『大ウツロ』の内壁から見上げた太陽は、ひどく他人行儀に輝いていた。
久方ぶりに再会したその星は、まるで造り物のように思えた。あまりにも不完全で弱々しく、記憶の奥底で中天に輝く赫々たる恒星とは何もかもが違っていた。それは出来の悪い紛い物であるか、あるいは幻覚であるようで、それこそが地下に生きる全ての生命が求めて止まない光であると気づくまで、男には少しばかりの時間が必要だった。
遮るものなど何もないコンクリートの断崖の上で、早鐘のように鳴る心臓を抑え、男はゆっくりと手袋を外した。手のひらを遠い光源に向け、眼前に掲げて目を細める。垢と煤に塗れた骨ばった手のひらが熱を帯び、指の間の黒ずんだ皮膚を透かして、細い青緑の血管が浮き上がる。
それは地下に終ぞ存在したことがない、ヘリウムの核融合が生み出す自然光だった。距離と大気による減衰を経てなお暖かく柔らかに地上を照らす、おそらくは初夏の陽光だ。
安堵と落胆、相反する二つの感情が押し寄せる。これまでに払った数多くの犠牲、暗闇の中に置き去りにしてきた同志たちの屍を思い出す。男はゆっくりと後退し、所々に鉄骨の突き出るぼろぼろに風化した内壁に手をついて、頭上に小さく切り取られた空を半ば呆然とただ眺める。
「新宿駅に大ウツロあり、遥かに仰げば地上に至る」
かつての同志が語った、地上まで貫く巨大な穴は確かに存在した。青空が見える場所、地下世界にありながら陽光を浴びられる、まるでおとぎ話のような土地は実在した。しかし──これではあんまりだ。
「……然れど高みに向かうものなし、か」
ガスと粉塵に傷ついた喉から出る声は酷く掠れていたが、男の心情にはよく似合っていた。羽を捥がれた虫が魔法瓶の底に放り込まれ、ただ頭上の空隙を見上げたとしても、こんな気持ちになるだろうか。直径だけでも優に数キロメートルはあるだろう大穴は、上にも下にも果てが見えない。遥か天頂に青空と白雲、そして太陽は確かに見えている。そこに地上があるとして、どれほど登れば辿り着けるのか?
声にならない自問は吹き荒ぶ風音の中に消え──その響きを割るように、赤ん坊の泣き声が響き渡る。
男の背中を埋める背嚢、その中央の最も大きな袋から、丸々と太った赤子の頭が飛び出している。ここまで歩くうちはよく眠っていたというのに、足を止めればすぐに起き出すとは。男は壁から離れ、先程出てきた横穴の出口に座り込んだ。背嚢から取り出して揺すってやれば、機嫌良さげに笑っている。幼いがゆえの現金すぎる正直さに、苦笑しつつの溜め息が漏れる。
赤ん坊をあやしながらもう一度、男は不完全な空を仰いだ。遠く、掌を広げればその中に収まりそうなほどの、大穴の向こうの切り取られた青。二度と届かない高みにある過去。
東京が地下に沈んでから、既に幾ばくかの月日が経った。多くの者が死に、しかし新たな生命も芽吹いた。数え切れないほどの試行の果てに、人々は地下で生きていく方法を見出しつつある。地上に出ようとしなければ、自由を求めようと考えなければ、暗闇に沈むトンネルと駅は人類の生存を許容するだろう。
地上に、出なければ。かつて当たり前だったものを、取り戻そうとさえしなければ。
息を入れる。この空を一目見ようと思い立ったがために、多くの人間が命を落とした。今や太陽に手を伸ばす人々はみな、それがどれだけ無謀な夢かを知っている。比較的安全な駅を離れて、未知と驚異に溢れた地下世界に徒手空拳で歩き出すことが、どれほど危険な賭けかを知っている。
それでも──ああ。
このままずっと、広がる空を見ることなく死んでいくのは。中天に輝く太陽を、戻れない過去の残滓だと思い続けるのは。それは敗北だ。それは屈服だ。それは即ち──希望を抱くことを諦めて、生命を喰らうこの無慈悲な地下世界に自らの運命を委ねるということだ。
男が拳を握ったとき、不意に赤ん坊が手を伸ばし、その小さな掌は虚空を彷徨った。大ウツロに色濃く影が差す──頭上の太陽に雲がかかり、赤ん坊は雲の向こう側に朧気に浮かぶ光球を追って、必死に腕を振り回している。
「お前も、アレがほしいのか」
まだ言葉を解さない赤ん坊は男の問いに答えることはなく、ただ意にならぬ現実に泣き叫んだ。頭上の太陽はゆっくりと傾いて、既に大ウツロから見える狭い空から消えようとしている。束の間の安寧はすぐに終わる。陽光が差さなくなった大穴は、疲弊した旅人には奈落に等しい。
男は静かに決意する。あのかけがえのない光を、手が届く距離に連れ戻さなければならない。この地下で人間が生きていけるとしても、地上の輝きを忘れてはいけないのだ。そして何よりも、遮るもののない青空を知らぬ子供たちのために、誰かが道を作らねばならない。
男は腕の中の赤子を見下ろす。空に手を伸ばすことの意味も知らない小さな命。しかし彼の名前、もう一度陽光を浴びることを願って息絶えた母親の亡骸の上で、彼が最初の息を吸ったその時に男が名付けた名前こそ、地下に生きる全ての人々が求める希望なのだ。
「──タイヨウ。俺は必ず、お前を地上に連れて行ってやる」
男は立ち上がり、背嚢を背負い直す。泣き疲れて眠る赤ん坊を抱いて頭上を去り行く恒星を見つめ、ゆるやかに笑って、それから一度も振り返ることなく立ち去った。
そして後には空だけが残った。
*
新宿駅の住人は、常日頃から上を向いて歩く。他駅から流れ着いた人間の目には奇妙に映るその慣習は、地上への憧憬であるとか、向上心の顕れだとか、精神的な事情に由来するものではない。いつどこで頭上から前触れもなく何か重いものが降ってきて、頭を叩き割られるか分からないからだ。下を向いた奴から死んでいく──とまでは言わないものの、"余所見をしていた"というのは、前触れなく高層ビルが落下する『大ウツロ』が中心部を貫く新宿駅においてはごくありふれた死因のひとつだった。だから、少なくとも目が覚めている間は死なないように、誰もが上方に意識を割いている。
そういうわけで、とある痩せぎすの少年もまた、今まさに宙に目を凝らしていた。
「……はぁ」
黄と黒の斑に編まれた網の上、不安定な足場に座り込んで、何度目かのため息が漏れる。物心付いた頃からずっとカケアミをやって食い繋いできたが、このところの成果はさんざんだ。
大ウツロにはあらゆるものが降る。それらは地上で続いている大災害の余波で投げ出された都市の残骸だというのが定説だった。実際のところは分からないが──何にせよ、ほとんどが雑多な瓦礫でしかない落下物の中には、稀に掘り出し物が混ざっている。それを拾い集めて商人に売り、食糧や油と交換すれば、数日程度は命を繋げる。
カケアミは言葉通り網を掛ける仕事だ。大ウツロの中層から下層にかけては縦横無尽に縄の足場と目の粗い網が巡らされ、カケアミは底なしの大穴に落ちていく残骸を網で掬い取って売り捌いている。身体が軽けりゃ命も軽く、縄渡りができれば一人前。本来どんな駅でも身寄りのない子供は下っ端扱いで、まともに飯も貰えないものだが、カケアミなら齢は関係ない。
とはいえいかに身軽であろうと、落ち物の"アタリ"は時の運だ。そして最近の彼には運がない。
「今日も、見えない……」
ぼんやりと呟きながら少年が仰ぎ見る上方に、見る者の目を焼くあの光球はない。より上層に陣取るカケアミたちの張り渡した無数の縄と網に遮られ、太陽はその姿を現さず、影だけが中層に色濃く落ちている。
地下にはない光をもたらす存在。自分と同じ名前を持つそれを、しかし少年──タイヨウはほとんど見たことがない。
閉塞感。そう表現するより他にない感情が、タイヨウの心中を埋めている。地下が閉じられているのは当然──しかしその当然が、中層から見える狭い上にひどく混み合った空が、少年は嫌いだった。そもそも蓋のない空を、地下生まれのタイヨウは知らない。それが実在するということすら、人伝てに聞いたことがあるだけだ。
「本が一冊、小さいおもちゃ──地上の生き物かな。持ってるのは……鍋蓋? まあ、どうせガラクタだろ。それから……」
一抱えほどもある太縄の通路に掛けられた色とりどりの網、その全てにそれぞれ所有者がいる。一段低いところにかけられた赤いものがタイヨウの網だ。梯子を括り付けただけの不安定な足場をよじ登り、使い古しの背嚢に今日の収穫を放り込んでいく。コンクリートや錆びた金属は蹴落とし、目新しいものや貴重なものだけを残すのだ。肩紐に掛かる重量が徐々に増していく──しかしその重みは、ねぐらを出ていく際に期待していたよりもずっと軽い。
落下物の大きさや種類には一定の周期や法則性があり、ある程度は内容が予測できる。そこから考えるに、今日はこれ以上の成果は期待できそうになかった。タイヨウは小さくため息をつき、ひとつ下の太縄に飛び降りて、網を結び付けている金具に手を伸ばす。
この小さな区画はずいぶん昔に消えた父親から受け継いだ縄張りで、タイヨウにとっての生命線だ。あらゆる物資が不足している新宿駅では強度の高い網は貴重品で、外し忘れようものなら夜のうちに根こそぎ盗まれてしまうし、張る網のなくなった縄張りは瞬く間に他人に占拠されるだろう。なにより彼の網は特別製で、良く伸び、それでいてよく捕らえ、他の網よりもずっと頑丈だった。子供の彼が一端に食えているのもこの優秀な網のおかげだ。万が一にも失うわけにはいかない。
「おおーい、今日はやけに塩っぺェな。こんなんじゃあ下水ワニにでも手を出さなくちゃ飢えちまうよ。なぁ?」
「随分大きく出ましたね、ダンジさん」
隣の区画で網を漁っていた顔馴染みの男がタイヨウに笑いかけ、下らない冗談にタイヨウもまた笑った。規律など存在した例がない新宿駅の中層だが、互いの苦しさを笑って誤魔化し合える、そんな崖っぷちの暖かさもある。大ウツロに差し込む陽光の恩恵に直接浴すことができるのは上層のごく一部だけで、中層は常に薄暗いが、それでも人々の間にわずかな熱が残っているから、彼らはここに住んでいる。
「ダンジさんはもう腰をやってるでしょう、ワニの餌になるのがいいとこですよ。臭い腹にまるごと収まるよりは自分が腹を空かせてる方がいいでしょ」
「おいおい、そりゃ若ェからだよ。本当にどうしようもなくなったらよ、人でもワニでも喰うもんだよ」
「物騒なこと言わないでくださいよ。大体、このへんには食えるほど肉がある人、いないでしょ」
網を外す前に縄目の張りを点検しつつ、タイヨウは適当に返事をする。一人で落下物を待つ時間が長いため、大人のカケアミは誰もが話好きだ。そうさなあ、と男は網の真ん中で腕を組む。
「確かにここいらはどいつもこいつも骨と皮ばっかりで──ああ、余所者なら食いでがあるかもしれん。ほら、あの丸眼鏡の、頭のおかしいやつ」
頭のおかしいやつ──狂人など地下世界においては珍しくもないが、このところ専らそう呼ばれているのは、しばらく前から中層の大ウツロ外縁部をうろついている余所者だ。『そろそろとんでもなくデカいものが降ってきてみんな死ぬから早く逃げろ』などと大げさに吹聴して回るので、誰もが彼のことを知っていた。とはいえ大ウツロではそんなことは日常茶飯事で、どれほど巨大な建物が落ちてきて網が破れようが太縄が切れようが下層の人間が下敷きになろうが、数日もすれば全てが元通りになるのが常だった。死んだ人間は弱いか運が悪いかその両方であり、落ちてくる物が大きければ大きいほど、生き残った住人にとっては稼ぎが増えてありがたいというものだ。そういうわけで、中層の住人は誰一人として余所者の言うことをまともに取り合っていなかった。
「あんなの食ったら腹壊しますよ。太ってるわけでもなさそうだし」
「それならあれはどうだ、最近多い東京訛りの連中。上の屑鉄商とよく連んでてよ。気味が悪い奴らだけども体つきは良いし、腹は壊さんだろ」
「上層の商人と喧嘩しようものなら僕らの商売上がったりですし、そもそも人は食いものじゃありませんよ。僕を見て食欲湧きますか?」
「うははは、違いねえ。そうならんように明日は頑張ろうや。頑張るって言ったって、待っとるだけだがよ」
男は自分の網を手早く外すと、今日の収穫をまとめて去って行った。その手際の良さときたらタイヨウのそれを遥かに凌ぐもので、妙な噂話ばかりしていてもやはり重ねた年季が違うのだと、タイヨウは少しだけ感心する。
「僕もそろそろ帰らないと──?」
点検が終わり、いざ網を外そうと金具に手をかけたところで、何か奇妙な感覚があった。上層で誰かが騒ぐ声が聞こえたのか、網に映る小さな影が見えたのか。あるいは、確たる理由なぞ何もなく、ただ疲れが溜まっていただけなのか。とにかく少年は手を止めて、そして何気なく空を仰いだ。
「────あ」
見慣れた狭い空を突き破るように、それは真っ逆さまに落ちていた。時折赤く光りながら金属片を撒き散らし、頭上に広がる幾重もの網をすり抜け、突き破り、引き裂いていく。何度か空中で弾かれたように方向を変え、減速に減速を重ねて、それはタイヨウの網に突っ込んで止まった。衝撃を受け止めてたわむ網の負荷に、足場がぎしぎしと嫌な音を立てる。
普段は使いもしない腰の命綱を咄嗟に太縄に巻きつけられたのは、まさに平素の努力の賜物と言っていいだろう。自分が九死に一生を得たことも気づかずに、少年はただ呆然と、千切れそうになる網に揺さぶられながらそれを見ていた。数分が経って揺れがほとんど止まった頃、ようやく己を取り戻す。
「……そうだ、引き上げないと」
それは白を基調としたいくつかの色に塗り分けられた、おそらくは何かの機械だった。縦長でタイヨウの背丈より高い。これほど大きな機械は大抵上層で確保されるもので、そうでなければ誰の網にも掛からずに底なしの穴に落ちていくから、中層で止まるのはあまり例のないことだ。見たこともない形だが、珍しい物には違いない。上層まで運んで機械屋に引き渡せばとんでもない稼ぎになるだろう。
一瞬で皮算用を済ませ、網の上を素早く走り抜ける。何はなくともまず獲物を引き上げねばならないのだ。機械を掴んで、持ち上げようとし──離す。
「お、重い……」
見た目通り、いやそれ以上。四六時中網の上を歩き回るため、年のわりには腕っ節に自信があったタイヨウだが、獲物をまったく持ち上げられなかったのは初めてだった。とはいえ、ここは新宿駅中層。これほどの貴重品を放置していては、同業者に横取りされてしまう。
縄に引っ掛けて網ごと引っ張れないだろうか──否、この重量ではどちらにしても自分には無理だ。大人を何人か集めれば事足りるが、分け前で揉めるのが目に見えている。血を見るような事態になれば自分は不利だし、無理に引き上げて貴重な網を破ることになっては本末転倒。とすると分解して一つずつ運ぶ方が良いだろうか? 丸ごと持ち込むより値下がりするが、それでも相当な蓄えになるし、何より一人だけでやり遂げられる。
今後の方針を練りながら、少年は改めて機械を眺める。所々欠けたり割れたり折れたりしているが、驚くべきことにまだ動くようだ。小さな赤いランプが時折点滅している。大きさは人間が一人入りそうなほどで、手足らしき大きな突起が4つあり、まるで鎧のような形だ。よく見れば頭らしき部分もあって、上下逆さまに網に突き刺さっている。
機械を隅々まで観察していて、ふとタイヨウは何かに気が付いた。壊れてひび割れている箇所、人間で言えば左足の部分から、ゆっくりと赤く滲むもの。何気なく触れてみてすぐに、それが上層でよく嗅ぐような機械油の類でないことが知れる。ほんのりと匂う鉄臭さと、指先に絡みつく温かさ。
血だ。おそらくは人間の。
「──まさか」
慌てて機械の頭部と思しき場所を見る。大きな破損はなさそうだが、今は機械よりその中身だ。細かい引っかき傷が無数についた、元は滑らかだったろう外板をなぞり、人間ならば首がある部分をまさぐる。もし中に人間が入っているのだとしたら、それを取り出しておかなければならない。
タイヨウは一度だってこんな機械は見たことがない。しかし手足と頭があるからには、石像でなければ服か鎧の一種だろう。以前、中層が逸れデンシャに襲われたとき、上層から派遣された戦士が鎧を着ていたことを思い出す。毒の体液に前半身を溶かされて死んだ戦士の鎧を脱がせるとき、機械屋は最初に首の後ろの留め金を外していた。もしかするとこれにも──
指先が何か溝のようなものを探り当てる。首の後ろ側の付け根。手を引っ掛けて蓋を開くと、その奥には掴んで回す形式の取っ手がある。蓋の裏には赤く塗られた警告表示と複雑な文字、それから奇妙に簡略化された絵──意味するところは"回せば開く"だろうか? 文字は一部しか読み取れない。機械が壊れないことを願いつつ、力を込めて取っ手を捻る。
「え」
変化は一瞬で、空気の吹き出す音とともに機械の頭部が大きく跳ね上げられる。露わになったのは──薄い陽光に照らされた少女の顔。タイヨウは目を擦り、二度見する。見間違いではない。確かに、機械の中に女の子がいた。目は閉じているが、息をしている。気絶しているものの、生きてはいるようだ。
想像もしていなかった中身に、タイヨウは声もなく狼狽える。上から人間らしきものが落ちてきたことは何度かあるが、それらは例外なく全身ばらばらになっていて、懐を漁る程度しかやることがなかった。生きた人間が落下物の中に埋まっていたなど聞いたことがなく、どうすればいいかわからない。誰かに相談すべきだろうか? もしくは、一度ねぐらに戻ってなにか道具を──
そこまで考えたとき、少女の呼吸に変化が生じる。先程より小刻みに、苦しそうに。見れば足先の出血は続き、少女の顔色も飢えた大鼠と同じくらいに悪い。すぐさま死にそうなほどではないが、放っておけばどうなるかは知れている。
「と、とりあえず、どこかで手当てしないと──」
だが、一体どこで? タイヨウは自問する。そもそも中層に医者はいない。上層には何人かいるという話だが、ほとんどが駅貴族のお抱えで、彼らが要求する法外な対価を払える見込みはない。中層の人間が怪我をしても自力で治せなければ死ぬだけだ。しかしそこらに放り出しておけば、それこそ死ぬか同じくらい酷い目に遭うだろう。ダンジの冗談はともかくとしても中層の住人はまだマシな方で、食料を求めて夜間に中層へ這い上がってくる下層民は、それこそ人でも喰いかねない連中だ。
この辺りで彼女を休ませられそうな安全な場所──なおかつ自分の目が届く場所。身寄りのない少年には己のねぐらしか思いつくものがない。
少年の理性が冷淡に囁く──どうせ落ちてきただけの他人だ、見捨ててしまえ。頭を外したのと同じやり方で、他の部品も外せるかもしれない。そうすれば中身は穴の縁に置き去りにするか、それこそ網から蹴り落として、機械だけ持って帰ることも可能だ。見ず知らずの人間を拾ったところで、厄介ごとが増えるだけ。生きた地上人などという噂話の中だけの存在のことは綺麗さっぱり忘れ去り、明日の食い扶持のことだけを考えていればいい。
そう、明日のことだけを──そこまで考えて、タイヨウはふと頭上を見る。
太陽は見えない。いつも通りだ。それでも機械が落ちてきた軌跡を辿るように、引き裂かれた網と縄が垂れ下がる中で、空は少しだけ広がっていた。辺りは普段よりも明るくなり、中層に落ちる影は小さくなって、空気はゆるやかに熱を持っている。
これまでとは違う、一日の終わり。
「……あーあ」
ため息をつく。そうして少年は、小さな体に力を込めて重い機械を引き起こし、今度は肩口を探り始めた。
さしあたっては日が落ちるまでに、少女を機械から引きずり出し、地面のある場所に運ばねばならない。難しい仕事になりそうだった。
*
上層の人間は折に触れてこう誇る──新宿駅はこの世界で最も巨大で裕福な駅なのだ、と。彼らのほとんどは他の駅を訪れたことなどないのだが、それでも新宿駅が地下世界有数の巨大な駅であるというのは事実だった。直径数キロメートルの大穴を優に包み込んでしまえる横の広さと、底なしと言われる縦の深さ。住人の誰も全容を把握していないほど、その内部面積には余裕がある。決して恵まれた境遇とは言えない中層以下の住人たちがそれでも新宿駅から出たがらないのは、『大ウツロ』の存在という要素以上に、彼らを受け入れられる物理的余裕のある駅がほとんど存在しないことが理由だ。
慈雨の如く降り注ぐ災害の嵐と、深く広く底の見えない穴。それが、新宿駅を支える全て。
だから頼るものなどない孤児であるタイヨウのねぐらも、特別窮屈という程ではない。大ウツロの縁に引っ掛かって潰れた雑居ビルの残骸を掘り広げ、パネルや扉で粗雑に壁を組んだ個室には、少女を一人寝かせた隣に機械の山を置いておく程度の余裕はある。ただ、その上でタイヨウが座れるほどに広くもなかった。数日分の戦利品が部屋じゅう所狭しと散らばっているのだからなおさらだ。ジャンクで組まれた仕切りにもたれかかり、眠気を紛らわすために備蓄食糧の残りを計算しながら、少年は少女の様子を伺う。やがて小さな呻き声がして、ゆっくりと少女は目を開いた。
「ここは──」
そう零すや否や、少女はクズ捨て場の大鼠のように飛び起きた。立ち上がろうとして足の痛みに顔を顰め──次いでタイヨウを見つけるなり片足で器用に飛び退いたが、そのまま距離を取ろうとしたところを背後の壁にぶつかって阻まれる。警戒に染まる視線が部屋の中を素早く一巡し、今しがた跳ね除けた粗末な毛布と分解された機械とを往復し、そして最後にタイヨウに固定された。
「ええと、大丈夫。何もしないよ」
できるだけ無害そうな笑みを浮かべようと努力しつつ、タイヨウは少女に語りかける。実際、全ての部品を運びきるまで続いたねぐらと網との往復は、何か大それた行動を起こせるほどの体力を彼に残していなかった。しかしその疲労は敵意の不在を証明するどころか、彼の笑顔を不気味に歪めるばかりだ。少女は身体の正面をタイヨウに向け、いつでも走り出せるような中腰の姿勢で、警戒を隠そうともしていない。とはいえそれも当然のことで、この部屋唯一の出口はタイヨウの後ろに存在しているので、見方によってはタイヨウは見ず知らずの女の子を自室に監禁しているのだった。無論、この方法が彼女にとって最も安全だと結論しての行動なのだが、当人には知る由もないだろう。
まずは警戒を解かなければならないが──そもそも言葉は通じるのだろうか? 地下世界ですら駅によっては違う言葉を話すと聞くが、地上人の言語などタイヨウは知らない。さっきの言葉は自分にも理解できたのだし、どうか通じてくれと願いながら、少女を刺激しないように語調を抑えて語りかける。
「僕はタイヨウ。君は──いや、ええと、まずここは新宿駅の中層、僕のねぐらだ。君はいきなり大ウツロから降ってきて、気を失ってて、怪我もしていたから連れてきた。手当てしたくて。それだけ」
「手当て……」
少女がちらりと足元を見る。タイヨウは少し前の悪戦苦闘を想起した。少女の怪我はそれほど酷いものではなかったが、左足にばっくりと裂けた切り傷に身体中の打ち身と擦り傷を、大昔に父親から教わっただけのうろ覚えの知識で治療するのは困難を極めた。死蔵していたひどく高価な常備薬や包帯も使い切ってしまい、どうしてこんなことをしているのかと何度も己に問いかけたものだ。
とはいえ足の傷に不格好に巻かれた包帯は、少女の警戒を解くために何か重要な役割を果たしたようだった。壁に背中を預けたまま、ゆっくりと少女は腰を下ろす。胸に手を当てて何度か深呼吸し──顔を上げたときには、その目には迸るような活力が宿っていた。薄暗い照明の下できらめく、燃えるような橙の瞳。
「……あなたが、私を助けてくれた。そうだよね?」
中層の住人たちとは発音が異なるが、それでもはっきりと聞き取れる、意味の理解できる言葉。会話すらできないという最悪の事態は回避されたようだった。思わず安堵の吐息が漏れる。
「そうなる、のかな。僕の網に君が落ちてきたから、成り行きで」
「ありがとう。とても感謝してる……たぶん、助けてもらえなかったら、ひどい死に方してたと思うから」
そんなこと、と否定する言葉は喉で止まった。実際その通りだったろう。新宿駅はそういう場所であり、住民はどれほど闊達な者でも最期には大抵悲惨に死ぬ。とはいえ今日はじめて会ったばかりの同い年くらいの少女がそれをごく自然に口にするのは、何か憚られるようなものがあり、タイヨウは内心で少しばかり狼狽える。一方の少女はと言えば、もはや別のことを案じていた。
「さっき、新宿って言ってたよね。私は落ちてきた……それにこのスーツ……」
「……あっ」
少女が手を伸ばして撫でたのは、ばらばらに分解された機械だ。目ざとく集まってきた他のカケアミたちを威嚇しながらなんとか全て持ち帰ってきた、見たこともない構造の鎧。彼女を助けるためだったとはいえ、かなり乱暴に扱いもした。壊してしまったのだろうか? 冷や汗を流すタイヨウを他所に、少女は"スーツ"の頭部と右腕を引き寄せ、なにやら弄り回して顰め面をしている。
「空間ヒューム値がおかしい。座標定位にエラー。衛星信号がない? 次元震警報機は……ログが記録上限を超えてる。こんなことあるんだ……計器の故障じゃないなら……」
「あのー、それ、壊れてないといいんだけど。君をここまで運ぶには分解するしかなくて、その」
「うーん。故障してはいると思うなあ」
「ううっ」
やはり壊してしまったか。いや、人助けのための行動だったのだし、壊れているなら売っても問題ないはずだし、そもそも自分の獲物なのだし──だが他人の物であるのも確かで、中層で他人の財産に手を出してバレたら最悪手足の骨を折られて大ウツロに投げ込まれるわけで。まずは謝りつつ何とか誤魔化そうか、と考えたところで、 こちらを見つめる橙色の視線に気づく。
「──ねえ、空って、何?」
突然の質問。少女の意図が読み取れず、あっけにとられるタイヨウに構わず、彼女は問いかけを繰り返す。
「あなたは、空ってどんなものだと思う?」
それは新宿駅の住人にとって、余りにも当たり前の質問だ。ふざけているのかと疑いたくなるような。けれども少女の瞳は真剣で、何か切羽詰まっているような、必死さすら帯びているような。だから少しだけ思案して、タイヨウは真面目に答えることにした。
