2019年 5月14日 カイロ マタリア コスタ・コーヒー karkaroff パラウォッチジャーナル専属ライター
ヘリオポリスで開催されたトリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション社のロードマップ説明会で取材を終えた帰り途、私は近場にあったカフェに寄ることにした。簡単なディナーを取るには悪くない時間だ。注文を取りに来たムスリム風の店主が、私に声をかける。
「この辺じゃ見かけない顔だな。お客さん、どこから?」
『ロシアの奥地からだ。この辺りは旅行客は少ないのか』
「ギリシアとかイタリアからは沢山来るがね、北の方は珍しいんだ」
煌々と照りながらガラス窓の向こうへと沈んでゆく熱帯の夕日を眺めながら、注文メニューを開く。明日にはエジプトを発ってすぐにモスクワまで戻らなければならない。20年前までなら重労働であったろうが、今ならどうということはないごく一般的な旅程だ。
『私はいろいろな国を渡り歩く記者だが、エジプトは初めてなんだ。この店ならではの食事は何かないか?この地域の食事でもいい』
「それなら、ヘネケトとパンが良い。お客さんは酒は飲めるだろう?』
『ヘネケト?』
「古代エジプトのビールだ。ピラミッドはビールで作られた、って話は聞いたことがあるかい」
『成程、意味がわかった。それは丁度いい。ぜひ頼みたい』
「ああ、きっと記事のネタにもなるだろう」
エジプトはイスラム圏の国家であり、国民の多くは禁酒を是とするムスリムである。しかし古くから古代遺産を活用した観光業で栄えていた国でもあるから、このように大抵の店で酒は飲むことができる。加えて、近年では古代から蘇った神々の系譜の住人も一気に増えてきているので、大方、それらの新たな人種に向けた定番メニューなのだろう。ついさっきまで様々な企業の代表者から質問攻めにあっていたTtt社の重役も、そのような新人種の一人であった。
《当社はエジプト・アラブ共和国政府と今後も提携を継続し、多様な身体構造を有する伝承部族の顧客の皆様に対し、最適化されたマニュアルサービスを提供致します…》
グローバルスタイルのビジネススーツを着こなし、精巧に締めたネクタイの上から伸びるクロトキの長い首と嘴を擡げて会場全体の参加者を見渡しながら、演説を続けていた男。副社長のトートを名乗る伝承部族の声明が、いま私の抱えている鞄の中にタイプライターの印字として仕舞い込まれている。ヴェール崩壊から20年が経つ現在、エジプトは世界でも有数の伝承部族先進国家として世界に名を馳せているのだ。
「ヘネケトだ。由緒正しい方法で作ってある。それと、同じく古代から続くパンと魚、それにサラダ。ゆっくりと召し上がってくれ」
『ありがとう』
白身魚の塩漬けと、玉ねぎやレタスのサラダを皿に盛る先程のムスリム男性に対し、私は礼を述べたのちに、話を続ける。
『ヴェールが無くなってから多くのエジプト系伝承部族が世に出てきて、こうして彼らに向けた食事も並ぶようになったと聞いているが、貴方はエジプト神話を信仰しているのか?』
「いや。俺は変わらずアッラーと共に在る。かの方は我々によって偶像化されることをお望みにならず、故に我々の前に姿をお見せになることもないだけだ」
『何か、お互いに気を配っていることなどは無いのか?失礼な話だったら済まない、私は宗教の話には疎くてね』
「心の拠り所が違えど、見えている世界が同じであれば、特別に気を遣う必要のある相手でもない。同じこの国の住人だ。ムバーラク前大統領や、アフガンの同胞らもそう述べている」
『成程』
ヴェール崩壊直前まで多発していたイスラム過激派テロ事件の数々を思えば、随分と丸くなったものである。当時の過激派の先端を走っていたアル・カフタニ氏は、ポーランドが"神格実体"と呼ばれる存在に破壊された事件によって自身の軌道修正を迫られ、過激派組織を脱退して境界線イニシアチブに転向したという。世界の変容は宗教観も容易に変えうるものなのだろう。
『では』
