嘘つき
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 彼女は美しい子供だった。長いまつげに切れ長の目。まっすぐに伸びた鼻筋。桜色の小さな唇。黒髪のおかっぱ。体格は小柄だが、スラリとしなやかな手足。もしも写真で見ただけならば、まるで日本人形のようだと思うだろう。しかし、一度でも彼女と直に接したならば、そんな冷たい印象は抱くまい。他愛無い冗談に笑い転げ、他人の喜びを自分のことのように喜び、男子から友人へのちょっとしたからかいにも、涙を流して抗議した。

「チサトの事を豚だなんて、あなたよくもそんな事を! 人の外見をからかうだなんて、本当に下劣な事なのよ! お謝りなさい!」

 彼女の抗議は、男子がしどろもどろに謝るまで続いた。そして、彼女は友人をーー私を抱きしめてこう言うのだった。

「大丈夫よ。チサト。あなたはとっても可愛い。わたしの親友」

 彼女は美しい、私の親友だった。

「黒井愛です。今日からよろしくお願いいたします」

 彼女が親の仕事の都合で、私と同じ5年2組に転校してきたのは、1983年4月のこと。品の良いワンピースを身に纏い、黒板の前で自己紹介するその美しさは、この世界が少女漫画だったなら、彼女が主人公に違いないと私に思わせた。

 その日の放課後。家路をたどっていると、なぜか彼女が私の後をついてきていることに気がついた。私は不思議に思ったが、彼女のその美しさに気後れして、なんだか声をかけることをはばかられた。彼女の気配をランドセル越しの背中で敏感に感じながら、ついに自宅のあるマンションの玄関を入ろうとした、その時。

「あら!」

 彼女が叫び、私は思わず振り返って問いかけた。

「ど、どうしたの?」

 彼女は私に駆け寄ると、ニッコリ笑ってこう言った。

「もしかして、同じマンションなのね、桃田さん!」

 彼女の新居は、我が家の4つ上の階なのだった。

「なあんだ、それで。どうして黒井さんが私の後をついてくるんだろうって思ってたよ」
「わたしは、どうして桃田さんがわたしの家を知ってるんだろうって思ってたわ」
「そんなわけないじゃん!」
「そんなわけないわよね!」

 そうして、2人でひとしきり笑い合い、それ以来、2人一緒に登下校をするようになった。『黒井さん、桃田さん』から、『メグミ、チサト』と呼び合うようになるまで、1学期の半分もかからなかった。

 彼女は聡明で、誰にも優しく、大きな声で話し、少々惚れっぽく、球技が得意で、音楽の成績はいつも5段階評価の2。それでいて、機嫌が良ければいつも鼻歌を歌う。

 彼女のことを嫌うものなど誰もいなかった。カリスマとでも言うのだろうか、彼女の声には誰にも逆らえないような気にさせる何かがあった。それは決して強圧的なものではなく、それとはまるで反対に優しく心に響くもので、彼女の言うことが真実なのだと、じんわり思わせる何かだった。

 ある日の放課後、彼女は高らかに調子の外れた鼻歌を歌いながら、私と一緒に家路を辿っていた。

「何かいいことあったの、メグミ?」
「うん、今日はお父様が家に帰ってくるのよ」

 彼女の父親の仕事は忙しく、家に帰ってくることは年に数度あるかないかだということだった。

「そうなんだ。うちのお父さんなんか、休みの日はいっつも家でゴロゴロしてて、そのくせ宿題しろとか、早くお風呂に入れとか、なんだかんだうるさいんだから。一ヶ月ぐらい帰ってこなくても良いのに」
「まあ、そんなこと言ったらチサトのお父様に悪いわ」
「そういえば、メグミのお父さんって、なんの仕事してるの?」

 その途端、メグミの笑顔は凍りつき、足取りがぱたんと止まった。その時代にはそんな言葉は一般的ではなかったが、まさに彼女はフリーズしたのだ。私は猛烈に焦った。え、なんだ? 私は何を聞いてしまった? これ、そんな聞いちゃダメなこと?