「手の届かないもの。大ウツロの向こう側にあって、ここでしか見えなくて、明るいから皆が近づきたがるけど、壁を登っていった人は誰も帰ってこなかった。狭くて、遠くて、綺麗で……明るいけど、くすんでいて、よく見えない。地上では頭の上に空しかないって言うけれど、僕にはとても信じられない」
「……そう、やっぱり」
少女はほんの少しだけ俯き、その両手は強く握りしめられて、肩は僅かに震えている。しかしタイヨウが少しばかりの逡巡の後に声をかけようとしたときには、既にその顔は前を向いており、年端もいかない少女のものとは思えないほど、その目は力強く輝いていた。
「ねえ──タイヨウ、でいいんだよね? いきなりで申し訳ないんだけど、このあたりについて教えて欲しいの」
「ええと、構わないけど、何について?」
「何でも。ここが私の考えている通りの場所なら、帰るのはかなり難しそうだから、色々と準備しておかないと」
「帰るって、どこに──」
「地上に!」
地上。
その言葉は今日、見慣れぬ機械の落下を間近で目撃したときと同じくらいの衝撃を持って、タイヨウの脳を揺さぶった。地上──それは新宿駅に、否、地下に生きる全ての人々にとってもはや戻れぬ過去であり、二度と辿り着くこと叶わぬ理想郷であり、そしてタイヨウのように地下で生まれた者にとっては、一度として目にしたことのない伝説の中の憧れだ。
唖然とするタイヨウに対し、少女は更に畳み掛ける。
「私はね、地上から来たの。だから帰らなきゃいけないんだ」
前半については、衝撃ではあっても驚きはしない。半ば予測していたことではある。地上から落ちてきた見慣れぬ機械の中に入っていた人間が地上人であるのは当然の帰結だ。しかし──それに続く言葉はひどく懐かしい響きを帯びていて、タイヨウの心を強く捉えて離さなかった。
「地上に、帰る」
「うん」
少年は噛み締めるようにそのフレーズを繰り返す。自ら口に出すのは奇妙な感覚だった──喪失と苦痛、失意と焦燥に結びついた、それは彼にとっては負の記憶だ。ほとんどの人間がただ空想するだけの、地下において空が唯一見える場所である新宿駅の住人ですらただ見上げるだけの場所、そこに帰る。それは"絶対に達成できない夢"と同義で、実現できるはずもない絵空事なのに。
それを少女は当然の義務のように、何の臆面もなく肯定する。
地上人から発される言葉としては、容易に予想されるものではあった。にもかかわらず、タイヨウはひどく衝撃を受け、幼子のように混乱していた。まじまじとこちらを見つめたまま硬直している少年の姿に何を見て取ったか、少女は頷いて先を続ける。
「私は、地上に帰らなきゃいけない。そのために、あなたに手伝ってほしい」
「……え」
「この部屋を見て気づいたの。作業台の足は溶接してあるし、工具も精度は粗いけど旋盤加工されてる。電気が通ってるし食糧もあるみたい。集落が近くにあるでしょう? アームスーツを直せれば、地上への帰るための道筋がつく」
「アーム……ええっと。君の着ていたこれのことなら……機械屋に持っていく予定だったけど」
「キカイヤ、機械屋ね。そこなら修理できると思う?」
「わからない、こんな構造は処理場でも見たことないし。でも中層から上がってきた人間の話を聞いてくれて、機械の知識がある人なんてあそこにしか」
「じゃあ行く。案内してくれないかな」
勢いよく捲し立ててくる少女に、タイヨウはすっかり押されていた。つい先程まで青褪めた顔で寝ていたのに──そして今でも足を怪我していて貧血気味のはずなのに、それでも少女の瞳は爛々と、好奇心と使命感に燃えている。それはまるでかつて父親とともに眺めた、記憶の奥底の太陽のよう。
一瞬、ほんの一瞬だけその輝きに見惚れてしまった気がして、静かにタイヨウは視線を逸らした。首を傾げる少女はどうやら何も気づいておらず、ねえお願い、と可愛らしく手を合わせてくる。
いつものように少年は考える。考えて考えて考え尽くさなければ、この地下で生き残ることはできない。少女を機械屋に連れていくことで己が得られる利は全くなく、普通なら断るのが筋だった。こちらは命を助けてやった側なのだ。これ以上何かを施してやる義理もない──だがしかし。
「……君、もし僕が案内を断ったら、どうするつもり」
「スーツを組み立てて、自分で行く。集落が近くにあるなら他にも人がいるはずだし、タイヨウと同じで言葉も通じるはずだよね。機械屋? になんとか辿り着いて、そこから先はその時考える」
「…………」
予想した通りの前のめりな答えに、タイヨウは黙り込むしかない。怪我をした足で、重い機械を着込んで、見ず知らずの土地を一人で行く? しかも機械は猛烈な貴重品で、今は夜。周囲は限界まで腹を空かした人でなし共に溢れている。おまけに彼女は、おそらくデンシャのことを知らない。
結論はすぐに出た。一人で行かせれば、彼女は死ぬ。間違いなく死ぬ。そして大方、ただ死ぬだけじゃなく、途轍もなくひどい死に方をするだろう。せっかく大変な思いをして助けたのに──せっかく危ないところを生き延びられたのに──こんな薄暗く冷たい場所で、誰にも顧みられずに死ぬのだ。
まずい、と理性が警鐘を鳴らす。こんな考え方はダメだ。妙な感情移入をしてしまえば、厄介事に巻き込まれるだけだというのに。数時間前に出会ったばかりの人間、それも地上へ帰るなどと世迷い言を抜かす無謀な地上人に付き合ったところで何の意味がある? しかしそんな内心の疑問とは裏腹に、既にタイヨウは口を開いている。
「どうやったって今夜は無理だよ。外は真っ暗で、危険な奴らがうろついてる。君の体力も戻ってない」
「それは、そうだけど──」
「……案内してほしいなら、明日の昼まで寝ていなよ。その足と機械じゃ普通の道が使えないし、少し危ない場所を通るから、今のうちに身体を休めないと保たない。倒れても次は助けないからな」
できるだけぶっきらぼうに、それ以上の助力はしないぞという思いを込めて、突き放すつもりでの言葉だった。少女の勢いに押されっぱなしであったことへの精一杯の反抗だ。しかしそれをどう受け取ったのか、少女は目を丸くした後、ふわりと小さく微笑んだ。
「ふふ、優しいんだ。ありがと」
「…………」
調子が狂うとしか言いようがない。それ以上なにか言うことを放棄して頭を掻きながら作業台に向かい、明日のための準備を始めようとして、ふと少年は重要なことを思い出した。
「ねえ──名前」
「え?」
「君の名前を聞いてないんだ。僕は君をなんて呼べばいい」
なんとも今更の問いかけに、少女は首を傾げたあと、悪戯っぽくクスリと笑う。
「ソラ──私はソラ。これからよろしくね、タイヨウ」
*
暗闇の中、オイルランプの揺らめく光に照らされて奇怪な紋様が浮き上がる。魚鱗のように荒々しく削り取られた岩盤とその裂条を覆い隠す水苔の群生、壁に一体化して艶めくかつての巨大建造物の残滓──そしてそれらの混交した瓦礫の上には大きな背嚢を背負った一人の少年と、彼の背丈には不釣り合いな巨体のシルエット。
「──じゃあ、これまで地上との連絡を試みて、成功した人はいないんだね」
横穴の中、ソラが天井を見上げて呟いた。中層外縁部、大ウツロから射す日差しも集落の数少ない電灯の明かりも届かないこの極寒の領域には、まともな人間は近づかない。もっとも、地下にはまともでない人間や、人間ではない存在が溢れているのだが。
「だから言っただろ。地上に行くなんて無茶だって」
「聞いたよ。だけど、これを着て挑んだ人はいないんじゃない?」
ソラが胸を張ると、関節の駆動音が微かに響いた。暗い横穴の中、肌に食い込む背嚢の肩紐をずらしながら、タイヨウは隣のソラを見上げる。腰に吊るされたランプの光が、白を基調としたその巨躯を暗色の岩肌に浮かび上がらせる。
機械をもう一度着込んだソラの姿は生身のときとはまるで違っていた。大柄な大人くらいの背丈で太い胴体と平べったい四肢。首から頭にかけての前側の装甲──バイザーと呼んでいた──を外しているので、首無しの巨人のように見え、なんとも奇妙な外見だ。
「まさか、組み立てたらまた動くなんて」
「分解可能なモジュール式だもの。流石にゴックスのコピー品だけあって頑丈だよ」
「ゴ……いや、うん。とにかく、それを着ていれば地上に行けるの?」
「どうかな。降下時のログを見る限り、かなり厳しいことになりそうだけど。そもそも内蔵アンカーが死んでるし、センサーも半分はおかしくなってるし、役に立つのはパワーアシストくらい」
「えーと、まずは修理しないと、ってことかな」
「そういうこと。バッテリーにも限りがあるしね」
相変わらずソラの話す地上の単語は半分も理解できないが、概ね何が言いたいかは分かるようになってきた。足元から忍び寄る冷気に顔をしかめながら、タイヨウは静かに吐息する。
ソラが目を覚まして半日。地下のことを色々と知りたがる少女を宥めすかしてなんとか寝かせ、機械屋行きの準備を整えて、夜明けを待って二人は出発した。タイヨウは分解された機械を二人で運ぶつもりでいたのだが、ソラはあっという間に部品の様々な場所からケーブルを引き出して組み立て直し、アームスーツなる鎧を完成させた。
そこから先は、スーツの異形のシルエットを住民に目撃されないように、タイヨウの土地勘を最大限活かす必要があった。上層で売るための物資を背嚢いっぱいに詰めている上、道中で地下世界の説明をするたびにソラが目を輝かせて根掘り葉掘り尋ねてくることもあって、少年はすっかり疲弊していた。
とはいえ、集落を抜けてしばらく歩いた先、周辺住民すらほとんど近寄らないこの横穴で腰を下ろしているのには休憩だけではない理由がある。そろそろ時間かと顔を上げた矢先、首筋をざわりと撫でる不気味な気配──ソラに"来るよ"と身振り手振りで伝え、タイヨウは横穴を通り過ぎる風の音に耳を澄ませる。しばらくして予感が確信に変わったとき、ソラが小さく驚きの声を上げた。
「え、この音──!?」
「静かに。気づかれる」
慌ててソラが口を覆った瞬間、金属同士が擦れ合う耳障りな音とともに、両耳を突き刺す悲鳴と震動が二人のすぐ近くを突き抜けていく。巨大ななにかの気配──それなりの厚さの岩盤によって隔てられているにもかかわらず、空気が僅かに熱し、腐敗した肉と機械油と焼けた鉄の臭いが鼻を突く。背筋が粟立つこの不快な圧迫感は、いつになっても慣れることはない。
接近は僅か数十秒。轟音が遠く下方に去り、深く息を吐くタイヨウに、ソラが興奮と困惑が入り混じった表情で声をかける。
「ねえ、あれが、さっき言ってた」
「うん。デンシャ」
地下で最も恐るべき存在、線路の支配者にして頂点捕食者。数多の人間を喰い殺し、あるいは轢き殺してきた、人間を含むすべての地下の生命にとっての天敵。地下生まれの少年はその恐ろしさを言葉の限りを尽くして説明したのだが、地上人の少女は下らない冗談だと思っていたようだった。今、この瞬間までは。
"だから言っただろう"という言外の非難の込められた視線に気がついて、ソラが小さく口を尖らせる。
「デンシャ、電車……こんな名前、悪い冗談だと思うしかないじゃない。こんな風になってる地下で電車が走ってて、人を食べるなんて言われても、すぐには信じられないよ」
「信じなければ食われるだけだよ。今だって、このまま線路に出たら君は死んでた」
「わかったってば──うわあ、空間ヒューム値が急上昇してる。それにあの震動と熱量、もし本当に自律行動する生物なら、確実にアノマリー指定級……」
「よくわからないけど、出くわしたら終わりだ。こうやって上手くやり過ごすしかない」
さあ行こう、とタイヨウは背嚢を引き上げて歩き出し、ソラが周囲を気にしながらその脇に並ぶ。しばらく進むと横穴は唐突に右に折れ、すぐに終わりを迎えていた。出口には墨と廃油で黒く染めた布が掛けられていて、申し訳程度に入り口の場所を隠蔽している。先にタイヨウが外に出る──広々とした空間に、先程通過した存在が残した僅かな熱が溶けている。
「本当に線路がある……」
「そりゃ駅なんだから、線路はあるさ。当然だろ」
そうじゃなくて、と呟くソラに、タイヨウは首を傾げることしかできない。どうもソラのいう『電車』や『線路』とタイヨウの知るそれには大きな違いがあるようなのだが、それを追求する時間はなかった。何しろ広い地下世界において、線路上は最も危険な領域のひとつなのだ。
「覚えてるよね──線路の壁に沿って歩く。横穴や逃げ濠の場所をいつも確認。叫び声が聞こえたらすぐに逃げ込む」
「わかってる。デンシャの通る時間は決まってるから、隠れながら進むんだよね」
「たまに"逸はぐれ"がいて、あいつらはダイヤを無視するんだけどね。だから誰も線路は使いたがらない」
じゃあ急ごう──レールと枕木を乗り越えて、二人は早足で歩き出す。ソラはまだ左足を庇っているようで、スーツを着込んでいてもなお、歩幅に少し乱れがあった。砕石だらけの線路を素早く移動するのはまだ無理なのだろう。少しでも足場の良い場所へ彼女を誘導しつつ、タイヨウは改めてここまでの道筋と、これから取るべき行動を整理する。
前提として、中層の内側から上層に行く通路はいくつかある。タイヨウだけなら、カケアミの技で縄を伝って大ウツロから登ることもできる。しかしソラを連れて、それも大きくて重いスーツを伴ってという条件では話が別だ。各層間の通路は手作業で掘られた小さく長いもので、スーツは絶対に通れない。また入口と出口でそれぞれ通行料を取られるため、ソラの風体や分解されたスーツを見られれば、途方もない額を吹っ掛けられる可能性が高かった。
まともな住人なら絶対に使わない危険な場所──線路を通れば人目につくことはない。線路はデンシャの領域だが、彼らは個体ごとに決まったダイヤがあり、正確に時間通りに動く。線路内には自然の洞窟を拡張した横穴や退避壕がいくつも掘られており、このあたりを縄張りにするデンシャのダイヤから逆算してやり過ごしつつ進んでいけば、いずれ上層の端に辿り着くはずだった。とはいえ今回が最初の遭遇で、あと最低3回は同じようにデンシャを避けなければならず、時間の余裕はあまりない。
「足、大丈夫? もう少しで次の横穴がある。痛むなら念のため、次のデンシャが通るまでそこで待つことにしよう」
「ううん、まだ平気。心配してくれてありがと」
「……別に」
足音とスーツの関節の僅かな駆動音が、トンネルに反響して不気味に拡散する。タイヨウは内心で驚いていた。普段は滅多に通らない、必要があるときは一人で震えながら走り抜ける、恐ろしく肌寒い広大な線路。しかし足音が一つ多いだけで、ひどく心強く感じられた。勿論、恐怖心はある──しかし少なくとも今、彼は震えていない。初めての経験だった。
歩く、歩く。左足の痛みを忘れるためか、それとも単なる好奇心ゆえか、時折ソラが質問を投げかける。地下の暮らしについて、線路について、デンシャについて。知りうる限りの知識でそれに応えつつ、少しだけ歩を緩めて、また戻して。それを繰り返し、そろそろ次のデンシャをやり過ごすために横穴を探そうと考え始めた頃だった。
「タイヨウ、何かいる」
「え?」
「サーモに反応が──ええっと、人影がある。200メートルくらい前。脇の逃げ濠から出てきた。何人もいる」
こんな暗い場所だし、他にも人がいると安心するね──ソラが屈託のない笑みを浮かべるが、傍らの少年の表情があからさまに曇っているのを見て取り、その花咲くような笑顔に陰りが生じる。
「タイヨウ?」
「……全部で何人か、わかる? あと、何か持ってるかな」
「うーんと、センサーに映ってるのは……8人。奥にもう少しいるかもね。装備は形からして鉈やシャベル、それに鉄パイプとか。大型の武器や車両はないし、別に危険は──」
「……もしかすると、まずいかも」
事情を理解していないソラが呆気に取られる一方、タイヨウは心中で警戒度を一段階上げる。線路に大きなトロッコや台車を持ち込んでいる連中は基本的に安全だ──狭い手掘りのトンネルでは運べない大きな機械や物資を輸送している行商人や駅付きの戦士団で、護衛の機嫌を損ねなければいい。だが無手や軽装備の集団は危険だ。そもそも線路はまともな人間が行き交う場所ではなく、事情があって人目を避ける人間や駅に入れないお尋ね者が、命を捨てて通る場所なのだから。
「近付いてくるよ。どうする? 隠れる?」
「もうランプの明かりを見られた。今更隠れても遅いし……出稼ぎ帰りの中層民かもしれない。あいつらならこんな浅い場所で揉め事は起こさないよ。気をつけて近付いてみよう」
「もし違ったら?」
「線路の反対側に横穴がある。先はいくつかに枝分かれしてるはず。逃げ込んで撒こう」
「わかった」
短い相談が終わった。タイヨウは背嚢の紐をきつく締め、ソラがバイザーを下ろして顔を隠す。ほぼ同時に前方で眩い光が灯り、周囲にわだかまる暗色を切り裂いた。タイヨウの手元にあるランプの橙の揺らめきとは異なる、無機質な青みがかった白。不定期に点滅しつつも強力にトンネルの暗闇を暴くその光を掲げる痩せた人影は、おそらくは大人の男のシルエットだ。少しだけ光源を持ち上げ、小刻みに何度か揺らす──こちらに気付いて、仲間に知らせている。
嫌な予感が増していく。とはいえ中層へ繋がる線路はここだけだ。何事もなくすれ違えることを願いながら、タイヨウはゆっくりと足を進め──互いの顔が影の中から現れる距離で、双方はどちらからともなく足を止めた。
「おーい、そこの君たち、ちょっといいかな。教えて欲しいことがあるんだが」
見知らぬ顔の、聞き覚えのない声の男。その声色は穏やかであったが、線路上というデンシャの脅威下においてはむしろ優しすぎ、明らかに異質で不気味だった。何よりその柔らかな響きの中に、有無を言わせぬ抑圧が潜んでいるように感じられた。それは例えば、幼い息子を撫でながら大ウツロの危険を説く父親のような、本来拒絶など許さない命令を思いやりの皮に包んでみせたような声色で、タイヨウにとってはひどく不快に感じられた。
「……僕ら、先を急ぐんですけど」
少年の苛立ちと焦燥は、いささか正直に口調に現れた。少しだけ腰を落とすようにして、静かに互いの間合いを測る──明らかな警戒の姿勢にもかかわらず、男の態度はまるで仮面を被っているかのように変わらない。
「そう言わずに。人を探してるだけなんだ、助けてくれるならお礼をするよ」
のんびりと男が言葉を継ぐ間にも、彼の後ろからはぞろぞろと仲間が現れる。全部で15人はいるだろうか。何が"もう少しいるかも"だよ、と思いつつ、タイヨウはこの場を去る糸口を模索する。彼我の距離は数メートルしかなく、もし逃げ出すならそろそろ潮時だ。これ以上近付かれたらまずい。囲まれたらスーツのあるソラはともかく、生身のタイヨウに為す術はない。
「人って、どんなやつを探してるんですか。人相がわからなきゃ無理ですよ」
「後ろのやつが似顔絵を持ってる。どうかな、ひとつ見てもらって──」
そう言って男が背後の集団に一瞬だけ視線を向けた、その瞬間がチャンスだった。タイヨウの右手が跳ね上がり、後ろ手に隠し持っていた砕石が男の掲げる光源を壁に弾き飛ばす。甲高い金属音と軽いものの割れる音──そこに集団の意識が割かれたほんの一瞬の隙を突いて、タイヨウは横穴へと走り出した。
「逃げるよ」
「了解!」
一目散に横穴に飛び込む──それから一拍遅れて怒号。
「おいコラァ、クソガキ! 人様が丁寧に頼んでやってるッてーのに一丁前に逃げようッてんじゃねェぞ──!」
先程の一見して穏やかなやり取りは相当に我慢して繕っていたのだろうか。怒りに裏返った叫びに続いて、十数人ぶんの足音が狭い横穴を騒々しく満たす。やはりこうなった──実現してほしくなかった未来予想図が見事に眼前に現れたことをタイヨウは悟る。
「ああもう最悪だ。なんで連中がこんなところに──!」
「あの人たち、みんな武器振り回してる。怒らせちゃったみたいだね」
「それどころじゃないよ! あいつらたぶん東京流れの追い剥ぎだ。捕まったら身包み剥がされて、鉱山駅にでも送られる」
「え──」
スーツの手を引いて横穴の分岐を駆け抜けながら、先程の会話を思い出す。道を聞いてきた先頭の男は、白い鎧を着た大男のように見えるソラの威容に何ら驚きを示さなかった。事前にスーツのことを知っていなければあり得ない反応だ。加えて、男の話し方はタイヨウが慣れ親しんだ新宿の訛りとは明らかに違った。より平坦で抑揚のない、どちらかといえばソラの話す地上の言葉に近いが、それともまた明らかに異なる響き。
あれは間違いなく東京訛りだ。遥か線路を越えて東方、東京駅とその周辺で話されるという、余所者の言葉。
『それならあれはどうだ、最近多い東京訛りの連中。上の屑鉄商とよく連んでてよ。気味が悪い奴らだけども体つきは良いし──』
昨日ダンジと交わしたとりとめのない会話が脳裏に再生される。状況は最悪もいいところだ。
「狙いはたぶん君のスーツだ。捕まったら間違いなくまずいことになる」
「具体的には?」
「スーツは屑鉄商人に売られる。ついでに僕の荷物も──僕らは死ぬかもっと酷い目に遭う」
「じゃあ逃げ切らなきゃ」
「そうできると、いいんだけどね!」
段差を飛び越え、急坂を下り、辿られにくい道を選んで駆ける。デンシャや地底の怪生物、あるいは追い剥ぎや上層の人買いから逃れるため、住人たちは線路脇の横穴を各々好き勝手に掘り広げてきた。タイヨウはその多くを把握しているし、これまでもこの迷路のような横穴で、数日分の稼ぎを狙う追手を撒いたことがある──しかし今回は以前と違い、怒声と足音は少しずつ、しかし着実に近付いてくる。
「ちくしょう、引き離せない。人数が多すぎる」
「あの人たちって、この辺りの土地勘ないんだよね?」
「そうじゃなきゃわざわざ線路で網を張るもんか! あんな危険な場所で仕掛けてくるなんて、このへんに不慣れだって自分から言ってるようなものだよ」
走りながら叫んだ途端に咽ぶ。出発から2時間あまり、着の身着のままで冷気の中を這い回って、既にだいぶ体力を使っていた。背嚢の重みが肩に食い込む──放り捨ててしまえば幾分かは楽になるだろう。とはいえこの中に入っているのはおよそ10日ぶんの稼ぎで、換金できなければ食糧が尽きる。すぐそばの危機か数日後の飢えか、追い詰められた少年の声は上ずっていた。一方ソラの声色は、バイザー越しのノイズが掛かっていることを差し引いても、奇妙なほどに落ち着いている。まるで似たような事態に何度も遭遇してきたかのように。
「だとすると……うーん。どうにかして注意を逸らせないかな」
「逸らす?」
「そう。全員を別のものに集中させて、その隙に逃げる。例えばこんなので」
ぐいと肩を引っ張られて急停止。アームスーツの白い腕が少年の背中に回り込み、背嚢から何かを器用に摘み出す。暗闇の中でオイルランプの僅かな灯りに照らされて光る、鍋の蓋を抱えた茶色の獣。昨日の数少ない戦利品のひとつだ。タイヨウにはその価値も用途もわからないが、ソラにとっては既知の品のようだった。
「これで多少は時間が稼げると思う。でも決定打じゃない、すぐに気づかれるはず。次の手はある?」
先程までの好奇心と興奮に浮かれた姿とは何もかもが異なる、怜悧で理知的な少女の声。混乱しつつも少年の思考は危機に際して高速で回転する。追手を撹乱し、追跡を諦めさせるための手段。こちらの位置を見失わせ、迷宮の中に置き去りにする。脳裏をひとつのアイデアがよぎる──危険性は高いが、この状況で他の選択肢は思いつかない。
問題は誰が実行するかだ。自分か、ソラか。今の自分の状態と装備、これまでの短い道中にソラが見せてきた能力を勘案して、答えはすぐに出た。
「……そのスーツ、暗い中でも目が見えるんだよね?」
「サーモとエコーは生きてるから。精密性に不安があるけど10メートル単位なら大丈夫」
「今から言う通りの順序で横穴を抜けて、その先で騒ぎを起こして欲しい。ただし、すぐに戻ってきて。その場に留まっていたら危ない」
「大きな音を出す程度でいいの?」
「大丈夫だと思う。あいつら、近くの音には敏感だから」
わかった、とソラが頷く。道程はそう複雑なものではない。伝えたとおりに道順を復唱し、白い影は素早くこちらに背を向ける。
大男と見紛うような巨躯には、その内側にいるのが華奢な少女であることを忘れさせる安心感がある──しかし、駆け出したその左足が僅かに引きずられているのを見た瞬間、少年の心は後悔で満たされた。
「ソラ──」
「行ってくる!」
伸ばした手は空を掴み、道を外れた緩い斜面の向こうの暗がりに白いスーツの背中が消える。その重量に対して異様に静かな足音もすぐに遠ざかった。途端に洞窟の中を風が吹き荒び、タイヨウはその冷たさに身震いする。
風音に乗って訪れる怒声が、敵が迫っていることを告げる。しかしソラが戻ってくるまでは、この場所を離れる訳にはいかない。岩陰に腰を下ろし、ランプの窓を閉める。ボロ布や獣の革を粗雑に縫い合わせただけの服や靴の間から湿った冷気が入り込み、十分近い逃走劇で筋肉に溜め込まれた熱は瞬く間に奪い去られた。陽光が降り注ぐ大ウツロの周縁を除いて、新宿駅外郭部は岩と氷に閉ざされている。このような環境に人間は長く留まれない。動かなければいずれ凍死するか、敵に見つかってしまうだろう。
疲労と寒さに蝕まれた少年の思考に、とある残酷な提案が生じる──ソラを置いて逃げればいい。背嚢も網も、タイヨウの全財産は無傷で手元に残っている。彼女が追手を引き付けているうちに横穴を抜け、デンシャを避けながら上層へ行くのだ。戦利品を食糧と交換し、帰りは縄伝いに大ウツロから戻れば、追手に遭遇することはない。タイヨウ一人であれば、土地勘のない余所者の10人ばかりを撒いて逃げ回るのは容易いことだ。
裏切りなど地下では日常茶飯事。間抜けな隣人を大ウツロに蹴落とし、残された住居と食糧を拝借して、人々は日々を生きているのだ。たった一日の付き合いでしかない地上人の少女、地上に帰るなどと世迷い言を吐く狂人のために、命の危険を冒す意味があるだろうか?