私はジョッキに注がれていた古代の酒に手を伸ばし、呷る。ホップを使っていない、どちらかというと白ワインに近い味わいだ。パンは大麦を素材とした大きく分厚いもので、固く焼き上げられていた。酒を飲みながらボラの塩漬けを口に運び、瑞々しい野菜に添えられたニンニクのスライスを併せると、古代王朝の元で開かれる収穫祭の賑やかな様相が不思議と脳裏に浮かんできた。店の男が言う通り、確かにピラミッドを作っていた労働者の活力の源として最適のメニューだったのだろうと感じた。この食事があれば、良い夢を見て眠り、一日を締めくくることもできるだろう。
「伝承部族たちはこのビールと食事を今でも好んでいる。昔の生き方を続けてきていたから、我々も彼らのやり方に倣っているんだ」
『これは良いものだ。ここで食事ができたことを嬉しく思うよ。もし良かったら、今度の記事にも使わせて頂けないか』
「むしろこっちからお願いしたいくらいだった、是非とも使ってくれ。そうだ、お客さんは普段はどんな記事を書いているんだい」
『今のように世界各国の探訪レポートをやることもあるが、どちらかというとミステリーを追求する話のほうが多い。あとは軍事ルポルタージュか』
「へえ、それならこの店にはもう一つ良いものがある。地下を見ていかないか」
『地下?』
「この店、実はここに開いたのは2002年なんだが、それより前には国際的なテロ組織のフロント店としてこのテナントが使われていたらしいんだ。だから地下には広い秘密基地がある。今はもぬけの殻だがな」
店主の急な申し出を受けた私は一瞬戸惑ったが、せっかくの機会であるから申し出に乗ることにした。記事の種が増えるぶんには悪い話ではない。私は僅かな酔いを隠しながら男とともに地下へと降り、シックな店の内装とはかけ離れたむき出しの煉瓦の壁の中央にあるドアを見つめた。
「ここに居た軍事組織には一つ、逸話があるんだ」
店主はそう言いながら軋む音を立てるドアを開いた。鍵はなかった。その先には暗闇に覆われたがらんどうの空間があった。懐中電灯で照らす先には無造作に床板が張られている程度で、かつてのテロ組織の様相を想起するのは難しそうだ。
「ヴェール崩壊の前後まで、ここにはカオス・インサージェンシーの尖兵が駐屯していた。ある日に突然やってきた老人が彼らを連れて中東の奥地へ行って、そこからアメリカに飛んでいったって噂だ」
『アメリカというと、マンハッタンか』
「時期的にはそうだろうな。結局彼らは次元崩落テロ事件のあとFBIに捕まって身元を調べられた。だが不思議なことに、FBIは老人の身元を公表しなかった。代わりにFBIは老人に関するある情報を公開した」
『それは』
「老人は未来から時間を遡ってきた存在であると確認された、とな」
この場所でその話題が出るとは予想していなかった。
『なんと、その話は知っている。その男はFBIが情報を公開した直後に留置所から何者かの手引で脱走し、今でも発見されていないと聞いた。彼がここに来ていたことがあったとは』
「不思議だよな。本当なら9.11の主犯格の脱走としてすぐ全世界に指名手配するような人間なのに、未だに名前すら公開されてないとはな。この地下室は老人がインサージェンシーと初めて接触した場所だってことでうまいこと保存してもらえないか相談しようとも思ったが、どうもこの老人の話は世間的にはタブーらしいので尻込みしてる」
成程、面白い話を聞くことができた気がする。私が寄稿している雑誌は世界に真実の目を向けることを信条とし、読者もこのような未解決事件の手がかりとなる話題には強く食いつくだろう。この店で食事をする機会があったのは幸運だった。私は今回の出来事を近いうちに記事にすることを店の男と約束し、ヘネケトの心地よい酩酊に足を任せながら、日の沈みきった夜のカイロ市街へと戻っていった。
結論から先に述べると、私はこの店主に完成した記事を見せることはできなかった。ジャーナルとしての出版直前に、マタリアのカフェがあったカイロ、それどころかエジプト全土を含むアフリカ大陸の全てに至るまでが、二大陸正常回帰によって無へ帰したからである。世界中を飛び回っていた私と異なり、彼が事件当日にエジプトを出国していた可能性は極めて低いと言わざるを得ない。惜しい男であった。私は彼にこの記事を捧げるものとする。
