黄昏に抗う者
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2018/7/█


「よう、竜胆。……なんだぁ、コーヒーは無いのか?」
開口一番、淹れるのに時間のかかる珈琲をねだる声。……竜胆は、彼のその習性が少し苦手だった。
「君が大人しく待っていてくれるなら、幾らでも淹れてあげるよ……紫陽。」
とりあえず大人しくさせる為にそう告げ、豆とコーヒーミルを取り出す。当の本人、卯都木紫陽はインスタントコーヒーでも良かったのだが、そんな事も知ってか知らずか竜胆は慣れた手つきで一人分の豆を挽き始めた。
「それで?書類の整理は終わったのかい?」
「勿論よ。いやぁ疲れた疲れた……全くうちの職員は厳しいねえ、休む暇もありゃしない。」
ソファを占拠した人物はそんな事をのたまいながら煙草を取り出し、火をつける。竜胆が面倒臭そうな顔で振り向くと、紫陽は何か言われる前に近くにあった換気扇のリモコンを操作していた。
「前から何度も言っているけど、医者だろう?君。そんなに煙草吸って大丈夫なのかい?」
「良いんだよ、患者に迷惑かけないようにはしてる。多少タバコ臭いとは言われるけど。」
尻尾をゆらゆらと揺らしながら吐き出した煙は、ほんの少し竜胆の方へ向かい、彼を咳き込ませた。
「全く……折角良い毛並をしているんだから、煙草なんか吸わない方が良いと思うんだけどね。毛並に匂いが染みつくよ?」
そう言いながら卯都木の前に淹れたての珈琲を置く手は、純白の鱗で覆われている。……竜胆は竜人1のAFC(動物特徴保持者)である為だが、男にしてはつくづく綺麗な手だと、卯都木は何時もの様に感心した。
対して狼獣人2のAFCである卯都木の体は、腹側が白鼠な以外は濡羽色を基調とした毛並だ。色覚の強い竜胆は「美しい毛色」だと言っていたが、普通の人から見れば地味な毛並みである事に変わりはない。何せ言ってしまえば黒と灰色だからだ。
「なぁに、お前に言われた通りきちんと手入れしてるから大丈夫だ。……それより、ちょっと懐かしい物が出てきたからさ、お前に見せたくて持ってきたんだよね、っと。」
飄々と嘯き、何処からともなく封筒を取り出す。その中から1枚の書類を取り出し、竜胆にも見えるように机の上に置くと、卯都木は説明を続けた。

患者ID 17749807

患者氏名: 砂羽 ██

昭和 51 年 9 月 █ 日 生 33 歳




1.病名及び所見:
奇蹄病。両腕が不明な鳥類の翼に、両足が逆関節になり、こちらもまた不明な鳥類の脚に変形している。
骨密度を測定した結果予測される強度よりも大幅な強化が見られる為歩行不可とはならないが、翼の面積が飛行に適したものでは無い為一般的な衣服及び靴が殆ど着用不可になるなど、日常生活に支障が見られる。なお翼の先端は人間の指の様に鉤爪として分化しており、細かい作業には適していないが基本的な行動は問題なく行える。
精神状態は良好で、自身が置かれた状況を良く理解していた。彼女の近縁及び友人が非常に理解度の高い人物で構成されていた為に、このような状態で安定していたのだと推測している。ただし寄生虫やその他の障害を避けるため羽毛を頻繁に手入れしなければならず、その点は少し大変だと話していた。
主な処置は財団技術部門が開発した専用の衣服及び専用着用具の支給。この技術は複数の衣料量販店等に分譲しているので、今後はデザイン等も多様性が広がる事に期待できる。









