とある酒場の戸を中年の男が緩く引く。戸はからからと軽い音を立てて男に先を開けた。
こぢんまりとした店内は淡黄の光に満たされ、温かな空気が体に付いた雪の粒をじわりと溶かす。中では見かけでおおよそ十にもなっていない子供が五人と、着物のたおやかな女将が色紙を折っている。
彼女は男に気づくと僅かに目を見開いた。
「お、邪魔したな」
「ごめんなさいね、すぐ支度しますから」
「いいよいいよ、ここじゃだぁれも急いじゃいないさ」
軽く手を振って笑う男の元へ、目を輝かせた子供達が駆けていく。一斉に男を囲んでじゃれつく姿はさながら磁石に集まる砂鉄のよう。
「おじちゃん!」
「おいちゃん遊ぼ!」
「外行こう!」
「おいおい、今来たばっかりなのにもう出されちまうのか俺は」
早く早くと小さな手に引かれ、男の体は徐々に再び雪降る暗闇へと逆戻りする。助けてくれと情けない声を上げるその口元は弧を描いていて、それを見守る女将もまた慈愛に目を細めていた。
「そいじゃあ姐さん、行ってくるわ」
「はいはい、行ってらっしゃい」
軽く目を向ける男に女将は手を振って返す。容赦ない引っ張りに軽く注意をする彼の声は、果たして子供達に届いているのか。見送ろうと彼女が暖簾を持ち上げた時には、もう彼らの姿は雪に紛れて小さくなっていた。
男が再び酒場に戻った時には、先程までの気のいい笑みはどこへやら。机に円を描くように乗った両腕とそこに埋めた顔、そして呼吸と共に緩く上下する背中が彼の疲労困憊ぶりを伝える。
「全く、あの子等ときたら本当に容赦がねぇ」
「ふふ、お疲れ様」
雪山作りに雪だるま、宝探しと男を散々振り回して遊んだ子供達は、酒場の二階で眠っている。お腹を空かせて起きるのか、それとも疲労で当分起きないのかはまだ分からないが、今が大人に与えられた時間なのは間違いない。
ことり、女将が男の側に琥珀色の酒と軽くシワの入った梅の実を置いた。その音に顔を上げた男は意外と言うように目を丸くする。
「おい、この酒と梅は」
「ずっと前に貴方からたくさん頂いた梅の実を漬けたんですよ、なかなか上手に出来たでしょう?」
「あぁ、もういつだったかなんて覚えちゃいねぇが確かに渡したな。あの地は梅が旨いんだ」
コップを手に取るとからりと濁りのない氷が音を奏でる。店の明かりに琥珀が輝く。珍しげにしばらく酒をしげしげ眺めて堪能した後、それを一気に飲み干した。
「かぁーっ、旨い!やっぱり姐さんの所で飲む酒は格別だなぁ!」
「あら、お世辞が上手」
さっそく軽い酔いに蕩けた男の声と鈴を振るような笑いがその場に響く。
珍しく貸切状態の酒場をからかうように、暗い外から雪混じりの風が吹き付けた。
「なぁ、あの子等はいつからここにいるんだ?」
「え?」
棚から別の酒を取り出した女将は、突然投げられた問いに動きを止めた。一升瓶の中で液体がたぷりと揺れる。
「あぁごめんなさい、私も気にしてなかったから分からなくて」
「いや、あの子等もいつまで経っても変わらないなと思ってな」
「そうねぇ、本来ならとうに大人になっていてもおかしくないのだけれど」
思えば、子供達の服装は時代がバラバラだった。濃い色の着物に下駄から始まり、腿丈のスカートや短パン、そしてロゴの入ったトレーナーにジーンズ。
外の時間で言うならば、離れている子は互いに一世紀も離れた時代から来ている事になる。
見る限り子供達の間に差別もなく、風邪を引く様子もない事が幸いだが。
「思えば姐さんもいつも綺麗なまんまだな」
「まぁ、嬉しい」
「それに比べて俺なんて白髪混じりの年寄りだ」
「あら、貴方もとっても素敵な人なのに」
「はっはっは、嬉しい事言ってくれるね」
年中常夜の宵の街は、酔いにたゆたう住人の意識のように時間の概念もあやふやだ。
ここにいる住人達がどんな時代のどんな場所から来たのか。ここへいつ来たか、来てどれ程時間が経っているかなんて誰にも分かりやしない。
外の時間と街の時間の流れが同じだなんて誰にも言えず、外では何百年と時が経っているかもしれないし、ほんの一瞬かもしれない。
もしここを出る事があったとしても、どこへ行き着くかさえ分からない。過去か未来か、それとも。
だがこの街では誰もそんな事は気にしない。酔って笑って眠る街は今日も穏やかに雪を流す。
