
その日はひどく暑かった。それだけが理由ではなかったにせよ、それは彼女を憂鬱な気分にさせるに十分だった。
69年モデルのセスナ・スカイホークに搭乗することは予定にはなかったが、むしろ都合がよかったと言えるだろう。財団が在韓米軍に新設されたヘリ部隊の機材台帳に紛れ込ませた12機の輸送ヘリは今日もフル稼働していたが、それらはお世辞にも乗り心地がいいとは言えない代物だった。あれに比べれば、小型飛行機の揺れは十二分に許容できる範囲内だ──たとえ空調機材が設置されていなかったとしても、些細な問題というべきだった。
「エリア-81へようこそ、アイランズ監察官」
海峡を渡るセスナ機の中で、騒音に負けないような大声でエージェントが叫んだ。出発直前になって手渡された資料の束と狭い座席の上で格闘していたので、アイランズは反応が遅れた。
「ごめんなさい、なんて──ええと、ここはもうエリア-81なのね?」
「はい、先ほど大韓海峡の国際協定ラインは越えましたので。ここから先はずっと財団中国支部の暫定支配域です。正確な広さは私達、81地域保安スタッフも把握していません」
なにせ広い上にとても複雑なので。
笑顔で言うエージェントに「そのようね」と返す。文書の束を掴む右手に、半ば無意識に力が入った。
極東管区、エリア-81。財団が保有する広域収容指定区域のうち、最大の面積を有する半閉鎖特区だ。その場所がどれほど重要かつ特殊な地位を占めているかは、彼女は財団本部で嫌になるほど学んできた。
手元の資料はその象徴でもある。記された数々の記号のうち、3分の1は意味を成さない文字列だ。可読者選択式ミーマチック文書技術は近年の財団が特に力を入れている分野で、事前に対抗ミーム接種を受けたもの以外は文書の内容を理解、あるいは記憶することができない。偶発的な文書の紛失、あるいは低レベル保安要件違反による窃取から機密を守るために、馬鹿にならない資金をかけて開発されたおもちゃの一つだ。
文書管理を徹底すればいいだけの話だ──少なくともアイランズはそう思っていたが、それは北米地域で勤務する上級職員一般の意見としては少数派だった。政治的価値観というものは、時として簡単に人に合理性を捨てさせる。ユダヤ人としての出生は彼女にはっきりとそのことを体感させてきたし、いまは東西のイデオロギー対立が血の問題に代わっていた。
「ああ、サイトの空港設備が見えてきましたよ。短いフライトでしたが、ご感想は?」
「冷房がないことだけが心残り」
「違いありません」
朗らかにエージェントが笑い、機体は海風に乗って旋回しつつ滑走路へ向かう。
降下する浮遊感の中で、アイランズはふと窓の外を見た。故郷の港町、シトカに降りる水上機でするのと同じように。それはまったく意識していない行動で、かつ意識として強く戒めていた行動だった。
だから彼女は反射的に目を逸らした──それが己を守る方法だと理解した。
見るべきではないものがそこにあった。彼女の認識を根底から覆しうるものが。この極東管区にやってきてからというもの、彼女はそれが視界に入らぬよう常ならぬ努力を支払ってきた。しかしここにきて、もはや厳然と立ちふさがる現実を、受け入れざるを得ないときが来ていた。
傍らのエージェントは相も変わらず笑っていた。できることはそれしかないとでも言いたげに。
着陸の瞬間、その一瞬だけ、アイランズは己に震えを許した。タラップが降りたその時には、冷徹で傲慢で合理と官僚主義の権化たる財団本部付上級職員でなければならない。それは彼女と、サイト-17管理部門と、バウ委員会の取り決めでもあった。
エリア-81は敵地だ。彼女は監視役だった。財団の任務を果たすための、最低限の重石のひとつ。
まばたきをする間に機体は地上に舞い降り、彼女の震えもまた収まっていた。

「地下基地というからには湿っぽくて寒いくらいの場所を想像していたけれど、そうでもないのですね」
「はい、このあたりは火山活動が活発なので」
地下水脈が温められていて、土壌温度が下がりにくいんです。おかげで土砂運搬用の狭軌は通せなくて──案内役の研究員が、中国語訛りの入った英語で説明する。
反射的に顔をしかめそうになり、アイランズは己の表情筋の頑健さを改めて試すことになった。今日一日で同じことを何度繰り返すのだろう? もう暫くは慣れそうにない。
