花籠シンドローム!
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2022年

花籠学園の校則の第一条は「独立自尊の精神を育みこの超常的な力が求められる現代で貢献できるような人間を養成する」だ。ヴェールの崩壊はあまりにも多すぎる被害を齎したが、その一方でこのような早すぎる適応を果たすものたちもいる。やはりこれからの時代に求められているのは超常技術への理解とそれを扱えることなのだ。それを考えれば花籠学園の学園長、ユリヤ・パヴロウナ・クルゥブニーカの慧眼はまさしく正しかったと言えるだろう。

春のこの麗かで桜が舞い散るこの季節には、こないだまで中学生であったばかりの子らがまだ身の丈に合わない制服に袖を通している。そんなありとあらゆる物語の始まりを感じさせる季節が春だといえるだろう。生徒たちの群衆は毎日のようにモノレールに乗り、校門を潜り、授業を受けている。そうしていくうちに彼らはこの学園に馴染んでいくのだ。まさにこの話は新入生徒が学園に馴染んできたその時分であった。

さて、僕が今ここにいるのは半年に一度の委員長会議の会場だ。この独立自尊の精神を育むとされているこの花籠学園では生徒たちがやらなければいけない仕事が存外に多く、学園内におけるさまざまな業務が生徒たちに任されている。良く言えば「生徒たちを信じている」、悪く言えば「放任」とも呼べるその教育システムは、学園内でいくつかの揉め事が起こる原因ともなっているが、実際に生徒らの業務遂行能力が培われていたり、これまでにない独創的なアイデアに基づく研究が行われるなど、大きな成果を残している。特に後者は重要なことだ。現状超常技術の世界は未開拓な部分が多い。そのため、新しい分野や領域が次々に開発されていって、僕らでも十分に介入する余地があった。

この委員長会議では話し合いを行わなければいけないことがたくさんあった。例えば学園内における素行不良生徒の増加だ。ここ花籠学園では生半可な枠には当てはまらない人間が多い。いま錚々たる委員長たちの視線を集めて立つ、制服をきっちりきっかりと着こなした女子生徒は、我らが生徒会長の神奈川生徒会長である。

「年々増え続ける素行不良生徒!先輩たちから受け継いだ私たちのこの業務が、いま信用を失っていると言っても過言ではないのです。こんなんじゃ先代生徒会長に顔向けできません……」
「というわけで、今日は各委員会の皆様に現状たくさん生じていると言われている事件について報告してもらいます」

ああ、そういえば一人称で語っておきながら僕自身の紹介をしていなかった。僕は網竹爽。放送委員会に入ることになった一年生だが、何でぺーぺーの一年生がここにいるのかと言うと、本来放送委員会の代表として来る予定だった副委員長が、肝心なところで風邪をひきでることができなくなってしまったからだった。他に来る人はいなかったのかという疑問はあるにはあるが、まあそこは誰だっていいことだったのだろう。何せ副委員長が本来持っていた役割というのが、委員長の「端末」を持って移動することだったのだから。

放送委員会の委員長で有らせられる水夜礼‪ひな‬委員長は端末から出てこないとんでもないタイプの引きこもりだ。端末から出てこないなんて聞くとなかなかにショッキングな人間性をしていると思う。実際そうだ。端末から出てこないのは彼女がアニメのキャラクターだとかそういうわけではない。意思を持った電子生命体というわけでもない。少なくともそういう理由ではないことは伝え聞いている。水夜礼鄙が実在する人物であるというのは、紛れもない事実ではあるのだ。何の理由でわざわざモーションキャプチャーでアニメのキャラクターのフリをして生活をしているのかわからないが、今のところそれで問題があるようなことはなかったと思う。普段端末を持ち歩いている酒々副委員長はそう言っていた。

水夜礼委員長のキャラクターは赤い髪の何とも現実離れした姿をしている。服装はきちんと(?)校則に則って制服を着ているが、髪は身長ほどあるポニーテールで、画面の中を自由に動き、今そうしてるように適切なオブジェクトを出して周りの人々振る舞いに合わせようとする。ここでは皆がパイプ椅子にすわっているわけだが、画面の中の水夜礼委員長もそうしているわけだ。

「委員長。委員長は何でこっちにやってこないんですか?」
「面白いこと言うね。爽君。もしこの世が外に出歩けない世の中になってたら私のライフスタイルは尊敬されることだろうな」
「そんなことはありませんよ。出歩けない世の中ってなんですか。それとも委員長は大手を振って出歩けない脛に傷を持つ人間なんですか?」
「そんなこといっちゃいけないよ。本当に私が外を出歩けないような人間だったらどうするんだ」
「じゃあ何なんですか?画面の中の女の子は」
「これは純然たる趣味だよ、誰だって美形でいたいと思うものだからね。私は人類の最先端を行く存在なのだよ。見たまえこの赤い髪を。カワイイだ。わかるかな」
「はあ。僕はその手の流行には疎いですが。確かにそのような文化はあるみたいですね」
「そうだよ。君はVtuberを知らないのかい」

画面の中の赤い髪をした少女は活発に動く。僕が少しおどけたことを言うと手を後ろ側に振り上げてツッコミを入れてくれるのだ。それはやたらとコミカルで、学校の先輩と話していることを忘れさせてくれる。

園芸委員会の委員長、花宴向日葵は「はいはい!」と言って立ち上がった。

──植物の天才。花宴委員長を知る大人たちは極めて厳粛な顔でそう答えた。植物工学は"庭"の発明とともに著しく発展を遂げてきたが、彼女はその知識をスポンジの如く吸収している。否、それ以上に自分の知識を昇華して最高のものを生み出そうとしている。

また、単純にここで園芸委員会といっても普通想像するような業務とはかなり違うことは注意しておかねばならない。花籠学園の敷地は僕たちが通う校舎の部分とその全体の領域の大半を占める広大な"庭"によって成り立っている。"庭"は正式には「ガーデンシステム」とも呼び、植物の分散的な知性を生物学的な改変によって操作可能にし、まるでコンピュータのように扱うことを可能にしたものだ。学園内のシステムはこれによって操作されている。故にそれを扱う園芸委員会は花籠学園に重大な職務を持つ委員会といっても過言ではないのであった。

