宇美海博士がコーヒーをご馳走するだけ
rating: +20+x
blank.png

 珈琲とは、私──宇美海遊女が知る限り世界で最も素晴らしい飲料である。
 普段お茶を飲む人も、紅茶派でも関係ない。
 珈琲が机上にあるだけで、そこは議論の場に早変わりする。そこでは好きな銘柄から、果ては政治に関しての討論も繰り広げられるのだ。
 カップ一杯の珈琲は無限ではないが、そのカップ一杯分の時間に意義を持たせる。その時間は民主主義を育て、事件を起こし、歴史的革命をも助長したと言う。
 珈琲と言う漢字はどちらも簪の意を有するが、それは一重に、珈琲が木の枝に実を結んだ様子が簪の様に美しいからだ。これを単純に宛字とは言わせない。
 私はこれら諸々の理由から総合して珈琲を好む。
 語らせたらもっと長くなるし、24時間は話し込める。だが自重するのも大人だ。
 翻訳中の書類を中断し、研究室の隣に設けられた簡易台所に足を向けた。
 いつか、飽くまで議論の出来る同士が現れないものかと、淡い期待を込めて今日も珈琲を入れる。忙しい時は専らインスタント珈琲を淹れるのだが、今は少々余裕がある為ドリップ方を採用した。
 台所に常備されたアメリカンブレンドの珈琲粉末を手に取る。『アメリカンブレンド』と銘打っているが、私が米国の大学に籍があった頃飲んだあの味は再現出来ない。
 ごく近いものを再現するとすれば、自分で豆から厳選しなければ。それも一興なのだが、如何せん私は財団職員、それも博士の末席に座る身だ。多忙で自らの足を専門店に向ける暇もない。
 せめてもう少し種類を増やして欲しいのだが、ある時を境に申請が通らなくなった。確か30種を越えたあたりだっただろうか。
 フィルターに粉末を入れ、丁寧にお湯を注ぐ。水面の王冠とあぶくを見詰め、雑味が残らない様にさっとフィルターを取り外した。
 それから黒糖を二杯溶かし、クリームを流すと美しい螺旋が描かれる。
 徐々に色素の薄くなる珈琲を見守りつつ、事務机に戻った。
 『珈琲に意識があるのだとすれば、徐々にミルクを混ぜた時どこまで意識が残るのか』と疑った人が居た。
 とても素敵な戯れ言だと思う。
 私は今日も独り言と珈琲を啜り、仕事に精を出す。

%E7%84%A1%E9%A1%8C459-1.jpg

 午後2時45分、来客あり。
 研究室の戸が開かれ、そこに神恵研究員の姿があった。
 やや低めの身長、陶器の様に滑らかで白い肌に長くウェーブのかかった色素の薄い髪。灰に青が混ざった、スラブ系の人種によく見られる特徴的な虹彩を持つ目。だが日本人である。
「宇美海博士」
「ああ神恵さん。すみませんね、こんな散らかったまま……」
「いいんですよ、私もお片付け手伝いましょうか?」
「いや、来客にそんな雑務任せる訳には……」
「でも片付けが終わらないと、いつまでも珈琲ご馳走してもらえないですよね?」
 この日は神恵研究員とその他の職員を誘って茶会を開く予定でいた。それが私の無精でこんな失態を晒してしまうとは、情けない。
 神恵研究員の手には高級菓子店の紙袋が提げてある。多分、今日のお茶請けにとわざわざ用意してくれたものだろう。
 私は誰にも知られない様、喉の奥でそっと溜め息を吐いた。
 書類をバインダーやらファイルに綴じ、関連画像を纏めてフォルダに突っ込み、珈琲を淹れていたビーカーを洗って、手荷物を纏め、神恵研究員と共にサイト内のカフェテリアに向かう。
 利用者のいない時間帯である為、道中擦れ違うサイト職員も居なかった。
 カフェテリアに到着すると既に先客がいた。氷菓監査官である。
 監査官用制服の上に研究員用の白衣を纏ったその姿は一年を通して変化する事はない。
「博士、やや遅いですね。待ち合わせ予定時刻から5分27と23ミリ4マイクロ秒の遅刻です」
 不具合の出る機械以上に正確な彼女に遅刻を指摘されると、誰も反論出来ない。時計に目をやると午後3時を回っていた。
 研究員のスケジュールと時間の管理人を勤める氷菓監査官は、やや苛ついた様子で長い足を組む。
「本当にすみませんでした。言い訳するつもりはありません、なんとでも言ってください」
 私は両手を上げ降参の姿勢を示すと、氷菓監査官は一つ息を吐いた。
