眼を閉じて、消えた記憶を思いだそうと試みる。これで何度目の試行になるだろうか。
思いだせるのは、いつだって夜の断片だけ。暗闇に生い茂る木々の葉がこすれあうざわめき、どこまでも濃い血の匂い。誰かと言い争う声。あいつは何と言ったのだったのか。僕はあの時、何と言い返したのだったか。茫洋たるイメージを手繰り寄せる。あと少し、あと少しで思いだせる……。
──じじじ。
耳障りな音が響き、朧げなイメージを霧散させた。電車の中に入り込んだ蛾だか虻だかが、ずっと硝子に体当たりを繰り返しているのだ。誰もいない車両内。仄暗い電車の中からさんさんと陽光の差し込む方向へと、何度となく羽搏いてはぶつかってを繰り返している。
先ほどから羽虫が体当たりを繰り返している窓は、上の方が少し開いている。十センチも迂回すれば、すぐに光のもとに戻れるのだ。だというのに、空しい健闘を繰り返している。おそらく、何が自分を阻んでいるのかもわからないまま模索を続けているのだろう。
愚かしい、と笑う気にはなれなかった。僕だって、おそらく別の視点から見れば似たようなものだろう。世界には不可視の障壁が溢れすぎている。どうしても思い出せない記憶と僕の間にも、きっとそういう分厚い障壁が立ちはだかっているのだろう。
八年前の間隙。親友三人で肝試しを兼ねてキャンプに繰り出した、夏の夕暮れの他愛もない思い出。そして僕一人だけで帰ってきた夏の朝の記憶。その間に何があったのか、僕は思いだすことが出来ない。思いだせるのは、断片的な瞬間だけ。それが僕の夜の全てだ。
奇妙なのは、その間隙について指摘されるまで誰も何も違和感や疑問を抱かなかった事だ。催眠術が出来るとかいう胡散臭い男と話すまで、僕は記憶に穴が開いている事にすら気づいていなかった。親友たちがいなくなったことにすら気づいていなかったのだ。三人で出かけたという記憶を取り戻したのも、そいつと話した後のことだ。
『夜闇の中を暗躍する秘密組織が都合の悪い真実を隠すべくあなたの記憶を消したのだ』とかいう彼の主張を全て信じたわけではない。それでも、自分の記憶に奇妙な欠落があるのは確かな事実だ。
「何か奇妙な出来事があれば注意してみてください。その影に、あなたの友人を奪った何かがいるかもしれない」
その言葉は、今も耳の奥にこびりついている。だからこそ、僕はこうして山奥に向かって一人電車に揺られているのだろう。湖から聞こえてくる呼び声、手招く月の調べに従って。
実際にはどこからも聞こえていない、僕にしか聞こえてこない古い音楽の幻聴。あの忠告がなければ間違いなく気のせいだと思って無視していただろう、本当にかすかな響き。その小さな調べを決して聞き逃すまいと、僕はその「奇妙な出来事」の気配をどうにか手繰り寄せた。それが功を奏したのかどうかはわからない。僕に分かっているのは、その調べから「次の新月の夜、ある山奥の湖で舞踏会がある」という直感が得られたということ。何の保証も確証もない虫の知らせだけを頼りに、僕は聞いたこともない湖へと向かって飛び出していた。我ながらどうかしていると思う。それでも、たった一つの「奇妙な出来事」への手がかりだ。確かめないのはどうにも具合が悪かった。
あるいは、僕はただ取り戻したかったのかもしれない。肝試しだなんてしょうもない事で山奥にキャンプをしに行くような無鉄砲さを抱きしめていた、他愛もないあの日々を。
電車が終点の駅名を告げ、僕は立ち上がって電車のドアを開ける。虫の羽音はもう聞こえなかった。
◆◆◆
夕食を済ませ、安宿のベッドに体を滑り込ませる。窓から見上げた空には月はない。曇天に浮かんでいた細い糸のような月はとうに沈み、星だけが空に散らばっている。空を一瞥して部屋へと戻り、ベッドに身を滑り込ませる。星の名前も数も、僕にはどうだっていい事だった。
明日だ。明日の夜が新月だ。