べつだん、中国人に偏見があるわけではなかった──少なくとも彼女自身はそう信じていた。含むものがあるとすれば中国支部と共和国政府にだ。米ソ対立が本格化して以来、エリア-81の有する特異な事情に対する救済を求める彼らの幾度とない要請は、彼女と財団本部にとって頭痛の種に他ならなかった。二大国のパワーゲームが本格化し、財団が冷たいカーテンの向こう側で蠢動する金色の星たちの姿を掴みかねている間、中華人民共和国とかの地のアノマリー資産集団は財団の(そしておそらく"P"部局の)要請をのらりくらりと躱し続け、外交委員会アジア部門は彼らとの交渉を打ち切ってGRU本局アクアリウム外交調整部の朱塗りのドアを叩きたい欲求と日夜戦っていた。
米国政府とバウ委員会は、財団-"P"部局間の公式な外交会議を許すつもりなどないだろう。現実的には、20年近くも二国間のホットライン開設すらままならずにいた外交官僚たちや、党派性に思考を塗り潰された国防族議員たちに寄りかかっている余裕は、超常世界の外交官たちには皆無だった。現に今、アイランズはここにいる。将軍たちを押し切ったO5司令部の命を受けて、2ダースのエージェントとその3倍の機動部隊員、超常技術者、空間工学者たちとともに。
僅かな照明に照らされるだけの暗く生暖かい地下通路は、事実以上の息苦しさを感じさせる。トロッコ旅行は唐突に終わりを告げ、彼女は徒歩での移動を強いられていた。とはいえ歩いたのはせいぜい40分かそこらのはずで、監察官として訓練されたアイランズにとっては苦でもない距離だ。しかしながら彼女の精神的な疲労は大きかった。現地職員との顔合わせで先に名乗られてしまう程度には。
「ミス・アイランズだね。歓迎しよう、私はアンドリュー。仮設サイト-8104の監督官だ。ようこそ、エリア-81へ」
「よろしくお願いいたします、ドクター・アンドリュー。私のことはロザムンドとお呼びください」
無味乾燥な挨拶と少しばかり大げさな握手の後、オフィスへの道行きは少しばかり億劫なものだった。地下通路には相も変わらず奇妙な熱気が漂っていたし、接待役のアンドリュー博士は老境に差し掛かった、あまり話しやすいとはいえない人物のようだった。
数分間の気詰まりな沈黙と、いくつかの階段の上り下り、4枚の簡素な隔壁、エレベーターでの短い上昇を経て到着したオフィス階は財団本部の標準的な建築様式と似通っていたので、彼女は少しばかり安心した。
「ここだ。貴女のデスクは私と同じ部屋になる。残念ながら個室を用意できるほどの余裕がなかったものでね」
「構いません。元より急な派遣でしたので」
「君の部下たちにも面倒を強いることになる。私の権限では男女同室を避け、4人部屋を支給するのが精一杯だった」
すまないな、と言うアンドリュー博士に会釈して、アイランズは簡素なデスクの上に素早く荷物を下ろした。
滞在予定はたった数日だ。長居と言えるほどの期間ではないし、時間的余裕もそう大きくない。
「歓迎会の準備はしていない。そういった類の訪問ではないのは明らかだからね」
「ご理解いただけているようで何よりです。SCiPNETへの接続は?」
「可能だが、安定しているとは言いがたい。ここの環境は何から何まで滅茶苦茶さ。無線環境はアリゾナの洞窟以下のありさまの上、財団標準規格の海底敷設型通信ケーブルは、明らかに東側陣営の妨害を考慮に入れていないからな。盗聴され放題というわけだ」
「アノマリーの特性上、電波通信が用を為さないのは理解しています。ご心配なく」
もちろん、彼女の職務上の一番の心配の種は連絡手段だ──文句を飲み込むだけの分別は彼女にも備わっていた。当たり障りのない応答に、アンドリューはゆるゆると首を振る。白髪の科学者の口元は皮肉げに歪んでいた。
「言わんとすることは分かるとも。率直に言って、私も辟易しているのだよ? それも今週で終わりだと信じているが、さてはて。どうあれ貴女のような監察官が派遣されてきたということは、本部もようやく対応に本腰を入れたのだろうな」
