、それに対抗するための部門で、彼ら自身も反ミームによって隠蔽されている」

「反ミームについて簡単に説明するのは難しいが……ミームを拡散する情報とすれば、反ミームは拡散を拒む情報。パスワードや長大な乱数数列、複雑な方程式のように、それ自体が認識・理解・記憶を拒むような情報、というのが反ミーム研究者がよくする解説のようだ。そして、異常なミームがあるように、異常な反ミームがある。複雑だが非常に覚えやすい方程式と、たった2音節なのにどうしても覚えられない人名を想像してみて欲しい。……あー、でも私は研究者ではないから、これ以上込み入った説明は出来ない。“重量をカモフラージュする”が反ミーム作用に含まれることの納得の行く説明なんかは求めないでくれ」

「反ミーム性を物体に、人物に、自在に付与することが出来る者達もいる。奴らはしばしば第五主義と関わりがある⸺もちろん無い奴も大勢いる⸺財団はその関連性をまだ突き止めていないようだが。……説明としてはこんなところだろうか?」

「ああ、そうか……」ダンは目を見開いた。「その説明で、僕が名指しでここに呼ばれた理由が解った気がします。カデノコジ博士は、僕の同僚だったのですか? それもただの同僚というわけではなく、恐らくはメンターに当たるような、親密な関係だった……」

「ふむ……何故そう思ったか、訊いてみてもいいだろうか?」ヨハンもまた、目を見開いた。ぬるくなったエスプレッソを口に運びながら。

「見当違いの推論だったら恥ずかしいな」ダンははにかんだ。「ですが、自信はあります。仮説を開陳してみましょう。まず、僕が第五教会について知っていることを述べた時、ヨハン、あなたは何かに得心したような表情を浮かべていましたね。それで思い返していたのですが、僕は第五教会を研究対象としてはいないのに、あれだけの情報を何の資料も無しに挙げることが出来ました。もっと言うと、僕は第五主義について先に挙げた以上の情報を知っている。にも拘らず、僕はあの場でご丁寧に5つのセンテンスに情報をまとめた。誰かの受け売りだったからこそ、あのような形で説明したのかもしれない」

「また、僕は“一般人のパートナーを作ることを勧められた”と話しましたが、記憶を浚ってもそれを誰に勧められたのか全く思い出せないことに気が付いたのです。一般部門研究課の人員は多くはありませんが、同僚の誰の顔を思い浮かべてもしっくり来ない。それが同部門の、同じ異常宗教学者の先輩からの助言なのだとしたら、説明は付きます」

「他にもいくつかあります……“勘解由小路”をどう読むのか最初から知っていたこととか、サンフランシスコに住む仏教徒の家族が墓を持つならそれが何処かすぐに想像出来たこととか。あと、僕は2011年の夏、彼女の遺体が見つかったカンクンのレストランで、僕は食事を摂ったことがあります。サイト-23も訪問した記憶がある。でも、その動機が何処にもないんです。僕はメキシコに知人はいないし、あの辺りのフィールドワークに行くような事情もなかった。僕の覚えている限りでは、ですが」

「……どうやら、君には反ミーム部門式思考の素養があるようだ。少なくとも、彼らと仕事をし始めた頃の私よりはずっと」ヨハンは嘆息した。「ヴィトー、今の君と同じような推測を、私もしたんだ。一般部門のスタッフリストやサイト入館履歴と睨めっこして……今回君に頼むことを、頼める誰かが財団内にいるとしたら、それは君しかいないとね。人事部と協力して裏取りをしたから、十分な確度があると思ってくれていい」

「今思えば、僕が恋人もいないのに海の見える素敵なレストランでランチを摂るなんて、もっと早くおかしいと解りそうなものですが。あそこが彼女の生前のお気に入りのレストランだったのでしょうか……」

 ダンは遠い目をした。カンクンのビーチを思い出すように。

「……ダメだ。正直、慕うべき人を喪って悲しむことさえ出来ないことを、今はどう思うべきか解りません。この漠然とした感傷さえ、僕が記憶補強剤を服用しなくなれば忘れてしまうのでしょう?」

 ヨハンは口髭にエスプレッソの泡をつけたまま、ダンと同じ方向を見ていた自分に気付き、一先ずテーブルの上のティッシュを取って口を拭いた。それから、言おうと決めていた慰めを口にした。

「ああ……それだけではない。反ミームという概念は、それ自体が反ミームによって秘匿されている。反ミーム部門についてもそうだ。この資料だって、サイト-41のこの棟でしか存在し得ない。君が記憶補強剤の服用を止めたなら、ここで君と私が話した内容の全てを、君は二度と思い出さないだろう」