「……心ができていないのかもしれない」
「ん?」
「酔うには大人にならないといけない、でもまだ酔うための心ができていない」
「……」
「まだ子供のままでいたいと無意識に思っているのか、それとも酔える程に心が育っていないのか」
「……」
「ここでは誰も何も強いたりしない。酔うも覚めるも、行くも残るも、伸びるも止まるも……だけど」
「……一度伸びてしまえば、もう戻れやしねぇからなぁ」
男が無言でコップを差し出す。女将が傾ける一升瓶から酒がとぷとぷと流れ出す。ちょうど八分目で止められたそれは、飲まれる事なく梅の皿の隣に着地した。
「何が理由とかどんなきっかけでここに来たのかなんて野暮な事、聞きたい訳じゃねぇけどよ」
目や頬の所々に軽いたるみや薄いシワの刻まれた顔。外の世界に住む人間なら、誰もが人生を半分は生きていると評するだろう面持ち。
男は丸皿の上に鎮座した梅の実を見つめていたが、おもむろに一つ箸でつまみ上げた。
「あの子等を見てると何となく、悲しい気持ちになんのはなんでだろうな」
そのまま丸ごと口の中に入れて咀嚼する。かり、と実の潰れる音が奥歯に響く。口の中に広がる味はほろ苦く、うっすらと男の脳裏に梅の品種が浮かぶ。
「これは、確か……」
突如、がらがらっと戸が引かれた。続いてぱたぱたと肩の雪を払う音。
「もう開いてる?」
「あらいらっしゃい。お好きな席へどうぞ」
「へぇ、今日はおっさん一人かよ」
「誰がおっさんだ、ったく」
新しい客は中年の男より見た目一、二回り程若い男だった。当然と言ったように隣に陣取り、からかうように顔を覗き込む。
「何だよおっさん、辛気臭い顔しちゃって」
「ほっとけ、ちぃと疲れてんだよ」
「へぇ、まあどうでもいいけど」
「お前な」
「女将さーん、何かおすすめちょうだい」
咎めるような声もさらりと聞き流し、若い客は女将からコップを受け取る。隣で落胆したように机へ顔を埋める男には目もくれず、嬉しそうに注がれた酒を一息に呷った。
「で?実際どうしたっての」
「おい、さっきどうでもいいって言ったのはどこのどいつだ」
「どうせおっさんの事だし仕事疲れたーとかだろ?もうやめちまえばいいのに」
「……そんなんじゃねぇよ」
「はぁ?……女将さん、このおっさんどうしちゃったのさ」
雪は降り止む事なく夜が明ける事もない。住人達は酔いに浸り、空気は冷たいが穏やかで優しい。それがこの街の摂理だ。
ただ今がいつもと違うのは、酒場の空気が少し湿っぽい事、そして酒場が開いてしばらく経つのに客が二人しかいないことだ。
「へえぇ、おっさんも優しいねぇ」
「うるせぇ、真面目な話で人をからかうんじゃねぇ」
「いやなんかおっさんが悩んでるのが面白いというか」
「あぁーっ!もうお前は出てけっ!」
「ひっでぇなぁ」
女将から話を聞いた若者はニヤニヤと面白そうに口の端を上げた。対して笑われた中年の男はふざけるなと言わんばかりにその横顔を睨めつける。
怒鳴られても一向に意に介した様子もなく酒のお代わりを注文する姿に、梅をつまむ箸が男の手元で僅かに震えた。
「じゃあ子供扱いしてやればいいじゃん」
「あ?」
からりと投げ掛けられた言葉に、箸の動きがぴたりと止まった。
「あの子達に何があったかなんて誰も知らねぇしどうしようもねぇよ、どうせ俺達はただの酔っぱらい、んでここはただの酔っぱらいの集まる街だろ」
「……」
「子供のままでいたいなら存分に子供扱いしてやればいい、心が育ってないなら目一杯構ってやればいい」
「……」
「まぁここに残ってんのもあの子達の意思だし、大人になりたくないんだとしてもあの子達の意思だろ?おっさんが悩む事じゃねぇよ」
そう言い切ると若い男はコップの中の氷を一気に口に含んでガリガリと噛み砕いた。氷の上を滑るようにすらすらと流れる言葉を口を半開きにして聞いていた男は、やがて目線を下ろしてぼそりと呟いた。
「……若造のくせしてやけに悟ったような事言いやがって」
「おっさんのくせにうるせぇよ、ここじゃどっちが年上かも分からねぇのに」
言い終わると同時に若い男は皿から梅の実を一つ奪い取った。男が文句を言おうとした時には既に咀嚼されている最中で、彼は負けじと残った一つを口に含む。今度は口内に桃のような甘い香りと、まろやかな味が広がった。
