語るべきことがある。
1945年3月26日。沖縄本島が、絶海の地獄と化した日だった。
第二次世界大戦末期。沖縄へと、連合軍が到達したのだ。日本全土でぼんやりと厭戦の風潮が漂う中のことだった。4月の始めには大小合わせて200隻からなる軍用艦が10万発に迫る砲弾、後に『鉄の暴風』と呼ばれるそれが本島西部目掛けて叩き込まれる。島の形状が一部変形するほどの超火力砲撃を皮切りに米陸軍の段階的な上陸が行われ、その後の地上戦はさらに苛烈を極めた。
約3か月の激戦の後、6月22日。本島に残留していた部隊や民間人の殆どが降伏し、後に『沖縄戦』と呼ばれる一連の戦闘は幕を閉じた。両軍及び現地の民間人も含め約20万人が戦没し、とりわけ沖縄県民については当時の住民の内4人に1人が死滅する被害状況。長きに渡る地獄が過ぎ去った朝空の下、その焦土には瓦礫すらも残っていなかったという。
或る少女の産声はこの僅か1日後に上がった。単独出産に挑んだ母親は栄養失調などにより衰弱死し、防空壕の中から響き渡る産声を聞きつけた米軍兵士が遺体と新生児を回収する。その後本島に設置された捕虜収容所にて身元不明新生児の育児担当者が一斉募集され、夫と生後2ヶ月の我が子を喪ったばかりの女性がこれを担った。
結局この育ての親も終戦直後の混乱の最中に病で命を落とすが、若干6歳の少女は3人目の母親に遭遇することなく、以降ほぼ自力で混沌の時代を駆け抜けた。恐らくは2人の母が心の底から願ってくれたのであろう自らの生を貫徹するために、少女は『島袋』の姓を背負い、貪欲に生き、貪欲に学び、孤独に戦い続けた。一時は孤児院に身を寄せ、その折に米軍兵士の見様見真似からギターを極めた。成人後は食品工場での労働と米軍基地内でのバンド活動で日銭を稼いだ。
一度だけ恋心を抱く機会はあったが、もはや青年期にはギターと工場と飽くなき生存が彼女のすべてと化していた。メンバーの1人が暴力団員に刺殺されやむなくバンドを解散した後も、ギターと労働に明け暮れ、その代わり以前より人との関りを拒みながら、1人で生き続けた。
"それ"を知覚したのは23歳の夏だった。
丁度『本土』の人間が挙って「戦後からの脱却」を騒ぎ立てていた時代、後に高度経済成長期と呼ばれた一連の時代の真只中である。育ての母が眠る集団墓地に向かう最中、ギターを背負ったスカジャン少女は三叉路の手前で目を閉じ、そしてもう一度見開く。ある筈のない海が眼前いっぱいに広がっていた。
正確に言えば、この場合「ある筈がない」のは海のほうではなくスカジャンギター少女の方である。那覇市郊外を歩いていた筈の少女は、遠く石垣島の小規模な集落の路地にその身を転移していた。わけも分からぬままこの日の内に3度の転移を行うも、日を跨いだ深夜4度目の転移でついにその法則性と扱い方を心得る。以来凡そ50年間、特に誰に伝えるともなく、この能力を密かに生活の一助としながら沖縄諸島を生きた。
転移能力者『島袋紀子しまぶくろのりこ』。御年76歳、夏。
独りを体現していた彼女にとって、それは初めての"同族"との遭遇だった。
"ババア"
イニシャル: BBA
種族: 人間
性別: 女
生年: 1945年6月頃と推定
職責: 転移術者
「──人のクレームを横から邪魔しやがって。ナニモンだガキ共」
「こっちの台詞だ。アンタは誰でここは何処でさっきのは何だ?」
そう聞いた瞬間、買い物袋を片手にサンダルの婆さんが不敵に笑む。出汁が取れそうなほど古びたスカジャンを海風にはためかせながら。今のご時世には時代錯誤も甚だしいツッパった不良少年の目で俺を見つめながら。
「ただの婆さんで、お前らの同族ってとこかね」
「同族の定義によりけりだが、つまりは何だ。アンタ──」
