古傷を抉る
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一度くしゃくしゃに丸めてしまった紙は、二度と元の真っ新な状態には戻らない。これは人と人の間でも同じことだ。一度拗れてしまった関係を直すのには途方もない時間がかかり、直ったとしても過去の拗れは一生消えない折り目として残り続ける。それなのに、なぜ奴は今更その折り目を一生懸命伸ばそうとしているのか — 飛騨 彰はそんなことを考えながら、古びた喫茶店でブラックコーヒーを飲んでいた。

彼には14時から人と会う予定があった。しかも、相手は5年ぶりに会う親友 — いや、親友だった男と言った方が正確か — のため、緊張のあまり待ち合わせの時間より30分も早く着いてしまった。その間も彼の喉の渇きは癒えず、既にコーヒーを2杯飲み干していた。

13時55分、ドアベルの澄んだ音が店内に響いた。

「よう、飛騨クン。もう着いてたんだね」

「お、おう」

凍霧 陽。相変わらず気持ち悪い笑みを浮かべている。

「コーヒー1つ、お願いします」

「あ、俺もおかわりを……」

注文を終えるや否や、凍霧が話を切り出した。

「どう? この喫茶店。僕の知り合いがやってるんだけど、なかなか良い雰囲気じゃない?」

飛騨は目の前の男とまだまともに目を合わせることができなかった。それにしても、奴の快活さはどこから来るのだろう、5年前のわだかまりなど何処かへ消えてしまったのだろうか、などと考えながら、小さく低い声で呟いた。

「……で、用件はなんだよ」

「用件?」

「用件だよ。まさか何もないのに連絡をよこしてきたわけじゃないだろ」

「ああ、そうだそうだ。少し大切な話があってね……」

ぶっきらぼうな飛騨を目の前に、凍霧の調子は少しも変わっていない。

「飛騨クン、日生創に戻る気はないか?」

「はぁ!? マジで言ってんのか、お前」

「ああ、君の力が必要なんだ」

「何かと思えばそんな話か。そんなの、考えるまでもなくお断りだ」

飛騨は椅子にかけてあったコートを手に取って羽織り始める。凍霧が慌てて止めに入る。

「ちょっと待ってくれ、話はまだ途中だ。せめて最後まで聞いてくれないか」

「……わかったよ。でも聞くだけだからな」

飛騨は大きな溜め息をつき、もう一度コートを椅子にかけ、ちょうどやってきたコーヒーを1口飲んだ。凍霧もコーヒーを1口飲むと、カバンから10枚をゆうに越える資料を取り出し、悠長に話し始めた。

「日生創は今、慢性的な人手不足の状況にある。中でもヒト科研は深刻で、ヒトを実験動物として用いる性質上、その精神的負担から志望する人間が少ない。君もよく知っているだろう?」

「とうに知っているよそんなこと。まさか埋め合わせのために俺に入れと?」

「そんなに単純じゃない。君じゃないといけないちゃんとした理由があるんだ」

凍霧が資料をめくる。

「先日の異常生物学会に行った時、ある発表を見てとても感銘を受けた。ヒトに代わる新たな実験動物の開発についての発表だ。これをうまく発展させれば、研究のクオリティを維持しつつ研究者の心理的負担も軽減でき、人手不足の解消にも繋がる素晴らしい代物だ」

飛騨は何かを察し、唾を飲む。凍霧が声のトーンを1段階下げる。

「そしてそのスライドには共同研究者として、飛騨クン、君の名前があった」

凍霧が不気味な笑みを浮かべて、俯いた飛騨を見つめる。

「君が元気にやっているようで安心したよ。てっきり、研究はやめるとばかり思っていたからね」


そもそも飛騨は異常科学を志して日生創に入ったわけではなかった。飛騨は大学では成績こそ優秀だったものの、良い研究テーマに巡り会えなかったことが原因で、大きな実績を残せないまま博士課程を終了した。その後、ポストドクターとして非正規で職場を転々としていたところ、正規雇用者として拾ってくれたのが日生創だった。当時の彼はとにかく非正規雇用を脱却したい想いが強く、たとえ異常科学であっても定職につける方が重要だったのだ。

日生創での飛騨は、水を得た魚のようにポンポンと実績を残していき、研究所内でも期待の新人ともてはやされた。彼は最初こそ研究所の倫理観に疑問を抱いていたが、それまでに居場所のない日々を送っていた飛騨にとって、これほどまでに活躍でき、自分を認めてくれる場があるという事実の前では、それらの問題は些細なことだった。

凍霧は飛騨の同期であった。飛騨とは違い、異常科学に純粋な好奇心を持って取り組んでいた。しかし当時の彼は今のように明るくなく、研究所内でもすぐに同僚の輪から外されたため、飛騨の記憶に強く残る人物ではなかった。しかし、ほとんど笑顔を見せることがなかった凍霧が顔に笑みを浮かべ始めたあの日から、破竹の勢いで実績を積み重ねていった。

それから、凍霧は当時同じように勢いのあった飛騨と打ち解け、いくつもの共同研究を行った。しかし、研究計画を立てるのも、論文の第一著者もほとんどが凍霧であった。飛騨は常に凍霧のサポートに回り、周囲の目は飛騨から凍霧に向かうようになった。元々実力が下だと思っていた同期にとてつもない勢いで抜かされるのを実感した飛騨は、自分の無力さを思い知り、次第に塞ぎ込むようになっていった。

