決戦。鰻。
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O5-1は額の汗をハンカチーフで拭き取ると静かな声で告げた。

『続けてくれ。オシリス上級研究員』

「はい」という短い返事には明らかな恐怖と緊張が見えていた。長身の男、オシリス上級研究員は自分の目の前のモニターの小窓に表示されている名だたる面々の顔を眺め、手にした報告書を読み上げた。

「対象は…SCP-1970-JPは…13日午前3時7分53秒に321,860km上空に出現……日本支部によって捕捉されました。……先ほどの報告の通り…オーバーライド・プロトコルが実行されましたが…対象は攻撃を突破。軌道の変更に失敗しました」

「日本支部のスーパーコンピュータが落下予想地点を計算。現在の軌道から推測される落下地点は……」

『………落下地点は?』

O5-4は震える彼を見つめたまま唸るように言った。

「………」

オシリス上級研究員は乾ききった口内の、存在しない唾液を飲み込んだ。嚥下音と共に彼の切り立つ山のような喉仏が動く。

「……アメリカ合衆国…………ワシントンDCです……」

モニター上の管理者達の顔にも恐れと焦りの色が現れる。

『…落下までどれくらいの猶予がある……?』

中国支部の代表者、O5-CN-2は手にした電子端末で情報を確認しながら呟く。オシリス上級研究員は先程と同様の面持ちで答えた。

「44時間……いえ、正確には43時間と56分です」

モニター上の各国支部代表者達の間に戦慄が走る。質問をしたO5-CN-2もまた動揺を露にしていた。

『……撃墜の体制を整えるには現地軍の協力を得る他……』

『……44時間では避難すらままならないぞ……』

『……事後処理だ…アンニュイ・プロトコルの発動も視野に入れるべき案件では……』

「現在、日本支部を中心として対抗計画が練られていますが………」

『………失礼』

突然、画面いっぱいに男の顔が映る。それは日本支部理事"獅子"のものだった。

『たった今、当支部の職員によって対抗計画が立案されました。…些か難儀な物ではありますが……』

『日本支部にそれを可能にする設備があるのかね?我々には皆目検討もつかないが?』

ドイツ支部理事会、通称O4の代表者が右の眉毛を上げて見せた。他の者達は皆"獅子"の回答を待っていた。

『えぇ、確かに我々には即座に転用できる設備は存在しません。ですが、我々には「手段」があります』

「手段……とは……?」

オシリス上級研究員は、ほとんど無意識に呟いていた。




1980年12月14日。

緊急通達を受けた日本支部は「師走」の名にふさわしい慌ただしさに飲み込まれていた。

ただ世間と違うのはそれが年末特有の物ではないという事、彼らの物はより直接的で、かつ切迫していた。

あと42時間でアメリカが、それもワシントンが吹き飛ぶのだ。避難誘導すら困難な人工密集地で、そのうえ被害による世界的な影響も計り知れない。ワシントンの崩壊を見越したGOIが動きを見せているという報告もある。

姿無き宇宙船、亡霊と化したアポロ13号。地球に帰ることを許されない哀しき乗組員達。まるで我々への怨恨が体現されたかのような状態だった。

勿論、大気圏で燃え尽きる可能性も否定はできない。だが、SCP-1970-JPは1978年2月13日以降、大気圏を突破する回数が多くなっているのだ。オーバーライド・プロトコルはそれを受けて提言されたが、大気圏突破を根絶した訳では無かった。確かに減少はしているがまだ突破は成功しているのだ。

「白石、管理部門までこの資料回しといて」

隣のデスクの大宮博士がホチキスで留められた書類の束を私の机上に置いた。彼の顔は窶れており、ぼさぼさの髪の毛は少し脂ぎって見える。心なしか臭いもする。だが、それは皆同じだった。

当初よりSCP-1970-JPの出現が予想されていた為、私達研究員はオーバーライド・プロトコル遂行の経過を記録するために前日から準備をしていた。毎月12日から13日にかけての徹夜はもはや定例と化していた程だ。ところが、今回はオーバーライド・プロトコルに失敗した。本来なら一晩の徹夜で済んだ筈が、二徹目、人によっては三徹目に突入している。

