あら、どうしたの?なんで泣いてるの?
……そうだね。いつかは、ね。
こらっ。まったく……そんなこと言うなんて、誰に似たのかしら。
そんなに泣かないの、ほら。おいで。
ふふ。お母さんは……ずっとミナのそばにいるからね。
大丈夫、嘘なんかじゃないよ。
母の手は真っ白で、とても冷たそうに見えた。
顔もやせ細っていて、なんだか辛そうにも思えた。
本当にこれが「安らかな眠り」なのだろうか。
疑問に感じたのを今でも覚えている。
思い出が溢れてきて涙が止まらなくなってしまったあの時のこと、今でも鮮明に思い出せる。
一緒に料理をしたり、楽しい旅行に行ったり、辛い時に励ましてくれたり……。
時には、私の頭を「ポンッ」と軽く叩いて叱ってくれた時もあった。
もう、そんな日々は戻ってこない。
現実を受け止めるには、この時の私はまだ幼すぎたのかもしれない。
そんな私が母の棺に何を手向けたか。
それは、片方だけの手袋だった。
その手袋は母が私のために手作りしてくれたもので、大人になっても使えるようにと少し……というか、かなり大きめに作られていた。
お母さんでも使えるぐらいに。
片方だけ手向けたのには意味がある。
母と離ればなれにならないようにするためだ。
母が天国で片方の手袋を着ける。
そして、私がもう片方の手袋を着ける。
そうすれば、手袋を通じて離れていても手を繋ぐことができる。
そう信じたかった。
こうして私のもとには、もう片方の手袋が残った。
不思議な出来事はそこから始まる。
お葬式を終えた夜のことだった。
私はベッドでずっと、ずっと、泣き続けていた。
寂しくて、寂しくて、どうにかなってしまいそうだった。
そんな時、私は手袋の存在をふと思い出す。
片方だけの手袋を右手に着けた。
ぶかぶかでゆるゆるだったのを覚えている。
でも、こんなことをしても何も起きない。
その当時の私でも、心の底ではそう思っていた。
お母さんはもういない。
病気のことを私に伝えず、何も言わず、逝ってしまったのだから。
「ずっとミナのそばにいる」
そんなこと、死んだらできるはずないのに。
病気なのに元気だと言ったり、出来ないことを出来ると言ったり……お母さんは嘘つきだったんだ。
そんなことを考えると余計に辛かった。
うわーんと、大きな声をあげて泣いてしまった。
その時だった。
ギュッ
私の右手を、誰かが握ったような感覚があった。
びっくりして部屋を見渡しても、誰もいない。
それでも、私の右手を見えない何かが握り続けていた。
とても優しく、握り続けていた。
それが誰か、私はすぐに分かった。
お母さんだ。
そう確信した。
私はギュッと握り返した。
お母さんもそれに応えるように、また握った。
嘘じゃなかったんだ。
本当にずっとそばにいてくれるんだ。
私の涙は、いつの間にか悲し涙ではなくなっていた。
ことあるごとに、私は手袋を着けるようになった。
学校であった楽しかったことや嬉しかったこと、辛かったこと。
友達と話したことや遊んだこと、喧嘩したこと。
好きな人の話なんかもした。
もちろん、声は聞こえない。
だけど、私が話し終えるとギュッと手を握ってくれる。
相槌を打つような感じだ。
話によって握る強さや勢いの違いもある。
言葉はないけど、私は手の握り方で母が何を伝えたいのかなんとなく分かった。
友達と喧嘩したことを話すと優しくゆっくりと握ってくれる。
好きな人と付き合えたことを話すと何度も強めに握ってくれる。
どんな時もそばにいるような気がして嬉しかった。
そんな日々は母が亡くなってから、私が高校二年生になるまで続いた。
高校二年生になった頃から、私が母に話すことは鬱屈とした愚痴が多くなっていた。
勉強が上手くいっていないこと、彼氏と別れそうになっていること、友達に裏切られていじめられていること……他にも沢山、辛いことを話していた。
母はそれらの話を根気強く聞いてくれた。
何度も、何度も、優しく私の手を握ってくれる。
この時の私は、もはやそれだけが頼りになっていた。
そしてある日、こんなことを思う。
お母さんのいる所に行きたい。
お母さんに会いたい。
