誰そ彼
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橙へとぼけていく陽光が寝不足の目を刺激してくる。両指を組み伸ばすと小さな破裂音が聞こえた。本当ならばこの体を癒すため仮眠に入りたいが、今日はそうはいかない。緊急で資料室へ呼び出されてしまったからだ。これは非常に珍しい呼び出しであった。研究室や実験室への呼び出しの放送はたまにあり意図が分かりやすいが、資料室から呼び出される理由は考えても思いつかなかった。

もやもやと考えながら暗い影が生まれている廊下を歩いていると、あっと言う間に資料室の近くにたどり着いた。扉の前には人影があり、近づくにつれて顔が見え始めた。

「やあ、君が倉野くんで合っているだろうか」

縁の太い眼鏡をかけなおす仕草をしながら大きく垂れた目がこちらを覗きこんでくる。その低い声色に対して優しげな表情をしている。ちらりと盗み見た胸から下げた職員票から「明戸 夕」という名前であること、博士であることが分かった。

「ええ、呼び出しを聞き馳せ参じました」
「すまないね急に。この時間は仕事がないと聞いたから」
「いえ、大丈夫です。して、要件は何でしょうか」
「そうだね、とりあえず中で説明するから、入ってくれ」

明戸博士が手で入り口を示し中へと入っていく。それに準じて私も中へと歩を進める。
資料室に入るのはこれが初めてだった。正確に言えば「この資料室に」入るのは、だった。実験結果の考察や似たような性質について記述された報告書の参照には資料を使うため、よく資料室は使っていた。しかし、今私が入ったここは「音声記録資料室」だった。

「倉野くんはこういった音声記録を録ったことはあるかな?」
「いえ、そのような機会はまだ一度も」
「そうか。しかし、録ったことは無くても聞いたことはあるんじゃないかな」

問われて、はいと答える。異常性の被害にあった一般人に対して、人の形を持った実体への対話記録は報告書に付随していることが多い。

「基本的にはそういった記録は電子記録として保管されているが、もしもの時のために外部にも記録を残しているんだ」
「もしもの時?」

いまいちぴんと来ず首を傾げた。ふむ、とあごに指を置き数秒の沈黙の後明戸博士は再び口を開いた。

「例えば外部の団体による電子攻撃を受けて記録が破損したときや、異常実体が端末へ侵入し情報漏洩の危険があるとき、音声記録が無くなってしまい、二度と聞けなくなると困る。そういう時のためにここに情報を保管していると復旧できるというわけだ。」
「なるほど、保険のようなものという認識で良いのでしょうか」
「そうだね。まあ、ここが襲撃されると元も子もないから、普段開くことはあまりないんだけどね」

でも、と少し顔を曇らせて透き通った青色の四角い容器を取り出す。

「たまに、奇妙なことが起こってしまうんだ」
「それは、どういったことなんですか」
「まあ、まずはこの音声記録を聞いてくれるかな」

件の音声記録が入っているであろう機器が挿入され、再生される。微かな音声の乱れの後、声が聞こえてきた。

『それでは、三度目の記録を開始します。よろしいですか?』

恐らく女性の声であろう。かなり高い声だ。音割れが発生してしまっている。機器は最新のものに見えるが、調子が悪いのだろうか。音声を少し下げて続きを聞く。

『ああ、だ、大丈夫、だ』

すぐ後に低く、挙動不審な声が聞こえてきた。何かに怯えていることが声だけで分かった。よく聞くと、微かに床を叩く音も聞こえる。震えているのだろうか。

『本当に大丈夫ですか、ええと、』
『佐野だ。ど、どうせ大丈夫でないって、言っても続けるんだ、早くしてくれ早く』

佐野と名乗ったその男の声も名前も聞き覚えが無かった。違う施設の研究員なのだろうか。

『分かりました……それで、今はどういった状態なのですか』
『今は何も聞こえねえ、で、でもついさっきまですぐ耳元にいたんだ』
『どのような音でしたか』
『気持ち悪い水音だ。泥の落ちるような、口を開けて咀嚼するような』

どうやらこの男は幻聴か、もしくは何らかの異常性に罹患しているようだった。隣にいる明戸博士に報告書があるならば、見たいと聞いてみたが、「まあ、とりあえず最後まで」と止められてしまった。とりあえず色々疑問に思う事はあったが、最後まで黙って耳を傾けることにした。

『どういった時に聞こえるのですか』
『例えば、夜静かな部屋の中、同僚と話している時、い、いろいろだ。法則性なんかわかりゃしない』
『なるほど、それで、音が聞こえる以外に何かありましたか』
『あ、あ、そう、最近濡れるんだ。体が』
『濡れる?』
『肩や足が湿ってるんだ。しかも、雨みたいな濡れ方じゃない。こう、なんというか、その、唾液みたいな、口に含まれた後みたいなんだ』
『頻度はどれくらいですか』
『三日に一回だったのが今は一日に一回、ぐらいだ、ああ、わああ!』

