苦しみの墓
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20██年に撮影された"レディ"アリソン

   モスクワは涙を信じない。


2018年█月██日 モスクワ  MC&D 外渉部 “レディ”アリソン・オルコット・カーター

夜のモスクワを一人歩く。実際にはスナイパーも護衛も、ついでに言えば傍らには仮初の透明人間けいやくしゃすら存在しているのだが、見た目ではそう見える様に優雅に歩く。

一時期はかつての栄光を取り戻し不可侵のルーブルをもって久方ぶりの栄光に浸っていたモスクワであったが、それもまた昔の話だ。昨年のルーブルの急落でモスクワはソビエト崩壊時と並ぶほどの失業者を出し、現在は国家親衛隊とMGBによる統制と大統領のカリスマで無理やり静寂を保っている。まさに苦しみの最中という訳だ。

貧困による戦乱と膨れ上がる権威欲の見え隠れする野心の国になりつつあるこの国はまさにパワーゲームのただなかにある。つまり我々MC&Dの遊び場という事になる。クレムリンに沿ってレーニン廟の裏手を回り、石畳の上でヒールを高らかに謡わせながらゴーリキー苦しみの墓のある一角へと進んでいく。

このモスクワの、それも政府中枢のある市内に行方不明になったインペリアル・イースター・エッグがあるなんていったいどんな皮肉だろうか?発端は財団に潜り込んだGRU"P"部局の残党、Mr.コンスタンティンとの商談が発端だった。彼は我々に財団では表立って調達できない数多くの物品を発注したので、サービスで我々が手に負えなくなりつつある案件の情報を押し付けてやったのだが、何も知らない彼は返礼にとこの情報を教えてくれた。

彼は詰めが非常に甘いので内情を示さずに彼が必要とする功績につながる情報を与えてやれば大抵大幅黒字になる情報をもたらしてくれる。そして彼はいつも苦言を呈しながらも次の商談を持ちかけてくる。まったくもって上客という訳だ、少々からかいたくなるのが玉に傷だが。


『Макси́м Го́рький』

静寂と孤独に永久にさらされる事になっている社会主義者の墓は、今日も変わらず銅像と壁に刻まれた名前だけをそのままにそこで孤独に打ち震えていた。私は墓の前までゆっくりと歩を進めると、ハンドバックから懐中時計を取り出し時間を確認する。あとたっぷり2時間は何があろうともここで巡回が行われて"何も起きなかった"事になっている。懐中時計を再び鞄にしまうと短く言葉を発する。

「始めなさい、1時間で終わらせて。」

「やるさ、終わらせればなんだってできる力が手に入る。」

虚空から、誰もいないはずの場所から声がする。ガサゴソと道具を取り出す音がして嘆息と共に壁が何かの道具で暴力的に穿たれる。カランカランと何かが転がり出る音がして、その破壊音の元が4ボアの散弾銃である事を私に教えてくれる。暴力的な手段ではあるが手軽に物を破壊するという点においては必要十分な要件は満たしているようだ、音と威力を見る限り4ボアの散弾銃(それもおそらくは熊撃ち用の一粒弾)はオーバースペックであるとも思うがそれはそれとして、品物に被害が出なければそれでもよかろう。

契約書に書かれた内容を履行しなければ即座に彼の特権は消失する、少なくともロマノフ王朝の卵を手に入れるその時まで、彼は間違いなく手駒だ。ともなれば彼とて最低限の配慮位はするだろう。私はいささか優雅さに欠ける暴力的な破壊音と共に暴かれる墓を前に、ラ・メゾン・デュ・ショコラの蕩ける様なトリュフ・コニャックを転がす。シャンパーニュで作られたコニャックのランシオがふわりと鼻腔をくすぐり、退屈なだけの墓暴きの冒涜を優美なものと錯覚させてくれる。

「くそ。俺も早く終わらせて美味い酒を死ぬほど飲みたい、浴びる様に!」

作業する仮初の透明人間はぼやきながらも作業を続け、30分も立たないうちに霊廟の壁が崩され中から一体の棺桶が引きずり出される。仮初の透明人間は蓋をこじ開けて何の配慮もなしに中身を私の方へ示す。ガンガンと鉄製の何かで石畳をたたく音は非常に耳障りで気に入らない。だが確かに棺桶の中にあるそれを見て私は手の平を返すかのように上機嫌になった。

一本の丸められた羊皮紙と共に瀟洒なチーク材の箱に納められたそれは燃えるような紅玉を中心に彩られており、金と銀で縁取られた4匹の蛇がその口に加えたダイヤモンドを優雅に見せつけてくれる。それは……66個目、存在しないはずの最期のインペリアル・イースター・エッグだった。添えられた羊皮紙には薄れたインクでメッセージが添えられている。何処か親しみを感じさせる文体で綴られたそれを私は指でなぞるように読む。