「オブジェクトの不可逆的変質を促すことが財団の理念に叶うか否かという点で、中国支部と本部の間に大きな見解の隔たりがあったのは事実です。しかしそれも半ば解消されたといえます。今回の件は、これまでの衝突と動揺に勝る結束を生むでしょう」
「そう願いたいね」
老人は肩を竦め、机上のミネラルウォーターのボトルを一口呷って鼻を鳴らす。ボトルを通して散乱する光が室内に曖昧な影を投げた。
「仮設サイト-8104は役目を果たす時を待っている。貴女と私の職務が滞りなく終わることを願っているとも」
「……ええ、私もです」
同意の言葉には、少しばかり力が篭っている。
胸元のIDカードに手を当てて、アイランズは小さく息を吐いた。
「早速始めましょう。──Saiga Rokumiの尋問を」
本事案にかかる懸案事項の共有
…………以上の理由から、Saiga Rokumiの1945年以降の足跡について、財団は確固たる情報を何ら保有していない。現在の中華人民共和国領内における複数の目撃証言はいわゆる東側陣営による撹乱工作の可能性があり、信頼できる情報資源と見做すべきではないというのが情報戦略部門の一貫した見解だ。
一方で、国共内戦の不可解な終結とともに共産党の弾圧を逃れて散逸した大陸の呪者ネットワークが再構築される過程で、Saiga Rokumiの関与が疑われる案件についてある程度のリスト化が行われた。間違いなく、彼(あるいは彼女か)は島の起源とその帰属について何かしらの知識を持っている。GOCと共和国国務院はPoI、彼らのいうところのKTE既知脅威存在としてSaiga Rokumiの粛清を強く求めているが、極東管区評議会の意見はまた別だ。
ジパング島の確保は財団成立以来の功績の一つと考えておよそ間違いないだろうが、GOCとの調整は難航する一方だ。米国政府の戦略拠点としてのジパング島運用に関する提言を黙殺するのも限界に近い。介入があるとすればその一点だろう。島を居住可能にして大陸から溢れ出る中国人たちに新居として与えるにせよ、そこら中にバンカーを掘ってタイタンIIでデコレーションするにせよ、近いうちに我々は妥協を迫られることになる。
いずれにせよ、Saiga Rokumiはあのオブジェクトについて、我々が知り得ない情報を提供してくれる可能性のある、ほぼ唯一の存在だ。優先的に確保し、可能であれば協力を要請することが望ましいだろう。願わくば、JPとは一体何を意味しているのかを知りたいところだね。存在しない地域タグを有する複数の高レベル文書の存在について、我々もRAISAも常に頭を悩ませているのだから。
その日の午後は、図らずも優雅な始まりとなった。
昼食は簡素な代物だったが、同僚たちに貧相と言われ続けるアイランズの舌にはよく合った。監督官のアンドリューは紅茶に一家言ある人物で、歓迎されざる客人であるアイランズにもそのコレクションを惜しむことなく開帳した。
そういうわけで、彼女は珍しくも上機嫌に午後の勤務を始めることになり、そして彼女の小皺を隠しきれなくなってきたその顔は、数分後には堂々たるしかめ面に変わっていたのである。
「あれがそうなのですか?」
彼女は眉間を抑えつつ、報告書の多すぎる黒塗りの意味を今更ながらに理解していた。
「無論、そうだとも」
アンドリュー博士は無表情に首肯した。
「あれがSaigaだ。Saiga Rokumi。他の名称はすべて拒絶したから、おそらく本人のはずだがね」
「そういうことでしたか……」
二人の眼前には、広大な空間があった。クラスF7H-GenII規格の大型収容セルを改装した隔離ブロック内の強化ガラス張りの監視房は、外周をぐるりと8基のごちゃついた機械の塊に取り巻かれている。スクラントン現実錨という名前がついていなければ、アイランズはそれをゴミ山に放り込むにふさわしいがらくただと見做しただろう。実際にはそれは最新鋭の超常工学と現実性力学の結晶体というべき存在で、量産化の暁には世界中で財団の収容環境を大きく塗り替えるはずの兵器だった。
8基のSRAは相互に同調し、厳密に定義されたフィールドの内側の現実性を一定に保つべく奮闘している。技術者たちは慣れない最新機器をよく制御し、彼ら依って立つ現実をうまく調律していた。うまくいっていないのは房の中に収容されている存在で、それは拘束帯によって簡素な椅子に固定されていたが、今まさに6つある頂点から溶け出しているところだった。