「博士は多忙ですから、この程度の遅刻は寛容に見るべきなのでしょう。ですが、現在設定しているスケジュールの実行が難しい様であれば、再編を検討しましょうか?」
「いえ、結構です」
 すると監査官はくすりと笑って、冗談ですよ、と言う。
 私の無精で彼女の仕事を増やす訳にはいかない。
「それはそうと、そろそろ茶会を始めません? 喉が渇きました」
 どうやら彼女も彼女で楽しみにしていたらしい。結構可愛い所もあるじゃないか。
%E7%84%A1%E9%A1%8C459.jpg

 私は早速カフェテリアのキッチンを借り、支度を始めた。今日は寒いから、寒冷地の珈琲を淹れてみようか。
 まず珈琲を鍋にかけ暖める。そこに牛乳と卵黄3つを混ぜ、ウォッカを大匙3灰。沸騰しない様に弱火で暖めつつ混ぜ、十分に暖まったらカップに移す。持ち込んだ荷物からホイップ済みのクリームを取り出し、それでもって珈琲に蓋をすれば完成だ。
 キッチンから出るとカフェテリアではジャズ調のピアノアレンジ曲が小さく流れていた。神恵研究員が持ち込んだレコードから選んだのだと言う。流石音大卒だけあって、選曲が素晴らしい。
 そこには、SCP財団と言う異常物を扱う灰色の組織とは思えない空間が広がっていた。財団の世界の保全活動は、外で暮らす民衆に公開される事はない。日の光を浴びる事なく朽ちていく職員もいる。
 時には血生臭い仕事も、犬をも殺す事だってする財団だ。それが世界の為ならば、一人の何の罪もない少女も飼い殺す。世界を、人々を未知なる脅威から徹底的に保護し、情報を操作し、何も知らなかったまま平穏無事に死に往く事を保証するのだ。
 私達財団職員は世界の奴隷となり、自ら喜んで血の道を進む。しかし人間である以上、修羅の道を行進するのも限界がある。その為、時にはこう言う場を設ける必要があった。
「はーい出来ましたよ~、宇美海博士特製ロシアンコーヒー」
 珈琲の香りに、神恵研究員がパッとその童顔を輝かせた。漂う新鮮な珈琲の香りに振り向かない者はないだろう。机に三人分のカップを並べ、いつの間にか用意されていたチョコレートを摘まんだ。
「それ、氷菓さんが持ってきてくださったんですよ」
 神恵研究員が同様にチョコをつまみながら証言する。そうだったのか。それにしても高級なお茶請けばかりが並んでいる。氷菓監査官のチョコに、神恵研究員のマカロン。
「有り難うございます。皆さんお茶請けを用意してくれて」
「茶会には良いお茶請けが必須ですから」
「時間を有意義でより良質なものとするには、良質なものが要ります」
 誰かと共にするこの時間を特別にしたのは、二人の助力が大きい。本当に、私は珈琲を淹れただけで良いのだろうか。誤魔化す様にカップに口をつける。良い塩梅だ。
 珈琲はやや苦味のある物を選んで正解だった。クリームと牛乳の甘さがよく引き立っている。濃厚な卵黄がケーキの様な味に仕立てていた。ウォッカはアルコール度数が高い為、少量と言えど体が暖まる。
 珈琲とは、本来利尿作用によって体を冷やす飲料だ。それに混ぜ物をして、美味しく暖かく飲む工夫を発明した先人には頭が上がらない。
「これまた面白い飲み方ですね」
 氷菓監査官が不思議そうに首を傾げてカップを見詰める。
「でしょう? 珈琲は体を冷やす飲み物ですが、それを逆の性質にして、美味しくいただく知恵が詰まった一杯なんですよ」
「先人はそこまでして飲みたかった変態なんですかね~。まあ私はもっぱらお茶派ですけど」
 先人を変態、と称する神恵研究員に苦笑した。
「珈琲はつくづく不思議なものですから」
「それに限らず、お茶と言うものは事の大小を問わず何かの切っ掛けになります。……例えばボストン茶会事件とか」
「あれはまあ……それが切っ掛けで珈琲がより定着したのも凄いですよね」
「大戦の時には、タンポポの根やヒマワリの種を煎じて粉末にして珈琲の味を再現したものもありますからね。その当時の資料が欲しいんですけど、申請したら通りますかね」
「なまらわや……」
 話し込んでいる内にカップは空になり、あおれに比例して時間は刻々と経過する。話し足りなさに反比例して時間は消費された。
「そろそろ予定終了時刻になります。残り時間は10分15と35ミリ24マイクロ秒」