上記のとおり診断する
2009 年 11 月 5 日

北海道札幌市█条██丁目█番地

北海道財団異常疾患研究・治療センター

医師 卯都木 紫陽



「奇蹄病の話は覚えているだろ?あの件の診断書をちょっと見せに来たくてね」
「紫陽……これは個人情報の塊だぞ。迂闊に見せに来るものじゃない、ばら撒いたりなんかしたらどうするんだ」
飄々とした態度を取り続ける卯都木に、竜胆は鋭い視線を向ける。……が、それにも臆せず卯都木は不遜な態度で目の前の茶菓子を摘まんでみせた。
「お前と俺の仲だから良いんだよ。この人たちの治療にはお前も付き合ってくれただろう?それに…どうせデータベースにはほぼ全部保管されてるからな、財団内に限って言えば個人情報の秘匿性なんて欠片もありゃしない」
珍しく否定も肯定も迂闊に出来ない正論を放たれ、竜胆はぐっ、と言葉を詰まらせた後、疲れた様子で溜息を吐き、自分の分の紅茶に口をつけた。
「……最初は大変だったね。まあ奇蹄病という病気がまだ出始めた頃だったし、君の施設も大分小さかったから、仕方ないと言えばそれまでだけど」
「そうそう。この子も前例に支えられたとはいえ一から服とかデザインしなきゃいけなかったしな。技術部門に中々ファッションセンスの良い女性の職員さん居て助かったぜ」
「ああ。最近はそこから派生して更に色んなデザインのものが出ているから、そう考えると技術部門の方々には感謝しかない」
何も服だけに限った話じゃないが、と竜胆は言葉を区切り、クッキーを摘まんで自身の鋭利な歯で噛み砕く。
「そう言えば、昔君が診ていた子も今じゃあ殆ど成人しているな。何人かは……死んでしまったが」
「……ああ、そうだな。最初に死んでしまった子は何年前だったかな……今でも思い出すさ」
卯都木が煙草に火を付け、ふっと煙を吐き出す。それはすぐに砂の城の様に形を崩し、霧散した。



2010/2/██


奇蹄病は、奇蹄病ウイルスに罹患した患者が発症する病気だ。
2009年に日本生類創研が病原体である獣変調ウィルス、TX-85957を流出させたことが原因で神奈川を中心とし日本国内でエピデミックが発生、現在は発症患者もほぼゼロに近いが、それでも完全に撲滅とまでは至っていない。潜伏期の強い生存性と潜伏期間の生存能力向上による飛沫感染での感染、そして血液媒介による感染の発生が起こりうる為だ。
感染者はおよそ5万人、死者は3%の1500人。感染してから発症するまでに5-7日を要し、発症するとまず最初に風邪様の症状が数日程、次に全身に激痛を伴う遺伝子改変による形質変化を起こし、患者に動物的特徴を付与する。
それが終了するとウイルスは自滅(恐らく、遺伝子を注入し病原を撲滅するためのウイルスを利用していたためだろうと、卯都木は話していた)、後には動物的特徴を持った死体か患者が残る。
そして生き残った人達も、差別と偏見に満ち溢れた過酷な環境に晒されることとなった。


「卯都木だ!患者はどう……ッ」
██駅。
彼が診た、まだ中学生位の年齢だった奇蹄病の患者は、目の前で頭が熟れた果実のように潰れ、四肢はあらぬ方向に捻れて千切れた轢死体となって布に覆われていた。
「原因はなんだ…ああ、大丈夫…ゆっくりで良い、まずは落ち着け」
死体の様子を確認しながら、卯都木は傍に居た彼の同業者に訊ねる。
「すみません……他殺です、竜胆博士が主犯格の生徒達を確保しています。
他の生徒からのイジメがエスカレートしたらしく、駅の構内で電車を待っていた時に後ろから強く突き飛ばされて頭を打ち昏倒、博士の方の職員が救出に向かおうとしましたが、その時は既に電車が来ていて……」
そこで辛くなったらしく、その女性職員は言葉を詰まらせ、ぐっと涙を堪える。
「大丈夫だ、そこまで説明してくれれば良い……。辛い思いをしただろう、今日はもう休むんだ。お前の仕事は俺がやっておく、良いな……」
背中を優しくさすってあげながら卯都木はその職員に帰宅を命じ、彼は竜胆の元へ向かった。

奇蹄病の患者が増加し、財団も治療等の対応に追われるようになった頃、一つの致命的な問題が浮かび上がった。
『アニマリー殺人』が極端に増加した事だ。
勿論どんな形であろうと彼らは人足るし、一部の非アニマリーはそれも理解している。だが彼らを動物としてしか見る事のできない人物もずっと多く存在しているのだから、猫を虐めてうっかり殺してしまうのと同じ感覚で殺人に手を染めてしまうほどの『認識の違い』と言うのは、アニマリーにとっても非アニマリーにとっても、和解、もしくは融和の道に立ちふさがる巨大な壁となっていた。