明日の早朝、僕はバスを経て湖へ行く。歩く行程を長めに見積もっても、日没間際には湖までたどり着ける計算だ。その先に何が待ち受けているかはわからない。失った──あの胡散臭い男に言わせるなら、”奪われた”──夜を取り戻せるかもしれないし、違うのかもしれない。それでも別に構わなかった。少なくとも、”新月の舞踏会”へと駆り立てるこの幻聴は鳴りやむことだろう。はじめは意識を集中させなければ聞こえなかったかすかな音楽は、今や無視するのが難しいほど大きく鳴り響いていた。
スマートフォンの目覚まし時計の設定を確認して、眼を閉じる。長旅で思ったより疲れがたまっていたのか、瞼はすぐ重くなり、僕はあっというまに眠りへと落ちていった。
夕焼けと宵空の境界が頭上に広がっている。その下に立つ人間が僕を入れて三人。
いくつかの記憶が混ざりあったイメージだろう、と頭の片隅でどこか冷静に思う。
僕がいたのは夕焼けの側。もう一人の人物は夜空の側に、こちらを向いて立っていた。顔は奇妙な靄がかかっていて見えない。おそらく僕が探していたのであろう親友のうちの片方だろう。背後には死神のような昏い人影が、さらに深い闇の中に佇んでいる。
背後の死神がそいつの足元を指差した。その足元には死体が横たわっている。
おそらくは親友だったのだろう男が俯いた。その手には赤黒い汚れがこびりついている。
死神が一歩前に出て、何かを握った手を伸ばす。僕は動けないままそれを見つめている。
顔の見えない友人は、俯いたまま死神から差し出された銀色の短い棒を受け取った。レーザーポインターか、ペンライトのように見える。手の中の銀色を見つめる男の耳元で死神が何事かを囁く。友人だったはずの男は頷いて僕を見る。
咄嗟に一歩下がろうとして、僕は自分の足が何か黒い影に固定されている事に気付く。抜け出そうと足掻いていると、眼前に影が落ちる。銀の棒を握りしめた男がすぐ傍までやってきていた。
「ごめん」
目の前で、どうしても顔と声の思いだせない友人が呟いた。
いつの間にか空は黒く染まっていた。夜だ。八年前のあの夜の中に僕はいる。
底の見えない暗闇。木々の騒めき。立ち込める死と鉄錆の匂い。左手に零れ落ちた暖かさ。
──それでも、せめて。君には平和な昼の世界で生きててほしい。
遠い記憶の底から声が聞こえる。
──どうか、お元気で。
銀の棒が翳される。
暴力的なまでの光。
目覚まし時計の音。
ベッドの上に身を起こす。鮮明だった夢の記憶は、起きた傍から輪郭を失い、すぐに消えてしまった。後に残ったのは、行き場のない怒りと悲しみ。そして、結局のところ僕は選ばれなかったのだという諦めだけだった。
頭の中の音楽は一瞬たりとも鳴りやまない。それに引きずられるようにして、僕は立ち上がった。
少なくとも舞踏会は、僕を呼んでいる。
◆◆◆
新月の夜。しばらくの登山の果て。通販で買ったサバイバルナイフで蔦を切り、懐中電灯の光に集る羽虫を手で払い除けながら、暗い山の中へと突き進んでいく。ひょっとすると僕はもう正気ではないのかもしれない。あの音色に頭をやられているんだろう。構うものか。
そして、暗闇の中を突き進む中で。僕は唐突に何人かの人間に地面に押さつけられていた。
木々の陰に隠れていたのだろうか。誰が、何の為に。理解が追いつかない。もがく僕の頭上で、よくわからない会話が飛び交っている。「被影響者」という単語が聞き取れた。短いやり取りの後に、立ち上がらされる。少しばかり丁寧にはなったが、抜け出せそうもない。自分を抑えていた人間の一人がこちらを覗き込んだ。夏にしては厚着だ。
「失礼。あなたはどうやってここに? 舞踏会に呼ばれた方ですか」
何故それを知っている。肩が揺れ、反射的にそちらを見てしまう。そいつらにはその反応だけで充分だったらしい。頷きあい、僕をどこかに引いて行こうとする。無線で「被影響者を一人確保」という連絡をしているのを横目に見ながら、僕は大人しく歩いて行った。進んでいるのは湖の方角ではあった。歩きながら、胡散臭い男の台詞を思い出す。『夜闇の中を暗躍する秘密組織』だったか。おそらく、彼らがそれなのだろう。