「わかりました。坂本さんに渡していいですか?」

「あ、そうだね。助かる」

私が机を立つと、彼はデスクトップの画面上に視線を走らせたまま左手をひらつかせて感謝を表明した。

室内を駆ける人々を躱しながら研究室を出る。

廊下も混沌で満ちており、床にはいくつかの書類が放置されている。普通ならば情報漏洩に繋がりかねない為、厳重注意では済まないだろう。だが、今はそれどころでは無いのだ。

廊下を曲がりエレベーターホールに入る。

ホールの休憩用のソファーに体を丸めて横たわる男の姿があった。白衣を毛布のようにして眠っている。目の下の深い隈はここ数日の男の激務を物語っていた。エレベーターのボタンを押し、扉が開くのを待つ。

エレベーターを待っている間にも睡魔が私を眠りの世界に引き込もうと襲いかかってくる。何かをしていない空白の時間があると私は駄目だった。私は自分の頬にビンタを食らわせ開けることを拒む瞼を無理やり開いた。

エレベーターが開き中へと入る。「B18」のボタンを押して扉を閉じる。

再びの空白。私は睡魔を制圧するため、エレベーターの床に散らばっている文書の一枚を読んでみることにしてみた。

文書に機密保持の警告は無い。閲覧に必要なクリアランスレベルの表記も、極秘の二文字も見当たらない。私は資料中の文章を流すようにして見た。

何の面白味も無い。墜落時の危機管理だの収容体制の維持だのという事がクリニカルトーンで羅列されている。

ふと、私の目に見覚えの無い文言が飛び込んできた。

「…なに………?」

「イクユミヤ計画…?」

「チンッ」という音とともにエレベーターの扉が開く。扉の向こうのエレベーターホールとそれに続く廊下もまた、上と同様の酷い有り様だった。

私は文書を放り捨て、管理部門のオフィスへと向かった。

「坂本さん。これ、大宮博士からです」

デスクの上でコーヒー片手にキーボードを叩いている中年の女に資料の束を渡す。彼女は私に微笑むとコーヒーをおいて資料を受け取った。

「白石くん、わざわざありがとうね」

「いえ、これも助手の仕事ですから」

オフィス内もまた喧騒の真っ只中である。私の「失礼しました」という声は誰かの怒声によって掻き消されてしまった。

廊下を歩きながら先程の「イクユミヤ計画」のことを思い出す。

「あれは何だったんだ………?」

聞いたことの無い計画。だが、極秘指定はされていなかった。第一、隠匿されるような情報が紙媒体になることはあり得ない。いや、この現状ならば誰かが血迷った結果であると考える事もできる。現に私の上司にあたる大宮博士でさえもう3日も寝ていないのだ、そろそろ認知能力と精神に異常を来していてもおかしくはない。だが―。

私は研究室に戻り、自分の椅子に腰を下ろした。

5時間前に与えられた書類の山はある程度殲滅したはずだったが、今やそれを越える量の新たな山が机の上に形成されている。

私は溜息をついて書類に手を伸ばした。

その時だった。

『日本支部理事会より緊急通告。日本支部理事会より緊急通告』

頭上のスピーカーがブザー音と共に放送を始める。室内は瞬く間に静まり、僅かなざわめきだけが残る。

『SCP-1970-JPへの対抗手段として、イクユミヤ計画を発動。全職員は直ちに配布資料を参照せよ。繰り返す、SCP-1970-JPへの対抗手段として、イクユミヤ計画を発動。全職員は直ちに配布資料を参照せよ』