財団が借用した取調室の内部は、ある意味地獄のような光景であった。
「お前達は……一体何をしたのか判っているのかな」
威圧感が、彼等……卯都木の患者だった生徒を殺した生徒達を、肉食動物に狙われたネズミのように怖じ気づかせる。
そんな中でも理性を保っていた生徒が、無謀にもその質問に答えようとした。
「あ……あいつは只の動物だろ……だから別に少し位死んだって」
肉食動物の眼光がそのあまりにも命を軽視した答えを紡ぐ口を縫い付け、更にすくませる。
「『動物だから殺しても構わない』。そうかそうか……。猿以下の考え方だな。……いや、これでは猿に悪いか。ゴミ以下と言うべきだった」
コツ、コツ、とゆっくりとした卯都木の足音が部屋に響く。
「お前達のように健全な肉体を奪われ、それでもなお人間として生きようとしたあの子を、動物呼ばわりか……。
君は殺人を犯したんだよ」
一人の生徒の頭に手を置く。それだけで、その生徒は動けなくなった。
「君は二度と取り返しのつかない過ちをしたんだ……人を殺すという、ね。その意味が分かるかい?判るだろう?もう中学生なんだからなあ……」
詰るように、抉るように、卯都木は怒りのままに言葉を紡いでいく。
「じ……実際あいつは動物の顔してたじゃん!だから少し位ちょっかいかけても丈夫だと思ったんだ、まさかあんなことになるなんて思わなかったんだ!」
「それで?君は『まさかあんなことになるなんて』で全てが赦されるとでも?」
その一言で、彼等はまた沈黙する。
「体全体が猫にでも変質していない限り、普通の男子中学生に瞬間的に受け身を取らせるのは難しい。
君もそうだろう?突然蹴落とされて受け身を取れるかい?」
出来の悪い生徒に教え諭すような口調で、彼等の精神をさらに抉る。
卯都木の手は既にその学生の頭から離れていたものの、生殺与奪の権を握られている恐怖は拭えないだろう。
「そしてもし、受け身を取れたとしても……そこから起き上がり、安全な場所に避難しようとするのには時間が少なすぎただろう。報告によれば君達が乗るはずだった電車の前に一本、回送列車が存在していたんだ。君達はそれを知らなかったとはいえ、非常停止ボタンの近くに陣取って押そうとした人を邪魔したと聞いたよ。
本当に……嫌になるね。君達に人間の心は無いのかい?それとも単細胞生物のように何も考えてないのかな?」
沈黙が場を支配する。痛いくらいに怒りと失望に満ちた沈黙が。
「……さて。今回起こした事件は学校の方にも報告しておいた。だが反応からするに、君達はかなり肩身が狭くなる思いはしないだろうね」
後日調査した結果、学校の反応もまた残酷の一言に尽きた。
被害者の男子生徒に関して捜査をした際、担当の教師は何を聞いても知らぬ存ぜぬの一点張り。
生徒達なら何か知っているかも……と期待を込めたが、結局の所その学校に盗聴器を設置するまで終ぞ事実は判明しなかった。
しかも結果らしい結果と言えば、教職員も含めた執拗な虐めと、見事なまでの隠蔽が浮き彫りになっただけだ。
「……まあ、かと言って世間がそれを許すかな?何せ君達は『人を殺した』んだ、そういう悪い子はお仕置きされるのが世の常だろう?」
ニヤリ、と牙を剝きだし肉食獣の笑みを見せると、更に男子生徒達は顔を強張らせた。
「もう今日は帰りたまえ。私の大事な職員達が君達を送ろう」
その言葉と共に、数名のAFCの職員が部屋に入ってくる。……勿論、卯都木のちょっとした趣向返しのようなものだ。
「ああ、心配するな少年よ。君達の個人情報は既に入手済みだ。だから住所は言わなくても大丈夫さ……安心して帰りたまえ」
くつくつと笑い声をあげて、怯えた顔の生徒達を尻目に彼は部屋を後にした。





2018/7/█


「……あの時は流石に肝が冷えたぞ。あんなやり方は流石に始末書ものだからな」
「なぁに、これ位しないと自分が何をしたのか分からんだろ。中学から高校に入る時期は特に、自身がしている、もしくはした事からわざと目を背けようとする事がある。それを正すのも大人の役目だぜ」
既に4杯目の珈琲をポットからコーヒーカップに注ぎ入れる紫陽は、論を並べ立て嘯いて見せた。
「100歩譲ってそれは良いとしても、脅迫に恫喝…お前はもう少し自分の行動をコントロールすべきだ。まあ、私も当初ここまで大事になるとは思わなかったのは確かだが……」
「へいへい、それはスミマセンね。ま、あのガキどもも少しは分かっただろ。自分が殺しても良いと思っていたのがどういう存在だったのかをな」
そう言いながら煙草に火を付けようとした卯都木のライターを、竜胆が奪い取る。
「吸い過ぎだ、紫陽。話に気分が引きずられるのは分かるが、少し抑えてくれ。私が四音研究員に怒られてしまう」
そこまで言われてようやく、卯都木は3箱持っていた煙草の箱が残り1箱になっている事に気が付いた。
「……分かりましたよ、まったく……吸わなきゃやってられんなあ」
グイッと珈琲を飲み干し、溜息を吐く卯都木。
「まあ、悪い事だらけでは無かっただろう?こういう事もあったからね」
彼を宥めるように言いながら、竜胆はいつの間にか手に持っていた封筒からまた1枚、診断書を取り出した。