「ところで、我々の学園を覆うガーデンシステム……所謂"庭"が社会においてどのような方法で応用されているのかは知っているかな?」
「はあ、今ここでそれを説明します?」
「いいんだよ。君は理系だから物事の原理ばかりに関心を払っているのかもしれないが、その技術をどう利用していくかというのも重要だぜ」
「それ、理系差別ですよ。むしろ理系の方がそういうことを考えてます」
「君の話をしてるんだよ。顔見たらわかるよ。君はそういうところに疎いね」
「では僕が浅学ながらも応用に関心があることを証明してみせます」
「なら質問だ。ガーデンシステムはどのような場所で応用されてる?」

「はい」僕は自信満々にこう答えた。

「…まずガーデンシステムは分散的な思考を持つ植物による多用性不滅資源です。悪魔工学によっていくつかの用途に使い分けられますが、代表的なものとしては計算資源としてのものが挙げられるでしょう。例えば室内の濃密なモニタリングだとかに使えます。センサーですね。どういう風に人が動いているかを判断したりして空調に役立てたりします」

「あるいは、医療の分野で使用されることが期待されています。高性能な身体のスキャニング。脳の部分的なデータ化。まだまだありますが、ここではこれくらいに留めておきましょう」
「……まあそれくらいだな」
チッ
「やるじゃないか君も」
「なんか今わざわざ音声を小さくして舌打ちをした様に聞こえたんですけど」
「何を言うんだ。勘違いじゃないか?」

……完全に馬鹿にされている。そんなことを端末としゃべっていたら神奈川生徒会長に睨まれてしまった。そろそろ花宴委員長の話に戻ろう。

あらゆる植物を育て、花を咲かせ、実を結ばせた彼女は、植物の心理さえも熟知し、思うがままに扱えるのだと言う。事実、彼女は植物計算フォーラム2020年で優勝している。この大会は数学の難関な問題を"庭"に計算させるというものだ。花宴向日葵はそこで信仰に関するある難問の存在を予測してみせた。浅学な僕には何度聴いてもわからないけど、噂に聞いた複雑怪奇なその内容を数学的な内容に注目して言うならば、グレアム胞と現実胞を用いてモハメド積が計算可能であることを示した、らしい。

その仰々しく華々しい成果に反して、彼女自身は普通の女子高生とあまり変わらない姿と性格をしていたし、水夜礼委員長に言わせれば「あまり知性を感じさせない」喋り方をする。ブレザーを着ないで着崩した制服。学園の服飾規定はそこまで厳しいものではない。これは十分に許容範囲内だ。パーカーを脱いだのか腰に巻いていて、スカートはここにいる委員長たちの中で1番短い。シュシュで髪はポニーテールにしているが、水夜礼委員長よりかは(当然かもしれないが)短い。いわゆるギャルというやつなのかもしれない。喋り方は抑揚が激しく、語尾が間延びしている。例えばこんな風に。

「園芸委員会が所有してる"庭"なんですが〜〜〜〜こないだ大きな落雷があったじゃないですかぁ。あれのせいで若干システムが止まっちゃったんですよお」
「エレベーターが一瞬使えなくなったり電気が止まったりしたのもあれのせいです。ごめんなさい」

季節外れもいいところだが、先日は確かに酷い落雷があった。花籠学園のシステムは広大な"庭"の領域によって制御されているのでこんなこともある。とはいえ、植物はより"分散的"で非常に冗長性が高い為、かなり強い衝撃がないとここまでのことは起きない。

「原因については目下調査中です〜〜」

「わかりました。では復旧が終わったら報告書を提出してください。あと、昨年度の予算決済がまだ園芸委員会だけ終わっていないので、早く何とかしてください」

花宴委員長がこれを注意されるのは2回目である。

「そういえば」と今度は保健委員会の仁賀保麻耶委員長。彼女も服飾規定を守ってない。とはいえ仁賀保委員長のそれは仕事用だ。仁賀保委員長は古くから伝わる疫神退治の一族の末裔と言われている。この辺は複雑な事情があるので省略させてもらうが、とにかく保健委員会にはあまり向いていない人間であることは覚えてもらいたい。彼女が本当に得意なのは人を病気に感染させることで、治すことではない。しかし、保健委員会の職務はしっかりやっているようだった。その証拠かどうかはわからないが、腕には痛々しい傷の跡と包帯が見える。きっと自傷的なものではないだろう。

「こないだの乱闘事件。我々にはどうしようもないですよ。傷跡が深すぎます。未だ料理部が作ったケーキの霊が還ってきてないんですよ」
「あー……あの事件は凄まじかったね」

と花宴委員長も同意する。

「ハハ。アレは結局誰が悪かったんだい?料理部の魔術麵麭が何かの魂を呼び覚ましたところまで覚えてるんだけど」
「いや、まあ、はい。もうこの話やめません?本当に皆傷だらけで、先生たちが出張って来なかったら負けてましたよ」

「ははは、治療対象が増えて嬉しいんじゃなかったんですか、仁賀保さん」

という風に煽っているのは風紀委員会の四万十‪静寂しじま‬委員長だ。風紀委員会だけは他の委員会とわけが違って、生徒会すらも取り締まる役割だ。それだけに自分にも他人にも厳しい四万十委員長が選ばれた。

「あなたの治療方法はおぞましいんですよ。肉の工芸でいちいち治療される側の身にもなってください」
「正確には違います。仁賀保はナルカの術をあんまし使えませんしー」
「いや、あれは絶対サーキックですよね」
「はあ。教員の犬風情が宗教差別するんですか。あーもうやめちゃいますよこの仕事。私以外こんなことできる人いないのになー」
「あなたはあの治療法をマジで世界に普及させようとしてません?」
「医療というモノがわからんやつだ……」