パチン、と文字起こしする他無い、やけに残響が耳に残る音と共に、風が止んだ。ユタ(の身体を借りっぱなしの落武者殿)に続いて一気に周辺を見渡す。食卓だ。一戸建て平屋の。俺達の位置関係だけは一向に変わらないまま、位置情報だけが切り替わっている。
アポートだ。アーティファクトを使用した形跡はない。正真正銘この婆さんの体に刻まれた能力らしい。しかもとんでもない精度で転移させやがった。座標ずれを起こして構造物にめり込み死亡するといった図書館で閲覧したような転移事故あるあるを綺麗に、しかも全自動で都合よく回避してやがる。
「……俺の同族ではないと思う」
「だったら帰んな。さっきの店までなら送り返してやる」
「同族かもしれません」
「土足で畳を踏むな。ぶっ殺されたいかクソガキ」
「アンタが上げたんだろうが」と動転しながら柄にもなく焦って靴を脱いだ。ユタも続けてサンダルを脱ぐ。婆さんは満足したように胡坐をかき、しかしその両足にはめた土足は決して脱ぐことなく、俺に問う。
「……で、ナニモンなんだガキ共」
「……国頭改。“蛇の手”の構成員。アンタみたいな連中を探していた」
「何の答えにもなっちゃいないね」
そりゃそうだ。がしかし今はそれ以外の答えを持ち合わせていない。
俺の隣でお行儀よく立ちつつも「いざとなればいつでも殺れる」みたいな雰囲気を醸し出している平inユタをそれとなく諫めつつ、何処からか垂れる冷や汗を感じながら次の解答を脳内で高速検索する。
この婆さんにかかれば俺達を財団エージェントの元までトンボ返りさせる芸当など容易であろうことは最早嫌でも確信せざるを得ない。単純かつ明快に俺達の命運がガッチリ握られている。出逢って数秒の婆さんに。靴も脱いでしまった手前、靴下であの灼熱のコンクリ上に戻されるのも御免だ。
「小僧」
「はい」
婆さんが口を開いた。再度背骨を伸ばして身構える。このご老人はついさっき俺達を"匿う"と申したが、常識的に考えて相応の対価なしにンな親切を焼いてくれる理由も義理もない。良くて何かしらの条件やら何やらを言い渡されるし、悪けりゃ今度は婆さんからの逃走劇だ。それが可能かは知らんが。
ともあれ、どうにかこの場を上手く切り抜ける。交渉だ。真っ向からやり合う勝算が見えないなら結局この手段に頼るしかない。何とかして両者WinWinでカタをつけてみせる。
婆さんの言葉の続きを待つ。
さて、どんな条件が来る?
「家事」
「……カジ?」
「家事だ。そろそろ一人で掃除やら何やら済ませるのにも飽きてきてね。お前さん、当然マトモな米は炊けるんだろうね?」
「……炊飯洗濯皿洗い、風呂掃除まで基本的な生活雑務はこなせると思う。思います」
数秒の沈黙。その後で、婆さんがハン、と笑った。
「良し」
不自然な量の汗と共に目覚め、やがてその不愉快の正体が他人の素足による理不尽な圧迫であることを知る。
ババア宅に転がり込んでから3回目の朝日を拝んだ。絶妙に汐臭い布団から顔を引き剥がし、色気もクソもない寝相のユタをそっと退かしながらカーテンを開く。
「んぃ……」
「……」
無防備に寝返りを打つついでにもう一回俺に蹴りを叩き込み、社会不適合成人女性が髪を乱す。黙って寝てりゃ可愛いかもしれん。事実聞くに忍びない声を上げられてこっちの気もそこそこ動転しているし、昼間の煩さを鑑みればそのまま一生寝ていてもらって構わないくらいだ。
自分の布団だけ畳んで詰めて、さっさと部屋を後にする。襖を挟んだ西隣の部屋に移動し、夜逃げ用にまとめておいた荷物類から例の脇差を取り出した。薄暗がりの中で三回ほど撫でさする。
「朝っス」
「ここにいるが」
「どわぁッ!!!」
都内では絶対に出せない声量で振り向く。部屋の奥の方に幽霊そのものが突っ立っていた。食らうのは二度目だが三日も間を置いたせいか耐性が無くなっていた。もう少しで腰が抜けるところだったのは多分向こうにも悟られている。