冷気に沈む洞窟の中。一筋の光すらない漆黒の中では、数分がまるで数日のように感じられる。少年は何度か立ち上がろうとして、そのたびに腰を下ろし、岩肌を静かに殴りつけた。このままあと一時間もここにいれば、上層どころか中層に帰り着くだけの体力もなくなることが分かっていた。しかしタイヨウは上層までの道案内をすると約束したのだ──それに、恐らくそれが最善の選択だったとはいえ、怪我をしている少女に陽動を任せてしまった。僅かばかりの責任感と罪悪感、そしてねぐらで見た少女の輝く瞳の残影が、タイヨウを岩陰に繋ぎ止めていた。
時間が過ぎていく。タイヨウは時計を持っていないが、彼の正確な計時感覚は既に15分を数えている。遅すぎる──まさか敵に捕まったのだろうか? そういえば追手の喚き声も消えている。ソラを捕縛し、用が済んだとばかりに引き上げているのかもしれない。
焦燥感に駆られ、状況を把握しようとして岩陰から顔を出した瞬間、太く硬質な腕がタイヨウの身体を後ろから押さえた。驚きと恐怖に叫ぼうとした瞬間、巨大な掌が顔を覆う。素早く岩陰に引き込まれ、暴れようと体を捻るが力は出ず、少年は声もなく藻掻いた。
「戻ってきたよ。もう大丈夫」
「ソラ?」
そろそろ聞き慣れてきた、高いが芯のある落ち着いた声。静かにね、という言葉とともに目の前を塞ぐ巨大な指が取り払われる。思わず自らの手で口を塞ぎながら振り返ると、暗闇の中に芒洋と浮かび上がる白の巨体のバイザーが跳ね上がり、少しだけ疲れた表情のソラが顔を覗かせた。その顔色は朝よりも悪い。
「ソラ、もしかして怪我を!?」
「ううん、平気……でも、足がちょっと痛むかな。ごめんね、遅くなっちゃった」
「いいんだ、そのことは」
僕は君を見捨てるかどうか考えていたんだから──声にならない謝罪とともに、少年はソラの助けを借りて立ち上がる。彼女が無事に戻ってきたということは、もう猶予は残されていなかった。凍えた身体ではあまり無茶はできないが、一刻も早くこの場所を離れなければならない。気が急くのをなんとか鎮めつつ、背伸びしてソラに顔を近づける。
「あいつらはどうしてる?」
「隠れてるみたい。私たちの足音が途絶えたから、騒ぐのをやめて様子見してる。ここからかなり近くて、仕方がないから静音ステルスモードで進んだけど、そのせいでバッテリーをかなり使っちゃった」
「君が言ってた、騒ぎっていうのは」
「もうすぐ始まるよ──ほら」
聞こえるでしょ、と囁き声。そうして次に耳に届いたのは、機械が擦れて軋むような音と、何か金属が打ち合わされる耳障りな破裂音。
「おい、向こうから音が聞こえるぞ!」
「反対方向かよ──遠くに逃げたと思って油断しやがって。急げ!」
その声は本当に近くから聞こえ、追手がすぐ側まで接近していたことを示していた。今更ながらにタイヨウの背筋は恐怖に総毛立つ。しかし足音と罵声はそれ以上近づかず、むしろ次第に遠ざかっていく。お互いに顔を見合わせて、二人は小さく頷いた。最初は忍び足で、続いては小走りに、最後は駆け足。一人は背嚢を抱え、もう一人は足を庇いながら、少年と少女は闇の中を走る。
「君、いったい何したんだ!?」
「あはは──シンバルモンキーの現物なんて初めて見たよ! ちゃんと動いてくれてよかった。ゼンマイ仕掛けに細工するのに少し手間取っちゃったけど、旧来機械学は得意科目だったんだ」
「またわけのわからない……」
自慢気に頷くソラの言葉は相変わらず理解できないものだ。呻きながらもタイヨウはスーツの手を引き、無数の分岐を越えていく。追手を撒くことを優先していたこれまでとは異なり、できるだけ線路の方向へ。足に肩に脇腹、身体のそこら中が痛むが、今はできるだけ距離を稼ぎたかった。タイヨウの目論見が成功しているなら、連中はもう二人を追ってくることはできないが、一度線路に出なければ二人もまた危険に晒される。
坂を登り、凍りついた川を渡り、岩の下に隠された通路を抜ける。線路までもう少しというところで、背後からそれが二人のもとに届いた。
「な、これは──うがあああああ!」
「戻れ、戻れ!」
「早く逃げろ──ッ」
男たちの悲鳴。距離と風音にかき消され判然としないものの、彼らが恐慌状態に陥り、こちらの追跡などできなくなったことはほぼ確実だ。
「え、え? 何が起きたの?」
今度はソラが唖然とする番だった。見事に追手を罠に嵌めた自分の功績を自慢してやりたい欲求が一瞬だけ芽生えたが、タイヨウはあまり説明する気になれなかった。理由はいくつかある──いい加減に疲労が限界に達し、思考に靄がかかり始めていたことがひとつ。そして追い剥ぎたちのうち何人かは、もう生きて故郷に戻れないだろうことへの、腹の底を締め付ける罪悪感がひとつ。
地下には様々な脅威が潜んでいる。デンシャ、下水ワニ、流れ者や追い剥ぎ──そして線路から外れた天然の横穴の奥深くには、一対一ではそれらに到底敵わないものの、遥かに数が多く腹を空かせた小さな怪物たちが眠っている。
土地勘のある住人ならば決して踏み入ることのない、群れ分けしたばかりの大鼠の巣。空腹の女王がデンシャを避けて隠れ住むその縄張りに、ソラによって誘導された追い剥ぎたちは軽率に踏み入ったのだ。大鼠の一匹一匹は子供でも簡単に殺せるが、その牙で噛まれた者の多くは数日後にひどい熱を出し、血を吐いて四肢が腐り出す。暗闇の中で巣の全てを相手にするのであれば、犠牲者は一人や二人ではきかない。ソラのように全身を金属で覆われていれば無傷で済むだろうが、線路で見た彼らは軽装備だ。
「ねえタイヨウ、あなたの指定した場所って」
「今は時間がない、後で話すよ。まずは線路に出よう」
この場でつぶさに話すこともできたが、彼らに確実な死を招いたという罪悪感と、それを彼女に知られたくないという打算がそれを妨げた。何か言いたげなソラの手を引いて、タイヨウは早足で前に進む。男たちの悲鳴は徐々に遠ざかり、やがて消えた。それをありがたいと思ったのは、きっと脅威が去ったことを実感したからで、他に意味はないはずだ。
無言の時間はそう長く続かなかった。ふと通路に白い光が差し込み、足元が棘だらけの岩肌から、苔生した滑らかな緑色に変わる。粘ついた急斜面をなんとか登りきると、そこはもう開けた空間だった。赤茶色に鈍く輝く線路が二人の前を横切り、その向こうに風化した建造物が瓦礫の山となっている。数本の鉄骨とそれにへばりついた蛍光灯を残して、屋根は完全に崩落していた。
「ここが、上層?」
「その一部ではあるけど、かなり外れた場所だよ。主要な地区から遠くて誰も住んでない。どうしてか電気が来てるから、まだ駅は生きてるんだろうけど」
周囲を警戒しながら半ば砂になった瓦礫の山を登る。まだ崩壊していない奥の平らな部分には弱々しい灯りがいくつか明滅し、その下にはここを短期の宿としていたであろう旅人たちの痕跡が残っていた。足跡や焚き火の煤はどれも最近のものでない。どうやらここは安全地帯のようだ──途端に全身の力が抜け、半ば倒れるように座り込む。
「ちょっと、大丈夫?!」
「うん……あんまり大丈夫じゃない、かな」
ソラに支えられ、まだ形を保っている地上時代の長椅子に腰掛ける。緊張が解けたことで全身の疲労が戻ってきた──ここ最近は稼ぎが悪く、食糧を節約していたこともあって、横穴での消耗が想像していたよりも激しい。案内を買って出たはずが怪我人に心配されていることの気恥ずかしさから、半ば強引に身体を起こそうとして、左肩に走る鈍い痛みに呻く。
「ねえタイヨウ、怪我してるよ」
「……本当だ」
何かに切り裂かれたのか、服の薄布ごと左肩の皮膚がぱっくりと割れ、流れ出した血が服を黒く染めていた。洞窟を走る途中で岩肌に削られたか、それとも追い剥ぎは飛び道具まで持っていたのか──傷跡は綺麗な真一文字で、どこかに引っ掛けたような形ではないから、後者の可能性が高いように思える。幸運にも狙いは逸れたようだが、もし肩口に突き刺さっていたら、恐らく逃げ切れなかっただろう。本当に紙一重だったのだと、今更ながらに恐怖で身体が震える。
「ちくしょう、あいつら……いや、平気、平気だよ。こんな傷、なんてことない。腕が取れたわけじゃないんだし、すぐ治るって」
「そういうわけにはいかないよ。とにかく止血しないと」
ちょっと待ってて、と白いスーツが身じろぎする。背面の金属板がバタバタと跳ね上がり、片膝をついた巨体からソラのしなやかな肢体がするりと抜け出した。埃っぽい空間に僅かな甘い匂いが漂い、少年は思わず目を泳がせる。
「ガーゼがあったらよかったんだけど、キットの中身は薬剤だけだったんだ。ごめんね」
そう言って取り出されたのは四角く畳まれた布切れで、白地に紋様が入った薄い生地は上層で売れば相当な値がつく代物のように思われた。しかしタイヨウが制止する間もなく、ソラは慣れた手付きで傷口に布を巻き付ける。そうして、助けてもらったお返しはちゃんとしないとね、と笑った。タイヨウは戸惑いながらも感謝を告げ、椅子に深く座り込んで息をつく。
出発からおよそ3時間半。早々に面倒に巻き込まれた挙げ句、ひどく体力を消耗してしまったが、後は線路を辿ってゆくだけの一本道だ。敵が追ってくる気配はなく、なんとか機械屋には辿り着けそうだった。このあたりに今出てきたもの以外の横穴はないが、デンシャはしばらくやってこない。怪我をした二人が休み休み歩いても、時間には十分余裕がある。
────そのはずだった。
「……そんな、馬鹿な」
「タイヨウ?」
有り得ない、と呟くのがやっとだった。驚愕する少年は思わず腰を浮かせるが、疲労に震える膝は言うことを聞かず、よろめいて長椅子の上に崩れ落ちる。わけもわからずに慌てて少年を支えようとして、ようやく少女はそれに気付いた。
叫び声。しかし先程洞窟の中で聞いた、男たちの驚愕の悲鳴とは違う。
それは嘆きであり、怒りであり、苦鳴であり、悲痛であり、それ以上の語彙を持たない少女には区分することのできない、数多くの感情が凝り固まった、情動の暴威というべきものだった。それは無数の口蓋が統制なく喚き散らすだけの、もはや個々の意味を問えぬ音であり、しかしながら聞くものすべてに訴えかける、人類が言語を生じさせる以前に用いていた種々の交歓に親しいものであった。叫び声であり、歌声であり、歓声でもある、それは言うなれば彼らの自己表現だ。
「デンシャ……」
「なんで──なんで、なんでこんな時に。まだダイヤはずっと先なのに」
ずるずると椅子から滑り落ちて、タイヨウは絞り出すように呻く。恐怖で全身の震えが止まらず、傷を負った左肩がじくじくと痛む。歌声がトンネルに反響して耳を埋め尽くし、段々と大きくなっている。駅の建造物が振動に震え、足元がひび割れ砂埃が舞い、辛うじて残っていた屋根のタイルが剥離して二人の頭上に雨のように降り注ぐ。
理解できない。否、理解しているが、納得できない。理性が弾き出した結論を、狂奔する感情が拒絶する。そんなわけがない、今まさに追手を退けたばかりなのに、自分が外れ籤を引くわけがない──しかしタイヨウの脳の冷静な半分は無慈悲な結論を下している。
"逸れ"がやってきた。デンシャは個体ごとにダイヤを持っていて、外的要因で妨害されない限り、正確に縄張りを周回する。だが"逸れ"はダイヤを持たず、好き勝手に線路を走り回る。普通のデンシャより数が少ない上、共食いや脱線ですぐに死ぬので、遭遇することは滅多にない。
だが出会ってしまえば同じことだ。轢かれて死ぬか、喰われて死ぬか、焼かれて死ぬか、溶かされて死ぬか、それとも他の何かで死ぬか。線路上でデンシャと遭遇したならば、末路は常に決まっている。奴らは人間を見逃さない。奴らは人間を憎んでいるから。
「大丈夫だよ。急いで戻れば、さっきみたいにやり過ごせる」
さあ行こう、と立ち上がったソラの自信に満ちた表情はおそらく強がりを含んでいるが、それでも表面上は明るげでいかにも頼もしく見えた。とはいえ、とタイヨウは思う。どちらにせよ、もう遅いのだ。
「戻るって、どこに」
「さっきの横穴だよ! あの斜面を無傷で降りるのはちょっと厳しいかもしれないけど、デンシャよりは」
「無理だよ。今頃はもう、あの下は大鼠でいっぱいだ」
「なにを──」
「あいつらを巣穴に誘導したから、今頃群れは怒り狂ってる。しかも僕は血を流してた。誘導に使ったあの道具にもたぶん臭いが残ってた。線路に出なきゃいけなかったのは、群れから逃げるためなんだよ」
だからもう戻れないんだ。そう言葉を投げ出してしまってから、少しだけタイヨウは後悔した。燃えるような橙の瞳が混乱と恐怖に竦むさまを、そしてそれが自分の浅薄な計算によってもたらされたことを、できれば認めたくなかったからだ。
「……どうしよう」
先ほどとは打って変わって心細げにソラが尋ねる。反響に揺れる駅の只中で、その声は不思議と耳に残った。どうすればいい? 僕の方が知りたい、とタイヨウは考える。デンシャはすぐにでもやってきて、目立つ二人組を捉えるだろう。駅にまともに残った建造物はなく、隠れてやり過ごすことはできない。周囲には他に横穴もなく、今しがた通ってきた場所は使えない。これが普通のデンシャなら、駅に"停車"したところで乗り込むという非常手段で数分だけ時間を稼げるが、"逸れ"にはそんな習性はない。
八方塞がりだ。呆然となってタイヨウは虚空を見つめる。ひとつだけ残った蛍光灯が落とす白光の中で、疲労、恐怖、後悔、無力感、それら全てが綯い交ぜとなり、諦めと脱力が足先から泥のように少年をゆっくりと飲み込んでいく。こうなってしまえばもう逃げ場はない。ソラのスーツもデンシャには敵わない。必死の逃避行もここで終わり。ソラかタイヨウか二人ともか、どちらにせよ運がなかったせいで、あんなに頑張ったのにここで死ぬ──
二人とも?
「……ごめん、ソラ。何がダメだったかわからないけど、僕はやり方を間違えたみたいだ」
深く息を吸い、吐く。もう一度。膝に力を込めてゆっくりと立ち上がる。声が震えてしまうのはもう仕方がなかった。怖いものは怖いし、死が迫っているのなら尚更だ。けれど、やらなければならないことが残っていた。スーツの脇に立つ生身のソラと向き合う。びりびりと震える駅の中央、少女の瞳が伏せられる。
「ううん、いいんだ。私こそ、巻き込んじゃってごめんね」
案内人がしくじって、今まさに死の危機に晒されている。本当なら怒ってもいい場面だと思うが、ソラは申し訳なさそうだった。巻き込まれたといえば確かにそうだが──それでも結局、これは自分が招いた結果なのだ。地上人の少女を上層まで案内する、その行為そのものへの少しばかりの興味と自己陶酔。
落ちてくる地上の残骸を拾って、それを売る。ただひたすらにそれを繰り返すだけ。見えない太陽を求めて頭上を見上げる鬱屈した毎日、それを弾き飛ばせる何かを期待して、落ちてきた少女に希望を押し付けた。自分を特別だと思いたかった。そして幼稚なプライドで見栄を張った結果、その場凌ぎの策で退路を絶ってこのザマだ。運が悪いなんて言い訳にもならない──この地下世界に生まれ落ちた時点で、皆そもそも幸運に見放されている。
「謝らないでよ。僕は何もできなかったし、自業自得だ──だから、ソラだけでも逃げてほしい」
「そんなこと!」
「ひとつだけ嘘を言ってたんだ。もうあの横穴には戻れないって──あれは正確には違う。僕が戻れないだけなのさ」
大鼠の牙は熱病を運び、体中噛まれたらまず助からない。だがそれは肌に直接傷をつけられた場合の話で、全身を金属甲冑で覆った駅王お抱えの戦士たちは、しばしば単独で巣に踏み入って女王を煙で燻して殺す。ソラのスーツに牙は通らない──横穴を戻ればタイヨウの命はないが、ソラは無傷でデンシャから逃げられる。
駅に隠れようが線路に残ろうが横穴の中に戻ろうが、タイヨウが生き残れる可能性はほとんどない。もう完全に詰んでいる──しかしソラだけならそうではない。だとしたら、タイヨウがすべきことは一つしかなかった。ソラを生かすのだ。そもそもの発端である約束、上層への案内を果たすため。どうせ死ぬにしてもマシな死に方だ。落ちてきた瓦礫に潰されるか、熱病で四肢を腐らせて死ぬか、穴の中で凍死か餓死、はたまた飢えに耐えかねた隣人に寝ている間に殺される、そんな死に様ばかりの新宿で、女の子との約束を守るためにデンシャに轢かれるのはかなり上等だ。
一度諦めてしまったなら、もう後は行動するだけだった。窮地にも溌溂としていたソラも、今度ばかりはどうしていいかわからずに言葉を探しているようで、無言で線路に下りるタイヨウを追いかけ、恐る恐るといった様子で付いてくる。時間の余裕が全くない以上、抵抗されないのは好都合だった。背嚢から網を引っ張り出し、有無を言わさず残りをソラに背負わせる。
「スーツを着ていれば大鼠は無害だ。絶対に脱がないで。僕が線路をできるだけ逃げて、デンシャの注意を引き付ける。叫び声が聞こえなくなったら、奴が来た方向に進むんだ。かなり距離があるけど、いずれ上層に辿り着く」
「ねえ、タイヨウ……」
「背嚢の底に少しだけ水と食糧が入ってる。機械屋はかなり奥まった場所にあるから、スーツはどこかに隠しておいて。鳥売りの婆さんは子供に優しいから、背嚢の中身を半分くらい差し出せば、たぶん協力してくれる。それから──」
「できないよ……そんなこと、できない」
「いいや、できるよ。深刻に考えないで。地上に帰るんだろ? こんなのは地下じゃよくあることなんだから、今のうちに慣れておかなくちゃ」
「──────ッ!」
それは深く考えての言葉ではなかった。強いて言うなら彼女の決心がつくようにと、敢えて戯けてみせたつもりだった。しかし先程まで孤児のように視線を彷徨わせていたソラの瞳が、おそらくは怒りと悲しみによって、きゅっと細められたのをタイヨウは見て取った。地下住民の誰もを恐怖に竦ませる叫び声が刻一刻と大きくなり、その膨大な質量が生み出す熱と圧力が肌で感じ取れるほどに近付いているにもかかわらず、ソラはもう下を向いても震えてもおらず、それどころか明らかに憤慨していた。
「やっぱり無理。タイヨウも一緒じゃなきゃ、私は行かない」
「何を言ってるんだ!? 僕はもう──」
「抱えてでも連れてくよ──あなたがどう思っても関係ない。私はまだ諦めてないから」
「そんな馬鹿な!」
愕然として一歩下がるタイヨウの腕を、アームスーツの太い腕が掴む。バイザーを下ろしたソラの表情を窺い知ることは叶わない。ただ洞窟の中で抱えられた時の優しい力加減とは打って変わって、今度は腕がもがれるかと思うほど強烈に保持されていて、まったく振り解くことができない。
「ソラ、きみは──!」
抵抗などできようはずもなく、出てくるのは言葉ばかりだった。どうして君はそんなに諦めないんだ、なぜそんなにも希望を持ち続けられるんだ、おそらくはそんなことを言おうとしていたのだと思う。半分は純粋な疑問、もう半分はたぶん怒りで、その感情の原因はタイヨウ本人にもよくわからなかった。
ともあれ、結局その問いが形になることはなく──
「きゃあっ!?」
「な!?」
足元を支える砕石の反発が突如消失する──浮遊感に疑問を呈した次の瞬間には、既に落下が始まっていた。周囲に掴めるようなものはなく、網を持つ利き手はソラに押さえられている。そのソラも突然の事態に反応できず、腕を振り回すのが精一杯。
暗転。絶叫が間近に迫る中、砂の擦れ砕ける耳障りな音に包まれながら、あまりにも唐突かつ呆気なく、二人は暗闇の中へ消えた。
*
大ウツロを有する新宿駅の住人にとって、落下とは即ち死を意味する。底を見たものは誰もいないと囁かれる巨洞の傍らに暮らす人々が、足場を失うその感覚を過剰なまでに恐れるのは自然の成り行きというべきだろう。
タイヨウもまた例外ではなく、本能的な恐怖にかられて手足をめちゃくちゃに振り回し──ほんの一瞬の浮遊感の後、強かに背中を打ち付けた。
「痛──!」
砕石が食い込んで肌を抉る痛み──しかし小さな悲鳴は強烈な落下音に掻き消された。上方から微かな光が届くだけの暗がりの中、砕石に半ば埋まるような形で白いスーツが墜落し、両腕を不格好に動かしている。
痛みを堪えながらも跳ね起きて、タイヨウは周囲の様子を伺う。洞窟というよりは広間のような開けた空間は一面が砕石で覆われていて、半ばから折れたレールやひしゃげた車止めがそこかしこに散らばっていた。頭上からは錆びた金属の軋む音──見上げれば高い天井にはいくつか大穴が開いていて、落し蓋がゆっくりと引き上げられていく。穴の向こう側に見えるのは、支えを失って宙に浮く線路。レールの下に仕掛け床があったのだ。どうやらあそこから落ちてきたらしい、そう少年が得心すると同時に、天井の穴は完全に閉じて、すぐさま広間は漆黒に沈んだ。
数拍おいて、叩きつけるような轟音と振動が広間全体を揺さぶった。ばらばらと頭上から砂粒や瓦礫が落下する。叫声とレールを噛む車輪の悲鳴、加えて大質量の移動がもたらすエネルギーに岩盤すらも軋んでいる。デンシャが通過しているのだ──すぐ頭上の薄い岩盤の上を、巨大な肉と鋼の塊が猛烈な速度で走り過ぎていく。それは本来ならタイヨウの全身を引き裂いて線路上にばら撒いていくはずだった存在で、時間にして十数秒程度の至近遭遇は、もはや永遠のようにも感じられた。
それでもたった十数秒、音と振動は次第に遠くへ消えてゆく。助かった──長い息を吐き、脱力のあまり砕石の上に身を投げ出しそうになって、それからようやく少年にも他者を気遣う余裕が生まれた。痛む身体を引きずって、緩い傾斜を滑り降り先ほどスーツが転がっていた場所へ近づくと、暗闇に慣れ始めた目が砕石の山からなんとか足を引き抜いた白い巨体を映し出す。
「ソラ、無事でよかった!」
しかし安堵の表情で駆け寄ったタイヨウに対し、こちらに手を伸ばすソラの応答は切迫感に満ちていた。
「タイヨウ、気をつけて! 後ろに誰かが──」
「ヤア、ヤア、ヤア、ヤア!」
背後、それも手を振り回せば届くほどの至近距離から朗々と響いたその声は、タイヨウの耳朶を強かに打った。狩りの雄叫びや勝鬨にも似た、腹の底から発されたよく通る声。少し甲高さはあるものの、明らかに大人の男の──そこまで考えつつも反射的に飛び退き距離を取ろうとするが、足元は不安定な砕石の重なり合った斜面だ。足を捻らないようにするのが関の山で、少年は半ば尻餅をつきながら、不格好に後ずさるしかない。
「姿を見せなさい!」
叫びとともに純白の光が暗闇を薙ぎ払って一点に集う。アームスーツのサーチライト──明るすぎてひどく目立つので、線路上では使わないことにしようと二人で決めていた機能。強烈な光芒に目を眩ませながらもなんとか立ち上がったタイヨウの目の前、暗色に沈む広間の中央がライトの白色に丸く切り取られ、その中に人影が浮かんでいる。
年の頃は40を過ぎたあたりだろうか。中肉中背、僅かな前傾姿勢、両手には何も持っていない。額の中央で乱雑に分けたボサボサの髪、ぎらぎらと光る怪しげな瞳、口の端に貼り付けたような不快な笑み。そして何より特徴的なのは、古ぼけて薄汚れているものの、ライトの光を反射して白く輝く大きな縁無しの丸眼鏡。
突然現れたその男は、強烈な光を真正面から浴びせられたにもかかわらず、全く驚いても怯んでもいないようだった──というより、他のことにひどく気を取られているように思われた。ズカズカと大股でこちらに──否、ソラの方に近づいていく。スーツの威容にもお構いなしのそいつが満面の笑みで口を開くと、少しだけ高い奇妙な抑揚の掠れ声が堰を切ったように溢れ出した。
「お嬢さん──なかなか面白いものを着ているね。これはいったい何処で手に入れたのかな? 落ちていたのを拾ったのかい? それとも他人から奪った? 発掘、窃取、商人から買った、でなければ誰かから受け継いだかな。もしくは、さては、まさかとは思うが──」
「え、あの、あなたは」
「おおっと! 質問が先に来てしまった。失礼したね。ボクはいつもこうなんだ。興味のあることになると我慢できなくて。それでお嬢さん、そのスーツについて聞きたいんだ、ボクの考えが正しければきみは」
「──ソラに近寄るな!」
そこで間に割り込んだ理由を、タイヨウはうまく言い表せなかった。とにかく、良くない状況のような気がしたのだ──スーツを狙う輩との逃避行の後で、音も気配もなく急に現れた男に気を許すわけにはいかなかった。しかし合理的に考えるならば、スーツを着たソラは自分よりも明らかに屈強で、男がなにか武器を持っていようが一対一では男に勝ち目はない。タイヨウに前に出る理由はなく、まだしもソラの後ろから石でも投げたほうが援護としては様になっただろうが、現実には彼はソラを庇うように彼女と男の間に割って入った。
そして少年は息を呑んだ。スーツから視線を外し、タイヨウに向けられた男の表情は、先程までの笑みとは打って変わり、路傍の砕石や鼠の死骸に向けるそれによく類似した冷たさだった──それでいてそのぎらついた灰色の瞳の奥に隠された重圧は、男が只者ではないことを示していた。その目は雄弁にこう語っていた──お前のような奴はお呼びじゃない。しかしそれはほんの一瞬のことで、男はすぐさま不自然な笑みを貼り付け直した。
「ああ、きみ。そうだ、きみもいたね? すっかり忘れていたよ。少年、お名前はなんというのかな?」
「タイヨウ──何者なんですか、あなた。どうしてここにいるんですか。まさか追い剥ぎ連中の仲間で」
「タイヨウくんというんだね、ふむ。ううーん? どこかで会ったことはあるかな」
「あるわけないでしょう、あなたみたいな怪しい人。それより質問に──」
「そうかい。それならいいんだ、ボクは特段きみには用がないからね」
「なっ」
こちらの言葉を気にする素振りもなく、男は異様な笑みを貼り付けたまま、ぶつぶつと口の中で何かを呟いている。どう見てもまともとはいえない。もしやガス溜まりで頭をやられたのだろうか──そこまで考えたところで、昨日の他愛もない世間話が脳裏をよぎる。中層をうろつく丸眼鏡の狂人。神出鬼没、住人の誰も足取りを掴めず、ふらりと現れては大袈裟に破滅の予言をして回るおかしな男。
こいつだ、とタイヨウの直感が囁く。丸眼鏡の奥で大きく見開かれた気味の悪い目つき──微妙に焦点の合っていない、こちらの顔ではなく頭の後ろを見つめているような眼差し。間違いない。誇大妄想に取り憑かれ、中層の住人に『破滅が降ってきてみんな死ぬ』などと吹聴していた異常者だ。いつか大ウツロに放り込まれるだろうと思っていたのだが、こんな場所で出会うことになるとは。
何にせよ会話するには値しない存在だ──そう見切りをつけ、ソラに出発を促そうとしたその時、男が笑いながら首を傾げた。
「しかしお嬢さん、運が良かったね。偶々ボクがこの場に居合わせてポイントを起動したからいいものの、きみ、あのままじゃここに落ちてこられずに電車に轢かれて死んでいたよ」
「え──」
「さしずめボクは命の恩人というところだろ。少しくらい話を聞かせてくれないかな──そのスーツはとても貴重なものなんだ。ボクはそれにとても興味があるんだよ」
「あなたは……何者なんですか」
「ボクかい? ボクはタキオリ。商人だ」
困惑するソラにもお構いなしに、男──タキオリが後方を示す。スーツの白光が照らし出した広間の壁際には狭いレールが通っていて、その上に手押し式の古ぼけたトロッコが鎮座していた。奇妙な機械や配線の飛び出した玩具、大きな壺──ガラクタばかりが積まれている。どう考えても売り物には見えない。やはり狂人ではないか、とタイヨウが眉をひそめたとき、壺の中で何かが素早く動いた。
「────ひゃあっ!?」
ソラの甲高い悲鳴──しかしそれが何によって発せられたものか、タイヨウには理解できなかった。先ほどまでとは打って変わって小刻みに揺れるライトの焦点が、スーツの主の動揺を示している。しかし光の中にあるのはゴミが満載されたトロッコだけで──否、壺の中に動いているものは、少しばかりサイズが大きいものの、タイヨウにとってはよく見慣れた黒い塊だ。
「ほう?」
眉を上げたタキオリの笑みが深くなる。彼が鋭く口笛を吹くと、それは小さな羽音を響かせて飛び上がり、壁面に張り付くと何度か触覚を振り、素早くライトの光の外に消えた。ソラが一歩、二歩と後ずさる──それはここまでの短い旅路の間には見せたことのない、怯えの混じった動作だった。
「ソラ、一体なにが──」
「ゴキブリが怖いかい、お嬢さん」
「え?」
それは奇妙な言葉だった。全く接続することのない2つの単語で、タイヨウにとっては戸惑いしかない。しかしソラは躊躇いがちに頷いて、暗闇に紛れた黒い影から逃れるように緩やかにライトを左右に振っている。なるほど、とタキオリが頷く。それは深い納得とある種の共感に満ちていて、少年は僅かな苛立ちを覚えた。なぜかこの男がソラの恐怖心の根源を理解できているらしいことが、そして自分には理解できないことが、どうしてか気に食わなかったのだ。
しかしそのことについて考える機会は、この時点においては訪れなかった。
「きみ、地上から来たんだろ?」
何でもない風にタキオリは言った。しかし気さくに問うているようでも、その声には迂闊に踏み入れた足を掴む泥沼のような粘つく重みがあった。彼の口元は相変わらず笑みの形に歪んでいたが、瞳は大きく見開かれ、ぎらぎらと灰色に輝いていて、お世辞にも笑顔とは言えなかった。明らかに答えを知っている風の、質問の体裁を取った確認だ。どうして、とソラが問う。警戒と混乱、そして一抹の好奇心が混じった問いかけに、男は待ってましたとばかりに声を重ねた。
