転校生の熊谷くん
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2045年4月。僕たちは進級し、中学2年生になった。新しく分けられたクラスに向かった僕は、扉を開ける前に少し耳を立てる。誰も自分のことを話していないのを確認した僕は教室に入り、皆が騒ぐ中、静かに席に着いた。

始業式が終わった後はお決まりの自己紹介タイムが始まった。言葉を発してからすぐに視線を天井に逸らす。品定めされるような視線をねっとりと突き刺されるのが怖かった。僕は適当に名前を言ってからよろしくお願いしますと誰に向けるわけでもなく放り投げて、そそくさと席に座った。暫くしてから知らない男子が立った。

「愛知県の中学校から転校してきました、熊谷正です」

転校生であるというのに、誰も驚いた様子を見せなかった。僕だけが知らなったのだろう。身長と肩幅が広い。その威圧感は僕にはないものだ。他人事の様に彼のことを考えていたら、彼はいつのまにか僕の隣の席に座ってしまっていた。彼の首が少しずつこちらを向き始めていたのを察知した僕はすぐに、貰ったプリントに目を通す振りをした。嫌だ。じわじわと頭が恐怖心で一杯になって彼を遠ざけた。

休み時間に彼の全身を捉えることは取り巻きが邪魔でできなかった。それもそのはず、彼はその図体に似合わず、社交的な存在だった。机の地平線の向こうにある世界を見ていると、ものすごく叫びたくなる。叫ぶわけにはもちろんいかないので、その思いを一年生から使っている専用のノートに汚い字で書きなぐる。何度こんなくだらないことに思いをはせるのは意味のないことだと分かっていても、止められない。カーテンで遮光されているはずの窓辺がとても眩しく見えた。


6月。体育の授業の前の休み時間のことだった。連日降り続けている雨の影響でひどくぬかるんだ校庭が2階の僕らのクラスの窓から見えた。二重の意味で憂鬱な気分だ。今日の単元は剣道で、体操服の袖に腕を通しながらため息をついた。その時、突如自分の机が音を立てて揺れる。教室から走って出ていく男子の背中が見えた。多分あいつらが机にぶつかったのだろう。机の上に置いてあった小手の下につけるための手袋が落ちているのに気づき、僕はしゃがんで床に落ちた手袋を拾おうとした。だけども、なぜか立ち上がる気分になれず、そのまま死体の様に床の上で横になった。

僕しかいない教室で、時計の針は授業の開始まであと2分であることを告げている。彼らに悪意はないし、おそらく手袋に落ちたことに気づいたのであれば謝罪の言葉と共に手袋を拾ってくれていたのだろう。そんなことは分かっているけれども、なぜだか他の可能性を考えてしまう。僕にその原因の一端があるとするなら?その考えが、ざわざわと身体を震えさせた。もし、僕でなくて、他の人間。そう、例えば熊谷正のような人間であったなら、こんなことは起き得たのだろうか?思考が酷い悪循環に陥っている最中にチャイムが鳴り響く。

僕が自己嫌悪の波に飲み込まれていた時、ガラガラと教室の扉を開けて誰かが入ってくるのが、机と椅子の柱の間から見えた。熊谷正はこちらには気づいていないらしい。

「あれ、忘れたか」

どうやら、彼は剣道の用意を忘れてしまったようだった。小手下の手袋と、名前の書かれた"垂れ"は毎度持参しなければならない。その時彼の皮膚が突然こげ茶色の何かで覆われていった。目を凝らしてみると、それは毛であるようであった。そして首の付け根にまで毛が生えたとき、頭部がぐにゃりと歪んで、一瞬のうちに異なるものに変貌した。彼が熊になっていたことに気付いた僕は息が自然と止まっていた。

熊は口をあんぐり開けて、小さめに鳴いた。その空気の震えは、僕の両耳の中で反響する。音は純粋な情報に変わり、大脳皮質で感情に変わる。僕は声も出せずに動けなくなった。僕がどうするべきか思考をかき巡らせていた時、熊は一瞬の内に熊谷正に戻っていた。そして何事もなかったように、教室から出ていった。僕は瞳孔のカメラ──これは比喩でもなんでもなく、人類の技術力の賜物である──が捉えた内容を見返して、幻覚ではなく事実であったことを再確認して、深く深呼吸する。熊谷正は、太陽を、いや地球を中心に世界が回っていると言っている。ならば僕は、彼を否定して火あぶりにしなければならない。自身の記憶を薪にして、僕の心を司る枢機卿たちが罪状を述べて、火をごうごうと燃やし始める!目覚めた僕は、しっかりと両足で立ち直る。僕は教師に怒られないように、武道場にすぐに向かうことにした。


