クレジット
タイトル: 第一の白馬 (栄冠を戴きて征するもの)
著者: thedeadlymoose
原題: The White Horse (The Conqueror With The Golden Crown)
作成年: 2013
翻訳者: Sansyo-do-Zansyo
ヤハウェはエズレルの谷1の南西に広がる麦畑を、忙しなく歩み抜けた。
彼は居ても立っても居られなかった。今や余所者に占められた谷、彼のものだった谷。決して彼の手ならざる光景、その全てが心を乱した。これまでに覚えた筈もない感覚― 少なくとも、彼の真実を追憶する限りでは。しかし雑多なにせの記憶らは、草むらでとぐろを巻く蛇の如く脳裏に居座る。踏み潰されるや否や喰らい付かんとする蛇。
彼は駆られるまま逃げ出し、そこへ至った。かつてメギドと呼ばれし地。終末の戦いを定められし地。約定は未だ保たれていよう。
それらは変わってなどいないのだから。起こるべくした定めは、未だ起こるべくして在る。強大にして異形なる外敵どもの氾濫など考慮しない。彼は未だ、唯一にして真なる神なのだから。彼は今なお従えている。空を埋め尽くす天使の大軍勢。その前には史上のあらゆる軍隊も、人の子の空想すらも陳腐に映る。そして、財団が098と呼ぶイナゴ共。彼はそれら全てに加え、更なる権能をも備える。
筆頭はかの騎士達であった。
彼は本来、名を奪われし谷へと第一の騎士を召喚する筈だった。だが計画が狂い、今、メギドの谷にて仕切り直さんとした。彼は遍く子らの傍らに在り、あらゆる眷属もまた直ちに召喚に応じる。しかし、第一の騎士は例外だ。ヤハウェは、聖性を宿せし第一の騎士が被った忌むべき所業を思った。それが彼自身の信者によるものだろうが、善行を為さんと考えを巡らしてのものであろうが、赦すつもりはなかった。
ヤハウェは麦畑の半ばに立ち、第一の騎士の名を詠唱した。
われは斯くて見し。白馬の騎士を見定めり。其は弓を持ち、冠を賜りて戴くもの。其は征し、また征するさえも征するもの2。
ベッドに拘束された若い女は、吊られた静注輸液が腕へ流れ込むのを眺めていた。
彼女は、人生の大半をベッドで過ごしていた。彼女は知る限り9歳からそうしていて、はっきりとした年齢は既に分からなくなっていたが、10代も後半に差し掛かっていた。彼女は多くを忘れ去り、自身が何者であるかさえ喪っていた……。自身の名前さえも、ああ、とうの昔に忘れていたのである。彼女を訪れる人々は、彼女をSCP-231-7と呼称した。
彼女は頭の中に声を聞いた。
目覚めよ、我が落とし子。決起せよ、闊歩せよ。
彼女の力をかろうじてとはいえ押し留めていた精神の防御、その全てが一挙に突き崩された。
刺し貫くかの如き陣痛。彼女の絶叫は、これまでに強いられてきたどれをも上回るものだった。
231-7の秘匿収容室に警報は無かった。しかし、室内は爆弾付きの首輪をつけ、全く同じ制服に身を包んだ人々で溢れ、狂騒を演じていた。「収容違反だ!」 「拘束して!彼女の拘束を!」 「緊急プロトコルを作動する!」
しかし、とうに手遅れだった。
SCP-231-7― 征するもの、黙示録第一の騎士 ―が真に孕んでいたのは子などではなかった。彼女は……彼女自身を孕んだ。少なくとも、そう呼ぶほか無い存在を。彼女の胎内に抱えられた力は、ある業炎に焚べられて研ぎ澄まされ、組み上がり、際限なく強まっていた。それは本来ならとうに廃人に帰されるべき、千に渡る拷問の炎であった。
それ故、彼女は生まれ落ちそして昇天を成すのに数瞬すら要さなかった。
瞳は白く燃え盛る星に変じた。網目の如く身体を覆っていた傷跡も褥瘡も、一瞬で消え去った。素肌は人の及ばざる光に赫赫と輝き、流動するようにも見えた。古びた病院着は掠れてゆき、水の如く流れ落ちた黄金は聖衣を象って肩を覆う。頭を囲う光輪の内で炎が燃え上り、色とりどりに輝く光の串と共に冠を象った。
彼女を取り囲む者どもは皆、閃光に包まれて蕩けた。
彼女は姉妹のことを思い出した。皆死んだ。何人かは緋色の王の子らの未熟さ故、その他は財団のせいで。粗雑な筋書きだ。ネフィリム3、などと。 彼女は自分が何の為に、何処から来たのかを思い出した。彼女は「クラスA記憶処理剤」を思い出した。彼女は……
