二人のアヤメ / 紅の下の邂逅
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首吊りはできればやりたくなかった。でも、飛び降りてみたり、睡眠薬をいっぱい飲んでみたり、プールの底で溺れてみたり、手首を切ってお風呂に浸けてみたりはもう試してしまって、車や電車に飛び込むのは迷惑がかかるだろうからやりたくなかった。結局、次にどう自殺してみようかと思うと、首吊りくらいしかないな、となったのだ。

もぬけの殻のアパートで、ベランダから寒空の下の灰色の街並みを一望する。懐かしい景色だった。4年前、街の端にあった廃工場での爆発事故によって、ここ一帯で人離れが起きた。爆発したのは化学工場で、汚染物質がそこらじゅうに振りまかれたという噂が原因だった。国が住民に移住の費用とかを補償した事も流れを加速させて、後はゴーストタウン化による治安の悪化と住民離れの負の連鎖だ。このアパートの、この部屋に、私の一家は暮らしていた。移り住むまでのゴタゴタの隙に私はここの鍵を持ち出して、誰もそれを咎めなかった。それ以来、ここは私の秘密基地の様なものだった。

足元が軋む。適当に見繕った木箱の足場がいささか心もとない。改めて見る、見慣れたものより気持ち高い視点の景色を丸く縁取るのは、インターネットの見よう見まねで結った吊り縄。ベランダの屋根に走る太いパイプに縛り付けて、その輪は台に立った自分の顔と丁度同じ高さにある。つまり、首を輪にかけて、そして台を蹴ってしまえば、自分の足は地面に届かない。吊り環の真下にはプラスチックの桶を置いておいた。首吊り死体は、その、とても酷い事になるそうだから、一応。

首を吊って死ぬのはどんな気分なんだろう、と少し考えかけて、すぐ止めた。いずれにせよ、今に分かる事なのだから。代わりに、遺書と携帯の事を考えた。4年前から使い古した遺書は、もし次も失敗したら書き直した方がいいかもしれない。携帯は、一応位置情報を発信する様にしてある。それで自分の居場所を突き止められるかは知らないけれど、自分を見つけるのに役立てば儲けものだ。死ぬなら、こうやって独り静かがいいけれど、死んだ後くらいは、きっと自分の行方を知りたい家族や、人探しのお仕事の人に配慮してあげてもいいかな、なんて、そういう気まぐれだった。兎も角、思い返してもそれらの準備は万端なようで、いよいよ自分のやるべき事は後一つ、いや二つになった。

まず一つ目に、首吊り縄に首を通す。うっかりすっぽ抜けてしまわないか、軽く確かめる。

そして二つ目に、足を、前へ

 

私の症状は、『タナトーマ溶害』と世間一般では言われるらしい。

今ではすっかり当たり前になった"死の抽出"……人から、何かしらによる死  溺死だったり、失血死だったり、轢死だったり  兎に角、そういう"死そのものを『タナトーマ』という液体の形で抜き出す技術が一般化したのは、もう2年以上は前だったと思う。既に未来の医療という触れ込みで耳にも聞こえてくる存在だったそれは、前触れもなく起こった世界的なパンデミックを機に、半ば義務的に国民へと処方された。そして、抽出された人々に1人の死者も出なかったという実績によって、急速に社会はタナトーマの抽出を受け入れ始めた。

問題が明るみに出るきっかけは、何かの交通事故で、ぺちゃんこに潰された男性が自力で車から脱出して生還したという話だったと思う。似たような話が同時多発的にネットに出回り、間も無く政府はタナトーマ溶害の存在を認めた。細かい仕組みとかは忘れてしまったけれど  結論から言えば、タナトーマ溶害の被害者達は、ウイルスに侵される以外の死に方も取り上げられてしまったのだ。今でも時々、チラシやコマーシャルでタナトーマ溶害被害者への補償を喧伝しているのを見るけれど、なにぶん死んでみないと自分が被害者だとわからないものだから、名乗りを上げた人数は想定被害者数の10%にも満たないらしい。そこに、脱法的な手段で抽出を受けて被害者を騙ろうとする輩も混ざるそうだから、タナトーマ溶害の問題はかなり厄介な様だった。

まあ、つまり、私もまたその犠牲者という奴らしいのである。自分としては、いささか懐疑的なのだけれども  タナトーマ溶害という事件そのものについて。

 

