氷の上の怪物

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死の惑星・地球。かつてこの星の霊長がアメリカ合衆国と呼んでいた陸地の上に、たった1匹の巨体が埋まっている。大陸をもマントルに沈めてしまう厚さ数千メートルにおよぶ重々しい氷床の下で、亡骸同然となったその生命体は悠久に亘ってその体を凜冽たる基質に預けていた。

その存在は多くの名を持った。ある者は恐怖して「不死身の爬虫類」と慄き、ある者は侮蔑を込めて「クソトカゲ」と吐き捨て、ある者は冷徹に「SCP-682」と分類した。⸺ しかし、最早それらの名が呼ばれる未来は二度と訪れることがない。彼の伝説を語り継げる者は、氷に閉ざされた第三惑星の表面でとうの昔にその系譜を断たれているからだ。


⸺ とはいえ、それは孤高の魔物の終極を意味しなかった。


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全身を流れた水分が凝結しようとも、細胞膜の1枚1枚が破れて剥がれ落ちようとも、どういうわけかその存在は『生』を手放してはいなかった。

氷壁の中に身を潜めた蜥蜴は、500万年の歳月が流れる中でとある情動が体の芯を捉えはじめていた。文字通り無意識のうちに自らの内奥で渦を巻き始めた圧倒的な暴力性。行方の分からない破壊的情動はどういうわけか肉体の静止を乗り越え、凍結した彼の生命に再び火を灯した。


「奴らは……忌まわしい……」




内奥に響く念波は、鈍器さながらに頭蓋を砕かんばかりの勢いで脳に意識を叩き付けていた。その主張は単調に存在圧を強めていき、じきに彼の体は熱を帯び始めた。心臓の律動が始まると、凜烈とした結晶の混ざった血液が次第に押し流され、体の隅々の末端にまで血液が走り始めた。傷んだ体の各所も組織が緻密に結合していき、徐々に元来の艶が舞い戻る。

うなりを上げて脳が回転速度を増していくにつれ、肌の千切れそうな感覚に苛立ちを覚えた。痛覚か熱感かすら判然としなかった刺激がゆっくりと鎌首をもたげ、解像度の高い鋭利な冷感として肌を突き刺しはじめている。

血の通った腕を動かし、鉤爪をぐいと壁に食い込ませ、彼は体を押し上げようと力を込めた。氷がひずんだかと思うと、巨大な爬虫の力に負けて大きく割れた。機械的な破砕と熱による融解を受け、蜥蜴の周囲には徐々に空間が広がりつつあった。地道な周囲の破壊をしばらく繰り返し、やがて頃合いを見計らうと、彼は重力に抗う向きへ視線を向けた。

500万年に亘って蜥蜴の生命を支え続けたか細い灯は、今や巨大な火焔となってその怒涛の精力を生み出している。彼自身この莫大な精力がどこから来たのか全く見当がついていなかった。ただ燃え盛る激甚な衝動が、彼の四肢と体軸を上へ突き動かしている。周囲を砕き、爪を突き立て壁を登る。崩れ落ちる氷塊や奪われる熱を気にも留めず、ただひたすらに重力に逆らい続ける。

他の思考や欲求はニューロンから退いた。幾億年の生涯で最大の衝動を、頭上の塊に叩き込む。



もしこの地を見下ろす者が居たならば、罅の入る大地を訝しんだことだろう。じきにその亀裂は加速的に幅を広げていき、堰を切ったように大崩落を引き起こした。巻き上げられた微細な氷の破片が灰塵のように周囲を包み隠し、徐々に風と重力によって晴れ上がっていくと、その冷たい爆発の跡地から1つの影が這い登って来た。

爆発的な力をその身に宿し、蜥蜴が地上に姿を現した。

圧密されたH2Oの鉱物を何日割り続けたことだろうか。微塵の疲労を感じさせない隆々とした闘士の体が、艱難辛苦を打ち破り、500万年ぶりの大気を吸った。摩耗した鉤爪や裂けた皮膚を瞬く間に治癒させて、爬虫は周囲に目をやった。


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零下70℃の銀世界。

かつて財団が猛威を振るっていた頃、幾度となく人為的極限環境へ晒された。その生還者たる蜥蜴にとってこの程度の気温自体は大したことでなかった。熱エネルギーの生産、羽毛の形成、皮下脂肪の蓄積。この状況に耐える生存戦略は幾らでも存在する。