患者ID 28034225

患者氏名: 夜舞 █

平成 5 年 6 月 ██ 日 生 19 歳




1.病名及び所見:
奇蹄病。頭頂部に軟骨形成された、イエネコの感覚器官に酷似した外生奇形が生じている。
この奇形には神経が形成されている事が触診によって確認済み、また聴力検査を行った結果通常のネコ科と同じ100000Hz程度まで聞き取れる事が判明。
主な複合症状は耳鳴り、頭痛等。恐らく感覚器官としては不完全であり、また聞き取れる音域が拡張された事により脳に強い負荷が掛かっているものと思われる。またその負荷によるものと、短期間ではあったが奇蹄病患者に対する強い差別感によって多少の鬱状態とノイローゼを引き起こしていた。
少量の投薬と定期的なカウンセリングを行い、また彼女の友人達への理解の促進によって差別問題が解決したため、現在は快方に向かっている。









上記のとおり診断する
2012 年 3 月 12 日

北海道札幌市█条██丁目█番地

北海道財団異常疾患研究・治療センター

医師 卯都木 紫陽


「この案件、覚えているかい?」
「ああ、これか。……これは大分劇的な変化だったやつだよな。色々ぶつかりつつも皆頑張ってくれたから、とても良い結果にすることが出来たんだったか。少なくともさっき話した学校の奴等よりはずっとましな思考回路だったな」
今だ不機嫌な顔でそう言った卯都木にやれやれと首を振り、竜胆は再び彼を宥めにかかった。



2012/3/██


もし認識の違いを彼ら自身で是正させられるなら、後は私達が彼らに対しちょっとした働きかけをすれば良い。
是正が難しくとも、拒絶し傷つけるのではなく、彼等にとって双方が居心地の良い立ち位置を決めるのだと教えれば良い。
完全な和解は無し得ないだろうが、それでも十分な『歩み寄り』にはなるはずだ。勿論、例外もあるが。


「さてさて、夜舞さん……だったかな。何時もきちんとカウンセリングに来てくれるとはね、感心感心。僕も実に嬉しいよ」
にっこりと微笑む卯都木だったが、目の前の少女、夜舞 █はとても不安そうな顔をしている。
……彼は何となく、彼女の不安に察しがついた。
「……そろそろ、学校に通う心の準備は出来たかな?…ああ大丈夫だ、無理に行かせようって訳じゃないさ。ただちょっと意地悪してしまっただけだよ、申し訳ない」
「そう……ですか。すみません……私はまだ……」
…無理は無い。この少女は卯都木の抱える患者の中でも落ち着いた症例の一人だったが、彼女の耳……人間の耳の方ではなく、頭頂部に二つ対称に生えている猫のもののような耳は、思春期の男子が弄るには十分な大きさだった。
「……まあ、この話は後にしておこう。まずは何時もの事だが、耳鳴りや頭痛は……」
目の前の患者の不安感を多少取り除くため、卯都木は簡単な質問から始めることにした。


「うん、大丈夫そうだね。僕達の治療は上手くいっているようだし、健康面は大丈夫そうだ。頭痛も耳鳴りも収まってきたという事は、夜舞さんの体の方が『耳の使い方』を分かってきた感じかな」
にっこりと微笑んだ卯都木を見て、少女は少し安心感を覚えた様だ。
「良かった……。…でも、これで友達からの差別が無くなる訳じゃないですよね……」
しかし、やはりと言うべきか、夜舞はそう言って顔を曇らせる。
彼女の親友は迂闊にも、目の前の少女を強く差別してしまったのだ。それは彼女に深い傷を残し、一時期はノイローゼで精神状態が不安定になっていた時期もある。
また拒絶されるのではないか、傷つけられ、馬鹿にされてしまうのではないか……。と言う不安感は尤もな事だろう。
だが、卯都木は、ゆっくりとそれに首を振った。
「実はね、君に隠していたことがある。
……君の親友と話をしたんだ」
驚いたように顔を上げ、頭の上の耳をぴんと立てる少女。そして、恐る恐る問いかける。
「あの、先生……██さんは、なんて…?」
卯都木は微笑み、その問いに答えた。
「君を拒絶したことを悔いていると。許してもらえないかも知れないが、もし出来るならばもう一度友達になって欲しい、そう言っていた。
それから……君のクラスメイトにも、君の事をきちんと他の職員さんが説明してくれたよ。
皆とても好意的に受け止めてくれたさ。良いクラスメイトを持ったね、夜舞さん」
その言葉に安堵したのか、少女は泣き笑いの表情でくしゃりと、顔を歪めた。

