墓標、残るは線香
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 においがした。実家の線香の、あの捉え所のない煙のにおいだ。もちろん線香なんて焚いていないから、これは僕の幻臭ということになる。

 あそこにいる時は、おばあちゃんの仏壇に線香を供えることは日課で、特にそこに特別な感情はなかったのだけれど。あのにおいに安心感を覚えたあたり、思ったより僕は実家が好きだったらしい。今更、祖母の墓に参りたくなった。

 墓、といえば。地面に視線を落とす。ここは古墳やピラミッドに似ている。財団サイト-8101、地下深くの広大な空間。もっとも、この墓は掘り返すたびに新鮮な死体が見つかるし、眠っているのも偉大な王などではなく、ただ選抜されただけの"死んでいい人間"だけれど。

 ……いや。死んでいい人間、は良くない表現だった。死んでいい人間なんていない。過去ここで眠った"先輩方"も、今回の大規模なインシデントに巻き込まれて消えた都市の人も、僕も。死んで良かったはずはない。あるのはただ、死ぬしかなかったという事実。必要なのは、死ぬしかない人間なんて少ない方がいいな、という再確認。この墓とプロトコル・ヴェルダンディは、そのためのものなんだから。

 骸骨の代わりに"人道的"というゴシックフォントのラベルが貼ってあってもおかしくないほど素晴らしく人道的な、苦痛なく生涯を終えられる薬を手に取る。髑髏の目は僕の代わりに「やり残したことはないかい?」と僕に問いかけてきた。

 考える。なにせ何かするならこれが最期のチャンスだ。胡座を書いて座り、少し考える。遺書は時が止まる前から遺してあるし、今から家に帰るのも違うと思う。

 「そうだ」そして、思いついたのはこれだった。「墓を磨こう」

 顔も人数も性別も知らない先輩方の、自分の、そして、万が一がまた起きた時、ここに訪れる後輩の、墓を。

 立つ鳥跡を濁さず。まずは手で出来ることから。使い倒した書類を整頓し、大量の薬品を元あった場所へ戻し、金属片を1箇所に纏めて袋に入れる。その次に道具を使う。200年の歳月で積み重なったガラクタの山を削り落としていく。

 手で掴めるものが無くなってから、ようやくその次に道具を使う。手元になかったので、雑巾をわざわざ縫った。ソイツを水に浸して、無心で床を磨く。墓石を磨くのは昔から得意だった。好きだったわけではなく、性格上やらずにはいられなかったというだけだけれど。

 磨く。磨く。5分ほど経ってから、脳味噌と指に、わずかに引っかかるものがあった。雑巾を退けると、僅かに浮き出た赤錆。それは仕事上見慣れたもの、つまり、血痕。僕ではない誰かの。

 息を吐いた。急造で性能の悪い雑巾をバケツに押し込む。  この血痕は、ここで死んだ誰かの存在の証明だ。拭うことはできない。だから、これ以上は掃除はできない。一度気付いてしまったらどうしようもないことだった。

 そこまで考えてから連鎖的に、この掃除は死からの逃避だったと気付いた。受験生が自分の部屋を片付けるような、大義名分の元根本的な問題から遠ざかろうとする、庶民的でそこらじゅうにありふれた逃げ。逃げる対象が死であるというだけ。

 全て終わってしまったので、髑髏のラベルを隠すように握った。注射器にそれを入れた。もうやり残したことはなかった。部屋はそれなりに綺麗で、それなりに楽しい人生だった。だから後悔はしていないし、涙などは出てくることはない、と思う。

「でも、僕はここで死ぬべきではない」

 自分でも驚くほどはっきりと、言葉が漏れる。そしてその強い語句が自分の耳に響き、揺れて、注射器の先端の震えを止めてくれた。

 薬品を体に流す。目は瞑らない。体の感覚が消えるまではしっかり座っていたい。そう思っていたが、案外早く力は抜けて、受け身も取れずに前に倒れ込む。

 その時にぶつけた鼻から血が流れているのが見える。血の匂いはしないので、鼻はダメになっているかもしれない。もしこの鼻血がこのまま残るとしたら、随分とダサい墓標だ。ないと思っていた後悔が出来て、それがおかしくて笑ってしまう。


 視界が滲んで、それから薄れて、消える。その消え方は、どこか煙に似ていた。

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