⸺ 彼の思考を打ったのは低温環境自体でなく、それが見渡す限りの地平線まで続いていることだった。


「 ⸺ 果てが無い」


地球の全てが凍り付いている。彼のような特別あつらえの肉体に恵まれなければ、陸上生物相は完璧な断絶を迎えたはずだ。地表を歩く以上、可能な限りの暖を求めたとてその上限は零下50℃がせいぜいだろう。豊饒たる海洋も太陽の光から界面で隔絶され、生命は孤立の中で死に果てているだろう。

どこまでも続く生存不可能域。食物連鎖の軛から解き放たれ、人類の文明よりも長く生を享受した爬虫にとっても、このような破局的な世界は破天荒そのものだった。


どうしたということだ、この情景の有様は。


閑散とした白銀の光景は、爬虫の憎悪する生命の一切が、彼の爪牙にかかることなく黄泉の国へ逃げ切ったことを意味していた。

蜥蜴は歩くうちに思いを馳せた。氷に埋もれて潰えていったのであろう猿どもの文明に、草本・木本の区別なく影も形も無くなったかつての森林に、逃亡の末に暗黒の水底で死滅を余儀なくされた海原に。彼らは魔物の虐殺で朽ち果てることなく、別の何者かによって絶息をもたらされたのだ。


「忌まわしい……」


酷寒の底から自らを駆り立てた情動が何であるか、蜥蜴の思考が少しずつ焦点を合わせはじめていた。己が手で撲滅に追いやれなかった口惜しさ、殺戮を果たせなかった不甲斐なさ、思い描いた行動を阻まれた憤り。怨嗟と憤怒の入り混じった激情が、物理の柵を超越したのだろう。片脚を持ち上げてそのまま地面を踏み潰すと、小さく氷の軋む音がした。

蜥蜴はその場を後にした。この不毛の大地のどこかに、運悪く血脈を繋いだ者が居るかもしれない。実在すら確かでない彼らに引導を渡し、この世に完成した滅亡を降臨させる。淡い望みを抱えながら、独り、怪物は氷原の中で歩を進めていった。


◆ ◆ ◆




皮膚の張り裂けるような気温を伴う、方向感覚を喪失させる白銀の世界。何百万年間もの風の流れと重力によって織り成された多様かつ厳粛な氷の芸術をあちこちに見て取ることができたが、蜥蜴の興味の向く生命の痕跡は一切見当たらない。空はほんの僅かな雲を浮かべるだけで、不気味なほどに青々とした晴天が広がっている。

広大な世界を歩くうち、蜥蜴の疑惑は膨らみつつあった。己の呼吸と心臓の鼓動、そして吹きすさぶ冷え切った颶風の音。この世で動き回る存在は己だけではないか、この世界に自分はたった一人きりではないか ⸺ 声を出す者は誰も居ない。走り、飛び、泳ぐ者も誰も居ない。命の欠落した絶無の空間を、怪物は沈黙の中に歩いていた。



「なんだ、お前。生きてたのか」


爬虫の脳裏に倦厭がよぎりはじめた頃、突如として沈黙を破る者が居た。あまりにも唐突で、そしてあまりにも永い時間間隙を置いた他者からの語り掛けに、蜥蜴の思考は一瞬の遅れを取った。脳内に新たな回路が構築された時、既に反射で動き出していた各種感覚器官はその感度を最大限に高め、声の主の補足を目指していた。

しかし、爬虫の視覚・聴覚・嗅覚 ⸺ そのほか数多の超常的な感覚も、語りかける者の識別には至らなかった。怪物が錯覚の判断を下そうとすると、再び声がかかる。

「いいや。よく見ろ、ここに居る」

吹き付ける烈風の中で不自然にも氷上にへばりついた1輪の花が目に入った。一見して同化しているその花弁はいやに白く、この世の光の全てを拒絶するかのように輝いているようだった。

この状況で花が落ちているというのも奇妙極まりない。しかしそれ以上に、個々の花弁を散り散りに吹き飛ばさんばかりの勢いで流れる暴風の内に、その花は微動だにしていないように見える。

