象の墓を追う

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"墓碑部門"、不明者の調査、特定を専門とし、"財団"の舞台裏とでも呼べるその部門のさらに隅。押しやられるようにおかれた喫煙所へ、資料片手に茂狩唯は向かっていた。内部に広がる紫煙を想像し、眉間に皴を浮かべながら茂狩は喫煙所の扉を開き、目当ての人物へ視線をやる。泉下真姫、墓碑部門異常調査課、つまりは実働部隊の一人であり茂狩の上司である。茂狩の姿を認め、煙草を灰皿へ捨てると、泉下はにこりともせず茂狩の持つ資料を指し示した。

「さて、今回の死体はいったい誰ですかね?」

切りそろえられた姫カットの下から覗く鋭い視線に怯むことなく茂狩は書類をめくり、報告する。

「死因はおそらく溺死、年齢は20代前後。外科手術の形跡はなく、虫歯等の治療痕もなかったとあります」

泉下は口元に手をやり、続けて、というように手を振る。傲岸な仕草だがその逐一が様になっていることに少々苛立ちつつ、茂狩は報告を続ける。

「所持品や衣類は大量生産品のため、特定は困難。一応、リストもありますが」
「いえ、必要ありません」
「免許証など個人を特定できるものもありませんでした、特徴的な遺留品として、ポケットに入っていた石があるみたいですけど」

興味を惹かれたのか、泉下はゆっくりと近づき、何も言わずに資料の該当ページを攫うと目を細める。そのまま何も言わないということは彼女なりの続けろ、という合図である。

「分析課によると警察の前科者データベースにも確認されませんでした、財団の有するPoIデータベースも同様です」

そのまま事実確認を続けようとする茂狩の手を泉下の指が制した。

「まず確認しておきたいのは、何故彼女はここへ運び込まれたのか、ですね?」

要するに、通常の溺死であれば、我々の仕事ではあるまい、ということだ。できれば順番に報告したいのだが、という無言の抵抗を泉下は沈黙で一蹴し、根負けした茂狩は不明者発見状況のページを開く。

「対象は東京、日本橋で発見されました。発見者は付近の通行人で、既に身分調査は終了しています」
「地点は水源から離れていますね。その環境で溺死、ですか」
「ええ、そして最も異常であると判断されたのは、発見した通行人は直前まで対象が目の前を歩いていると証言していたことです。これは監視カメラの映像等でも事実であると確認されています。そのため、当初は急性の心疾患などを疑われていたようですが、溺水の痕跡があることから異常死であると推測され、財団の管理局を経てこちらの部門へ運ばれたという経緯のようです」

状況を再度確認しよう。発見された死体は、"都会の真ん中を歩いていたにもかかわらず突如溺死した"、ということになる。

「確かに、これは我々の仕事ですね」

泉下は頷き、喫煙所を後にする。茂狩がため息を漏らしながらそのあとを小走りに追いかけた。


整頓されたデスクへと戻り、外出の手続きを済ますと2人は現場へ車を飛ばす。その車中で泉下は書類をめくり、手持無沙汰に口元へ指をあてる。車中をはじめ、自分がいる密室では原則禁煙、傲岸不遜な上司に対し非喫煙者である茂狩が徹底抗戦したルールの一つである。

「彼女の肺を満たしていた水には藻類や有機物が含まれていました。茂狩くん、ここから推測できることは?
「水道水やミネラルウォーターといった管理された水源のものではなく、湖沼や河川などの水である可能性が高いってことですよね」
「はい、さらに調査の結果、リン濃度等が著しく低いことが判明しています。つまり、貧栄養湖の可能性が高いと判断されたわけですね」
「貧栄養湖?」
「栄養分が少なくプランクトン等の繁殖が行われにくい湖、一般的に澄んだ湖と呼ばれるものがそれにあたります。カルデラ湖など、他の水系に接続しない山間の湖に多く見られます」

