前回: 真実は罪なり
第1話: 少数精鋭
何年のことだったか…正直言ってよく分からない。
大量の悪い記憶をオネイロイに吸い取らせたんで、もうマトモに覚えちゃいないんだ。その時の私はICSUTの第3学年の学生だったってことは分かる。神学工学と生化学を専攻していた。障害を乗り越えるための努力は欠かさなかった。
いや、特に身体的障害があったとかじゃない。それは鏡を見れば分かる。筋トレにこそ魅力を感じないけど、もしかしたら興味を持てるクラブもあるかもしれない。パルクールは面白そうだ。柔道も。有酸素運動ができるし、社会的な交流もできる — それに、私は誰かの首を絞める方法を学びたいとずっと思っていたから。
その夜、私は今まで使っていなかったジムのスウェットを着て、初めて柔道の練習会に参加した。そこには私の他に4人が参加していた。ドイツ人留学生、細身のアジア系、インストラクター、そしてナターシャと名乗る金髪のヨーロッパ系女性。彼女は入会して2年目、インストラクターに次いで2番目に古株のメンバーだ。
最初の30分はウォーミングアップ。マットの上を跳ね回り、筋肉が悲鳴を上げる。次の1時間は、基本的なテクニックを練習した。部屋に女性は二人しかいないので、ナターシャと私はお互いに練習し合った。まずはロール、ヒップエスケープ、それからマウント。
最後の30分は、所謂フリーローリングで、お互いの下手な技を競い合う。当然ながらナターシャと私とでスパーリングをする。勝負は数秒でついた。彼女は私に覆いかぶさり、頭がくらくらするほどのスピードで私を締め上げた。
その瞬間、彼女の乳房が私の乳房に当たり、私は自分がこの女性に熱い感情を抱いていることを悟った。
その後のこと。どれくらい後なのかは分からない。多分数週間ほどかな?ソーシャルメディアでナターシャを付け回していたら、彼女が破局的な失恋をしたことが分かった — 相手は女性だった。これはチャンスだ。
柔道教室もちゃんと続けている。そして、それがようやく実を結びつつある。その日の夜、練習会が終わった後、私は彼女を映画に誘った。
見た映画はLUCYだ。ありがたいことに、その夜の残りの時間は、映画がどれだけ酷かったかを笑いながら過ごす事ができたので、上映中よりもずっと良い時間だった。ナターシャは、映画の間中ずっとルブタンを履いていることに文句を言った。私は、応用神学とキャンパスの生化学研究室で学んだことを使えば、もっと良いスマートドラッグを作れるはずだと、1時間も喋り続けた。彼女はどうにか昏睡状態にならずに済んだ。彼女は翌週、私をランチに誘ってくれた。
私は恋をしているみたいだ。
ランチデートの時、シカゴ・スペクターという犯罪集団が先日行った強盗事件の話になった。ナターシャは彼らのことを妙に庇う。そして、その理由を尋ねると、晩期資本主義について説教を始めたのだった。私は、彼女は1年もすれば共産主義から脱却するだろうと思う。でも兎も角、その心意気は賞賛できた。彼女は少なくとも世界をより良い場所にしようと努力しているし、それは私の努力より大きなものだ。だけど、その考え方は私に罪悪感を抱かせた。私は彼女の顔に集中し、その想いを心から追い出すことにした。
やがて一般労働者の疎外について聞き飽きた私は、彼女に誰かと付き合っているのかと尋ねた。彼女は、以前はガールフレンドがいたが、今は別れてしまったことを認めた。私は、その気持ちを汲み、自分もガールフレンドに捨てられたと言う。これは真っ赤な嘘だった。私にはこれまで、女友達という意味でのガールフレンドしかいたことがない。だけど、彼女はそれを知る必要はないんだ。
街に移動遊園地が来るというので、彼女を誘ってみることにした。運が良ければ観覧車の上でキスできるかもしれない。私たちはダンクタンクでボールを投げ(私は全部外し、彼女は一球目をドンピシャで当てた)、劣悪な回転ティーポットやメリーゴーランドに乗り、バイキングで嘘の悲鳴を上げ、綿菓子とリンゴのキャラメリゼを一緒に食べた。ところが、観覧車は私たちが列に並んでいる間に故障してしまったのだ。
