遥か昔、ガレノスという医学者がいた。ガレノスは人間の生命は血液と共に流動する精気によって保たれると考えた。幾たびもの解剖学的発展に伴う批判──それはときに焚書によって成し遂げられた──によって、もはや太古の妄言とされたその学説とは何の関係もないが、ある調味料を作った集団がいた。彼らは己が崇拝植物の身より、粘度の高い輝きを、その後ケチャッ……トマトマと呼ばれる紅色の液体の原型を見出した。彼らはその瞬間、この世で初めて”美味しいトマト味”を現出させた。ガレノスの学説は、特に関係はなかった。
20██年、ある一つの発明が世間を賑わせ始める。ゼーバッハ中央製薬なるベンチャー企業が打ち出した概念は、「トマトの旨みの抽出」──ピューレという果肉そのものを吸い出し、極めて限られた嗜好と確実な死を招く毒(塩分過多的な意味で)を手にする技術。それは、初めのうちは(美味しいトマトとか)荒唐無稽だと笑い者にされて、しかし2年と経たぬうちに、その有用性を以って人類社会に定着した──トマトを忌避する表社会にも、トマトを嗜好する裏社会にも。
彼らはトマトを遠ざけた、彼らはトマトを手中にした。
一雫のケ……トマトーマに、それが満ち足り過ぎた生に、人は何を思うのだろうか。
・"蕃茄果肉型非牛董ニュートン流体性調味料"( Tomato-ketchup )又の名を"トマトマ/トマトーマ"( Tomatoma )
読んで字の如く擬似的な液体状の”トマト”という果肉・果汁そのものの調味料。専用の器具を用いる事によって植物としてのトマトにおけるトマトを液体として具現化し抽出することが可能。
ここで抽出されるトマトとは、正確に言えば「トマト」が「トマトピューレ」へと変わる過程が抽出されたものである、故に既に死んでいる苗からトマトを収穫する事は不可能な上、特殊な「味覚」を持つ者には相応に特殊な調理をしなければならない。抽出するにあたっては、対象者の血液の流動とそれに付随する生気は特に考慮されない。
トマト以外を使ったものもあるが、世間一般で出回っている製品名がケチャ……トマトマである為、そのまま代名詞として呼ばれる事の方が多い。
・ケチャラー
マヨネーズ中毒患者マヨラーになぞらえ、トマトマをキメ過ぎた者の事を指す。先進国においては、殆どの人が幼児期にオムライスやホットドッグと共にトマトマを摂取し、幾つかの中毒性が高いトマトーマに出会うことでケチャラーにされる。だが、全員が平等にそうというわけにはいかない。
・真のトマト嫌い
平等で無い者たち。世界で巻き起こる熱狂的トマトブームは彼らにとって地獄だ。トマトーマは生トマト特有のグチャッとした食感を改善することに成功したが、トマトという存在そのものを忌避(すなわち食わず嫌い)する真のトマト嫌いは、ときに安らかに、ときに激しい苦痛を伴って、トマトを拒絶する。そして二度と食べない。
・ゼーバッハ中央製薬(Seebach Central Pharmaceutical Ltd.)
スイスの製薬会社。財団が世界へトマトマの拡散をする上で支援、活用したフロント企業。
ぶっちゃけ製薬会社とは言いつつ、財団の無慈悲な改革によってハインツかカゴメの如き食品メーカーと化している。
・大悲咒(タイピーチウ/Tai-pi-tsiu Inc.)
ゼーバッハが世間で認知された後に現れた台湾のベンチャー企業。
世間でのトマトマ販売会社の二大巨頭の一つ。私どもは添加物・遺伝子組み換え原料不使用、土づくりからこだわった旬の有機野菜をご自宅までお届け。毎日の食卓に安心安全な野菜を・合成添加物不使用・送料無料。
・トマト
緑黄色野菜のくせに赤いアイツ。蕃茄(ばんか)はトマトの古い異称。
・トマトーマ溶害
真のトマト嫌いが、勝手に料理へトマト及びトマトーマを入れる行為に対して使う蔑称。彼らはこれを「酢豚にパイナップル」「ポテトサラダにリンゴ」「フレッシュサラダにミカン」並に嫌っている。
・トマティーナ(La Tomatina)
スペインバレンシア州の街、ブニョールで行われる収穫祭。人々がトマトを投げつけ合う奇祭として知られる。人々がトマト狂いになったこのカノンにおいては、世界中どこでもトマティーナが実施されている。真のトマト嫌いたちはこの祭に乗じてトマトを投げつけ、鬱憤を晴らしている。
・"プネ旨ウマ"
トマトーマを取り扱う非合法組織。違法合法問わず様々なトマトを仕入れ、売買している。"青すぎ"と対立状態にある。
・"青すぎ"
まだ完熟していないトマトをぶつけてくる。痛い。
基礎事項
つまり、「Tomatomania」の要点は何か?
- トマトをトマトーマという液体の形で抽出する技術が一般化してるよ!
- トマトーマはトマトの風味を完全に保存できるので、トマト好きにはたまらないよ!
- えげつない中毒性があるよ!