眠りから覚める様に、静かに目を開けた。縄が首に食い込んで、息苦しい中で意識が遠ざかっていく感覚だけボンヤリと覚えているけれど、それだけだ。今もしっかり身体は吊るされたままで、息苦しさが思考まで圧迫する感覚に苛まれる。それでも、どこかスッキリとした気分があるのも確かで……ああ、つまり。眠りから覚める様にというか、さては本当に眠っていたな私?苦笑交じりに腕を上げて、吊り下がる縄を掴む。女子高生の非力な腕力でもって、なんとか身体を持ち上げようとする。状況を脱する事は、不可能ではなさそうだった。姿勢が崩れ、顎にかかる負荷に涙目になりつつも、少しずつ体勢を変えていく。それにしても、首を吊りながら昼寝した人間はもしかすると私が初めてかもしれない。下らないけれど一生忘れられない経験になったなあ、なんて呑気な考えが浮かんで、ふと冷静になる  自殺する人間が将来の事を考えるなんて、滑稽極まりなかった。あるいは、内心では分かっているのだろうか  自分が自分で生涯を終える時はやってこないだろうという事を。束の間の放心の隙を突くように顎から縄が外れて、一瞬の浮遊感を得る  危ない、そう思っても何ができる訳でもなし、足のつかない程度の高所から崩れ落ちる様に落っこちて、下半身を満遍なく強打する。痛い。無性に生きている実感が湧いて、我ながら情けなくなる。これから自殺道具も片付けるので、情けなさは増すばかりだろう。立ち上がり、改めてベランダの外を見る、下を見る。街全体の雰囲気に違わず人気のない道路が、"あの日"と重なる様な気がした。

 

ざらざらと雨の降りしきる日だった。今と違って街には多くの人が暮らしていたけれど、流石に休日の昼間に雨となっては人通りは殆どなかった。私の目は景色に向けられていたけど、見えるのは脳裏に浮かぶ色々な記憶。そろそろ進路を考えろと言う先生。家の事なんか気にせずいい高校に受かれと言う父。周囲の期待とは裏腹の成績。いつも言われるがままで、主体性のない私。それでも頭をもたげる、将来への漠然とした不安。そういう景色の奥で目の前の雨打つアスファルトの路地にピントが合った時、私の重心は勝手に手すりを乗り越えていた。

"その瞬間"の事は覚えていない。気が付いたら、私は濡れた地面に転がって雨に打たれていた。痛みを通り越した気怠さだけが身体を包み込んでいて、雨水の冷たさも感じなかった。身体が動かないというより、ただ気怠さに身を任せていつまでも寝転がっていたいと思っていた。その内、やけに鮮明に、身体から何かが流れ落ちていく感覚を覚え始めて、ああ、これで死ぬのかと思った。流れ出て、流れ出て、流れ出て  にわかに身体が熱を帯びた。それに困惑する暇はなかった  熱は直ぐに、耐え難いほどの痛みに変わったから。叫び声なんて上がらない、ただ無闇にのたうちまわって、身体中を掻きむしって、打ち付けて、ただ時が過ぎるのを待つしかなかった。その内、どれほど時間が経ったかなんて知れなかったけれど、痛みは少しずつ穏やかになって  少なくとも、何かを考える余裕は出てきて、虚脱感を訴える身体を起こした。衣服は血や泥や汚物で酷い有様で、不快感を堪えながら自分の身体をまさぐる。顔に触れて、後頭部を撫でて、恐る恐る脇に触れて、胸を撫で、最後に自分の手足に目を向けてた。そこには、骨が折れるどころか傷一つない自分の身体があるだけだった。雨が、私の身体を洗い流していた。

今から4年ほど前の話である。それ以来、私の自殺は全て失敗に終わっている。致命傷を負うことはできても、暫くすると身体から何かが流れ出す独特の感覚と共にそれらは元どおりになってしまうのだ。4年前、それはタナトーマが世間に広がり、タナトーマ溶害が問題となるずっと前であり、件の化学工場が爆発事故を起こしたまさにその直後とも言える時節だった。自分は、そこに馬鹿馬鹿しい陰謀論めいた疑念を抱かずにはいられないのだ。

 

道具を一通り片付けて、元どおりの寂しいベランダで伸びをする。時間は2時を回り、冬空の低い日の光が暖かい。冷たい空気の中でじんわりと温められるのは副交換神経にてきめんに効く。それでも、既に永眠未遂の一眠りを済ませてしまった所なので、堪能もそこそこに帰り支度に勤しんだ。