「あの、メグミちゃん……どうしたのかなあ?」

 自分で自分がこんな猫なで声を出せたことに驚く。すると彼女は、突然、声を発した。

「船長さん」
「え?」

 それまでの凍った時間など、まるでなかったかのように、彼女は再び笑顔で歩き出していた。
 
「お父様は外国航路の船長さんなのよ。だから、なかなか、おうちには帰ってこれないの」
「へえ、そうなんだ……」

 彼女は再び突然歩みを止めると、私に向かって背伸びをするように、グッと顔を近づけた。

「ええ、そうなのよ」

 あの、いつもは切れ長の目をまん丸くして、彼女はそう言った。

 私は、彼女の言うことを信じた。


 ガラスの破裂音。コンクリートの歯ぎしり。鋼鉄の断末魔。


 小学校を卒業し、私は地元の中学校へ、彼女はふたたび親の都合で引越し、遠くの街へと行くことになった。

 彼女の引越しの日、お互いにこれ以上流せる涙はないと言うほどにボロボロ泣いて、別れを惜しみ、文通を約束した。

 3日に1度の手紙のやりとりが、週に1度になり、月に1度になり、ついにはパタリと止んでしまうのには1年もかからなかった。去るものは日々に疎しと言うわけではないが、中学生の新生活は忙しく、メグミの存在はいつしか、時折思い出す懐かしい思い出になってしまっていた。

 大学生になったころ、ふと思い立って、私はメグミに近況を書いた手紙を出したが、それは5日後に私のもとへ返送されてきた。『あて所に尋ねあたりません』と赤いスタンプが押され、開封されることのなかったその封筒を見た時、私の中にはっきりとした罪悪感が芽生えた。ああ、やってしまった。あれほど泣いて別れた親友との文通の約束を、私は破った。なんということをしでかしてしまったのか。私は罪を犯したが、それを謝ることすらできない。もう取り返しがつかないことをしてしまったのだ。

 私がはじめてお酒ーーコンビニで一番安い発泡酒ーーを飲んだのは、成人式の日ではなく、その日の夜のことだった。


 右手が見つからない。傷口から発泡酒が溢れる。


 1998年7月、ある新聞社の記者になっていた私は、中学生の頃とは比べ物にならない程の多忙の中にいた。

 音楽家の顔をしたセミと、ポーランド南部の壊滅。あらゆる人々がその真相を知りたいと願い、あらゆるマスコミがその真相を掴もうとして、見えないベールに阻まれていた。

 マスコミの末席を汚す私も、そのベールの向こうを少しでも覗こうとして、つたないコネを辿り、あるいは怪しい情報提供者を頼り、一度は渡航制限中のポーランドに直接渡ろうとして、危うく密航者として捕まりそうになった。結局、一週間を不眠不休で駆けずり回っても、狂人の妄想か酔っ払いの与太以外は、何の情報も手に入らなかった。

 だが真相はーーあるいは彼女はーー自らベールの向こうからこちらへと姿を表した。

 その日、NHK民放問わず、いや、国内のみならず全世界すべてのテレビ局が、ニューヨークにある国連本部からの緊急放送を伝えることになった。深夜0時の編集局には伝手の尽きた各部の記者と、手の空いた編集記者が集まり、小さくて古い、像のぼやけたブラウン管テレビに全員の目が注がれた。

 コフィー・アナン国連事務総長が、それまで名前も聞いたことのない2つの組織の代表と連名で語った言葉は、人類60億人に向かって即座にそれぞれの言語に同時通訳されたが、通訳が絶句する場面が何度かあった。

 ベールは取り払われた。すべての妄想と与太が真実だった。

 国連本会議場からの衛星中継が終わり、カメラは渋谷のテレビスタジオに戻ってきた。くの字型のテーブルには、向かって右側から、NHKの男性アナウンサー、首相、スーツ姿の中年男性、そして日本人形のように美しい女性が座っていた。

 テレビカメラがアナウンサーをアップで映し出す。

“テレビをご覧の皆様、ただいま放送いたしましたのはニューヨークの国連本部からの生中継です。映画ではありません。現実です。信じがたいことですが、現実なのです”

 カメラが一瞬、鎮痛な顔をしてうなずく、つい先日選挙で負けたばかりの首相の顔を抜く。

“本日はこのスタジオに、日本政府を代表して橋本龍太郎総理大臣。グローバル・オカルト・カウンシル、日本語名では世界オカルト連合の極東支部より、大谷報道官。ザ・ファウンデーション、日本語名では財団より、鵺日本支部理事をお迎えしています”

 アナウンサーが名前を呼ぶごとに、カメラはそれぞれの顔を抜き、それぞれが会釈をする。

 鵺……いや、あれは。

“先ほどの国連本部からの演説にもありました通り、世界オカルト連合と財団は、正常性維持機関として、これまで長きにわたり世界の裏側から”

「桃田、前でんじゃねえよ。テレビ見えねえだろうが」
「痛った」
 思わず画面にすがりつく様に前に出た私の尻を、先輩記者が蹴り上げる。

“それでは、橋本総理。日本国民に向けてのメッセージをお願いします”