衝撃音が聞こえてきた。かなり息が荒れ、とぎれとぎれの言葉にならない音が聞こえてくる。

『どうしたのですか!』
『いる、いるんだ、音がしなかったのに、くそ、見てくれ、頬だ』
『確かに、濡れていますね、これは一体、え、これは』
『なんだこれ、いつもより、多い』
『わ、私の手が、濡れてる』
『おい、これはやばいぞ、これ、聞いてるやついるんだろう、おい、倉野』

突然名前を呼ばれ、は、と裏返った声で答えてしまった。今、倉野と確実に呼びかけられた。同姓の偶然だろうか。いや、倉野という名字が被った経験はあまりない。

『聞こえてるか、まずいから、早くきてくれ、早く、くら、ぐ、あ?』
『あ、が、いたい、いたい、え、何?』
『足が、かみちぎ、られてる』

ぶち、と皮が千切れるような音が聞こえた。続いてどちらの悲鳴か分からないが、喉を締めて叫ぶ声が聞こえてきた。断片的に、痛い、助けてと聞こえるその叫び声は消えかけのロウソクの火のように小さくなり、湿ったものが潰される音や床に散った液体を踏むような水音だけが聞こえ、次第にそれも聞こえなくなり、そこで音声の再生が終了した。明戸博士が機器を取り出す。

「あの、これは一体、なんですか」
「……この記録の中に、君の名前を呼ぶところがあったね。佐野というのは君の同僚か、知り合いかな?」

違います、と断言した。私の仕事仲間にそのような名前の人はいない。仮にいたとして。

「こんなことがあれば覚えているはずです。私はこんな記録を知りません」
「そうか……そうなのか」
「私の質問に答えてください。これはいつ録られたものなんですか、そして、何のため録られたんですか」

明戸博士はしばらく目を閉じていたが、ゆっくりと開きこちらに向いた。そして、すまない、といった。

「私に答えることはできない。そして、私以外の誰にもこたえることができない」
「はい?」
「誰も知らないんだ。この音声記録の詳細を。いつ録られたか、どこで録られたか、この二人は誰なのか、何が起こったのか、何も、誰にも今のところ分かっていないんだ」

何か言おうとした。疑問の声や、質問を。しかし、何も言えなかった。肺の空気が枯れてしまったのか、何も吐き出せない。

「佐野、という名字の職員全員に同じくこの音声記録を聞いてもらったが、皆口をそろえて知らないと言った。もちろん死亡済みの佐野もすべて調べた。しかし、この音声記録に繋がる死に方をしたものはいなかった。もう一人の女性については詳細すらも分からない。声紋検査もやるだけやってみたが、音質が悪く、有益な情報を得ることができなかった。」
「それじゃ、この音声記録はどこで見つかったんですか」
「倉庫に、使われなくなった記録装置が置かれているんだが、その装置の中から発見された。製造年月日から、最高で一年前には録られているはずだ。推測でしかないがね。」

青い容器をもとの棚に戻し、こちらに向きなおす。大きな瞳には光が反射しておらず、先ほどまでの柔和な瞳とはかけ離れていた。

「そして、音声記録の中でもう一人、苗字らしきものが記録されていた。それが倉野。君のことだ。」

他にも三人いた倉野の中で、最後の候補が私だった、と明戸博士はつづけた。つまりは、他二人の関連性はなかったという事だろう。握りこぶしの内側に嫌な汗がにじんでいく。

「これは本当に大変な事態なんだ。誰も何も知らない異常なものに害を与えられている記録は残っているのに、私たちはその正体も、そして被害にあってる人すらも知ることができていないんだ」
「そ、れは」
「ああ、いやもちろん責めているわけではないんだ。知っているべき記録室担当の私が、分からないと言っている時点で責任の大部分は私にある。だから倉野くんが責任を感じることは無いんだ」

すまなかったね、と明戸博士は呟き入ってきた扉へ向かう。要件は以上だったらしい。私は太ももをどんと叩き、固まっていた足を無理やり動かして出口へ向かった。

「いや、協力してくれてありがとう。ただ、このことはしばらく他言しないでもらえるかな。噂が広がってしまうと、無駄な混乱が生まれてしまうからね」
「はい、分かり、ました」
「詳細が分かればこちらから通知をするようにするから」

そう言って明戸博士は廊下の奥の暗闇に歩いていった。私はその背中が見えなくなるまでそこから動くことができなかった。佐野。佐野。さの。口の中で反芻するがやはり分からなかった。私は今まで対話記録の担当をしたことは無いのだから。と考えて、ふとある考えが浮かんでくる。

もし、担当していたことも忘れていたら。

気が付くと私は廊下を走っていた。靴底が照る廊下を擦れて甲高い音を立てる。息は乱れ、血がどくどくと体中に巡っていく感覚が気持ち悪かった。目線だけずらして窓の外を見る。空はすっかり橙に染まり切り、上の方に藍色がわずかにしみ込んでいる。

どこか懐かしく感じる黄昏時の風景が、全てを逆光の中に閉じ込めてしまいそうで、やけに不気味なものに見えた。

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