シャッターの並ぶ商店街をとぼとぼ歩いていく。そちこちには浮浪者がダンボールを被って横たわり、それを咎める人なんて誰もいなかった。治安が悪いと言っても、流石に昼間から無法を働いているものは少ない。大通りから枝分かれる路地にガラの悪そうな喧騒を聞くこともままあるが、近付かなければ問題にはならない。シャッター街を抜け、小さな工場や古い家の跡地を埋める駐車場の群れを通り過ぎれば、もうそこは"日常"の範疇  あるいは、この道程すらも自分にとっては日常なのかもしれない……そんな折。

「あれ?もしもーし、ボスー?えっ電池切れてる!?」

店と店の隙間の様な路地に、素っ頓狂な声を聞いた。この場所であまり迂闊な真似をすべきではないと思いつつも、心配とほんの少しの好奇心が勝って、声のした場所を覗き込む。そこに居たのは、1人の少年だった。頭からつま先まで服装をルーズな黒で固め、パーカーの帽子を目深に被った様子は、矮路の暗がりに溶け込んでしまいそうである。路地の壁にもたれかかった楽な姿勢で、スマートフォンを熱心に操作してこちらに気づく様子はない。それは、ともすれば日常のささやかな一場面の様でいて、しかしこの廃れた街の中では一際異様だった。

声をかけるべきだろうか、困っている様子だし。しかし、どうにも怪しい  そう思いはしたが、そこでふと自分自身に意識が向いた。高校の制服に上から薄手の防寒着を羽織っただけの格好で、やけに大きな荷物を背負う自分。客観的に言って、怪しいことこの上なかった。怪しいもの同士なら、まあ、いいんじゃないか  根拠のない、諦めにも似た自信の赴くままに、少年に歩み寄った。

「何かお困りですか」

「うわ、わ……っと、えー、お姉さん、何かご用でも?」

不意を打った形になってしまったのか、驚いた少年は危うくスマートフォンを取り落としかけてあたふたしつつも、携帯を抱え込んだやや猫背気味の姿勢でこちらに向き直る。視線にも姿勢にも不信感が露わで、そのごもっともなリアクションを笑顔で受け流しつつ、

「充電無くて困ってるんですよね?使いますか、ポータブルバッテリー」

 

「いやあ、助かっちゃいましたねえ。まさか携帯の充電を忘れるなんて初歩的なミスをやらかすとは思ってなくて」

「ふふ、分かりますよ。私も同じ様なこと何度もしちゃったので、こうしてバッテリー持ち歩く様にしたんです」

充電器に繋がれ再起動を待つスマホを挟んで、私達は廃屋と化している商店の前にしゃがみ込んでいた。初めのうちの少年は、気さくな態度を装いつつもかなりこちらの様子を伺う姿勢だったが、話す内に態度は軟化していった。自分も、余り友人などがいない手前、ついつい会話に花を咲かせてしまう。

「それにしても、どうしてこんな所で電話を?」

「あー何というか、お使いを頼まれちゃいましてねえ」

「見ての通り、ここはもうお店とか全くと言っていいほど開いてないですよ?」

「みたいですねえ、ボクも実はあんまりちゃんと目的地を知らなくて。だから電話で聞きながら……と思った矢先に、切れちゃいまして」

「充電が」

「そうそう。あー、だから、その、出来れば多少余裕ができるくらいまで充電させて欲しいんですけど……」

申し訳なさそうに苦笑を浮かべる少年に笑みで応えつつ、自分のスマホの時計を確認する。時刻はもうすぐ3時になろうかという所で、もうすぐ冬に入ろうという今の季節では、ちょっとすれば日が暮れてしまうぐらいの時間帯に思われた。

「流石に、夕方になるくらいには帰らなきゃなので、それまでなら」

「そうですかあ、申し訳ないですねえお姉さん。いやーこんな所でこんなに親切な人と会えるとは、世の中捨てたもんじゃない」

「大げさですよ」

「あはっ、勿論冗談ですよ。お姉さんが親切なのは間違いないですがね?……というか、お姉さんこそどうしてここに居たんです?何もないって、お姉さんが言ったんですよ」

今日は首吊り自殺をしに来ました、なんて無論言えるわけがないので。

「私、昔この街に暮らしてたんです。引っ越しちゃいましたけど、今も時々様子を見に来るんです、その……懐かしくて」

嘘ではない。私が"秘密基地"に未だ出入りする理由の一つに郷愁があるのは間違いなかった。

「へえ、この街に。暮らしてた頃とは随分様変わりしてるんでしょうねえ」

「……そうですね。ここなんか、昔は結構賑わってはいたんですよ。この……私たちが座ってる所が、えーと、八百屋さんだから……そう、真向かいが駄菓子屋さん。私はよくコーラ味のガムを……」