「そっかあ……名残惜しいけど、博士、珈琲有り難うございました」
「いえいえそんな、滅相もない。こちらこそ美味しいお菓子有り難うございました」
「余裕を持って行動するには良い時間ですが、どうします?」
「…………その、最後にと言ってはなんですが、もう一杯だけ飲んで行きません? これからまた仕事でしょう?」
 時計は午後4時前を示していた。私はまだ、計画的にやり残した書類があるし、この二人も例外ではないだろう。
 2人は考える様な仕草を見せている。氷菓監査官は脳内スケジュールを確認している様だし、神恵研究員もそれを窺っていた。数分の沈黙が落ち、氷菓監査官の判断を待つ様な状況に陥ってしまった。
「では、もう一杯だけいただきましょう。余裕を持って行動するには良い時間ですし」
 彼女に後光がさして見えた。これ程までに氷菓監査官を崇敬した事はない。
 私は再びキッチンに立ち、頭を捻った。
 前提として珈琲は利尿作用がある。仕事前に大量の珈琲をガブガブ飲むものではない。少量でも美味しくいただけるものは──
 エスプレッソを抽出し、その間に牛乳を暖める。やや湿気を吸って固まった砂糖を匙で崩した。カップにエスプレッソと牛乳を注ぎ、カフェルンゴとする。砂糖を入れて完成させる。
 日本では『イタリアのエスプレッソは砂糖を入れる』と言われるが、砂糖を入れる事が前提の飲み物である。好みは十人十色、百人百様あれど、これだけは譲れないし勘違いされたくない。
 60mlとやや量の多いルンゴと言えど、エスプレッソだ。これならすぐ飲めるし、さっぱりした味わいなので、先程の重たいロシアンコーヒーを吹き飛ばせて仕事を再開するにも良いだろう。
「お待たせしました。イタリアのカフェルンゴ、だよ」
「「カフェルンゴ?」」
 と、氷菓監査官と神恵研究員が同時に首を傾げる。その様が可愛くてご飯何杯でもいける気がした。
「はい、エスプレッソより量が多いけど、れっきとしたエスプレッソ。重い物飲んだから、さっぱりするかなと思って」
 カップを差し出すと、2人は受け取るが早いがすぐ飲み干してしまう。
「甘いけど本当にさっぱりしてますね。エスプレッソは砂糖をあまり入れないものでは?」
「日本が入れないだけで世界では入れるの。解釈が独り歩きしている感じで、私としてはややもやっとするんだけど」
「無知って罪ですね」
 残ったお茶請けを処理しながら、10分と言う限られた時間を意義深いものにしようと、足掻く私がいた。
%E7%84%A1%E9%A1%8C459-3.jpg

 午後4時丁度に茶会をお開きにし、私は研究室へ撤収する。残った仕事を処理すれば自由時間が待っているのだ。やらねばなるまい。
 酷使した目を栄養剤と蒸気アイマスクで奮い起たせ、3時間かけて終了する。無意識に長時間曲がっていた背中が悲鳴を上げた。
 緩慢な動作で椅子から立ち上がり、その足で簡易キッチンに向かう。仕事終わりの祝い珈琲を淹れるのだ。私は一日に10杯以上飲むのだが、今日はそれ未満の7杯である。これから飲む分を含めれば8杯になるが、まだ少ない。
 インスタントの粉末をカップにティースプーン二杯入れ、砂糖をざばっと加える。疲労した脳を労りたい。お湯を沸かして90℃のお湯でもって粉末を溶かす。
 匙でくるくると回して粉を完全に溶かし、一口啜った。自室に戻るのも面倒で、そのまま簡易キッチンに居座り立ったまま飲む。
 今日は楽しかった。書類に追われていたものの、平穏無事に一日が回ろうとしている。
「また飲んでんのかい。何杯目だ」
 不意に意識の外から投げ掛けられた声に驚き勢い良く振り向くと、簡易キッチンの入口に10代の少女──もとい、飯尾博士が立っていた。
「なんだ飯尾博士ですか。こんな夜分にどうしたんです。それに今日はまだ10杯も飲んでないんですよ」
 やや低い背丈と艶やかな長髪に、中性的な容姿を持つ彼は婦人服に袖を通せば可憐な少女に化ける。最も、今日は普段の男性的な服装に白衣を纏っているが。
 飯尾博士は私のコーヒーカップを指差した。
「コーヒー淹れてもらいに来た」
「さいですか」