スラスラと誇る素振りすら見せず並べる泉下に、茂狩は強張った笑いを浮かべる。

「毎回どこからそんな知識が出てくるんですかね」
「墓碑部門に長く勤めていればこうなりますよ」
「なら問題です。K.525」
「ケッヘル番号525番。セレナード第13番ト長調『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』……そろそろ現場ですね」

茂狩が適当な場所へ停車する間に、貧栄養湖に関する資料が端末へ転送されてくる。的確な情報を適切な場面で探し出し、提供できる。当たり前のことだが、その当たり前を常に同じモチベーションで行える人間は少ないだろう。性格がお世辞にも良いといえないこの上司に茂狩が付いていくのはその優秀さが理由の一つだ。

「なるほど。今回の不明女性ジェーン・ドゥは衆人環視の中、その湖の水で溺死した、と」
「その湖が特定できれば前進できるでしょう。湖に異常性があるのか、それとも彼女固有のものなのかは分かりませんが」
「まずは彼女の足取りを追うことでしょうね」

よし、やるぞ、と意気込む茂狩は泉下の足音が止まったことに振り返り、建物の上部を指差す姿を捉えた。

「何してるんですか?」
「死亡した彼女はこの場所で亡くなっていました。時間もほとんど同じ、その状況で周囲に何があるかを確認しました。そして、アレです」

その指先を茂狩も辿る。延長線上には監視カメラがあった。


「監視カメラのリレー捜査の結果が出ました」

街中にある複数の監視カメラを繋ぎ、特定人物を追いかけるリレー捜査。一般的な警察でも行われるその方法で対象の動向を追う。泉下の示した方針は単純明快で、だからこそ茂狩は。

「これなら別にデスクでもできませんでしたかね?」
「現場百辺といいます。その状況での視点、周囲の三次元的な情景、画像や映像データでは読み取れない情報は多くありますね?」

確かにそれもそうだとは分かっているが、運転するのは自分だし、泉下が個人的に折り合いの悪い異常調査課と渡りをつけてるのも自分だし。と、色々難癖を考えてはみるものの、そもそもこの上司にふっかけたとて勝てる見込みは低い。大きくため息を吐き、映像と画像のデータを泉下の端末へ転送する。

「彼女、どうやら長野から来たようです。新幹線の切符を買う姿が撮影されていました」

データには長野駅で切符を買う対象の姿が残っている。おそらく死亡当日に長野から新幹線で東京に向かい、日本橋まで徒歩で移動した後死亡した、それが推測される行動ルートである。

「長野駅の前、何処を訪れていたかは分かりませんか?」
「まだ調査中ですね、彼女の素性が分からない以上、推測を立てようにも難しいところはありますし、交通系ICカードとかは使わず、現金で乗ったみたいなんでそこら辺からの特定は困難です。バス乗り場へ向かってはいるようなので、今はそこの監視カメラを全て取り寄せてます」

泉下が小さく頷き、口元へ手をやる。しばらくすると端末を叩き、再度頷いた。

「しかし、これでかなり絞られますね。長野にある貧栄養湖。もっとも有名なものは」

端末の画面に広がるのは山間に広がる澄んだ湖の写真。

Lake_Nojiri1.JPG

「野尻湖、です。推測はできますね?」
「はい、野尻湖へ向かうバス停に限定して調べてみます」

よろしい、というように泉下はひらひらと手を振り、どこかへ電話を掛けた。


結果として泉下の推測は当たっていた。対象である彼女は野尻湖近辺から長野駅へ乗車していたことが確認されたのだ。だが、そこで調査は暗礁へ乗り上げた。それ以前の彼女の同行が全く探れないのだ。泉下が喫煙所へ向かう回数が増え、監視カメラを片っ端から走査botへかける茂狩も一旦コーヒーブレイクと相成った。デスクに戻ってきた泉下にコーヒーを渡し、再度手元の書類をパラパラとめくる。

「行方不明者情報にも上がってきませんね」
「周囲とは没交渉的な人物だったのでしょうか」
「まあ、根気強くやっていくしかありませんよね。どっかで繋がりがあればもう少し分かるかもしれませんけど」