「……イクユミヤ計画……?」

「…資料ってどれだ……?」

突然の放送に人々が戸惑っていると、唐突に研究室の扉が開けられた。

「これより、イクユミヤ計画関連資料を配布します!!」

スーツの男が手を拡声器の形にして叫ぶ。両脇の若い男と女が台車にのせた紙の束を近くの職員達に次々と渡していく。

「取った人から回してくださーい!!」

「ほら、白石」

大宮博士が私に資料を渡す。『イクユミヤ計画に関する概要と決行について』と題されたその書類は、エレベーター内で見た文書と同じだった。

「なに……『大気圏突入以前にSCP-1970-JPを破壊する試みは期限の問題により却下、よって破壊のタイミングは大気圏突入直前とする』……?」

「…どういう事だ?…」

資料をめくり、次の項へと進む。

「……まさか………そんな…馬鹿げてる……!!」

私は思わず呟いて大宮博士の方を向いた。大宮博士は読了した資料を閉じ、私の方をちらりと見ると静かに笑った。

「…確かに馬鹿げてるな……こんなの映画の『メテオ』の方が何百、いや何千倍だって現実的だ」

「だが、やってみる価値はありそうじゃあないか……どうせ、あと44時間じゃ大した準備なんてできやしないんだ……」

唖然とする私の目の前で大宮博士は白衣の袖を捲った。

「さぁて、久々にやってやろうじゃないか。これでも私、高校時代は野球部員だったんだよ」

驚くまでに筋肉の無い細い腕が露出する。蛍光灯の光を受け、肌は青みがかってすら見える。

「まぁ、ベンチだったんだけどね」

研究室は7割の困惑と3割の謎の闘志によって不可思議な空間と化していた。




1980年12月16日。早朝。

太平洋沖、北緯36°21′2″ 東経154°59′42″の地点に航空母艦の姿があった。インディペンデンス、ニミッツ、エンタープライズ、カールビンソン。計4隻。全て米海軍の保有する航空母艦だ。艦首には米海軍の戦闘旗ともうひとつ、財団のシンボルの描かれた旗が掲揚されている。

「凄い設備ですね」

私は隣で準備運動をする大宮博士に話かけた。1日休養をとった博士は見違えるほどに健康的な血色をしていた。周囲の職員達も完全ではないがある程度疲労は回復しているようだった。

「そりゃあそうだ、本部が全面協力してるんだ。国だろうが軍隊だろうがフル活用だ」

博士は屈伸運動をしながら少し微笑んだ。

「だが、まさか財団が…我々日本支部をここまで頼ってくれるとはな……」

「私もかなり驚いています。まともな作戦ならまだしも、こんな滅茶苦茶な計画に……」

それだけどうしようも無かったという事なのだろう。財団本部といえど完璧ではない。それが例え『イクユミヤ計画』のような物であったとしても、成功の可能性があるかぎりそれに懸ける。……そして何より、財団本部にとってはやりにくい問題だったのだろう。アメリカの英雄であるアポロ13号の乗組員達に何度目かわからない死を与えるのは、多くのアメリカ人によって構成される本部からすれば後味の良い物ではない。勿論、そのような事を理由に実行しないという事はあり得ないのだが、このような危機に直面している場合であっても現場の士気というものは結果に大きく影響するのだ。

『職員の皆さん。予定時刻20分前となりました。早急に準備を行い甲板に集合してください』

艦内の放送を受け、全員が立ち上がる。

「いよいよ……ですね」

「そうだな。早いとこ準備を済ませるぞ」

私は大宮博士と頷き合い、上着を脱いだ。他の職員達と同じように、次々と衣服を脱いで裸になる。

私は隠すべきところをタオルで覆い、事前に配布されていた『第一種特殊兵装』の密閉パックを開け、特殊兵装…もとい白い褌を取り出した。

マニュアル通りに褌を装着するとなんとなく引き締まった気持ちになった。同封されていた補助装備"鉢巻"を装備すると、もはやその気持ちは確固たる闘志に変化していた。

「白石。ハルトマン霊体撮影機の使い方は読んだな?」

「はい。バッチリです」

ゴーグル型に改造されたハルトマン霊体撮影機を掛け、大宮博士に大きく頷く。

『装備の整った職員から甲板へと移動してください』

放送と共に室内の機動部隊員が声をあげ、内部の職員達を誘導する。いよいよだ。いよいよ決戦の時が近づいてきたのだ。

私は深呼吸をしたあと、しっかりと裸足で空母の床を踏みしめた。

誘導に従い甲板へと出る。外は思っていた以上に寒かったが、体内に溢れかえるアドレナリンがそれを打ち殺した。

甲板から左右の3隻の航空母艦を見渡す。それぞれの甲板にも第一種特殊兵装に身を包んだ職員達が見られる。

『これより武装の配布を行います。甲板の職員は付近の機動部隊員から受け取ってください』

辺りを見ると大きなバケツを持った機動部隊員が人混みの中で何かを配っていた。

「どうぞ」

機動部隊員が白石にバケツの中から武装を取るように促す。私はバケツの中に手を入れ、のたうつを手に取った。滑る上によく動く。私はそれを落とさない様にしっかりと握りしめた。