次の朝。僕はいつもよりも3本早い電車に乗った。6月といえども、朝は少し涼しかった。とはいえ、「気持ちが良い」とは言えるような状況では無かった。これから行う良くないことを考える。もし隣に人が座っていたなら、心臓の鼓動が伝わっていたかもしれない。僕はリュックからノートを取り出し、今の感情を書き留める。ピンク色のボールペンから引かれる線が、波を打つ。

階段を上がる度に僕の動作が静寂の中で、強調される。何も無かった空間が、僕という存在が混ざって全く異なるものに変わる。目的地までの道のりは、とても長い。階段の上から、もしくは階段の下から来るかもしれない誰かが僕を見つけて、僕に何をしているのかと問い詰めるかもしれない。一段一段上がる度に、異なった角度での未来予想が、脳内リソースの8割を消耗する。ついにたどり着いた教室の扉を開けると少し暖かい空気の塊が僕の顔を舐める。教室は南向きで、朝日が室内にぬくもりを与えていたのだ。今、この瞬間に勉強を始めればさぞ気持ちの良いことだろう。しかし、僕は一度席につく余裕すら無かった。リュックを机の上に置く。袖を捲る。マーカーを握る。握りしめる。

熊。ホワイトボードに書かれた一文字目。繰り返した脳内イメージによると、ここまでは見つかっても大丈夫。これは本当にやらなければならないことか。イエス。それは何の為か。僕の考えの正しさを証明するため。それとちょっとの嫉妬はあることは認める。僕は深呼吸をして、残りの文字を一気に書き進める。そうでもしなければ、もし僕が正しくなければ、なんていう考えが浮かんできて、僕は手を止めてしまうかもしれないから。

熊谷正はAFCである

その後、同様のことを書いた紙を教室のそこら中に貼り付ける。水性の文字は消されてしまっては終わりだからだ。まず最初に皆の机の中に丸めたものを隠す。熱意を込めて奥の奥まで。次に教室に置かれている冊子の一つ一つに挟み込む。執念を生かして一枚ずつ丁寧に。最後に余ってしまった紙を昨日机にぶつかった男子たちの机の上でばら撒く。これだけは、一心不乱に。

全自動化した図書室は、この時間も空いていた。ホームルームの時間まで暇をつぶせればいい。興味もない推理ものの小説を本棚から取り出して、読むふりをしながら教室に誰かが来た時のことを想像し続けた。AFC、動物特徴保持者。2025年の異常性保持者保護法の改正から20年経ったとしても、まだこの日本にはAFCを恐れ、避け、蔑む人々が多くいる。もちろんそれは教科書にも載っているし、悪いことだと誰もが知っていることだ。けれど、「知ること」と「理解すること」の間の壁は恐ろしく高い。クラスの奴らだってきっと、そうなんだ。そうでなければ、困る。

夢想を終え、僕は図書室を出て、まっすぐ教室に向かった。イメージトレーニング。僕は調べたいことがあって学校に早く来ていただけです。そう言えばいい。躊躇いもなく扉を開けるといつも通りクラスの様子が広がっていた。机の並びの中に、人の集まりがいくつができていて、朝を普通に楽しんでいる。表札を確認したが、入ったクラスは間違っていなかった。妙な動悸が僕を襲う。熊谷正が許されたのか!僕は中心にいるはずの熊谷正の存在を探す。トイレですすり泣いているか、封鎖された屋上までの階段の途中で放心してくれればいい。けれど僕は人と人の間に茶色い塊を見つけてしまう。その熊は日本語を話して、その場を盛り上げていた。

ホワイトボードの文字は消され、教室の紙は全て取り除かれていた。その後のホームルームで大きな話題になることもなく(担任が多少驚いていたが)、いつもの日常が過ぎようとしていた。聞き耳を立てていたところ、熊谷正は特殊なAFCで、自身である程度動物的な特徴を制御できるとのことであった。しかしながら、制御することにはそれなりに意識をしておかなければいけないらしく、制御していない方が楽であるらしい。本人は「トイレに行くのを我慢する感覚を弱めにした感じ」とのこと。であるから、この際にカミングアウトしてしまったらしい。