繋がり、それは不明者を調査するにあたって必要な考え方だ。通常の捜査でもそうだろうが、特に異常に遭遇した不明者は多かれ少なかれ何かと繋がりを持ってしまったことが多い。計画的に異常事象を発生させた場合ももちろんだが、偶発的な遭遇だと考えられても潜在的に対象の異常に遭遇する条件を兼ね備えたりしているものなのだ。そして墓碑部門の性質上、その条件を発見することは不明者の捜索に直結する。

「同様の異常性を持つオブジェクトがあるかどうかを調べてみます。……溺死させるといえば真っ先に思い付くのはSCP-151ですが」
「確かに同様のオブジェクトが存在している可能性もありますね」

そう言いつつ、泉下は無表情ながら釈然としない雰囲気を醸し出している。この上司がそういった雰囲気を出しているときは十中八九予想が間違っているということだ。だが、そうだとしても残りの一、二を掴むのが自分の仕事だと茂狩は考えている。端末を開き、溺死に関連するオブジェクトを調べる茂狩に泉下は話しかける。

「彼女の肺に残っていた水が野尻湖の水だとして、何故野尻湖だったのでしょうか。いえ、何故東京まで戻ってきたのでしょうか?」
「よくあるのは時間経過ですね。一定の時間が経過したら時限爆弾のように転移して死亡させるタイプ」
「なるほど、確かにそれはあります。となれば野尻湖にそのような異常性があると考えるべきですか?」
「それはどうでしょうか。何か特別な条件が揃うか、もしくは彼女個人に理由があるかだと思いますね」

異常というものは往々にして個人に起因することが多い。その個人が有している欲求、執着、そういったものが異常発生の原因になることは多いのだ。理由としては奇跡論や形而下学で語られることはあるが、異常による死を直視せざるをえない墓碑部門に勤める茂狩の感覚で言わせてもらえれば、そういった学問的な視点とはまた外れた場所にある。もちろん、直感と事実は反することが多いし、いずれ学問の枠組みで説明されることもあるのだろうが。

「彼女個人に理由が」
「そうでなければおかしくないですかね、少なくとも財団のデータベースに同様の事例はありませんし。まあ、遥か古代までは網羅してませんから」

だが確かに過去の事例を探ることも大事だろうと、近隣の類似事件を別ウィンドウで調査し始めた茂狩は急に隣が静まり返ったことに気が付いた。端末からそちらへ目を向けると、泉下がただでさえ鋭い目つきで刺すように茂狩のことを凝視していた。あまりの迫力に喉の奥で引き攣った声が出る。そして同時に、おそらくこの上司は何かに気が付いたのだと理解し、次の言葉を待つ。

「……彼女が死亡した場所は住所でいえば何処でしたか?」
「えっと、日本橋浜町、明治座の近くですね」

記憶していた住所を答えると同時に泉下の端末が震える。僅かに見えた番号は泉下と旧知の分析課だった。

「結果は出ましたか? ええ、やはりそうでしたか。はい、はい、分かっています。煙草も酒も控えています。はい」

まだ声が聞こえる端末を切り、泉下は何かを検索窓へ打ち込むと現れた検索結果に深く頷いた。

「少なくとも死亡場所と野尻湖の相関は分かりました」

検索結果に表示されたのは巨大な牙を持つ生物の骨格。

Palaeoloxodon_naumanni.jpg

「ナウマンゾウです」


ナウマンゾウ。かつて日本列島に生息していたゾウの一種であり現在は絶滅した生物である。

「野尻湖は複数の考古遺物が発見されています。その中でも著名なのはナウマンゾウやオオツノジカの化石、およびそれらを狩猟していたとされる人類の遺物です。そして、不明者の死亡した日本橋浜町は約45年前、開発の最中にナウマンゾウの化石が発見されています。つまり、彼女はナウマンゾウの発見場所から発見場所へ移動していることになります」