「だが、君が反ミームというものについて思考したこと自体は、脳は何処かで覚えている。反ミーム/反ミーム部門というデータが君の脳からデリートされても、その思考の枠組みがアンインストールされることはないのだ。ミレイ・カデノコジのメソッドが君の中で生きていくのと同様に。それらはひょっとしたら、いつか不意に君の役に立つかもしれない……」

 それは墓碑部門的な感傷の籠った慰めであり、同時に反ミーム部門のエージェントから教わった成長のメソッドでもあった。誰がこのメソッドを自分に刻んでくれたのか、ヨハンはもう覚えていない。だが、それに気づいてから今まで、彼らの名前が何処かの墓碑に今も刻まれていることを祈らない日はなかった。それが望み薄だと解っていてもなお。

*

 ダン博士は資料から目を離し、溜息を吐いた。眉間を揉んでから、テーブルの上の手付かずのコーヒー、フレッシュ、スティックシュガーを見やり、まずシュガーの袋を手にとって破いた。

 ヨハンは3杯目のコーヒーを飲み終え、声をかけた。

「すまないね、穴だらけのプロフィールを読み込むのは堪えるだろう。私に見えている穴には看板を立てておいたが、ひょっとすると君には十分ではなかったかもしれない」

「疲れを感じていないと言えば、嘘になります。2時間かけて彼女の人物像を脳内で構築……再構築する必要がありました」ダンはプラスチックのマドラーでコーヒーを混ぜながら苦笑いした。「その上で、これからが本題なのでしょう? 墓碑部門が僕にしか頼めないことというのは、一体何なのでしょうか?」

「それは簡単で、そして非常に墓碑部門らしいことさ。彼女の名前をどの墓に彫るべきか、君に決めて欲しいんだ」

 ああ、とダンは得心の行った表情になった。「財団の共同霊園に個人の墓を建てるか……それともカデノコジ家の一族の墓に納骨するか、ということですか。しかし、そんなことが出来るのですか?」

「極東ではしばしば行われているよ。一度記憶処理したり、反ミームの影響を受けたりした被害者を埋葬するため、ご家族と寺院の記憶・記録を改竄し、カバーストーリーを用意して真実に近い形に整形するんだ。今回も計画は立ててあるし、我々の心情としてもその方法を取りたい。だが、コストは共同霊園を利用する5倍はかかる。想像出来ることと思うが、墓碑部門の予算は他の部門と比べて、控えめに言って多くはない。会計部門を説き伏せるには、親しい者が希望しているという理由付けが欲しいんだ」

 ダンは一度口元に持ってきたコーヒーの紙コップを眺め、一旦テーブルに置き、更に黒い水面を見つめた。

「何かまだ、懸念があるのかね?」ヨハンはその態度に戸惑った。そう時間もかからずに同意を得られるものと思っていたからだ。

 資料を渡したのも、実際には形式的なものに過ぎない。反ミームについて解説したのも、彼自身の感傷や、目の前の青年に敬意を払うためにしただけで、本題とは無関係の行いだった。畢竟、ヨハンがヴィタリス・ダンにやって欲しかったのは、YESと言ってもらうことだけだったのだ。

 ダンは首を振って、話し始めた。

「資料に目を通した印象をお伝えしましょう。僕は、カデノコジ博士は既に弔われているのではないかと感じました」

「……なんだって?」ヨハンはテーブルの上に身を乗り出した。

「いいですか、彼女は5つの物品によって五体を串刺しにされていましたよね。ヒトデの土偶、不明な節足動物の関節肢、これは古代メソアメリカの土偶と動物の副葬品を彼らなりに真似たものです。彼女自身の傘、彼女自身の脛骨、これは彼女の使い慣れていたものです。更に頭部には、5枚の花弁を持つ花が5輪咲いたままの桜の枝。……彼女は第五主義者として、これら5点の副葬品を添えられて、手厚く葬られていたのではないでしょうか? 生前愛した、海の見えるレストランの中で」

「第五主義者たちに……弔い行動があるというのか? 奴らは私の知る限り精神的な異星人だ……」

「それほど不思議なことでしょうか? 僕が知る限り、市井に接して存在する異常コミュニティには、ほとんど必ず境界層が存在します。カルト中核の指導者たちは異星人かもしれませんが、信者たちはもう少し、我々に近い思考形態を持っていてもおかしくはないはずです」