「居ったんかい」
「驚かせてしまったか」
「本物の幽霊に背後取られて声まで掛けられてンスよ俺は。勘弁してください」
「久方ぶりにサキ以外と話す機会があったせいかもしれない。時々自分が死んでいることを忘れてしまう」
「良いことなんじゃないすか」「死人のように彷徨うよりはな」「死人は彷徨わねえんです」とグダグダ応酬しながら、その足で縁側の戸を開け庭先に出る。太陽は未だ完全に昇り切っていない。
「良い日課だな」
「記憶が正しけりゃ三回目っスよそれ」
「猶更都度褒めるべきだ。武人の生命とは即ち継続の姿勢にあり、その点そなたは生きた武人そのもの故な」
「生憎ただのエンジニアなもんでね」
裸足のまま土を踏み、前へ。これから先30分間は大地そのものが味方となり敵となる。胸中にぶら下げた重心を適切に揺らし、前へ。前へ動く。
「下手な柔軟体操は怪我の元だ。起き抜けにいきなり身体を動かすからこそ意味がある」……と、姉貴が言っていた。兄弟子の受け売りを自信あり気に。同じ内容を教わった筈なのに、思い出すのはいつも姉貴の顔と、少し大きめの背中だった。直接会わなくなってからどれほどの時間が経過したのだろうか。
庭の中央。踵同士を均等に触れ合わせた直立姿勢。尾骨から頭頂部に掛けて一直線に通された体軸を起点に、両手の平を腰の前に重ねる。まずは右拳から。西の空に夜を控えたまま、夜のうちに雨に降られた泥を左足で蹴り潰し、小学校の入学以前から一度も忘れたことのない体動作を開始する。
開脚。文字通りの空手が空を切って太陽光を捉えた。“ナイファンチ”と呼ばれる沖縄空手全般に共通する基礎の型。そして最も練度が如実に表れるフォーメーション。両肩より若干幅を取って広げられた脚を起点に左右へ状態を捻れば、少なくとも徒手空拳にて敵と対峙した場合万全の戦闘態勢が確立される。姉のついでと送り込まれた空手教室で教えたがりの補助教員に齧らせてもらって以来、毎朝勝手に庭先に出てはこの型だけをトレースし続けていた。姉と一緒に。
別に完璧に出来ているわけじゃない。学業に専念し始めたとかで途中から道場を辞めた姉も、最後までこの型の神髄に辿り着くことは無かった。空手の型稽古にもそれぞれの難易度や習熟までの想定期間というものがあるが、とりわけナイファンチは「達人をして生涯未完成に終わる」などの逸話を残すほどに奥が深い。奥が深いというか、辛うじてモノにしてから更にレベルMAXまで持っていくのに骨が折れるのだ。
右基準の動作が終われば同じ動きを左半身でもう一度再現する。この再現を及第点まで洗練するだけで中学校入学から卒業までの歳月を要した。モーションをそれっぽくトレスするだけなら呼吸と同じだ。それで終わる筈が無いから何ともタチが悪い。ゆらりと規則的に伸ばされた無手。握り込まない拳を仮想の敵に突き付ける。身体を貫く一本線を軸に何度も地を踏みしめる。忘れないために。いつでも完全体に戻るために。
「……毎度思うんですけど」
「何だね」
「見ていて楽しいっすか」
「楽しいというか、懐かしんでいるのは確かだ」
「誰を想っての懐かしいかによるな」
「叔父の息子」
「……何歳頃の」
「数えで8」
「……」
随分な言われようだ。右の拳を向かって左方向に、今日一番のキレで突き付ける。その軌道に沿って重心そのものを動かすよう横歩きに移動した。
「良い動きだ。10歳頃にはなったかな」
「受肉でもしてくれりゃ間違いなく立ち会ってるぜ」
「サキの身体は貸せんが、試してみるか?」
「俺にも沽券ってものがある。格上相手に無計画のまま挑むつもりはない」
「賢明だな」
「そりゃどうも」