私は、狂った予定をできる限り挽回すべく低質なデートの定番である映画を提案しようとした。先にナターシャが映画を提案してきたけど、次の上映まで数時間ある。彼女は、映画までテレビを見て時間を潰そうということで、私を家に招待してくれた。彼女は自分の車を持っていて(なんてクールなんだろう)、アパートまで2人で住宅街をドライブした。小さくてつまらない部屋だったけど、彼女は明らかに自室に誇りを持っているみたいだった。リビングとキッチンが一緒になっていて、小さなテレビの前にはカウチとクイーンサイズのフトン1が置いてある。私はフトンの上に腰掛け、カウチに背中を預けた。ナターシャも同じようにする。
暫くの間、私たちはアニメを見て過ごした。彼女は私を鋼の錬金術師に引き込もうとする。彼女の推しキャラは鎧甲冑の奴で、それが彼女のサイバネティックな感性に訴えかけたからだった。私は静かに座って、この番組の設定が如何にしてファシズムとナショナリズムのテーマに取り組んでいるかについての彼女の話を聞くことで満足している。ナターシャとは触れ合うほどの距離にいるのに、臆病な私はなかなか動けない。もうすぐ映画が始まるのに。彼女は「もっといい考えがあるの」と言って、テレビを消した。彼女は私の顔から眼鏡を外し、身体の上に跨ってきた。
私は内心、「ああ、なんてこった」と思いつつ、彼女を引き倒して、唇を合わせた。それから暫く、2人で抱き合いながらイチャついた。彼女の息はキャラメル・アップルのような味がした。そして、彼女は私のシャツの下に手を滑り込ませた。
ガールフレンドがいるというのは、本当に素晴らしいことだ。私は彼女に悪魔工学と漫画の面白さを教えた。彼女は私にマルクス主義とペニスバンドの気持ち良さを教えてくれた。しかし、良い事はいつかは終わる。アメリカでインターンシップ先を見つけられなかった私は、夏の間、ウルバーハンプトンに戻ることになった。インターンの期間中、私は欠陥のある手術用ロボットを除霊し、ナターシャとのビデオチャットを通じて徐々に先鋭化していった。そして、ブレグジットの国民投票を切っ掛けに、私は本格的に無政府共産主義に転向したのだった。
ナターシャは私に、その状況を抜け出して理論を実践に移せと言う。けれど、それは不可能だ。私はバラモン学者の家系の出で、親愛なる父上は、サッチャーは大西洋の向こうから少しばかり教訓を受けられただろうにと考えている。私が共産主義者になったことが父にバレたらどうにも対処できない。ナターシャは理解してくれているが、それは私の罪悪感を増すだけだった。秋学期にICSUTに戻り、学業に没頭できることを嬉しく思う。
ナターシャは生医学奇跡論とロボット工学の2つの専攻を修了し、今学期で卒業する。卒業後の進路については、彼女はまだ教えてくれていない。多分、NGOか何かに加入するか、逃げ去ってどこかで革命を起こすかだと思う。何度か探りを入れてはみたけど、彼女ははぐらかすばかりだった。それ以上は詮索しないことにした — 20年間、親に尋問され続けてきた私にとってみれば、ただ黙って一緒にいるだけで満足してくれる相手と過ごすのは素晴らしいことだった。
学期が始まって1ヶ月経った頃、ナターシャは私を森の中に連れ出した。最初はヤリたがってるのかと思ったけど(あんなクソ森でするなんて絶対嫌だ)、結局何の変哲もない空き地に到着した。そして、ナターシャは私の足元に地獄行きのポータルを開けたのだった。
実際には、それは地獄行きのポータルではなく、地獄行きのトイレに流されるようなものだった。永遠に続く時の中、肺が破裂しそうになり、スライムに沈められ、身体がスパゲッティに引き伸ばされる。そして、永遠が終わった。私は深く深く息を吸い込み、膝を崩して嘔吐する。ナターシャに助け起こされ、周囲を見回し、また嘔吐する。その吐瀉物は、月の上に舞い上がった。