それは委員会同士の仲の悪さを象徴するようでもあった。そう。素行不良生徒がどうとか言う前にそもそも委員長同士が仲良くないのであった。

「まずいぞ爽君。これではこの会議自体がおじゃんになりかねない。喧嘩が始まるぞ。この端末を持って部屋から出てくれないか?」
「しかし、先輩。この会議はどうなってしまうんでしょう。放送委員会も言っておくべきことありましたよね」
「もういいさ。必要なことは生徒会長に直接言うしな。ではレッツゴー」

画面の中の赤髪の少女は、か細い腕を振り下げて合図を出した。



2022年

まだ7月の中旬だというのに誰だって項垂れるような暑さがそこにあった。ヴェールの崩壊は様々な異常現象を引き起こしたが、この暑さはあまり変わらないらしい。ヴェール崩壊前のことなんて知らないから伝聞形になるのだけれども。

「今年は暑いからね〜〜〜〜早めに摘んでおかなきゃって思って。これも"庭"の維持に大事なことで〜言うなれば"庭"の最適化をしているんだ〜〜」

僕は酒々委員長と端末の中にいる水夜礼委員長と供に園芸委員会が管理する"庭"に取材に来ていた。放送委員会には各委員会の仕事をまとめて映像なり新聞なり何なりに纏めて公開するという仕事があるのだが、これはまさしくその仕事の一環であった。目の前にはキイチゴが実り、花宴委員長はそれを鋏で1つ1つ収穫している。

「これ全部木苺なんですかね?僕は植物のことなんてあまり詳しくはないのですが、どうやら種類を異にするように見えます」
「ふっふ〜お目が高い。そうだよ。その通りだよ。"庭"は種類が多様であればあるほど良いものだからね。ここら辺はぜ〜んぶキイチゴに揃えてるけど、1人1人個性があるよね」

彼女は脚立から降りて移動する。あたり一面が植物に覆われた"庭"の管理区画のごく一部は単純に森とも林ともつかないような特別な空間だった。強いて言うならばそれは"庭"だろうか。この単語がガーデンシステムを表すものとして使われ始めて長い時間が経っているが、この場合本当にそれは庭のようであったのだ。真っ白い柵がありそれは内と外を区切っていて、柵の内側にはごく小規模であるが管理のための小さな物置であると言う小屋があった。柵の内側が木苺によって構成されている庭であるのと同じように、外側はまた別の植生が展開されていて、明確にそれらは区別されているようだった。

「どう?この子はミヤマニガイチゴ、Rubus koehneanus〜あの子はRubus hawaiensis〜あーこの子には和名がないかな。ハワイから特別にやってきた子で、なんだかんだこっちの暮らし始めてから5年くらい経ってるよ。あっちに居るヨーロッパキイチゴ、Rubus idaeusは実がなってるから食べれるよ」

「ははは!しかし生憎私はこのような体だからな。まあ爽君と酒々君は食べてくれたまえよ」

木苺は爽やかな初夏の味がした。

「それで……僕たちも花宴委員長の業績については聞き及んでいます。学園のガーデンシステムを一手に管理するその手腕とあの植物計算フォーラムで発表された結果、どれをとっても凄いとしかいいようがありません」
「はは〜、別に一手に引き受けてないよ。園芸委員会の子たちもいっぱいがんばってくれてるし〜」
「あの成果も凄いですよね。僕には何も分からなくて」
「ん〜そうだね。彼女は私の子供たちの中でも突出した傑作だよ。せっかくだし見ていく?」

花宴委員長は"庭"のことに1つ1つ愛着持って接していて、あの子やこの子と呼ぶ。

「それはお願いさせてくれ花宴殿。私たちは学園の秘鍵に興味津々でね。全校生徒に公開しないと気がすまないんだ。ところで花宴殿。企業秘密とかはないのかな」
「それを聞いてもね〜〜あんましわかんないと思うよ〜」
「それは全校生徒に公開しても同じことかい?」
「私は懇切丁寧に説明するよ〜でもわかってくれる人はいないよね。うう、私は草花の気持ちがわかるんだよ。比喩でも何でもなく、そうとしか言えない事実としてそうなんだよ」
「植物たちと一体どんな話をしていると言うんだね?私にはまるっきり見当もつかないが」

僕も水夜礼委員長がアニメキャラでいることについて何故なのかまるで見当もつかない。花宴委員長も十分に感覚的で天才で言ってしまえば変人でもあるわけだが、変人は他人の奇妙さを理解できないのか、一般人である僕からしたら同じように変なことをやっているように見えるけれども、2人の相互理解度には大きな乖離があるらしい。

「じゃあ順番に説明するよ〜こっち来てね」

そう言って彼女はこの植生も調和も乱れている"庭"を逍遥するかのごとく歩き、僕たちをとっておきの"彼女"に案内すると言ったのだ。歩いている内にたくさんの植物を見た。先程とは打って変わって松や池で構成された純正の和風の"庭"に、サボテンだけが並べられている非常に湿度が高い温室などを通り、空中の回廊を渡った。

そこにあったのは上から見ればY字型に見えるであろうという奇妙な構造をしていた「塔」であった。今ではあまり見るような機会も少なったものであるが、この建物は昭和30年ごろのアパート群によく見られたいわゆるスターハウスとよく似ている。つまりそのY状建築物は一つのフロアに3戸の部屋を有している。おそらくはその建物の中心に階段が位置するように設計されているのであろう。高さはそれほどでない。せいぜい10mを超えるか超えないか、普通のマンションに換算すればおおむね3階建て程度であるといったところであろうか。特筆すべきなのはその建物そのものよりもあちこちに繁茂する植物群で、屋上にはアオキなどが気高く聳えているのがうかがえるし、窓の奥には何かしらのピンク色できれいな花が見えるのだ。最上階にある窓際の花はそこから零れ落ちそうになっているくらいで、建物から花を露出させている。

「これが丸ごと庭だっていうんですか?!」
「巨大な庭ならこれまでにいくつも見てきたじゃないか」
「それはそうですけど……あれは植物を野放しに育ててたみたいなやり方だったじゃないですか」
「こっちは植物をきっちり管理しているということかな?」
「だって建物の中に押し込めているじゃあないですか。窮屈であるともいいますか、何というか」