言い切ったはいいものの何だかとても格好のつかないことを言ってしまったかもしれない。たかが正常性維持機関相手にこんな孤島まで逃げ隠れして、しかも肝心の逃げ隠れは他人の能力に頼りっぱなしだ。現状俺の気にするべき沽券が何処にある。
何より相手は何百年か前に本物の実戦を経験してきた武の大先輩だ。喧嘩吹っ掛けるような真似しておいて自分から引き下がるのは流石によろしくない。型の途中で平に向き直り、とりあえずオーソドックスで構えた。半分は好奇でもう半分は前言の撤回を兼ねている。
「お互い寸止めは必要無いっスね」
「そういうのが流行り始めたのはずっと後の時代の話だ」
「子供相手でもそのスタイルで教えたと?」
「痛みを伴わねば武が身に付かず、秘めたる才もまた日の目を見ることはない。そなたに不足しているかは某も知らなんだが」
「是非とも教えてもらおうか。先輩」
人んちのガラスを蹴り破るのもよろしくない。「アンタから斬り込んで来い」とジェスチャーを飛ばして半歩下がる。
アルファ値70%の髭を少しだけ傾け、平安武士がヌラりと眼前に迫った。
:
「──で、負けたんだ」
「死人相手に十回死んだ。お前もうちょいあの人に敬意払った方が良いぞ」
「死人にぃ? なんで?」
「一番霊能力者やっちゃダメな奴の発言を容易く更新すんな」
「ノロだっつってんだろ」
「おい足蹴るな! 何回蹴ったら気が済むんだお前は」
「これが一回目だが!?」
午後12時と30分。例によっていつの間にか本島での買い物とサ店での一服を済ませた婆さんが新聞を広げる中、俺の昼飯及びユタの朝飯を用意する。
居候2日目にコイツの生活能力を試した折、そもそも包丁の握り方もロクに学んでいない事は確認している。この女に俺たちの生活を左右させるつもりはない。水とそうめんを突っ込んだだけの耐熱容器を電子レンジに放り、未開封のめんつゆと冷凍の小葱を取り出す。買ったばかりの箸も。タンパク源は冷凍のフライドチキンで確保することにした。
例によって野菜が足りない。茹で野菜でも作っとくか。
「婆さんは食べないのかい。今からでも素麺作れるけど」
「外で食う」
「本島?」
「何処だって良いだろ」
「財団の目があるっつってんでしょうに」
「アタシがタダで捕まるかよ」と一蹴された。朝から上機嫌っぽくて何よりだがこちとら人んちに2人+幽霊1体で押しかけ中の身である。おまけに台所まで借りている始末だ。強気に制止できないし下手に文句を言える立場でもなかった。
婆さんは恐らく誰にも捕まえることが出来ない。下手に触れると知らない三叉路に飛ばされるか、逆に婆さんそのものが消失して事が終わる。恐らくは能力を行使される直前に意識を奪うなどの措置を取らない限り捕獲は厳しく、更に言えば捕獲したところで覚醒後脱走されない保証は何処にもない。アポーターは正常性維持機関にとって悪夢そのものである。財団に顔が割れていない今なら特にそうだ。
「カイのご飯美味しいよ。食べてきなよオバア」
「レンチン素麺食わされてヘラヘラ笑えるほど腐った舌じゃねンだよクソガキ。洗濯物と皿洗いはお前らでどうにかしとけ。晩飯は家で食う」
「何か希望あります?」
「6時までに米炊いて待ってな」
「ウス。行ってらっしゃいませ」
もはや聞き慣れた軽快な破裂音と共に婆さんが消失する。同時にレンジが素麺の調理を完了した。
取り出してから内容物の半分をもう片方の容器に移し、麺つゆと冷凍ネギをさっと振りかけてから居間の卓袱ちゃぶ台に搬送する。ユタは庭の方をぼーっと見つめながら胡座をかいて静止していた。その先を追いかけてみても、あるのは無限に打ち寄せる白波と浜くらいのものだ。何か変なものと交信してそうな面構えだ。
「宇宙に意識でも飛ばしたか?」
「……」
「囚人番号002。配給食だ」
「誰が囚人だこら」