(……ずっと心配だったのだろうな)
患者が幸せそうに診察室を出て行ってから、卯都木は物思いに耽っていた。
彼が同じ年齢の頃はあまり友人を作る性格では無かったのだが、それでも…味方を作るという事がどれだけ難しく、しかし大切な事かを知っていた。
人は残酷だ。自身と違うものを反射的に…時に意図的に攻撃する傾向がある。彼女や、の様な、見た目で判断できてしまうような『理解できない』弱いものは、特に狙われやすい。
味方を、つまり『理解してくれる』友人を作る事は、そういう輩から身を守るためには非常に有効な手だ。
そして彼は、彼女がきっとそれを成し遂げるだろうと確信していた。
「んーッ………ふう……。さて、俺も頑張らないとな。ええと、次の患者は……」
座ったまま伸びをし、彼は何時もの様に、次の患者を診る為の準備をし始めた。


今日最後の面談は、犬系統の変質を持つ奇蹄病の少年と、その母親。
じっと下を向いたままの少年を尻目に、卯都木は母親に問いかける。
「……春佳さん、あれから凍夜君とは上手くいっていますか?」
「…ええ、お陰様で」
半分は嘘だろう。彼の嗅覚は少年の体から打撲傷の匂いがするし、明らかに頑なで諦めたような様子が前回よりも酷い。
しかし……彼が気になったのは、それ以上に酷い母親の打撲痕だった。
「お母さん、嘘は仰らないでください。……前回約束した筈です、何か、特に虐待をしてしまった、若しくはされたのなら、直ぐに私に相談しに来てほしいと。
もう貴女だけで抱えなくても良いのですよ」
そう言った瞬間、目の前の彼女はボロボロと涙を溢れさせ、泣きじゃくり始めた。
「すみません……すみません……ごめんなさい……」
「大丈夫ですよ、貴女は良く頑張りましたからね」
その間、横で座っていた少年が、自ら立って母親の背中をさすってやっていた。

「すみません、少し落ち着きました……」
「どうか無理をなさらず。ゆっくりで良いので、何があったのか説明できますか?
…ああ、この事は誰にも公言しませんよ。約束します」
その言葉を聞いて安心したのか、ゆっくりと話し始めた母親の証言は、果たして彼の予想通りであった。
曰く、父親が反AFC思想の持ち主で、彼女の子供に日々罵倒と暴力を振るっていたらしい。
勿論実家の両親にも助けを求めたが、父親方の方が世間一般に顔の利くタイプで、迂闊に口を出せば何をされるか分からず、結局耐えるしかなかったそうだ。
「……分かりました、これは…そうですね、少々お待ちください」
新しい情報───しかも、これは急を要するタイプのものだ───が手に入って、彼はすぐに保護施設と、それから警察の方へ連絡を入れた。
彼の努力によって…少なくとも北海道内ではだが、警察も奇蹄病が絡む虐待その他の事態にまともな対応をするようになったのは喜ばしい。こう言う案件に対して動きが取りやすくなるからだ。
「ええ、毎度すみません……お願いします。それでは。
お待たせしました。ではですね、春佳さんと凍夜君は一週間程度、保護施設に入っていただきます……」


「紫陽、君がそんなに疲れた顔をするのは珍しいね。随分と重い案件を抱えていたんじゃないかい?」
「うるせえ……」
深夜に這う這うの体で共同部屋に戻った紫陽に、相も変わらずいつ寝ているのか分からない竜胆はホットミルクを渡しながら彼の身を案じた。
短く答えて渡された飲み物をぐいっと飲み干し、長い溜息を吐いてソファに沈む。
「まあ、少しの休息でも、今はゆっくりと休むんだ。紫陽はそれだけの事をしたんだからね」
その言葉に対し、卯都木は少し元気そうにニヤッと彼に笑いかけた。
「…ありがとさん。だけど、俺はミルクがあるならカフェオレにした方が良いと思ってる」
「やれやれ…」
休息時にカフェインを摂取するのは良くないんだけどね、と言いながらも、彼は卯都木の為に粉コーヒーの瓶を取り出した。