目的地への車中で泉下は再度不明者の特定に至る経緯を確認している。泉下は静かに端末を開くと、不明者の持っていた石の調査結果を表示する。

「それに加え、不明者の有していた石はナウマンゾウの化石でした」

偶然も3つ揃えば必然になる。それだけの要素が合わさって、関連を疑わないという方がおかしいだろう。ナウマンゾウというミッシングリンクが繋がれば、あとはそれに関連した情報を探せばいい。

「ビンゴです。野尻湖ナウマンゾウ博物館の学芸員から見覚えがあると証言を取りました」

少なくとも今回の不明者は野尻湖へナウマンゾウを求め訪れていた。そこからSNSや各大学、研究施設を辿り、ようやくその正体に辿り着いたのだ。

「都内の短大に通う学生でした。本名は竜崎悠里で年齢は21歳。家族を早くに亡くし、友人関係も希薄ということです」
「なるほど、そこまで分かりましたか」

不明者の身元は分かった。だが、それだけが墓碑部門の仕事じゃない。その動向を調査することで異常の原因調査に寄与する。そのためにはまだ彼女の行動を調べる必要がある。

「はい、……ですが、そのせいでよく分からない点が出てきました」

不明者、竜崎の足取りはようやく判明した。死亡が確認される3日前に長野へ渡り、野尻湖ナウマンゾウ博物館を訪れていることが分かっている。だが、問題はそこからだった。

「目撃されて以降、彼女は3日間全く確認されていないんです」

最後に確認されているのは博物館近辺の監視カメラ。その後、長野で再び目撃されるまでの3日間、全く足取りがつかめなかったのだ。その時間の差が彼女の正体を掴めなかった要因の一つでもあった。宿泊施設を予約した記録はなく、近隣の宿泊施設にも泊っている様子はない。つまり、彼女は死に至るまでの3日間、どこにも存在していないことになる。

「妙なことには彼女、キャリーバッグやリュックサックなどの大きな荷物を持っていないにもかかわらず、服装が全て変わっているんですよね。ですからどこかで調達したとは思うんですが」
「はい、そのためにも彼女の生活を探る必要があります。死ぬまでの3日間、何処へ行っていたのか、それを探す必要が」

茂狩が乗りつけたのは竜崎の住んでいたアパート。警察を名乗り、管理人に鍵を開けてもらい入ったその部屋には、生活感の薄いベッドとテーブル、本棚だけの生活空間。そして。

「……これ、睡眠薬ですよね?」

大量の睡眠薬の処方箋。おそらく複数の医院を回って手に入れたのであろうそれから予想できることは一つだった。

「彼女は自殺しようとしていた?」
「ですが、その睡眠薬はごく少量を除いて放置されたままです。実際に分析課の調査においても彼女からは検出されませんでした」

さらに本棚を漁りながら泉下は答える。無造作にいくつかの本を抜き取り茂狩の前に広げていく。小説や短大の授業で使うのだろうテキストに混ざってナウマンゾウに関連した本もあれば、化石に関係する本もある。竜崎がゾウに関心を持っていたのは間違いないだろう。茂狩はこの場所に住んでいた竜崎の生活を想像していた。少なくともここで彼女は生きていた。生活感が薄く、どこか寂しさも孕んだこの部屋の中で、本棚だけが唯一生きていた人間の記録を色鮮やかに残していた。

「……でも、何も分かりませんね、ここにある情報だけだと」
「いえ、そうでもありません」

泉下が広げた2冊の本。本棚の中でも特に目立って古さびていた『かわいそうなぞう』と『古代の生物』。

「どちらも児童向けの本ですね」
「ええ、そして、奥付を見てください」

促されめくった奥付には、どちらも同じ蔵書印が押されていた。

「『はなかた保育園』、ですか。調べてみます」
「茂狩くん、あなたはそちらをお願いします」
「泉下さんは行かないんですか?」
「煙草の匂いが付いている女が向かうべき場所ではありませんから。それに、こちらはこちらで調べたいことがあります」