「返事しろってんだ。ちょっと怖えんだよその交信モード。昨日のアレ普通にビックリしたからな」
夜中に尿意で目を覚ました際この状態のユタと遭遇して軽い悲鳴を上げた。幽霊といいコイツといい瞬間移動で帰宅する婆さんといい、どいつもコイツも心臓に悪い真似ばっかしやがって。俺は兎も角よく共存出来るよお前ら。
恐らくロクに俺の文句を聞いていないユタに箸を勧める。二人して卓袱台を囲み手抜き素麺を啜り始めた。
「美味い」
「そーだな」
「平の分ある?」
「は?え、何、素麺食うのあの人」
「食べるよ」
「先に言えよ」
「茹でるの一瞬じゃん」
もちゃもちゃと素麺を啜り、タンクトップの襟の辺りに若干麺つゆを飛ばしながらユタが箸を振る。あんまコイツと一緒に外食したくないな。
「御供え物的な何かを提供すりゃいいのか?よくわからんが」
「いやあたしの身体に憑依させて味覚共有する感じ」
「想像の5倍根性だな。旦那ー!」
「何かねー」
「素麺食うー!?」
「1人前頼もうかー」
「茹でとくわー」
「……マジで食うんだ」
「あたしらを何だと思ってんのさ」
「人んちの墓場で酒飲んでガキにボコされるヤニカス霊能力者と平氏の落ち武者」
「あんだとー」
別に間違っちゃいないだろうに。続けてレンチンを終えた冷食フライドチキンを皿に盛る。ユタとほぼ同時に貪った。若干冷たい部分が残っている。若干薄くなった麺つゆと一緒に素麺を啜る。溶け切っていない小葱が唇に跳ねる。
海風。離島の静寂。遠く聞こえる波の音。
縁側の先に滞留する熱。人為的に設計された開放空間。亜熱帯への適応のみを目的に受け継がれた建築様式。畳や梁など日本建築の要素を秘めながら何処となく「日本」の枠組みからは零れ落ちた生活の場。啜る素麺。
生まれは宮古だが、そこから遠く数十キロ離れたこのセーフハウスにも少なからず生家との共通項は見出だせる。紛うことなき沖縄の地であった。
「……んで3日目か」
変な食べ合わせの昼飯を惰性で咀嚼しながら、霊能力者と幽霊と転移能力者に出会って以降の4日間をダイジェストで振り返る。
1日目。何の気まぐれか婆さんは俺たちをしばらく匿うつもりでいるらしく、とりあえず一時身の安全が確保されたものとして接触した超常存在の全員から事情聴取する事にした。1人目は地縛霊のオッサンこと平。平氏の落ち武者を自称するクラスⅣ霊的実態。一番会話が通じそうだったから消去法だ。
「──というわけだ。本土に更に詳しく出自を示す文献があるやもしれぬが、ひとまず某の過去については概ね話し終えた」
「ご協力マジで感謝ッス。出るとこ出れば日本史研究がウン百年のレベルで進みますよ」
「そうしてやりたいのは山々だが、何ぶん諸島に根を張る地縛霊ゆえ、な」
聞けばこの地縛霊、“平”を名乗りながら血筋的には平家の血をミリほども引いていないという。血縁関係を結び平家付きの戦力として汎ゆる騒動に従事した分家の末端であり、源平の小競り合いでは1184年の宇治川の戦いにて初陣を飾っている。当時は数えで14歳だったらしい。なおWikipediaに記載された史実の示す通り大敗北で幕を閉じたとのこと。
その後源氏による追撃作戦に幾度なく応戦するも奇跡的に生き残り、壇ノ浦合戦では早々に敗色を見極め身内の数名と共に戦線を離脱。九州伝いに半年かけて逃亡し、やがて沖縄本島に吹き溜まるに至る。
その後相当数の平氏落人が続々と沖縄に流れ着くも、この通り霊的実体として死後残留したのは平ただ1人だったらしい。享年39歳。以来これの供養を担当したユタの血族から適性のある能力者が生まれ次第意識を回復し、何だかんだで2022年現在までその存在を保っている。