花宴委員長はこう言った。

「この子が私の個人的な"庭"だよ~~名付けて‪角籠アマルティア‬ かな」

アマルティア。ギリシャ神話でゼウスの育て親として知られている神だ。幼いゼウスは寒々しい洞窟で育てられたのであるという。ゼウスの腹を満たすのに使われたのが「アマルティアの角」だ。アマルティアの角は果物、花、栄養豊富なものをなんでも溢れさせた。そう、花籠のように。おそらくそこからつけられた名前なのだろう。

「確かに後輩君のその認識は間違っちゃいないよう~これは都市にガーデンシステムを適用したときにどのような反応を示すか実験しているかのようなものだからね。植物工学はビルに"庭"を挿入する方法を研究しているんだ。後輩君が"窮屈"だとか感じるようなのであれば私たちの研究はまだ成功まで遠いってわけだ」

「さっ、階段登ろうか」と言って僕たちはその建物の中に入って行った。思った通りに階段は棟の中央にある。それは僕の見立てが間違っていなかったように本当のアパートらしい見た目をしていた。部屋の数の分だけの手紙入れが備え付けられていた。もしかして本当のアパートをここまで持ってきたのだろうか。

階段はそれほど長くないものであった。しかし運動不足の僕には若干の吐息の荒さを表出させるようなものであったことは間違いない。

「君の運動不足には閉口するね。今度運動部にでも入ればいいんじゃないのか?」
「先輩にはできませんしね。運動」
「いやいやできるぜそれくらい。ちょっと時間をくれればバットとボールを用意しよう」
「って、端末の中じゃできませんよ」

などと改めて描写するまでもない雑談を水夜礼委員長としていると、彼女がやたら画面内で活発に動き回るのを見てしまう。

「ガーデンシステムの都市適用の実験という意味もあるのだけれども、それ以外に私はこれを神に迫る計算に使っているんだ〜」
「神に……迫っている?」
「ははは〜〜君も聞いたことがあるよね〜別に比喩的な意味ではなくて本当に神に迫ろうとしているんだ。例えば信仰の量を数値化する方法とか。それが私たちの知る法則とは全く別のもので成り立っている世界を明らかにするんだ。"庭"の本質は計算装置。私たちが世界を歩くための庭だからね〜」

まもなくして最上階の部屋に辿り着く。

「これが私たちに見せてくれる景色か?まあなかなか悪いものではないが」
「違う違う。これをつけてみて」

そう言って手渡されたのは青色のヘッドフォンだった。大人しくそれを頭につける。

「これは"庭"の声を聞く装置。しばらくしたら花が囁く声が聞こえるよ〜〜」
「私はどうすればいいんだね?」

と、水夜礼委員長。

「じゃあ後輩君の顔を見てて」
「わかった」

そんなに見られては困る。

花の囁きとやらがキチンと聞こえているのかはわからない。それは囁きというよりか、幾つもの人々が同じ場所に集まって会話しているかのような、まさしく自習の時の教室のような音声だったからだ。言語としての体を完全に成しておらず、ざわざわとした呻き声や呟きが無造作に……それでも一定の調律とタイミングを持って四拍子で語っている。音楽と似たようなものでもあるのかも知れない。また、この言語にできないようなそれでいて明朗に意味が定義された音声は、難解な数式を音にしたような感覚を生じさせるのであった。

「何か…言葉になってない音楽をずっと聞いているような感じがします」

「はっ!爽君の顔を見ていても話を聞いていても何を言いたいのか全然わからんぞ」
「つまり後輩君が何を聞いているかといえばナップサック問題なんだよ〜〜」
「問題を聞いているとは何事だ。それは数学的な問題かね?」
「あ〜ナップサック問題は計算複雑性理論における典型的な問題の1つで、容量Cの限界が決められた容器の中にそれぞれ価値piと容積Ciが違う品物を入れた時、どうすればそのCの範囲内で価値が最大化されるかというものなんだけどぉ〜」

何度かその囁きが転調を行って雰囲気が変化すると、塔の中で使われていた植物種が切り替わったように感じられた。草本は子供っぽい声で、樹木は大人びた声で、花は何やら姦しいが、そのどれもが僕とは違う思考回路、コミュニケーション方法で連絡を互いに行い合っているので、僕は異国語が使われている町にいるように混乱していた。

花宴委員長がヘッドフォンを取り上げた。

「そう言うことだよ。後輩君。これが情報とコミュニケーションにどっぷりと浸かるということなんだ」
「はぁ。これはどうやって感想を書けば良いのか困りますが」
「なるべく褒めてね〜」
「音楽のようでもありましたし、計算式のようでもありました。絵画のようなものでもありましたし、小説のようなものでもありました」
「まあそれは人それぞれだよ。その多面的な情報をどう解釈するかは君次第だよ〜」

まだ"庭"に関する研究は発展途上とも言えるらしい。まだ"庭"に利用可能な植物種が限られていることもその理由だった。花宴委員長の名前でもある向日葵はそれまであまり利用されてこなかったらしく、名前にあるのだから使えるようにしてみたいという気持ちがあるらしかった。他にも同じ"庭"にいると衝突を起こして全体的な問題を引き起こしてしまうものがいたり。

「私はこれをスタンダードな技術にしたいなあ」
「そういう野心を貴殿も持っていたのか。仁賀保殿もまた同じ野望があったようだが」
「そうかもしれないね。でもこの技術は役に立つ筈だから。研究は進めるべきなんだよね」



2022年

紅葉がヒラヒラと舞い落ちる"庭"で、財団の機動部隊が下級の悪魔実体を一斉射撃で押さえ込もうとしている。悪魔実体は烏のような姿をしており、"庭"の十字架に突き刺さった男性の死体を取り囲み啄んでいる。

中学時代を一度は経験したことがあるならば、誰だって学校の中にテロリストが入ってきた時の妄想をしたことくらいはあるだろう。厨二病なことを言うわけではないけれど、この状況はまさしくそれに類似していた。違うのは我が校のテロリスト対策が万全であることと、僕がその事件の最中にいるのではなくそれを遠くから傍観していることであったが。