月。神に誓って、月だ。 私は月にいて、生きている。噴出性嘔吐の症状を除けば、気分はかなり良い。セーターは十分すぎるほど暖かく、空気は冷たいが澄んでいて、重力も地球と同じぐらいあるみたいだ。
そして、その眺めは素晴らしい。私たちは山の上の小さな洞窟にいて、ナターシャが「雨の海」というのだと教えてくれた、深い黒の空に映える灰色の窪みの海を見下ろす。地平線には小さな青い玉が張り付いていた。私は小さくなったような気がした。
私たちは25分ほどその眺めに見とれていた。それからナターシャは、私を洞窟の奥に引きずり込み、21世紀の魔女集会カヴンへと連れ込んだ。それは月の奥にある、設備の整った泡のような場所だ。電子レンジ、オーブントースター、冷蔵庫が隅に置かれ、それらは電源タップに接続されていた。タップは五芒星の真ん中に置かれ、それ自身に接続されている。
3人の魔女がカウチで寛ぎながら、携帯電話をスワイプしたり、(どういうわけか)ノートパソコンでネットを見たりしていた。ナターシャが口笛を吹いて彼女たちの注意を引く。ピカチュウの帽子をかぶった白人の少女はザブトムと自己紹介してくれた。足を組んでだらけさせた中国系の女の子は、トレイシー・ズーと名乗る。その2人の向かいで、Shock Topのボトルを一気飲みしている女は、彼女自身の言葉で、自分を「テキサスのケモ系タンキー、ディヤ」と呼ぶように言った。私が彼女に「ディヤ」と呼んでいいかと尋ねると、彼女はノーと言った。
ナターシャは、これこそが極左魔法少女ギャング、シカゴ・スペクターであることを明らかにした。彼女たちは皆、無免許の魔術師だ。これは殆ど前代未聞だった — 生まれながらに魔法を唱える能力を持つことは非常に珍しく、珍重され、高度に規制されているのだから。彼女たちは、能力を使って金持ちから盗んで貧乏人に分け与える、現代のロビン・フッドとして活動していて、彼女こそがその指導者であった。
それは凄くイカしてることだと思ったし、口でもそう言った。でも、表向きは彼女たちの使命に共感しているとはいえ、私は狼の巣窟にいる羊のような気持ちになっていた。私には、彼女たちと一緒に外に出て騒動を起こす勇気も、その為の魔法のような能力もないんだ。ディヤがそう言うと、ナターシャは「その必要はない」と言った。彼女曰く、私は彼女たちの能力を倍増させる為の役らしい。私は以前、LUCYに恥じることのないドラッグを作ることができると彼女に言った — 今度は私にそれを証明せよというのだ。
次の晩、私は大学の研究室で、神学的に強化されたスマートドラッグのカクテルを作ることになった。次にナターシャが私をカヴンに招いたとき、私は反射神経を高め、思考をより戦術的にし、軽いテレキネシスさえ与えることが保証されている錠剤のセットを皆に渡した。スペクターは直ぐにそれを飲んでテレポートし、2時間後には戦利品でいっぱいのバッグを持って戻ってきた。私の薬のおかげで、彼女たちはスウェーデンの金庫内のほぼ全てのセキュリティ対策を回避し、ありえないほど完璧に逃げおおせた。
その日の夜、ナターシャと私はウサギのように身体を重ね合った。
初めは、全てが上手くいっていた。ザブトムとトレイシー・ズーとは意気投合し、親友になった。ディヤだけは私に冷淡だった。彼女は私のガールフレンドに気があるように思えたので、誰がナターシャの女なのかを知らしめるために、彼女に頻繁に睨みを利かせるようにした。私は快適な日常の中にいる — 朝起きて、講義室に急ぎ、課題をこなし、カヴンに行ってドラッグを作り、眠りにつき、また起きて講義に行く。土曜日はデートの日。ナターシャとカラオケで歌ったり、ゴーカートで競争したり、公園を散歩したり、普通はそんな感じ。1回か2回ほど、1日中ベッドで過ごしたこともある。
