There Is Truth In Fiction
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エージェント・魚住映二の意識は唐突に覚醒した。
それは彼の持つ眼鏡が割られること幾星霜。眼鏡を破壊される異常性を持っていると噂されるほど、彼の特徴であったそれ。
おおよそ五ケタに届くかというそれが割られた瞬間、激昂し、犯人を追い回そうとしたその瞬間のことだった。

単純な疑問だった。

「何故、世界的科学者の集団であり、冷徹であることが求められるこの組織で、このようなふざけた冗談がまかり通るのだろうか?」

その疑問はバケツ一杯の水を浴びせたような感覚を彼に与えた。

彼の隣を眼鏡破壊の主犯である紙袋を被った博士が、セグウェイに乗ってすり抜けていく。
ふと足元を見ると喋るトカゲが、怒り狂ったエージェントから身を隠している。
上を見上げると忍者が醤油をこぼし、それが巫女服の管理員にふりかかっている。

おかしい、確かに優秀な学者はユーモアを好み、天才は狂人と紙一重だと聞く。だがこれは、あまりにもおかしいじゃないか。

近視の視界が世界をぼやけさせる。現実に霞をかけていく。

魚住は脳を掻きまわすような混乱に襲われた。
自分の足元が崩されたような感覚。それから逃げるように、魚住はあてもなくサイトの中を彷徨っていく。

陽気な古物商、着ぐるみを纏った博士、酒を飲み暴れている…。

おかしい。あまりにもおかしい。暴力とジョークとカトゥーンが混ざり合っている。
魚住は見慣れた光景がどろりと溶ける感覚を味わった。彼は自分が狂ってしまったのかと思いこみたかった。

こんなのは現実じゃない、現実は何処だ、現実とは何だ。

彼の足が何処へ向かおうと、そこには何かしら壊れた誰かがいた。
マトモな人間などいやしない。なのにこの世界は彼らによって守られている。
その違和感に、その齟齬に、魚住は比喩でなく目を回しかけ。眼鏡を失った目元を押さえる。

ようやく人のいない場所に彼は辿り着いた。近視気味の目が場所を確認する。

それは鉄扉。高クリアランス、彼には雲の上程もある人間しか入れないようなその場所。
この先にもあのふざけた乱痴気騒ぎが待っているのだろうか。
ほんの数時間ほどで生気を失った彼に誰かが近寄る。彼の目はぼやけたその姿を見た。相手は片手をあげ。

「[削除済み]ですね、██君。そう、[編集済み]はふ████界、ƒtƒBƒNƒVƒ‡ƒ“、よく[削除済み]。[削除済み]、██へ」

理解できないノイズを発した。だが、魚住はその誰かを知っている。
全てにおいて発言が規制される、いや、規制している誰か。人見知りゆえかそれとも何らかの異常特性かすら分からない誰か。
人前にはめったに姿を見せず、写真も記録も編集され、完全に個を消した、そんな人間は一人しかいない。

「…白波瀬博士、ですか?」
「████、…やはり[編集済み]という███、[削除済み]、少し███もらお[削除済み]」

白波瀬が何かを向けたことまでは確認できた。だが、何を向けたのか理解できないまま、魚住の記憶は底なし沼へ沈んでいく。

「[削除済み]す[編集済み]、…There is truth in fiction」

魚住の耳には最後の一文だけが妙に澄んで聞こえた。


ニヤニヤと笑うチェシャ猫の夢から魚住が飛び起きると、そこには見たことの無い部屋が広がっていた。
咄嗟に自分の体を確認する。傷や拘束は無い。何処に閉じ込められたのだろうか。
そんなことを考え、いつもの癖で眉間に指を伸ばす。そこには失くしたはずの眼鏡があった。

眼鏡の存在を魚住が確かめると同時に、部屋の扉が開く。
男とも女ともつかない白衣を纏った中性的な容姿の人間がそこには立っていた。相手はバインダーを手に近寄る。

「おはよう。SCP-███-JP-A-31。…まだ残ってますか。申し訳ない。正確なナンバーはあとで伝えましょう」
「…その呼び名で呼ばれるということは」
「ああ、心配しないでください。これはあくまで形式的な物。こちらにいる以上、私の方から申請を行えば、指定は解除されるでしょう」

穏やかに、それでいて機械的に話す相手に魚住は何か冷たいものを感じていた。
すなわち、全てが型にはまった、パターン的な会話。彼の想像する研究者の形。

「…貴方は」
「私は白波瀬です。あちらでは何らかの干渉で、私の言葉は聞き取れなかったでしょうがね」

魚住は思わず目を丸める。予想していなかったと言えば嘘にはなるが、現実感が薄い。
そんな魚住の様子を見て、白波瀬は機械的な微笑みを作った。

「さて、何か聞きたいことは? といっても、機密があるので全てを明確に、というわけにはいきませんが」
「…ここは、どこですか?」
「成程、理解が早くて結構。そうですね、詳しくは言えないですが、ここは現実です」