彼女は、全てを思い出した。
麦畑に立っていたヤハウェは、虚空から現れし征するものに僅かな慄き― 人の身を抱えるが故の、微かな闘争-逃走反射に違いない ―を覚えた。彼女は煌めく聖衣を纏ってはいなかった。輝くその身と燃え盛る冠とは対照的な、変哲のないTシャツとジーンズという出で立ちであった。
彼女は自分の馬― 眠れる白き泡、ひとたび目覚めれば地上の4分の1を覆い尽くす― を連れていなかった。代わりに彼女を乗せていたのは、半透明の浮遊生物だった。身体から湧き出る白雲の中を、瞳と触手の全てを動かして泳ぎ進む、大気を揺蕩うクラゲである。
「君の馬は……」ヤハウェが口を開いた。
「もっと私好みなのを見つけたんです。」征するものは言い、雲クラゲを撫でた。「これも白いでしょう? 時々人を食べちゃうけど、今は私が気をつけてるから大丈夫、かもしれない。」彼女は躊躇いがちに言った。「お喋りですみません。以前のことは覚えていなくて……ああ、いや。思い出しました、たった今。これも、私の権能の一部ですか?」
彼女は怒りを露わにしていた。ヤハウェはなんとか話し出した。
「我が子よ、今や、財団の罪業は赦すべき―」
「やめて。財団の話はしないで下さい。」
ヤハウェは、彼の話を遮る不遜への怒りと、自由を手にした彼女へ寛容たるべきとの思いの間で揺れた。彼女は先程まで財団に囚われていたのだ。とても、とても長い間……。きっと彼には、彼女を大目に見る余裕が生まれていた……。
「私は財団に怒っているのではありません。」征するものは言った。「私は、貴方に怒っているのですよ。」
非難めいた口調に苛立ち、彼は眉を顰めた。
「彼らは、自分が何をしていたのか知らなかった。彼らは世界を護ろうとしていた。しかし貴方は……貴方は、財団に真実を教えられたはず。私を、ただ解放することも出来たはず。貴方は何かやれたはずでしょう?」短く息を継ぎ、彼女はまた続けた。「O5-14に一言伝えるだけで……でも、貴方はなんにもしなかった。貴方はどこまで― いや、当然全ての所業を知っていたでしょう。彼らがやった全部、誰よりも詳しく。それでも貴方は。何も、しませんでした。」
ヤハウェは顔を顰めた。「どうしてO5-14を知っている?」
彼女は彼をしっかと見詰めた。「それだけ? 貴方が言うべきはそれだけですか?」
ヤハウェは嘆息した。これ以上議論する暇は無かった。今も、谷へ試練を与えた後も、彼にそんな時間は無い。「質問に答えるんだ。」
「貴方は、私がどれ程の力を得たのか検討もついていないのでしょう?」
彼の怒りは、ついに頂点に達した。「どうだっていい。」彼は言った。「今のお前は私のものだ。お前は当然私に従うのだ。」
「私はそうは思いません。」
あまりの厚かましさに、彼は彼女を呆然と見詰めた。
彼女は続けた。「私は貴方の騎士とはなりません。誰のものにもなりません。もう、二度と。貴方がくれた多くの権能は全て……私が使います。」
「そんなことが……」
そして彼は彼女の心を覗いた。それは彼自身の意図ではなかったが、しかし、質問の答えを求めた無意識の行動だった。彼は彼女を存在ごと抹消せんとしていた。恭順せざる彼女に下すとすれば、それは万物が同意する正しき神罰と言えた。
彼は抹消せんとしていた。彼女の心の、内なる全てを視るまでは。彼女がこれまで感じ、考え、経験してきたその全てを。
ヤハウェは結局、何もしなかった。
征するものは星を見上げて呟いた。「私は……私は、宇宙へ旅しに行きたい。帰りがいつになるかは分からない。数百万年かそこらで終えるかもしれないし、二度と戻らないかも。そんなのはどうだっていい。」
征するものは仲間の雲クラゲと共に浮かび上がった。閃光も、華々しさも、歓声さえもなく。彼女はただ飛び立った。雲海を見据え、貫き、背にしても尚、天に昇り続けた。
ヤハウェは彼女の外征を見送った。止める気など起きなかった。彼は、空を小さく穿つ光となってゆく彼女を眺めた。彼は夜空を見上げ続けた。光がすっかり見えなくなり、彼女が地球を彼方へ置き去ってしまうまで。
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