「その様子だと知らなかったかな──地下の社会において、ゴキブリは貴重な食糧なんだよ。特にこの辺りでは常食される。そういう文化ができているのさ。突然物陰からあれが出てきたとして、地下生まれの人間なら何とも思わないか、捕まえてその日の夕食の足しにする。少なくとも驚きも怖がりもしない」
「食糧……」
「嫌かい? 気持ちはわかるとも。最初は誰だってそうなんだ。しかしこればかりは慣れることだよ。この世界で生き残りたければね」
ソラが言い淀む。実際の情景を想像したからか、その声色に混じるのは紛れもない嫌悪感で、タキオリはしたり顔で頷いている。タイヨウには彼女の感覚がわからない──温かい場所ならどこにでも湧く黒い虫は新宿駅の住人にとっては良い軽食で、タイヨウもこれまで数え切れないほど口にしてきたのだ。彼女に悪意はないことはわかる。それでも自身の生活に、育った環境の一部に対してそんな顔をされ、少年は初めて少女との距離に確かな隔たりを感じた。
そしてその間にも、男の独演会は続く。
「お嬢さんは地上から来た。なるほど──しかし並の装備では次元断層を超えられない。そのスーツがきみを守ったわけだ。下層から這い上がってきたにしては損傷が少ないから、中層に落ちた。大変な思いをしたねえ。だけどそうやって生き延びたのに、どうしてこんな上層の外れで電車に追いかけられているのかな?」
「えっと、それは……」
たじろぐソラがこちらを見る。バイザーに隠されてその目は見えないが、戸惑っていることはわかる。助け舟を出すべきだ──しかし一瞬、タイヨウは躊躇した。どうして上層の外れでデンシャに追われたのか? それはタイヨウがしくじったからだ。追手への対処を誤って自らの退路を絶った挙げ句、圧倒的な脅威の前に少女を晒す羽目になった。自分が悪いのだとタイヨウはわかっている──しかしそれをこの男、タキオリに知られたくはない。
それでも一瞬の逡巡の後、タイヨウは意を決してソラの脇に立つ。少年の行動に気づいているはずなのに、タキオリは彼を一瞥すらしない。
「うん? どうしたのかな、少年。僕はお嬢さんと話しているんだ。きみには用はないと言わなかったかい」
「ソラは疲れてるんです。色々あって……怪我もしてる。質問があるなら、まず僕が聞きます」
「きみが? おいおい、冗談は止せよ。一体何を知ってるっていうんだ?」
そこでやっとタキオリは首から上だけを動かして、少年を笑顔で見下ろした。それほど背は高くないはずなのに、その圧力は奇妙なほどに強い。カケアミとして日常的に上層の商人と渡り合ってきたタイヨウから見ても、タキオリの纏う雰囲気は明らかに商売を生業にする者のそれではなかった。丸眼鏡の奥の歪んだ瞳は、底知れない淀みを湛えている。思わず目を逸らしそうになり、それでも何とか踏みとどまって睨み返すことができたのは、単なる意地によるものだった。失敗続きの自分に対する怒りと焦燥の裏返し。
睨み合いはそう長くは続かず、突然タキオリが視線を外した。それはまるで少年の底を見透かして、興味を失ったかのように。
「まあいいさ、大方の予想はつく。上層に上がろうとして面倒事に巻き込まれたんだろ? どうにかしてここまで逃げてきたものの、電車に出くわして危機一髪。つくづくボクがいてよかったねえ? 危うくバラバラにされるところだった」
「それは──"逸れ"が出てくるなんて思わなかったんだ! ダイヤ通りなら安全なはずで」
「うん? 回帰個体がこのあたりに来たなんて話は──いや、そうか。きみは祝日を知らないんだな」
「シュク……なんだって?」
「おめでたい日ってことだよ。こっちじゃもう忘れ去られた概念だ。こういう日にはダイヤが切り替わって、電車の通過する間隔も変わる。あれはいわゆる"逸れ"なんかじゃなく、ごく普通の電車に過ぎない……まあ、きみが知らないのも無理はないよ、少年」
──だって地下生まれなんだから。
そう言い切られて、タイヨウは二の句を継げなくなる。そんな少年の様子を完全に無視して、タキオリは再びソラに向き直った。
「わざわざ上層を目指しているとすると、目的は食糧じゃあないな。技術者か医師かはたまた政治家か。お嬢さんは若いし顔色も悪くない。スーツがどこか故障して、それを直すために来たのかな?」
「……ええ。私が、タイヨウに頼んで」
「なるほど、なるほど──でも残念だけど、それは上層に行ったからって直せるようなものじゃないよ」
「──!」
軽快かつ明瞭な語りで、タキオリはなめらかに断言する。タイヨウにしてみれば、その発言は聞き捨てならなかった。死にかけながらもあと少しという場所まで辿り着いたというのに、突然ここまでの努力に意味はないと否定されたのだ。一瞬の衝撃から覚めるなり、タイヨウは歯を食いしばって男をねめつけた。対するタキオリはといえば、相変わらず視線を合わせる気すらない。
「アンタに何がわかるんです。やってみないとわからないでしょう」
「ま、止めはしないさ。若者は身を以て体験することも大切だ。けど──」
適当にタイヨウをあしらって、タキオリはソラにぐっと顔を近づける。
「昔とった杵柄というやつでね。ボク自身、ほんの少しだがスーツについて知っている。預けてくれれば一部の機能は回復できるかもしれない。それに」
丸眼鏡の奥で瞳がぎらつき、バイザーに隠れて見えないソラの表情を伺おうとする。少しずつ早口になる口調は、男の興奮を物語っている。それはまるで長年の悲願を前にして、感情が抑え切れないとでもいうような。
「ここからは少し遠くなるが、ボクよりもっとそのスーツに詳しい人間の居場所を知っている。彼のもとに案内してあげてもいい。そうすれば地上に帰れるよ。実はボクも地上に用があってね、長いことこの薄暗い場所から出ていく手段を探しているんだ──どうだい、お嬢さん。きみさえよければ、一緒に地上を目指そうじゃないか」
あまりにも唐突で怪しすぎる提案──しかしソラがこちらへ視線を動かそうとして一瞬固まるのを、タイヨウは見逃さなかった。それは恐怖や怯えではなく、彼女の性格を考えれば、むしろ希望とそのための逡巡を示していた。目の前の男、謎めいた存在ながら明らかに深い知識を持つ人物による協力の誘いと、何も知らずに危機を招いた少年のそれを比較して、どちらがより現実的に目的を叶えられるかという、合理的な迷い。タイヨウがソラの立場であったとしても同じような比較をしただろう──ただ、漠然とした不安と不快感が腹の底からこみ上げてくるのは避けられなかった。
だから張り上げた声がどこか尖って、攻撃的な響きを含んでいたのは仕方のないことだ。
「適当なことばかり言うのはやめてください! アンタ、中層であることないこと言いふらしてる余所者でしょう。助けてくれたところを悪いですけど、僕らはもう出発します」
「タイヨウ?」
「──へええ」
それ以上ソラが狂人の言葉に惑わされないようにと考えての、できる限りの大声だった。戸惑ったようにソラがこちらを見る──そしてこれまでは少年のことなど碌に見もしなかった丸眼鏡の奥の瞳も、ぎょろりとこちらに視線を向けた。張り付いたような笑み。
「ボクは事実だけを言ってるつもりなんだけどねえ。きみはボクを信用できないって? 道理ではあるけど、ボクに何か関係あるかな?」
「なんだと?」
「当たり前だろう。ボクはこのお嬢さんと話をしているんだよ、きみにじゃない──それともきみも地上に行きたいのかい? ボクやお嬢さんの仲間なのかな?」
「な──」
それはタキオリからしてみれば、なんてことはない単純な牽制に過ぎないものだったのかもしれない。しかしその言葉の意味を理解したとき、タイヨウは肺の中の空気が一瞬で冷えるように感じた。地上に行きたいかだと? ソラではなく、自分が? 新宿駅で生まれ育った、大ウツロ以外を知らない僕が? そんなこと、考えることすら馬鹿馬鹿しい問いだ。
一瞬の思考停止と逡巡。タキオリが僅かに目を細める──しかし、少年の腹の中に込み上げてきた感情は、彼自身にとってもあまり馴染みのないものだった。
「──そんなわけ、ないでしょう」
怒りだ。無責任な夢に対する怒り。否定の意志が勢いよく喉を滑り落ちる。それは象徴的な言葉だった。地上に行きたいのか、だと? それに答えることは簡単だ。これまでの質問で最も容易い。
「ソラ、行こう。上層はすぐそこだ。こんな奴の言葉を真に受けるより、まずは確実な手段を試そう」
「え──う、うん」
噛み締めるような強い語気に困惑しながらもソラが頷く。タキオリは静かに首を傾げたが、やや時間を置いて薄く笑った。なんの感情も含まれていない、その場しのぎの機械的な笑顔。先程までの圧迫感は霧散し、そこにいるのはただの痩せた中年だ。
「信じてもらえないのは残念だが──まあ仕方ない。ボクはしばらくこの辺りにいるから、頼りたくなったら来るといいさ。若いうちはやりたいようにやりたまえ」
「何を偉そうに。地上へ行くなんて公言するろくでなしは、信用に値しませんよ」
「ふうむ? まあ実際ボクはろくでなしだが、それとこれとが関係あるかい?」
「大有りです。そういうことを言うやつは、周りの迷惑も考えないで出来もしない理想を追いかける、くそ野郎ばっかりだ」
「確かに、それは真実だ」
得心したとばかりにタキオリは何度も頷く。お帰りはあちら、と示された方角には、掘削作業用の通路だろうか、上方向に傾斜する通路が見えていた。冷めた怒りに身を任せてタイヨウは大股で歩き去り、その後方をわずかに足を引きずりながらついて行くソラが、申し訳なさげにタキオリに手を振る。
三人がいたのは広間の端で、少年と少女が横穴から出ていくのにそれほど時間はかからなかった。白いスーツの後ろ姿を見守って、タキオリは小さく息をつく。トロッコの荷台に寄り掛かると、物陰に隠れていたゴキブリがまるで心配するかのように顔を出した。大人の手のひらを埋めるほどのサイズ──昔はひどく恐れていたこの種の生物にも、今ではそれほど嫌悪感は湧かない。
貼り付けた仮面は既に剥がれていた。彼は小さく、誰に言うでもなく、彼自身の言葉を繰り返す。
「──スーツに詳しい人間を知っている、一緒に地上を目指そう」
釣り餌だった。それは彼の執着だ。かつて己の手で消してしまった輝きを、しかしそれ自体を餌にして釣り上げ、もう一度輝かせんとする。身勝手で矛盾し、欺瞞に満ちた提案だ。再び彼に浮かんだ笑顔は、今までのそれとは違って自嘲的で、それゆえにあまりにも人間らしい、心からの自然な笑いだった。
「まったく、どの口が言うんだか」
何かの転がり落ちる音が、彼の笑いを拒絶する。トロッコの荷台の上のガラクタは無理に積み上げたせいで山となり、小さな綻びで容易に崩れ去るだろう。現にそれは小さく左右に揺れて、ゴキブリの足元で崩れ始めている。微かなため息をついて、彼はトロッコをぐいと押した。
*
夕暮れだった。太陽が大ウツロの直上に存在している時間は限られるため、いかに新宿駅上層といえども薄暗い時間のほうが長い。二人が上層に辿り着いた頃、既にその明るさには陰りが差していた──しかしまだその光が消えないうちに上層を後にすることになるとは、少年には思いも寄らないことだったろう。
静かに項垂れて、タイヨウは暗い横穴を歩く。その背中は病人か盲者のように丸まって、目は足元の古びたタイルの凹凸ばかりを捉えていた。少し後ろを行くソラは何も言わない──そこがかつての地下道の遺構であることを知らせる壁の赤ランプが静かに明滅し、二人の足取りはその赤と黒の間隔よりもずっと遅い。行きの道中よりも遥かに安全で穏やかな行程にもかかわらず、二人は凍えそうな心持ちだった。
失敗──その二文字が少年の脳を支配する。
結局、ソラのスーツは、上層のどの機械屋でも修理できなかった。報酬が足りない、などという理由ならまだ納得はできただろう──しかし問題はもっと深刻だ。最初に訪ねた、新宿駅一を自称する馴染みの機械屋との会話を思い出す。
「この機械は俺には直せない。ひと目見ればわかる。弄る気にもならねえ」
唸りを上げる巨大な発電機と浄水装置の間に挟まれて、機械油の染み付いた鼻面を掻きながら、年老いた店主は眉を顰めた。修理の腕前はともかくとして、彼はこと信用に関して言えば本当に新宿駅で一番の男だ。取引の値を吊り上げるために嘘をつくような人物ではない──暗澹たる思いに駆られながら、それでもタイヨウは食い下がるしかなかった。
「そんなに酷い故障なんですか」
「外見上は確かに傷だらけだが、内部はわからん──そもそも故障の程度がわかるようなら請け負ってるさ。俺もこの仕事を始めて長いが、ここまで複雑な機械は初めて見る。装甲板とその裏地がそのままひと繋がりの回路なんだぞ。動力装置の原理は謎だし関節部の材料は見たことがねえ。下手にバラしてみろ、元通りにできるかどうか」
「でも、分解と組み立てなら一度僕もやりました」
「そりゃあ設計通りの整備だろ? こっちは図面もなしの分解修理だ。どうしてもってんなら預かってやるがな、無事に返せる保証はできねえ。まだ動いてるものを鉄屑にしちまうかもしれねえが、それでもいいのか?」
「それは……」
悪いな、と申し訳なさげに言われては、それ以上何も言うことはできない。タイヨウは知る限りの機械屋を訪ね、装具師や鎧商にも声をかけた。しかしどこに行っても答えは同じだ。怪しげな伝手を持つ闇市の周旋人ですらひと目見て首を振る有様で、結局スーツを直せると宣う人間は一人も見つからなかった。
失敗だ。ここまで連れてきておきながら何もできなかった。タイヨウの心は沈み切っている。
「……ごめん。スーツ、直せなかった」
「いいよ、気にしないで。タイヨウのせいじゃないし、まだ動くから」
「でも、直せないと君は──家に、帰れないんだろ?」
「…………」
絞り出すような少年の謝罪に、ソラは首を振る。けれどそこまでが少女の限界ではあった──壁にぶつかったのは彼女も同じであり、それ以上タイヨウにかけられる言葉は持ち合わせていないのだ。
実際のところ、事態は深刻だった。地上から落ちてきたばかりの少女は、この異様な空間についてほとんど知識を持たない。それでも、生身の人間が地下で生き残ることがどれほど困難で危険を伴うのか、これまでの短い時間で思い知っている。過酷な環境、暗闇に潜む脅威、そして飢えた人間。スーツの力がなければ生きていくことすら難しく、しかもその上に地下を脱出するとなれば──スーツの機能が万全の状態でも分が悪い賭けと言わざるを得ない。しかし、まずは修理をしないことには、スタートラインにすら立てないのだ。
遮るもののない空が遠いことが、実感として肩に伸し掛かる。重い空気を紛らわすように、少しでも希望を見出すために、少女は努めて明るい声で問うた。
「ねえ、タイヨウ。これまで地下から出られた人って、いるのかな」
「少なくとも、僕は知らない。出ようとして──いなくなった人なら、知っているけど」
少年が一度言い淀んだのは言葉を選んだからだ──死んだ人、と口にするのは憚られた。地上で生まれ、ただ故郷に帰ろうとする少女に対して、その未来を暗示する言葉として告げるには不適当だろう。それに実際、いなくなったという表現の方が、残された者の認識としては適切だ。地上への脱出を目指した人間の死体が見つかるのは非常に稀なことで、死んだという言葉の上には"おそらく"が常に付いて回る。肥えたワニや細切れになった衣服、闇市に出回る傷だらけの日用品を死体に数えないなら、の話だが。
タイヨウのような子供を含め、地下の住民が皆知っていることはひとつだ。彼らは帰ってこない。おそらくは永遠に。
ふと目を上げれば、ひび割れたタイルによって舗装された通路遺構は二人の眼前で唐突に終わり、ボロボロになった別の通路が一段高くなって先に通じていた。大人の腰の高さほどの段差には境界面の地層が見えていて、強烈な横向きの力によって地盤が断裂したことを物語る。"浅い"駅につきものの地殻変動は新宿駅上層でも活発で、この段差も数ヶ月前にはなかったものだ。タイヨウは小さくため息を吐いて、登ろうと上段に手をかけた。
腕に力を入れ、一気に身体を引き上げる──だからソラが言葉を発したとき、彼女の顔をタイヨウは見ていない。
「やっぱり、地上に出たい人はいるんだ」
「そりゃあね。年寄りには地上生まれの人もまだ大勢いる。僕は地下生まれで、そういう人の気持ちはよくわからないけど」
「──本当に? 本当に、よくわからないの?」
その問いは僅かに咎めるような響きを含んでいた。それに気付かないふりをして、少年は服についた砂埃を払う。
「当たり前だよ。僕は地下生まれで、この駅にねぐらがある。何より──地上を目指すのは危険だって、よくわかってる。地上に出たいなんて、思うわけないじゃないか」
地下の住民がその言葉を聞いたなら、程度の差こそあれど皆が首肯してみせただろう。しかしソラには疑わしく聞こえた。彼女の希望を叶えて上層まで連れてきてくれた少年が、今になってそれを否定している。彼の声は奇妙なほど明るくて、先程までの落ち込みようからすれば、空元気という他にない。
何よりも、タキオリとの会話で見せた拒否反応。あの商人がどれだけ怪しかったとしても、あの反応はいささか過剰だった。ソラにとってのタイヨウは、慎重だが社交的な少年で、あのような礼を失する態度は気がかりだ。タキオリへの強い拒絶は会話内容に理由があるはずだった──地下の人間による地上脱出、それに対する忌避の感情。地上を目指す少女にとってそれはどうしても気がかりで、口に出して訊かざるを得ないものだった。
「だけどあのとき、地上に行きたいかって聞かれて、あなたは──」
「この話は止めにしよう」
それはおそらく、少年が少女に対して見せた、初めての明確な拒否の姿勢だった。目を丸くするソラに対して、段差の上で向き直ったタイヨウの笑顔はどこか硬い。
「君が地上に帰れたらいいなとは思ってる。でも僕が行くわけじゃないんだ。僕がどうしたいか、なんて関係ない話だよ」
彼は微笑み、段差の上から、下にいるソラへ向かって手を伸ばす。まだ大人になりきらない少年の手は、いくつものタコや擦り傷に彩られ、油染みで茶色に汚れている。ソラの傷一つないそれとは違う、地下で生き残ってきた者の手だ。
「ねぐらに戻って、それから網を張ってさ、気長に待とうよ。住む場所を探して、このへんの暮らし方を学ぶんだ。待ってたら何かいいものが──それこそ代わりのスーツとかが、降ってくるかもしれない」
──僕らはそうやって生きてきたんだ。
その言葉はひどく空々しく響き、二人の間に滑り落ちていった。少女は差し出された手を取らず、じっと少年の顔を見る。ランプの僅かな赤色を除いて光源のない通路の中、細かい土埃と揺れるランタンの火で、彼の青い瞳は曇り空のようにくすみ、影の差し掛かる笑みは歪んでいた。
少女は考える。何を言うべきか、何をするべきか。そして結局、考える前から答えは決まっている。
「私は、待つだけは嫌」
「……待つだけだって?」
笑みが消えた。伸ばされていた手が引き戻され、少女は静かに目を細める。
「そんな言い方、してほしくないな──網を張って待つのにだって苦労があるんだ。それだけやってれば生きていけるわけじゃない。必死なんだよ」
「わかってる──タイヨウが今まで頑張ってきたことは否定しないよ。だけど、そうやって嘆いていても何も始まらないと思うから」
本当はもっと語気を抑えるべきだったのだろう。つい昨日知り合ったばかりの、それも命の恩人の少年に投げかける言葉ではないと分かっていた。それでも、少女には少年の言葉を肯定する選択肢はなかった。もし彼の提案を、"新たな希望の訪れを期待して待つ"という発想を受け入れて、彼の手を取りこの段差を登ってしまったのなら、自分自身にもそして少年にも、諦観という重い足枷が嵌められて身動きができなくなるように思えた──それは間違っているという強力な確信が、彼女を突き動かしていた。
それを傲慢であるということは容易い──しかし未だ10代の少女にとって、それは自らが信奉する哲学そのものだ。
「挑戦するのが怖いって気持ちはわかるよ。誰も成功したことがないなら尚更──でも、こんな場所でずっと待ち続けるより、私は自分から行動したいの」
「何だよそれ──僕らが怖がって、何もせずにいるって? そんなわけないだろ! 精一杯努力して、それでも何も変えられないんだ!」
「努力してないなんて思ってない! でも挑戦し続けなきゃ何も」
「──地上生まれの君には、分かるわけないよ」
怒りに吐き捨てるような──あるいは苦しみに呻くような言葉。二人の間に沈黙が落ち、耐えかねたソラが視線を落とす。互いに口にしてはいけないことを言ったのだと理解して、しかし互いの間にある溝を、どう埋めていいかわからずにいた。タイヨウは小さく息を吸い込んで、もう一度手を差し伸べる。和解のためとはとても言えない、自分のための仕草──後ろ向きの、わずかな希望。
「ねえ、ソラ。今日はもう帰ろう」
どうにか矛を収めてくれないだろうか──そんな僅かな期待を込めての言葉だった。しかし、少女は肩を落としながらも、頑として首を縦に振らない。
「まだ諦めるには早いよ。タキオリさんのところに戻って話を聞こう」
「──は?」
タイヨウが漏らした声には、驚きや困惑よりも明らかな怒気、そして呆れが含まれている。
「もしかして、あの狂人の話を信じてるのか? あいつについていけばスーツを無事直せて、地上への道も見つかるって?」
「信じてる、ってほどじゃないよ。でも確認する価値はあると思う」
ランプの炎の揺らめきに照らされて、橙色の瞳が輝く。暗がりに舞う塵芥を貫通して、その光はタイヨウを真正面から見据えている。
「どんなに小さな可能性でも、試してみなきゃ始まらない。まだできることが残っているうちは、私は諦めたくないの──タイヨウだって、地下の生活は嫌なんでしょ? だったらここに留まるだけじゃなくて、私と一緒に地上を目指そうよ」
それは掛け値なしの本音であり、彼女の心からの熱意と善意の発露であり、ソラという少女を支える信念に根ざした提案だった。しかし最後の一言に、タイヨウがあからさまに眉を顰め、口を固く結んだのをソラは見た。青い目が攻撃的な色合いを帯びる──強い怒りと、僅かな悲しみ。
「冗談でしょ? あいつはどう考えても狂ってる。トンネルを彷徨ってるうちにおかしくなって、妄想と現実の区別がついてないんだよ。地上になんて出られるわけがないんだ」
「でも私はそうしなきゃいけない。タイヨウこそ、どうしてそんなに無理だって決めつけるの?」
「地上に出るって言って、結局ダメだった実例を知ってるからね」
「それは……悲しいことだけど。だからって、タイヨウが諦めなきゃいけない理由には──」
「それが自分の父親の話でも?」
皮肉げに口角を上げた表情は、まだ幼さが抜けきらない少年にはあまりにも不似合いなものだった。上層の風洞から吹き降ろす夜風がランプの灯を揺らし、壁に伸びた影が不気味にのたうって、二の句を継げないソラの横で踊る。
「父さんは地上生まれだった。必ず地上への道を見つけて戻るって、まだ小さかった僕を言いくるめて、冷たい穴の中に置き去りにしたんだ。僕はずっと信じて待ってたのに、何年経っても便りのひとつだって寄越さない。どうせ、そこらで野垂れ死んだに決まってる」
だから無理なんだよ──吐き捨てられた言葉が影の中に溶けてゆく。継ぎ接ぎの背嚢とありったけの装備に身を固め、暗いトンネルの中に消えていく大きな背中を見送った、幼い日の記憶が彼を突き刺す。帰らぬ父を待つ日々が、お荷物でしかない孤児を眺める大人たちの冷酷な視線が、飢えと寒さと降り注ぐ瓦礫が、巨大な暗色の天蓋となって少年の頭上に覆い被さり、少女の燃え盛る瞳を遮る。骨身に染み付いた無力感──あまりにも当然であるがゆえ、もはやそう言語化する者もいない、地下世界における当然の前提。
地上には決して辿り着けない。
「この地下で本気で地上へ行きたいなんて言うやつは、みんな頭がおかしいんだ。タキオリだって同じさ。あいつらは努力して普通に暮らすのが嫌なんだ。自分から死にに行ってるんだよ。君はそれに気づいてないだけさ」
「そんな──でも、分からないよ! 見ず知らずの私たちを助けてくれた。確かにちょっと変な人だったけど、話を聞いて、それから判断しても」
「僕がこれだけ信用できないって言っても、君は聞いてくれないんだね。あいつの話は信じるのに」
「それは」
タイヨウは冷たく笑う。まさに眼前にあるはずのソラの動揺と困惑が、どこか遠いことのように思える──これだけ言葉を尽くしたというのに、それでも狂人の戯言にこだわるソラの頑固さへの失望と、彼女が自分よりもタキオリの言に重きを置いたことへの反感と、叶うはずのない夢想を追いかけている狂人たちへの軽蔑と、失敗続きでちっとも良いところがない自分への羞恥とが、奇妙な化学反応を起こして入り交じる。
少年はひどく感情的になっている己を自覚した──このまま衝動的に何か言ってしまえば、取り返しがつかないことになるとわかっていた。しかし、既に彼の口は開いていて、そしてそれを噤む気にはなれなかった。
「でも君の言いたいこともわかるよ──僕は結局、君をちゃんと逃がすことができなかったから。ここまで連れてきてスーツも直せなかった。使い物にならない案内人なんかより、妄想野郎のほうがいくらか信用できるってね!」
「──そんなこと、言ってない!」
「でも、少しくらいは思ってただろ? いいんだ、隠さなくて」
いつになく投げやりな口調。自分は何故こんなことを言っているんだろう──どこか冷静にそう思いながら。
「君との縁なんて、たまたま君が目の前に降ってきたってだけ。そもそも上層を案内するまで付き合う、って話だったよね。いいんじゃないかな、最初の約束は果たせたし──僕たちはここまでだ。頼りにならないガキの忠告なんか無視して、あの狂人と好きなように馬鹿をやるといいよ」
「……何、その言い方?」
ソラの瞳が燃える。これまでの決意を宿した色とは違う、激情に揺れる力強さ。低く押し込められた声色はこれまで聞いたことがないもので、込められた怒りと悲しみの深さに、タイヨウは内心の動揺を押し隠す。
「──そう。そうだね。あなたの言った通り、私達なんてたまたま降ってきただけの縁。別にあなたに言われなくたって、ここでお別れだよ」
「ああ、さよならだ。もう二度と降ってくるなよ!」
拒絶の言葉はどちらともなく吐き出された。二人は同時に互いへ背を向けて、肩を怒らせ早足で歩き出す。地殻変動が捻じ曲げた通路が二人の間を遮って、まもなく二人は一人と一人になった。
遠ざかる少年の足音を、集音センサーが克明に拾う。振り向くことができない少女は、立ち尽くしたまま小さく呟いた。
「──どうして、立ち止まってくれないの」
先ほどとは人が変わったようなか細い声──それは狭い通路の壁にぶつかり、反響することなく吸い込まれていく。そうして、終ぞ少年に届かないまま、遠くを走り去るデンシャの地響きが、小さなさざめきを掻き消した。
*
何度も歩いた地下通路の終わりが、今日だけはひどく長く感じられた。
横穴よりも少し幅のある、それでも大の大人がすれ違うには狭い、そんな空間だった。かつては駅の一部、おそらくは補修用のトンネルだったのだろう──劣化したコンクリート舗装が辛うじて残る地下道はひどく歪んで曲がりくねり、足元は土埃と砕けた舗装の破片に覆われている。タイルや鉄筋、時には階段すら無秩序に埋もれた天井の岩盤は激しい凹凸を作り出していて、幾度も頭をぶつけそうになる。
「これでよかったんだ」
そう自分に言い聞かせながら、少年はぼんやりと帰り道を歩く。右肩に掛けた畳んだ網の僅かな重さを除いては、身体の感覚すら曖昧だ。ランタンの灯火が投げかける影が狭い通路を不安定に揺れて、否応なしに先程の会話を少年の脳裏に再生する。
どう考えたって悪いのはソラだった。それはタイヨウにとって明らかな事実だ。諦めたくないだなんて妙なことを言って、狂人の思い描くありもしない幻想にしがみつくのは馬鹿げている。彼女がどれだけ優秀で、彼女のスーツがどれだけ強力か、この短い期間でタイヨウは思い知ったが、それでも無理なものは無理だ──地上に帰るなんてできっこない。頭の上には硬い天井があって、分厚い岩盤が全てを押さえつけている、それが世界の常識なのだ。
黒と白の斑になった天井を仰ぐ。少女のこれから先の行く末など、もはや関係ないはずだった。それでも彼女のことを心配してしまう自分がいて、そのこと自体が腹立たしく思えた。危機に際しての的確な判断力と行動力、未知の環境をも乗り越えるスーツの生存性、そして明確な目的意識。この新宿駅でソラには敵などいないはずだ。線路で襲撃を受けたときだって、ソラ一人なら横穴に逃げ込む必要すらなく賊を相手取れたはず。足手まといになる少年が消えた今、少女の邪魔をできる者はいない。
別れてから経過した時間を考えれば、彼女は既にタキオリのいた場所に着いてしばらく経つ頃だ。新宿駅の中層はほとんど迷宮と化しているが、タキオリと出会った大広間はあの地下通路を戻って少し外れた場所にあり、スーツの補助を受ける彼女には到底迷うような距離ではない。自動マッピング機能がどうのこうのとわけのわからない単語を聞かされた昨日の会話を思い出し、意図せず溢れた笑みを飲み下す。
彼女と会うことはもう二度とない。
「──だから僕には関係ない。もう関係ないんだ」
「何が関係ないんだい?」
奇妙な抑揚の掠れ声──それはまたしても背後から聞こえた。数時間前のリフレイン。少年は反射的に飛び退きながら、背後の暗がりへと目を凝らす。
「……タキオリ!?」
「ヤアヤア少年。また会ったね」
元気だったかい? と浮かべる笑みは軽薄そのもので、汚れた丸眼鏡の向こうの瞳はぎらぎらと怪しく輝いている。狭い地下道で相対すると、その異様な迫力は数割増し。前触れもなく突然現れた男──その周囲に他に人影はない。タイヨウの胸に言いようのない不安がこみ上げる。