泉下の手には付箋の付いたガイドマップが握られていた。


「ええ、悠里ちゃんでしょう。確かにその日、ここに来てたわよ」

蔵書印にあった「はなかた保育園」を訪れ、出迎えてくれた園長は白い髪を丁寧に整えた穏やかな老婦人だった。

「悠里ちゃんはここの卒園生でね、卒園した後も時々来てくれてたわ。ご両親を亡くされてからはしばらく来てなかったのだけれど、その日にひょんと来てね」
「どんな様子でしたか?」
「元気そうだったわよ。……といっても、長い付き合いだからね、本当は何か落ち込んでるみたいだったわ。色々と抱え込んじゃう子だったから」

柔和な園長の顔に憂いがよぎる。その方面で話を引き出すのは難しいかと茂狩は持参した2冊を広げた。

「園長先生、この本に見覚えは?」
「……あら、懐かしい。これは悠里ちゃんにあげたのよ。悠里ちゃん、『かわいそうなぞう』を読んだときはねあんまり変わったことがなかったのよ。それからしばらくして、突然泣き出したと思ったら、その図鑑を読んでてね。どうしたのって聞いたら絶滅したゾウがかわいそうだって、トンキーみたいに最後の1頭になるのは嫌だって、そういって泣くの。なんだか、私も涙が出ちゃってね」

ほろほろと微笑む園長の顔は、在りし日の彼女を思い出しているのか、優しさに満ちていた。

「でもしっかりと読んでるのよ。自分なりに考えようとしてたのかもしれないわね。他にもゾウに関係する本を図書館で借りて来たりしててね。そうそう、この本は卒園するときに欲しいって言ってきてね。もちろん、喜んであげたわ」

『最後の1頭になるのは嫌だ』、その言葉が茂狩には強くイメージされた。竜崎の自室には隠し切れない孤独の匂いが残っていた。その言葉はナウマンゾウという絶滅したゾウを通し、竜崎自身に強くイメージされたものだったのではないだろうか。推論に過ぎない、そう考える茂狩の端末が低く震える。園長に断り、廊下で通話をスライドする。

「茂狩です」
『泉下です。長野の現地エージェントから連絡が取れました。竜崎悠里のガイドマップに残っていた印を調査したところ、近辺で彼女の遺留品が発見されました』
「え! それは良かったじゃないですか」

遺留品が見つかれば捜査は進む。ここまでの情報を照らし合わせ、3日間、竜崎悠里が何処にいたのかが分かれば。そんな茂狩の期待を察したように、画面の向こうの泉下は淡々と事実だけを告げていく。

『ええ、遺留品は全て"湖底に水没した状態で発見されました"。携帯電話や衣服なども発見されています』
「……は?」
『遺留品には時計が含まれており、水没した時刻で停止したと考えられます。時刻は"彼女が長野を訪れた当日です"』

その事実が示すことは単純だった。

「待ってください。それってまるで、彼女がその日に湖へ飛び込んだような」
『おそらくそうでしょう。部屋に残っていた物品から見て目的はおそらく入水自殺だと考えられます』
「だったらおかしいじゃないですか、服も携帯電話も沈んで、その状態で生き残ってわざわざ3日後に日本橋まで戻ってきたんですか!? どうしてそんなこと」
『茂狩くん、私たちが相対しているのは異常です。そもそも前提が違ったのではありませんか?』

前提が違った? 泉下は何を言っている? 困惑する茂狩の頭に竜崎の死因がよぎる。

彼女は往来で突如溺死したために異常と判断された。

では、衆人環視の中で溺死した彼女は"倒れるまで生きていると誰かが確認したのか"?