彼らの足取りはしっかりとしていた。夜の森を歩くための装備も経験もきっちりと積み重ねているのだろう。提げている灯りも、僕が持ってきた懐中電灯よりずっと確かに足元を、そして進むべき道を照らしている。取り押さえられたまま歩きながら、ちらりと連中の目を盗み見る。その目には確かに灯火が映っていた。なるほど、そんなものがあるのなら、こいつらは夜闇の中でも歩けるのだろうな、と思う。暗闇の中にあってなお輝きを失わない標。昼の中に取り残された僕たちには与えられない光。
純粋に、腹が立った。奇怪な物事を覆い隠して、何もなかったことにする必要がどこにあるんだ。
俯いたまま歩き続ける。頭の中に響く音はどんどん大きくなってくる。そうしていると、眼前に目指していた湖と、小屋のようなものが見えた。小屋から一人の男が出てくる。
「お疲れ様、その人が被影響者の民間人で──」
出てきた男と目があった。瞬間、そいつは驚愕の表情を浮かべる。
「──」
そいつは驚愕の表情を取り繕うことも忘れた調子で、僕の名前を呼んだ。それもファーストネーム。
「は?」
間違いなく初対面の、知らない男だった。率直に言えば、気味が悪い。それ以外の感想なんてなかった。
むしろ動揺したのは周囲で僕を取り押さえていた連中らしい。「知り合いか」「ああ、その人は……」そのやり取りを尻目に、緩んでいた腕を振り払って走り出す。そいつにとっての僕が何なのか、そんなことはどうでもよかった。湖に行く。それだけが目的だ。
一気に駆け、そいつの横をすり抜けて湖に向かって走る。慌てた様子でそいつらが追いかけて来た。逃げ切れるだろうか、と思った直後、タックルを食らって地面に転がる。完全に抑えつけられる直前、提げていたナイフを抜いた。暗闇の中に銀色が閃き、自分の上に乗っている人間が怯む。その隙に、刀身を首筋につきつけ、視線を走らせた。
湖までは5 mほど。先ほどまで僕を抑えていた連中は、僕に銃口を向けている。これでは、振りほどいて湖まで行くのは無理だろう。そもそもこんなナイフで人が殺せるとも思えない。諦め半分で、自分にナイフを突きつけられている男を見上げる。星空を背負った”初対面の筈の人間”は、何とも形容しがたい静かで哀しい眼をしていた。息一つ荒げていない。
沈黙。虫の音だけが遠くから聞こえる。
「少し待ってくれ」
周囲の人間たちに告げ、そいつは僕に視線を戻す。およそ初対面の人間に向けるものではない顔をしている。それでいながら、こちらにかけてきた声はひどく事務的なものだった。
「ナイフを降ろしてはくれないか。あなたを傷つける意図はない」
「そのようですね。あの、……大人しくするので湖に行かせてはくれませんか。それだけでいいんです」
「駄目だ」
駄目元で丁重に言ってみたが、あえなく断られた。男は「行けば帰って来られなくなる」と続ける。そう言うこの男はどこかに帰る場所があるのだろうか、と思った。あるのだろう。こいつもまた、僕の知らない確かな光を目の中に抱いている。
「別に帰って来られなくたっていい」
「……そうか。本当に呼ばれてしまっているんですね。ずっと"招待"が聞こえているんだったか」
藻掻いていると、”初対面の人間”は「湖には行かせられないが、音楽を止める事なら出来る」と告げた。がらりと変わった声色に改めて見上げれば、昏い眼と視線がぶつかる。少しの逡巡を経て、彼は「そのナイフを横に引けばいい」と言った。止めようとしたのだろう周囲を目で制して、ナイフを握っていた僕の手に片手を重ねる。刃先が首筋に触れた。ほんの少し力を籠めれば切れる。空気が凍り付いた。思わず問いかける。
「死にたいのか」
「そういう訳じゃないけど、それで音楽は止まる」
どういう事だ、と見上げる。少しして、男が口を開いた。
「この湖は、殺人者を招待していないから。音楽が聞こえるのは、人を殺したことがない人間だけなんですよ」
「あなたたちは何なんだ」
「人々の手に負えない奇怪なものを、暗闇の中に留めている者。人類が健全で正常な世界で生きていけるように」