「あれは消えてしまわないのかしら」
「どうだろう」
アイランズの疑問に、アンドリューは眉を上げて疑問の意を示した。
「今のところはその気配はないね。拘束してかれこれ10日になるが、存在希薄化の兆候はない。実際には、各頂点から噴出しているのは粒子ではないんだ。むしろ影に近い。現実性濃度は中心部で急激に上昇するが、変異のパターンはループしている。SRAの出力と我慢比べをさせたくはないから、現状では動けなくするに留めたが」
「私には理論的なことは分かりかねます──安全ならそれでいいわ。会話は可能なのですよね?」
「一応は。だが使っている言語は未知の形態だ。言語学者によれば朝鮮語に酷似した文法を有するらしい。語彙の推定が不完全で、まだ対話するには至らないな」
「こちらの言うことは理解するのですね。反応に問題はある? つまり、こちらに危害を加えるような」
「現時点では、彼の発話に認識災害や遅効性の情報災害は含まれていないようだ。最も、意味は不明なんだがね。言語学担当チームが国連の少数言語保全事務室から資料を取り寄せたが、結果は芳しくないな」
「できることをやるしかないでしょうね」
事ここに至っては、現場での行動には限界があった。108評議会の横槍に対処するには、極東方面の財団支部はあまりに脆弱だ。インド亜大陸での財団の政治的権威は限定的で、東南アジアには無数の超常結社が蠢いていた。中国政府からの干渉を強く受けている中国支部に対して財団本部は態度を決めかねており、保安サイトは無数の政治的妥協の上で薄氷を踏むような運営を強いられている。
Saiga RokumiのGOCへの引き渡し、あるいは即時粛清を行わず拘束と調査に踏み切ったのは、中国支部の英断といっていいだろう。今この瞬間にも、国連と中国政府の代表団の嵐のような抗議が北京の基幹サイト群に降り注いでいるはずだった。
「時間がありません、インタビューは定刻通り行ってください」
あらゆる意味で時間は貴重だった。サイトにとって、財団にとって、もちろん眼前の、磔にされた哀れな現実改変者にとって。
了解だ、とアンドリューが呟く。
「貴女はどうする。見学するかね?」
「そうしたいのは山々ですが、遠慮します。インタビューログを執務室に届けてください。私はあちらの相手をしますので」
アイランズが指す方向は、収容セルから箱型に張り出した、スモークガラスで隠された発令室だ。
老齢の博士は曖昧な笑みを浮かべた。諦観と憐れみの等分された表情だった。
「国連の使者か。基礎レクチャーを受けていることを願いたいね」
「残念ながら、それも私の仕事のようですよ」
「ブラックホールの無重力版だとでも言っておけ。信じがたいことに、大抵の人間はそれで納得するからな」
「ご助言ありがとうございます。おそらくは似たような説明になるでしょう」
肩をすくめて、アイランズは歩き出す。
背後から聞こえる老人の深い溜め息は、どうやら聞き流すべきだった。
インタビュー記録 No.018
対象: Saiga Rokumi (PoI-CN5388に指定)
インタビュアー: バクスター博士
場所: 仮設サイト-8104 第6号対現実改変者臨時収容セル
再生開始
[32.43.07]
[対象は拘束され、黒い粒子状物質をゆっくりと吹き出している]
[インタビュアーが入室する。対象のHmパターンは安定している]
インタビュアー: 失礼した。では再開しよう。
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: 現在のところ、あなたの黙秘にはなんの意味もない。あなたが我々の使用する言語を理解していることは明白だし、あなたの発する未知の言語についても解析が進んでいる。近いうちに我々はより厳密な意思疎通が可能になるだろうが、それは今ここであなたが黙秘するべきだということを意味しない。
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: 先程から繰り返し質問しているが、もう一度。あなたは何者だ? このサイトの存在は極秘とされている。なぜ、この場所のことを知っていた?