「なんで、こんなところに。ソラは?」
「ふん、きみと一緒じゃあないのかな? そうだとすると困るなあ」
「どういう意味だ──ソラはアンタに会いに、さっきこの道を戻ったんだぞ」
「そいつはおかしい。ボクはお嬢さんが現実に打ちのめされて戻ってくるのを期待していたんだが、これがどうして中々やってこないものだから、まさかきみに説得されて大人しく一緒に帰ってやしないかと、心配で迎えに来たんだよ。この道を大急ぎで一直線に」
こんな道幅ですれ違えると思うかい? そう言って手を広げてケラケラと哄笑──まるで落ち着きがない様子ながら、その目は決してタイヨウから離れない。ぐるりと視線が一回転し、タイヨウの頭から爪先まで睨めつけて、そしてやにわに大きく頷く。
「ああわかった──喧嘩したんだろ。ボクのところに来るとか来ないとかで、お嬢さんと揉めたんだ。若さとは時に残酷だね」
「……」
少年は思わず舌打ちし、男の笑みが更に深くなる。異常なほどの察しの良さ──頭の回転の速さだけでなく、機械屋でスーツが直せないことを前提に、ソラが自分を頼ることを想定した行動。まさか単なる誇大妄想狂ではないのだろうか? そんな馬鹿な、と思いつつ、タイヨウは必死に思考を巡らせる。この奇妙な男がここにいる、それはいい。問題はその周囲に誰もいないことだ。
「──アンタ、ソラには会ってないんだな?」
「そう言ったとも。行き違いになったら大事だからね、中層へ降りる経路のうち、最も線路への依存が少ないルートを選んだ。近道もなしに急いできたが、お嬢さんとは行き合っちゃいない」
「だとすると……」
不安がより強くなっていく。ソラは道をわかっているはずだ。タキオリが大広間からまっすぐこちらに向かってきたのなら、二人はどこかで必ず出会う。事情があって横道に逸れない限り、地下道の中でスーツの巨体を見逃すことは不可能に近い。あの単純な道で迷ったのでなければ──面倒事に巻き込まれたか。
真っ先に思い浮かんだのは、行きで出会った東京訛りの襲撃者たちだった。少年の顔に僅かな不安の色が浮かぶ──男はそれを見逃さない。
「あの子に何かあったようだね?」
困ったように額に手を当てる仕草──その表情はちっとも困っているようには見えなかった。早く助けに行かないと、と言おうとして、タイヨウは出掛かった言葉を飲み込む。先程の独り言が縄のように絡みつき、少年の足を竦ませる。
僕には関係ない。
「助けたいなら、アンタが勝手に行けばいい。僕にはもう関係のないことです」
湧き上がる不安を押し隠すように、少年は男を睨みつける。明白な拒絶の所作までは予想外だったのか、タキオリが小さく口笛を吹いた。
「ふうん? これは予想外だ。きみが関係ないこと自体に異論の余地はないんだが、あれほど庇っていた相手にそこまで冷淡になれるとは。相当にひどい喧嘩だったのかな?」
「うるさいな──僕が行ったって足手まといになるだけですよ。デンシャに轢かれかけたのだって、元はといえば生身の僕がいたからだ。また余所者に襲われようが、ソラならスーツの力でなんとかする。アンタが助けに行くまでもない」
「ううん? ああ、なるほど」
そういうことか、とタキオリが唇を噛む。思案するように斜め上を見上げる様子は、どこか悩んでいるように見え──数秒後に戻ってきた視線には、どこか酷薄な色が浮かんでいる。
「ようやく理解できた──どうやら君は酷い勘違いをしているようじゃないか。きみたちが僕のところに来た時点で、あのスーツは動くのもやっとの状態だったろう?」
「は? 何を適当なことを。スーツは何事もなく動いてたし、ソラだってまだ平気だと」
「きみねえ、万全の状態ならともかく、熱で何日も寝込んだ後の病人が歩けるようになったからって、すぐに全速力で走れるようになると思うかい? いくらSRA一体型とはいえ、民生用ダウングレードのマークXI現実潜航殻は次元断層のド真ん中を単独航行するようにはできてないんだよ」
「何を──」
「どうせ戦術機動もやってるんだろう。バッテリーが限界でセンサー類も死んでる、パワーアシストを入れ続けたら駆動機が持たない。落ちてきてから充電と冷却なしとすれば、彼女はすぐに歩くこともできなくなる。わかるかい?」
──あれはすぐに棺桶になるんだよ。
タキオリの言葉は不気味なほどなめらかに、美しい発音で少年の耳に届いた。タイヨウの体が小さく震える。奴は今なんと言ったんだ? 受け取った情報を処理しきれずに、それでも少年は思考の空白から無理やりに言葉を押し出した。自分の失敗を認めないための、自己防衛にすぎない言葉。
「アンタは……アンタは信用できない。また適当なことを言って、僕を騙そうと──」
「きみに嘘をついたってボクには何の得もないと思うがね?」
それまでの口調とは打って変わって、男の声色は淡々としていた──それは少年の意固地を崩すように、敢えて調整したトーンだった。それに効果があったことは明らかで、少年は呆然と立ち尽くしていた。視線が足元に落ちる。絞り出された声は今にも泣き出しそうに震えていた。
「僕は……僕はそんなつもりじゃ……」
小さく肩を震わせる少年──後悔か悲嘆か自己憐憫か。タキオリからしてみれば、これほど無価値な情動も珍しい。やはりただの子供だったのだろうか? 張り付いた笑みの奥で溜め息をついて、男はこの後の行動を考える。スーツの所有者を追いかける傍ら、現地協力者であろう少年にもほんの僅かながら可能性を期待していたが、どうにも無駄足のようだった。眼の前にいるのは地下生まれの凡庸な少年に過ぎない。取れる限りの情報を得て、速やかにスーツを探さねばならない。
「少年、残念ながらきみの言い訳を聞いている時間はなくてだね。それより彼女に降り掛かった厄介事の詳細を──」
啜り泣くだけの子供は見るに堪えないもので、男は心底嫌そうに頭を掻く。しかし視線を外そうとした刹那、少年は勢いよく顔を上げた。
その頬に涙の痕はない。少年は息を大きく吸って、そして吐く。大きいとは言えない拳を握り締め、頷き──そして突然走り出し、タキオリの脇を通り抜けて、暗い通路に駆け出そうとした。
「おいおい、ちょっと!」
何か考えてのことではなかった。咄嗟に、反射的に、タキオリは手を伸ばしていた。寸でのところで、ボロ布を繋ぎ合わせた薄い服の首元に指を引っ掛ける。振り返った少年の大きな瞳は、まるで大空のように青い──その色は、男にとってひどく見覚えがあるものだ。いつかの景色、苦難の中に希望を語る、ある男の面影が想起される。動揺に目を見開くタキオリに対して、首根っこを捕まえられた少年は中空に吊り下げられながら喚く。
「離せ! 邪魔するな!」
「……もちろん邪魔をする気はないが、しかしね。大人として若い子に伝えるべき、大事なことを思い出したんだ」
「説教してる場合か! 僕のせいでソラが──」
「大事なことだからよく覚えておくんだ」
軽い身体を力任せに引き寄せる。手足をばたつかせるのを無視して少年を無理やり抱きかかえると、タキオリは大股で歩き出した。上層とは反対方向に数十歩──グッと片足を上げるなり、叩きつけるように踏みつける。土埃が舞い、目の粗いコンクリートで舗装されていたはずの床面から、何かが回転しながら飛び上がる。
「何事にも近道はあるってね!」
軽い音を立てて、木で作られた大きな丸蓋が跳ね上げられて床に転がった。代わりに、タキオリの足元には大人が数人は通れるほどの黒々とした穴が空いている。突然のことに反応できないタイヨウを抱えたまま、タキオリは暗い穴に飛び込んだ。
*
暗晦。少女が身を潜めているのは、幾重にも重なる配管の陰だ。元は車両用の誘導路であったろう広大な地下空間は、複雑に曲がりくねり相互に絡みつく無数のパイプに大部分を占領されている。ある場所では大きく膨れて癒合し、またある場所では萎んで押し潰れた金属管の群れは病んだ茨のように縺れて、ひとつながりの歪な壁を形成する。
自己複製能力を得た駅構造は地下においてさほど珍しくなく、地上の事物で喩えるならば成長の早い雑草のようなものだ。だが地上生まれの少女にとっては、不規則に蒸気を噴き出しながら不気味に撓む配管の陰で周囲を伺うその時間は、耐え難い孤独と不安を帯びている。
少年と別れてから、そう時間は経っていない。本当なら既にタキオリと出会った線路下の広間に着いているはずだった。どうしてこんなことになったのだろう──なぜ自分はこんな薄暗い場所で怯えているのだろう? 遣り場のない焦燥に思考が走る。
数十分前──スーツに記録された地形図を頼りに、少女は一人で上層への道を進んでいた。
──もう二度と降ってくるなよ!
最後に投げつけられた言葉が、脳裏に延々と木霊している。どうしてそんなことを言われなくてはいけないのだろう? 怒りと悲しみに突き動かされ、乱暴に足を進めながら少女は考える。自分だって好き好んでこんな場所に降ってきたわけではない。自分に責任がない、とは言い切れないけれど、たった一人で地下に放り出されているのは偶然による事故だ。なぜならば──東京の地下にこんな広い空間があるなんて、誰も教えてくれなかったのだから。
東京──かつての首都にして現在の廃都。少女がこの世に生を受けるより前に、既にその名前は忌まわしい災害の記憶と一体になっていた。少女は教科書といくつかの歴史資料、そして伝聞でかつての大都市を見たことがある。しかしその栄華は前触れもなく一夜にして崩壊し、後には踏み入る者全てを破滅させる次元異常と、遺体すら残せず消えた犠牲者の墓碑銘の羅列だけが残った。東京は二度と人の住める場所にはならず、そこには誰も残っていないのだと、大人たちは陰鬱な表情で語った。
しかし現実には、地下には街がある。明かりが灯され、人が生きている。地上には現実嵐が吹き荒れ、生身で踏み入れば数秒と持たずに生物ですらない何かに分解されるというのに、地下にはその暴威は届いておらず、数多の生命が息づいている。
常識的に考えればあり得ないことだ。"探京家"──東京で活動する次元交差領域探索の専門家として、彼女は毎月発行される政府の被災状況評価に目を通している。いつだってレポートの締めは同じだった。生存者なし。人類生存可能領域なし。事象収束可能性なし。
だから自分の慢心と不注意で次元断層に踏み入ったとき、彼女は死を覚悟した。史上最年少の探京家、10代半ばにして実地調査資格を得た天才少女と煽てられ、代わり映えのしない"なし"を塗り替える新しい発見を求めて単独で行動した結果だ。生存不能領域のさらに奥、次元震の中心部──中天から降り注ぐビルの群れと瞬きのたびに切り替わる座標、最新鋭の現実潜航殻をもってしても保持しきれないほどに低い環境現実性、時間すら混線する異常な世界。帰路を探して消耗した末に少女は次元の狭間に落ち込み、自らの愚かしさ故に、孤独に死んでいくはずだった。
最後の記憶は滝のように流れるエラーログの群れと猛烈な振動、急激な加速によるブラックアウト。これで終わりだと実感し、それでも死にたくないと足掻いた──次に見えたのは空色の瞳。まだ幼さの残る表情で、必死にこちらに意志を伝えてくる少年のどこか強張った笑顔。
突然降ってきた余所者で、助ける義理もなかったはずの自分を、危険を冒してまで助けてくれた。困窮ぶりが窺える細い手足で食料を分け与え、上層への案内までしてくれた。間違いなく自分にとって恩人で──だから、何か恩返しがしたかった。
タキオリとの会話でタイヨウが見せた、一瞬の逡巡のことを思い出す。地上に行きたいかどうかを問われ、彼は明らかに身を固めた。それは迷いだった──否定の前の一瞬の肯定だ。彼の話してくれる地下の事物はとても興味深かったけれど、それを語る彼の表情はお世辞にも良いとは言えなかったし、あのときの彼の視線の揺らぎには、地上への憧れが明白に表れていた。彼自身が意識していなかったとしても、彼は明らかに今の暮らしに閉塞感を抱いている。
だから、背中を押してあげようと思ったのだ。そして拒絶された。降ってきただけの縁なのだと、感謝と厚意は一蹴された。
否──タイヨウの言葉が正しいのだ。結局、偶然にも自分が彼の網にかかっただけ。それだけの関係でしかない。命を救われたことに感謝はしている──だけども、彼が望まないというのだから、これ以上彼に関わる必要もない。彼が地の底に留まるというのなら、それでいいじゃないか。もう振り返らない。私は一人でも先に進める。
思考を立て直さなければ。状況は大きく変わり、助力者を一人失ったが、それでも前を向く。それはソラが備える美徳のひとつだ──どんな事態にも足を止めない、無理矢理にでも進み続ける突破力。無意識に緩めていた歩調がまた早まり、スーツの関節部が僅かに軋む。全自動で書き起こされる3Dマップに従えば、目的地まで辿り着くのは簡単だ。
それでもなお、一人の道行きにゆっくりと不安が忍び寄る。バイザーの暗視機能を通して見たトンネルは明らかに災害以前のそれと異なる構造と延長を有していて、点々と配置された照明は遠近感を無視してどこまでも等間隔に並んでいるように思われる。行きでは聞こえていなかった雑音が、偵察のために感度を上げた集音センサーを通じて伝わる。誰もいない地下道に反響する足音──熱に変形した金属の啜り泣き──足元で蠢く虫たちの羽音──頭上から染み出す汚水の滴下音──獲物に齧り付く鼠たちの笑い声。
物理的には、先ほど通った道を戻っているだけ──しかし全く違う道だ。己の中の怯えを断ち切るべく、少女はセンサーの感度を下げた。
──だからこそ、すぐに気付けなかったのだろう。
不意の違和感。反響する足音が複数重なっていることに気づいて少女が振り返ったときには、既に男たちが背後に迫っていた。気付かれたと見るや凶器を振りかざして走り出す──咄嗟に少女はパワーアシストを全開にして横穴に飛び込んだ。音響探査機能で枝分かれした横穴の先の広さを確認し、通れないものと地下通路から離れすぎるものを排除して、ともすれば肩口が詰まりそうになる狭い横穴を走り抜ける。
追手の正体はわかりきっている。追跡に気付かなかったのは、歩幅を合わせて足音を欺瞞されたからだ。スーツによる歩行のリズムは大股で歩く成人男性のそれと大差がなく、歩調の同期は不可能ではない。とはいえスーツを初めて見る集団にはこんな芸当はできるはずがなく、したがって敵は線路で遭遇した流れ者たちに絞られる。
近距離赤外線センサーが生きていたらこんなことにならなかったのに、そう後悔しても後の祭りだ。全速力の移動にマッピング機能が追いつかず、記憶頼みで分岐を辿る。手作業で掘られた横穴は基本的に狭いため、スーツが通れる場所はそう多くない。男たちを引き離した後も、地下通路へ戻るための経路は少なく──先にバッテリーが底をついて、彼女は走ることができなくなった。
そうして今に至る。スーツを隠せる場所までなんとか歩いていくのが限界で、少女は既に疲労困憊だった。マークXI現実潜航殻は駆動系への電力投入を前提とした構造で、大の大人が着るならともかく、10代の少女が無電力で動かすにはあまりにも重すぎた。バッテリーの自然回復まで、あと半日この場所で亀のようになり、追跡者をやり過ごさなければならない。
しかし──遠くで聞こえるだけだった足音が、徐々にこちらに近づいてくる。数が多く、迷っている様子もない。地域の住民か? 否、このあたりにほとんど人は住んでいないと少年が言っていた。何かの痕跡を追われている? そんなはずはない。きっと偶然だ──
やがて少女の願いも虚しく、配管の隙間から覗く暗がりに、軽装備の男たちが現れる。先頭の男の頭部のシルエットが大きく膨れているのをソラは見た。暗視ゴーグル──足元を凝視しながら進んでいる。恐る恐るスーツの脚部に目をやると、接地面のソールはひどく汚れて、泥と氷の混じった欠片が一面にこびりついていた。道中で脚部に溜まった泥が逃走中に可動部の熱で溶けたのだ。通行できるルートの捜索に気を取られ、足元の確認を怠っていた。最悪の失態に歯噛みしつつ顔を上げて、気づく。ゴーグルの男はこちらを見ている──指さしている──男たちが走り出す。
疲労した身体に鞭打って、少女は配管の陰から飛び出した。左足が焼けるように熱い。スーツを捨てるべきだろうかと思案する──男たちの目当てがこのスーツであるなら、脱ぎ捨てて横穴の深くに隠れれば、逃げた中身のことは気にしないかもしれない。それは地上への脱出を諦めることを意味しているが、捕まって人買いに売られたら、間違いなく脱出以前の問題だ。
幸か不幸か、少女にその選択の瞬間が訪れることはなかった。数回の曲がり角の後、通路は完全に行き止まっていた。枝分かれなし、抜け穴なし。たとえスーツを捨てたとしても、逃げ込める場所などどこにもない。空っぽになった消火栓の残骸の前でソラは膝をつく。
「……そんな」
限界だった。少女の頭脳は未だ逆転の策を探していたが、怪我を押して活動し続けた肉体は既に疲労の極致に達し、一度でも足を止めてしまえばそれ以上の行動を許さなかった。内部からの支えを失ったスーツを男たちが取り囲み、縄と棒を使って縛り上げていく。
「ミウラの言う通りだ。道を知らねえ上にこの図体なら、一人追い詰めるくらいは造作もねえ」
「ガキがいないときを狙って正解だったな」
「奴はこの辺をよく知ってる。迂回されると面倒だからな──おい、関節に突っ支い棒だ。壊さねえように手足を固めろ」
スーツの四肢が抑え込まれる。ソラはなんとか抵抗しようとするが、電力を失ったスーツに力が伝わらない。
「おい、中身! 無駄に抵抗するな。その鎧が万全じゃないのはお見通しだ」
「大事な商品だ、殺しやしねえ。大人しくしてろ──テメエら、引け!」
男たちがスーツに太縄をかけ、号令とともに引きずっていく。見る影もなく倒れ伏した白い巨体は、暗がりに呑まれて消えていった。
*
光のない暗闇の中を進むとき、人間は音と匂いを頼りにする。饐えたような臭気が漂う中、何か気体が漏れる音が続くその通路はひどく不快だった。普段のタイヨウなら絶対にこんな場所は通らない。どこにガス溜まりがあるかわからないからだ──駅の遺構から漏れ出す可燃性ガスや地下火山の有毒蒸気などは匂いでわかるからまだ良い方で、風の通らない深い横穴には二酸化炭素をはじめ無臭のガスが溜まっていて、足を踏み入れれば命はない。
それでもタキオリは勝手知ったるとばかりに大股で進んでいき、タイヨウは目を凝らして必死にその背中を追いかけた。通路はそれ自体が管のような円形で、場所によってはソラのスーツが横に何台も並べるほど広く、また時には四つん這いになって手足を汚水に突っ込まねばならないほど狭い。床が歪んで波打っていることもあれば、突然大穴が空いていて、冷風が吹き出していることもある。逸る気持ちを抑え込み、慎重に進まねばならなかった。
「地上時代にここがどんな場所だったか、わかるかい」
不意にタキオリが呟いた。彼は振り返らず、通路の片側の壁を切り裂いて前方を塞ぐ植物の根らしき塊を、脇にあった金属板でぴしゃりと叩く。根塊は僅かに震えて身を捩り、空いた隙間に二人は体をねじ込んで何とか通り過ぎた。
「ここは昔、下水管だったんだ。地上の駅やショッピングモールの排水がここを流れていた。駅構造維持力は形態のみを模倣するから、本来ここは人間が素足で通れるような場所じゃあないんだが──時間が経つにつれ、駅全体が滅茶苦茶になったからね。地形の変化で本管から切断された場所は、こういう風に"枯れて"いることがある」
「全然知らなかった、こんな場所があったなんて」
「そうだろうとも──先代の駅王が死んでから、ここは地図にも載らなくなった。一歩間違えればきみたちの言うところの下水ワニやら、人喰いゴキブリだの大鼠の群れだの、面倒事が山のように湧いてくる場所なんだ。わざわざ通る酔狂はいない……さて、到着だ」
天井にかかっていた円形の蓋が外されると、上からランプの弱い光が差し込んでくる。先に上ったタキオリの手を借りてタイヨウが穴から這い出ると、そこは小さな部屋だった。タイヨウのねぐらを倍にした程度の広さの部屋には廃材を組み直した机とベッド、それから見覚えのあるトロッコ。それ以外の空間は見渡す限り、何に使うのかも定かではないガラクタで埋め尽くされている。それぞれの機械や道具には小さなメモや割札がつけられ、一応整理はされているようだった。
「ボクの拠点だ。きみたちと会ったあの場所のすぐ下にあってね、もしボクの言うことを聞いてくれていたら、あのときすぐにでも案内したんだが」
「……皮肉を言うために連れてきたんですか」
「そんなわけないだろう。これが一番の近道なんだよ」
タキオリが首を傾げる。周囲を伺い、奇妙な調子で口笛を吹くと、部屋の隅からカサカサと乾いた音が聞こえた。やがてガラクタの隙間から、手のひらほどの大きさの黒い塊が飛び出し、細い触覚を振り回しながらタキオリの肩まで素早く登る。広間でソラを怯えさせたあのゴキブリだ──今度は逃げることはなく、肩の上でじっとこちらを見ている。
「改めて紹介しよう──ペットローチのトロだ。なかなか優秀な斥候でね、普段は食料集めの手伝いをしてくれている」
「ペットローチ?」
「初めて見るかい? ペット……つまり、愛玩用に人間が飼うゴキブリだ。知能が高く人に懐く」
君たちには理解しづらいかもしれないね、とタキオリが薄く笑う。男の態度への反発というよりは、純粋な困惑にタイヨウは首を傾げた。新宿駅で育った少年にとって、ゴキブリは粉砕して食べるものだ。もしくはこちらを襲ってくる敵──とはいえ腐肉や小動物を食べる大ゴキブリは地下深くの下水管や人里離れた線路脇に棲むもので、中層では滅多に遭遇しないけれど。
改めてよくよく見てみれば、眼前の黒い甲虫は、確かに中層でよく見るそれとも線路脇のそれとも違っていた。そもそも大きさが中途半端で、触覚は長いが緩く曲がっている。甲殻には脂っぽい輝きはなく、艶のない落ち着いた色合いだ。触覚を少年と男の方に交互に向けて、距離感を測っているように見える。
「地下ではゴキブリは非常に優秀な生物資源だからね。上層や他の駅には様々なゴキブリがいる──食用だけじゃなく乗用の大型種、貨幣代わりの高級品、薬剤生産種や軍用種、中には喋るやつだっている」
「喋る、ゴキブリ……」
「電算室の連中は間違えるなと怒ってたけど、ボクらにはそっくりにしか見えなくて──失敬。とにかく、トロは頼りになる。彼を迎えるために戻ってきたんだ」
装備も色々と必要だしね──そう言ってゴキブリを肩に載せたままガラクタを漁り始めるタキオリは、行動こそ突飛ではあるものの、どう見てもおかしくなっているようには見えない。彼は明らかに理性に基づいて行動している──その行動原理と言動が、タイヨウを含む新宿駅の人間たちには理解できず、またタキオリにも詳しく説明する気がないので、これまでずっと誤解されてきたのだ。
タイヨウはまだ眼前の胡散臭い男のことを完全には信用していなかったが、先ほどの下水管の一件だけでも、彼が自分よりも多くの知識を持っていることは明らかだった。少なくとも彼には、本来上層の駅貴族しか知らないような、線路下の隠し通路の知識がある──他の駅についても詳しいようだし、スーツを直せるという彼の知人も、もしかすると実在するかもしれない。地下脱出についてはともかく、彼を狂人呼ばわりして信用するなと主張したことは、おそらく間違いだった。自分の無知と猜疑心が、ソラの目的達成を遠ざけ、そればかりか彼女を危険に曝したのだ。
今更ながらの後悔に、網を握り締めてほぞを噛む──そんなタイヨウの表情などお構いなしに、ガラクタの山から顔を出したタキオリは、何やら細かな道具をたくさん抱えていた。
「ところで少年、なにかあのお嬢さんの匂いが強く残ったものを持っていないかな?」
「匂い……?」
「ゴキブリは実に鼻が利く。特にトロは躾が行き届いていてね、彼女の装身具でもあれば、匂いをもとに足取りを追える。これだけ横穴の多い中層で行方不明者を探すなら、ボクときみだけでは話にならないからね」
ソラの匂いが残ったもの──そんなものはない。彼女と自分の繋がりはたった一日ばかりのものに過ぎず、それすら自分が断ち切ってしまった。たまたま降ってきただけだなんて、絶対にそんなはずはないのに。
タイヨウの無言に眉を上げ、タキオリが首を傾げて考え込む。
「まあ、無いものは無いよなあ。君らは中層で出会ったんだろ? 随分時間が掛かってしまうが、君の家まで行って彼女の使った寝具を回収するしかない。取りに行く間に連れ去られないことを祈るしかないが──うん?」
その疑問はタイヨウに対してのものではなかった。黒い甲虫がタキオリの肩から飛び立ち、タイヨウの頭に着地する。突然のことに身体を硬直させるタイヨウの首元を駆け降りて、ペットローチは左肩で止まった。揺れる触覚が左の上腕を緩やかになぞる──切り裂かれた上着の薄い布地から、白い生地が僅かに覗いている。
「ハンカチ?」
「……そっか。まだ、巻いてたんだ」
ゆっくりと右腕を差し出すと、トロはするりとそちらに移る。左腕から丁寧にハンカチを巻き取ると、大気に触れた傷が僅かに傷んだ。
「ソラがくれたハンカチです。僕の血もついてるけど」
「トロは賢い。問題ないとも」
タキオリがハンカチを差し出すと、ペットローチがその上に着地する。何度か触覚でハンカチを叩き、小さくその場で羽ばたいてみせた。タキオリが満足げに頷く。
「さて出発だ。もしお嬢さんを助ける気があるのなら、勝手に着いてくるといい」
「言われなくたって──!」
タキオリがトロの尻を小突くと、トロは素早く飛び上がった。半透明の後翅を広げ、滑らかな動きで下水管に降りていく──タキオリが飛び降りるのに続いて、タイヨウもまた後を追いかけた。
*
先の見えない暗闇を進む。男の研ぎ澄まされた聴覚は、地下の脈動をつぶさに捉える。後ろを歩く少年の足音、壁の向こうの水の流れ、虫の羽音と風のざわめき──しかし鳴動は突然訪れて、叫び声と金属の擦れる音が、それ以外のすべてを暴力的に塗り潰していく。タキオリは電車の音が地下で二番目に嫌いだった。いつだってアレは、苦い記憶を呼び起こすから。
その包みが最後の爆弾だった。炸裂の衝撃がトンネルを吹き荒れ、物陰に伏せていた戦士たちの傷ついた骨身を手ひどく揺さぶる。吹き飛ばされた怪物の死骸は、表層を覆う肉と甲殻が剥がれ落ち、骨とジュラルミンが入り混じった歪な骨格を顕わにしていた。人々がコレを"肉電車"と呼び始めていることを、彼らは知っている。コレが人を食い、人の言葉を話すことも。人々が身を寄せる数少ない駅が、コレに脅かされていることも。
電車──それは人間を載せ、人間を運ぶための道具だった。今では違う。崩落の後、全てが変わり、地下世界は人々に牙を剥いた。だからこそ彼らはここにいる。
重い足音。大まかに人間の形をした鋼の巨躯が、崩折れた化け物の死骸に手をかける。傷だらけの強化外骨格は、エナメル質で被甲された灰色の巨大な肉塊を切削具で強引に引き剥がした。真っ二つに裂けた死骸の向こうから、強い光が漏れている。白い、しかし白すぎない光。蛍光灯の紫がかった白とも、白熱灯の橙色とも違う、彼らの求めていた光。
まだ錆も歪みもない丸眼鏡のレンズ越しに、癖毛の青年は通路の奥を見据える。目的地が徐々に近づいてきている。幾人もの仲間を失って、多くの努力と希望が込められた貴重な物資を湯水のように使って、長い長い決死行の果てに、彼らはようやく辿り着いたのだ。
東京メトロ東西線、浦安駅。千葉県の西端に位置する地上駅。東京駅第一次遠征隊は、この場所だけを目指して進んできた。ある者は足を引きずって、ある者は動けない仲間に肩を貸して、ある者は怪我人の荷物を背負って、一行は静かに前進する。
「ようやくか」
縦に分散した隊列の中央。燃料切れの貨物車を牽く強化外骨格のスピーカーから、僅かな言葉とため息が漏れる。そこには確かな高揚があった。周囲の何人かが無言で頷く。軽口を叩く者はいない。かつてはいたが、既にいなくなった。僅かな喪失の気配を振り払うように、タキオリもまた深く頷いて、一行の先頭に立つ男に目を遣る。多くの欠員があったとはいえ、ここまで20人を超える遠征隊を率いてきた男。地上を目指す人々の中心点。
「カスガイ──路線図通りなら、この先が浦安だ。あの光が、僕たちの太陽だ」
先導者──カスガイはその言葉に振り返った。古いゴーグルを力強く持ち上げる。その手に持った携帯投光器が、彼の仲間たちの血と汗と泥に塗れた、しかし希望に満ちた顔を照らし出す。
「ああ──ようやくここまで来た。東京が全部滅茶苦茶になって、地下に逃げ延びたあの日から、待ちに待ったのが今日この時だ。あの光の先は、もう東京じゃない」
ひどく感情が昂った時、胸元で握り拳を振り回すのは彼の癖だった。蛍光灯の光を散らしながら、男は全身で喜びを表現する。雄弁で知られる指導者の子供のような仕草──しかし皆がその感情を共有している。傷だらけの面々は小さく笑って、その間にも歩みは止まらない。見る間に眩さが増していく。トンネルの向こうが見えてくる。
「さあ、進もう!」
それは、カスガイの口から幾度となく聞いた言葉だった。暗闇を切り開き、膝を折らんとする人々を繋ぎ留める、この旅路に至った原動力。調査隊の生き残りたちが拳を上げ、頷き、口々に同意する。最後の気力を振り絞って、地上への坂をゆっくりと登る──薄赤い自然光に目を焼かれながら、タキオリはふと違和感を覚える。
もはや幾日経ったかも曖昧な過去──最後に新宿駅を発つ時、大ウツロから見上げた太陽は……こんなにも、あからさまに赤かったか?
