「よし、今日はここまで。前回の申請は承認済みだから、午後には希望の雑誌が届くはずだ」
「あの……やっぱり、博士の本名を伺いたいのですが」
「それは無理な話だ。それに、大して重要でもない」
「すみません……明日もこちらへ?」
「いいや、僕は出かけるよ。代わりにフェンリル博士が来るはずだ。前に会ったことがあるだろう」
「どれくらいのご予定で?」
「1週間のつもりだ。それじゃあ、お先に失礼するよ。おやすみ」
サイトーCN-14を出た時にはもう、辺りは夜に差し掛かっていた。夕日は赤々と燃え、海原は漆黒を呈している。地下深くに埋設されたサイト内とは違い、海には1日中、暖かい潮風が吹いている。KSと99人の同僚達は、狭い船倉でおしくら饅頭となった。船を降りてからも、まだ少し船酔いを感じている。
「1年以上も無休では、流石に堪えるだろう?」
おとといの昼、フェンリルは口にバターロブスターを詰め込みながら、KSと談笑していた。
「連勤は身体に毒だ、休暇を作ってやるよ。経費は……サイト持ちで構わない」
彼の最後の一言からは、重大な決意が感じられた。
上司からの提案は普通、拒む余地が存在しない。裏があると疑っても、だ。しかしながら、怪しい事件は全く起こることがなかった。収容違反もないし、欠員が出た部署もない。要注意団体も現れない。ごく普通の休暇であった。
帰宅し、ソファで両親と語り合う。ここ1年に渡る、外国での鮮やかな思い出をでっち上げながら。パスポートのスタンプは偽造で、アルバムの写真は合成したものである。……砂浜の写真を除いて。あれはサイトに来たばかりの頃、地面に向けて撮ったものだ。KSは親に対し、それがモルディブだと語った。
「そうそう……研究していると、他の人にインタビューすることがあるんだ。ある女の子と半年ほどお喋りしていたら、いつの間にかすっかり打ち解けちゃって」
これは実話である。しかし、彼女が体に目や鼻、口を生やすという事実には触れなかった。
「30歳くらいかな、男の人がいたんだけど、僕と口論になっちゃって、研究に応じてくれなかったんだ。でも、話し方を変えてみたら、進んで協力するようになってね」
実際の所、男は精神を潰されていた。もちろん、犯人はKSである。改良された会話スキルは実に有用であった。
「そういえば、ギリシャ人のお爺さんもいたっけな。1日中しかめっ面だけど、ひょうきんな性格で、病気も診てくれるんだ」
ただし、老人はKeterクラスのオブジェクトである。彼が診た病人は基本的に、皆死んでしまう。KSは病人の遺体を解剖したことがある。フェンリルが言うに、遺体の中身は全て粘菌らしい。
だが、そんなことを言っても、両親はKeterが何かさっぱりだろう。
「いや、ずっとこもりっきりって訳じゃないんだ。しょっちゅう外でランニングしてるしね」
アノマリーを収容しに行くのだ。ランニングよりもずっと体に良いだろう。
「同僚は皆良くしてくれる。何人かとは特に親しいんだ」
収容違反の時、危うく全員くたばるところだった。親しくならない訳がない。
大丈夫。隠し立てと欺瞞は別物なのだから。
「よし。それじゃあ、シャワーを浴びて寝ることにするよ」
自然な表情で言い放つ。財団での訓練は相当な効果を上げていた。
寝床に就くなり、KSは深い眠りに落ちた。夜通し船に揺られ、次の日には飛行機に乗った。全く疲れてしょうがない。彼は夢の中で、男を問い詰めていた。男は血に塗れながら、目を丸くしている。KSはまた夢を見た。ビデオに流れる少女の悲鳴、フェンリルのデスクに置かれた集合写真、エアロック内で食す、冷え切ったイカの醤油漬け。
生臭さ、塩気、ぬめり。
「うっま。母さんのポーチドエッグは最高だな」
KSは気持ちを奮い起こして、朝食にがっついた。
「本当はもう少し長く居られたんだけど、研究業務が溜まってるからね、休みが明けたらすぐに戻るよ。今日?予定もないし、家でぶらぶらしてようかな」
1年以上も海外にいたんだ、話のネタはごまんとある。だが、今度生還帰宅した時は、新しい写真をまたこしらえる羽目になるだろう。
午前9時、KSは窓外に目を見やる。澄み切ったガラス越しに、輝きを放つ蜜柑が見えた。