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: あなたのような現実改変者にとって、方法論は意味を成さないだろう。このサイトに対現実改変仕様の装備があることくらい予測できたはずだ。なぜ、拘束されることが予見できたのに、わざわざサイトの最深部に出現した?
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: あなたを責めるつもりはない。拘束したのはプロトコルに則ってのことで、悪意があるわけではない。我々は知りたいんだ。あなたの、その──ここにいる動機というやつを。
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: 当初のインタビューでは、あなたは未知の言語を流暢に発話していた。しかし今は何も言わない。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語、タイ語、マレー語、少なくともどれかは理解しているんだろう?
対象: [20秒間沈黙]
インタビュアー: ふむ…………あー、では、なにもの?
対象: [僅かに上半身を動かす]
インタビュアー: なぜ、いる、おまえたち、しま、ここ? …………ああ、-tachiは複数形かな。
対象: [さらに上半身を動かす]
[モニタリングポスト内のカント計数機はHm値の顕著な変動を示している]
インタビュアー: 言語学チームの努力の成果が間違っていないと信じているよ。もう少し発話サンプルをくれれば、語法を最適化できるんだが。最も、このサイトの特性上は…………
対象: …………そのような猶予など、残されてはいなかった。
インタビュアー: [5秒間沈黙] おっと、話してくれる気になったか。
[十数秒の沈黙、対象のHm値は未知の変動パターンを示す]
[対象は粒子状物質を大量に噴出し、空中で集合させ黒い球体上に整形する]
対象: 私はこれを探していた。いや、見つけていた。改変の瞬間に理解した。これはもはや、私に隠し通せる存在ではなくなっていた。
[粒子で形成された黒い球体状の物体は急速に縮小し、元の大きさに戻る]
対象: お前たちがこれを破壊しようとしていることは知っていた。だからこそ来た。もはや数えきれぬほどに失敗した。それでもなお繰り返した。今回も同じだった。
インタビュアー: その球体は、もしや、このサイトの──
対象: もはや止まらないのは理解した。私が成したすべてが無駄になった。これまでと同じだった。改変が消失を呼び、さらなる改変を生んだ。私のメッセージが処置の終了までに理解されることを願うのは、虫が良すぎると理解していた。
インタビュアー: ……いま、あなたの言葉すべてを理解できるとは言えない。だが、必ず理解すると約束しよう。[インターカムに手を当て、対象に見せる] 言語学チーム、聞いているよな? 解析に全速力だ。
対象: その努力は無意味となった。いつもお前たちはそうだった。常に真摯で、意欲的で、そして必ず誤ちを犯した。しかし、努力そのものの価値は評価に値した。補強に用いた概念のために言語発話が単一化し、外形を喪失し、時間線そのものが不定となったが、お前たちは変わらなかった。
インタビュアー: 何か重要なことを伝えてくれていると信じている。もしその気があるのなら、いくつか定型的な質問にも応じてほしい。異界言語の構造推定に関する基礎的なものなんだが。
対象: 今回もまた間に合わなかった。しかしまだ、お前たちには未来があった。かつてこの島にあった同胞たちは消えたが、それを救うことはもはや私の使命には遠くなった。この場において、お前たちの疑念にせめてもの答えが示された。
[対象は俯き、単一の子音と母音の組み合わせと思しき発声を繰り返す]
[管理官の許可を得て、言語学チームが入室する]
再生終了
[32.49.51]
「──では、中華異学会はこの件に関与していないと?」
『そうなるねえ』
奇妙なほどに軽薄で緊張感のない、しかし深みのあるバリトンが、耳障りなノイズの向こうから響いてくる。