 私は首相が話し始めるよりも前に、編集局を飛び出していた。

 千代田の編集局から15分ほどバイクを飛ばして、渋谷の放送センターへ。北館の周囲には既に500人を超えるマスコミが群がっていた。どうにか中に忍び込めないかと周囲を何周かしてみたが、いつもなら開け放たれているいくつもの職員用通用門が、今日ばかりは全て閉じられ、見たこともない制服を着た兵士らしき者と、去年放映されたSF映画の主人公のような、黒いスーツを着た者たちとで警備されていた。

「はい、退いてえ! 車でまあす!」

 正面入口の方向がにわかに慌ただしくなる。そちらの警備は見慣れた警官たちで、その姿になぜか少しホッとした。

 私が正面入口に駆けつけた時には、政府要人用の黒塗りの公用車が入口を出るところで、それを撮るべくマスコミ各社のカメラの砲列が唸りを上げていた。あれには放送を終えた首相が乗っていることだろう。

 砲列が次の獲物を捕らえようと入口の奥を覗き込もうとした時に、私は朝のラッシュなど比べ物にならないマスコミの海をなんとか泳ぎ渡り、人ごみの最前列近くにいた、同じ社で顔見知りの政治部記者に声をかけた。

「鵺は、鵺は通りましたか?」
「鵺? 鵺はまだだ! おい、とんでもねえことになったな! おい、これはとんでもねえぞ!」

 彼は真っ赤な顔をして、とんでもないとんでもないを繰り返していた。少しでも興奮を抑えようとしたのか、ネクタイを大きく緩め、シャツのボタンを2つも開けていた。私の知る限り、普段は冷静な人間なのだが。

「ええ、とんでもないですね」

 そんな彼に気のない返事を返し、私は入口の奥を目を凝らして覗き込む。

 いつのまにか周囲の警備は警官から、例の制服を着た兵士たちに切り替わっていた。

「来るぞ!」

 誰かが叫んだ。瞬間に500人のマスコミは殺気立ち、再び砲声が唸りを上げる。

 そこにやってきたのは、いかにもアメ車といった風情の、角張って長いボンネットを持った黒い乗用車だ。車両の先端に国連の紋章によく似た印が描かれた、青い小旗が翻っている。

「国際オカルト連合だ。奴さんら、戦後すぐから存在する、正式な、国連傘下の組織らしいぜ。いったい今までどうやって俺らの目から逃れてたんだ? まったく、とんでもねえな」

 おそらくは大谷報道官を乗せているであろう黒い乗用車が通り過ぎた後、兵士たちも速やかに立ち去っていった。次は黒スーツが警戒に当たるだろうと予想したが、その意に反して、しばらくしても周囲には誰も現れなかった。

「鵺はまだなんですよね?」
「ああ。だが、首相とオカ連に気を取られてた間に、別のところからこっそり抜けられたかもな?」
「そんな……」

 話ができるとは流石に思っていなかったが、せめて顔ぐらいは直に見てみたかったのに。

 その時、周囲から大きなどよめきが起こった。

 NHK放送センター北館から、1人の小柄な女性が姿を現した。彼女はお供も連れず、しなやかな手足で、しゃなりしゃなりとマスコミの群がる方へと歩みを進める。黒髪のおかっぱ……いや、今はボブと言うべきだろう。その髪型によく似合う、グレーのワンピースに上品な黒のジャケット。こちらに近づくにつれ、顔貌がさらによく見て取れるようになる。すらりとした鼻筋、桜色の小さな唇、切れ長の目、そして長いまつ毛。

 一見冷たい印象を与える美しい彼女は、砲列の前に身を晒すと、あろうことかそこで立ち止まった。

「ご機嫌よう、皆さん」

 鵺は愛らしく笑みながらマスコミに向かってそう語りかける。

 一瞬、麻痺したような沈黙が訪れた。歴戦のカメラマンでさえ、シャッターを切るのを忘れていた。

 はじめに声を上げたのは、私の隣の、とんでもない政治部記者だった。

「質問してもよろしいでしょうか?!」

 その声で正気に返ったように、再びシャッターとストロボの洪水が場に溢れ出す。

「もちろんです。財団日本支部の広報責任者として、みなさまからのご質問にお答えします」
 小柄な体には似合わない、凛とした大きな声で鵺は答えた。

「ポーランドの現状についてコメントをお願いします!」
「魔法が実在すると言うのは本当ですか?!」
「今までどうやって、あなたの組織は我々から姿を隠していたんですか?」
「鵺さんのプロフィールを教えてください!」
「我々はこれからどうなるんですか?!」