『ハルトマン霊体撮影機を装備し、指示された方向を向いてください』

ゴーグルを下ろししっかりと装着する。

ゴーグルを通して見える視界には指定された方向を示す矢印が表示されている。

矢印に従い上を向くと、そこには先程まで視認できなかった光輝く存在があった。それは未だ大気圏外にあり、接近を続けるSCP-1970-JPに他ならない。

殺傷地点キルポイント突入まで残り2分!』

汗が流れ、固い唾が喉をならす。右手の鰻をしっかりと握って死神アポロ・サーティーンを待ち受ける。

『投擲よーい………』

体中の筋肉が今か今かと震える。その手の中で緊張する私の事などお構い無しに鰻が暴れる。

ッッッ!!!!!!』

号令と共に4隻の甲板から数千匹のSCP-718-JP-1が打ち上げられる。直線的に変形した体から大量の粘液を放出させ、真っ直ぐにSCP-1970-JPへと向かっていく。

途中で6割ほどが脱落したものの、残りの推進力は良好だ。

数十秒後、2000本あまりのSCP-718-JP-1は大気圏を脱した。

そこから訪れるのは、制限無き加速。

SCP-718-JP-1は大気による束縛から逃れ、推進と破壊だけを手に入れる。スサノオの弓矢イクユミヤの如く、地球外に脱したそれは天体以外の全てを貫く。

SCP-1970-JPは宇宙を吹き荒れる大量の鰻の嵐に晒され、瞬く間に破壊された。

『…………対象の大気圏突入を確認…………』

指揮官が望遠鏡を用いて対象の観察を行う。

『…対象は…完全に焼失ッ……!!』

『成功だ!!』

各航空母艦から大きな歓声が上がる。第一種特殊兵装に身を包んだ男女が抱き合ったり跳び跳ねたりして任務の成功を喜びあっている。

私はゴーグルを外し空を見上げた。

登りゆく朝日に照らされた空は、美しいオレンジ色をしていた。

「どうか…許してくれ……こうする他、無いんだ……私たちには……」

私は鉢巻を外し、腰に手を当てる。

手で触れた部分は鰻の粘液でヌルヌルしていて少し気持ち悪かったが、それ以上に気持ちの悪い後味が残った。

私が宇宙をどこまでも突き進む鰻の幻影を見るようになったのは、この後のことだった。




『イクユミヤ計画の成功を心より祝福する。よくやってくれた』

画面上のO5-3は頷きながら"獅子"に告げた。

「いえ、我々はやるべき事をやったまでです。寧ろ、米国の協力がなければあの成功はなし得なかった、こちらこそ改めて感謝します」

"獅子"は通信を切断し、椅子の背もたれに体を投げ出した。

「一時はどうなるかと思ったが……うまくいきましたね………」

ドアがノックされる。

「失礼いたします。食事をお持ち致しました」

ドアを開けて入ってきたのは秘書だった。彼女はふろしきに包まれた箱のような物を手に"獅子"の机に近づき、それを置いた。

"獅子"はコンピュータの電源を落とすと、風呂敷包みを開けた。

「専属料理長から、計画遂行のお祝いだそうです」

「お祝い…ですか…頂くとしようかな」

重箱の蓋を開けると食欲をそそるタレの香りが漂った。

「おや……これは…」

「イクユミヤ計画の余剰物資だそうです」

中に入っていたのはうな重だった。

ふっくらとした身に甘い香りのタレ。つやつやとした白米にそのタレが絡んでいる。

"獅子"は軽く笑ったあと、うな重を頬張った。

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