睡眠薬を混入させたコーヒーを飲ませ、卯都木が程なくして寝息を立て始めた頃、竜胆はほっ、と一息ついた。
「全く、私の身にもなってくれ……君はもう少し自分の身を案じるべきなのに」
竜胆には最近、彼が少し頑張り過ぎていると感じている。幾らAFCで尚且つ体が丈夫だとは言え、カウンセリングは心の問題だ。当然精神の疲弊は通常よりも取れにくいし、蓄積すれば心を病んでしまう。
しかも最近は仕事で予定をびっちりと埋めているのか、この部屋に帰ってこないことも多い。
……流石に見兼ねた彼は、彼の予定を空けさせて、ある程度の休息期間を設けることにした。
「自分は他人を案じるくせに、自分の事は棚に上げて……全く、誰に似たんだろうね」
寝室から持ってきた毛布を上からかけ、「お休み」と呟いて、竜胆は電気を消した。





2018/7/█


丁度その話を終えたタイミングで、卯都木は煙草の最後の1箱を取り出す。
「……竜胆。そろそろライター返せ」
竜胆が放って寄越したライターで煙草に火をつけ、それを口に咥えて、暫し煙の味を堪能した。
「あれ以来、彼女の精神はしっかりと安定していると聞いたよ。……パフォーマーとしての募集なんかも出てきたし、今の社会も少しずつ、AFCを許容する傾向になっていくだろう。私はそう信じている」
「ああ、そうでなくちゃ俺達の仕事が減らねえからな。もっとも今も減る気配が無いし故意に減らすつもりも無いが」
……そして、唐突に気まずい沈黙が流れる。封筒に入っている最後の1枚は、二人にとって余り話したくない出来事も内包しているものだ。
険しい顔をしながら、竜胆がそっと封筒から中身を取り出す。

患者ID 20992298

患者氏名: 八ヶ谷 ██

平成 元 年 6 月 █ 日 生 24 歳




1.病名及び所見:
奇蹄病。身体がドブネズミ様に変化している。
身体の一般的な構造は人間を基礎としているが、頭部や皮膚構造の形質変化(頭部構造の完全な変質、体毛の形成)、また人体には通常存在しない尻尾の形成が主な症状である。これらは幾つかの検査をした結果器官としての機能は完璧に保全されており、また形質変化先であるドブネズミの特性も保持しているというレアケースである事が判明した。
生理的な健康状態は良く、健康診断の結果も形質変化による多少の影響はありつつもほぼ平均値以内であるが、体重が平均を大きく下回っている。
また、その容姿と「鼠だから近づかない方が良い、万年発情期だから襲われるぞ」「ドブネズミだから残飯でも生きていけるに違いない」等の偏見に基づいた噂が多数流布されている影響から、周囲の人物に執拗かつ苛烈な精神的・肉体的暴行を受けている。診断中も情緒が不安定で、典型的な重度の鬱症状に加え、顕著な自傷癖・自殺衝動が見受けられた。
今後の精神状態の変化と噂の流布の状況を鑑み、財団にて専用の居住スペース、及び財団サイトでの事務作業を与える事を提案。本人は承諾し、現在は定期的なカウンセリングを受けつつ堅実に職務をこなしている。
本能変化率は許容範囲内である為、現在の所、発情抑制剤の処方以外の処置は不要である。









上記のとおり診断する
2010 年 7 月 20 日

北海道札幌市█条██丁目█番地

北海道財団異常疾患研究・治療センター

医師 卯都木 紫陽


「……嫌だね、本当に。あの件を思い出しちまう」
峯川狂暴惨殺事件の事だろう?…診断書のこの人はすんでの所で診る事が出来たけども、それでも今なおギリギリだ。それに全ての患者にはカウンセリングが欠かせない。壊れかけた精神は戻せても『本能』まで人間に戻すことは出来ないからね」
木鉢に入っていたクッキーの最後の一枚を摘まみ上げ、竜胆は独り言ちる。



2017/9/██


奇蹄病に罹患した患者には、共通する後遺症がある。
精神に多大な負荷が掛かるなどの条件を満たした場合、形質変化先の動物に近い本能、あるいは欲求が顕在化する現象を抱える。私達はこれを獣変化欲求障害3と呼んだ。
どの患者も変わりなく、現在の所治療法は定期的なカウンセリングと抑制剤の処方のみ。これは医療関係の人的リソースを慢性的に枯渇させる要因の一つとなり、社会問題となっている。その為初めての患者が発生してから、ずっと治療法の研究を続けているが……突破口は見えない。
一度顕在化した『本能/欲求』は、抑制する事は出来ても消滅させることは出来ない。
そしてそう、それが肉食動物、若しくは雑食動物の特徴を抱えた患者であれば、何が起こるかは明白だろう。
……私達は彼等を止めなければならなかった。