話し始めると、それに引きずられる様に思い出が出てきて、その思い出が口から零れ出して、また別の思い出を連れてくる。友達とお菓子をよく食べ比べた事、揚げ物屋さんの店主が時々唐揚げをくれた事、ご近所さん同士の喧嘩を収めて、それを父に自慢したら褒めてくれて  驚くほどに止めどなく溢れてくるこの街への想いに、自分でも驚かされた。でも、追憶が時間を駆け上がるに連れて、景色は急速に色褪せていく  それは、4年前の事故の所為ではない。私が、変わってしまっただけなのだ。自分の事で精一杯になって、周りに気を配る余裕もなくなって。

立ち上がって、シャッターの列に挟まれた大通りを見つめる。冷たい風が、私を通り越してアーケードを吹き抜けた。

「……まあ、今は見て分かる通りの廃墟具合ですし、治安もどんどん悪くなっている様で。あまり、長居しないほうがいいですよ、私が言うのも難ですけど」

「あはは、心配ご無用ですよ……っと、もう十分充電できたみたいですねえ」

少年の手元で輝くディスプレイに、『58%』という文字が大写しになっているのが見えた。少年は手早くコードを抜いてモバイルバッテリーと纏めると、勢いよく立ち上がってそれらを手渡してくる。もう片方の手は握った携帯をその側頭に添えて、既に電話を試みている様子だった。

「感謝ですよ、機会があればきっとお返しします……が、今は、そろそろお使いに戻るとしますね」

「ふふ、お気遣いなく」

冷静に考えれば、連絡先どころか名前も教え合っていないのに、私達が再開する可能性は極めて低いだろう  何せ、今日が来るまで一度も出会っていなかった二人なのだ。それでも、急ぐ素振りの少年を引き止めるのは気が引けて、曖昧な返事で送り出してしまう。その背中が商店街の先へと遠ざかっていくのを見守ってから、帰路に戻ろうとした時、

「もう、ここには来ない方がいいよ。ボクが言うのも難だけど」

不意に聞こえてきた声にとっさに振り返っても、もうそこに少年の姿は無かった。

 

「ハハハ!逃げようったってそうはいかねえぜ、なあ!」

下卑た声が背後から聞こえる。それでも、嫌、の一言を叫ぶ余裕もなく、ただただ入り組んだ路地を逃げ続ける事しかできない。荷物も上着もどこかに投げ捨ててしまって、身軽になっても所詮は女子高生の体力で、その声の主との距離は一向に広がらない  そして、縮まりもしない。遊ばれている、そう確信しても、恐怖に追い立てられて足を止める気にはならなかった。

事は10分程前に遡るだろうか。間抜けな話だが、あの少年と別れてしばらくしてから、定期券や財布を入れたポーチを"秘密基地"に置き忘れている事に気付いて取りに帰る、その最中だった。

「よお、"お姉さん"、ちょっと野暮用あるんだよネ。いいかな?」

見るからにガラの悪い、金染めの髪の男の呼びかけに、思わず立ち止まる  あとずさる。男の意地の悪そうな笑みが深くなる。

「傷つくナァそんなリアクション。ただちょっとお話したいだけなんだけどなー……あのガキ……"プネウマ"の連中と何の関係があるのか……」

悪寒が走るほどの、低く、威圧的な声。そしてその手に光るナイフ。気付けば、私は踵を返して駆け出していた。

この街は大通りこそそれなりに整って見えるが、その裏には複雑に入り組んだ住宅地  旧住宅地と言った方が正確かもしれない  が繋がっている。そこを積極的に駆け回って遊んでいたのはもう10年は前になるが、その頃の朧げな記憶を頼りに矮路を走る。ただの鬼ごっこではどう考えても逃げきれないだろうから、土地勘を使って撒けないかという判断だったのだが  

「っ、また金網……!」

  結果的には失敗だった。私が思っていた以上に、この街は変貌していた。あちこちの不自然な場所に金網やら粗大ゴミの山やらが立ちはだかり、度々行き止まりにぶつかる。立ち止まらないように、なるべく障害物を避けて走るけれど、行きたい道、行きたい道毎にそれらが居座ってまるで思う方に進めない  そこで、気付く。これは、罠だ。あるいは、狩人の巣だ。逃げようとすれば逃げようとする程に奥へ奥へと誘き寄せられる。そして、その最奥は。