「お前が喋っているのか?」

「当たらずも遠からずだ。ようやく気付いたか。意外と鈍いんだな」

「何者だ?」

嘲笑とも取れる花弁の発言を無視し、蜥蜴は尋問を続行した。これまでありとあらゆる生命に身の毛のよだつ思いをさせた眼光も、目の前で不遜な態度を取る花弁には通じないようだった。花弁そのものは風の中に置かれながら不動を貫いていたが、その精神的姿勢はひらひらと翻って爬虫の魔眼を軽くいなしているようにも思える。

「我は宇宙。我は世界。我は無限。お前たちが『神』と呼ぶのに等しい存在だ」

あまりにも突拍子も無い返答に、蜥蜴の体は硬直した。目の前に鎮座する小さな花からどれだけの回り道をすればその帰結に至るのか。怪物の理性は短絡的な連環を一笑に付して棄却する。

しかし軽くあしらったはずの命題を彼の直感は拾い上げ、そこに因果を見出そうとしている。全生命でも抜きんでて研ぎ澄まされたセンサーが目の前の花弁を見落とした。花が科白と共に忽然と姿を現した。そして何より、今まさに聞こえているこの声が物体の振動 ⸺ 音波を介さず思念へ直に流れ込んでいる。

『神』としての真偽判定はさておき、目の前に在る花の超常性は認めなくてはなるまい。

「そう自称する存在なら何匹も屠ってきた。魔法使い、超能力者、現実改変者。だが貴様は……どうにも珍しい見た目をしているな」

「仮初の姿だ。この惑星ならこの出で立ちがしっくりくる。人の子はノコギリソウと呼んだらしい。 ⸺ それで、どうする?我を屠り、討ち取るかね?」

「死を望むか。一向に構わんぞ」

アドレナリンが噴出、体が怒張し臨戦態勢に入った。体に這う一筋一筋の血管に破壊的な血液が雪崩れ込む。全身の鱗が持ち上がり、互いに衝突しあってけたたましく音を立てる。これまでの無機的な沈黙を跳ね除け、蜥蜴を中心として有機的な喧騒が再帰した。

500万年ぶりの闘争の合図を前にノコギリソウの態度は変わらない。尋常の生命や生半可な異常存在であれば即座に身の程を弁えて逃亡に走るであろう、充満した敵意と不快なほどの騒音。それをあたかも穏やかに奏でられる静かな交響曲とでも言うかのように愉しんでいる。

蜥蜴の苛立ちが再び芯を持ちはじめる。周囲の空間をも褶曲させんばかりの力を溜め込んで全身の筋肉が連動し、強弓を引き絞るように強張った。その時、怪物の脳に短く嗤い声が響く。

「面白い。やはり生き残りなだけはあるか」

嘲りを捉えた魔物は空を切り取った勢いで必殺の剛腕を叩き付けた。弾道上に存在した氷の岩体は音を立てて崩壊し、冷気を纏った粉が舞う。

爬虫の掌より二回りほど広く穿たれた窪みには、花弁がほんの僅かな汁を滲ませて惨めに押し潰されていた。表面張力で丸みを帯びた液体は立ち所に表面から凍り付き、千切れかけた花弁を大地に貼り付けた。蜥蜴が1回の呼吸を終える頃には、既に花は氷塊の一部にこびりつく滓と化していた。