「あれは烏なんかじゃないですよ。網竹さん」

そう言ったのは風紀委員会の四万十‪静寂しじま‬委員長だ。

「正確にはクロウタドリです。Caymですからね。まあ日本ではあまり見かけることはない鳥です」
「こう見えてバードウォッチングが趣味なんですか?」
「こう見えてとは何ですか。まあ鳥は良いですよ。可愛げがあります。こんな悪魔とは違ってね」

「カァァァァァァァッッッ!!」
「クソっ、銃弾を途切れさせるな」
「おい、柊坂がやられたぞ!」
「あっちだ!木苺の茂みの向こう側にいる」

「でも風紀委員会の仕事ってどうなんですか?僕たちよりも大変ですか?」
「放送委員会よりですか…?まあ学園随一大変な自覚はありますが」
「やること多そうですもんね。こういう侵入者がいた時はどうするんですか?」
「ああ、それはまあ緊急対応のマニュアルが完成しているんで、そこまで苦労することはないですね。外よりも中の方が大変ですよ。ほら、ウチは厄介なやつが多いですから」
「マニュアルってこうして自動的に排除される機動部隊を眺める作業も含んでたりしますか?」
「確認ですよ。突破は許されませんからね。あちらの目的は純粋に"庭"の悪魔プラントの占領にありますが、こちらに危害がないとは言い切れないのでね」
「もし突破してきたら?」
「まだ悪魔はいますよ。ただし最悪の場合私が出ていくことになりそうです。銃と盾を持った敵を相手にできるのは私くらいですから」

「ばかばかばかばかばか。お前!そっちへ行くな。戻ってこれなくなるぞ」
「隊長はどこですか?両眼に負傷があるんです」
「ヴァァァァァァァァァァァァァ」
「嫌だ」
「目を逸らすなッ!」
「血が漏れ出てる!助けてくれー」
「増えてるんだ……仲間が」

「今は水夜礼氏はいないんですね。あの口の悪い人間はいない方が良いですが」
「ああ、水夜礼委員長は今日はお休みです。なんだか、家の用事だとかで」
「はあ……。家の用事ですか。ちなみにどんな類の家の用事かは聞いてますか?例えば親類に不幸があったとか、家業の手伝いとか」
「……?いや、そういうこと、失礼になるのかと思いまして聞いていないんですよ」
「あの女、もう半年も一緒にいるのだから、自分持たせてる後輩くらいには伝えてもいいのにですね」
「?」
「家業のことを伝えても良いというわけではないですよ」
「何のことだかわかりませんが、水夜礼委員長が今日休んでる理由がわかるってことですか?四十万さん」
「いや、わかりませんよ。別にあの人と仲良いわけじゃありませんし」
「そうですか」

1人の機動部隊の隊員が激しい攻撃に晒されて昏倒する。気を失う時、彼は「悪魔どもめ……」と呻いたような気がした。悪魔なのは悪魔だけではないのか。僕たちのことを悪魔だと罵るのかもしれない。

「それでは‪仁賀保たち保健委員会‬を呼んで治療に向かわせなければなりませんね。人死が出たら本格的に戦争ですから」
「そうですね。しかしこれは悪魔がやったことです」

僕を見て委員長はただ頷き

「確かにそうですね」

とだけ簡潔に言った。

木苺の向こう側では、木苺のそれよりも赤い血液が散らばっている。赤とは言っても血液のそれは思ったより綺麗ではない。こんなのであれば、木苺の方が綺麗だったと思う。それはそうなのだ。四十万さんも同じことを考えてるだろう。

その瞬間だった。1人の機動部隊の隊員が1匹のクロウタドリを刺し殺して防衛線を突破したのであった。彼はその鳥を喰らい前に進む。

「不味いですね………」
「ええ、あなたの出番ですか」
「いや、あのCaymと風紀委員の1人が契約してたんです。今彼からそれが引きちぎられました。Caymは食べられたので、あらやる契約が無駄になってしまった。正直言ってこれは想定外でした。普通鳥を食べますか?」
「それは本当に酷いですね…何かお手伝い出来ることはありますか?」

「四十万先輩っ!」

そこには風紀委員会の腕章を手につけた女生徒がぼろぼろな姿でそこに立っていた。全体的に服が泥だらけで、薄汚れている。破かれているところもある。

「波凪さん?!」
「阿南と新庄が気絶しました。Caymが食われてます」
「ええ、見てました。馬鹿みたいなことをする人もいるものですね。食われたとなるとこちらは契約結び直しです。園芸委員会に連絡をつけれますか。あと植物システム同好会と悪魔研究会も頼めますか。即席の契約を結び直します。私が全部やります」

「キェェェェェッ!」

銃を持った機動部隊員は突撃と発砲を繰り返して目の前にある壁を食い破ろうとしている。そこにあるのは通称「‪水晶球ククノチ‬ 」のガラス温室だった。半球には2つの入り口があり、彼から見て温室の向こう側は僕たちのいる場所に繋がっている。

「やあ爽君。そちらの状況は"庭"を通じて理解しているよ」

それは水夜礼委員長の声だった。僕のスマートフォンの音声通話を通じてこちらに声が届いているのだ。その上、こちらのことを伺い知っているらしい。

「どうすればいいですか?このままでは"庭"が危ないです」
「君にできることはないよ。まあやれることといえば、このことを概ね記録に残して後のために取っておくことかな」
「機動部隊が本当に望んでいたのは悪魔プラントだけではないのかもしれません」
「そうか。君はそう思うか。まあ私としては学園長が何を思おうが、才能をどうしようが、本当にどうでも良いことではあるがな」
「学園長は邪魔だったんでしょう。目の上のたんこぶだったと言っても良いかもしれない」
「まあそれはそうだろう。彼女はロシア出身なんだが、激動の時代を実力と義理の父母の財産で乗り越えてきた人間だ。だからこそ才能が欲しいのかもしれない」
「でも今は学園長を殺させるわけにはいきません。学園長のおかげで進みそうになっている色々なことがあるんです。花宴委員長だってそうだ」