2022年 5月18日 カイロ マタリア コスタ・コーヒー karkaroff パラウォッチジャーナル専属ライター
先日発生したメンフィスピラミッド崩壊事件に関する取材のため、私は人生で初となるエジプト来訪を敢行した…これは二大陸正常回帰事件の前後でエジプトという国家は全く別物となっているに等しいがゆえの表現だ。航空機でカイロ入りした私は、まずは3年前と同様にヘリオポリスを訪れた。陽の光を望めない砂嵐の中、かつてTtt社が説明会を開いていたときのような伝承部族隆盛の跡が欠片も見受けられない、砂と瓦礫にまみれた古代遺跡がそこにあった。しかしながら、それは感覚的には不思議と自然な情景にも見受けられた。「もしヴェールが崩壊しない世界であったなら」という仮定を立てることが許されるのであれば、本来の人類の管理下でもおそらくこうなる可能性が高かったのだろう。
その後、私は砂よけも兼ねてランチを取れる場所を探すことにした。風が強いせいで道を出歩く人影は少ないが、前回の来訪時と比べてかなり多様な人種が見えるように感じた。しかしそれらは皆、ホモ・サピエンスの形をしており、頭が鳥になっているような者はただ一人として見つからなかった。程なくして、私は3年前にディナーを取ったのと全く同じ店を発見した。外装は変わっておらず、こちらの世界でも建て替えは行われてこなかったことを窺わせる。今回の取材にはベストな場所だ。出迎えた店主の顔はやはりムスリム系であったが、残念ながら前回とは全くの別人だった。
「この辺じゃ見かけない顔だな。お客さん、どこから?」
『ロシアの奥地からだ。今もロシア人は少ないのか』
「3年前から急に増えたな。観光かい?観光するにはこの辺は危ないよ」
『いや』
「だとすると、アフリカに永住するのを選んだのかい。大体の人はそうだが」
『残念だがそれも違う。取材でこのあとメンフィスに行くんだ。記者をしていてね』
「呪い破りの記事がほしいってわけか」
『そういうことになる』
サハラ夏鳥臨時軍事政府の庇護下で暮らす人間は世界中から集まったナツドリストが中心だ。彼らはヴェール崩壊以前の社会を好み、偶然の成り行きでそれが現実になったアフリカ大陸へと結集しているのだ。故に彼らは非条理なもの、かつての科学体系で説明がつかない事実を極度に嫌うとされている。私としては少々肩身が狭い。
「注文は何にするかい。普通の料理なら大体どこの国のものでも揃えてるよ」
『ロシア料理も?』
「もちろん。ここには世界中の人が暮らしてるからな」
『ならば、ボルシチを。それと、そうだな。ヘネケトはあるか?』
「ヘネケトだって?なぜここがヘネケトを出す店だって知ってるんだ?」
『ということは、出せるのか。いや、実を言うとだいぶ前にもここでヘネケトを頂いたことがあってな』
「お客さん、そりゃここの店とは違うところだと思うぞ。仮に場所が同じだったとしてもな。今のユーラシアやアメリカみたいな異常かぶれの世界と同じにしないでくれ」
店主はかなり渋い顔をしたため口頭で謝罪はする羽目になったものの、それはそれとして料理は非常に美味であった。砂嵐の吹く酷暑のカイロの街中で、雪の吹き荒れる極寒のロシア料理を口にするのはなかなか奇妙な体験であったが、しかしその味は本場に勝るとも劣らぬものであった。対するヘネケトの方はというと、これもまた"異常な世界"のものに比肩する良い酒であった。
『なぜこの店では今でもヘネケトを出してるんだ?エジプト神はここじゃ爪弾きだろうに』
「神を騙る獣に対するものじゃない。これは太古の偉大な人間の文明に対して乾杯するためのものだ。まあ、俺は飲めないんだがな、ムスリムでない連中にはだいぶ人気がある」
『そうなると、この前のピラミッド破壊はその古代文明に対する扱いとして正当なものなのか?』