少なくとも俺はこのオッサンを「霊体化」という超常災害に巻き込まれた一種の被害者であると認識する他無かった。差し当たって思い浮かぶ未練もなく、義を重んじ恨み晴らさんと本土の源氏にカチコむには余りにも遠く離れた地に根差したまま、今に至るまで霧散を許されない魂。平は多くを語らないが、語らないからこそ俺には計り知れない心中を案じる他ない。
俺はこの人?に対して本来どう在るべきなんだろうか。
2日目。ユタ。本名玉城たまきサキ。ヤニカス女。自称「最後のノロ」。
「玉城サキ。最後のノロだ」
「バリエーションとか無いわけ?」
「うるせえ」
ノロ。琉球王国時代から続く女性の祭祀者。ユタ(この女じゃなくて役職の方だ)が民間の霊能力者であるのに対し、ノロは王府によって公認された、いわば公的な神女である。琉球処分以降その多くが廃絶され、戦後の混乱期を経て完全に途絶えた……とヴェールの表側の資料群には記載されている。
だが、血筋はそうそう途絶えるものではない。戦国武将の子孫だって探せばゴロゴロと出てくる世の中だ。とはいえ、末代のこの女がこの有様であるのは随分と先祖の皆さまも浮かばれなかろう。
というか、「ノロ」なのに呼称が「ユタ」であるややこしさにもっと早く気づいておくべきだった。なんで当人が普通に受け入れているんだろう。彼女の諸行自体はノロどころかユタと呼ぶのすらそこらの職業ユタの皆さまに失礼なレベルだけども。
「お前、平の旦那にあんま迷惑かけないほうがいいぞ」
「目にみえるようになったのは、あたしが願った事じゃねえし」
「ノロってだけであんなことできるもんか?」
「さぁ」
今把握している能力は、平による傀儡化。これはどちらかというと平の特性だから、この女が持っているのは平という存在の依代管理者という立場くらいなもんである。
「血縁者は他にいるのか?」
「知らね。だって母親はどっか消えたし」
身よりは完全になし。まあ、家を見た時からそんな気はしていた。
この島ではそう珍しいことじゃない。沖縄県の離婚率は全国平均のざっと1.9倍であり、これは若年層がホイホイ出産・結婚・離婚のサイクルを繰り返す地域的背景に起因する。経済困窮や家庭崩壊は最早当たり前に生じており、子供の身ながら「家庭」という絶対的安置から爪弾きにされ、一人で生きていかざるを得ないパターンは無数に存在している。
歴史からは逃げられない。離島の中で繰り返される連鎖は、「これが普通」として島の生活に存在し続ける。これまでも、そして恐らくこれからもだ。
「家系? がなんかここら辺のノロの末裔とか何とかでさ。戦前は御嶽の管理とか祭祀とか色々やってたらしいんだけど、戦後にぐちゃぐちゃになって今、みたいな?」
「その末路がお前ってわけか。なんかノロらしいことしたりしてないのか、今んとこ墓荒らししてる社不だけど」
「なーんも。でも平見えるしな」
そう言って煙草をふかしながら、ユタは遠くを見つめていた。
霊視。霊との会話。そして憑依による霊障の発動。言ってみればユタの体は、平が肉体を得て、己の武を借りて戦うことを可能にする稀有な能力者だ。ただし憑依中は平の人格が表に出るため、サキ本人の意識は後退する。完全に消えるわけではないが、主導権は平が握ることになる。正しく神懸かりと言えるだろう。
「……で、何でこんな話してんだっけ」
「俺が聞いたんだよ。お前の身の上」
「身の上って程のもんはないけど。なんか生まれてて、ここで育って、平に出会って、変な男に着いてきて今に至る。以上」
「雑すぎるだろ」
「仕事はやってない。金ならあったし」
この女、どうやら先祖の金を食い潰してなんとか今日まで生きてきたようである。よく沖縄の気候と周囲の人間関係を潜り抜けて生きながらえたものだ。ガキにすら負けるってのに。
ただ、決定的にこの島で生きながら、爪弾きにされる人間。そういう側面で俺とコイツは同類であろう。
「てかあの家帰れねえの?」