 飯尾博士は、きっと分かっていてこんな時間に押し掛けて来たのだろう。彼の行動予測精度は7割を誇るのだ。ふと飲みたくなったが自分で淹れるのも面倒で、その為に一杯のコーヒーを淹れるより面倒な行動予測を立ててまで来たのだと思う。
 もしかして未だに仕事が終わっていないのだろうか。
「本日はどんな一杯をご所望で?」
 私は戸棚のマグカップを選別しながら問う。
「目を醒まさせるやつ」
「……じゃあロシアンコーヒーでもお作りしましょうか? 少々お酒を入れるので、刺激で目が醒めますよ」
「甘いのはちょっと。それと、これから少しビールを嗜む予定でいる」
「なんでそんな時にコーヒー飲もうと思ったんですか」
「眠いんだ」
 10代に見える容姿を自覚してか、飯尾博士は白衣の袖で閉じかけた目を擦った。
 眠気覚ましにもなって、かつこれから酒を飲むとなると淹れるべきものは絞られる。
「そうですね。では、ドイツのコーヒーなんてどうでしょう」
「ドイツの?」
 提案すると、飯尾博士は小首を傾げた。ああもう可愛いから止めてくれ。
「ロシアンコーヒーより度数の強いお酒を入れるコーヒーがあるんですよ。これから晩酌を、しかも冷たいビールを飲まれるなら、胃を温める方が良いと思いまして」
「成る程な。じゃあそれを」
「承りました」
 私がキッチンに向き直ると、飯尾博士はいそいそと椅子に座って待機する。その様は、さながらご褒美を期待する子犬のそれであり、美少女の面を持ち合わせる中性的な容姿も相まって、とても可愛らしく思えた。少なくとも正体を知らない他人から見れば美少女或いは美少年に見えるだろう。
 ふと時計に目をやると午後8時になるかと言う所で、早く済ませなければ私の自由時間が消費されるのだ。
 フィルターに珈琲粉末を入れ、ドリッパーを振って粉を平らに均す。『の』の字を書く様にお湯を入れ、中心の膨らみがへこんだのを見計らって再びお湯を注いだ。
 お湯を全て注ぎ終わって珈琲が出来ると、飯尾博士が覗きに来る。まだですよ、と牽制して棚からシュナップスの酒瓶を取り出した。ラベルに簡素なフルーツのイラストが添えられている。
「確かシュナップスってアルコール度数40%のブランデーだったよな」
「そうです。シュナップスの単語は『火の酒』の意味があって、まあそれだけ強い果実酒なんですよね」
 簡単に説明しながら瓶を開封すると、甘い果実と爽やかなハーブの香りが鼻を突き抜けた。シュナップスをカップに入れ、そこに珈琲を混ぜたら完成。砂糖は好みに任せ、飯尾博士に渡す。
「ありがとう」
 そう言って飯尾博士はぐいっと呷り、一気に1/3程度飲んでしまった。熱くないのだろうか。
 それにしても10代の少女が酒入りの珈琲を呷っているのは何とも面白い光景だろう。端から一瞬見ればそう違えてしまうので、そこから誤解を招くのがまた面白い所だ。
 博士はしばらく目まぐるしく変化する味を解析している様だったが、突然驚いた様に目を見開く。
「うわ、胃が熱いな。養命酒みたいだ」
「養命酒はやめてくださいじわじわきます」
%E7%84%A1%E9%A1%8C459-2.jpg

 その日は元々休日だったのだが、机を整頓していたら提出期限が一週間先に迫った書類を見つけてしまった。これを敢えて不運だとは思わない。
 資料室の文献を参考にしなければ解けない問題があったので、休息も兼ねて部屋から抜け出す。氷菓監査官に予定外の仕事をしていると知られたら、と思うと気が気でなく、隠密行動を取った。
 資料室を訪れると何人かの利用者があり、その中に1人見知った顔を発見する。
「山月さんじゃないですか」
「え? ああ、宇美海博士! お久し振りです~」
 特徴的な伸びた語尾。白いシャツにスラックス姿の、背丈は高いが穏やかな印象を受ける男性。極度のオブジェクト恐怖症で知られる山月監視員だ。
 安心した様な笑顔を浮かべる目許には薄い隈が浮かんでおり、日々の業務が少なからず睡眠に影響を与えている事を示唆している。
 無理もないだろう。大のSCP嫌い、その特性を生かした天職の様な職場だが、日々神経を磨り減らしているのだ。いつ異常性が発揮されるか、鉱山のカナリア、とまで言うのは失礼千万だが、実際そんな仕事である。
「やっぱり普通の人が側にいると安心します」