それから二人はしばらく酒を飲み交わした。一杯、二杯、三杯と数を重ねるうちに顔の赤みも増す。酒の合間に注文した料理に心地よく腹も満たされる。両者ともに目蓋がとろけてきた頃、若い男が突如よし、と背筋を伸ばして男に向き直った。
「じゃあこの街に一番似合う子供向けの催し、やるか」
「はぁ?何だそれは」
当惑の余り額にシワを寄せて聞き返す男に、若い男はニヤリと得意気な笑みを浮かべた。
「雪の夜にぴったりな子供の催し、あるだろ」
子供達が何度か寝起きを繰り返した後の事。酒場の二階、真っ暗闇の廊下に人影が一つ。真っ赤などてらをはおり、頭には赤いキャップ、片手には麻袋を持った中年の男がふすまの前に立っていた。控える重大任務を前に、胸に詰まった息を大きく吐き出して呟く。
「全く、俺じゃなくても良かっただろうに」
腕が軽く小刻みに震え、麻袋の中から僅かに物が触れあう固い音がする。少しでも袋をどこかにぶつけないよう、持ち変えもせず慎重に持ち運んで来たせいか。階下から響く客の笑い声の方が大きいはずなのに、今はそれすら遠く思える。
目の前の白いふすま一枚隔てた向こうに子供達が眠っている。子供達が起きるか否かは全て自分次第だと、男は再び息を吸い引手に指をかける。そしてゆっくりと、まるで溝の磨り減りにすら気を遣うかのようにふすまを開けた。
「おいおい、何だこりゃ」
子供達は男の侵入に全く気づく様子はなく、五人が五人とも深い眠りに就いていた。ただ、きちんと揃えられた敷布団からは全員どこかしらはみ出して、掛布団すら剥がれている子もいる。揃いの腹巻きを付けてはいるが、この雪止まぬ街で風邪を引かないかと心配になるほどに豪快な寝相だ。
掛布団を戻すかどうするかと見ていると、端の男の子が寝返りを打った拍子に敷布団から落ちた。
「ま、これでいいだろ」
落ちた端の子と剥がれた掛け布団だけ戻し、男は子供達の頭上に袋を置いた。かちゃりと音を立てる中身は、男が外から連れてきた幾つかの「仲間達」。
子供が喜ぶだろう面々を選んだつもりであったし、女将やあの若い男にもお墨付きを貰ったから恐らく問題はないだろうと、鼻から小さく息がもれる。
今までは男の部屋に置かれるだけだったが、これからは子供達の役に立ちその側で笑みを見る。それは素晴らしい事なのだと、少なくとも男は信じてやまなかった。きっと「仲間達」にとっても、子供達にとっても。
「……幸せにな」
どうかこれが良き選択であれと、男はふすまを閉めた。
酒場が一度閉まり、また開いてしばらくした頃。店の中は客で賑わい、酔いをはらんだ笑いに満ちている。その中で中年の男と若い男は端の席で杯を交わしていた。
「作戦大成功だなおっさん、あんな喜んでるぞ」
「あそこまで喜ばれるとは思っちゃいなかったんだが」
階段の向こうの暗闇から、子供の声と足音が響いてくる。それもこの酒場では酔いと笑いと住人達の気質に紛れ、誰も咎める者はいない。
『この街でもたまに赤い服を着た人がやってきて、皆が寝ている間に贈り物を持ってくる事がある』
そう女将が話していたおかげで、枕元の麻袋はそういう物だと受け入れられたようだ。
「姐さん、一応子供等に大切に扱うよう言っといてくれねぇか」
「はい、でも友だちが増えたって喜んでますからきっと大丈夫」
「ま、友だちを壊して遊ぶような奴らじゃないだろうなあの子達は」
かつて同じ部屋で暮らした仲間を託した事に不安はあったが、二人の言葉に男は安堵のため息をついた。
それに万が一、もし子供等が仲間を邪険にする事があれば、その時はまた自分の部屋に置いてやればいい。子供等もそこに託した仲間達も、自分の大切な存在だ。そう思うと胸のつかえが少し取れた気がした。
「あぁ、やっとゆっくり酒が飲める」
「またまた、しばらくすれば構いたくなって仕方なくなるんだろ、ねぇ女将さん」
「ふふふ、この人は優しいから」
「だってよ、サンタもどきさん」
「やかましい」
ニヤニヤと笑う若い男の頭を軽くはたいて、手元のコップを持ち上げる。あの時と同じ琥珀色の梅酒が、明かりを受けて誇らしげに輝いた。
「……またお迎え、頑張るかね」
男は酒を一口含んで、笑った。