限界集落だった██村。高齢者の数がとても多かったこの村は、今や人の気配が殆ど無いに等しい不気味な空間と化していた。
多数の機動部隊員に見守られている中、念のため簡易的な反ミーム結界で一時避難所を覆い、竜胆と卯都木、そして彼らの配下は短い休息を取っていた。
「部隊長、今の状況を……ああ大丈夫、ゆっくりで良い。卯都木が応急処置をしている間に教えてくれ。何があった?」
黒金 早霧という名前の黒い耳と尻尾を持つ犬のアニマリーである彼は竜胆が一目置く剣術の天才ではあったが、精神的な弱者に優しすぎるという戦闘に於いては致命的な弱点を抱えている。今回もまた、それに引き摺られ自身の腕を完全には発揮できなかったのだろう。
「申し訳ありません、相手の事を案じて思考を取られてしまった時に軽く負傷してしまい、その後はずるずると一方的な展開を強いられてしまって……」
黒金はしょんぼりとした様子で竜胆に対し謝罪するが、彼は責めるつもりなどないと言うように頭を撫でた。
「大丈夫だ、君は良くやってくれたよ。少なくとも私達が来るまでは持ちこたえてくれただろう?」
「…よし、神経も繋いでおいた。一応は大丈夫だがこれ以上の戦闘は無理だろうな。俺達は様子見で出るから、30分して帰ってこなかったら自分達だけでも撤退しろ。良いな?」
「じ、自分はまだ戦え……ウウッ…!」
慌てて体を起こそうとしたのだろうが、黒金は足からの痛みをまともに受け、顔をしかめて唸り声を出す。
「ほら、無理しないでくれ……君の足は君の剣術に必要な要素だろう?安静にしているんだ。
水月さん、白羽さん、援護を頼む。外にはもう制圧部隊が待機しているが、無理はしないように。気分が悪くなったり負傷したらすぐに戻るんだ、良いね?」
「わ…分かりました。」
「ほら、白羽さん。しっかりしてください、私達の上司がやられたら仕事無くなっちゃうかもしれないんですからね。
……今は我慢です。一緒に頑張りましょう」
垂れ下がった耳を持つアニマリーで音響索敵に一日の長がある月宮徹が、名前の通り白い羽を持ちアニマリーの目視索敵に強い白羽淑香を優しくたしなめ、少しだけ場を和やかにした。


村の集会場に近づくにつれ、嫌な雰囲気が少しずつ濃くなっていく。
卯都木と竜胆、それに白羽と月宮は、その元凶が居るであろう場所にゆっくりとした足取りで接近を試みていた。
「……卯都木、これは不味い予感がする」
「何だ」
彼の経験上、非常に危険な場所でない限り竜胆がそんな言い方をする事は無かったはずだ。
念のため、卯都木は彼にそれを問いただそうとした。……その時、彼はちらりと集会場に赤い目を見た。
「っ……二人共、撤退だ!」
先天的AFCである彼自身の『本能』が警鐘を掻き鳴らし、それに従った二人が急いで元来た道を引き返し始め……

凶悪な『捕食者』の視線が、卯都木を貫いて一瞬思考を放棄させる。

はっと気が付いた瞬間には、彼の目の前に血で汚れた牙が迫っていた。

「うおっ……!」
「卯都木!」
とっさに身をよじって回避し護身用の銃を構えるが、一目見た瞬間そんな玩具では歯が立たないと直感する。
「何だこれ……」
動きから察するに10代前半だが、体格はそれよりも十数歳分の差が出来ている。体の劇的な変化に振り回されているのは確かだが、それも時間が解決してしまうだろう。
そして人間の胴と虎のような四肢に頭を持つそれは、明らかに『飢えていた』。
周りには大小様々な人や獣の骨。一体どれだけの『犠牲者』を喰らってきたのかは分からないが、恐らくはこの村以外からも引っ張ってきたのではないだろうか。
『卯都木、急げ……二人を連れて下がるんだ。足手纏いを抱えてこういう存在を相手するのは難しい』
念のためと装着しておいた骨伝導スピーカーから、竜胆の指示が聞こえる。
「何言ってやがる!お前、幾ら竜族だからって…それに」
『『あれ』は奇蹄病の患者だ。お前にも分かっているだろう……この子を助けることは出来ない。良くて介錯してやるのが関の山だ』

