今日は世界がうつくしい。
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変わり映えのしなかった収容室。用でもない限りはずっと堅く閉じていたあまりに厳重な灰の扉を、黒い髪に黒いワンピース、全身真っ黒の女の子が破壊した。突然に。比喩でなく。粉々に。部屋の中に無事でいられるのが奇跡と思えるほどに。

驚いて座っていたベッドから立ち上がると、腰に手を当てた少女はこちらを睨むように見ながら告げた。

「逃げなさい。すぐに、ここから。いまならバレないわ。そういうふうにしてあげたから。」

急のことに理解が追いつかない。どうしてですか、と尋ねると、

「殺されるからよ。」
「勘違いしないでね、間違っても同情なんかじゃないわ。強いて言うなら共感かな。あなたに対しての、ではないけれど。」

探している人がいるの、急がなくちゃ、迎えが来ると思うからちゃんと抜け出しなさいね。そんなようなことを言ったかと思えば返事も聞かずに嵐みたいな女の子は立ち去って、訳もわからないままにわたしは自由を得た。


困り果てて部屋に佇んでいると、これまた突然入ってきた知らない男の人に手を引かれた。そのせいで、聖書もロザリオも貰ったたくさんの本も、全部あの部屋に置いてきてしまった。

間に合ってよかった、とツカツカと廊下を歩きながら呟く男の人が被っている中折れ帽は随分と顔の方に傾いていて、そのせいで表情が読み取れない。金色の髪で、白衣を着ているからたぶん研究員か博士なんだろう。肩には大きな銃をかけて、背中には木でできたらしい楽器。なぜだか逆らう気にもなれず、導かれるままに歩く。

「どうしてわたしを連れ出すんですか?」

「これから、人間アノマリーや人間への共感性を示すアノマリーの殆どは終了処分になる。らしい。だから、その前に助けに来た。それだけだ。」

終了処分が死を指すということはなんとなくわかっていたが、そこまでの衝撃や驚愕はなかった。疑問だけが浮かんでいた。

「答えになっていません。どうしてわたしを連れ出したんですか?」

そんなふうに尋ねると、彼は曖昧に頷いた。

「贖罪というか祈りというか、まあそんなようなものだ。君は知らなくていいさ。」

結局、教えてくれる気がないということなんだろう。また黙って、歩き出す。

「こんな事態になったときの対処法について、以前の奴らはこう言っていたんだ。『知性を持ち、同時に非攻撃的な全てのSCPは解放されます。』それが今は終了処分ってか?ふざけている。」
「せいぜい旧プロトコルを遵守してやるとするが。この状況じゃあ、一周回って私の方がまともじゃないか。」

この人は、ぶつぶつと呟いているその言葉たちの意味をわたしに理解させる気がきっとない。

「それで、どこに向かっているんですか?どこまで逃げるんですか?いつまで──」

「薄々わかっているんだろう?24時間が、この世界に残された時間だ。」

そう告げた彼の足元、床に入ったヒビからは見事に黄色いチューリップが蕾を開きはじめていて、そうか、世界は終わるのか、と。そのときに思った。


長い通路はやがて真っ白な空間に辿り着き、そこに車が一台ぽつりと置いてあった。

「君がいる以上はもって2時間、小細工をしても4時間がいいとこだな。」
「さっさと乗ってくれ。」

「ついて来い」、「乗れ」、この人に会ってから、命令ばかりされている。収容されているときだって同じだったから、ある意味変わらないとも言えるのだけれど。

開けられたドアの向こうには椅子らしきものがあったので、そっと座ってみる。男は満足げに頷いて、肩にかけていた銃をがたんと地面に置くと反対側のドアから乗り込んだ。

「あれ、いいんですか、」

「ショットガンはいい。どうせ壊れる。」

楽器を背中から前側へ移動させた男が何やら操作をする。ずっと前から聞いたことがなかったような大きな機械の音を立てて、車は動き出した。


白い部屋を抜けて現れた外の風景、こんなものをみるのは生まれて初めてだった。

「外っていつもこうだったでしょうか。こんな、花畑みたいな?」

「まさか。いまが特別なだけだ。」

車窓越しにはヒヤシンス、スノーフレーク、スズラン、とにかく花々みんなが地面を彩り、季節は冬だったはずなのになんだか穏やかで暖かだった。

花を踏み潰しながら車は走り、景色が通り過ぎて行く。あれはワスレグサ、アルスロトメリア、あの花の名前はなんだったか──

キャンドルリリー

見つめるうちに、くるくると花びらが開いていった。

けれどもだんだんと、車の速度は落ちていく。ゆったりと風景を見られるようになる。理由を聞けば、「君の異常性のせいだろう。」と端的に返された。

「見てください、エレムルスが咲きかけです。」

「ああ?……キャンドルリリーか。」

「ご存知なんですか。」

「昔、花屋に住んでいたことがあってな。」

花畑の間を、蝶や蜂や虻が飛んでいる。

キジマドクチョウ

縞模様がすてきに綺麗。

白い花にちょこんととまった淡い黄色と黒の縞々の蝶々を目に留めて、彼は懐かしむみたいな笑い声をあげた。

「いやなに、友人の連れていた奴らによく似ているなと。」

遠いところを見るみたいに頭を傾けた彼の、帽子の影になった目元は相変わらず見えなくて。この蝶の向こう側に何が見えているんだろう、と思案してみても手がかりはなく、尋ねることも気が引けたのでわたしはただ黙っていた。


どこまで行っても変わらぬ景色をどれほどの時間眺めたあとだったか。がたり。大きな振動といっしょに、車のエンジンが停められた。

「限界だ。これ以上無理をさせると爆発か何か、とにかく厄介事が起きそうだ。」

そう言われて、促されるままに車を降りた。降り立ったのは一面の草原、裸足がよく馴染む。見上げれば青空が永遠みたいに広がっていて、「うつくしい」以外に形容する言葉が見当たらないほどだった。