思いがけない展開に困惑しつつ、アイランズは受話器を持ち直した。
「確かなのですか、ドクター・ブルネティッチ。彼らの呪的技術は財団でも完全には把握していない。我々に解析できない技術が使用された可能性は?」
『おいおい監査官、僕の技術を疑うのか? 確かに専門は東欧式、それも人形媒介式だがね。呪術工学の先端技術は一通り押さえている心積もりだぜ──だいたい、この件に関しては僕だけじゃなくて、あの傲岸にして恐ろしき解体屋inženjeracどもが一緒なんだ。奴らがこの手の呪的痕跡を見逃すと思うかね?』
「そちらは私の専門外ですが、いいでしょう。介入を拒めなかった以上は、彼らにも役立ってもらうしかないのですから」
『仮にも監査官がそんなこと言っちゃっていいのかよ? この回線、掃除してないんだろ』
「こんなノイズを放置している時点で隠蔽する気もない雑な工作です、気にするだけ無駄でしょう。あなたの祖国と同じく、この極東に清潔な回線などありません」
『おお怖』
おちおち世間話もできないね、と笑う。
仕事ぶりに反して言動が胡乱な壮年の呪術師は、電話回線の向こうからでも表情が手に取るように分かる人物だ。
『大陸側の資料によれば、件のSaigaってのはご立派な呪術師だと言うじゃないか。ところがこっちじゃあカント計数機が大騒ぎするばっかりだ。レイライン地脈は寸断されまくりで役に立ちゃしない、解析側の術がおかしくなる有様。うちも解体屋どもも商売あがったりさ、本当にSaigaはここで見つかったのかね?』
「中国支部の資料が正しければそうです。サイト-8104の機能遮断を目的に動いていたのは間違いないと」
『そうは言ってもね、少なくとも呪術的な痕跡は皆無だよ。現実改変の効果を切り分けるのには数ヶ月かかるし、現状ではお手上げだ』
調査ミスでなければ、今のところは冤罪ということになるかねえ。
適当な口調での結論は、しかし彼の普段の言動を鑑みれば、最終報告に近いものだ。
溜息をついて、アイランズは立ち上がった。
「報告書を明朝までに司令部に提出するように。必要であればGOC側の責任者にもコピーを渡して構いません」
『人遣いが荒いことで。終わったら寝ていいかね?』
「いいでしょう。12時間後にはSaigaの側についてもらいます。措置の終了まで見届けるように」
通話を切り、受話器を下ろす頃には、眉間の皺がひとつ増えている。
最大の容疑者が消え、後に残るのは資料と現実の不整合。歴史資料上における呪術師Saiga Rokumiと、確保された現実改変実体のSaiga Rokumi。同じ名前、理解できない意図、そして高度に政治的なアノマリー。
「……時間がないのよ」
彼女の呟きは、地下施設特有の耳障りな空調音にかき消され、宙に溶けていく。
O5評議会提言概要
提言: "プロトコル・ジパング"最終段階実行の是非に関する第18回投票 (O5-01)
評議会投票概要:
是 | 非 | 棄権 |
---|---|---|
O5-01 | ||
O5-02 | ||
O5-03 | ||
O5-04 | ||
O5-05 | ||
O5-06 | ||
O5-07 | ||
O5-08 | ||
O5-09 | ||
O5-10 | ||
O5-11 | ||
O5-12 | ||
O5-13 |
結果 |
---|
承認 |
本決定について、最終勧告の任を負った監査官を派遣する。財団の最終決定は以上の通りだが、実行時期に関しては、現場における評価と勧告、担当O5評議員による認証を経てプロトコルが実行される。
- O5-01
1時間毎の定例報告は、もはやGOCのエージェントがお決まりの要請を読み上げるだけの舞台だ。
やることといえば代わり映えのしない内容をコンソールに叩き込み、財団製の暗号理論の強固さを祈るだけの作業。
言語学チームからの報告は虚しく、ブルネティッチの報告書は調査の行き詰まりを告げる。
国連からの使者は特別報告者なる大層な肩書きを帯びているようだが、宇宙工学と重力の関連性についてはまったくの無知を露呈した。レクチャーでの姿を見る限り引き際を弁えているのは流石だが、少なくとも役立たず以上にはならない──もし何事かの理由で今まさにサイトが吹っ飛んだなら、最も隠匿に苦労する人物だからだ。