 ヨハンは暫し、呆然と目を瞬かせた。彼の提言は意外に過ぎ、言語道断に思われ、目の前の若者の無知への見下しさえ自覚した。自分が記憶補強剤と対抗ミームを同時接種してカルトに潜入し、いかれ果てた信者どもに聞き込みを行い、胸糞悪いワードサラダからノイズを取り除き、その情報を持って帰って財団の資料と突き合わせた苦労が、ヨハンの脳裏にフラッシュバックしていった。

 だが……だが、考え直した。恐らくはこれが、これこそが一般部門の存在理由なのだ。

 それに、仮に第五主義への先入観を抜きに考えると、ダン博士の抱いた印象はそれなりに尤もらしいようにも思えてきた。そもそも、結局第五主義とは何なのか、反ミームとは何なのか、「こちら側」の何人も知り得ない。これまでよりもっとシンプルに、あれは単なる奇妙な思想アイデアだと捉えたとして、それが間違っていると誰が言い切れる?

 それならば、目の前の人物の言を一笑に付すのではなく、共に討論をすべきではないか。

「……すみません、あれだけ専門ではないと言っておきながら勝手な自説を述べてしまって」ダンはしおらしく言った。渋面で考え込んでいた髭面の男を見て、不安感を高めていたと見える。

 ヨハンは椅子の背凭れに深く凭れた。「そうだなあ、まあ私の見解からすると受け入れ難いさ……それに君の提言をそのまま受け取ると、彼女の遺体をあのレストランにまた戻すのが正しいということになってしまうだろう。そりゃあまだ遺体は医化学調査課の元にあるだろうが、現実的じゃない」

「そうですね……正直、そこまでのことは考えられていません。それが出来ないからと言って、第五主義者の墓を建てるなどということもまた現実的ではないでしょうから……」

「ほう? ⸺それは墓碑部門への挑戦かね?」

「そんな、まさか! 僕の知識でもそれが困難極まることくらい想像出来ます。それどころかあなたの見解からすれば、それは異星人の墓を建てるも同然なのではないのですか?」

「何……やったことがないだけだ。墓碑部門がメカニトやナルカの墓を建てたことも、一度や二度じゃない。もっと少数に信仰される異常宗教の墓も建てた。やるとなったら我々はやるだろうさ」

「それが可能なら、彼女の墓はそうでなくてはなりませんよ。彼女が第五主義者として死んだのは確かなんですから」

「それは……おお、なるほど。君はこう言いたいんだな?だって、第五主義者が1人死んでいるじゃないかと。それには、あれが弔いであったかどうかも、あれがミレイ・カデノコジだったかも関係ない!」

 ヨハンは腕を組み、目を瞑って下を向いて何度も頷いた。そのうち、闇の中で困惑を帯びた声が聴こえた。「ヨハン、どういう結論になりそうですか?」

「2人いるんだよ、ヴィトー。カデノコジ博士は死んだ。彼女に成り代わっていたものも死んだ。2人いるなら、墓は2基必要なんだ」

「……そんなことをしてもいいのですか?」

「前代未聞だよ。だが、財団内部で出た外部団体の死者は、遺体が引き取られなければ財団が適切な形で弔うんだ。それと同じさ」

 ヨハンは目を開き、笑った。「コストはよりかかるがね! 5倍だったはずのものが、25倍はかかる! だが、私が部門長を、部門長が会計部門を説き伏せればいいだけのこと。あとは私たちの職務への情熱次第ってわけだ。ああ、なんてやり甲斐のある仕事なんだろう!」

 ヨハンはにやにやしながら、自分の仕事を増やした者に向かって手を差し出した。ダン博士はまだ困惑していたが、やがて握手し、共に笑った。

 ⸺2022年、サンフランシスコ。ヴィトーは傘を差し、蔓延るナメクジどもに辟易しながら、雨のセメタリーを出口に向かって歩いていた。もう少ししたら、パートナーが車で駐車場まで来てくれる時間になる。

 大学時代の恩師の墓に花を手向けてきた。彼女の容体が悪くなっていたことは知っていたが、職務にかまけて見舞うことも出来ないままでいた。民間人との繋がりを忘れ、財団職員としての仕事に没頭するのは、一般部門人員としての理念に反すると反省した。ヴィトーは決して熱心な信仰者ではなかったが、それでも死者を想う時には、「敬虔」という言葉の意味が理解できると感じた。

 故人との思い出を心に巡らせていたヴィトーは、気になるものを見つけてふと立ち止まった。日本仏教式の墓だ。前面には、漢字でこう刻印されていた。

勘解由小路家先祖累代之墓

「カデ、ノ、コウジ」そう口にして、首を捻った。さて、自分はこの漢字の読み方をどうして知っているんだろう?