- トマトーマ!
- おかげで世界中はトマト好きだらけになったよ!
- 一握り残ったトマト嫌いたちは肩身が狭い!
- だからトマト祭りと称してトマトをケチャラーに投げつけるよ!喰らえ!
- トマトの抽出は別にパラテックじゃないよ!あるオブジェクト絡みの事故によるCKクラス-再構築シナリオの影響で全人類からケ…ケなんとかの概念が大雑把に消失してしまったので、取り敢えずアンニュイプロトコルを発動させた結果なんだ!しかし遠からずケ、えー、トマトーマの資産は尽きるだろう。君の知っての通りだが、トマトーマは実に美味い。それこそ、本当にこれがトマトから生み出されたとは思えないほどに。
そう、トマトーマに使われているのはトマトでは無い。
最初にケなんとかの概念が失われたときから、人類はトマトをどのように調理してもその調味料にたどり着くことが出来なくなった。それはまるで、赤子が立ち歩き方を知らないために、這いずり回ることでしか移動することができないように。
しかし我々には代替品として利用できるものが一つあった。それがトマトーマだ。遠い昔、ケンタッキー州で発見されたあるアノマリーに由来するそれを、かつて財団が壊滅させた植物崇拝カルトの技術によって調理し、失われた調味料と置き換えて流通させることで我々は一般社会の混乱を収めることにした。大規模な宣伝を打ち、大胆で、そして巧妙に、違和感を覚えさせるものをすべて覆い隠し、塗りつぶした。
この作戦は成功した。財団の成果は以下の一文に要約される……「ホットドッグにかけるのはマスタードとトマトーマ。昔からそうだったし、これからもそうだ」我々がそうした。そしてそれは大きな過ちだった。
実際、あの事件が起きるまで、我々は心置きなく祝杯を挙げるつもりでいた。イングランドの小さな町において、道路の寸断によってトマトーマの供給が一時期途切れた。それが1週間、2週間と長引き、ついには暴動が起きた。それだけなら財団の興味を惹くまでも無かったかもしれない。しかし、政府の調査により町の住民達は日に10リットルを一家庭で消費していることが明らかになった。トマトーマを求める彼らの眼には、明らかな狂気が宿っていた。
財団はトマトーマを調べなおした。その結果、恐らくはスパイスの配合などの複合的な要因によって、トマトーマの大量摂取は激しい依存に繋がることが明らかとなった。O5は即座にトマトーマの流通を停止させ、世界の各施設はその指令へ速やかに従った……民衆が製造工場と販売元に殺到するまでは。
もはやトマトーマは単なる食文化の一部分では無かった。人々はそれに依存し、それに大金を払い、それを大量に消費する。蕃茄狂いTomatomaniaはすでに財団の内部にまで深く浸透しており、もはやトマトーマを根絶やしにすることは不可能だった。結局の所、財団は、失敗を取り繕おうとして、世界を更なる狂気に追いやってしまったということだ。トマトーマが世界の礎となる狂気に。
さて、ここまでが過去。ここからは未来の話をしよう。
最初に言ったように、今、トマトーマ資産は尽きかけようとしている。嗜好するままに消費する大衆の需要は留まることを知らず、「全人類に対し80年間の安定した供給が可能」と初期に試算されていたトマトーマの総生産量はこの10年で消費量に上回られている。いずれ完全に枯渇することは間違いなく、その際に発生する全世界的なパニックの発生と致命的文明崩壊は避けられないだろう。
それを避けるために君達はここに集められた。君達の任務は2つ。一つはトマトによる本物の"失われた調味料"を再び創り出すこと。幸い、トマトーマがトマトから作られているという偽情報によって、トマトの生産量は世界的に増加傾向にある。いくらでも試すと良いだろう。
もう一つは蕃茄狂い共にトマトを投げつけてやることだ……笑い事では無い。この部屋にはトマトーマを忌避している者のみが集められている。君達にとって、それは本能的なものだ。研究によって、それは君達の感覚が、失われた調味料とトマトーマの間にある僅かな差を感じ取ることが出来るためだと判明した。この差は味覚のみに留まらず、五感全てで感じ取ることが出来る。この任務の要旨は、トマトーマ中毒者に手中のトマトを叩きつけ、自分が食べているものの正体を突きつける事で目を覚まさせてやる事だ。そして我々の側に引き込む。
失われた調味料を再現することができれば、財団は再びアンニュイプロトコルを実行し、トマトーマを玉座から引きずり落とすことで再び世界を正しい軌道へ戻すことが出来るようになるだろう。そのための準備はすでに出来ている。我々は3度の敗北を喫しない。
我々の任務が完遂された暁にはトマトーマは駆逐され、やがて人々もトマトへの熱狂を忘れて生きていくだろう。だが、我々は決して忘れない、忘れてはならない──トマトと共に生き、トマトと共に死ぬこの絶望的な人生の中に、トマトーマと言う名の希望がかつてあったと言う事を。それは、アノマリーと共に生き、アノマリーによって死んでいく我々にとっても、希望に他ならないのだから。
諸君らの健闘に期待する。

確保、収容、保護。
— O5-08