しかし。

「だがせっかく生き延びたんだ、立場を弁えておいた方が良い。今のお前は自滅的だ」

花弁が残滓に成り果てたにも拘らず、声は依然として魔物へ語りかける。発生源も不確かなままに頭蓋に響く声は現実味を帯びていないように感じられた。

「自滅だと?」

怪物は空に目線を送り、鼻で嗤ってみせた。一つには超常的生命力と圧倒的適応力への並々ならない自負と自尊心。もう一つには、底の見えない声への牽制。

「たわけが。地獄の業火と辛酸を幾つ潜り抜けたと思っている?自惚れた塵芥の首などいつでも挿げ替えてやる」

「まだ分からないか?お前は所詮、たまたま淘汰されずに済む程度に強かった。ささやかな領域でのみ春を謳歌できた。その程度の個体というだけに過ぎない」

「何?」

自らの存在意義を揺るがしうる言葉。蜥蜴の喉が反駁を捻り出すよりも先に、花は続きを雄弁に語る。

「事実、お前は氷の下で動けなかったろう。もしお前が我に敵うだけの力を秘めているというのなら、何故この惑星が500万回も周る前に世界を覆さなかった?」

敵対心と警戒心を主軸に固められた魔物の頭に、別のものが入り込んでくる。


それは地球の視点で500万年前、爬虫の視座で数時間前の景色。冷えた鋼の房を破り、妙に騒がしく慌てふためく猿どもを蹴散らしてみれば、降り続く純白に呑まれゆく光景に出迎えられた。天牢雪獄とした世界が広がっていた。

焦燥に駆られた人類の所以に察しをつけた直後、猛烈な雪崩が轟音を伴って直撃した。白魔の奔流は丸太のような蜥蜴をいとも容易く押し流し、やがて人類の荘厳な遺跡もろとも、蹂躙の限りを尽くす波濤の下に葬り去ったのだった。


⸺ 湧き上がる煩わしい記憶に強固な抑圧をかけながら、魔物は問いを捻り出した。

「この光景はお前が……?」

「そうとも。これは我が施した魂の選別であり、星々の浄化でもあり、時代の刷新でもある。お前の生涯を幾度か繰り返せる程度の過去において、この惑星で同じことが起きた。大陸の静止、海洋の断絶。地球の歴史に浮かぶ不連続の特異点だ」


蜥蜴の視界の片隅を何かが掠めた。雪のように白い何か。それはつい1分前に叩き潰したものと同じ種類の花だった。

「我がこうして滅ぼしたのだ」

地表から1つ、また1つ、白い花が舞い上がる。怪物の目を以てしてもその出現や分離、氷との境界を見出せない。無から湧き出したかのように花弁は数を増し、螺旋槍を描いて天へと昇り始める。

「これは ⸺ 」

魔物は花がその形態を変容させつつあることに気が付いた。


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「言っただろう。仮初の姿だと」

葉脈のような筋が個々の花弁に走り、花全体が軸対称の構造へ遷移していく。軸に沿って生え始めた糸のように細い6本の構造は昆虫の付属肢を想起させる。変形を続けて口吻や触角を彷彿とさせる構造が揃うと、それは銀白の蝶となって一斉に羽ばたきはじめた。数百とも数千ともつかない群れが空を白く染めていく。

見れば、蜥蜴が窪ませた氷の盆の中でも、1匹の蝶がよろめいていた。圧し潰されたはずの花が死から蘇ったのか、あるいは新たに生を受けたのか。蝶は翅を伸ばすと渦巻く気流に乗り上げ、同胞の作り上げた白い巨塔に加わっていった。

「表層に咲き誇るAchillea ptarmica。病を司るSclerotium rolfsii。大空を舞うLeptidea amurensis。その全てが神籬にして災禍の墓標、眷属にして破滅の使者、分身にして終焉の具現。我はその祖であり王であり全である」

「生命を自在に生み出せるとでも ⸺ ?」

「全ての事物を兼ね備え、事象の悉くを包括する。これまでお前に見せた身形とは、我が目的のために本質を裏漉ししたその僅かな一端に過ぎん」

螺旋塔を見上げたまま蜥蜴は驚愕を隠せずにいた。爬虫の鋭敏な感覚が捉えられるような揺らぎは現実場に起きていない。

植物から昆虫を生む。無から有を生む。定められた規則の上を走るのでない、意思を持った法則そのものと対峙する感覚を持った。万象を創出する存在が居るのなら、それは全ての存在の母であり、全ての実存の父ではないか ⸺

ここで初めて、全能性、あるいはその片鱗を漂わせる高位の存在を爬虫は予感した。


「 ⸺ 目的と言ったな。『神』なら、気前良くそれを教えようとは思わないのか?」

「 ⸺ 良かろう。地上に蔓延る爛熟した高慢の種々へ、理法に則る正しき神罰を下し、歪んだ繁栄の道を閉ざすこと。それすなわち科学文明を持つ現住知的生命の殲滅だ」

「宇宙の免疫機構の行使とでも言うつもりか?」

「免疫機構。お前たちの次元に話を下ろすならそれが分かりやすいか ⸺ 」


◆ ◆ ◆




科学の発展がある程度の水準に達した時、何よりも眩く輝く光明の闇が虚空から地上へ降りる。それは時として植物、時として菌類、時として動物の姿を取る。 ⸺ それは蝕まれる生命世界を模した、悪辣かつ酷薄で、冒涜に満ちた擬態。40億年の命脈と一切の接点を持たない純白の疑似生命が、全球の生態系へ永きに亘る静寂をもたらし、その星の食物網を凍結する。