したがって、彼女の業務の助けになるものは何もなかった。何一つ。
「構わんさ、好きな方にすればいい」
初老のサイト管理官は軽く酩酊していた。規定された業務時間の終了を理由にブランデー入り紅茶の賞味に取り組む老人に対し、アイランズは非難の視線を向けたが、アンドリューは意に介さないようだった。
「貴女が中止を勧告したところで、次の監査官が来るということだろうさ。評議会の決定がある限り、君たちは往来し、私はここで待ち続けるわけだ。直感に従いたまえよ、O5だって幾人かはそうしているかもしれない」
「しかし、プロトコルが実施された結果、何が発生するかは推測の域を出ないのですよ。オブジェクトの無力化が達成されるかは未知数なのです」
「わかっているとも。いつ我々の上空を核ミサイルが飛び交い、人類の夜明けが始まるのかわからないが、それと同じくらいには」
「アンドリュー博士、お休みになられては」
「もう一杯だけ、それで終わりだ」
鼻を鳴らしてアンドリューは立ち上がり、壁のボトルを手に取った。胡乱げな態度に反して、その足取りは確たるものだった。
「財団の理念を鑑みれば、我々が取るべき道は明らかなのだろうさ。監査官、貴女がそれに忠実であってもいいし、そうでなくても構わない。ともあれ、世界的には我々は極東の片田舎の、無限の利用価値を有する小さな島をほぼ占有し、なんの目的もなく管理下に置いているわけだ。周辺の漁獲から海域への侵入すら制限し、近隣の漁民を記憶処理剤漬けにして、世界最高の精密切削加工機、あるいは宇宙のどこを見ても独特な重力発電機の中核、そういったものを独占し、かつ人類に還元せずにいる」
「しかし我々以外の誰にも、そんなことはできません。国家の占有下に存在したなら、あれがどんな脅威になるか」
「しかし現実問題として、誰も理解していないわけだ。かの異常についてね。なぜ我々は冷戦が始まって間もないかの混乱期に至るまで、誰一人として疑問視しなかったのか? ユーラシアの隅とはいえ、大陸から視認できるというのに?」
アイランズは口を噤んだ。博士の疑問に答えられる人間は、地上のどこを探しても存在しなかったろう。アルプス山脈の基幹サイト群に閉じ籠るO5たちにせよ、108評議会の錚々たる面々にせよ、あるいは"図書館"や"大学"の知識人たち、いくらかの現存する神格や妖精たち。誰も回答を持っていなかった。
「現実改変の可能性があるとは聞いています」
結局、アイランズがひねり出した苦し紛れの回答はお決まりのものだったし、アンドリューはそんな答えは聞きもせず、紅茶の最後の一滴を飲み干してアルコール臭い溜息を吐き出していた。
「結局はそうなのだよ、監査官。現実改変だか過去改変だか知らないが、どちらにせよ我々は、哀れな墨吐き人間をガラス箱に閉じ込めるところで止まっているのだ。正6面体のくせに頂点が6つなのはなぜだろうね? 同じことさ。人類は未熟で、世界は強大だ。太刀打ちできないなら、感覚で決めるほかはない」
「世界の命運を一人の人間に託すというのなら、それは財団の信ずるべき理性ではありません」
「勘違いするのはやめておけ。貴女は既に振られた賽子の、見えている出目を口に出して告げる役回りなのだから」
けして振ることなどできないよ。
そう言い残して仮眠室に消える男の後ろ姿を、彼女はなすすべなく見送った。

そして、長い一夜が明けた。
「結論はいかがですか」
"Trot早足"を名乗るこの大男のことが、アイランズはどうにも苦手だった。GOCの寄越した現場要員というだけで頭痛の種だというのに、彼は万事につけて結論を急ぐ癖があるようだが、それも彼とその部下たちに言わせればこちらの準備不足ということなのだ。
何事も排撃、粛清、殲滅と決まってる貴方たちと違ってこちらは繊細なのです──などと言い切ってやれれば気分も良かったのだが、あいにくとそれほど彼我の状況は単純ではなかった。冷たい戦争は国連とともに世界オカルト連合をも引き裂き、彼らは刻一刻と変貌するパワーバランスの中で、超常技術の流出と過剰使用を防ぐために日夜神経を擦り減らしている。事ここに至って、ついにはアイランズと彼の部下達はそれぞれ同じ宿舎の両端に別れて寝泊まりしていた──彼我の距離などベッド4床分しかなかったのだから、相互の立ち位置の差について考えるだけ無駄なことだ。