有刺鉄線を戴く金網に囲まれた空間。そこが、終わりだった。

「つぅかまーえたぁ。鬼ごっこは楽しかったか?」

背筋を這いずるような声に限界がきて、崩れ落ちるように座り込む。空の端が赤い。地面を擦るような足音が近付いてきて、恐る恐る後ろを振り向く。ニタニタと口を歪めた男が直ぐ後ろにいる。

「いやー追いかけたなァ……なんで逃げたの。やましい事でもあるの、ン?」

「な……ナイフ、が……」

「あー、これ?」

首筋に押し当てられた冷たい感触に、言葉にならない悲鳴が漏れる。その感触は次の瞬間、一転して熱を持ったように変わり、温い液体がそこから頬を伝った。

「素直に答えてくれれば乱暴しないからさ……"プネウマ"の奴らに何を話した?奴から何を聞かされた?お前は何を知ってる?」

何を言っているのかわからない、誤解だ、もう許して……強張った喉からは何の声も出てこない。ただ、精一杯に首を横に振るしかなかった。いつの間にか男からは表情が消えていて、感情のない瞳で私を見つめていた。やがて、ハァー、と男は落胆混じりの溜息を吐き出す。諦めてくれた、なんて希望的観測は少しも思い浮かばなかった。

「バラして使えそうなとこだけ持って帰るか」

ナイフが頬から離れて、直ぐに空気を切り裂く音が届いて、

 

男が勢いよく倒れこんだ。

遅れて、勢いよく黒い影が着地する。それは、間違いなく件の少年であり、見上げて初めてまじまじと見えたフードの奥の相貌は、どこまでも凛々しかった。

「また会いましたねえ、お姉さん?もう来ちゃダメって言った日に襲われちゃうなんて、全く助言の甲斐が無い」

「どう、して」

必死に声を絞り出す。状況の変化に理解が追いつかない。

「まあお姉さんの事はちょっと気にかかってましたし?"青頸"のネズミが騒がしいってボスの話聞いてちょっと歩いてみたらお姉さんの服とか落ちてて、嫌な予感当たっちゃったなあ、って」

「ご、めん、なさい」

「謝るのはこっちですよ、ボクらのあれこれに巻き込んでしまってごめんなさい。責任はどこまで取れるか分からないけど……おっと」

少年の視線の先で、男が緩慢に立ち上がる。

「……ってーなァ、痛えなァオイ!躾がなってねえ、"プネウマ"は『大人をみたら顔に蹴りいれましょう』ってガキに教えてんのかァ?」

「"昼"に手を出す方がよっぽど不躾だと思うけど」

「先に関わったのはてめえだぜ?恨むんならてめえの迂闊さだろ」

「……そこはまあ、反省」

少年と目があう。凛々しさは影を潜めて、まるで私の奥底に眼を凝らすかのような真剣な眼差しに、理由がわからず困惑する。その視線も一瞬で、少年は前に向き直り、懐から、まるでオモチャの銃のような物体を引き抜く。呼応して男が詰め寄るのも構わず、トリガーは引かれた。パシュ、と拍子抜けする程に軽い音がして、男の動きが止まって、その胸に赤い染みが広がって  

  男が、笑った。驚いた様子の少年の顔に、男の蹴りが食い込む。倒れ伏すままの相手にのしかかった男の手には、依然として鈍色のナイフが握られていて  それが、呆気なく少年の胸元に突き刺さった。次の瞬間にはナイフは元の高さまで持ち上がって、それが落ちて、持ち上がって、落ちて、持ち上がって、落ちて  目の前で起きている事が、うまく認識できない。何もかもが現実離れしていて、脳がその光景を解釈する事を諦めていた。

「ハハッ、刺殺すら、抽出してねえのか!?無用心だなあ、オイ!それとォ、お得意の、タナトマ弾が、効かなくて、不思議かよ"プネウマ"ァ!?てめーらの、使ってる、タナトマの、系統も、抽出精度もォ!タネぁ割れてんだよ!」

叫ぶ声が聞こえる。随分と嬉しそうだと思う。グチュグチュと音がしている。気分が悪くなる。濃い鉄の匂いがする。気分が悪くなる。その内、声も音もしなくなる。でも匂いは消えない。目の前で赤い影が立ち上がる。前半分だけ赤い。