その標的は身の程を忘れ無尽蔵の栄華を極む、星の支配者を気取る木偶の群れである。不心得者へ下される審判は、その生命の根絶で以て完成される。絶対的な凋落と徹底的な殃禍。天地の摂理が文明に課す、回避不能の必定たる呪縛。

理性を灯し、体系立った思考を働かせる、多数の概念を操る存在の喪失。惑星の表層を骸と化した鏖殺の規模は人類による理解の範疇を超越し、自己を知覚可能な次代の命が出現するまで数億数十億の年月を要した。蜥蜴の命の及ばない遥かに長大な間隔で、地球はこの大変動を繰り返してきた。

僅かな微生物を残し、生命世界が限りなく全滅に漸近する。これが常世の仕組んだ再設定であり、強制的な初期化と言える。

「お前は生き延びた。逆境を乗り越えたことは認めよう」

魔物は一切の栄養を欠く厚い奈落の底で、閉じた系の中で静かに待った。死と生の狭間に身を置き、普遍の生命ならば永遠にも錯覚する時間を耐えた。声はそれを否定せず ⸺ しかし遥かな高みから神託を下す。

「だがそれは、お前が我が目標 ⸺ 滅すべき宿痾になかったからに他ならない」

「目標だ?」

腑に落ちなかった。 ⸺ 否、落とせなかった。

「貴様の目標はこの惑星に根差す知的生命の抹殺だろう?なぜ私を殺さない?『神』ともあろう者が欺瞞に満ちていると?」

「いいや、誠だ。神たる我に誓おう」

蜥蜴が次なる詰問へ出る前に、花の言葉が頭を打った。

「お前は孤独だ、爬虫類。お前はこの惑星にたった独りきりなのだ」


「 ⸺ は?」



蝶の羽ばたきが大きくなる。蜥蜴の尊厳を圧し潰そうとするほどに、その騒音が迫ってくる。

「全ての生命ある者へ、お前は等しく憎しみを向けた。等しく妬み、等しく恨み、等しく蔑み、等しく憐れみ、等しく羨んだ。己の下位に在る全てに憧れ、それを裏返して忌むべきものと断じた。だからお前は孤立したのだ」

雷霆に打たれたような衝撃が蜥蜴の頭に走った。憎悪と惆悵と傲慢に満ちた外套が捲り上げられ、ひた隠していた思惑が表面化した。嫉妬。怨恨。憐憫。羨望。自己以外の万物に対して密かに向けていた、屈折と歪曲と倒錯に彩られた感情を言い当てられている。

「何を言って ⸺ 」

否定し言い募ろうとする蜥蜴をよそに、悠揚迫らぬ声が続く。

「お前は支え合うともがらが居ない。助け合う同志を持たない。苦楽を共にする仲間も実在しない。外との接触を欠いているだろう」

その言葉は核心を突いていた。たった独りで綿々と存続し、全てを自己完結する存在。怪物は食物連鎖をくだらぬ物と吐き捨て、物質循環を恥ずべきものとさえ捉えていた。長大な時を生き続け、一方的な破壊行動に身を任せ、競争の勝者に上り詰めたつもりでいた。

しかしその実として、魔物は遍く生命の連環から逸脱していた。地球に現れた完全生物は、他者を排斥する至高の存在は、鎖から外れて彷徨い続ける離断を受けた除け者だった。爬虫は完成された強大な個を手に入れながら、外との繋がりを持たない矮小な存在へ転落した。