滅びゆく王朝の最期の一人、ツァーリとソビエトから逃れたるロマノフの悲しき皇女の為にこれを贈ろう。これはファベルジェと私の最初で最期の共同作品であり、あなたの赤みかかった金髪のように燃える火の粉に映えるよう作られている。一たび個の卵を開けばこれは持ち主に一番近い危険に対しその内に秘められたファベルジェの魂を持ってささやかなサインを送ってくれる、特に困った時、この卵を開くといいでしょう。革命は最早成ってしまった、トロイカに乗ってお逃げなさい。海の先、自由の土地へ。

長い道のりを、月の照る中を行く
あの遠くで鳴り響いている歌とともに
そして昔の思い出と
夜ごと私をかくもさいなんだ七弦ギターとともに

左利きより愛をこめて。

羊皮紙は見覚えのある人物の書いたメッセージだった。「左利き」、ロシアのアノマリースミスによるものだ。見慣れたサインにほんの少しだけ安堵する。となればこれは手向けでなく何らかの理由で葬られたものだろうか?かつてあの皇女は一人、そう一人だけ逃げ出すことが出来た。ともなればその途上でこのアノマリーが回収されソビエトに渡ったと考える事もできる。

私は木箱をハンドバックに収納すると仮初の透明人間に静かに話しかける。

「さて、ウェルズさん。夢の透明人間になれた気分はどうです?あとはこれを我々の視点に運び金庫に納めた時点で契約は満了。あなたは自由になるわけです。」

「ならさっさと戻らなきゃな、だがその前に一つ解決しなくちゃいけないようだ。」

仮初の透明人間はおどけた声で言い放つ。それと同時に永久に孤独に耐え続けるはずだった銅像はその孤独に終焉を迎える。有り体に言えばゴーリキーの像は大口径による銃撃で吹き飛んだ。私は棺桶の収められていた霊廟へと飛び込むと仮初の透明人間に言う。

「床に穴を開けなさい、この下はクレムリンよ!」

「あいよ、いけ好かない店員さん!」

暴力的な破壊音が連続で響き渡る。カランカランとショットシェルが転がり、床にある程度の窪みが出来たところで点火音と共に床にダイナマイトが差し込まれるのが目に映る。私は一瞬顔を青くするが、仮初の透明人間は問答無用で私を遮蔽物に押し込み、次の瞬間にはキーンという耳鳴りを引き起こす爆音とともに床には大穴が開いていた。音にふらつく頭をなんとか制御しながら、私はハンドバックと一緒に大穴に飛び込んだ。


ロゴスコーポレーション 緊急対応グループ作戦主任 ゲンナジー・ラクスマン 

ビルの上からMC&Dのドレス女が穴に飛び込む姿を見てラクスマンは舌打ちをした。部下はわかりきった目標ロストの報告を上げ、次の対策を聞いてくる。

「この辺りの地下は大抵クレムリンか地下鉄だ、両方に人を送れ。アノマリー、あのロマノフ王朝の卵が手に入ればあとはどうなってもいい、全員殺せ、後始末はどうせ我々でなく別部署の仕事だ。」

指示を送り、近くに転がっているMC&Dの雇われスナイパーに苛立ち紛れに何発か叩き込む。引き金が引かれるたびに死体は飛び跳ね、銃声に合わせてびくんびくんと痙攣する。MC&Dが状況に気が付いて対応に動くまで1時間、それまでに女をどうにかして卵を手に入れて撤退、まあ悪くないスケジュールだろう……なにせもう、彼女を守る護衛はいないのだから。


 レーニン廟地下 “レディ”アリソン・オルコット・カーター

落下した先でゴロゴロと転がってドレスを台無しにしながらなんとか着地する。木箱の入ったハンドバックは無事だが、今日に限って言えば使えそうなものと言えば仮初の透明人間と卵、それに予備の弾薬が殆どない護身用の拳銃だけだ。

「ウェルズ、この辺りにいらっしゃいます?私には見えないので返事をしていただけます?」

「はいはい、ここにいるよ、お嬢さん。これからどうするんだ?いやだぜ、契約履行してもサインする相手がいなくておじゃんなんてのはな。」

「ええ、ですので支店に向かいます、ここはレーニン廟の真下を通るクレムリンのメンテナンス通路なので、これを利用して地下鉄から地上に出ます。多分1度か2度ほどさっきの奴らが襲ってくるでしょうけど、お得意の散弾銃はまだ使えまして?」

「あと12発だ。他に対抗できそうなものはこのインビジリティな能力だけだな。」

「ならせいぜい役に立ってください、頼れるものがない以上あなたを利用するしかありません。」

答えながらも私はヒールを折り、ドレスを破いてスリットを深くする。このまま北に進んでチェアトラーリナヤ駅を目指す、駅から地上に上って行けば3ブロックで関連会社がある.そこまで行けば応戦できる……出来たはず。私はまるでどこぞのハリウッド映画のように汚れた自分の姿に酷く落胆しながら歩き始めた。


15分後 モスクワ チェアトラーリナヤ駅 “レディ”アリソン・オルコット・カーター

早足に通路を抜け、地下鉄の駅へと出たまではよかった。そう、駅に出たまではよかった。だが、駅にたどり着いた我々を待っていたのは銃弾の嵐だった。それも彼らにはどうあがいても私の姿しか見えていない。何処のどんな集団なのか全く見当がつかないが、階段や改札に陣取りロシア製の軍用火器で武装している。