次は既読がつくのに少し時間がかかったように思える。ほんの2分ほどだったが、この状況では長く感じるのは当然のことだろう。

「じゃあ君は君の好きにしてくれ。それで良いよ」

と、返事が返ってくるともはやLINEを眺めているわけにはいかなくった。すぐさまに‪水晶球ククノチ‬の扉の横に備え付けられた、電子錠に学生証をかざし、開門した。‪この建物の外壁は特殊なガラスで出来ているため、限りなく硬くそして生半可な方法では壊すことができなかったが、もう半狂乱な状態になりつつある機動部隊の隊員がそれを壊すには一刻の猶予もないように見えた。

しかしここで僕に出来ることはないだろうと判断した。本当に非力な人間は、前線に出ていくことはない。僕は走った。それはもう全速力で。日頃運動していない僕にしては結構頑張った方であるが、それも既に息が途切れ途切れになり走れなくなる。ガラスの壁が割れたとき、僕は近くの建物に入り込んでいた。その部屋は今は使われていない魔術実験室で、鍵が閉められておらず、容易に侵入することができたのだった。

ガラスの割れる音がする。水晶球ククノチの壁が崩れ去ったのだ。Caymの肉を喰って目が充血した財団の尖兵は完全に正気を失っていた。まずまともに歩くことができない。ふらふらと夢遊病患者のように千鳥歩きし、本来元々あったはずの任務が何なのか思い出せないでいる。そして銃をあちこちに放っている。校舎の壁に当たったものは跳弾などすることなく、壁にのめり込みその鉛弾の威圧を放った。未だ人類の扱える最高の武器は銃なのだ。悪魔などではない。神などでもない。

僕はちりとりを拾い、室内に散らばっている灰をかき集めた。悪魔の中身がまだCaymであることに救いがあったと思う。まだこれは一度も試したことはなかったことだけど。

銃弾がガラスを割るたびに僕は屈んで身を隠していた。だが彼がそのうちこちらにやってくるのも薄々理解していた。窓のガラスが散らばって、目に入りそうになる。目を瞑った。

そこに人間が立っていた。目が充血して、あまりにもその狂乱の感覚を持て余したが故に、もっとも沈黙で価値のないその怒りを持って、そこに立っていた。あるいは、僕のことに興味がないのかもしれない。僕はスマートフォンの動画撮影機能をオンにして目の前の人物を写す。

「何で僕たちの学校を襲撃するんですか?」

あまりにも的を得ていない質問にもしその男が正気を保っていたのであれば、失笑していたのだろう。財団は正常性を維持したいだけなのだ。それはかつて現実的だった孤高の夢。しかし今では望むべきでもない絵空事である。正常性と言う言葉については考えさせられるばかりだ。何が正常で何が正常ではないのか、むしろこちらが教えてほしい。

とにかく彼は正気ではないのだから、その質問に意味がないのも事実だ。彼はその任務の残響を胸に抱いているだけだ。

「私は危惧しているのだ」

そう彼は意外にもまとまなことを言った。彼は危惧している──

「この学園の長が行きすぎた目標を抱えて破滅するのが。任務のためにプラントを襲撃する。それもまた道理だ。しかしそれを行う自分自身の思想として、学園長の悪魔による破滅を防がなければいけないという思いがあった。軍人としては失格かもしれないが」

意外と話せるやつなのかもしれなかった。話し合いが通ずるなら放送委員会としての役割を果たすことができる。要は伝えることが仕事なのだ。

「では何で銃を乱射したりするんです?」
「それは…急死に一生、あるいは窮鼠猫を噛む、だったのかもしれないが、咄嗟にその肉を食うことで攻撃から逃れられるのではないだろうかという疑問があった。それで試してみたら、食べると言う行為は付随して目的を背負うと言うことでもあったらしい」

「しかし……いつだって技術の発展にとって蛮勇は鎹です。雷から電気を発見したベンジャミン・フランクしかり、自らの研究する病に侵されて死んでいった野口英世だってそうです。これこそが今の学園長ということはできないでしょうか」
「つまり?」
「学園長が愚かであることは僕だって知っています。呪いや悪魔の本質は人間の愚かさにあるんですから。学園長は自分にすぎたものを手に入れようとしていました。確かに親に捨てられていた彼女は不幸でしたが、金持ちの人間に養子に取られ、そしてそこそこに幸せに恵まれていた彼女が、未だ満足ができていないというのは傲慢ですから」
「この世にはもっと冨を得ているものがいるというのに?」
「大事なのは自分の力を知ることです。そして人から才能を奪おうなんて思わないことです。学園長にはその真面目な姿勢が欠けているんですよ。とはいえ、それが僕たち花籠学園の生徒にもたらした利益というのはあまりに大きい。学園長が優れていたのは、自分も利益を出しつつ相手にも利益を与えるという商才です。彼女は商人でしたからね」

「………」

沈黙。そのあと僕が口を開けようとした時にはそこに人はいなくなっていた。



2022年

「ああ、そうだ。水夜礼の家だ」

椅子に座る酒々委員長はそう言った。水夜礼委員長があの秋の日から休み始めて2ヶ月経つ。季節は冬。師走。師匠も走り忙しい。我らが放送委員会も委員長が欠席してその分の穴埋めに奔走している。その中でもかなりの役割を果たしていたのがこの酒々委員長であり、普段は水夜礼委員長の持ち手兼サポーターとして尽力していたが、最近ではほぼほぼ彼女の代理のようになっている。

酒々委員長は普段はあまり語らない。水夜礼委員長の方から何々をして欲しいなどとはよく言うが、そのとき必要とされた事項を話す以外は、水夜礼委員長と酒々副委員長の間では会話が希薄なように思える。それは彼が根本的に無愛想なのだからと僕は理解していた。

「アイツが今休んでいるのは何故だと思う?」

僕は水夜礼委員長があの秋の日にやって来なくなったのは、単に家庭の事情があるからだとばかり思っていた。実際、学園内に流布する噂のほとんどは水夜礼委員長がそのような事情によって休んでいるものだとしていたのだ。彼女の母が医者をやっていることは、彼女自身明かしていることではある。その職業の性質故、家業を手伝っているとは考えられないが、何かしらそれに関係したものがあるのとばかり、皆は思っている。