「良くはないが、やむを得ない状況ではあったんだろうな。呪い破りの連中は言うなれば異常を以て異常を制す、我々も仕方なく彼らのやり方を受け入れているのだよ」
『先程も聞いたが、呪い破りとはどの団体を指しているんだ?教えてくれないか』
「彼らは《プル・アンク・ン・ジェフウティ》と自称してる。《ジェフティの図書館》という意味だ。実際、彼らの本拠地はギーザの地下にある図書館だって噂だ」
私はこの団体名に聞き覚えがあった。世界オカルト連合の108評議会を最近になって脱退したことで、国際社会で論争を呼んだ団体だ。尤も、いまこの世にいる当団体は"正常な"ものだろうから、かつての彼らの理念であるところの「正常な世界の守護者」としての仕事を全うすることを望むのであれば、この展開は自明であったことだろう。
『ありがとう、故郷を思い出す良い味わいだった。それと、現世まで連綿と繋がる世界を維持してきた古代人にも敬意を』
「喜んでもらえて何よりだ」
『ふむ、もし良ければ、もう一つ尋ねてもいいかな』
「どうぞ」
『この店には地下室はあるか?』
「まあ、前にも来たことがある、ってんならそう言っても驚かねえな。あるよ。この時間だとそれなりに兵士がいる」
『良ければ、インタビューもできたりしないか。私は軍事の特集記事も書くのだ』
「特別だぞ。ああ、悪いが筆記用具以外のものは一度預からせてくれ。変なことをされると危ないからな」
その時の私は護身用のアイテムは特に携帯していなかったため、これは問題なかった。超常技術が使えない世であれば、住人がそのような武器を持つのが当然であるのかもしれない。ましてや、この国家全体が超常社会からのヘイトを集めている現状とあっては。
「ここだ」
地下室は殺風景な煉瓦造りなのは以前と同じであったが、今回はよく手入れされておりホコリ一つ見当たらなかった。店主に案内され中に入ると、数人の武装勢力が私を出迎えた。褐色、白、黄色、黒、彼らの肌の色は様々であったが、無論全てヒトの身なりであった。部屋の壁には古めかしい軍用ライフルが人数分用意されているようだ。
『アポイントを取らない訪問で申し訳ない。私は軍事記者をしている者だ。上階の店主のご厚意で皆様にお会いできたことを嬉しく思う』
「ようこそ。我々は貴方の来訪を歓迎する。ただ、貴方に語れることが多くないことをお許し願いたい。最近は表立った行動もなく、落ち着いている」
『貴方がたのような小規模な武装は、この国では一般的なのか?』
「そうだ。正常の希求は常に、異常に対して差し向ける武力と表裏一体である。ただ、近年では《ジェフティの図書館》がその辺りを概ね代行してくれている。彼らが我々を守っている限り、異常な怪物も敵ではないだろう」
『では、武装の目的は異常存在の排斥のためということか』
「そのとおり。闇に潜む怪異から身を守り、光の中で共同して暮らすという目的に関して、ほとんどの国民が意見を一つにするはずだ」
『間違いないだろう。貴方がたはいつ頃からこの店の地下を使うようになったのか?』
「もともと、"財団"、者により"カーイダSCP"とも呼ぶ、その巨大な異常組織から離反した小団体があった…カオス・インサージェンシーという名だ。メンバーたちはこの部屋を潜伏先として長く使っていた。彼らは財団に対する恨みを持ち、雌伏の中で反撃の機会を窺っていたという。しかし、財団本拠地のあったアメリカを含め、世界の大部分が異常に呑まれてからは、彼らの方針は"かつての社会体制を奪還すること"へと移り変わった。故に、彼らは我々のような一般人とも友好関係を築き、この場所を提供するに至ったのだ」
『サハラに世界中の人々が集まる中で、人種や信仰の違いは問題となっていないか?』
「我々の目的が同一である限り、その他の些末な差異を問うものは居ない」
武装団体の思想は超常社会への反抗で一貫しており、その目的のためにサハラ連合国内では奇妙な連帯感が生まれているようであった。人種を超え、宗教の壁を超え。国際世論が望むものとは違えど、ある意味では現在の夏鳥国内も一種の理想郷としては十分に機能しているのかもしれない。ヴェール崩壊もなく、二大陸正常化もない、本当に「正常な」世界が続いていたとしたら、現在でも宗教や人種対立がこのような妥結点を見いだせていたようには、私には思えなかった。