……分かっていた。
目の前の『これ』は彼の担当では無かったが、奇蹄病患者であることは同じだった。
カルテでは知っているが、対面したことは無い、とても不安定な子供。母親に連れられて来た時も、痩せ細り不安そうな顔で、職員達を警戒していたという。
突然音信不通になったという話を聞いた後、その付近で行方不明者が出始めたのは、およそ半年も後の事だ。
村八分にされて隔離され、まともな食事すら与えられず、正に『獣のような』生活を強いられた子。

「だから、卯都木……今はお前の為に下がれ。こういう役目を引き受けるのは、私で十分なんだ」
『おい、竜胆…りんど』
通信を切り、腰に差した刀に手を添える。
果たして…明確な殺意を以て、その『少年』は竜胆に襲い掛かった。

「さて…」
飛び掛かかってきた相手の腹を蹴り上げて停滞させ、相手の手を刀で払う。
どうやったのかは分からないが空中でそれを回避して見せた敵は少し離れた場所に着地し、ぶんっと再度突進を敢行する。
「私は君を殺さねばならない」
それをステップで回避するが、赤黒く染まる毛並をなびかせ少年は竜胆に高速で追従する。そのまま筋骨隆々の腕を叩きつける……が、突如地面から生えた土の壁が目くらましと防御を同時に行い、竜胆の姿を見失わせた。
「幾ら可哀想だとしても、これ以上の死者を出させる訳にはいかない」
ひゅん、と白銀の閃光が煌めくと同時に、血しぶきと共に突如少年の左腕が斬り飛ばされる。
しかし彼は止まらない。手負いの獣の如く、目の前の脅威に必死で牙を剝き、華奢な白鱗を体ごと散り砕かんと右腕が迫る。

「すまない……君の魂が救われることを、私は祈っている」
ぴたっ、と、少年だった獣の動きが止まり…その瞬間、少年の右腕もずるりと切断面を露わにし、地に落ちる。
心臓を貫いていた刀を抜き、鞘に納め、崩れ落ちる獣の骸を眺めながら、竜胆はそう、呟いた。
永遠に続いたであろう飢えと絶望から解放された死に顔は、とても安らかなものだった。





2018/7/█


「んじゃあ、俺はそろそろ仕事場に戻るぞ。……ありがとうな、竜胆。こんな話に付き合ってくれてさ」
「大丈夫さ、話を聞くのも私の仕事の一環であるんだからね。でもまあ…くれぐれも無理しないでくれよ」
卯都木に微笑む竜胆に対し「また今度来るぜ」と予告して、卯都木は研究室を出て行った。


「……本当に、無理はしないでくれ。君は私ほど丈夫じゃないんだ」
彼の身を案じるように、竜胆は呟く。
彼にはまだ知られていないが、竜胆は彼が知らない、完全に狂ってしまった患者の殆どを『介錯』した。
勿論、治療法が確定するまで昔の財団の様に収容する事は出来るだろう。……だがその過程でどれだけの犠牲が出るのかを考えると、やはり人的資源を湯水のように使っていた以前のようにはいかないのだと痛感させられる。
「私がここで立ち止まってしまっては君を含めた周囲の人達に迷惑がかかってしまう。……私はまだ、歩みを止める訳にはいかないんだよ」
彼は誰に聞かせるでもなく、その言葉を吐き出した。



「無理しているのはどっちの方なんだろうな、ホント」
廊下を歩きながら、卯都木は独りため息を吐く。
彼は知っていた。竜胆があの見た目からは想像も付かない程途方もない量の覚悟と後悔を背負ってきていることを。
経緯は知らない。どれだけの経験を積んできたのかも大まかにしか分からない。彼と同じ経験をした訳では無いからだ。
だからこそ、彼は再び決意を固めた。
「あいつのように命を背負わなきゃいけない奴らの負担を少しでも軽くするのが、俺達の役目だ。
だから、頼む……見ていてくれ、たった一人の俺の弟よ」
ぎゅっと、首にかけていた牙の簡素なネックレスを握りしめる。
卯都木の弟は、奇蹄病による後天的AFCだった。だが彼の弟は凶悪な差別に身を捩り、そして獣と化し、彼の弟が懇願した通り卯都木が自身の手で眠らせた。その結果がこれだ。
彼は過去に誰も救えなかった。だが今なら、あるいは出来るかもしれない。
「俺は負けない。必ず彼等を救って見せる」
自身を鼓舞するように、そして今はここに居ない者に誓いを立てるように、卯都木は決意を秘めた声で呟いた。
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