「浅い所しか抽出してねえ安物掴まされてた事恨むんだなァ……さて」

赤い影が近付いてくる。

「もう人質としての価値もねえし……わざわざ持って帰る気分でもねえよなァ……どっちかっていうとサ、殺し足りないんだよなァまだ顔がヒリヒリヒリヒリ痛んでさァ」

赤い影が近付いてくる。近付いて、腕が伸びてきて。

「……ぐ、アァ!?」

影が仰け反って、振り向いた。その向こうに落ちていた赤いグズグズが銃を握りしめていて、緩慢に起き上がって、立ち上がって、その口は荒く息を吐き出しながらも確かに笑みを浮かべていて。

「なん、テメエ生きてやがったのか!」

少年が、そこにいた。

「あは、ボクはちょっとだけ特別なんだよね。まあ実際びっくりしたけどさ」

胸から腹まで、シルエットが崩れるほどにグチャグチャになった自分の身体を意にも介さない態度に、男もたじろぐ。少年は腹の傷  「傷がある」というより「肉がない」と評する方がよっぽど適切な有様だったが  を気にかけるように撫でていて  その時、気付いた。少年が手を動かし、こびりついたやけに粘つく血を拭う度に、そこから綺麗な肌が現れる。そうして、体表が、垂れ下がる諸器官がその浅黒い血を吐き出す度に形を取り戻して  いつに間にか、そこには血糊が滴るだけの無傷の身体があった。

「なんッ、だ、テメエ!」

「そっちもびっくりしてくれた?お返しだよ。まあボクの事より、自分の心配した方がいいと思うけどね」

「な、ァ」

何を、とでも言おうとしたのだろうか  男が口を開いたが、何かの言葉を発する前に、不意に白目を剥いて倒れる。かろうじて呼吸してはいるようだが、それ以外にはピクリとも動かなくなってしまった。

「唯の麻酔だよ、殺さない分にはタナトーマの抽出なんて無意味さ……で、お姉さん平気?」

「……え、あ、あの……大、丈夫、多分……」

声をかけられて、漸く傍観者じみた思考から解放される。少しずつ、今しがた目の前で繰り広げられていた光景を理解していく  助かったんだ。来てくれなかったら、あのまま、私は、殺されて  

気が付けば、私は泣いていた。何かを取り繕う余裕もなく、ただ叫ぶ様に、泣きじゃくっていた。

 

散々に泣いて、少なくとも内面の上では、幾分か落ち着きを取り戻してくる。そうすると、次に湧いてくるのは、数々の疑問だった。少年は何処かへ電話をかけている様だったが、その内こちらの様子に気づいて、にわかに表情が明るくなる。腰を抜かしたままの私に視線を向けつつ、手早く電話をまとめて、駆けよってくる。

「落ち着きました?」

「うん、まだちょっと……その、ごめん、なさい。みっともなくて」

「謝る事なんてないですよ!まあ、色々刺激が強かったでしょうから、無理ないですって」

「うん……聞きたい事、色々あるの」

「それは、知らない方がいい事でもあります」

「それは、今更。少なくとも……人が死ぬ所、なんて、見たくなかった」

少年は視線を逸らして、パーカー越しに頭を掻く。困らせてしまっている事は十分に理解しているが、それでも、一度直視してしまった現実に見て見ぬ振りなんて無理だった。少しの考え事の後、少年は溜息を一つ吐いて私に向き直る。

「いいでしょう。ボスもお姉さんと会いたいと言っていました……つまり、お姉さんに"昼"の世界、日常へと帰る選択肢は最初から存在しないという事です。その代わり、というと可笑しいかもしれませんが、ボクも質問したい事があります。後で答えてもらいますよ」

静かに頷く。さあ、何から尋ねよう?流石に、少年のバックグラウンドが相応に深淵であり、答えられない問い、答えてはいけない問いだってあるのだろうという事くらいは察せる。できれば、最大限少年の迷惑にはならない様な  

「じゃあ、まず一つ……どうして男の子の格好してるんですか?」

少年、もとい少女は転けた。

「そ、それを聞いてくるの!?って言うかなんで知ってる!?」

「それは貴女からの質問?先に答えた方がいい?」

「無闇に律儀だね!?いいですよ、まずボクが答えます!」

仕切り直しと言わんばかりに、少女は大げさにせきばらいする。

「まあ、大した事ではありませんよ。仕事柄、ナメられるとそれだけで危険なんですよ、こいつは大した事なさそうだから乱暴しても大丈夫だろう、って」

地面に転がされた昏倒中の男をちらりと見た。

「だからせめて、子供なのは隠せなくても女なのは隠しておきたいんですよ。幸い、今の所性差の小さい歳に見られるので、結構誤魔化せてるんですが……まさか赤の他人にバレるとは」

