1838年、イラン。第一次ロシア・ペルシャ戦争の終結から25年後。
アッバースはこんな物を予期してはいなかった。
カノン砲が小屋の真ん中に据えられていたのだ。明らかにロシア製で、古めかしく、幾度も打ちのめされてきたように見える。長い歳月が過ぎた後も、その職人技は見事だった。アッバースは型式に見覚えがあった。何年も前、ガンジャやスルタンバードで直面したのと同じ砲だった。
祖国イランは敗北したが、アッバースはロシアとの戦争で立身出世した。貴族階級の家族は、自分たちの地位を高めようと必死になって彼の武勇を喧伝した。彼は物乞いたちからも、ハーンたちからも、そして今やシャーからも寵愛を受けていた。地方官になり、裕福になり、何人もの美しい妻に恵まれ、首都に壮麗な別宅を構えていた。
しかし、今日のアッバースはそんな事を考える気分になれなかった。今日、アッバースは一族の古い領地の外れにある田舎町にいた。彼はここを訪れるのが好きではなかった。昔の日々、名声と富を得る前の無一文の日々を思い出してしまうからだ。
しかし、兄が住んでいるのだから、来ない訳にはいかない。カノン砲の前にしゃがみ込む兄は油と泥にまみれ、ぼさぼさの細い白髪は肩にかかっていた。アッバースは、兄がまだ髪を長く伸ばし、髭を綺麗に整え、制服に身を包み、活気に満ち、意識明瞭な、抜け目ない、剽軽な師団一の美男子で、上官たちと笑い、冗談を言い合っていた日々を思い出した —
ジャムシードは立ち上がり、弟を見て笑った。「サラーム、弟よ!」 彼は大声を張り上げた。「今日は俺の仕事を見に来たのか?」
アッバースは戸口を離れて兄に近寄った。「サラーム、ジャムシード。何年も前からここでやっていたのは、こんなことだったのかい? これはただのカノン砲だ。しかも古いやつだ」
ジャムシードは首を横に振った。アッバースは兄の目に、以前も見たことがある類の狂気を見た。ロシア人や、叛徒たちや、その他世界がけしかけてくる諸々との30年間の戦いの中で、彼は人間の限界点が何処にあるかを学んだ。ジャムシードはそこをとっくに超えていた。
「ただのカノン砲じゃない、弟よ! これは伝言だ! 計画だ! 全て — 俺の頭の中の全てなんだ!」
ジャムシードはよろめいた。アッバースは兄を支え — なんと軽くなってしまったことだろう — 納屋の端に座らせた。「カノン砲だよ、ジャムシード。ただのカノン砲だ」
「違う!」 兄は今や唸り声を発していた。彼はアッバースに挑みかかり、僅かに押し退けた。彼はカノン砲に目を走らせ、見つめながら唇を震わせた。
「大使館に問い合わせてみたんだ」 アッバースは言った。「チャイコフスキーなんて作曲家は聞いたことが無いってさ。彼らは何の話かさっぱり分かっていなかったよ。まるで馬鹿みたいな思いをした」
「勿論そうだ! お前にもそう言ったじゃないか! まだ作曲されてない! それは俺の頭の中にあるんだ、弟よ… tum tum TUM tum tum tum TUM TUM TUM…」
ジャムシードは不安定な足取りで立ち上がり、少し揺れた。「今に分かる。いつの日か、この曲はあらゆる音楽堂で聴かれ、ヨーロッパとイランのあらゆる人の鼓膜に鳴り響くだろう。いつの日か、チャイコフスキーがこれを作曲し、カノン砲は… カノン砲は完璧になる…」
「ダメだ」 アッバースはもう沢山だった。彼がドアの方へ手を振ると、数人の制服姿の兵士が入ってきた。「これは持ち帰る。兄さんはもう十分に苦労してきた」
「やめろっ!」 ジャムシードは砲の端を持ち上げようとした一番近くの兵士に飛びかかった。兵士に突き飛ばされ、彼は大の字に倒れ込んだ。
「傷付けるなと言ったはずだ!」 アッバースが吼えた。兵士は我を忘れたことを恥じて俯いたが、アッバースは既に兄に駆け寄っていた。カノン砲が運び出される中で、老いた男は兄を介抱した。
「持って行かないでくれよ、アッバース、やめてくれ… まだ準備が整ってない… タイミングがずれてる、それはダメだ、川から、川からもっと水を引かないと…」
「あれは蒐集家の手に渡るんだよ、ジャムシード。昔の兵器に興味がある、知り合いのフランク人さ。もう目にすることは無いだろう。これで良かったんだ、ジャムシード。すぐに分かる。兄さんの心を癒してくれる人を探そう」
しかし、ジャムシードはただ前に後ろに、前に後ろにと身体を揺らすばかりだった。その心はまだ、ガンジャのカノン砲たちと、彼にしか聞こえない難解な音楽に魅せられていたのだった。
説明: 19世紀初頭のロシア製のカノン砲。カノン砲の可聴範囲内でチャイコフスキーの“1812年(序曲)”のフィナーレが演奏されると、カノン砲は空包に火薬を詰め、装填し、発砲する (火薬の発生源は不明) 。発砲のタイミングはわずかに曲とずれており、調和していない。
回収日: ██-██-████
回収場所: ████████、████████博物館のナポレオン戦争展
現状: サイト-12の職員用広場にて芝生の飾りとして保管中。チャイコフスキーの“1812年(序曲)”は当サイトの禁止物を記したブラックリストに追加された。