その答えはすぐさま明らかになった。
「……嘘だろ、何だよ、これ」
誰かが口にしたその言葉が、全員の心情を代弁していた。誰かが、乾いた笑いを漏らした。誰かの手からピッケルが滑り落ち、レールに激突して高い音を立てる。誰かの噛み殺し損ねた嗚咽に、吐瀉物が地面を叩く音が続いた。多くの試練を乗り越えてきた、調査隊の歴戦の戦士たち──誰もが、先に進めなかった。
長いトンネルを抜けた先には、張りぼてのように赤い空。人の気配のないホームには、百年は過ぎたかのように見る影もなく劣化して、辛うじて「浦安」と読める看板。膨大な数の崩壊した車台が積み重なって、駅舎を完全に破壊している。流れの全くない江戸川に大量のビルが突き刺さって埋め尽くし、遠景は見渡す限りの真っ平らで、市街地も海もどこにも見当たらない。
あまりにも現実味のない光景──否、それが本当に現実であるのか、確かめるすべを彼らは持たない。
懸念はあった。当初から危険は指摘されていた。新宿駅から東京駅まで、地上の全てをひっくり返す空前絶後の時空間異常。地上との通信が完全に途絶し、物理的な出口はことごとく塞がるか、出ようとした人間を挽き肉にした。だからできるだけ遠方に脱出するしかない──けれどどうして、被害が東京だけに収まるのだ? 千葉のその先、関東の向こう、それどころか日本列島や、地球上全てに及んでいるかもしれないのに?
それでも希望はあると信じたのだ。現時点の装備と人員で辿り着ける、最も遠い地上区間。都合の良い解釈だと分かっていて、それでも犠牲を払って進んだ。もし仮に地上に辿り着けたなら、皆を脱出させることができると、僅かな可能性にすべてを賭けて。
そして──その結果が目の前にある。
「進もう」
「え?」
現実を直視することができず、タキオリが静かに俯いたとき。明朗な声が、確かに聞こえた。
「進もう。この先に、生存者がいるかもしれない。しばらく歩けば、この異常な世界も元通りになっているかもしれない。一歩足を踏み出してみたからって、すぐに溶けて死ぬとは限らないんだ。まだ俺たちは何も試してない──進むんだ」
「カスガイ……いや、それは」
「俺たちが望んでいた地上は、まだ先だろ?」
彼の目は前を見据えている。頭上に輝く赤光を受けて、未だ爛々と、輝いている。いつも通りに──否、いつも以上に、その眼差しは熱を帯びていて、本人にも理由が分からぬまま、タキオリは小さく身震いする。
カスガイの手が地面に伸びる。投光器だ──彼が落としたのだ。一度は驚愕に手放したものを、しかし彼はすぐさま拾い上げた。衝撃でカバーがひび割れた投光器は僅かに明滅しながら、なおも光り続けている。
物音がした。タキオリは振り返り、静かに呻く。仲間たちが動き始めていた。一度は崩折れ、蹲っていたはずの誰も彼もが動き始めている。ある者は装備の点検を始め、ある者は怪我人を手当している。ぼろぼろの外骨格に乗り込む者や物資を車両に積み入れる者、とっくの昔に役立たずになったカント計数機やSRAの電源を入れる者までいる。統率者の言葉ただ一つで、傷だらけの人々が歩き出そうとする。
見慣れた光景だ。自分もその一部たらんと欲し、そして実際にそうしたのだから。けれど、タキオリは初めて──恐ろしいと、そう感じてしまった。
カスガイを見る。隊列の先頭、半分に割れた大盾を構える外骨格の足に寄り掛かり、彼はトンネルの端に立って赤い光を浴びている。彼の腕に包帯が巻かれていて、血が滲んでいるのをタキオリは見る。彼はまだトンネルの外に出ていない。投光器が輝いている。カスガイの目は燃えている。
今しかないと、そう思った。
「なあカスガイ、無茶じゃないか? 食料も弾薬も使い切っている。僕たちの体力ももう保たない」
「今までだって同じことだよ、タキオリ」
カスガイはこちらを真っ直ぐ見つめ返す。投光器は光り続けている。
「そもそも、現実嵐を突っ切れる装備なんてない。この先がまだ異災圏内なら、僕たちは死ににいくのと同じだ」
「装備が十分だったことなんてないさ。それでもトンネルを抜けることはできた」
投光器は時折点滅しながらも、未だ光り続けている。
「こんな事態は想定してなかった」
「そんなこと、止まる理由になるのか?」
光り続けて、消えない。
「全員、死ぬかもしれない」
「──それが?」
そしてタキオリは──自分たちを導いたその光に、どうか消えて欲しいと願ったのだ。
「███、████」
だから、彼はそう言った。カスガイの目から視線を逸らして。未知なる恐怖に染まった地上から、全員で逃げ帰るための方便を、彼は大声で唱えたのだ。
「地下へ戻ろう。遠征隊の──東京脱出青年団の、第一次脱出遠征は」
──失敗だ。
長い、長い時間が過ぎた。暗闇とその先の光を見る度に、遠い電車の咆哮を聞く度に、苦い記憶が男を揺さぶり、かつての旅の結末を思い起こさせた。
あの時、彼が投光器の灯を消して、小さく頷いた瞬間を思う。今でも夢に見る選択と、その結果について考える。
選択は正しかったのだろうか。この薄暗い地下で、彼はまさに希望の光で──しかしその光が絶頂に達したとき、自分はそれを裏切ったのだ。
頼りなく揺れるランプの灯りが、下水管を弱々しく照らし出す。隣を駆ける少年の瞳のきらめきは、記憶の底のあの景色に重なる。
もう一度、あの輝きが見られるなら──どのような代償も惜しむまい。
男は静かに笑みを浮かべた。かつての統率者とは似ても似つかない、まるで貼り付けたような笑みだった。
*
下水管を抜けた先は細い側道で、その先は配管に占拠された通路だった。僅かな光とトロの先導で、タイヨウは目まぐるしく変化する道を抜けていく。中層から上層にかけての主だった道は、定期的に変化する構造まで含めて、すべて把握している自信があった──しかしこれまで通ってきた道は、どれもこれも知らないものばかりだ。
タキオリは何者なのだろうか。道中で尋ねてみたものの、かつて新宿駅に住んでいたという答えしか返ってこなかった。しかし今現在、この経歴不明の怪しい男が唯一残された希望なのだ。追求はソラを探し出してからでも遅くない。少年はそれ以上詮索をせず、ただ新たな経路を頭に叩き込む。
匂いを辿っての最短距離は、それほど時間のかかるものではなかった。それでも両手の指を超える数の分岐があり、横穴通路に慣れているタイヨウでも息切れするほど走る必要があった。さらに何度かタキオリの知る"近道"を使って岩盤を越え、やがて線路にほど近い上層外縁の横穴脇で、案内役のペットローチはやっと床に降り立った。薄い羽を器用に鞘翅の下に収め、触覚を揺らして地面を叩く。
「ここのようだね?」
タキオリが小さく呟く。どちらからともなく二人はランプを消し、密やかに横穴を進んだ。やがて奥から話し声が聞こえてくる──不用心にも通路番を立てていない。視線の通らない曲がり角に隠れ、二人は静かに聞き耳を立てる。
「──いやあ、収穫ですね。こいつは間違いなく地上の技術ですよ」
「駅に持ち帰れば大きな武器になる。商業連合会にもこれ以上デカい顔はさせねえさ」
タイヨウは眉を顰める。どこか平坦な東京訛りと低い声は聞き覚えがあった──集団の先頭で灯りを掲げていた男だ。当たりだ、という少年の合図にタキオリが無言で頷いた。ゆっくりとタイヨウは前進し、姿勢を低くして暗がりから様子を伺う。そこはどうやら彼らの仮拠点らしく、横穴の先の開けた空間には、ボロ布で即製の天幕が張られていた。作業台と机にいくつかの椅子、棚の中には発煙筒や信号弾といった火器類が詰め込まれている。しかしタイヨウの意識はその向こう側に吸い寄せられる。発電機に繋がれた照明の下、五人ほどの男たちが囲むのは、いくつかの分割された大きな包み。その横には誰かが縛られていて──
「──!」
ソラだった。スーツを脱がされ、声が出ないように猿轡を噛まされている。縛られて身動きも取れないのだろう、ぐったりと目を閉じて動かない。
タイヨウは奥歯を噛みしめる。今にも飛び出してしまいたい──ソラに駆け寄って縄を解き、大声で無事かと呼び掛けたかった。だが相手は武器を持った大人数で、無計画に立ち向かえる相手ではない。幸いにも、と言うべきかどうか、男たちはソラの身体を蹴飛ばしたり、どこかに運んでいく様子はなかった。死体ならば拠点に転がしておく必要はない──逆に言えば、まだソラは生きている。
「いやあ、ひでえ邪魔が入りましたけど、なんとか確保できてよかったですね」
「ふん──それよりもう一人のガキだ。あの野郎のお陰で4人もやられてる。確かに目的は達したがな、このまま帰るわけにいかねえよ」
「わかってます。必ず見つけ出して同じ巣に放り込んでやる」
冷ややかさの中に確かな怒りの熱が混じった、暴力的だが研ぎ澄まされた敵意。その一部は間違いなくタイヨウに向けられたものだろう。少年の背中を汗が伝う──恐怖と罪悪感が入り混じり、顔が強張ったタイヨウを気にしてか気にせずか、タキオリが小声で話しかける。
「どうやら連中で間違いなさそうだ──ただ、思ったより人数が多い。装備の数から見て別働隊がもう少しいる。腕にも自信はありそうだね」
「タキオリ……さん、ならどうにかできないですか」
「ううん? 正面からだと二人が限度かな。切った張ったはどうにも苦手でねえ」
「……そうですか」
タイヨウは俯いて考え込む。敵の目的はスーツとソラ、次点でタイヨウ。スーツがここにある以上、本来なら全員が拠点に集まっていてもおかしくない──数が少ないのはタイヨウを探すために中層に降りているからか。とすればあまり時間はない。中層の住民を虱潰しに当たれば、いずれタイヨウのねぐらは突き止められる。タイヨウが帰っていないと分かれば、大部分はこちらに戻るだろう。彼らの出発からどの程度経ったのだろうか? 横穴はあまり広いとはいえず、敵の人数が増えれば救出の目はなくなる。
考え込むタイヨウの脇で、周囲を見渡していたタキオリが囁く。
「現状を整理しよう──ボクの目的はスーツの奪還、きみの目的はお嬢さんの救出だ。何も彼ら全員相手にする必要はない。彼女とスーツを取り返してしまえば、あとは彼らから逃げ切るだけ」
「それが難しい、って話ですよね。あの様子じゃスーツはまともに動かないし、ソラだって自力で歩けるかどうか」
「少なくとも2対5じゃあ無理だろうね。だいいち、追手を撒けなきゃ話にならない」
どうしたもんかなと嘯くタキオリの笑みには底が見えない。彼がスーツばかりに言及することは、タイヨウだって当然気づいていた。隠しもしないだけまだ良い方だ。この男に重要なのはスーツであってソラじゃない。しかし彼を信用しなければ、状況を打開することはできない。実際問題、タイヨウは自力ではソラが拉致されたことにも気づけず、追いかけることもできず、また今この瞬間、彼女を助け出すこともできないのだ。
考える。何も知らない、力のない子供が地下の世界で生き残るためには、手持ちの材料で考えるしかない。先入観を捨てろ──感情的になるな──自分のこだわりに飲み込まれるな。タイヨウの目的はソラを助けること──そしてソラのスーツを守ること。彼女と彼女が家に帰るための手段を、絶対に失わせないこと。
そのために要るものと、要らないものは何だ。
「──タキオリさんは、スーツを守りたいんですよね」
「ううん? まあ、そうだね。あれはボクたちにとって重要なものだ。二度と手に入らないと思っていたからね」
「ソラについてはどうですか──隠しごとも誤魔化しもなしです。スーツさえ手に入れば、助けなくてもいいと思ってるのかどうか、それが知りたい」
「へえ。面白い聞き方をする」
タキオリの口角が釣り上がる。いつもの作り物の笑みではない。興味深いものを見たという、心からの笑み。
「本当を言うとだ、お嬢さんはそこまで重要じゃない──だが見捨てていいってわけでもない。彼女は貴重な情報源だからね、地上の状況を可能な限り聞き出す予定だったし、何よりあのスーツは彼女に最適化されてるだろう。ボクじゃ動かすのにとても時間がかかる」
「持ち出すには彼女に操縦させるしかない」
「それか手で持っていくか。どちらにせよ、ボクにもお嬢さんを助ける動機がある。心配しなくとも面倒を見るさ」
男の瞳が爛々と輝く。そこに潜む試すような色を、少年は微かに感じ取った。彼が知りたいのはこういうことだ──なぜ自分にそれを聞いたのか。タキオリという他人にソラを助ける意志を確認する、その意図はいったいどこにあるのか。
タイヨウは改めて前方を見る。敵は目前、正面突破は不可能。タイムリミットが近い。つい最近、同じ状況に陥ったことがある──そしてそのとき、危険な役回りを担ってくれた女の子が、今は向こうで倒れている。
結局、やるべきことは大して変わらない。
目を瞑る。息を吸って、吐く。目を開く──タイヨウは顔を上げた。タキオリの側に寄り、耳元で囁く。全てを聞き終えてから、タキオリは半ば驚いたように、そして何故か、半ば喜ぶように、タイヨウの目を見て小さく問うた。
「本気かい?」
タイヨウはその言葉に、ただ頷いた。タキオリはその顔を、少しの間見つめる。注意深く、商品の価値を見定めるように──やがて彼は小さく息を吐いた。やにわに懐から小さな包みを取り出し、少年に素早く押し付ける。
「持っていなさい。絶対に手放さないように」
「これは──」
「御守りだ。きみみたいな子にぴったりのね」
それからタイヨウの肩を軽く叩いて、音もなく横穴の出口へ駆けていく。
そうして少年はただ一人、暗闇の底に残された。
*
暗い横穴に一人で機を待つ。体が震えるのは夜闇の寒さゆえか、それとも恐怖ゆえだろうか。武者震いだ、と思うことにして、タイヨウは網の端を握り締める。
一歩、また一歩、じりじりと前に進む。男たちは5人、軽装備。大人同士の争いなら不利でも、タイヨウのような子供相手なら関係ない。捕まったら最後、生きては帰れないだろう──けれど、そんなのはありふれた話だ。恐れていたって何も始まらない。
──まだできることが残っているうちは、私は諦めたくないの。
歯を食いしばる。早鐘のように鳴る心臓の拍動を押さえつける。目を限界まで見開いて、薄暗い空間を眺め続け──ついにその時がやってきた。男たちのうち3人が、分解されたスーツを大きなトロッコに積み込みはじめ、残りの二人がそれを見ている。全員の視線が同じ方を向き、タイヨウのいる通路に背を向ける。
ここしかない。
通路から飛び出して足を踏ん張る。砂を噛んだ足が音を立てる──男たちが動き出す──だがもう遅い。
「ソラを返せ、余所者!」
「な──!」
全身を使った全力の投擲──そこらの壁面から調達された小石が、唯一の照明を叩き割る。一瞬で周囲は暗闇に落ちた。灯りに目の慣れた男たちには、しばらくタイヨウの姿は見えない。それはタイヨウにとっても同じだが、これまで機会を待つ間ずっと部屋の中を見続けていた少年は、部屋の間取りを完璧に覚えている。
「この野郎!」
「探せ! 明かりを付けろ!!」
男たちが二手に分かれる──片方がスーツとソラの周囲に付き、片方は別の光源を取りに行った。だがタイヨウが目指すものは別にある──男たちの動きと武器の間合いを計算して、壁沿いを静かに移動。棚がいくつも並んでいた場所に駆け寄り、手探りで目当ての品を探し当てる。懐にそれを押し込むのと、懐中電灯の黄色の光が闇を裂くのは同時だった。音源を探す僅かな隙に、タイヨウは飛び退いて棚を倒す。大量の装備を載せた棚が派手な音を立てて崩れ落ち、男たちの視線は横穴の前のタイヨウに完全に固定された。
「テメエ──あの時のガキか!」
リーダー格の男が叫ぶ。線路上で出会った時の優しげな態度は完全にかなぐり捨て、額に青筋を立てている。相当頭に来ているようだった──罠に嵌められて大鼠の巣に落ち、仲間を何人も噛まれたのだとしたら、当然の態度と言えるだろうが。他の男たちも似たようなもので、憎しみに満ちた表情で武器を構えている。
これは捕まったら本当に殺されるな──隠す気もない殺意に晒されて、少年の背筋に脂汗が滲む。とはいえ、彼らの怒りが完全にタイヨウに向いたのは、状況としては悪くなかった。彼らが自分を追わず、拠点に留まっている方が、タイヨウにとっては不都合なのだから。
ゆっくりと数歩後退する。そして男たちの意識が他のことに向く前に、踵を返して横穴へ走り込んだ。
「クソガキが良ィ根性しやがって──今度は逃がすんじゃねェ! 両足捥いで鼠の巣に放り込め!!」
喚き声とともに男たちが走り出す。足音は4人──あれだけ怒りに我を失いながら、見張りを一人残すだけの理性はあるようだった。舌打ちしつつ、タイヨウは横穴から横穴へと駆けていく。坂を上り、段差を越え、枯れた小川を渡って走る。
それでも追手がだんだんと距離を詰めてくる──昨日よりも展開はタイヨウに不利だった。そりゃそうだ、とタイヨウは息を切らしながら苦笑いする。この辺りに来るのはまったくの初めてだ。土地勘がない場所で大人と足の速さを競うのでは、流石に分が悪いと言わざるを得ない。
更に悪いことに──追手の方角とは反対側からも、何やら騒々しい声が聞こえてくる。7人か8人はいるだろうか。途切れ途切れでよく聞き取れないものの、叫び声に含まれる訛りは同じ。
「挟まれた……」
中層にタイヨウを探しに行った連中が戻ってきたのだろう。タイミングが良いのか悪いのか、どうやら完全にこちら側の大捕物に引き付けられているらしい。じわじわと包囲網が狭まってくる──数を頼みに通路を一つ一つ調べているのだろう。少年は岩陰で息を潜める。まだもうしばらく時間は稼げるだろうが、これでは早晩見つかってしまうし、この場所では少しばかり都合が悪い。
懐に仕舞った包みに触れる。タキオリに渡されたそれが、自分を守ってくれると信じる。
横穴の出口近くでじっと待つ。じりじりと時間が過ぎていく。時折夜闇にぼうっと浮かぶのは、油布を巻いた松明の光だ。男たちの声がゆっくりと近づく。これ以上近づかれれば逃げ出せない──強く踏み込んで、横穴を飛び出す。
「居たぞ! 崖沿いだ!」
叫び声に続いて明かりが倍増する──他の横穴を探していた男たちが出てきたのだ。疲労に震える足に鞭打ってタイヨウは駆ける。大ウツロの外縁、落下してくる巨大構造物に内壁が削られ、筋状の切れ込みが台地に刻まれた辺縁部。大穴の向こう側に上層の街並みが輝くのを横目に、廃墟の間を通り過ぎる。このあたりには住人も多いはずだが、武器を持った余所者に追われる子供に関わるような物好きはおらず、皆ねぐらの灯りを落として目立たないように隠れている。
それを非道だとは思わない。もし自分のねぐらの周囲で騒動が起きたなら、タイヨウだって同じようにするだろう。
だけどこちらも命懸けなわけで──少しばかり物を拝借するくらいは許してほしい。
「何──!?」
追跡者たちの驚愕──大ウツロの空隙に身を躍らせる少年の姿は、退路に窮して身を投げたようにしか見えなかっただろう。しかし目敏い者の視線は、辺りに張り巡らされた細縄の一本が、少年の後に続いていくのを見咎める。慌てて身を乗り出した男たちは、慣れた手付きで細縄を伝って暗色の壁面に取り付いた影が、折れた下水管に滑り込むのを見た。リーダー格の男が細縄を切り捨てる──これで忌々しい子供に退路はない。
「下だ! 二手に分かれて抑えろ!」
「あの先は行き止まりだ。囲んで確実に追い詰める」
「八つ裂きにして線路に吊るせ!」
復仇に燃える男たちの喚声──そのすべてが大ウツロの闇に消えていった。
*
声が聞こえた。まだ声変わりを経ていない少年の、甲高く上ずった、どこか必死さを帯びた声。
ゆっくりと目を開く。覚醒を悟られないように薄目。辺りは暗く、発電機の低い唸りに満ちている。体が動かない──後ろ手に強く縛られている。口に嚙まされた布が唾液と汗を吸って重く、呼吸を阻害する。岩肌が骨身に食い込んで痛み、冷気が体温を奪っていく。
状況は最悪──それでも、少女は必死に身を捩って拘束を逃れようとする。先ほど聞こえた少年の声と、それを追うように離れて行ったいくつもの荒い足音と怒声。タイヨウがここにいた。そして追われていた。間違いなく何か悪いことが起こっている──タイヨウに危険が迫っている。
「──できれば、落ち着いてくれないかい?」
穏やかな男の声が上から降ってくる。地下通路で捕まってからここに転がされるまで、散々聞いた男たちの声よりも一段と若く、少し高い音。縄のせいで身を起こすのが難しく、声の主の顔を見ることはできない。少女は抵抗するように、一層体を激しく揺らす。
「ああ、ちょっと! もう、仕方ないな……」
口元の布が外される。すかさず少女は息を深く吸い込むが、間を置かず別の布が押し当てられ、助けを求める渾身の叫びはくぐもった呻き声に変換された。
「大きな声を出すなら、また口を塞がなければいけないよ」
脅すというよりは窘めるような調子──少なくとも会話の意思がある。ソラは一旦体を動かすのを止めて、唯一動く頭を小さく上下させる。口元を覆っていた布が取り除かれ、次いで背中に手を当てられると、上体がぐいと引き起こされた。周囲の様子が目に入ってくる。倒れた戸棚に壊れた照明、明らかに争った形跡のある空間。そんな背景と不釣り合いにも柔和な笑みを浮かべるのは、暗闇に溶け出しそうな鉄紺の髪を後ろでまとめた細面の優男だ。
「手荒な真似を許してほしい。君の名前は?」
沈黙。誘拐犯に教える名前など持ち合わせてはいない──男は困ったように首を傾げた。
「まあ、知らない男に教えるわけがないか。僕はミウラ。下の名前は秘密だ」
暴力集団の一員にしては攻撃性に欠けた所作──声色にも表情にも敵意を感じない。絶対に逃がさないという余裕の表れだろうか? 名前にしても本名か偽名か、会話を仕向けた意図は何か。そもそも何故自分を襲撃するのか──疑問が次々と噴出する。矢継ぎ早に怒りと疑問を投げかけたい衝動を抑えて、ソラはできるだけ平坦な声色で質問した。
「どうして、布を解いてくれたんですか」
「暴れられると困るからさ。少しでも仲良くなれたらいいなって」
仲良く──力づくで拉致しておいて? ふざけたことを、と思いながらも、彼女は腹の底に怒りを飲み下す。理由としては分かりやすい──捕らえられてからというもの、彼女は単に縛られて放置されていて、特段危害を加えられることもなかった。スーツだけが目的ならば邪魔な操縦者は殺してしまえばいい。五体満足で残しておいて、おまけに会話までしようというなら、彼らはソラを生かして連れ去りたいのだろう。おそらく何かソラに協力させたいことがあり、そのためには懐柔か、脅迫が要る。
これはチャンスだった。何か情報を引き出せれば、状況を打破するヒントになる。
「なら、教えてください。どうしてこんなことを?」
「ううん、なんて言えばいいかな。強いて言うなら──生きるため、かな」
穏やかな口調と柔らかい表情に反して、男の口から飛び出したのは普遍的かつ決定的な理由。生きるため──抽象的ではあるが、この過酷な地下世界では無限の正当性を持つだろう言葉だ。そしてそれに続く言葉に、ソラは目を瞠らざるをえない。
「君、地上から来たんだろう? その鎧を見たとき、ひと目でわかったよ」
「それは──」
「僕がまだ小さい頃、うちの駅によく似た鎧を着た男たちがやってきてね。遠征隊、なんとか青年団と名乗っていたが──彼らはそれが地上のものだと言っていた。数少ない稼働品だ、とも。それの由来と有用性を、僕らはよく知ってるんだ」
だから僕らにはそれが必要だ──ミウラの表情は柔らかいが、その声色に遊びはない。
「あなた達は最初から、スーツが狙いだったんですね」
「そうなるね。とはいえ、それだけじゃない。鎧を動かせる人間も、そのための知識を持つ人間も限られる。君も生かして捕らえなきゃいけなかった」
「私をどうするつもりですか」
「売るよ──君も鎧も、必要としているところに売る。できるだけ高値で。身の安全は保証する」
ごめんね、という言葉は、おそらく本気で言っているのだろう。悪いとは思っているが、止めるつもりはない──そんな思考が言外に伝わってくる、断固とした冷ややかさ。思わず少女は男を睨みつけ、男は苦笑して頬を掻く。
「そんな顔しないでほしいな。大体、僕らがやらなくたって、早晩君は同じ目に遭ったよ。ここの上層の商人連もあの鎧が欲しくてたまらないはずだ──僕らと違って彼らは君を駅王への献上品にするだろうけど、やることは大して変わらないよ」
「そんな──機械屋を巡ったときは、そんな話はどこからも」
「それは君、あの少年がいたからだよ。彼はカケアミだろ? 彼らと機械屋は深い信頼関係にあると聞くからね。彼が危険な商人を避けて、信頼できる相手だけに話を持っていったんだ。君一人で行ってたら、十中八九騙されて鎧を奪われて、まあ、碌なことにならなかったはずだ」
「そ、れは」
「今度は僕らがここの商人に追われる番さ、獲物を横から掻っ攫ったんだから。頭領が戻ってきたら、すぐに出発しないといけない。君と話す時間は今しかないってわけだ」
いやあ大変だ──男の困ったような表情が、ソラの意識の表層を流れ落ちていく。彼女の脳裏に蘇るのはタイヨウの横顔──上層の機械屋を巡る途中、廃材を繋ぎ合わせた掘っ立て小屋やバラックが立ち並ぶせせこましく汗臭い裏通りで、顔馴染みだという商人たちと難しい顔で話していた少年は、機械屋のバックヤードに隠されたスーツの脇に所在なく佇むソラと目が合うと、笑顔で大きく手を振っていた。心配しないで、修理できる人を見つけるから──この街のどこかにいるはずだからと。
その顔が次第に曇っていくのを、ソラは眺めていることしかできなかった。そしてあの帰り道に繋がり、今に至る。
タイヨウはずっと、ソラを守っていたのだ。彼なりに必死で──待つだけは嫌なんて、誰が言えた義理か。
下唇を噛む。思考を止めてはいけない。今は後悔に沈むときではない。もっと情報を得なければ──自分を取り巻く状況は、思っていたよりも遥かに複雑だ。
「どうして、スーツが必要なんですか。売るというのは誰に──なぜ売るんですか」
「君、あの少年といたってことは、中層の様子は見たんだろう?」
ソラは頷く。目覚めてから出発するまでの間、物陰に隠れながらの短い時間ではあったけれど、彼女は中層の日常を垣間見た。常に上方を気にしながら行き交う人々は、ひどく痩せこけているとまで言わないにしても、誰もが白っぽく血色の悪い肌をしていた。走り回る子供たちの腕は細く、健康な老人はほとんど見かけなかった。水場は遠く、電気はすぐに止まる。強い風が吹き荒れ、夜はひどく寒いにもかかわらず、誰も分厚い服を持っていなかった。
「あれでも地下ではかなり恵まれてる方だ。太陽の光が当たり、資源が降ってくる。外敵は少なく、空気に困らない。大抵の駅はそうじゃない。僕らの駅は特に酷くてね、他の駅との小競り合いも絶えないし、植物はほとんど育たない」
「だから、お金が要ると」
「金、食料、武器、電気に燃料──それだけじゃない。鎧も君も、政治に使える。東京駅の学者たちは地上の新しい情報を喉から手が出るほど欲しているし、ギンザ同盟は鎧が保線軍の手に渡るのを絶対に許さないだろう。うちみたいな弱小駅が生き残るには、大きな駅の上層部と繋がりを作って、賢く立ち回るしかないんだよ」