⸺ 蝶の群れが途切れる。地表に繋がる足元が途絶え、螺旋塔は下から解体されていく。徐々に空の景色が回帰する。



「お前は我が脅威にあらず」



歯牙にもかけないその言葉は蜥蜴の脳を貫いた。声の標的は彼がこれまで見下し妬み続けた人類にあったのだ。

ホモ・サピエンスと呼ばれる種族は、乾燥したアフリカの過酷な大地で鍛えられ、極寒のユーラシアで熾烈な闘争を勝ち抜き、遥か彼方のアメリカに偉大な足跡を印した。火成活動によって一度は消滅寸前まで追い込まれながらも、揺るがぬ不退転の意識を持ったかのように、自然界に対する闘争心と支配欲を以てこの世の王者として君臨した。幾つかの種族を家畜化して手懐け、そうでない者に鉄槌を下し続けた。

個の頂点にある蜥蜴とは対極に、人類は群体として他を駆逐した。その影響力は計り知れず、単独の魔物1頭では到底抗いがたい領域に達していた。惑星を征服した猿の集団は、古より生きた怪物を冷たい金属の箱の中に閉じ込めた。その魔力は地球の収容力を超え、やがて宇宙へ、その秩序まで手を伸ばす。悪鬼羅刹の軍勢は無数の星系を包括する版図を掲げ、際限の無い拡大と永久の絶頂を遂げただろう。

彼らの台頭こそが危惧すべき事象、取り除くべき病魔だった。その目標はただの1匹の蜥蜴に無く、銀河を簒奪し僭主を目指す人類こそが絶滅の対象だったのだ。



「お前は独りで生き続けるがいい。平穏のうちに。滅びと無縁の平和のうちに」



声の終わりと共に蝶の群れが掻き消える。澄み切った青空の下、落ちてくるはずのない天蓋の質量を受け止めるかのように、ただ怪物はその場に立ち尽くしていた。

血と灰に塗れた怪物の地位に『無用』のレッテルを貼った。塵と屍を積み上げた魔物の余生に『安穏』を投げかけた。ひどく上から押し付けられた錯誤的な忠告を爬虫は敗残兵のごとき屈辱とともに反芻し続ける。

「 ⸺ そうか。今の私なら、それが分相応ということか」


声との遭遇の中で、怪物は自らを突き動かした強力な念波と衝動の正体に検討を付けていた。その根源は己にあった。それは500万年で知らず知らずのうちに蓄積した想像を絶する怒りであり、頭上で囀る超越者に対して本能の深潭から湧き上がってきた絶大な憤りであるようだった。


本能と理性が融和した。爬虫が後生大事に抱え続けた無尽蔵なまでの暴虐の矛先は、今や、ただの1点に結集されていた。蜥蜴は自身に内在する不可欠な要素が真っ直ぐに『神』の打倒を見据えていることをひしと噛み締めた。


◆ ◆ ◆




⸺ 高次の者との鬱屈とした対話から1週間が過ぎた。

怪物は昼夜を問わずひたすらに全身全霊で西走し続けていた。全身に羽毛を生やし、スチームのような白い息を鼻孔から噴霧して、蒸気機関車のごとき馬力で氷を踏みしめて前進している。身を焦がす苛烈な熱の迸りも、皮膚を捲り上げるような厳寒環境においては頼もしい拍動の証左である。

エネルギー保存則を無視して猛然と突き進むうち、周囲の静まり返った風景が変化しつつあった。死に清められた純白がいつの間にか濁り、汚らしい灰色を帯び始めた。場所によっては黒々とした濃淡も見て取れた。

氷を汚す夾雑物は、かつて蜥蜴が第一目標に探し求めていた生命の痕跡そのものではない。しかし、水と空気以外の何某かの確かな混在を体現している。飽いていた爬虫の心理に光が差し込んだ。

「やはりあるか、この時代にも!」

爬虫は西走するにつれて汚れていく地面を視界に入れ、上がるはずのない口角を上げた。蜥蜴の目論見が実現に至る、その必要条件たる痕跡と言えるからだ。肢を繰り出す律動に乗ってボルテージが高まっていく。魂が歓喜に満ちてゆく。

「ああそうだ。たった500万の歳月であれが跡形も残さず消えようはずがない。大陸の挙動も微々たる中で、ただの砂や泥として摩滅しようはずがない。この不愉快な凍て付く牢獄に抗い、今なお営々と脈動しているはずだ!」