 悲鳴に似た声で口々に叫び出したマスコミに向かって、彼女はクスリと笑ってこう言った。

「困りましたわね。わたし、聖徳太子じゃありませんわ」

 それでも彼女は、聞き取れた分から質問に答えていくのだった。

 ポーランドについては、評価がまだ終わっていないので答えられる事はありません。ただし、復興に向けて最大限の支援をすることをお約束します。魔法は実在します。でも、使えるのは魔法使いだけ。もちろん、わたしも使えません。身を隠してきた方法は、それはもう、ひとえに努力と忍耐です。プロフィールについては、これはプライバシーですのでお答えできません。ごめんなさい。重要な点ですが、皆さんはこれからも、なにも変わりません。これまで、皆さんを超常の脅威から保護してきたのが我々財団です。そして、我々は今もまだここにあり、これからも皆さんをお守りします。

 彼女の声には、聞いた人間にこれが真実だと思わせる何かがあった。

 私はもう、我慢ができなかった。

「メグミ!!」

 私にこんな声が出せるなんて、私も知らないぐらいの絶叫だった。

 彼女は思わずその声の主を探して、そしてボロボロと涙を流している私と目があった。信じられないものを見たかのように、ゆっくりと長いまつげが2度瞬きした。

「チサト……?」
「メグミ!」
「……チサト!」

 私たちは24人のマスコミ関係者を将棋倒しにし、3人のカメアシを踏んづけ、4本のガンマイクを折り、5台の脚立を跳ね飛ばし、2台のテレビカメラを突き倒して走り寄ると、声にならない声でお互いの名を呼びながら、抱き合って涙を流した。

 いつの間にか、私たちは車の中にいた。後に例の政治部記者に聞いたところ、瞬きする間に黒いスーツを着た数人の人間が現場に現れ、同じく突然現れた白い流線型の車に私たちを手際良く詰め込むと、人車共に瞬きする間に消えて無くなったのだそうだ。彼は修辞を弄するタイプではないので、文字通り、そうだったのだろう。

 私たちはすっかりボロボロになったメイクで、時折しゃっくりをしながら、話を始めた。

「会いたかった。会いたかったよ、メグミ」

「チサト、いったいどうして?」

「テレビを見てたらメグミが映って、それで、それでどうしても会って謝りたくって」

「謝る? チサトがわたしに? どうして?」

「文通の返事を出さずにごめんなさい。それがずっと言いたくて」

 驚いた様子のメグミに、私は重い罪を告白したが、彼女はますます困惑したようだった。

「文通って中学校時代の? だって……それはしょうがないじゃない。チサト、新聞部に入って忙しかったんでしょう? クラス委員もやってたし。それに塾。わたしだったらパンクしてるな」

 今度は私が驚く番だった。

「何で知ってるの?」

「何でって、チサトが全部手紙に書いてくれてたじゃない! 自分で書いたこと忘れたの?」

「……そんなこと書いてたっけ?」

「もう、しっかりしてよ!」

 彼女はコロコロと笑うと、一度咳払いし、

「拝啓、メグミ。お元気ですか? 私は元気です。そちらの学校にはなれましたか? 私は」

「ちょっと待って。まさか暗記してるの?」

「何回も読んだから自然に覚えちゃった」

 そう言って、彼女は続きを諳んじる。

「私は学級委員に選ばれました。もちろん、自分で手を挙げたわけじゃないけれど、みんなからの推薦で」

「やめて! 恥ずかしい。もういいから」

 私が早口でそう言っても、彼女はニコニコ笑いながらやめない。だからやり返すことにした。

「親愛なるチサト。お手紙ありがとう。わたしも元気です。学級委員なんて、あなたにぴったりだと思うわ! わたしからも推薦票に1票入れておいて」

「チサト!」

「私だって何度も読んだからね」

 そして、二人でまたポロポロと泣き出すのだった。

 それから私たちは、朝までとりとめのないことを話した。恋愛のこと、仕事のこと、家族のこと。残念ながら、財団という秘密結社に属する彼女には、そのほとんどが話せないことだったので、ほとんど一方的に私が話をすることになったのだが。

 明け方近くになってメグミが言った。

「そうだわ、チサト! いいこと思いついた」

「なに?」

「あなたも財団の職員になればいいのよ。そうすれば何でも話せるようになるわ」

「ああ……」

 それもいいかもしれない。しかし、私は財団について、あまりにも何も知らない。

「財団って、いいところなの?」

 そう聞く私に、彼女は顔を近づけ、目を真ん丸にして言った。

「もちろん!」


 壁掛け時計がダリそっくりに蕩ける。思わず笑ってしまう。


 結局、私は財団に入らなかった。翌朝、腫れぼったいまぶたで出社したところ、私は『鵺担』というポストをあてがわれ、社内における超常関連の権威として扱われることになってしまっていた。そんなもの、何も知らないというのに!