「僕は家庭の事情だとばかり聞いていますが」
「そうか。まあそうだな。それは間違いないが、当たらずとも外れずともだ。一部の生徒は知っていることだが、まず端的に言えば鄙が休んでいるのはそ単に家庭の事情というわけではない」

僕は委員長が鄙と名前で呼ばれるのを初めて聞いた。

「では何なのでしょうか。そういえば酒々委員長は幼地味だと聞いていますが」
「……まあそうだな。小さい頃から世話になった。だから"知っている"。お前も知らなければいけない時間が来たんだよ。というかそれがアイツの願いなんだ。実際に見てくればわかる」
「なるほど。それでは委員長の家に行けばいいってことですかね?」

酒々副委員長は頭をポリポリ書きながら机の引き出しを引っ張り出した。

「これはアイツの……昔の写真だ」

それは確かに昔の写真であるらしかった。2人の女性とおそらく5歳にも満たないであろうという子供が写っている。年相応で2人ともかわいらしく、まだ幼さが残り活発な印象を受けた。背景はどこかの草原のような場所だ。

「これはどこですか?」
「昔の花籠学園だよ。まあそれはいい。左の子供が鄙だ」

僕の知る先輩はもちろんそのようなものではなかった。彼女は僕が入学した頃から徹頭徹尾アニメ調のキャラクターであり、このようにして眼鏡をかけた女の子などではなかった。その考えてみれば当たり前の事実に僕は驚いていると、酒々副委員長は「昔はそうだった」と付け加えたのだ。

「常識的に考えてアレは異常だ」

確かにそうなのかもしれない。彼女の当たり前にいつのまにか順応していた自分にも驚きだ。しかし彼女が顔を出さないのも、他の生徒と同じようにして個性的なだけだと思っていた。さしたる理由がないのかと。

「俺は鄙がああなった理由を知っている」
「それは一体……?」
「やはりそれは自分自身で見るべきだ。鄙もそれを願ってるしな」

向かったのは学園からほど近くにある町だった。花籠学園の生徒にはここら辺で下宿を取る者も多い。僕はさらに電車へ乗って遠くへ帰っていかなければならないけれど。

「ここ、ですか……?」

酒々委員長が案内したのは‪Yakushi‬の経営する比較的大きめな病院だった。断じて水夜礼委員長の家などではない。

「間違いない」

副委員長はカウンターで手続きをした。看護師だと思われる女性に「水夜礼の友人です」と言って、いくつかの書類に書き込みをした。

「これをつけろ」 

許可証のようなものを手渡された。僕の名前が書いてある。

「ここは花籠学園の研究に出資している病院の1つだ。まああれだけ"庭"を用意しようと思ったら教育の精神だけでは足りないだろう。知っているかもしれないが、俺たちの青春は企業からの出資によって構成されているわけだ」

「そういえば水夜礼委員長の両親は病院を経営なさっていましたよね。それと関係あるんですか?」
「全く関係ない。父と母はもっと別の場所でごく小さな診療所を開いているが、鄙のそれは診療所の手に余る」

病院の清潔な雰囲気を鼻と目で感じ取りながら僕と副委員長は前に進んでいく。エタノールのような匂いがまだ廊下に漂っていて、本当に僕は病院に来たのだと実感させた。病院にはいろいろな人間が暮らしていた。寝巻き姿で一生懸命に歩行する少女は補助器の支え無しに歩くことはできそうでなかった。もう80歳くらいになるのであろう老父の額には第3の目がついている。服の袖で腕の所在を隠している人がいる。おそらくその誰もが酷い病気に苛まされていた。学園にもツノが生えている人や第3の目がある人はそこそこ居た。違うのは彼らが健康を失っていることだ。

「なるほど」

僕はここに何があるのか彼が何が言いたいのかそろそろ気づき始めていた。ここにいる人々は誰として簡単な病状ではないのだ。異常な疾患、ヴェール崩壊後に段々と継続的に現れ始めて多くの人を困惑させたそれは、ここに集められていた。まだ治療方法が見つかってない病気がたくさんあるというそののっぴきならない事実は僕を恐怖させた。ヴェールは崩壊したが、人類を恐怖させる神秘のヴェールは未だここにある。この病院は僕にそれを否応にも理解させた。

「鄙がどうしてもと言うからお前を呼んだんだ……。実を言うと俺はお前を連れてくるのが嫌だった」
「ごめんなさい」
「何故謝る」
「いや、酒々副委員長の思いを考えるとそれは辛いことだったんだろうなって」

エレベーターで5階を押す。同じエレベーターに居た女の人には、酷く捻れたツノが生えていた。その生え方と言えばまるで適当に捻られた樹木のようなもので、内側に湾曲した灰褐色のツノは右目の上と融合している。あまりジロジロ見ていると酒々副委員長から小突かれた。

激臭が鼻に突き刺さる。5階は他の部屋と比べると少々特殊な病気のための部屋であったらしい。その部屋には、床一面に"庭"が広がっていた。おおむねその"庭"は低く植えられた躑躅によって構成され、それ以外の植物には松の盆栽などがあるが、他の"庭"と比べるとその構成要素の多様性は極めて低い。しかし、何より驚きだったのはそもそも"庭"が医療に使われていたことだった。こんな緑が溢れる病室──

「あるいは、医療の分野で使用されることが期待されています。高性能な身体のスキャニング。脳の部分的なデータ化。まだまだありますが、ここではこれくらいに留めておきましょう」

「まあそれくらいだな」
チッ
「やるじゃないか君も」
「なんか今わざわざ音声を小さくして舌打ちをした様に聞こえたんですけど」
「何を言うんだ。勘違いじゃないか?」