男は車のドアに寄りかかり、目深に被っていた帽子をそっと上向きに直した。青と緑の瞳がこちらを向く。わたしと同じ、ヘテロクロミア。初めて目が合った。

5月に受け取った手紙、温かったいつかのクラムチャウダー、わたしを連れ出した理由。感じていた違和感のすべてが符合した気がした。

「そうか、あなたがわたしの。」

そう呟くと、どうした、と言わんばかりに首を傾げられる。わたしがこの顔を見るのは、きっと初めてではないのだ。

「おとうさん?」

眼前の男はさびしいみたいに笑った。いつだったか本の挿絵に見た笑い猫みたいに口角を上げて。そうして、肯定も否定もくれなかった。彼はただ、そこにいた。

「なあメリ、お前はこの惨状をどう思う?」
「あるいはこの花々は全部、死んだ奴らの成れの果てだとか。」
「24時間以内にすべてが死んでしまってもあいつらは生き続けるだろうな。もはや生命とも言えないんだから。」

おもむろに口が開かれたかと思えばべらべらと零れ落ちるこの言葉たちは、きっと全部がほんとうというわけでもないはずで、けれどもそれでいいのだとさえ思えた。

「なあ、メリ、メリディアナ。」

名前を呼ばれる。まるで歌うように、けれども呟くように。忘れてしまいたくないものを自分に言い聞かせるように。

──どうしてお母さんを殺したんですか?どうしてわたしを見捨てたんですか?会えたら聞こうと思っていたことはたくさんあった。あったのに。

空が青いからだろうか。花が咲いているからだろうか。世界が終わるからだろうか。心に浮かんでいたはずのぼんやりとした不信感が霧消していく気がして、不思議とそれでいいと思えた。

きっと、あなたにも理由があった。わたしには理解できないかもしれない理由が何かあって、そんなものばかり積み重ねてわたしはここにいるんだろう。

「花が咲いているのは、ほんとうはわたしのせいなんじゃないかと思っていました。昔からずっと、そうだったから。」
「でも、違うんですね。」
「ほんとうに世界は終わるんですね。」

座り込んだ父であろう人の曲げられた脚に、そっと背中をもたれかける。人間の脚。わたしとはちがう脚。すこしばかり堅い手にそっと頭をなぜられて、それからぱたり、と水滴の落ちる感触があった。

「泣いているんですか?」

「うるさい。」

長くて重いけれども苦しくはない沈黙が走る。どこか心地よかった、

「私のせいだ。お前の、16年の孤独は。」

「わたしは寂しくありません。少なくとも、いまは。」

ぽろん、ぽろんとやさしい音色が響く。背中にかけていた木の楽器が弾かれていた。ウクレレ、と呼ばれているらしいそれは、初めて耳にする音の割には随分と心地よく耳に残る。

やさしい音色の裏、遠くで騒音が聞こえる。聞き覚えがないわけではないあれは、きっといい知らせではない。そんなことはわかっている。

それでも、葬送みたいに咲き乱れる百合の花たちの真ん中、あの騒音を祝砲にしてこのまま時間が止まるみたいにぷつりと死んでしまえたら、それはきっとうつくしい──


傍の少女は立てた膝に寄りかかって眠り込んでいた。16年間ずっと閉じ込められていて、今日のが初めてのドライブだったんだ、無理もない。すうすうと寝息が聞こえるが、いつしかそれは浅くなって行き、ああ、こうして死ぬのだろうかと彼は考える。

息に喘息等の兆候は微塵も見られない。ずっと煙草を喫わないようにしておいてよかった、と心の奥で安堵した。

手に持っていたウクレレから、ばちん、と異音がする。見ればペグの部分が劣化していて、もう弦を留める機能を失ったらしい。長らく愛用した楽器も、娘に連れられて自分より一足早くいなくなってしまうみたいだ。

穏やかな風が吹く花畑にて、思い起こすのは湖の夜のこと。血まみれだったバスルームでのこと、走り続けた80時間のこと。だが緋い神め、ざまあみろ。世界が終わるのはお前たちのせいじゃない。ありきたりに平凡に平穏に、空が青いまま眠るんだから。

これまで、嘘など1つとして言ってこなかった。なぜならほんとうのことなんて存在しないから。花畑が世界を覆い尽くして、すべてが幻想になって、それで構わないとさえ思えた。死に物狂いで生きる理由も、もはやすぐ横で眠っているから。

しかし、遠くから銃声が聞こえる。この平穏はもうすぐ崩れるだろう。


そう宣言した奴らは、咲き乱れるこの花たちをきっと認識することすらできないだろう。人類の枠をはみ出して、感情すべて捨て去って、花が咲くこの星の上で2日後も3日後も生き続けるのだろう。それはひどくおもしろいことのように思えて、顔に笑みを浮かべた。

PNEUMAが何かなんて知らない。知らないし、どうでもいいとさえ思える。どうせ、これで終わりだ。

こうして花の中で死んだら、コンドラキは笑うだろうか。そこにリリーはいるだろうか。いずれにせよ、待ち受けているのが空虚であることは素晴らしい。

痛みさえ手放した奴らの銃声が近づいてくる。自分が死んでも、永遠に同じように呼吸をし続けるであろう奴らが。

徐々に意識がなくなっていくのが感じられる。それは思ったよりもゆっくりで、最後に脳裏で考えたのは、自分が死ぬのは世界がいちばんうつくしい日だということで、黒い鎧の男たちがたどり着く前にクレフ博士は目を閉じた。

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