気恥ずかしげな表情とそっぽを向く様子はまさに年頃の女の子と言えるもので、だからこそ、言葉の物騒さは無視できない。

「分かりました、二つ目、構わないですか?……質問、というより、確認ですが……貴女の仕事というのは、その、つまり……端的に言えば、非合法的で反社会的な活動、という事でいいんですか?」

「ええ」

返答は余りにも端的だった。

「今回は、ボクがいる組織……"プネウマ"と、敵対的な関係にある"青頸"という組織が、ボクとお姉さんの接触を察知し、お姉さんから、あるいはお姉さんを使って、何かしらの情報を得られないかと画策したという事みたいですね……つまり、ボクの責任です。謝って済む話ではないですけれど、本当にごめんなさい」

「そ、そんな、謝らないでください!悪いのは……私、自業自得ですよ、こんなの」

深々と頭を下げる彼女を、慌ててフォローする。そもそも彼女に話しかけたのは自分であり、この街の危険性を認識していたつもりで、その実まるで理解していなかったのが自分なのだ。明らかに非は自分にあると思った。お互い自分が悪いの押し問答の末、互いに落ち度があったと双方妥協する形で、なんとなく結論は落ち着いた。

改めて、他に何か知りたい事はあるか考える。多分、これ以上細かい話は、その"プネウマ"のボスとやらに尋ねるのが、答えてもらえるにしろ貰えないにしろ一番手っ取り早いだろう。一方、少女個人の事について、なぜ危険な場所に身を置いているのかとか、どのような経緯で同業の人間も驚愕するような再生能力  あるいは、それもまた『タナトーマ溶害』なのか  を得たのかとかは、流石に問い詰めるのが憚られた。ただ、一つだけ  

「えっと、それじゃあ、最後に一つ、質問いいですか?」

「どうぞ」

「どうして貴女は、わざわざ私の事、探してくれたんですか?」

彼女自身、私をこんな事に巻き込む確信があったなら、最初から私との関わりを避けたはずだ。どうして、少女は赤の他人の私を  そう思案していた時、ふと、彼女が思惑の伺えない色の瞳で自分を見つめている事に気付いた。

「それは、ボクがお姉さんに尋ねたい事に関わる話です……先にボクから質問させてもらえますか?」

「どう、ぞ……?」

「では、単刀直入に聞かせてください。お姉さんは、どうして自殺を試みたのですか?自殺を試みながら、あれほど死に恐怖を抱いた様子だったのは、何故ですか?」

一瞬、少女が何を言ったのか分からなかった。無意識に、首元に手を伸ばす  男に浅く傷を付けられた首にではなく、半日前、太い荒縄の食い込んでいた首に。

「死を願うから自殺をするのですよね?なのに、死を恐れるのが、ちょっとボクには不可解なんです」

どうして、なんだろうか。自分でも分からなかった。自分はどうして死にたがって、自分はどうして死にたくない?自分にとって、死ぬって、なんだろう?

「多分」

心を少しずつ掘り下げて、少しでも伝わるように必死に咀嚼して、緩慢に言葉を紡ぐ。分からないと、言ってしまってはいけない気がした。ちゃんと答えなければいけない気がした。

「私は……"死ぬ"ってどういう事か、見失ってる。その……そう、私、私にも変わった体質があるんです……貴女みたいに」

「ボクみたいに、ですか?」

「信じてもらえるかは分からないけど……私は、どうやら自殺では死ねないみたいで。飛び降りたり、薬を飲んだり、溺れてみたり……首を、吊ったり。どれも、ダメでした。ダメだろうな、って思ってて、でもずっと繰り返していたんです、自殺を。いつか死ねたらいいな、って淡い希死念慮で……そう思ってました。でも、違った」

こうして自省してみると、改めて、自分が何をしたいのか理解できない。理解できないまま、ただその時の気分に流されるままな姿は、4年前の雨の日から何も成長していない。

「多分、私は、今日になってようやく、本当の意味で死に直面したんです。それまで、私はずっと死から目を逸らしてたんだって……私は、死にたいなんて少しも思ってなかったんです。今日、ちゃんと向き合ってみて……正直、まだ分かりません。私にとっての死とは一体なんなのか、結論は出てないです、すみません」