「それは良かった」
「所で、博士は何か探し物ですか?」
「そうなんです。ちょっとこの資料を探してまして……」
 事前にメモして纏めておいた資料名を彼に見せると、それなら向こうにありましたよ、と先導し、更に高所で届かない位置にあると分かると、その高身長でもって入手してくれた。
 私からすれば身長170cmは高い方だ。
 お礼を言って頭を垂れると、どこまでも謙虚に首を横に振る。
「いいんですよ~。これしきの事」
「私の気がおさまらないんですよ」
「僕は普通の人が側に居るだけで十二分に満足なので~」
 どこまでも謙虚な振る舞いに対して報える事はないだろうかと思考を巡らせると、ふ、と思い立った。
「コーヒー、ご馳走させてもらえません? さっきのお礼です」
 提案に、山月監視員は目を輝かせてやっと首を縦に振る。連れ立って簡易キッチンに足を向けた。山月監視員は何が好きだったろう。
「甘いものは大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。何を作るんです?」
「ラテ・マキアートでも作ろうかと思いまして。砂糖の有無で調整は出来ますが甘めの仕上がりなってしまうんですよ」
 矢張疲労には糖分だろう。山月監視員を労う名目で、私の糖分摂取も兼ねたコーヒーブレイクだ。
 簡易キッチンに行ってみると何人か先客がおり、多分同様に仕事が終わらない民なのだろうと推測した。
 エスプレッソマシンのフィルターぎりぎりまで水を入れ、細かく挽いた粉を均一にならす。強火で火にかけ、しばらく沸騰するのを待つのだ。
 エスプレッソマシンが沸騰したら水蒸気が豆を通って珈琲が出始めるので、直ぐ様弱火にして全ての珈琲が出切るまで再び待つ。するとブツブツと言った音が聞こえ、珈琲が完成した事を知る。
 それからミルクを泡立てる。ラテ・アートに使用されるものとは違い、軽くて乾燥したものを大きく泡立てるのが特徴だ。
 牛乳を沸点の直前まで温め、ミルクフォーマーを沈めボタンを押す。電導機はやはり偉大だ。徐々に泡が出始めたら、フォーマーを上部に持って来て上もかき混ぜる。
 満足するきめ細かい泡が完成したら、そこにエスプレッソを注ぐと綺麗に二層に別れた。それを見た山月監視員が感嘆の声を上げる。
 チョコソースを格子状にかけ、更にホワイトチョコレートを砕いて飾り付けたら完成。ミルクにエスプレッソを注いだ時点で完成なのだが、その先のアレンジは自由だ。欲を言えばもう少し手を加えたかったが、生憎材料を切らしている。
 山月監視員にラテ・マキアートを手渡し、簡易キッチン内に設置されている共用の椅子に腰かけた。
 まずは1口啜ってコーヒーの風味や味を楽しむ。砂糖は入れなかったので苦味があり、その後を酸味が追い掛けた。
 マドラーでミルクとコーヒーをかき混ぜると、山月監視員が不思議そうにこちらを見る。
「? どうしました?」
「それって混ぜて良いものだったんですね。二層に別れていたので、崩したら勿体無いですし」
 とてもかわいい。
 混ぜても問題ないのだと伝えると、彼はどこか安心した様にマドラーを手に取った。もしかしたら、さっきまでこちらの出方を窺っていたのだろうか。どうしたらいいものか、と。
 だとしたら要らない気苦労をかけてしまった。後悔するなら、もっとシンプルな物を出せば良かったのに。
 横目で窺うと、飲み方を知った彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。その顔が見られただけで百点である。綻ぶ口許をカップで隠して、ゆっくり時間をかけてコーヒーを楽しんだ。
 その内に山月監視員は同僚に声を掛けられ、業務に戻って行った。名残惜しいが、去る者を追う事はしたくない。大人しくその背中を見送った。
 ふと思う。明日も今日みたいな日がやってくるだろうか。朝日を拝めるだろうか。オブジェクトが収容違反を犯し、眠っている間に巻き込まれないだろうか。
 誰しも、そんな不安と戦っている事を祈り、カップの底に残った珈琲を飲み干した。
特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。