 ヴィトーは大学で第三言語として日本語を学び、今でも日常会話くらいは流暢にこなせる自信があった。だが、難読苗字を調べもせずに読めるものだろうか。アニメかゲームのキャラクターだったろうか? もし財団の業務で知識を得て、その業務内容だけ記憶処理されているのだとしたらお手上げだが……。

 ああ、とヴィトーは思い出した。半年前にダエーワが極東地域に齎した影響について研究を進め、その一環で日本の地名や苗字に残る古ダエーバイト語の因子を調べたのだ。勘解由小路はそうではなかったが、一部の難読苗字について調査する中でこの苗字を知り、これが日本で2つだけ現存する、左衛門三郎サエモンサブロウと並んで最長の漢字五文字の苗字であるという情報は、雑学として頭に残ったのだった。

(無論、彼の中で5つの奇妙なカルトの存在や、愛する今のパートナー、10年以上前のメキシコ単身旅行とこの名は結びつかなかったし、7年前の無意味なサイト-41訪問はそれ自体記憶の彼方だった。それらに至る空白を埋めるための思考の枠組みは、ヴィタリス・ダン自身も覚えていない事件の中で、彼自身が決死のメディテーションと薬学的処置によって切り離してしまった。外敵に襲撃されたトカゲの尻尾めいて。)

(だが、思考の枠組みをアンインストールすることなど出来るのだろうか? ……訓練と幸運によっては、或いは。彼がもう少し深く長く反ミームについて考えていれば、思考を切り分ける訓練の経験がなければ、エージェントの助言がなければ、それは出来なかっただろう。)

 ともあれ、思い出したかったものを思い出したヴィトーは何度か頷き、ちらっとスマートホンを見て、パートナーから到着のSMSが来ていたのに気付いた。彼は通路を走り出した。

 通路の途中で、一際大きく黒々としたナメクジを踏みつけたことには、気付かなかった。

*

 ⸺君が財団職員の墓に花を手向けたいと思うなら、そしてその人物の公的記録が何処にも残っていないとしたら、“共同霊園”に行かなければならない。

 その霊園は、世界で13人かそこらしかその座標を知らない、地球の何処かにある。信じられないほど広大で、ご存知スクラントン現実錨を始めとする無数の保全装置によってSCP-2000もかくやと言うほど守られている。だが、財団職員による適切な手続きがあれば、入園前・退園後に場所に関して記憶処理を受けることに同意した上で、そこで故人を偲ぶことは可能だ。

 この霊園で最も奇妙な墓をご紹介しよう。最もと言ってもその候補は多いので、その内の2つだけだ。

 1つは、自立するテヅルモヅルとしか形容できない墓。透明でなく、緑でも赤でもなく、全く完全に何色でもない色をしている。寸法は大体 2.5 m × 0.5 m × 2.5 m 、3Dプリンタ生成の樹脂製で、中央で5つの腕に分かれ、その先でそれぞれが更に5つに分かれ、その先でそれぞれが更に5つに分かれ、その先でそれぞれが更に5つに分かれ、その先でそれぞれが更に5つに分かれている。最先端はあまりにも細いが、強度は十分なようだ。

 墓の中央には、

Kadenokoji Mirei

勘解由小路美玲

最もおょくぎんしりし人 五つの副葬品と共にここになるふす

 と銘が刻まれている。この墓を顧みる者はいないので、君が花弁が5枚の花を持っていたら手向けてあげて欲しい。

 もう1つは、黒いつやつやした立方体としか言いようのない石だ。バーソロミュー・ヒューズという男が設計を手がけたもので、インスパイア元よりはかなり小さいが、それでも 7 m3 と、人間にとっては圧倒されるほど大きい。1年に数度、決して君が想像するような男ではない男が理由もわからずにこの石の前にやってきて、自分でもわからない何かのために祈っていくようだ。

 曰く、この石は破壊不能であり、傷つけることができず、ここに刻まれたものは決して削り取られることも埋められることもない。財団はこれに、絶対に消えて欲しくない名前を刻みつけてきた。

 ……果たして本当だろうか? そのモノリスに近寄ると、ある1面の左上には、確かに幾つか名前らしきものが記されている。ではこれは、やはり墓碑なのだろう。だが、君が十分注意深く見れば、その中に幾つか空白があることも判る。ではこれは、やはり失敗作なのか?

 いや、君にもし無限の注意力があれば、そこには今も文字が刻まれているのが見えるはずだ! それは名前だろうか? 君の知る名前はあるだろうか? 誰の名前があったら嬉しいかな? M█████? A███? 右下のJ███████ K████████████は何て書いてあるか読める? さあ、目を凝らして……。

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