言い切って、顔が熱くなっているのを感じる。端から見れば、まるで要領をえない言い分だろうに、少女は真剣に耳を傾けてくれている。それが気恥ずかしくて、嬉しかった。

「そうですか。ええ、大丈夫です、それはボクの欲しい答えでしたよ。そして……ボクはきっとお姉さんの力になってみせます」

「それは、どういう」

「自慢じゃあありませんが、"プネウマ"はタナトーマの品揃えに関しては随一ですよ。違法合法問わず様々なタナトーマを取り扱っていますし、それらの出自や性質なども詳しく調査されます、っていうかしますボクも。だから、お姉さん……流石に、一緒に働こうなんて犯罪幇助はしませんが……是非、ボクと一緒に"死"を探しましょう」

「死を、探す……」

「きっと見つかりますよ、ここでなら」

少女は空を仰ぐ。すっかりオレンジ色に染まり、東から紺碧が滲む夕空がそこにある。この空の下に、私の死があるのだろうか。分からない、だからこそ自分は知りたい。状況に流されるのではない、自分の衝動で私は私の死を求める、そう決めた。

1日の疲労が抜け切らない身体に鞭打って立ち上がる。自分に向き直る少女へ、手を差し出す。

「こんな状況で、自分に何が出来るかなんて定かでないですけど……見つけたいです。私、綾女あやめ 瑞香みずかって名前です。よろしくお願いします」

ほんの少し驚いた様子を見せつつ、少女の、ほんの少し小さい掌が、自分の手に触れる、握る。

「奇遇ですね。ボクもアヤメですよ。"夜"の世界で暮らすための偽名ですがね」

「あー、じゃあ……アヤメ、ちゃん?なんか変な気分ですね」

「あはは、ボクはお姉さんのままで呼ばせてもらいますよ、瑞香お姉さん」

アヤメは、大袈裟に咳払いの仕草をして、朗らかだった表情を引き締める。そう、本当なら、自分の今の境遇は全く歓迎すべき状態ではないのだ。自分は油断から裏社会と関わってしまい、最早後戻りはできない。そこに、ある種の希望を見出したというだけの話。自分も、今一度緊張感に頬を引き締める。今にも暮れそうな朱色の空が、私たちを見下ろしていた。

「敢えて、お帰りなさい、とは言いません。ここからは、お姉さんの知っていた世界では無いですし、ここはお姉さんの知っていた街ではありません。ようこそ、"昼"と"夜"の重なる街……暮内くれないへ」

 

 

 

 

二人のアヤメ / 紅の下の邂逅

 

 

 

 

「そういえば、気になることを一つ思い出したんですが、聞いてもいいですか、アヤメちゃん」

「なんでしょう?」

「その……どうして、私が自殺を試みたと知っていたんですか?」

「あー、まあ簡単な話で……」

アヤメが首を撫でるジェスチャーをする。

「首吊り自殺の後なら、縄が食い込んだ痣は気にした方がいいと思いますよ。その……ファッションとして?」

あ、と間抜けな声が漏れた。つまり自分は、ずっと首周りに縄の跡を浮かべてそこいらをほっつき歩いていたのか。そう思うと、なんだか奇妙な気恥ずかしさが湧いてきて、顔が熱くなる。

「……あー、そうだ、ボクも聞きたいことあるんですよ。お姉さんは何故ボクが女だと見破れたのですか?」

そういえば、彼女は男装にそこそこ自信を持っているような事を言っていたなと思い出す。実際、自分が初めてその事に気付いたのは、あの時  

「……あのー、そこの男に、滅多刺しにされて、そこから復活したじゃないですか」

「まあ、はい」

「その時、ちょっと……こう、見えまして」

「何がですか?」

「中身が」

「中身」

自分のぼやけた言い回しにアヤメが訝しげな目線を送ってくるが、正直、これ以上具体的に言及する事が憚られて、無言で自分の下腹部を撫でるジェスチャーをする。彼女も頭に疑問符を浮かべたまま同じ仕草をするが、数秒の後、動きがピタリと止まった。その顔に、一瞬で朱色が差して、判別不能な唸り声をわずかに漏らし始めた。その様子を見守りながら、教科書に描いてある通りの形してたなあ……と他人事のように追想する。

赤い空の下、顔を夕焼け色に染めた二人は、揃って立ち尽くした。

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