それも母に話した。
母の反応はいつもより遅かった。
でも、しっかりギュッと握ってくれる。
その時は珍しく、母が何を伝えたいのか見当がつかなかった。
なので私は、こう言っていると思うことにした。
「こっちに来て。」
それなら、やることは一つだ。
次の日の放課後、誰もいないタイミングを見計らって屋上に行った。
ポケットに入っている片方だけの手袋以外、何も持っていない。
辺りは既に暗くなってきていて、住宅街の明かりがポツポツと灯り始める時間帯だったと思う。
右手に手袋を着けた。
母に私の手を引いてもらうために。
1人で飛び降りる勇気はなんてなかったからだ。
「今からそっちに行くね。」
「そしたら、たくさんお話しようね。」
そう言うと、母は小刻みに手を握ってきた。
今までにされたことのない握り方で、何を伝えたいのかは分からなかった。
きっと待っているんだと、そう解釈した私はフェンスをよじ登って2、3歩で飛び降りることができる所まで来た。
もう何もかもが嫌だったけど、これで楽になれる。
天国に行って、お母さんに会える。
目を閉じて、前に歩き始めようと思ったその時だった。
ポンッ
何かが頭に触れた。
軽く、叩かれるような感覚。
とても、懐かしい感覚。
そして、それは足元に落ちた。
思わず足を止めて周囲を確認する。
もちろん誰もいない。
足元に目を移す。
落ちていたのは、私が母に手向けた片方だけの手袋だった。
手を繋ぐための、大事なもの。
私は慌てて問いかけた。
「どういうこと?」
「なんでお母さんの手袋が落ちてきたの?」
返事がない。
「これがないと、もう手を繋げないよ?」
「私のことが嫌いになっちゃったの?」
ずっとそばにいてくれるって言ったのに。
「返事をしてよ。」
「お母さん、お母さん。」
何度繰り返しても、返事がない。
母がなんでそんなことをしたのか、その時の私には理解できなかった。
その場で崩れるようにしゃがみ込み、泣いてしまった。
辛くて、辛くて、生きていたくないのに。
生きていたくないから、そっちに連れて行って欲しかったのに。
母は私の手を引いてはくれなかったのだ。
突然突き放されたように感じて、涙が止まらなかった。
ずっとそばにいてくれるんじゃなかったの?
「お母さんの嘘つき。」
とても悲しいはずなのに、手袋の温もりは何故か心地よい。
それ以降、母と手を繋ぐことはできなくなった。
手袋を編みながら、そんなことを思い返していた。
今の私には、母の行動の意図が何となく分かる気がする。
大切な手袋を手放してまで伝えたかったこと。
それは
……ん?
なにやらユイが不安そうにこちらを見つめている。
どうやら、泣いているようだ。
「あら、どうしたの?なんで泣いてるの?」
「ねぇママ……ママもいつか死んじゃうの?いなくなっちゃうの?」
このくらいの歳になると「人はいつか死ぬ」ということを理解して、無性に怖くなってしまうことがあるらしい。
私にも経験があるのでよく分かる。
「……そうだね。いつかは、ね。」
「やっぱりママ死んじゃうの!?やだよ!やだよ!ママが死んじゃうなら、ユイも一緒に死ぬ!」
「こらっ。まったく……そんなこと言うなんて、誰に似たのかしら。」
縁起の悪いことを言うユイの頭を、軽くポンッと叩いた。
そんなこと、もう言っちゃだめ。
あなたもきっと、これからを生きていく中で沢山の嫌なことや辛いことを経験すると思う。
全てが嫌になってしまうこともあるかもしれない。
でも、そんな時だって私がそばにいるよ。
あなたの力になるよ。
だから、今ある命を大切にして生きていってね。
生きていれば必ず幸せが待ってるから。
こんなふうに、ね。
「ママ……。」
「そんなに泣かないの、ほら。おいで。」
まったく、心配性な子だね。
「ふふ。お母さんは死なないよ。ケガも病気もしたことないんだから!」
「ほんとに?ほんとのほんとに?」
「ほんとよ。ずっとユイのそばにいるからね。」
それでも不安げに私を見つめている。
本当に、しょうがない子だなぁ。
「大丈夫、嘘なんかじゃないよ。」
私はそう伝えて、ユイの手をギュッと握った。