残念ながら、この記事も店主や地下の人々に届けることは叶わなかった。この取材旅行のすぐ後にサハラ夏鳥臨時軍事政府への渡航や物資輸送を全面的に禁止することを国連が所属国に義務付け、完成したジャーナルをサハラ国の地へと送ることができなかったためである。彼らが2025年のサハラ戦争を生き延びたようには思われない。私は彼らにこの記事を捧げるものとする。
2025年 5月22日 カイロ マタリア コスタ・コーヒー karkaroff パラウォッチジャーナル専属ライター
「…このようでありまして、ヘネケト、人によってはヘケトとも発音します、これは世界でも一、二を争う歴史を持つ古ビールとして5000年前のエジプト文明に誕生したのです。こちらは当時の姿のままに再現されたヘネケトであり、我々エジプト伝承部族が連綿と継いできた欠かせぬ命の糧です。どうですか?貴方もご一杯」
『うむ、貰うとしよう』
サハラ戦争終結後のマタリアは数ヶ月ですっかり様変わりしていた。戦禍を偲ばせる破壊された石造りの建物は直ちに撤去され、代わって建てられたのはTtt社やプロメテウス社が主導した高層の集合住宅やビル街であった。カイロ市街と比較すれば大きな違いはないものの、風化したヘリオポリス神殿が眠る以前の郊外とは比べるべくもない。私が朝食を取っているのは、以前に私が都合2度訪れたカフェであり、地上部は完全に建て直されていた。
「お客様はどちらからおいでになられたのですか?」
『ロシアの奥地からだ』
「ロシアですか!バーバ・ヤーガやヴォジャノーイの皆様方には格別のご厚意を賜っております。勿論、貴方がた人間の皆様にも」
窓の外には多種多様な動物の頭を持つ人々が忙しなく行き交っている。世界各国で当然のように見られる様相だが、私はそこに一抹の違和感を覚えた。何かが足りない。
『食事の方は?今のエジプトで旬のものは』
「はい、現在は国際的なブームを起こしている新食材がございます。こちらの、ミイラの干物です」
店主である猫耳の生えた浅黒い肌の男性は、恭しげな手付きで私のテーブルの上に古びた布が巻きつけられた塊を置いた。店主が布を解いてゆくと、その下からは宛ら人魚の死体とでも形容すべき奇怪な褐色の肉体が姿を現した。表面は固く乾いており、例えるなら削り出す前のカツオブシのようなものである。
『なんだ…これはエジプトの文化と関係があるのか?』
「私達トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション社と提携する企業の一つ、水産加工会社"本家アヌビス水産"の定番メニューでございます。人類が古代エジプトに対して抱く一つのイメージを食品にまで昇華した逸品です」
『私の知る限り、エジプト神話の登場人物はミイラを作り、護りこそすれ、食べはしないものと記憶していたが』
「お味の方は一般的な海産物の干物と同様の感覚でお召し上がり頂けます。お酒にもよく合いますよ」
『ふむ…そこまで勧めてくれるのであれば』
店主は小さなナイフを取り出し、ミイラの塊を細かくスライスして付け合せの金網に乗せ、火をつけて焼き始めた。その様はエジプト料理というよりはむしろ和食のようであった。私は仕事がら日本にもよく訪れるが、見た目はともかく料理法に関してはあちらのほうが人気が出そうである。
『その"本家アヌビス水産"というのはどこの企業なのか?』
「現在は当地のカイロ支店が実質的な本店として機能しております。今後は世界各地へさらなる展開を予定しています」
