「放浪者の図書館には封じられた忌庫がある」
誰かがそう言った。
放浪者の図書館。ありとあらゆる世界を繋ぐ、無限の回廊。その空間は限られた物しか踏み入る事が出来ないが、来るものを拒む事は無い。その懐はどこまでも深く、広く、無限が如く並ぶ本棚があらゆる者──延いては書籍を出迎える。
その放浪者の図書館を以てして、封じている何かがある。
それが果たして書籍かも分からない。情報の真偽は未だ曖昧。ただ感じられる事は、果てしない危険。想像もつかない衝撃。大きな力の気配。その気配に惹かれる物は、決して少なくない。
何人かが何処からともなく集まった。全員が違う出自を持ち、異常を持ち、思想を持った者達だ。只共通していた事。それは果て無き図書館に根付いた退屈への殺意と、一握りの野望。そういう集まりである。
「図書館に居付く奴等は、どいつもこいつも何かにのめり込まないとやってられない変態共さ」と征く人々は言った。集まった彼らは各々が見出し、誰にもひけらかす事が無かったであろう技術を隠し持っている。特定、解錠、ポータルのネットワーク。蛇の手の奴等に見つかるとまずい、隠密に正確に見つけ出せ。退屈に肥えてしまった我等の舌が、焼け焦げる程の浪漫の果てを。
寄せ集めの呉越同舟、遂行するは暇つぶし。
そこには当然奇妙な連帯が芽生え、
当然、抜け駆ける者も発生する。
硬音。
本棚に囲まれた回廊に淡々と足音がくぐもる。中肉中背の男が1人、限りなく気配を殺し、尚不審すぎる様で駆け抜ける影が壁に揺らめいていた。二度通れる保証が皆無である通路を一切の躊躇なく通過する様は、愚か物かズ抜けた勇者の二択を提示する。男がどちらであるかは、未だ分からない。
本棚を翔ぶ半透明の鴎が二羽、男の頭上に影を差す。
最初に集まった時、面々が立てた目標。それは忌庫の実存の確認である。実存したとて、出口の見えない図書館に隠された忌庫など見つけられる物なのか。"特定"という第一目標は最初にして最大の壁であった。
通路は続く。本棚の密度が、徐々に徐々に下がっていく。
VERITAS。蛇の手崩れの輩が、GOCからの鹵獲品として持っていた物。EVE密度感知により、あらゆる壁を無視して特定作業が可能な代物である。1人が使役していた虫達にこの代物を概念付与する事によって特定効率を跳ね上げ、結果「VERITASが感知しない」不自然な領域を特定する事に成功したのがおおよそ五日前。図書館という空間上の"裏"、入口も無いホワイトスペース。何かが隠されている場所。其処こそが忌庫なのかもしれない。その座標に繋がる唯一のポータルを見つけるのに、そう時間はかからなかった。
上手く行き過ぎている。
男を含め、その場にいた誰もが感じた事だ。順調が故に生んだ違和感は、当たり前に猜疑心を生む。ここまであっさりと事が運ぶ物なのか。何か裏があるのでは無いか。猜疑心は連鎖する。故に男は、現在一人立っている。男の右手に持ったオブジェクト。他ならぬ彼自身の技術。ポータルの形而上的認証システムにバグを生じさせる事で強引にこじ開ける、使い捨てのマスターキー。結局の所作戦の核は他ならぬこの男であった。故に男は、現在一人立っている。
一回の深呼吸。本棚が掃けた故の音響は、硬い足音を冷たく耳鳴る。
目的座標。そこは何もない空間で、只暗い壁が眼前を重く閉ざしていた。まるでそれが当然の如く本能が虚無を感じさせる。だがそれこそが"何かが隠されている"決定的な証拠だと、理性で結論は出されている。
この空間を破った先に、追い求めた忌庫がある。ゴールテープを目と鼻の先にした上で尚、そこにあるのは圧倒的な未知であった。果たしてその中には何が眠っているのであろうか。例えば世界の理を左右する程の強大な物が載せられた書架。例えば耐え切れる物が少ない程の絶対的な真実。或いは一つの並行世界の核そのもの、なども有り得るかもしれない。
少し震えた右手がオブジェクトを起動する。空間に歪みが生じ、ゲートポータルが眼前を侵食していく。ここを踏み越えれば。男の心中を埋め尽くしていたのは一滴の恐怖と、それが消えて無くなる程の好奇心。そして、じわりじわりと湧き上がった眇眇たる野望。それだけで、男はポータルを踏み越えて。
空間を超える感覚。忌庫、その内部に踏み入ったと肌で感じる。
それと身体が重力に引っ張られたのは、ほぼ同時だった。
落下。
突然地面を見失った浮遊感で、思わず上を見上げてみて。絶対に開いている筈のポータルが完全に遮断されている事を、男は呆然と眺める事しか出来ない。
有る筈の異常は応答無し。身体の自由が効く事も無い。狭く深い空間の中、只底を目指し堕ちて行く。忌庫という名前。上手く行き過ぎていた事。もがく事も出来ぬ中、散らされた事象が繋がっていく。
瞬時に理解したのは忌庫の本質。この空間の役割。外から入る者を妨げる為では無い。一度忌庫の内部に入った者。それを何があろうとも出さない為のゴミ箱だ。地面が近づいてくる。鼻を劈く腐臭が香る。積み重ねられた死体。あらゆる世界からかき集められた書物。壁にへばりついた乾いた血潮が、男の視界に入った時。
─────その眼の前には、只、朱い鳥だけがある。