 その代わり、私のプライバシーは社を上げて守られることとなった。鵺と抱き合って泣く女の映像や写真は、日本中のあらゆるメディアで報道されてしまい、一晩のうちに私の素性は完璧に調べられ、ほとんど全国民に知られた。取材の申し込みが殺到していたが、社はその窓口となってすべてをシャットアウトしてくれた。また新しい住居を手配し、警備員までつけてくれたのだ。そこまでされては、そうそう会社を辞めますとは言えなかった。

 そうして、超常関連の事件や事故があれば、私はメグミの知り合いであるという事を最大限に利用して、記事を作り上げてきた。2001年、2006年、2015年。大きな超常事件が起こるたび、私はそれを取材し、『新しい現実』というものを学び、それを理解したと思っていた。

 理解など出来ていなかった。理解できるようなものではないのだ。これは。


 ああ、走馬灯が現在に追いつく。認めたくない現実に。


 嫌な予感がした。虫の知らせ、不吉な偶然、そういったものが訪れたら最大限注意すること。それが新時代の常識だった。だから私は、取材を途中で切り上げ、近くの超々高層マンションのロビーへと駆け込んだ。新時代の建築物はかつてのものと比べものにならないほど頑丈で、超常的な面でも段違いの安全性を持つことを知っていたからだ。

 直後、地面ではなく、世界が揺れた。あるいは現実そのものが揺れたのかもしれない。私はよろめき、右腕を壁にぶつけたと思ったが、衝撃はなかった。なぜなら腕が、まるで壁がホログラムであるかのようにめり込んでいたからだ。ギョッとして壁から身を離すと、すでに右肩から先の腕は無くなっていた。傷口からは血ではなく、泡立つアルコールらしき黄色く透明な液体が流れでた。

 私の意識は遠くなった。


 どれほどの時間がたったか。まだ時間などと言うものに意味があるとしたら、おそらく一瞬だろう。走馬灯を見終えた私は、右肩から流れ出た発泡酒の冷たさに頬を打たれ、意識を取り戻す。

 立ち上がることもできず、四つん這いで……いや、三つん這いでマンションの玄関へとソロソロと、芋虫よりゆっくりと這う。

 玄関の先には地面が無かった。マンションが空を飛んでいるのだと言うことに気づいたのは、同じように飛んでいる建物を周囲に見つけてからだ。

 まるで瞬間移動するかのように、猛烈な速さで空に昇っていくオフィスビルは、キラキラと割れた窓ガラスを周囲に纏わせて飛んでいた。その後をついて行くかのように、緑色の炎に焼かれる雑居ビルが、空のかなたに飛んでいく。それよりはいくらかゆっくりと、マンション群が回転しながら昇っていく。私がいるマンションも、それらの中の一つなのだろう。

 一瞬、ロビーの外が白く染まり、再び青い空が広がった。雲を突き抜けたのだ。いったいどれほどの高さまで昇っていくのか。

 ああ、東京が飛んでいる。唐突に、そう言う歌があったことを思い出す。あれは予言の歌だったのか! きっと今頃、ジュリーと糸井重里は財団に拘留されているに違いない。

「いいえ、今の財団にそんな暇はないわ」

 背後からの声、振り向くとそこにいたのは、美しい子供だった。

 長いまつげに切れ長の目。まっすぐに伸びた鼻筋。桜色の小さな唇。黒髪のおかっぱ。体格は小柄だが、スラリとしなやかな手足。ワンピースを身に纏った、この世界の主人公。

「今はみんな、この災害に対応してる。1000万人をーーあなたを救うために」

 動けない私を、メグミは優しく抱きしめてくれた。

「大丈夫、きっと助かる。絶対に助ける。財団はあなたを見捨てない」

 ああ、そうなのだろう。メグミが言うからには、それは真実だ。

「ありがとう、メグミ。私は、助かるのね」

 ようやくそれだけが言えた私に、彼女はグッと顔を近づけ、切れ長の目を丸くして言った。

「ええ、そうよ!」

 私は、その嘘を信じた。

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