滔々と語られる内容のうち、ソラが理解できるのは半分程度だ。ミウラにしても完全に理解させるつもりはないのだろう。それでも発言の趣旨は掴めた。自分たちが生きていくために、無関係な人間を犠牲にするという、理不尽極まりない内容。そして何よりも、生きるためと正当化してその理不尽に安住するミウラの態度。自分が犠牲の対象だということよりもそちらの方が受け入れ難く、少女は思わず反駁する。
「でも──そんなにみんな生活が苦しいなら、奪い合ったりしないで、地上を目指せばいいじゃないですか。地下の人たちで協力すれば、きっと」
「……君、もしかしてそれをあの少年にも言ったのかい?」
ミウラは眉を顰め、深刻そうに問うた。それは明らかに彼女を責めている調子を含んでいる──ソラが黙り込むのを肯定と見て取ったか、彼は小さく息を吐いた。
「君が一人で歩いていた理由がわかった気がするよ。地上っていうのは、随分と豊かなところらしい」
「私は、困っていることを否定しているわけじゃ──」
「皆で協力して地上を目指そうとした人は、かつて何人もいた。確かに理想的だ──けれど成功した者はいないんだ。僕らがこうして奪い合いに明け暮れているのは、臆病だからでも、欲深いからでもない。自分の手の長さを知っているからさ」
口を噤み、少女はただ続く言葉を待った。これは敵の言葉だ──自分を犠牲にして永らえようとする人々の言葉だ。それでも耳を塞いではいけない気がしていた。地下の人々の価値観、タイヨウと自分の間に生じ、決裂を生んだあの齟齬を、ミウラの言葉を理解することで埋められるかもしれないという予感があった。
「例えば、あの粗暴ですぐ叫ぶ、性格の悪い男がいるだろう? あれが僕らの頭領だ。ひどい男だが、駅に残した子供たちを守るためにここまで来た。うちの駅じゃ子供の半分は大人になれない──彼らのために武器や食料、それに薬が必要でね」
「そのためになら、他人を犠牲にしてもいいと?」
「守るべきものがあるんだ。人の手は短く、抱えられるものには限界がある。自分の命や大切なものを手放してまで、抱えきれない夢を追っても、穴に落ちて息が止まるだけ──大切なものを守るためなら、頭領や僕は他人から奪うし、それが間違っているとは思わない」
物語を読み聞かせるような滔々とした流れ──おそらく実際に、他の人間にも語って聞かせたのだろう。粗暴な仲間たちに対して明らかにこの男は毛色が違う。おそらくこの集団の精神的な支柱が彼であり、この論理は彼の武装なのだ。
反駁することはできた。今まさに犠牲にされようとしている張本人として、間違っていると主張することはできた──しかし、その底に一本の確かな芯があることを、地下世界という環境が彼の思想を形作ったことを、少女は実感として理解していた。だからこそ彼女は問わなければならなかった。
「──では」
「ん?」
「あなたが抱えているものは、なんですか。あなたの、守るべきものは」
目を丸くして、ミウラは口を引き結んだ。小さく俯く──そうして迷うように左右に首を揺すってから、ゆっくりと語り出した。
「双子の弟がいる。頭も良くて優秀なんだけど、体が弱い。それに、ゴキブリ一匹殺すのを躊躇うくらい優しい──こういう世界には向いてないだろう」
「……ええ」
「僕は弟に、心優しいままで、できるだけ平和に暮らして欲しいんだ。唯一の肉親だからね」
寂しげな微笑み。ミウラの表情は、少女を売り飛ばそうとする略取犯のそれには到底見えない。不安と慈しみを織り交ぜた優しさ。地上でも地下でも、肉親を思いやる顔は変わらないのだと少しだけ安心する──不意に想起されるのは、地上における最後の記憶。
少女にも家族が──従兄がいる。幼い頃から共に叔父の語る不可思議な話の数々に目を輝かせた年上の親友は、彼を追いかけて家を飛び出し探京家になった彼女を窘めつつ、その能力を認めて調査隊への参加を許してくれた。崩れ行く現実の中で、必死に彼女に語りかける従兄の姿を思い出す──次元断層の奥底で通信が切断される直前、彼が見せたひどく優しい微笑みが、ミウラの表情に重なって見える。
──心配するな。全部うまくいく。
深呼吸をひとつ、記憶の残影を振り払う。顔を上げれば、目の前ではミウラが彼女を見据えている。あの微笑みは既にどこかへ消えている。敵と味方、家族とそうでないものを冷厳に峻別し切り捨てる、黒檀の視線がソラを捉える。
「君はまだ子供で、地上生まれで、今は僕らの商品だ。何を考えていようが大した問題じゃない──でも、君が僕たち地下の人間を、困難に立ち向かう勇気に欠けた臆病者だと思っているのなら、それは地上人の思い上がりだ。僕らは自分の命の価値、守るべきものの価値をよく知っていて、この碌でもない場所で足掻いてる。あまり僕らを舐めないでほしいな」
守るべきもの──少女の耳に蘇るのは、タイヨウの言葉。
──地上生まれの君には、分かるわけないよ。
彼女はあのとき咄嗟に否定した。けれど実際のところ、少年の見立ては正しかったのだ。
少女は無自覚に少年を見下していた。この厳しい地下世界を生き抜いてきた強かな少年を、みすぼらしい服を着た、貧しく救われるべき存在と見なしていた。地上へ行こうと誘ったのは確かに善意からだ──しかしそれは同時に、地下世界は貧しく劣った場所であり、地上への挑戦は彼にとって無条件で良いことだと思い込んだからだ。
地下の人々は挑戦と挫折を積み重ねて、地上には辿り着けないという彼らなりの理解を築いたのに、その価値観に基づく判断を、無知と臆病のためと思い込み糾弾した。諦めるな、と軽薄に鼓舞したのだ──あまりにも浅はかな思考。確かに理解できるわけがない──地上の常識に囚われたソラの目には、映らないものが多すぎたのだから。
彼と彼女は生きる場所が違い、抱えるべきものも違うのだ。ソラはタイヨウのことをほとんど知らない。彼にだって、守るべきものがあるかもしれない。それはおそらく、今まで必死に作り上げてきた、生き永らえるための場所。もしかすると、父親が帰ってくるかもしれない場所。
脱力する。背にした岩が肌に食い込むのも構わず、肩を落として溜め息をつく。自分の愚かしさをこうして直視すると、怒りと恥ずかしさで目眩がするようだ。静かに煩悶する少女の姿をどう受け止めたのか、ミウラが苦笑して頭を掻く。
「説教臭くするつもりはなかったんだけどな──でもまあ、君が売られた先で仲良くやってくれないと、売り手の僕らも困る。返金なんてできるわけないからね。この世界で生きていくための、僕らなりの助言だと思って欲しい」
ありがとうございます、と零れそうになるのを、少女はすんでのところで抑えた。確かに重要な示唆をくれた人物だが、目の前の男は自分を攫った敵。ここで礼を言うほど少女は人間ができていない。だから彼女は改めてミウラを睨みつけ──そして驚愕に目を見開くのを必死で抑えた。
「さて、話しすぎてしまったね。移動するから、目隠しをさせてもらう。君にルートを知られる訳にはいかないから──?」
新しい布を取り出そうとしたミウラが異変に気づく。こちらの視線の僅かな動きを察知したのだろう。口を引き結んで身体を跳ね上げ、脇に置かれた山刀に手を伸ばし──後方から鋭く伸びた筋肉質の腕がそれをはたき落とし、男の肩口から首をがっちりと抑え込んだ。
「──、────!?」
苦悶の声。気道を抑えられ、発声に必要なだけの空気を確保できないのだ。しばらく格闘する音が響き──そして苦痛に歪んだ表情のまま、ミウラが岩の上に倒れ伏す。
「……残念ながら、こちらのお嬢さんはこの世界で生きていくわけじゃない。少し見込みが甘かったね」
「タキオリさん!?」
「ヤアヤアお嬢さん、迎えに来たよ。すぐに会えると思っていたんだが、随分と時間がかかったじゃないか」
軽妙ながらもその奥に隠しきれない重圧を含む、高く掠れた男の声。癖毛を汗に濡らした丸眼鏡の男は、ミウラを絞め落とした右腕を痛そうにさすりながら、素早く少女の縄を解きにかかる。視界の奥、拠点の外に繋がる通路に、見張りらしき人物の倒れた足が飛び出しているのに少女は気づく。
おそらくミウラがソラと話している間に、タキオリは外の見張りを無力化したのだろう。タイヨウが男たちを引き付けて、その間にタキオリが助けに現れる。完璧なタイミングだった。自分の知らないところで二人は協力していたのだと、少女はすぐに思い至る。そして次に考えるのは、当然ながら少年のことだ。
「──タイヨウは!?」
「うまく逃げているはずさ! 彼は勝算があって囮を引き受けたんだから。さあ、急ごう」
タキオリはそれ以上何も言わなかった。縛られた足を引きずる少女を小脇に抱え、分解されたスーツが積まれていた台車に載せると、それを押して早足で岩場を駆けていく。拠点の奥は通路があり、そこから様々な部屋に繋がっているようだった。倉庫、食料庫、封鎖された通路、なにかの採掘場、作業場と水場、男たちが寝泊まりしていただろう寝台──奥の方に布で隔離された場所があり、そこから呻き声が聞こえてきた。問いかけるような視線を送ったソラに対し、タキオリは首を振った──見るな。
その後、しばらく進んだところで男は止まった。そこは埃だらけの一室で、ボロボロになったベッドやデスク、大量のバインダーと風化した紙束が山になっている。おそらく元は駅の詰め所か何かだったのだろう。
「ここまで来れば、しばらくは安全だ。何もされなかったかい?」
ちかちかと点滅する照明に目を細めて、少女は首肯する。ミウラとの会話から得られた情報で、タキオリが自分を気にかける理由についてもおおよその見当が付いていた。
「……タキオリさんも、スーツが目当てなんですよね?」
「まあ、そうだね。その意味では彼らとそう変わらない」
タキオリは悪びれもせずに肯定する。彼の瞳は相変わらずぎらぎらと輝いている──しかしその視線はどこか上の空だ。
「まあ、君も現在の地上についてよく知っているわけで、重要人物であることに違いはないよ。心配しなくとも見捨てたりしない。早く逃げてしまおう」
スーツを結んでいた縄を解き始めるタキオリの背。その姿はどこか急いでいるように見える。
確証があるわけではなかった。しかし今の少女には、それが重要な変化に見えた。ソラは慎重に呼び掛ける──それがタキオリを動かすと信じて。
「タキオリさんは、拠点のときからずっと私を──いえ、スーツを気にかけていましたよね。今も、それは変わらない」
「ううん? まあ、そうなるね」
「でも、今のあなたは、私も、スーツも見ていない。私を気にしているようで、別のことを考えてる」
タキオリの手が止まる。彼は動かず、その目だけが少女の方向へ向けられ、値踏みするようにこちらを伺う。少女は確信する。やはり、この目は自分を見ていない──地上から落ちてきた少女でも、それを守ったスーツでもなく、タキオリは今、別のものに思考を割いている。
それが何なのか、ソラにははっきりと理解できて──それ故に、彼女はタキオリを見る。責めるように、あるいは背を押すように。あなたが本当にいるべき場所はどこなのかと語りかけるように。
長い沈黙。
そしてタキオリは、深く息を吐いた。
*
長かった追跡劇が、いよいよ終わろうとしていた。
自分はよくやった、と少年は思う。10人以上の大の大人が、こぞって自分一人を捕まえようとしているのだ──逃げ切るのは土台無理な話で、しかもどこかに隠れ潜んでやり過ごすという手段も取れなかった。なにせこちらが姿を消したなら、彼らは拠点に戻ってしまうかもしれない。タキオリは武器が苦手だと言っていた。見張りの一人や二人ならなんとかできると信じて託したが、ここにいる連中が帰ってきたら、タキオリとソラは為す術がない。
逃げるだけなら、ありったけの縄と網を使って大ウツロを駆け下りればよかったのだ。中層まで届く保証はないが、雨と風が作り出した自然の洞窟や裂溝に潜り込めば、余所者が子供一人を見つけ出すのは無理だ。カケアミならその程度の芸当は容易い。だが彼は結局、自分一人でほとんどの流れ者を引き付け続ける必要があり、そして順当に追い詰められていた。
それでも少年は必死に走る。地上時代の商業施設だったという広大なタイル張りの施設遺構は、今では未認可の闇市を経て、大昔に降ってきたビルに半ば以上を潰され、無人の廃墟になっている。瓦礫と土埃に塗れた迷路を転がるように駆け抜けて、通路の終わりで一度立ち止まり、少しだけ手作業をして、また走る。
「おわああ──ッ!?」
時折そんな悲鳴とともに壁や床に激突する音が聞こえる。紐や縄を足元に張り巡らせ、あるいは単に置いておく盗賊避けの罠だ。ガラスを割って破片をばら撒き、大サソリの巣穴に石を投げ、高低差があれば縄で逃げる。とにかく思いつく嫌がらせは全てやる。最初から時間稼ぎが目的で、逃げ切るより逃げ続けることが大事だ。下水管を抜け、商業施設を抜け、ホームの半分だけになった駅と廃材で埋まった駐車場を抜け──さらに逃げ込んだ下水管の先で、とうとう彼は立ち止まった。
道がない。そこはどうやら駅の一部で、しかも工事中の箇所のようだった。眼前に聳える巨大な壁は、おそらく別の施設の屋根だ。通路を完全に断ち切って、登る先もなければ戻る場所もない。どこから電気が来ているのか、煌々と灯る壁面の照明が、少年の退路が消えたことを曝け出す。
「おーーっと、残念だったなァ、クソガキ。追いかけっこはここまでのようだ」
肩で息をしながらリーダー格の男が笑う。もう中年に差し掛かろうかという見た目ながら、彼は先頭に立ってタイヨウを追い、そして今首尾よく追い詰めていた。とはいえその笑みは形だけのものだ。怒りに満ちた男たちが次々と現れて、手に手に武器を取り、壁を背にした少年を囲む。
「鎧もその中身も売りモンだからよ、手出しするなってミウラが言うんだよな。頭の良いアイツの言うことだから仕方ねえが──テメエは別だ。絶対に殺す」
「大鼠の巣穴はテメエの差し金だろ。カミヤもサクマもまだガキが小せえってのに」
「アシカワの爺さんはもう熱が出た。あとは皆、血ィ吐いて死ぬだけだ。落とし前はつけてもらうぞ」
お前を同じ目に遭わせてやる、と彼らの目が雄弁に語っている。腹を空かした大鼠の巣に、両手両足を折って放り込む──大昔の新宿駅ではそういう刑罰があったらしい、とダンジが得意げに話していたっけ。現実逃避気味にそう考えながら、タイヨウは男たちを睨みつける。じりじりと一歩、また一歩後退し、ついに少年の背は、壁にぴたりと張り付いた。
もはや逃げ場はどこにもない。男たちがゆっくりと武器を構える。それは彼らなりの慎重さの現れ、罠や仕込みを警戒しての包囲陣形。懐深くに仕舞った御守りの重みを意識する──タキオリが何を考えていたか知らないが、流石に今回ばかりはどうにもならなさそうだった。
「……なあ、アンタ。空ってどんなものだと思う?」
「あァ?」
それは時間稼ぎにすぎない質問──というだけではなかった。少年は純粋に気になったのだ。事ここに至り、あと数分のうちに自分の運命が決まるという時になって、ふと脳裏に過ぎったのはその言葉だった。ソラの質問、その真意がどこにあるのか、今のタイヨウにはなんとなく理解できる。この男たちがソラとスーツを何のために求めたのか、タイヨウは知らない。ただ、この状況をもたらした彼らの思考の一端を、タイヨウは知りたかった。
「そのままだよ。空。新宿に来たなら、一度は見たことあるだろ? あれを見てどう思った?」
「……どうって、おい」
男たちが顔を見合わせる。その表情、タイヨウに対する怒りの上に一瞬混じったものは、突拍子もない問いへの困惑ですらない──心底興味のなさそうな、それは言わば、タイヨウがかつて会ったこともない"丸眼鏡の狂人"に向けたような、哀れみの混じった無関心。
「あんなモンに興味なんざ無ェ。ガキが、とうとう狂ったか?」
「元からおかしかったんじゃねえの。穴の真ん中で上ばっかり見てる連中だぞ」
「道理でな。飯の種でもねえモンを一々気にしやがって、それよか命乞いの言葉を考えろ──聞いてやる事ァねえけどな!」
ゲラゲラと男たちが無遠慮に笑う。虚勢を張りながらも足を震わせる哀れな獲物への嗜虐と嘲笑、そして今まさに仲間の応報を達せんとすることへの勝利の笑み。
だが──恐怖に頬を引き攣らせながら、それでもタイヨウは顔を上げた。無理矢理に作った強がりの笑み。
「それなら──アンタたちはやっぱり、あの子の邪魔をする資格がない」
「ヤアヤアヤア! 少年、よくぞ言ったものだ!」
突然の大音声──狩りの雄叫びや勝鬨にも似た、腹の底からのよく通る声。今まさに武器を振り下ろさんとした、男たちの真後ろからそれは聞こえた。驚愕しながらも男たちが動く──ある者は罠を警戒して飛び退き、ある者は少年を人質に取らんとする。それは十分に統率が取れた動きで、男たちが一つの目的のもとに組織された集団であることを示す。
しかしそれより先に、噴出したのは白煙だった。発煙筒──拠点の戸棚から拝借してきた切り札が一斉に点火する。足元、剥がれ落ちた壁材の陰、タイルの窪みといった死角に隠された赤い筒は、男たちの視界を隠すのに十分な量の煙を噴出した。リーダー格の男が怒声と共に武器を振り下ろすが、壁際に追い詰められていたはずの少年は忽然と消えている。
一体どこに──そう視線を巡らせる、その視界の隅に赤色が踊った。頭上から降り注ぐ赤は空気の抵抗を受けてふわりと広がり、男たちに覆いかぶさって絡め取る──網だ。男たちの腕や首や肩口、長柄の武器や腰元の固定具に、その網はするすると巻き付いて、身体の自由を奪っていく。束縛から逃れようと男たちが藻掻くが、煙に呼吸を阻害されては意思疎通することもままならない。皆がてんでばらばらの方向に動こうとし、やがて一人が転倒すると、それに巻き込まれるようにすぐさま全員が地に伏せた。
怒声と苦悶に満ちた空間で、煙がゆっくりと晴れていく。部屋の角から疲労困憊のタイヨウがふらふらと進み出る。投げられた網を素早く固定し、男たちの足元で絡ませて回る──カケアミにしかできない芸当をごく短い時間で成し遂げて、少年は息も絶え絶えだった。
「……あまり動かない方がいい。僕らカケアミの網は、生きることへの執着そのものだ。藻掻けば藻掻くほど絡まっていくし、少しのことでは切れやしない」
「何を偉そうに──!!」
男たちがしきりに藻掻くたび、網がその手足に絡まっていく。あるいは冷静になったなら、固定された網の短絡を解す方法はすぐにでも見つかったかもしれない──しかしまたしても少年に出し抜かれ、憤激する男たちにその余裕は残っていなかった。
「ふうむ、どうやら間に合ったらしい。御守りの効能かな? よく生きていたね、少年」
「お陰様で……」
天井の穴から網を投げ、飛び降りてきては網の端を金属杭でタイルに固定して回っていたタキオリが、一塊になって蠢く男たちを見ながらにんまりと笑う。あらん限りの語彙を尽くして放たれる罵倒と怨嗟の言葉も、もはや脅威にはなり得ない。疲れ果てて倒れそうになっているタイヨウの様子を認めると、タキオリは小さく鼻を鳴らした。少年の首根っこを掴むと、乱暴に背負って歩き出す。
下水管に沿って敵を誘導し、できるだけ拠点から遠ざける。付かず離れずの距離を保ち、最後には一箇所に集めて、網でまとめて無力化する。網を投げる際に生じる隙は、男たちの拠点から盗んだ道具で何とかする──カケアミならではの技術を基礎に築いた作戦ではあるが、あまりにも無鉄砲で危険な策だ。
──だが立派だ。敵を侮らず、最大の力を以て彼らを出し抜いた。使えるものは何でも使い、僕でさえこの少年は利用して見せた。
タキオリは心底愉快そうに笑みを零す。彼の目的はあくまでスーツとその操縦者。それを得るためなら少年を助けずとも、あんなリスク塗れの作戦は切り捨て、敵の拠点を制圧した段階で撤退してもよかったのだ。少年が戻らなくても、不慮の事故だとか、先に中層に戻っただとか、いくらでも誤魔化せたはずだった──けれど実際は、タキオリはわざわざ自分の身を晒して、少年を助けに来ているのだ。
誰かを助けたい。誰かの道行きを応援し、その戦いの一助となりたい。
そんな青臭い考えは、とっくの昔に忘れ去ったはずだった。しかしあろうことか年端も行かない少女が、男の本心を見抜いたのだ。あの状況では、仮にタイヨウを見捨てたとしても、ソラを騙して協力させることは叶わないだろう。タキオリの最善はタイヨウが生きて戻ることに切り替わった。まんまと二人にしてやられたことを男は悟り、どうしてかそれがとても喜ばしいことに思えた。
御守り──地下では恐ろしく貴重な発信機を託しただけの価値はあったと思える。この上なく自然な笑みを浮かべながら、丸眼鏡の男は少年に問うた。
「よかったのかい? あの網、絶対に切られてしまうぞ。網がなきゃ、まともに生きていけないだろ?」
少年が犠牲にしたのは、彼の生活になくてはならないもの。カケアミにとって網はただの高価な道具ではない。それは縄張りの主張そのものであり、職業の証明であり、親兄弟や師や恩人から受け継いできた信頼の証明だ。地上の言葉で言うならば、タイヨウは土地の権利書と職業の免許をいっぺんに失った──そして天涯孤独の彼には、それを新たに得る元手やコネはない。
「まあ、なんとかします。腹が減れば、ワニでもなんでも食べますって」
少年は笑う。その声は疲れのために脱力していたが、けれども一片の後悔も感じさせなかった。つまらない冗談に男は鼻を鳴らし──そして再び歩き出した。
しばらく歩いただろうか。やがて辿り着いたのは崩れかけの地下道で、ランプの灯りに照らされる一角に不安そうな少女が佇んでいた。彼女は二人を見つけるなり、飛び上がるようにして駆け寄ってくる。
「タイヨウ──ちょっと、大丈夫!? 怪我は──」
「平気。ただちょっと、疲れたかな」
ぐったりと脱力したタイヨウを、タキオリが静かに床に下ろす。
「ソラこそ。何もされてない?」
「うん、大丈夫。でも、私のために、こんな危険なこと」
「いや、いいんだ。それよりも──」
まだ足元が不安定なまま立ち上がり、タイヨウは深々と頭を下げる。
「本当にごめん。ソラが帰りたいって思う気持ちは当然なのに。勝手に腹を立てて、僕は君に酷いことを言った」
──そんなことで謝らなくていいのに。ソラはその言葉を飲み込んで、代わりにゆっくりと頭を振った。
「私も、ごめん。心のどこかで、タイヨウのことをちゃんと見てなかったんだ。臆病だって思ってた。こんなに……こんなに、勇気があるのにね」
顔を上げたタイヨウと、ソラの視線が交差する。暗い通路に青と橙が瞬く。そうして、二人の表情は自然と綻んだ。小さく、力の抜けた笑いが零れる。タキオリはそれを見届けて、軽快に二度手を叩いた。
「少年少女たち、感動の再開に水を差すようで悪いけれど、ここは素早い移動が肝心だ。連中に見つかる前に逃げるよ」
男が足元を強く踏み込むと、またもや木の蓋が弾けるように外れ、下水管への道が黒黒と開く。
「さあ──行こうか」
タキオリに続いてタイヨウが下水管に降りる──その手が自然に、誘うように伸ばされる。ソラは小さく頷いて、汗と泥に汚れた手を取った。
*
タキオリの拠点に戻った少年の誤算は、彼の頭の上に乗った、手のひらサイズの昆虫であった。
「いやあ、完全に懐かれちゃったみたいだね」
少年、格好よかったもんなぁ、とタキオリは笑う。一方のタイヨウは困惑するばかりだ。当のペットローチは満足そうに触角を揺らしては、前脚でタイヨウの額を叩いていた。タイヨウは別段トロが嫌いではない──ないのだが、どちらかというと折角和解したはずのソラが怯えた目でこちらを見て、近づいてくれないことが問題だった。
「ええと──どうしよう。タキオリさんのペットなのに」
「え? ああいや、君にあげるよ」
「はい?」
一切の躊躇いもなく言ってのけたタキオリに、タイヨウは素っ頓狂な声を上げる。タイヨウの目には、タキオリとトロはよい相棒で、その間にはそれなりの信頼関係があるように映っていた。
「言ってなかったけど、ボク、ゴキブリは嫌いなんだよね。ここでの生活が長いもんだから、今更跳ね除けたりしないけどさ──多分トロもそれが分かってたんじゃないかな。彼が食料を探し当て、ボクは彼に安全な住処を提供する。素晴らしき契約関係さ」
まさか言葉を理解しているのか、トロが小さく飛び跳ねて羽を鳴らす。人間関係というものは、案外目で見るだけでは分からないものだ──タイヨウは男とゴキブリの間に大人の繋がりを垣間見て、どこか率直に感心していた。
そんな彼らの姿を、ソラは半身を引いて観察していた。流石に悲鳴こそ上げないものの、できればもう少し離れていたいという思いがありありと窺える。普段はそんな人間関係の機微は無視するタキオリも、仕方なくガラクタの山を引っ掻き回す。しばらく格闘して引きずり出したのは革製のウエストポーチで、タキオリから見ても古臭いデザインだがなかなか丈夫そうだった。タイヨウにそれを投げ渡す──目を丸くした少年がそれを身につけると、ペットローチは喜び勇んでポーチの中に潜っていった。
「お嬢さん、こればっかりは慣れないとね。この先、地上を目指すなら」
「あ──」
地上──ソラはその言葉を反芻する。思い出す、タイヨウと別れた後、男たちに捕まった時のこと。スーツごと男たちに縛られて、身動きも取れないまま、暗闇の中をただ引きずられていく、恐怖と屈辱に満ちたあの時間。溢れそうな涙を抑えることが精一杯の抵抗だった──この地下世界において、あまりに自分は無力だ。
──それでも。それでも自分は、地上に帰りたい。絶対に諦める訳にはいかない。そのためには、今までの常識もプライドも、無駄なものはすべて捨てる必要がある。それこそ、ゴキブリを食べることになったとしても、立ち止まることはできないのだ。
「タキオリさん」
改めて、少女は男を見据える。その瞳が轟々と輝いている。脇に座る少年は今度こそ、続く言葉を冷静に待った。
「私は、地上に行きたいです。そのためには、タキオリさんの力が必要です」
その宣言ははっきりと、三人と一匹の空間に焼き付いた。力強い視線に応えるように、タキオリが真剣な表情で頷く。
「もちろんだとも。このタキオリ、できる限りの努力をもって、必ず君を地上に連れて行くと約束しよう」
少女の視線は、次いで少年に向けられた。しかし彼女の機先を制するように、少年が先に口を開く。
「大丈夫。ソラなら絶対地上に出られるよ。ここでお別れなのは、ちょっと寂しいけど」
精一杯の微笑み──タイヨウには自分がしっかりと笑えている自信がなかったが、それでもなんとか表情筋を動かした。地下生まれの少年と、地上生まれの少女。生まれも育ちも異なり、考え方もちっとも交わらない。それなら生きるべき場所もまた違うのだと、タイヨウはそう理解している。ソラは地上に行くべきだ。あらゆる障害を振り捨てて、何も遮るもののない場所へ届くべきなのだ。
ソラもまた笑う。表情を作ることには地上で慣れている。それぞれに生きるべき場所がある──それは何よりも、この旅路で少女が理解したことだ。新宿駅を自分の居場所と定め、彼は懸命に生きている。無理に地上へ誘うことは彼女の独りよがりに過ぎない。"一緒に行こう"という言葉は、心の奥に仕舞い込むことにした。