「……彼女は日本橋で溺れ死んだのではなく」
『溺死した状態で日本橋までやってきた。今回の異常性は、遠距離の溺死ではなく、歩く溺死体だったということです』


再度、監視カメラのデータを解析にかけた結果、長野で確認された生前の竜崎と、日本橋の竜崎は僅かながら歩様が異なっていた。その一方で顔認証は同一人物であることを有意に示しており、この事実から竜崎悠里が歩く溺死体であった可能性は強い蓋然性を帯びるという結論が下された。数日後、この結論をもとに該当事案は竜崎悠里個人において発生した異常事案であると結論付けられ、墓碑部門としての調査は終了ということになった。

個人に発生した異常は多くの場合他者へ波及しない。今回の場合、竜崎個人が有していたナウマンゾウへの執着が影響を与えた、再現性は著しく低いものだと判断された。それはつまり財団が以降も確保、収容、保護をする必要がない一過性の事案として超常現象記録になるのが関の山だ。

ぐったりとデスクにうなだれる茂狩は、傍らで淡々と報告書を打ちこむ泉下の鉄面皮をよそに一人呟いた。

「つまり、……彼女はナウマンゾウに操られたってことなんでしょうか? わざわざ死んだ3日後に化石を持たされて」

釈然としない。それはきっと彼女の生涯に少しでも触れたからだろう。滅んだナウマンゾウの孤独に同調し、そのナウマンゾウが見つかった場所で死を選んだ竜崎。そんな相手を何故死んだままで歩かせたのか? そこに何かを感じたいと思うのは間違いなのだろうか? 割り切れない茂狩に視線を向けることなく、泉下は手を止めずに口を開いた。

「象の墓場、という古い言葉があります」
「……象の墓場、ですか」
「象は自らの死期を悟ると群れを離れ、特定の場所へ向かうと言われることがありました。実際は象牙の密輸業者による罪を逃れるための嘘という説もあります」
「泉下さんは、彼女が死ぬことを選んだとき、野尻湖を象の墓場に例えて向かったっていうんですか?」
「そう考えれば、少なくともあなたは納得に近づけるのではありませんか? 死者はもう何も語らないから死者なのです」

死者は何も語らない、それはそうだ。いくら考えたって彼女がその時何を考えていたかは分からない、分かってはならない。だからこそ墓碑部門はある。死者の周囲に漂う事実を集め、穴だらけの真実を墓碑とする。そういう仕事だとは理解している。そして、おそらく慰めてくれたのであろうこの上司が、自分よりそれを理解していることも知っている。

「少なくとも、これは普遍的な異常ではありません。おそらくトリガーがナウマンゾウであることを考えれば、彼女と同様にナウマンゾウへ執着を持つ人物が野尻湖で溺死する可能性は低いでしょうから、今後一定期間周辺の死亡人物、特に自殺の事案を継続観察するあたりが落としどころでしょう」
「なら、これで仕事は終わり、ですか」
「ええ、既に事案の報告は終了していますし、記録保管庫に持っていくだけです」

ふ、と泉下の目が時計へ伸びた。

「そろそろですね」
「はい、そうですね」

着古したフォーマルのジャケットを羽織り、黒のネクタイを首へ通す。墓碑部門から火葬場までは非常に近い。

異常事案に遭遇した死体はその後性質が変化することも加味され、墓碑部門の調査が終了するまでは簡易な防腐処理を施され、保管されることが多い。司法解剖に回したり、病理解剖に回すという言い訳で時間を稼ぐこともあれば、関係者に一旦ダミーの死体や骨片を用意し、あとで入れ替えるという手段を取ることもある。火葬の際立ち会う義務はない。だが、墓碑部門の人間は多くが立ち会う習慣を持っていた。泉下もその一人、部下である茂狩も同様に。

棺に収まった竜崎悠里の顔は水の中に3日もいたにしては綺麗だった。監視カメラに映った表情より固く見えるのは死化粧のせいだろうか。棺の中に花を供え、蓋を閉じる。火葬場のスタッフが慣れた手つきで焼却炉へ棺を運んでいく。静かに目を瞑り手を合わせる。────足元を何かがくすぐった気がして目を開けた。そして、思わず目を見張る。