凍霧は飛騨のことを相当気に入っていたようで、常に飛騨の精神状態を心配していた。しかし、それが飛騨にとってどれだけ惨めだったかは言うまでもないだろう。ある日、日頃の鬱憤が爆発した飛騨は、凍霧に暴力を振るってしまった。飛騨はその時のことについてあまり詳しく覚えていない、ただ、1発ではなく、執拗に何度も攻撃したことだけは覚えている。当然そのような行為が許されるわけもなく、居場所がなくなった飛騨は自主退職を選んだ。

十分な実績を積んだつもりだったので、転職は苦労しないだろうと高をくくっていた飛騨だったが、異常科学研究者の経歴を出したところで評価してくれる企業はほとんど無く、門前払いを食らう一方だった — 唯一、とある製薬会社を除いては。

その製薬会社は決して大きな企業ではなかったが、業界ではよく名が知れており、一般向けにも多くの非異常薬剤を販売していた。飛騨もその情報を信じて就職したが、実際に飛騨が配属されたのは異常な実験動物の研究施設であり、彼が前職で培ったノウハウを存分に活かせる場所であった。しかし、飛騨は入社を躊躇することはなかった。ここなら自分の能力を適切に評価してくれて、以前のようにリーダーシップを執ることができると思ったからだ。

ところが、その希望もたやすく崩れ去ることとなる。研究所は年功序列であり、飛騨は研究所長の言われるがままに実験・解析を行うだけのロボットと化していた。結局、彼は日生創時代晩年と同じような研究生活を送る羽目になってしまったのだ。


「正直、あの会社での君の評価は適切ではないと思っている。やっぱり、君はいつまでもあそこで燻っているべき人間じゃないんだよ。前と違って、日生創からはそれなりのポストと金の用意がある。決して悪い話ではないと思うんだが」

数十秒の沈黙が、喫茶店を支配した。

「……君はやっぱり、あの時のことを気にしているんだね。大丈夫、僕は許すよ」

「違うんだ」

飛騨が重い口を開ける。

「別に、あのときのことが後ろめたくて黙ってるんじゃない。ただ、もう無理なんだよ。俺はお前の下と会社の下ですっかり骨抜きになっちまった。もう、若かった頃のように研究を引っ張っていく力は残っていない。今更いいポストを用意されたって、どうせそのうち化けの皮が剥がれるさ」

凍霧の表情が曇る。

「お前だってそう思っていたはずだろ? 俺のこと。所詮1人では何もできないやつだって。俺なんかいなくても良かったんだよ。お前1人でも十分 — 」

「ちょっと待ってくれ」

凍霧がいつになく真剣な顔で飛騨を見つめる。

「確かに、僕は君のプライドを傷つけたかもしれない。ただ、君がいなくても良かったなんて、1回も思ったことはない。君のデータ解析は完璧だったし、いつも僕に研究のインスピレーションを与えてくれた。今の僕がいるのは間違いなく君のおかげなんだ。君が自分の人生を否定することは、僕の人生も否定することなんだよ。別に誘いは断ってくれて構わない。ただ、それだけはわかってくれ」

ここまで聞いて、飛騨の頭の中で何かが切れる音がした。

「……昔から変わらねぇな」

「何が?」

「俺のプライドをさんざん踏みにじっておいて、いつまでも理解者ヅラしやがって。お前はいつも上から話しやがる。大した挫折も味わってないくせに、お前に俺の何がわかるっていうんだ!」

しかし、飛騨の剣幕に凍霧は全く動じない。

「お前のその上辺だけで塗り固められた顔を見てると虫唾が走ってきやがる。どうせお前はお人好しだろうから、俺が反省してるとでも思ってたんだろ。違うね、あの時と同じクズ野郎のまんまだよ!」

飛騨の手が凍霧の胸ぐらに伸びる。直後、飛騨の背中を強烈な電流が走った。

「がっ…!?」

「やれやれ、その自虐も被害妄想も、変わってないのはお互い様だね」

飛騨の背後には、スタンガンを持った喫茶店の店員が立っていた。

「駐車場に研究員が車を止めてあるから、鎮静剤を投与したらそこまで運んでくれ。尋問はこちらで行う」

店員は慣れた手付きで飛騨に静脈注射を行い、店の外まで担いでいった。

「上辺だけ、か……別に嘘をついてたつもりはなかったんだけどな。君は優秀だったよ、道具としてだけど」






追加情報1078-JP: ████製薬の研究所に残されたパソコンのデータを復元したところ、オブジェクトが発見される1ヶ月前に、研究メンバーであった飛騨 彰という人物が行方不明になっていることが判明しました。パソコンには飛騨の名義で多くのファイルが残されており、その中には、既存のものとは異なる非常に高度な方法でゲノムデータ解析を行っていたと思われるソフトウェアも存在しました。SCP-1078-JP-01の実験利用が間近に控えていたにもかかわらず、最後の1ヶ月間に大きな進展がなかったのは、これらのファイルを扱える人物が存在しなくなったことが、研究計画に混乱をもたらしたためであると推測されます。

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