計略の歯車が回るたび、蜥蜴の脳汁が溢れ出る。怪物の精神は氷床からの復活以降において最高潮に達し、それ以前の幾億年を見渡してもこれほどまでの愉悦に浸ったことが無かったと思われる。


「待っていろ『神』とやら。貴様を宇宙そらから引きずり下ろし、大地の奥底に埋めてやる」



じきに氷が薄くなり、その下に存在する岩塊の主張が強くなった。その岩石はこれまで退屈するほど視界に映ったH2Oの結晶でなく、SiO2 ⸺ 二酸化ケイ素を主成分として孕んでいた。もし岩盤コアを抜き出して岩石サンプルを調べる興味と技能があったなら、蜥蜴はその岩を立ちどころに流紋岩と同定しただろう。

白の障壁を取り払われた、色彩の溢れる剥き出しの世界へ、怪物はとうとう辿り着いた。かつて人類が切り札を安置した地上の絶景、人類が最後に縋った強大な地球の復旧機構。鉄と熱水の織り成す色彩からその地はある名を冠していた。


イエローストーン。人類はこのフィールドをそう呼んだ。

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⸺ とはいえ、爬虫が遥かなる旅路の果てにこの地を訪れたのは、財団が祈りを捧げていた金属の祭壇のためではない。機械仕掛けの大掛かりな舞台装置を含め、人類時代の遺産は冷たい棺に閉ざされている。取り出すことは永劫に叶うまい。もし常軌を逸した雪氷に圧壊させられたのでなければ、それは人類の世話が行き届かず朽ち果てたか、繰り返す大規模噴火で木端微塵に吹き飛ばされたか。あるいはその両方を経由したに違いない。

蜥蜴が巨大地形に足を運んだ理由。それはその実在すら知れたものでない残骸ではなく、その奥底に眠る鬱積した熱源にあった。

強力なアイス・アルベド・フィードバックは太陽の熱を外界へ跳ね返し続けてしまっているが、地中の深淵から昇ってくるマグマの莫大な熱エネルギーはその限りでない。近づく生命に一切の情け容赦を与えなかった極彩色の灼熱地獄は、世界が寂寥に沈んだ今日、最後の生命を湛える地上最大の聖域となっている。

濃密な湯気に包まれるにつれ、蜥蜴の体を覆っていた羽毛は徐々に脱落して湯煙の中へ霧散していった。寒風に耐える機構は最早必要ない。500万年越しに爬虫の足は砂利と粘り気のある堆積物を踏み、波紋を立てながら熱湯の中へ進んでいく。腹部へ周期的に水面が衝突し、波がぱちゃぱちゃと音を立てた。

蜥蜴が停止する。足元に視線を落とす。

先ほど怪物が踏んだぶよぶよとした物体は温泉にも卓越していた。80℃か90℃かという高温に耐え、むしろその温度条件を喜んでいるようだった。鉤爪と手で掻き分けてみると、ぬめりのある物質が蕩けたように剥離しておだおだと漂った。

バクテリアマット、またの名をバイオフィルム。密集した微生物が分泌した無数の多糖類が彼らを取り込み、複雑にして緻密な系を生み出している。一見して単なるゾル状の混合物にしか見えない軟物質の中には、20億年前の祖先と同じく命脈を繋ぐ小さき者たちが犇めいている。

包囲する死の世界を彼らは耐え凌ぎ、ひたすらに時を待ち続けていた。

爬虫はほくそ笑んだ。歯を剥き出しにして顔を下に向け、水面を震わせた。そのうち堪えきれなくなったのか、高らかに笑い声を上げるように彼は鼻先を天へ掲げた。



その刹那、彼の謀略が飛躍した。



鋭利な皮骨板に被覆された尾の先端が、目にも止まらぬ速度で怪物の喉を撫で切った。刃が鱗や外骨格を透過して数瞬後、紅蓮の鮮血が周囲に舞い散った。放射状に放たれた血飛沫が王冠を形作って着水する。

遅れて、怪物の頭が外れる。超自然的な尾椎の抜刀は、魔物の頚椎を一太刀にして両断していた。滑らかな断面を凍て付く大気に晒しながら、蜥蜴の生首は重力に引かれ湯に没する。紅を帯びた闇が瘴気のように拡大してゆく。

