おしゃべり猫さん

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アビルトの領域であるアビルトレイトという集落は、そこを通りかかる人にとってはほとんど興味のないものであった。カレフハイトから南に向かって一時間走ったところにある小さな漁村で、貿易の中心地であるカレフハイトへ向かう人の休憩所として知られている。比較的裕福な宿屋の主人くらいしかこの場の恩恵を受けている者はいなかったが、ここの住人はそんなものを気にしてはいなかった。貧しさ故に盗賊に襲われるようなこともなく、旅の商人の持ち込む食料は住人たちの農業や漁業による自給自足を補うのに十分な量であった。アビルトは自分の町が無名であることを認めているようなものだった。

しかし、特別好奇心旺盛なふわふわとした毛並みのそれにとっては、アビルトレイトという町は今までに見た何よりも魅力的な光景であった。


「ネーラ!」

ネーラと呼ばれた少女はビクッとして、慌てて即興で作った石と木の棒を使ったゲームを隠した。

「ご飯があと一時間で出来るよ!」彼女の母は大声で続けて叫んだ。「それまでに服を洗わないと、ご飯抜きにするからね!」

ドアがガシャンと音を立てて閉まり、ネーラはため息をつきながらも父のシャツを拾い上げ、籠の中へと放り込んだ。服を洗うことは彼女の嫌いな事であったが、彼女の両親は洗濯をしないと食事は抜きだよと真剣に食事前には言い聞かせていた。

少しの間シャツをゴシゴシと洗っていると、彼女は何かの視線を感じた。ふと顔を上げ、彼女は対岸から小さな猫が自分の方を向いているのを見て、心臓が飛び出しそうになったが、気付かないふりをして洗濯を続けたのだ。

そうする事が出来たのは、猫が猫らしくない行動を取ったからである。

最初、ネーラはその猫が袋を隣に置いて川で釣りをしているのを見ても、殆ど気に留めなかった。だが猫が袋の中から何かを投げているように見えた時には、彼女は思わず顔を上げた。そして彼女は目を見開いた。水面から何もないところに突然"橋"が出来上がり、猫はその橋を渡って、川を見事に迂回するように歩いてきたのだ。彼女は、猫が自分の方へと向かってくるのをぽかーんと口を開けて見るばかりであった。

「そんなジロジロ見て失礼じゃない、お嬢さん」

ネーラは驚きのあまり跳びあがりそうになった。猫が喋った!この事が意味できたのは一つだけだ。彼女は慌てて服を投げ捨てると、右手を胸に当てて視線を地面に落とした。

「おお、偉大なるアビルトよ、この慎ましき従僕は貴方様の彼女への祝福を感謝します」と彼女は母から教わったフレーズを注意深く述べ、この偉大なる神がこれ以上話してくれと頼まないことを望むばかりであった。

彼女は次に何が起こるのかを知る由も無かったが、アビルトが笑うだろうというのだけは予測していた。予想通り、アビルトはしばらくの間笑っていた。

「あら!私も色々な名で呼ばれて来たけれど、神とは……初めてね。私はアビルトではない、断言するわ」

ネーラは顔を上げ、困惑した様子で眉間にしわをよせた。猫は喋ったりしない、もしこの猫がアビルトでないのなら、この猫は一体何なんだろう?

「何個か聞きたいことがあるみたいね、お嬢さん」その猫は首を傾げながらそう言った。「ではこうしましょう。私が君に質問する、そして君はそれに正直に答えなければならない。その後、君は私に質問して、私がまた質問する。それでいい?」

ネーラは熱心に頷いた。この生き物が何であろうと、彼女はそのものの背景を知りたかったのだ。その猫は彼女の隣に座り、夕日を見つめながら話した。

「では簡単な質問から始めましょう。君の名前は?」

「ネーラ」彼女はそう簡単に答える。

「ネーラ」彼女は少しの間話しを止めた。「ネーラね、会えて嬉しい。君は私をプリムローズと呼んで」

「プリム……ローズ?」ネーラは馴染みのない発音に言うのを苦労した。

「この名前は別の言語からきているの、長い間忘れ去られていたね」

「忘れられていた?あなたは旧世界の人なの?」彼女は思わずそう口にし、まだ質問したばかりであることに気付くのは遅かった。

「いや、そう言う訳でもないの」プリムローズはそう返答をした。「私はこことは別の場所の出身なの。そこは旧世界がずっと続いていて、全ての人が不思議を共有出来る、そんな場所よ」