何かの条項を諳んじるような答えだった。そのために陽光に背を向けたとでも言いたいのか。それで、夜の中を生きていく事を選んだとでも言うのか。見上げていると、彼は続ける。
「ここの人たちが正気でいられるのは、人を殺めた事があるからだ。俺が正気でいられるのは、あなたの親友を殺したから。……あなたは何も覚えていないだろうけれど。仇を討ちたいと思うならそうすればいい。それで音楽は止まるし、朝が来れば全部忘れて帰ることが出来る」
添えられていた手がそっと離される。その拍子に手が震えて、皮膚にうっすらと傷がついた。暗闇の中に、赤色が滲む。鉄錆の匂いが鼻をつく。冗談でもはったりでもない。こいつは本気だ。
親友の仇、か。それがフェアな表現ではないのだけはわかる。
親友と、三人で出かけたのだ。その夕暮れだけは覚えている。夜に何が起きたのかは想像もつかないが、一方的な害意のある殺害ではなかったはずだ。僕は無傷で帰されたのだから。どうせ全ての泥を引っ被った、そんな所だろう。そんな男を僕たちは親友と呼んだのだろうな、という事は、不思議なくらいすとんと腑に落ちていた。ここにいるとは思わなかったが、これが自分の探していた人間なのだ。
親友だった筈の男は黙って目を閉じている。全く、僕には殺せないという事くらい、きっとわかっているんだろう。そもそもこんなナイフで息の根を止めるよりも前に、銃を構えたお仲間が確実に僕を仕留められるはずだ。おそらく、お仲間がじっとしているのもそういう判断だろう。
それでも、こいつは僕に殺されるならそれでいいと本気で思っているのだろう。それで音楽が止まるなら、と。
全く無茶苦茶だ。僕にとっては初対面だというのに。
「殺したくないと言ったら?」
「一晩は苦しむ事になるけど。でも、日常には帰れるよ。夜さえ明ければね」
「全部を忘れて?」
「ああ。なに、ちょっとした空白を抱えたって人は平和に生きていけるんだって、あなたはもうよく知っているだろう」
全く見覚えのない初対面の、そしてかつて自分の親友であったはずの、そしてその事をおそらく僕に全く告げるつもりがないらしい“親友の仇”は微笑すら浮かべて言った。視界の端で、小屋にぶら下がった誘蛾灯がばちんと音を立てる。暗闇の中に輝く、破滅への標。
ああ。
抱いていた筈の怒りがどこかに消えていくのを感じる。
陽だまりに背を向けて夜の中にいる事を、忘れられる事を選んだのは自分自身だろう。
どうしてそんなに悲しそうに笑うんだ。
忘れ去られた事がそんなに悲しいというのに、なんでまた忘れられようとするんだ。
僕がその悲しみを欠片ほども共有する事が出来ないのは君のせいなんだろう。
「──どうして」
溜息のように疑問が零れる。
少しの沈黙。風が吹き抜ける。目の前の男が目元を拭ったのが見えた。
底の見えない暗闇。木々の騒めき。血の匂い。手の甲に落ちた暖かな雫。
あの空白の夜に何が起きたのかはわからない。一生僕が知ることはないだろう。
それでも、次にどんな言葉が降ってくるかはわかるような気がした。
それがどんな想いで発された言葉なのか、思いだせてしまったような気がした。
「俺の我儘だよ。ただ、平穏に生きていてほしいという」
まったく、初対面の人間に向かってとんだ我儘を言ってくれる。
僕はナイフを握る。手の震えは止まっている。
「そうか。わかった」
僕は答える。
そして、そいつの頬をかすめるように切って、ナイフを投げ捨てた。
「僕は全部忘れてやる。だから、君が代わりに覚えていろ」
「……俺は全部覚えてるんだ」
「だろうな。……どうか、お元気で。見知らぬ親友の仇くん」
君が望むように、何も知らないまま生きていればいいんだろう。
どうして僕はこうも物わかりがいいやつを演じているんだろう。
いくつもの足音が近づいてくる。
上から覗き込んだ人間が、"初めて見る"銀色の棒をかざした。
羽虫くらいは焼き殺せそうな、どこまでも眩い光が目に飛び込んでくる。
僕の抱いていた夜の記憶を真っ白に塗りつぶしていく。
音楽はもう聞こえない。
眩い静寂。
薄れていく意識の中で、陽だまりのようだなと思った。