「ありがとう。地上に帰って、きっとまた会いに来るよ」
どちらからともなく、一歩前に出る。二人は互いの手を固く握った。タイヨウはきっとこれが今生の別れではないと信じることにした。地下に降る瓦礫には周期性があり、カケアミはその法則をもとに生きる。もしかするとまた彼女が降ってくるかもしれない。とんでもなくバカげた話ではあるが──そのとき、また網で彼女を受け止めるために、やるべきことはたくさんある。
「それじゃあ、早速準備をしようか! タイヨウ、最後に手伝いを頼むよ」
二人を気遣ってか、タキオリが手を叩く。タイヨウは頷いて身を起こす。
瓦礫も苦しみも暖かさも、何もかもが繰り返されてばかりだった地下の生活──その中で突如訪れた逸脱。忘れられない色彩と共に、一日が終わりを迎えようとしていた。
*
線路上。僅かな発光を反射して鈍く輝く軌条が、トンネルの奥へと続いている。
ガタン、と重いものが嵌まる音がした。タイヨウは大きく息を吐いて、枕木の上に座り込む。両腕がわずかに痺れている──最後の手伝いは随分と重労働だった。
「やっぱり私も手伝ったほうがよかったんじゃ」
「いやいや、お嬢さん。今そのスーツに無理をさせて、動けなくなる方が大変だよ」
タキオリの拠点から少し離れた場所。崩落した土砂に埋まっているように偽装された洞窟には、線路の本線から分岐した簡素なレールが引き込まれていた。その上に鎮座する緑色の手漕ぎ式トロッコは、先程タキオリとタイヨウが重量に呻きながら載せたものだ。タキオリはそれをオーバーグリーンと呼んでいた──旅商人をするにあたって、手ずから改造したらしい。
「よく考えれば、ソラのスーツを直してから出発してもよかったんじゃないですか? タキオリさん、知識あるんでしょ」
「ううむ、まあ確かにできないこともない。ただ、少しばかり時期が悪いかな」
トロッコを線路上に引き出しながら、タキオリは難しい顔をする。拠点を出る直前、ソラとわけのわからない単語を大量に用いて話していたのを見るに、タキオリにスーツの知識があり、修理もできるというのは本当なのだろう。ソラもその部分についてはタキオリを信用しているようだった。ただ重要なところをはぐらかすという点においては、男の胡散臭さは出会った時とさして差がない。たぶん素の性格もこうなのだろう──トロッコに積み込まれた物資を確認するタキオリは、既にいつもの表情に戻っている。
「なにはともあれ、助かったよ。これで出発準備は整った」
「ということは──」
正真正銘の、ソラとの別れ。少年は横目で少女の方を振り返る。いつか会えるとしても、その日はすぐにやってこないだろう──この段になって、覚悟は決めたはずだったが、それでも息苦しさを覚えた。それを誤魔化すように、タキオリに向き直る。
「じゃあ、僕は中層に戻るので」
そうして、ソラに最後の別れの挨拶を告げるためタイヨウの肺に込められた空気は、しかし吐き出されるべき時機を逃した。タキオリが何かに気付いたように、声を漏らしたからだ。
「しまった。そうか、少年の帰りのことを考えてなかった」
「え? 普通に歩いて帰りますが」
「いや、そういうわけにもいかなくてだね。言った通り、今はあまり良い時期ではないというか」
どうにも煮え切らないタキオリの様子を見て、ソラが心配そうに近づいてくる。
「タイヨウ? 一体どうしたの」
ソラの声にタイヨウが振り返り、次いでタキオリが顔を上げ──そしてそのまま男は叫んだ。
「トロッコに乗り込め!」
それは男にしては珍しく、切羽詰まった声色だった。すぐそこに迫る別れに気を取られていたタイヨウは、わけもわからないままタキオリの手で首根っこを捕まれ、トロッコに放り込まれた。一拍置いて、ソラがスーツを器用に操ってトロッコに飛び乗る。その表情はいつになく強張っている。
「ほら少年、頑張って漕ぎたまえ!」
「え、ちょっと!?」
言われるがまま、状況も掴めずタイヨウはハンドルを掴んだ。タキオリのリズムに合わせてハンドルをぐいと引き上げる──見た目の鈍重さに反して、トロッコはなめらかに動き出した。ぐんぐんとスピードを上げて、トンネルの奥、僅かに光の漏れる方向へ進み出す。
「ひっ──」
後ろでソラが小さく悲鳴を上げかけて、それを必死に抑える。
「ソラ、後ろで一体何が!?」
「し、白い──白いゴキブリが」
「一体なにを──」
タイヨウはトロッコを漕ぎながら、半身で後方を確認する。トロッコが徐々に加速し、それに従って追いやられる景色──それを乗り越えて迫る影は、確かに白く輝いている。光を反射するてらてらと艶めいた鞘翅、短く切りそろえられた太い触覚、細長く引き締まった胴体。トロの扁平で寸詰まりな体型とは全く異なる、速度と力強さを兼ね備えた、小山ほどの大きさがあるそれは、しかし明らかに地下でよく見られる昆虫だ。
「乗用ローチ、それも高級な白化種とは──連中の執念は驚嘆に値するよ!」
タキオリが叫ぶ。枕木を蹴って凄まじいスピードで接近してくるゴキブリのつややかな胴体には、革でできた帯のようなものが巻き付いていて、帯の上には男が3人乗っている。真ん中に立って鉄パイプを研いだ槍を構えるのは、この数日で幾度も目にした顔だ。余所者たちのリーダー格。彼がゴキブリの鼻先に差し出している赤い切れ端に、少年はひどく見覚えがあった。
あれは網だ。彼らを拘束するために使った網。ゴキブリは匂いに敏感だと、タキオリが言っていたことを思い出す。あの巨大なゴキブリにもトロのような能力があるのなら、確かにタイヨウの匂いを追うことはできるのかもしれなかった。それにしても──
「なんでアイツらが乗用ローチを!?」
「新宿の駅貴族が西方には分布しない大型種を買い付けているという噂は以前からあってね。ギンザ傘下の駅から流れているとは聞いていたが、まさか連中が仲介屋だったとは」
「アンタの話は難しすぎる! 僕にもわかるように言ってください」
「アレが連中の最後の切り札ということさ!」
肩で息をしながらトロッコを漕ぎつつタキオリが叫ぶ。特別製のトロッコは、人力で駆動しているとは思えないほどの素晴らしい速さで進んでいくが、それでも後方から迫るゴキブリがゆっくりと距離を詰めてくる。おまけにトンネルは緩い上り坂──そして前方には急カーブ。漏れ出す光が強くなり、カーブの先の光源を感じさせる。
「追いつかれる!」
「問題ないとも──左側に寄って、しっかり掴まれ!」
タキオリが檄を飛ばし、トロッコは速度を緩めずカーブに突入する。スーツを着込んでいるために最も重量のあるソラは、傾きそうな車体のバランスを取ろうとして必死に体を倒した。断続的な振動──続いて差し込んだ強烈な光が彼女の目を眩ませる。澱んだ空気が急激に動き出し、風切り音が耳と肌を撫で、心地の良い冷気が染み込んでくる。吹き荒れる風にトロッコが煽られ、車輪とレールの接続面が悲鳴を上げて火花を散らす。
「すごい……」
閉鎖された地下世界にあって、それはあまりにも巨大な空隙だった──新宿の大ウツロ。渦を巻く暴風に逆らって、上にも下にも無数の網が張られている。いつの間に夜が明けたのか、上方から差し込む陽の光を受け止めて、遠い網の重層が雲のようにきらめいている。下方には内壁の無数の窪みや張り出しに、多くの掘っ立て小屋が張り付いて、小さな人影がまばらに動いている。立ち上る炊事の煙が吹き散らされ、岸壁から噴き出す水流が波打ち、さらには風化した内壁の欠片や上空からの落下物が入り混じって、人々の頭上に降り注ぐ。
これが大ウツロ。新宿駅の中心であり、タイヨウの故郷であり、自分が降ってきた場所。その懐に人々を抱え込み、恵みと呪いを平等に降らせる無尽の大洞──その外周、削り取られた内壁にぐるりと埋め込まれるように、この線路は続いている。
美しい──そうとしか形容のしようがなかった。そこには巨大な力があり、それに抗う人々の営為があった。自分が置かれた状況をしばし忘れて、ソラはその光景に見入っていた。
「ソラ! あいつらはまだ追ってきてる?」
タイヨウの声でソラは現実に引き戻される。少年は漕ぐのに必死で、後ろを見る余裕もなくしているようだった。タキオリも表情は余裕そうだが、額には汗がにじんでいる。目を逸らしたい衝動を必死に抑えて、ソラは後方を確認する。大ウツロからの横風を受けて、白いゴキブリの走り方は少し苦しそうになっていた──それでもじりじりと迫ってきている。
「よくも仲間を────!」
「テメエだけは──」
ただでさえ大声で叫んでいるところを風音に遮られ、彼らの言葉は聞き取りにくい。ただ明瞭になりつつあるその表情は、今までソラに見せてきたものとは異なっている。略奪の対象への嗜虐や冷酷な無関心さとは違う、悲しみの混じった怒りの表情。
「あいつら、僕を追いかけてきてるんだ」
「え──私じゃなくて?」
「最初にあいつらに追いかけられたとき、罠に嵌めたから。何人か大鼠の牙にかかったんだ。たぶん熱病になって──もう長くない」
タイヨウが呻く。その瞳は罪悪感に揺れ、声には後悔が混じっている。そういえば、とソラは思い出す。あのとき、地下の洞窟で、ソラは彼らをちょっとした窪地に誘導しただけだった──彼らが何に驚いて潰走したのか、ソラは知らない。口ごもるタイヨウに敢えて聞くことはしなかったし、大鼠の話を聞いたときはデンシャに追われてそれどころではなかった。捕まったあとは疲労で気絶して、ミウラ以外とはほとんど会話する機会がなかった。囮を買って出たタイヨウが一味の大部分に追われていたのは知っているが、彼らがなぜそれほどまでにタイヨウに執着したのかは気にしていなかった。拠点の奥で隔離されていた人たちのことも、深く考えていなかった。
ここでも、ソラはタイヨウに守られていたのだ。ミウラが何も言わなかったのは──ソラへの配慮か。犠牲になった仲間のことも、殺されるであろう少年のことも、彼は口に出さなかった。『商品』であるソラを気遣って。鉄紺の髪を束ねた男の顔が脳裏を過ぎる。冷酷と慈愛を同居させた笑み。
自分はまだ何も知らない。どれだけのものを他者から与えられたのか、それを理解することもできないのだ。
唇を噛む。仲間の仇を討つため、彼らは必死に迫ってきている。トロッコの速度は徐々に落ちてきているし、こちらは人力で、このままでは先に体力が尽きる。追いつかれてしまえば戦闘になるだろう──自分はスーツに守られているが、バッテリーが切れかけていて戦闘は不可能だ。生身のタキオリとタイヨウはさらに不利で、ただでさえ疲労している上に猛烈に恨みを買っている。
自分の両手を見る。白い装甲に包まれた掌──彼らが元々欲していたのはこのスーツだ。彼らの前に差し出せば、間違いなく注意を引けるはず。一度引き離せば逃げ切ることはできるだろう──しかしこれがなければ、地上に出られる可能性は限りなくゼロに近くなる。
落ちてくるときに傷ついた足が熱を持ち、そこに巻かれた包帯の存在感が一層強くなる。あのとき、タキオリに助けられる前、デンシャを前にして自分を置いて逃げろと言うタイヨウに、自分は何と言っただろう? "私はまだ諦めてないから"──しかしそれは、自分を救うために犠牲になるという判断をしたタイヨウを、その精神を理解できないゆえではなかったか。
他人のために命を懸ける。他人のために自分を手放す。その選択が、その判断が、諦めに見えて憤慨した。簡単に折れるなと悲嘆した。しかし今になって理解できる。それは確かに諦めであったかもしれないが──次へと繋ぐ、未来へ託す、そのための決断でもあるのだ。
口中に湧いた唾を恐怖とともに呑み下す。視線感応式のコンソールが非常命令を受諾する。首元の着脱スイッチに手を伸ばす──大丈夫。たとえスーツがなくたって、きっといつか別の方法が見つかる。自分の未来を危うくしてでも、手の届く範囲に、守りたいものがあるんだ。
スイッチを押し込む、その一瞬前。前触れもなく、大ウツロが吠えた。
「な──!?」
「おわああ────!!」
タイヨウの驚愕と、後方に近づく男たちの怒声。地響きとともにトロッコが揺れる。びりびりと空気が振動し、レールが猛烈な不協和音を奏でる。次いで強烈な衝撃が加わり、少女は荷台から振り落とされかけた。トロッコが止まっている──レールから外れて脱線したのだ。浮き上がった枕木の隙間に車輪が引っかかり、不気味な金属音が響いている。
「まずい──お嬢さん、頼んだ!」
タキオリが叫ぶ。ソラは咄嗟に荷台から飛び降りて、スーツの両手でトロッコを掴んだ。パワーアシストを起動──関節部がミシミシと音を立て、擦過音が悲鳴のように響く。元より想定を越える負荷をかけられた上、まともなメンテナンスもなしに酷使されたスーツが限界を迎えている。モーターの空転音──ダメかもしれない。助けを求めるようにトロッコの上に目を遣ると、タイヨウが彼女を見つめていた。その表情に、一切の不安はない。彼は彼女に向かって、小さく頷いた。大丈夫、ソラならやれる。
──タイヨウは、私を信じてくれている。
──なら私は、私自身を。
周囲の雑音が一気に消える。すべての歯車が噛み合った感覚。主要部の関節をマニュアル制御に切り替える──トロッコを持ち上げる、その動作のみに最適化。全身のアクチュエータを連動させる。続いていた揺れが一瞬だけ収まり、重心が安定する──今しかない。
「動けええええ──!」
スーツが高らかに駆動音を響かせる。彼女の手はスーツから確かな重さを受け取る。トロッコが少し浮いて、そして重い金属が噛み合う音と共に、オーバーグリーンは線路に戻った。
「最高だよソラ! やっぱり君はすごい──!!」
タイヨウが叫ぶ。なおも続く揺れに翻弄されながら、興奮して腕を振り回す少年の笑顔には一点の曇りもない。倒れるように荷台に転がり込んで、エラーを吐き散らすスーツの制御系を黙らせながら、ソラは乱れた呼吸を整える。
頭の熱が引いていく。思考が切り替わる音がする。タイヨウの信頼が、それに自分とスーツが応えてみせたことが、確かな実感となってソラの心を満たす。スーツを捨てるのが一瞬早かったら、今の時点で詰んでいた。犠牲が必要になることは確かにある。もしかしたらこのスーツを手放すべき時が来るのかもしれない──しかしそれは、少なくとも今じゃない。
顔を上げる。トロッコの脱線で距離が縮まり、男たちがすぐ後ろに迫っている。大ウツロ全体を揺るがす振動に怯えているのか、白いゴキブリの動きは明らかに精彩を欠き、線路上を走るその軌跡はふらふらと左右に揺れていた。背中にしがみつく男たちは武器を振り回しているが、その顔色は明らかに悪い。こちらを罵倒する声にも力がなかった。
それはそうか、と思い至る──高速で動き続ける生物の背に乗るのは人間にとっても重労働で、それも地震という異常事態の中では、彼らだって命懸けなのだ。必死に白い背中にしがみついて、それでもこちらを指差して叫んでいる──それは彼らなりの勇気の表れなのか、或いは諦めが悪いのか。
いけ好かない誘拐犯だけれども、そこだけは自分とよく似ている。私もまだ諦めてない──くすりと笑って、少女は視線を前に向けた。
「ねえ、タキオリさん」
「なんだい!? 今あまり余裕はないんだが──!」
「大鼠の熱病って、何が原因なんですか?」
額に汗を浮かべながらトロッコを漕いでいたタキオリが目を丸くする──しかし丸眼鏡の向こうの瞳に、すぐに理知的な光が宿った。
「口内の分泌腺に存在する嫌気性細菌だ。破傷風菌の異常変種ではないかと言われているが、地下にまともな研究設備はないからね。少なくとも細菌性の感染症だよ」
「では、抗生物質が効きますよね?」
「我々のストックでは効果がなかったが──非超常医薬品、それも2017年当時の普及薬だったからね。地上の最新技術によるもの、例えば君のスーツに搭載されるような超現実環境用の医薬品ならば、あるいは。しかし」
「そこまでする必要があるのか、ですか?」
「ほう?」
男がニヤリと笑う。意地の悪さ半分、頼もしさ半分。ほんの少しの試すような光。ソラの考えていることを完全に見抜いて、更なる問いを投げてくる。
「彼らは君の敵なんだよ、お嬢さん。君を攫おうとして、スーツを奪いかけた。我々を追ってきているのは確かに少年への復讐のためだろうが、仮にその動機が失われたとしても、彼らは依然として君を追うだろう。互いの溝は埋まらない。情けをかける必要があるのかな?」
タキオリの瞳がぎらぎらと輝く。彼の言うことにも一理ある、とソラは思う。治療薬を渡したとしても受け取ってくれるかどうかは分からないし、それで帰ってくれる保証はない。大体、効くかどうかも分からないのだ。地下では些細なことで人が死ぬ。この争いもまたその一側面に過ぎないと言われれば、ソラの考えは地上の人間の幼稚な理想論に過ぎないかもしれない。
それでも、踏み出さなければ始まらないのだ。
「必要はないかもしれません。あの人たちは敵で、分かり合うことはできないのかも。……だけど、もう決めたんです」
「……たとえ無駄だとしても、かい?」
「そうならないことを信じています。だって」
──あの人たちも、私と同じ。家族や仲間を想う人間だから。
そうかい、と男が肩を竦める。その顔に作り笑いはない。仕方なさそうな、呆れたような、しかし少しだけ安心したように、タキオリは少女の背中を叩いた。
「やっと追いついたぞ!」
そんなやり取りなど知ったことかと言わんばかりに、白いゴキブリが迫り来る。やにわに背中の鞘翅が展開──まさか、と三人が思った次の瞬間、真珠色の後翅を輝かせて、甲虫は鮮やかに宙を舞った。リーダー格の男が立ち上がり、鉄パイプの槍を構えてこちらに飛び乗ろうとする。タキオリとタイヨウはトロッコの運転中、ソラのスーツは電池切れ寸前。飛び移るのを許せば万事休す──しかし、男が体重を前に移したその瞬間、黒い影がソラの頭上を飛び越えた。
「トロ!?」
ポーチから飛び出したペットローチは、鋭い動きで槍の穂先を躱し、男の顔面に飛びついた。驚いた男が態勢を崩す──眼前に飛び出した障害物を、白いゴキブリは反射的に避けた。男の身体が宙を舞う。大ウツロに放り出されかけたところで、なんとか身を乗り出した仲間の手に捕まるも、今にも墜落しそうな状況だ。
「タキオリさん!」
「まったく、仕方ない。4人分だ、お嬢さん」
頷き、少女が立ち上がる。スーツの装甲を一部解除。腰の生命維持装置の脇、装甲の裏側に設けられた収納スペースから、圧縮空気の排出音とともに多目的薬品パックが滑り出した。現実嵐の中で罹患しうる数々の異常疾患に対処するための簡易治療キット──1週間分が備えられたうちの、4日分。
「タイヨウ、これを!」
「よくわかんないけど──了解!」
トロッコの荷台に躍り出て、タイヨウがキットを手に取った。流れるように4つをひとまとめにしてロープを巻き付け、カウボーイの縄のように頭上で回す。仲間を引っ張り上げることに気を取られている男たちはゴキブリをまったく操作しておらず、白い昆虫は大気の揺れに怯えながら、大ウツロの気流に乗って所在なげに宙を舞っていた──カケアミが狙うにはあまりにも容易だ。
「受け取りやがれ、追い剥ぎ──!」
風切り音と共に投擲された薬品パックは狙い過たず、掬い上げられたばかりのリーダー格の男の首に巻き付いた。再び男がバランスを崩す。三人分の悲鳴が連鎖し、ゴキブリと男たちが一緒になって風に巻かれて、内壁に沿って下降し始める。
「人数分の鼠熱そねつの治療薬だ! 手切れ金代わりに受け取り給え、今すぐ治療しなければ手遅れだ! ミウラが使い方を知っているはず──!!!」
大ウツロに響くタキオリの大音声──あの大声で相手を威圧する癖からして、声量に自信があるものだとソラは思っていたが、本気を出すとここまでだとは流石に考えていなかった。びりびりと伝わる振動にタイヨウが顔をしかめて耳を覆う。スーツが異常を感知して自動的に聴音スケールを下げた。男たちは理解できただろうか、と望遠機能で遠くを伺う──激しく動く白いゴキブリを捕らえ切るにはセンサーの感度が足りないが、何やらゴキブリの背中から落ちそうになりながら喚いているリーダー格の男を、他の二人が後ろから羽交い締めにしているようだった。気流の動きに抵抗できないのか、3人と1匹の高度はどんどん下がって、やがて内壁の向こう側に消える。
「これでよし──このままあそこまで行こう。次に揺れが収まる前に!」
小さく息を吐いたタキオリの指差す先には、内壁の湾曲部にレールを挟み込むようにした小さな窪みがある。打ち棄てられたプラットホームだろうか、その部分だけが壁も床も天井も人工物で構成されていた。周囲を見渡せば地響きはますます酷くなり、上方から土砂が落下し始めている。残る力を全て振り絞り、タイヨウはハンドルを動かした。
トロッコが何とかプラットホームに滑り込む。前後するように一層強く地面が、否、空が鳴った。
「もう猶予がない。降りるよ」
這々の体でプラットホームに身を投げだした3人を、再び強い揺れが襲う。立っていられないほどの振動に、3人は這うように天井のある遺構に駆け込んだ。次々と瓦礫や岩が降ってきて、レールに激突して嫌な音を立てる。
「タキオリさん、一体何が起こってるんですか?」
少女の問いにタキオリは頷く。振動が激しさを増し、岸壁がごっそりと剥がれては、内壁を削りながら転げ落ちていく。
「この大穴に降るものには周期性がある。少年のようなカケアミなら、誰もが知っている法則だ──だから、ここを担当すると決まったときから、ボクはずっと調べていた。あの景色をもう一度見るためにね」
「あの景色……?」
「すぐにわかる。ほら、生き物たちも騒ぎ出した」
いつの間にかポーチに戻っていたトロが、頭と触覚だけを外に出し、不安げに周囲を見渡している。そしてタキオリが視線を向ける先──先ほど飛び出してきた横穴から、何か大きなものが勢いよく飛び出してきた。ひとつではない──複数。それどころか、何もないように見える内壁の至るところから、同様に何かが動き出す。
それらは生物だった──否、それらの一部は生物に見えた。もはや見慣れた巨大なゴキブリに、肉質の翅を広げた爬虫類、無数の触手を持ったデンシャ、回転翼を備えた鳥のようなもの、蠢く水の塊、そのほか分類もできないようなモノたち。形も色も異なったそれらは、しかし一様に内壁を登り、張り出しの影や窪みにしがみつき、またはその周囲を飛び始める。おそらく、この揺れで横穴の中は崩壊とはいかずとも、相当にひどい有様になっているのだろう。彼らは巻き込まれるのを避けるため、一斉に暗闇から逃げ出したのだ。
見渡す限り、大ウツロの内壁の至る所で、同じような事象が起こっていた。奇怪な鳴き声や意味を成さない吠声が重なり合い、崩落音と風音に共鳴する。ソラはふと心中で疑問する──彼らは本当に逃げ出しているのだろうか。むしろ穴の中心を取り巻いて、風に巻かれた蝶のように舞うそれらの様子は、彼女の目に、何か偉大なものを迎える祭りのように映った。彼女の鼓動は、生物たちの熱気に飲まれたように速まってゆく。
そして、それを見た。
「あれは──」
中天を巨大な影が覆う。矢のように鋭く尖ったそれは、行く手を阻む幾重もの網をまるで紙のように引き裂きながら、穴の中央をまっすぐに、そしてゆっくりと落ちてくる。切り開かれた道を謳歌するように、阻まれていた光が世界に満ちる。ソラには赤と白に配色されたそれが、穏やかな水面に飛び込んだ、一匹の緋鯉のように見えた。千々に引き裂かれて宙を舞う色とりどりの網。狂乱する生物たち。紙吹雪のごとく穴を彩るそれらは、輝ける陽光に照らされて、巨大な落下物を祝福する。
ソラは、それの名を知っていた。それは象徴にして象形だ。滅びる前の東京を象る、人々の意識の中心だったもの。
「──東京タワー」
真芯から折れた東京タワーが、新宿の大ウツロを逆さまに落下していた。大気を、網を、岩壁を、あらゆる障害を砕き伏せて、それは雷鳴のごとく叫びながら底なしの闇へと墜ちていく。その美しさに目を奪われていたソラは、はっと我に返ってタイヨウを見る。あれは網を割り、太縄を引きちぎり、もしかすると内壁に激突するだろう──タイヨウが住んでいた場所もただでは済まない。そうなれば、彼は帰る場所を失う。
しかし──ソラの心配を他所にして、少年はそれをただじっと見ていた。誰よりもその景色に魅了されていた。
空を覆っていた人々の執着、繰り返しを享受する天井──それは生きるという意志の結実だ。それを残酷に穿つ鉄塔は、少年にとって忌むべきものだ。しかしその目を焼かんばかりの色彩で、光で、衝撃で以て、その塔と後方に広がる空は、中天に輝く赫々たる恒星は、今や彼の心から一切の拒絶を奪い去っていた。
彼の心に残された熾火──父が語った夢への同調。灰色の日々に塗り潰されていた、憧憬の先にあった鮮烈な青に、少年は思わず手を伸ばす。届かないとわかっているはずの空。これほど青いとは知らなかった空。生まれて初めて見る、天蓋のない頭上の景色。
太陽の光を受け、鮮やかに輝く空色の目。遥かなる上空を見据える、少年の眼差し。
それを、タキオリは眼鏡越しに捉え、息を呑んだ。失ったはずの輝きが、そこにあった。
それを、少女はバイザーを脱いで確かめた。湧き上がる思いを必死に抑えた。閉じ込めた言葉を外に出さないように、苦しい胸をぐっと抑えた。
男が少女の背を叩く。心配そうに振り返った少女は、様々なものを失ったはずの少年へ、何を言うべきかわからないのだろう。彼女をできるだけ安心させるべく、タキオリは静かに微笑みながら首を振る。心配する必要はない──彼は自分で進む道を決められるのだ。少なくとも、タキオリはそう信じていた。
少女は上を向いて大きく息を吸う。その声が、絶対に届くように。どんな言葉が返ってきても、笑顔で受け止められるように。そして、はっきりと、彼の名前を呼んだ。
「タイヨウ」
少年が振り返る──たった一粒、涙が零れ落ち、消える。少女は一歩前に出て、少年の手を取る。彼もまた、彼女の手を握り返す。暖かく全てを照らし出す橙と、無限の広がりを持つ青。今二つの瞳は、どんな鏡よりも鮮明に、互いを映し出していた。
「行こう。一緒に、地上へ」
放たれた言葉が二人の間で揺れる。少年は考える。父親は地上を目指して死んだ。住人はそれを愚かだと言い、愚かな男の息子を憐れんだ。己もまた頷き、父を憎んだ──けれど、父は本当に愚かだったのか?
彼の目指した光は間違いだったのか──ずっと間違いだと思っていた。今、その問いの答えはわからない。けれど答えの一端を垣間見て、もはや二度と間違いだと頷いて、日常に戻ることはできないだろう。
だからこそ、確かめる必要がある。
「うん。掴もう。あの空を」
少年は頷き、そして笑った。
*
かつて、ひとつの旅があった。
光を求めた輝きがあった。地上を目指した勇気があった。しかし希望が潰えて久しく、今や残るのは燻りのみ。
今、地下の繰り返しが告げる。人よ、何度でも歩み出せ。そして再び始まりが訪れた。
中心に立つのは、二人の子供たち。
斯くして、新たなる旅が幕を開ける。進め、少年少女。遥かなる輝きは、君たちの中に。