「戻ったら捕まるぞ。てかまず家ん中汚すぎな」
「んなこと言うならお前が片付けしろよ」
「小間使いじゃねえんだぞお前」
で、3日目。別に1日につき1人ずつ聞く必要も無かったんだが外出続きでロクに話せてなかった謎の婆さん。島袋紀子。転移能力者。
「……お話聞かせてもらって良いっスか」
「応。何から話しゃいいんだね」
荒々しい言葉遣いとカミソリみたいな気迫に反して実直な性格であることは特筆すべきかもしれない。
曰くあの沖縄戦の直後に生まれたご老人らしい。戦争直後のゴタゴタや混乱、物資も薬剤も足りない状況下で生まれの親と育ての親を幼少期に亡くしたとのことだ。そのスタート地点から今やこんな大きい一軒家を持つまで行ってんだからパワフルな人だ。缶詰工場とギター、23歳の頃モノにした転移能力の3つだけが人生だったとか何とか。
しかしこの婆さんある意味ちゃんとしているというか、転移能力についてはその詳細を一切語らないのだ。このレベルまで精密かつノールール(に見える)転移能力者などそういたものではない。蛇の手の構成員としては早いとこそれを知っておきたいのだが。
「気まぐれにアンタらを匿ってやった。それに飽き足らず力まで教えろってのかい」
「申し訳ないが対価は用意できない。だが絶対に悪いようにはしない。約束だ」
嘘をつく己を許せるような性分ではないので、ここは正直に言うしかなかった。婆さんは煙草に火をつけながら、一瞬、黙りこくる。果たして呑んでくれるだろうか。
「ま、教えたところで小僧程度じゃあどうとも出来んか。教えてやってもええ」
婆さんはカカカと笑った。お気に召してくれたらしい。にしたって他ならぬ事実に過ぎないのだが余りにも俺を舐め腐りすぎていやしないかな。
「石敢當いしがんとう。流石に知ってるな」
「まあ当然に」
「そんなら話は早い。簡単に言えばそいつら間をひとっ飛びできる。それだけさね」
「はあ」
「……はぁ?」
一瞬間抜けな相槌を打ったあと、時間差で唖然の声が捻り出た。
石敢當。
丁字路の突き当たりに置かれる魔除け。伝承曰く、直進することしかできない魔物「マジムン」を祓うために設置されるもので、琉球王国が成立する前からざっと400年以上は受け継がれてきた歴史の産物だ。
今現在、石敢當は南西諸島や沖縄のあらゆる建物、石碑、塀に存在している。街角であればなんでもいいのだ。とりあえず家があればシーサーがあって石敢當がある。故に沖縄県民であればお目にかからない日はない。"よく見る"という領域すら超えて、最早意識すらしない程に生活に在る物である。
それらの間を、自由に転移ができる。
この島々に数千を超えて存在している、すべての石敢當から石敢當へを。
先日の転移現象を思い返す。パチンという音ひとつで500キロ以上の転移を成し遂げて見せた能力のからくりは、一見無法にみえて「石敢當の間限定」という割と重めの誓約があり、しかしこと沖縄県というフィールドにおいては無法そのものたる代物だった。
恐らく転移術者としても最高峰。たとえ財団でもこの婆さんはそう捕まえられない筈だ。
まさしく野良の怪物という表現がふさわしい。
「……確かに、俺には敵いそうもない能力ッスね……」
「あぁ? そんじゃあ、今まで敵うつもりだったんか」
婆さんはまたもやその特徴的な笑い声を響かせて、「生意気なんも嫌いじゃないがね」とぶっきらぼうに言葉を寄越した。パチンと音が鳴る。次の瞬間、俺の目の前には乾燥に乾燥を重ねたサーターアンダギーがカゴごと卓袱台の上に召喚されていた。
ここまでが今朝の話だ。その後は大雑把にしか覚えていないが、放置四日目だと思われるガッチガチのサーターアンダギーは控えめに一個だけ頂いた記憶がある。あれは、認められたということで良かったのだろうか?