「それに、そうじゃない、って言ったらみんなに嘘つくことになるだろ。そこには負い目が生まれて、きっと俺はみんなと今まで通り話せる気がしないんだ。それに、できるだけ、俺は俺のことを否定したくないから」


7月。梅雨は開け、体育の授業の単元は水泳に変わった。プールの水面に反射している太陽の輝きは日よけの下でも眩しかった。僕は"肌が弱いから"プールには入れない。そう誰かに入らない理由を聞かれた時に答えようと考えているが、案外誰にも聞かれない。暇だから、水泳の時間は嫌いだ。僕だけを残して、夏の一瞬は永遠に変わる。

授業が終わる10分前に、茶色い塊(これは差別的な表現だが)が地上に現れる。水に濡れた毛皮が彼のフォルムを変えていて、周りの人間が決して僕に向けては見せないような明るい顔を見せる。その笑いは、決して嘲笑ではない。あの日から、僕は新しい論理を組み立てた。熊谷正は特別人気があったのだ。加算されたポイントが、彼の特性によるマイナスポイントを打ち消しただけ。例外処理だ。

事後運動を終えた彼らは洗顔台で顔を洗い始める。プールの塩素を落とすために必要な儀式ではあるのだが、水泳という行事の後だからか、それとも夏の暑さにやられたのか、もしくは彼らが中学二年生だからだろうか、まだふざけあって水をかけあっている。くだらない。嘘。まったくくだらないことなんて無いんだ。ただ僕が自分を守るためにそう思いたいだけ。本当に嫌だ。これを見ていることは精神衛生上、本当に良くない。そう思って前を向く。誰もいなくなったプールの中の水塊はゆっくりと揺れていた。

びしゃり。僕の背中が濡れた感触がした。冷たくて、とても嫌な感覚だった。振り返ると、彼らはこちらを向いていて、声が出ないようであった。あんなに煩い蝉の鳴き声が、僕たちの間に響きわたる。見たんだな。僕の背中を。見たんだな。僕のこの背中を。僕のこの気持ちの悪い鱗で覆われた背中を。

見るな。

そう声を出したかったのに、声を捻り出すことができない。叫びたいのに、喉が機能してくれない。ただ、両手を背中に伸ばして、覆い隠して、頭を伏せることしかできない。できない理由は自分でも分かっていた。ただ、目を見るのが怖かったからだ。そこにある嫌悪の視線を捉えるのが怖かったからだ。

「お前ら、見るな。嫌がってるだろ。えーと、大丈夫か?その、ごめんな。お前らも謝れよ」

熊谷正は僕と彼らの間に入って、そう言ったようだった。その言葉にはっとしたのか、彼らは口々に謝った。彼らの物音は聞こえなくなっていた。

「先生には、その、言ったほうがいいか?」

何も言えない。口を開けることすらできない。

「その、多分。あいつらがこれからお前に対してどうにかするってことはないと思う」

うるさい。

「確かに、あいつらは驚いてたけど、それはお前が、えー、あいつらと同じだと思ってたからであってさ」

黙れ。

「それに、その、本当にあいつら何とも思ってないと思うよ」

そこから先はあまり覚えていない。先生に無理やりに着替えさせられて、ただ保健室で寝かされた。母親が迎えに来て、僕を感じの良い言葉でなぐさめて、自室に入れた。

いつもと同じ行為をしようとする。何も言えない時はノートを開いて、思っていることを羅列する。でもページをいざ開くと、そこに過度な被害妄想と膨張した自意識が書き綴られていた。分かってる。何とも思われないのは、この背中のことなんかじゃない。僕はノートを壁に投げつける。ベッドの上でノートに馬乗りになり、ただ揉みくちゃにする。分かってる。何とも思われてないのは僕自身だ。その時、僕は初めて声を上げる。10本の指が勝手に動いて、ノートの一枚一枚が散り散りに裂かれていく。

次の日も学校に行った。何もなかったかのように、日常があった。熊谷正は相変わらずクラスの中心にいたし、僕は相変わらず誰とも関わらなかった。けれど僕はノートを使うのをやめた。その変わりに40年前のアイドルの歌を耳に流して自分を隔離し心を落ち着けることを学んだ。そして、高校受験のための勉強を始めた。

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