「その角を、左です」
夕方といえどまだまだ暑いこの時期は、家の何処に居ても蝉の声が聞こえてくる。縁側に座り、扇風機の風に前髪を揺らしていた僕は、蝉に混じって突然聞こえたその声に思わず振り向いた。
声の主は畳に敷かれた布団に横たわる弟で、彼はひたすらに天井を見上げたまま、当たり前だがこちらを見る気配はなかった。
はっきりと喋るその声が彼のものだとは、すぐに信じることができなかった。
寝言、なのだろうか。
「そこの塀を沿って、突き当たりまで真っ直ぐ」
どうやら道案内でもしているようで、誰をどこに案内しているのか気になった。が、祖母の言いつけを思い出し、僕はただ見ているだけにした。
蝉がミンミンと五月蝿く鳴いて、暑さにやられた僕の脳を揺らし、屋根の影からはみ出した膝を夏の日差しがじんわりと焦がした。
「そうですその畦道を、右に」
日の届かない部屋の奥に寝かせられた弟はなんだか僕の知る彼ではないように感じて、淡々と喋り続けるその顔は隠れていてよく見えなかったが、その姿をどうにも不気味に思ってしまった。
弟と僕は六歳差で、今年九つになる彼はその歳にしては小さな体をしている。
幼い頃から病弱で、思えばここ数年、立っている姿を見ていない。ろくに外に出ていないせいで真っ白な肌と、食が細くて酷く痩せこけてしまったその体は、痛々しくて直視することができなかった。
両親は揃ってどこかへ出掛けたきり、まだ帰ってこない。
弟に話しかけるべきか、体を揺すってみるべきか。躊躇っている間にもその道案内は続いていった。
「この電柱を左です」
祖母が昔言っていた。寝言に応えてはいけない。
もし応えてしまったら、人じゃない何かが迎えにくるんだって。
小さい頃から僕ら兄弟は散々怖がらされた。
他にも、深夜に出歩いてはいけない。知らない人に道を教えてはいけない。大人のいないときに電話に出てはいけない。なんて、子供騙しの怖い話を何度もされたが、そのどれもが何か怖いものがくるという話だった。
今思えばこういうのが一番子供を怖がらせるのにいいから選んだのだろう。しかし、それでも僕らは怖くて仕方なくて、今でも祖母の言いつけをひたすらに守っていた。
「三つ先の曲がり角まで真っ直ぐに」
弟ばかり構う親の姿を小さい頃から見ていた僕は、弟に羨望や嫉妬の情を向けたことも一度や二度ではない。しかし、兄ちゃん、兄ちゃんと僕を慕う彼が愛おしくて仕方なくて、僕らはおそらくここらで一番仲のいい兄弟だった。
「右側、二番目のその家です」
庭で元気に咲く向日葵が恨めしかった。七日で死ぬ蝉に同情をしてしまった。
開け放した縁側から吹く生暖かい風が妙に優しくて泣きそうになってしまった。
「そうしたら、ほら、」
「ただいま」
「なあ、それ、もしかして」
蝉の音が、弟の声が、ぴたりと止んで静かになった。
思わず放った僕のか細い声と、麦茶に浮いた氷が溶けて からり と回る音が部屋に響く。
吊り下がった風鈴がチリチリと小さく音を鳴らした。
視界がぐんにゃりと歪んだような気がした。
「なあ」
突然、バン、バンと、玄関の方から何か叩きつけるような音が響いた。
跳ね上がるように立ち上がり、玄関へと続く襖を思い切り開け放つ。捻った足首が酷く痛んだが、そんなこと気にしているどころではなかった。廊下で滑りそうになりながらなんとか玄関へ向かうと、ドアの磨りガラスの向こうに人影が見えた。
ドアを叩く音は激しくなっていく。ドアが軋み、今にも開いてしまいそうだ。
ゆらり、と左右に揺れる黒い影はくっついたり離れたりを繰り返していて、輪郭がぼやけているせいでいったい何人いるのか分からなかった。
「兄ちゃん」
思わず、息が止まる。
部屋の奥とドアの向こうの声が重なる。間違いなく弟の声だった。
ガラスに無数の手形が浮き出て、手のひらを激しく叩きつけて呻き声を上げるそれらは、恐らく一人や二人どころではなかった。
ここを開けてはいけない、と本能が僕に警鐘を鳴らした。
「ここは開けられませんよ。お引き取りください」
震える声でなんとかそう告げた。
音が止んだ。
ドアにいくつも張り付いていた手は一つ、また一つと剥がれてゆき、遂には一人分の人影だけが残った。が、それもすぐに消えていった。
消えた。行ってしまった。
「さよなら、優斗」
安堵と共にどうしようもない喪失感が襲ってきて、しばらく玄関先に座り込んでいた。
部屋へ続く廊下を歩いてゆくと、僕が居ない間もずっと一人で部屋に置かれていた弟が目に入った。
ゆっくりとそちらへ近づき、顔に掛かった布をそっと退けてみると相変わらずの無表情で、分かってはいたがその口が再度動くことは無かった。
ついありもしないことを望んだ自分に、思わず笑ってしまった。
きっと弟は、自由に動く体に嬉しくなってしまったのだろう。
血の気が引いて白くなり、硬くなってしまった頬を撫でる。あの温かさはもう残っていなかった。
「知らない人に家の場所、教えるなって言われただろ」
死人に口無しと言うのに、弟は最後までお喋りだった。
濡れた目元をそっと拭い、残した麦茶を飲みに縁側へ向かう。
生暖かい風が吹いてきた。
縁側から。
「寝言に応えちゃいけないって言ってたでしょ」
「ただいま。秀斗、いないの? 弟を一人にさせちゃ駄目って、いつも言ってるじゃない」
ガチャリ、とドアの開く音がし、近所に住む親戚のところへ出かけた両親が帰宅する。
部屋で待っているはずの兄の姿を探すが、見当たらない。
屋根に吊り下げられた風鈴が、風に煽られて揺れる。
遺体に掛けられた面布がはためく。
開け放たれた縁側には、飲みかけの麦茶が置かれたままだった。