拝啓
栗花落 海祢様
こちらは夏の到来を感じさせる暑さが、じめじめとした湿気とともに訪れています。鳴蝉博士がアミと虫かごを持って出掛けるには、もう少しかかりそうといった塩梅です。
そちらは如何お過ごしでしょうか?灼熱か極寒のどちらなのか、私にはわかりかねますが、健やかであるようにお祈り申し上げます。
このお手紙を書いている時に、去年の今頃に二人で海に行ったことを思い出していました。あれは私にとってかけがえのない思い出です。童心に帰って、年甲斐もなくはしゃいでしまいました。貴女があまり楽しそうではなかったのが残念ですけれど。
海の後は山に行きましたね。慣れない荒道や獣道を行って、危うく遭難しかけたけれど、山頂から見た美しい朝日を私は今でも覚えています。貴女は寝ぼけて興味なさげでしたけれど。
貴女のご趣味はそちらでも続けていらっしゃいますか?わたくしは貴女の趣味を否定しませんでしたが、倫理委員会や貴女の"保管"している職員と親交の深かった職員たちはそうではありませんでしたね。
貴女の趣味はとても褒められたものではありませんでした。貴女は真剣に研究していたつもりだったかもしれませんが、客観的に見て貴女のやっていたことは「死者の尊厳の冒涜」に他なりません。財団は貴女のもたらした研究成果から貴女の趣味を見逃していましたね。
しかし、限界があります。貴女の趣味の犠牲になった職員、彼らにも当然親しい者たちが居ました。貴女のコレクションが増えるたびに、隠蔽は困難になってゆきました。
私は貴女が腑を選り分けることでしか満足を得ることが出来ないことを知っていました。だから、わたくしは自身の体をあなたに差し上げようとしました。しかし、あなたは首を縦に振ってはくれなかった。それならばと、貴女の傍にいて色々な事を体験させ、色々な所に連れだし、貴女が解剖以外で満足できるものを見つけ出そうとしました。貴女の人生を、ほんの少しでも彩れる何かが見つかればと。
それでも、貴女はやめなかった。
貴女の元に届いた通告を見ました。「保管している全ての職員の遺体を財団に返還すること、死者の尊厳は出来る限り保たれるべきであり、殉死した職員は丁重に葬られることが望ましい」
至極真っ当な通告です。しかし、貴女にとってそれは耐えられない仕打ちだったのでしょう。わたくしは貴女といろんな時間を、いろんな経験を共に過ごしました。私は結局、貴女に解剖以外の幸せを見つけてあげられなかった。
わたくしには足りないものがあったのでしょう。二人で過ごした時間程度では貴女を救う事はできませんでした。私は、どうすればよかったのでしょうね。
もはや、ここに居る意味もありません。高い地位に就いたことも、今や何の意味もありません。思えば、この高い地位も、貴女を守るために、出来る限りの無理を通すために得たのでしたね。
どれだけの言の葉を紡ごうと、貴女が戻ってこないのならば、この文ふみに何の意味がありましょう?貴女の墓に供えようと思いましたが、こんなものは私の部屋の屑籠がお似合いでしょう。
私もそちらへ向かいます。
かしこ
天宮麗花
「天宮博士の記憶継承プロセス、問題なく終了いたしました。栗花落海祢に関する記憶の完全な消去、及び疑似記憶の挿入も滞りなく」
1組の男女が照明の控え目な部屋で話している。スーツを着た高齢の男と、白衣を身に付けた若い女。二人とも背が高く、モデル雑誌の表紙を飾れそうな出で立ちである。
「よろしい。しかし、博士が自殺するとは予想外だ。カウンセラーからの報告書を見たが、博士の精神状態は至って良好だったはずだが」
「推測になりますが、思考を別けることで我々を欺いたのではないでしょうか」
「なるほど、検討の余地アリだな。今度からはもっと優秀なカウンセラーを派遣するとしよう。ところで、博士はあとどれくらいでお目覚めになるかね?」
「1時間後で御座います。覚醒後は速やかに通常業務に復帰できるかと」
「そうか、では失礼する」
背の高い男が部屋から出ていくと、そこには長身黒髪の女性だけが一人残された。彼女の顔は天宮麗花のそれと似かよった特徴を持つが、仮面のように無表情であり、瞳は氷のような冷たさを帯びている。
彼女は白衣から封のされた便箋を取り出すと、一瞥してからシュレッダーにかける。その動作には一切の躊躇がなく、機械的であった。
部屋にはしばらく裁断音だけが響いていたが、暫くすると異なる音が鳴り始めた。それは雨粒が壁に当たる音で、徐々に勢いを増していく。