どうにも得体の知れなさが拭えないミイラの干物であったが、いざ覚悟を決めて食べてみると見た目に反して味はかなりの美味であった。先述したとおり中東やアフリカの人間よりはむしろ日本人の口に合うだろう。一緒に飲む古代ビールも、このときは奇妙なことにミイラの干物の味わいを強く引き立てるかのように感じられた。しかし、5000年来のエジプト文明に想いを馳せて食べるための食事にふさわしいとは、個人的には言い難い。以前にこの場所で食べたボラの塩漬けの味を思い出しながら、私はそう考えた。これは何かエジプトではない外部の文明が混交している味だ。尤も、この辺りは個人の好みも反映される領域であろう。
『ところで、この店の地下には、今は何がある?』
「申し訳ございませんが、現在のコスタ・コーヒーの店舗は地上部のみです。地下は整備されておりません」
『うむ…私はこの場所で以前に2度、食事をして、地下を訪れる機会があったんだ。今、そこがどうなっているか知りたい』
「お勧めはしかねますが。お客様たってのご希望とあれば、ご案内致します。お食事が終わってからもう一度声をおかけください」
疑念が残るものの満足した食事を終え、私は店主の案内を請い、地下へと降りた。降りたというよりは、一旦店の外に出て、台形の盛土に作られた地下へのドアへ入り直すという形であった。店を出た時、私は店から外を見て感じた違和感の原因を探ろうと、周囲を見渡した。理由は程なくして判明した…行き交う群衆に、“ヒト”の姿をした者が疎らであったのだ。特に、少し前までなら「エジプト人」と聞いて直ちに思い起こされただろうアラブ系の出立ちをした人間は、ついぞ見つからなかった。
「厳密には、この地下室は店の範囲外なのです。本来であれば勝手に立ち入るべき場所ではないのですが」
『構わないさ。この手の場所には慣れ切ってる』
地上の店が超現代的なコンクリートビルであるのと対照的に、地下室は相変わらずの煉瓦造りであった。2度目に訪れたときのような手入れはされておらず、黒い染みのような汚れが付着しており、最初に来たとき以上の荒れ方であった。
「開けますよ」
どことなく諦めの入った合図を出しながら、店主は地下室の錆びついたドアを開いた。懐中電灯で中を照らした私は、静かに息を飲んだ。そこにあったのは無数のどす黒い液体の跡であり、床だけでなく壁中、天井にも飛散していた。相応に粘性の高い液体、例えるなら原油のようなものであり、それらが所狭しと塊を形成していた。それらの上にはまだ新しい埃が積もっていた。
『セクメト作戦で生じた被害…噂には聞いていたが、実物を見るのは初めてだ』
「よくご存知ですね。現時点で撤去の見込みはまだ立っておりません」
『素直に案内してくれた辺り、この街にはこのような場所は他にも沢山あるということだな?』
「ええ。残念ですが、今お客さんが見ているような礎は未だにありふれたものです。サハラ戦争の終局時に街へ刻まれた傷跡が癒えるまでには、まだ時間がかかるでしょう」
『うむ…ありがとう、わがままを聞いてもらって済まなかった、営業中なのに』
「いえ、お客さんが満足してくださるのであれば、私達は惜しまぬ努力を贈るのです。またいずれいらしてください、その時にはこの街ももっと綺麗なものになっているでしょう」
淀む空気と暗闇の中に、ふと食べ物の香りを感じた気がした。ボルシチの香りだ。もちろん気のせいであり、私達は改めて、太陽神の恵みの光が注ぐ地上へとその身を移した。旧い多様性の残り香は、地下室の暗黒の中、神の手の届かぬ領域へと消えていった。
この記事に関しても、どういうわけかヘネケトを提供してくれた猫耳の店主に見せることはできなかった。知っての通り、カイロの情勢はここから数年で更に目まぐるしく変化した。街並みには“ヒト”の姿が戻り、ミイラの干物のブームは過ぎ去った。Ttt社の多角的事業の展開はペースを落とし、私が訪れていた店は何処かへ移転してしまったようで、再び店主の男を見つけることはできていない。この場所で取材した記事の取材主が私と音信不通になるのはこれで3回目だ。
激動の潮流の中に浮かんでは消える泡のように、私が見つめているこの街は時代ごとに異なる姿を見せる。そして過ぎた時代は再び現れることはない。いっときの歴史の片隅に消えてゆくであろう3つの時代に、この記事を捧げるものとする。