「泉下さん」

足元に、小さなゾウがいた。茂狩の声に泉下も目を開き、珍しく声をあげた。

「茂狩くん!」
「大丈夫、大丈夫です、こいつ、私のことは見てません」

半透明で、触っている実感すら曖昧なそのゾウは、鼻をあげるとプオンと一声高らかに鳴く。その声をきっかけにしたように、周囲の空気が揺らいだ。巨大な影が次々に火葬場へやってくる。鼻を振り、柔らかなカーブの牙を揺らし、茂狩を突き抜けゆっくりと、ゆっくりと、棺の周りを囲んでいく。泉下の周りを避けているのは彼女のまとう煙草の匂いが原因だろうか。火葬場のスタッフを見ると壁にもたれかかるようにして倒れている。息はしているようなので眠っているのか気絶しているのだろう。

巨大なナウマンゾウの陰の中に棺は包まれていた。ゾウたちはまるで愛おしむように棺の中へ鼻を伸ばし、竜崎悠里の死体を抱え上げる。『最後の1頭になるのは嫌だ』という言葉が頭の中にリフレインした。蜂蜜色の光がどこからともなく差し込んでいる。泉下が呆然としたように呟いた。

「なるほど、彼女はいわばナビ。死体として歩くことで象の墓場へ各地で死したナウマンゾウを導く、その役目を受けた」

泉下の言葉が真実だとするならば、彼女はナウマンゾウに歩かされたのではなく、自らの意思で歩いたことになる。ナウマンゾウの化石を持って、墓地から墓地へと、届けるために、導くために。……それが真実でなかったとしても、そうであってほしいと強く願う。

ゾウの鼻に抱えられた竜崎悠里の顔が一瞬こちらに向けられた。その顔に茂狩は安堵を覚え、直後、膨らんだ光の中でゾウたちが一斉に鳴き声をあげると、霧のように消え失せた。一瞬虚を突かれた茂狩の横で泉下が棺に駆け寄り深く頷く。慌てて駆け寄った棺の中に、竜崎悠里の死体は存在していなかった。

「消えた、んですか?」
「……おそらく、沈んだのでしょう」
「野尻湖に、ですか?」

しばらく考えて泉下が口を開く。

「あるいは、深い、深い地層の奥に」

仕事が増えてしまいましたね、と泉下が倒れたスタッフたちの気付けに向かう中、茂狩は深く目を閉じ、手を合わせた。


数日後、死体消失の事案報告が正式に終了し、報告書の保管庫に向かう途中で茂狩は大きくため息を吐いた。

「懲戒事案にならなくてよかった……」
「あの状況を予期するのは少々困難です。当然の結果ですよ」

あいも変わらず淡々とした上司に心の中で舌を出し、その後を追う。

「結局、今回は報告書にもならず、私たちの功績はまたしても人目に残らない、ですか」
「いいえ、いつか野尻湖の底から人骨が発見されたり、あるいはナウマンゾウの地層から現生人類の骨が発見された場合、私たちの記録は必要とされます」
「そんなこと、あるんですかね?」
「仮定ですが、竜崎悠里が長野から東京へナウマンゾウのラインを繋げてしまった可能性はあるでしょう。ならば全国的に巨大古生物の目撃例が上がる事は考えられますね。もっとも、ナウマンゾウは全国各地で出土しています。いわば日本全体が象の墓場なわけですから、案外影響はないかもしれませんが」

竜崎悠里が旗を振りながらナウマンゾウを先導して歩く姿を想像し、茂狩は不謹慎にも笑ってしまう。自殺者を操るゾウよりそっちの方がよっぽどいい。保管庫の扉を開け、泉下が静かに息を吐く。

「少なくとも彼女の名前はここに残ります。彼女が滅びたナウマンゾウを唯一のよすがとしていたことも、彼女の選択も」

報告書を渡すと泉下は証書を渡すように保管庫へそれを差し入れた。

折り目正しく礼をする彼女はいつもこの日だけ煙草の匂いがしない。

「おつかれさまでした」
「おつかれさまでした」

死者は何も語らない、だから墓碑部門がある。おつかれさまでした、ゾウを愛するあなた。

茂狩の端末が揺れた。新しい不明人物の発生連絡だ。

「……さて、次の死体はいったい誰ですかね?」

泉下が翻り、茂狩が後を追う。ゆっくりと保管庫の扉が閉まる。

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