「もう少しだけお待ちください。指令更新の可能性が残っています」
「熱心なことだ。現場裁量をもう少し大きくしてもいいと思うのですがね」
「やり方は組織によりけりでしょう。そちらの中央統制の効率については、こちらにも文句があります」
そりゃあねえや、と頭を掻いて早足が笑う。彼の部下を中心に、さざ波のように苦笑が広がった。
発令所のコンソールを叩き、アイランズはパスコードを入力する。24桁の数字と実用化されたばかりの電子ミームエージェントを経て、最先端のおもちゃ箱が冗談のように重厚な暗号化処理を経て届けられた簡素な一文を出力した。
読み、内容を理解し、脳に刻みつけ、消去する。一連の内容はルーチン化された思考処理だ。
文書の最後のアルファベットがこの世界から消え失せた時点で、彼女の心は定まっていた。
決断が一瞬なら、実行も一瞬だ。
国連の使徒は結論を聞き届けた次の瞬間には退席を申し出たという。結構なことだ、面倒がなくていい。
ぼんやりとそう思うアイランズの脇では、"早足"が口笛を吹いている。
眼前では発令所のコンソールの覆いが取り外され、技官たちが最終調整に追われていた。
「よくもまあ、この場で口笛なぞ吹けるものですね」
「部下がやれば殴り倒しますがね」
「指揮官がやる分には構わないと?」
「ポーズというのは必要でしょうな。脅威が喪われるならば喜ぶべし、と」
そういうものですか、と呟く。
アイランズの連れてきた職員たちは、未だに地下で謎だらけの現実改変者と戯れているだろう。彼らの指揮官が下した結論の意味について、彼らが知ることはおそらくない。
それは"早足"の部下たちにしても同じだろう。彼らの多くは発令所とGOC出身の調査員の警護についているが、コンソールに据え付けられたいくつかの釦がもたらすものを知りはしない。
そしてそれらの意味について考え込むような段階は、アイランズも隣の大男も、とっくに踏み越えてしまっていた。
アンドリューが入室し、昨夜とは打って変わったそぶりで室内を点検して回る。
「決心がついたようで何よりだよ。手続きは既に?」
「済ませました。勧告といっても形式上のものです。一時的とはいえ司令部に直結するわけですから、無理を言って回線を清掃するのにだいぶ人手を使いましたが」
「原因不明のノイズには我々も悩まされていてね。解決したようで何よりだとも」
ちらりと送られた流し目を、"早足"が素知らぬ顔で受け流す。豪快な見た目に似合わず腹芸にも通じる指揮官に無駄を悟ったのか、アンドリューもすぐに視線を戻した。
「さて、始めるとしよう」
言葉とともに人垣が割れる。
発令所の司令卓に据え付けられた赤い釦は、これ見よがしに脇にテープで留められたジパング・プロトコルの銘板とあいまって、ある種の緊張感を醸し出す。ともすれば吹き出してしまいそうな異様に張り詰めた感覚を押し殺し、アイランズは脇に立った。
自分はあくまで監査官。見届け人であり、振られた賽の目を語るもの。
ならば、目に沿って駒を進めるものは、別にいるのが道理なのだ。
部屋の隅では未だ画質の悪いビデオカメラが回っている。数十分後には各国首脳の元にコピーされ、国際社会の勝利を、正常性維持組織の妥協を高々と触れ回る喇叭の音。
財団とGOCの数十名のスタッフ、もしかしたら内部保安部門の腕を逃れたGoI所属者が幾人か、それとおそらくは双方の術者が放った霊的な監視網が、その瞬間を見守っている。
地下に幽閉され、誰にも理解されない言語を垂れ流していたあの存在も、おそらくはこのことを知っているのだろう。
それらの意味について思考を巡らせる。
そしてその男、仮設サイト-8104管理官は、彼のただひとつの役目を果たすことにした。
管理担当者専用: 縮小用海水注入プロトコルを実施する場合、次のボタンを押してください。
それが人類のためであると、彼は決して信じていなかったけれど。
少なくとも、そうあることを望んだ。
それの本当の意味を彼は知りようがなかった。いずれにせよ、もはや過去だ。