「どういう事?」ネーラには"別の場所"というのが何を示すのか分からなかった。

「ネーラ、今度は私が質問する番だと思うけれど」その猫は仄かに微笑みながらそう言った。「君にとって、このアビルトレイトでの生活はどう?」

ネーラは何と言っていいか分からず、目をぱちくりさせるだけであった。プリムローズの言わんとする事は理解したが、誰もネーラに今の生活をどう思うのかなんて尋ねる人はいなかった。何故そんなことを聞くのだろう?神々はそれぞれの人に運命を与え、それは変えられないものなのだ。それに人間は疑問を抱くような立場ではない。しかし、そう聞かれた彼女は答えを慎重に考えようとした。

「私は……」と彼女は話を始める。「今の生活には満足しているけれど、あんまり良くないかもしれない。去年、お父さんが何週間も病気になった時に、カレフハイトからお医者さんが来たんだけど、私たちにはお父さんの為の薬を買うだけの余裕は無かったの。それに、作物が思うように育たなくて、お腹が空いちゃう時もある」

「そんな……」プリムローズはショックを受けたようで、夕日から目を逸らし、ネーラを見つめ返す。「ネーラ、それは皆がしなければならない生き方ではない。それにもし私が何か指示をすれば、アビルトレイトはすぐに変化を迎えるでしょう」

変化を迎える?その言葉は彼女の次の質問への完璧な足がかりとなった。「プリムローズは、どうしてここにいるの?私たちに何をしてほしいの?」

「それは二つ質問してるわ、まあ良いでしょう。ネーラ、この地球だけが存在しているわけではない。この世界には様々な変化した世界があって、そこでは君の知るものとは全く異なる法則で物事は進んでいるの」

プリムローズは一見何もなく見えるところから小さな円形の物体を取り出し、ネーラへと手渡した。「これを食べてみて」

少女はその物体を簡単に見ると、口へと放り込んだ。数秒経つと、彼女にあった空腹感は消え、胃の中が突然満たされたようになり、生まれてはじめて健康と言える状態へとなった。

「それは私たちがフードピルと呼ぶものなの」プリムローズは言った。「私のいる世界では、衣食住に困る人なんていない。限りなく豊かで、あなたも知る不思議達が普通の人と協力して、住む為の美しい土地を作っているわ」

ネーラは再び目を見開き、その話を聞き入った。

「私たちがここにいるのはね、」その猫は話を続け、「この世界に生きる全ての人を助ける為なの。あなたはどう思う?」

ネーラはしばらく考える素振りを見せた。「神々はきっと、お創りになった計画に、あなた達が干渉することをお喜びにはならないと思うの。お母さんは、この世界は先人の過ちに対する罰として破壊されたって言ってた。それにもし、カレフハイトのようにここも豊かになったら、アビルトはもう私たちを守ってくれなくなっちゃうかもしれない」

「素晴らしい答えね、ネーラ」プリムローズがそう返すと、ネーラはびっくりしてしまった。「私たちは、君達をどう導いていくのか慎重に考えないといけないわ。君達の生活を楽にする為に出来ることなら幾度となくある。でも私達の持つもの全てを与えてしまえば、君達の個性は失われてしまう。私達は君達の個性まで変えたくはない」

短かな毛並みのふわふわとしたその猫は、ネーラの足に飛び乗り、ネーラをじっと見つめていた。

「今から大事な質問をするわ。君は秘密を守れる?私たちはすぐにでも君を助けるけれど、その前に君を監視しないといけない。一ヶ月後、また君を訪ねるけれど、それまで私を見た事は誰にも言ってはいけないわ。ネーラ、君に出来る?」

この話をして両親は信じてくれはしないだろうと思った彼女は、力強く頷いた。

「良い子ね」プリムローズは再び跳び降りると、ネーラが洗濯していた服の元へ歩いていく。「早速だけど、これを私が手伝うってのはどう?」


「ネーラ、どうしたの?」彼女の母は心配そうに尋ねた。「カレフハイトのクリーニング屋さんみたいに服を洗ってくれたじゃない。晩ご飯を好きなだけ食べて良いのよ!」

「ごめん、お母さん」彼女は恥ずかしげにそう答え、満腹となったお腹に食事を詰め込むのに一生懸命になっていた。そんな中でも、彼女の頭の中には、自分たちの生活の向上を約束したあのしゃべる猫の事が浮かんでいた。

約束は必ず守るから、早く戻って来てね、プリムローズ!

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