現実、魚住は考える。ならば今まで自分が生きていたあの世界は現実ではないのか?
異常であり、胡乱であり、不条理であったあの世界は。

「では今までの世界はフィクションだったと?」
「正確には違います。だが貴方は現実の存在であり、…今はあちら、とでも定義しておきましょう。あちらへ飲まれていたのは確か」

ペンをバインダーに走らせる手を休め、白波瀬が魚住の顔を見る。眼鏡越しのその顔はまるで人の真似をするロボットを思わせた。
そしてまた何かを書きこむ音が狭い収容室へ広がる。

「おかしいと思ったのですね? 異常の研究者、解明者たらんとする我々が、どうしてあそこまで異常な職員を抱えているのかと、あのようなふざけた人間たちで成り立つのかと」
「…はい」
「それはあちらが我々の現実ではないからです。我々の現実は今あなたが座っているここです」

白波瀬が床を指さす。魚住は思わずその指を辿り、白い床に目をやった。
床は変わらない。目覚める前のあの場所と。

「たまに気づく人もいるのですよ。そして私はあちらとの協定でそういった人の手引きをしているのです」
「他にも、僕みたいな人が?」
「ええ、このリストを。もちろん私は通常の業務も行っていますが、こことあちらを繋ぐ…、いわば大使のようなものですね」

白波瀬が渡してきたリストには見たことのある名前が並んでいる。
もっとも、魚住の主観として彼らはすでに過去の人であり、もう会うことは無くなったと思っていたのだが。
過去の人間がここにいるのであれば、存在しているのであれば。魚住は混乱する。
魚住はリストの最後に自らの名前を見つけた。

「貴方は」
「現実ですよ、SCP-███-JP-A-31。我々は冷酷であり、炎の護り手です、そしてあちらは我々を起源としている」
「じゃあ、現実とは一体何なのですか?」

魚住の問いに、白波瀬は少しだけ軽蔑するような笑みを浮かべ、おざなりに手を振った。

「その答えを私は持ち合わせません。…では、事務的な話に移りましょう。単刀直入に聞きます、貴方はどちらを望みますか?」
「…どちら、とは?」
「ここか、あちらか」

白波瀬は腕を交差させ左右を指さす。白波瀬なりのジョークのつもりなのだろうか。

「選べるんですか?」
「もちろん、フィジカル、メンタルともにチェックを行い、一部記憶は改竄させていただくという前提ですがね」
「何故、選べるんですか? そもそも、さっき言っていた協定とは何ですか? それが、関係あるのですか?」
「それは規制に含まれますので私からは。貴方が選択すれば場合によっては開示しましょう」

魚住は言葉に詰まる。白波瀬の言うあちらに違和感を感じていたのは確かだ。だが、魚住の知る現実は常にあちらの側だった。
ならば、魚住にとっての現実とはここではなく、あちらなのか? まるで漫画のようなあちらが、魚住の現実なのか?
自問自答する魚住をよそに、書きこむ手を止めた白波瀬はゆっくりと語りかける。

「すぐに選択をしろとは言いません。ですが、選択しない限り貴方は収容され続ける。それはお忘れなく」

事務的に事実だけを告げ、白波瀬は立ち上がった。

「では、今日はこれで。別の職員が毎朝チェックに訪れますので、返答はいつでもどうぞ。労働作業もありますのでお忘れなく」

そしてそのまま扉を出ていく。ロックを掛けようと立ち止まり、何かに気づいたように踵を返した。

「…ああ、そうそう、これを忘れていました」

白波瀬が一枚の紙とペンを魚住に手渡す。そこに書かれている文字に魚住は生理的な嫌悪感を覚えた。

「貴方の死亡届けです。貴方が現実を選択するのであればこれの記入をお願いします」

自らの死亡届。異動届となっているのは白波瀬の言う協定の為か。
渡し、去っていく白波瀬はもう一回だけ魚住に振り向くと、無機質な声で言う。

「眼鏡、似合っていますよ」

ロックがかかり、魚住は部屋に取り残された。
自らの死亡届。そこに書かれている文章を読み、彼は自分の名前を書きこんだ。
そしてそれをもう一度確認すると、備え付けのチェストへしまいこむ。まだ答えは出せないとそう思いながら。

僕は何処にいるのだろうか、僕は何処で生きればいいのだろうか。

「There is truth in fiction…」

魚住は自問自答を続ける。

何気なく眉間に手を伸ばし、眼鏡の存在を確認する。

ここで眼鏡が壊されることは無いのだろうと思いながら。

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