私は最高の人生を送っている。何も悪いことはない。ある日、それが起こるまでは。
学期が始まって2ヶ月経った頃、スペクターのメンバー4人全員が銀行での仕事に向かった。帰ってきたのは3人だけだった。その翌日、私はネットでザブトム(本名イングリッド)が、ドイツで3時間の睨み合いの末に殺されたことを知った。ザブトムの死から1週間後 — 彼女をイングリッドと呼ぶ気にはなれない — ナターシャは既に仕事に戻り、ディヤとトレイシー・ズーと共に、どこかの馬鹿な金持ちから金を奪っていた。私はザブトムが殺されたのは彼女が適切なヤクを持ってなかったからだと自分に言い聞かせ、新しい麻薬を考案することに更に時間を費やした。そして、学期が本当の意味で始まる。
ナターシャは私に更に沢山の薬を作るよう迫るが、私の大学の課題はどんどんと積み重なり、自転車操業に陥った。研究室の仕事やプロジェクト、試験が続き、成績はどんどん落ちていく。私たちは次第に疎遠になった。ストレスが溜まり、スマートドラッグに耐性がつくと、自分にも亀裂が入り始める。私はナターシャとザブトムを恨むようになった。彼女たちは私のことを考えたことがあるのか?私のストレスに気づかないのか?ザブトムの死なんてもうどうでもいい — 畜生め。それから、自分のその身勝手さに更に罪悪感を感じ、2倍働くようになった。体重が減っていく。柔道も行かなくなった。パニック発作が頻発するようになってしまった。このことはナターシャには言わないでおく。
感謝祭の前の週は、いよいよ大詰めだ。私の取っている講義はどれもこれも提出物がある。一番酷いのは生化学だ。マルチビタミンを作る課題が出たが、研究室のパートナーは賢明にもこの講義を切った。貧乏くじを引いた私は、2人がかりで1週間かかることを5日でやらなければならなくなった。睡眠を辞め、大量のコーヒーに頼り始めた。呼吸もままならず、心臓はKMFDMのドラムのように鼓動を打つ。
この遁走状態の中、6階の窓を見ながら、私は突破口を開いた。神学理論に基づく薬は、基本的には缶詰めにされた儀式だ。製造者は、神的実体を召喚するための材料と、望みの効果を得るために必要な薬物を組み合わせる。使用者の身体は儀式の配列として機能し、代謝によってエネルギーが支払われる。使用者が薬を服用すると、その体内に神が召喚され、薬の効果を望む通りに増幅させる。
もし、逆のことをしたらどうなるだろう?もし、神を召喚する代わりに、悪魔を召喚したなら?悪魔は神格より数桁エネルギー効率が良いし、効果も広範囲に及ぶ。悪魔ドラッグの作用機序に関する理論は十分にあるけど、どれも同じ障害にぶつかる。悪魔は人の体内でエネルギーを放出しない。連中はそれを暴発させる。体内に悪魔を呼び出せば、確実に身体発火に見舞われることになるだろう。有機体中での悪魔エネルギー放出の制御手法は未解明だ。でももしそれが可能なら…誰にも邪魔されない存在になれる。
考えてみれば、既に奇跡術師たちは魔力エネルギー流に接続し、制御する手法を知っている。確かに、それは悪魔エネルギーとは別物だ。だけど、一方を扱えるならもう一方も扱えるはずじゃないか?そして今、私はその方法を見つけたと思う。
近くの机からカッターナイフを手に取り、作業台の上に召喚アレイを組み立て、中にアセトアミノフェンとデキストロアンフェタミンを並べる。向知性薬のもたらす熱狂の中、デバッグもせずに召喚機をプログラムし、スイッチを入れてしまった。召喚機が地獄の底をかき回し、パチパチと音が鳴る。五芒星から火花が散り、身の毛がよだつ。
空気に硫黄の臭いが充満し、角と黄色い目のある太った赤い毛むくじゃらの頭部が、召喚機から現れ始めた。私は地獄の王子の1人、ベルフェゴールを召喚したのだ。そいつは、頭の中を震わせ、骨まで凍りつかせるような低い声で笑っている。
私はその目を突き刺した。
次回: 立ち上がり、悔い改める