「脳のデータ化……?スキャニング?」

僕は何か頭の片隅にそれに該当するような記憶があった気がしていた。しかしまずこの悲惨な状況に遭遇して、頭をうまく働かすことができなかった。

「閉じ込め症候群。これが鄙に与えられた病名だ」

どこかで聞いたことがあるような病名だった。夜のゴールデンタイムでそんな病名の患者が登場するセンセーショナルなドラマをやっていた。まさかこの病気に自分が関与するとは思っていなかった。それがショックで、いつのまにか自分には関係のないと思っていたことが恨めしい。

その"庭"の中心にはカプセル状のベッドがあった。そこに横たわっていたのは、青い簡素な病衣に袖を通したとても病弱そうな女子だった。呼吸器を取り付けている。これはとても女子高生相応には見えない。どちらかといえば中学生かのような風体に近い。さきほどみた写真の少女によく似ている。画面の中の先輩とは違って横たわる人間は、赤い髪でもなく、そのポニーテールは身長ほど長くなく、コミカルに僕にツッコミを入れてくれることもなかった。黒く平凡な髪の色。ショートボブのところまで切り詰められた髪の長さ。そして何も語ることはなく沈黙を貫いていた。

「実際に見たのは初めてか。"庭"が医療に活用される現場を」
「はい。知識としては知っていたんですが」

僕はそれを知識としては知っていた。知識としては知っていたが、それを活かすことはなかった。僕は水夜礼委員長のそれを単なる趣味として信じてやまなかった。

「閉じ込め症候群はほぼ完全な麻痺だ。目を動かしたり、瞬きさせることを除いて体を動かすことができなくなる。暗闇に体が覆われているようだ、と言っていたよ」
「ええ、はい。でも僕の会ってきた委員長は……?」
「そう。意識はあるんだ。だから厳密には植物状態とは違う。本来このような疾患の人間には瞬きをさせること以外ではコミュニケーションすら取ることができなかった。コンピュータで目の動きを認識させて言葉にする。しかしその話し方は、どう考えてもストレスだろう?」
「だからアレは……」
「"庭"は生物と同期する特別な性質によってあたりを感知している。神経細胞が発信する電気信号をキャッチすることであの歪な状況を実現させた。つまり君の知る水夜礼鄙だよ」

それを語る酒々副委員長の姿はどこか自罰的であるように見える。険しい表情でそれを言った。

「コイツはもう長いことこうなったまま動かない。忘れもしない、中学生の春に俺が……」
「話さなくてもいいと思います」
「いや、全て話してくれと鄙が言ったんだ。これくらいはやるさ」
「しかし…」

「俺が悪かったんだ。中学生にもなって俺たちは無邪気だったから、お化け屋敷に行こうとか馬鹿なことを計画してたんだ。ただ、今の世界には"実在"するだろ?実質的な脅威としてそれがある」
「鄙が植物状態になったのはその先で霊に行きあったからだ。霊性脳損傷というのが原因らしい」
「だから俺は罪を償わないといけなかった。アイツのことを持っていたのは概ねそれが理由だ」
「しかし網竹爽。お前が現れた」
「救ってくれたんだよ」

僕は先輩と話すのが好きだっただけだ。別に誰も救いたかったわけではない。だけど、目の前の彼がそう言ってくれたのがとても嬉しかったことは間違いない。

「それで、先輩はもう目を覚ますことはないんですか?」
「わからない。あの端末も今はダンマリを決め込んでいる。最後に2つのメッセージが残された。ひとつは俺に向けてのこととお前にこの状況を全て伝えてくれとの言。もうひとつは網竹爽に向けてのものだ」
「僕に……ですか?」
「ああ、今それを読んでくれないか」

酒々副委員長はそこの机の上に置いてあった端末にテキストを表示した。

爽へ

突然このようなことを知らされて驚いているかもしれない。大変なショックを受けているかもしれない。そのことと私がこれまで嘘をついていたことに謝りたいと思う。虚偽の罪は何よりも重いものだ。しかしこのような措置が必要だったことも理解してほしい。現代の医学は本来私に望むべきもないようなことを現実に持ってきたのだから、それを享受していたいという気持ちが勝っていたのだ。これも"庭"が脳を介して特殊な方法で文章を出力するシステムで書いている。この技術を開発した人間には感謝しても仕切れないくらいだ。

高校生活にある種の憧憬のようなものがあったことは否定しきれない。青春を謳歌したいという思いが私にそこまでの嘘をつかせることを決断させた。

人と話心を通わすことはつまり生きることで、言うなれば"庭"に生かされた人間、それが私だ。そして君が"庭"を守ると言ってくれた時、私は自分が守られたかのような気持ちになれたのだ。あるいは、そのような"庭"の感情を理解できたのかもしれない。だから私は嬉しい。心底感謝したいと思う。

感謝したいと思う。それが故にこの嘘を突き通さないといけないことも理解して欲しい。君の目の前にはおそらく私が寝ているだろう。本当に無様なものだ。虚勢を張り続けた1人の人間の姿だ。しかし、それだけが私の真実ですらない。おそらく、そんなものはどこにもないのかもしれない。酒々からしたら私のその肉の姿は長い付き合いであるが、君にとっては初対面なのだ。

最後にもう一度ありがとう。いつかのために私のことは覚えておくれ。

水夜礼鄙

「……これだけですか?」
「ああ、それが全ての文になる」
「結局、何が彼女にあったのかわからないままです。何が問題だったのか全然説明してくれないんですよ。いつもそうです。肝心なところで誤魔化したがる」
「そうだな。アイツはそんな奴だ……」
「きっと、戻ってくることはないんですね」
「どうだろうか。君が手紙を読んでそう感じたのならそうなんだろうな」
「はい。嘘を嘘のまま突き通したいんだろうって思いました」
「ふっ、虚勢だな」
「そうですね」



2023年

「それでは挨拶をお願いします。各委員長」

春のこの麗かで桜が舞い散るこの季節には、こないだまで中学生であったばかりの子らがまだ身の丈に合わない制服に袖を通している。そんなありとあらゆる物語の始まりを感じさせる季節が春だといえるだろう。酒々副委員長と水夜礼先輩は卒業し、僕は2年生になった。あいも変わらずこの部屋では委員長による会議が行われていた。

「放送委員会委員長の網竹爽です。よろしくお願いします」

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