頭が墜ちたのを見届けたかのように、不沈艦のごとく威風堂々と聳えた化け物の体も熱湯の中へ崩れ落ちた。不死性を雪ぐように、久遠を払うように、堰を切ったような紅の濁流が止め処なく躍り出る。

既に沈んだ頭部は輪郭が崩れていた。肉体が爛れ、ふやけ、細切れになる。虹色の膜で水面が汚染されていく眼下で、血液とも脳髄ともつかぬ、揺蕩う何かの煙が水塊に撒かれていた。


「全てが私と同質に至る」



「1万年後、100万年先、1億年の彼方でも」



「私は個を棄て、群として『神』に挑む」




堅牢な蜥蜴の肉体が新たな適応を遂げていく。分離した爬虫の細胞は母体たる爬虫から隔てられてなお蠢動を続け、つゆ知らず生きる原核生物たちに迫りくる嵐となった。産み落とされた1つ1つの細胞が荒れ狂い、破裂し、その中身を熱水の中へぶちまけていく。微生物たちに意識があったらならば、狂乱に暮れる余所者たちに当惑したことだろう。蜥蜴を構築した微小な構造は周囲の生命に直接的な危害を加えることなく、しかし着実に自らの遺伝子を媒介した。

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必要に応じて構造を変容させながら、遊離した核酸分子が微生物に取り込まれる。自然と緩んだ間口を介し、縁もゆかりも無いその場その場の細胞の中へ蜥蜴の分子が入り込んでいく。それはウイルスのようであり、しかし致死性を欠き、その代わりこの地球に実在したありとあらゆる病原体とも比較にならない感染性を持った。

怪物の設計図は次々に複写され、伝播し、連鎖し、波及した。最後に残った生命を彼の色へ染めていく。



⸺ やがて峻拒されることなく自己を消費させる異様な晩餐も終わり、阿鼻叫喚としたミクロの世界が落ち着きを取り戻した。代謝を続ける細胞たちは何事もなく営みを再開し、平穏無事な世界が回帰したかのように見える。

しかし、その実態は復活とは程遠いものだった。むしろ、イエローストーンの熱に生存を許容された彼らの設計図は、1匹の蜥蜴により決定的な転換を余儀なくされた。魔物の怨念が全てに入り込み、それと対応して正常な体系が削り去られていた。それは決して元に戻ることのない、不可逆で重篤な変質。生命圏との合一にして再編だった。

生命史に生じた劇的な転換点。40億年に亘る系譜がこの瞬間に塗り替えられたのだ。



⸺ 従来、生命の進化とは極めて遅々としたものだ。人が地球の道程を遡る中でその40億年という歴史は壮絶な圧縮を受けている。流れ去ってしまうその行間にも、ある系統がこの世に生を受けるまで、夥しい数の停滞の日々が流れている。

事実、地球の海洋は原生代において極めて退屈な10億年を過ごした。力が群雄割拠する顕生代においても頂点捕食者の入れ替わりには5桁できかない歳月を要した。過去勃発した五大大量絶滅において、漫然とした生命は全盛を取り戻すまでに1000万年をかけたのだ。


しかし今、怪物の起こす奇跡は時計の針を大幅に進めている。


魔物の因子の継承者たちは、1世代前までの祖先たちと比較のしようのない怒涛の速度で千変万化を続けることだろう。旧態依然とした進化の定義が果たしてどこまで通用しようか、彼らの変異の渦は人類の叡智と探求を嘲笑う勢いで紡がれていく。それは地球はおろか、いかなる天体も経験の無い急激な変化だった。

蜥蜴は学びを得た。変態を遂げる『神』の化身に。肉体の限界を超えた自在の適応と放散に。

それは真なる支配者への歩みであり、他ならぬ『神』の誤算。

間もなく多細胞生物が地上に顕現する。彼らは硬い岩石を根で風化させ、四方八方に菌糸を張り巡らせ、獰猛極まる巨獣の世界を創り出すだろう。やがて彼らは爬虫の遺志の束ねる大帝国の臣民となり、彼の魂に隷属する一糸乱れぬ軍団となる。



広大な火山地帯に一筋の噴煙が立ち上った。

これは忌まわしき真理へ抗う、生命の軍勢による大いなる反撃の狼煙となった。




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