おかげで逃げ続ける羽目になり、今や倒れた自動販売機の陰でスピーチ直前の女子高生みたいにがくがく震える羽目になっている。仮初の透明人間は弾幕を張られてすぐに反応がなくなり、苦し紛れに毒を吐くくらいしかできない。やけくそ気味に数少ない弾薬を接近してきた一人に数発撃ち込み行動不能にさせる。火点を見て今までの倍の弾幕が降り注ぎ、慌てて身を隠したところで声が響く。

「やあMC&Dのコーディネーター。卵を渡したまえ、そうすれば身代金と引き換えに君の安全は保証してやろう。こちらはロゴスコーポレーションの緊急対応グループだ。いくら君が破壊力のあるアノマリーで身を守ってもいずれ死ぬだけだぞ、賢明な」

その時だった、仮初の透明人間がいけ好かない誰かをミンチにしたのは。私はその隙をついて倒れた隊員から奇妙な円筒形の弾倉のついた短機関銃を拾い上げると、狙いも定めずに弾の飛んできた方向へと乱射しながら走り出す。階段を上り、上でミンチになった男性に駆け寄って無駄な手当てをしようとあたふたしている一人に機関銃に残った弾をありったけ叩き込み、死体のホルスターから拳銃を抜いて改札を目指す。

「ウェルズ、改札にいるはず、片付けてくださいます?」

仮初の透明人間は自分の進行方向、その先から大きな声でがなり立てる。

「とっくに片付けたよ、遅くなって悪かったな。」

なら逃げるだけだ。実際彼の言う通りに血の海となっている改札を通り抜け、ここから侵入した連中が破壊したであろうシャッターを抜けて外へ出る。そして……


そして次の瞬間、私は黒塗りのレンジローバーを遮蔽物にしたスーツたちに囲まれていた。彼らはドイツ製の短機関銃を手に私の姿を見て安堵したかのようにため息をつく。

「あぁよかった"レディ"アリソン、お助けに参りました。そのご様子だと今回の商品は無事に確保できたようですね。」

慇懃無礼に返す嫌味な黒スーツに私はハンドバックを放り投げるとぶっきらぼうに言う。

「そうね、その中にあります。これで私の責任は終了、契約者仮初の透明人間の求めを、書面どおりに履行しましょう。」

男は畏まりましたと頷いて私に契約書を差し出す、サラサラとサインしながら私は粗野な従卒として控えていた契約者無知な取引相手に滴り落ちる致死毒のような優美で甘い笑顔で一言添える。

「これであなたは特権を行使するための契約を結ぶ権利を得ました、あなたの望む通りの契約を結び、自由にあの建物を使える事でしょう……そう、契約を結べれば……ね」

私はそう言うと私自身のサインをもって契約を満了したことを確認する。その場には血まみれの散弾銃だけがガチャリと石畳に転がり、そして哀れな男はビーチのコテージへと転移させられる事となった。後の事はあっちの人間がどうするかの事だ、分かり切ったことだが問題はないだろう。


2018年█月██日 ██ █████ ████、██████████ MC&D 外渉部 ロイ・ブラック

満天の星空の下、時間を確認する。社名の入った懐中時計は定刻を示し、それと同時にコテージの前に一人の男性が姿を現す。意識が戻ってないのかコテージの前に倒れたままのその人物は全身を血と汚れにまみれさせた巨漢の男性であり、資料上の特徴と完全に一致する事を確認する。

「本日はご利用ありがとうございました。しかしながらこのコテージは来年まで契約希望者が殺到しておりまして現在契約を行う事は出来ません。申し訳ございませんがまたの機会にお越しくださいませ。」

そういいながら私は38口径の拳銃を取り出し、男性が意識を取り戻す前に装填されている弾薬を全て発射する。

「まあ、もう二度とあなたに機会なんて来ないのですけれどもね。」


社内メッセージ記録
JM/SK
ロンドン/モスクワ: █月/██日/18年、20:13~21:15
20:13 JM アリソン嬢、大物を見つけたって?
20:15 SK 9600万米ドルだとよ
20:19 JM そりゃあぶっとんだ大物だな、何処でそんなの仕入れてくるんだ?
20:22 SK 情報提供者がいたんだとよ、なんでも元ロシア政府の人間とか
20:34 JM ああ、例の"いつもの彼"ってやつね、大層なこった
20:39 SK あの美人だからな、うまくやってるのだろうさ
20:47 JM ところでそのエッグ、もう目録上がってるか?
20:49 SK あるぜ、ぶったまげるよ、添付する
20:55 JM OK,助かるよ……ああ来た、ん、あれはアノマリーだったのか?
20: 57 SK らしいな……っと、残念、例のアリソン嬢だ、ばれないうちに落ちるよ
20:59 JM そうか、またな、こっちに来たらいっぱい奢るよ
21:03 SK バイ、JM
21:04 JM バイ、SK
21:09 SK 切断中
21:15 JM 切断中
記録終了。
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