「ユタこれ食わねえの?」
「これ硬いからヤだ」
もう昼頃になるというのに、卓袱台の真ん中には未だに乾燥アンダギーが放置されていた。カビる前にさっさと処理しておきたい気持ちはある。フライパンで焼いたらある程度味の回復を図れるだろうが、何度揚げまで許されるだろうか。
ともかくあとで試してみよう、と思いながら箸で麺を掬った、瞬間。
耳が確かに異音を拾う。セーフハウスの真ん前。玉砂利の音。
続く静寂。二人して箸を手に取ったまま硬直した。
「カイ?」
「お前は下がってろ。平?」
「おるぞ」
「偵察だけ頼まれてくれるか」
「承知した」
比喩とかそういうのを抜きに部屋の中から霊圧が消える。正真正銘俺とユタだけが取り残された。
来客の報せ如きにビビったのには理由がある。婆さんは俺達を匿って以降2、3回同じ話をしていた。「宅配は使わない、近所付き合いするほど近隣住宅地に近くない、町内会の役職についているわけでも無ければヘルパーも頼んでいない。家を購入して以来ほぼ初めての訪問者がお前ら」、と。
この家をわざわざ尋ねる奴はいない。いるとすればそれはつまりアレだ。招かれざる客というやつだ。
「……お客さん?」
「ある意味客だ。客だからよく聞け。荷物をまとめて例の脱出ポイントで待機。良いな?」
「客じゃねえんじゃん。ちょっと待ってよカイ」
「死にたくないなら隠れてろ」と頭のてっぺんをむんずと掴んで制止し、周囲を見渡す。武器として使用可能なものが空の酒瓶くらいしかないがまあいい。無いよりマシだ。飲み口に手をかけ、襖を開けて玄関先まで最短ルートで移動する。
「旦那。いるか」
「ざっと周囲300m圏内を偵察したが、銃器を携行しているのは玄関先の1名だけだ。徒党を組んでの襲撃ではない」
「待って銃持ってんの」
「回転式拳銃というのか。種別までは解らなんだ」
酒瓶があったところで埋まらないアドバンテージかもしれない。聞けばこの訪問者、衣服は本島を腐る程歩き回っている観光客のそれに近いとのことで、リボルバー拳銃は左脇に秘匿携行しているらしい。しかし何故リボルバーなんだ。
財団の連中なら4日前と同じくグロックで装備を統一しているだろうし、そもそもの話単身乗り込んでくるというのが解せない。何らかの超常をする存在か、或いは超常そのものが来ているとでもいうのか。一体全体何処からの差し金だ。
「害意は汲み取れん。が、そなたの話を聞く限り“財団”によるあやかしの排斥というのは中々どうして事務的な側面を持つとみえるな」
「……いや、違う。財団じゃない。奴等のやり口じゃない」
「だったとして、どうするつもりだ」
「居留守する訳にもいかん。こっちから打って出る」
「助太刀は」
「ユタ──玉城サキの守護を優先しろ。それがアンタの本懐だろ」
「ふむ……」
また平の気配が消えた。恐らくは「避難部屋」に待機しているユタの方に移動したのだろう。それで良い。最前線に立つ際は無駄に保護対象がいない方が助かる。
偵察だけはどうしても力を借りる必要があったが、ユタも平も婆さんも実質的には俺の保護対象だ。俺には3人を守る使命がある。守るってのはつまるところ「危険から遠ざける」ことを意味している。
結局奴は何の目的で来たのか。何処が差し向けた刺客なのか。そもそも本当に刺客なのか。何も解らん。何も解らんなりに銃器を携行している事は暴いている。仮に撃たれるにしてもタダで死ぬつもりはない。ユタが逃げるだけの時間稼ぎくらいなら完遂してやる。
「……2手ってとこか」
曇りガラスの引き戸の前に立つ。目標はこの扉の数歩先。既に影が見えている。取っ手に手をかけた。その丁度直前のことだった。
「ラジオ料金の回収に伺いました」
ガラス戸の向こうから一言。妙に聞き慣れたフレーズが聞こえてきた。
「……うちにテレビはありません」
忘れる筈もない。研修中に使用していた共通暗号だ。
なるほどそういうことか。そういえばそんな口約束をした記憶もあった。「いずれ沖縄に伝達用の人員を送るつもりだ」というアオの言葉を急に思い出し、酒瓶片手に思い切って引き戸を引いた。
「……“青大将”からの言伝を預かっている。上がるぞ」
「靴は脱いでくださいね」
「どういう客を想定してんだお前」
早すぎだろアオさん。てか俺らの潜伏先、よく見つけたなこの人。
俺の酒瓶に怪訝な目線を向ける観光客風の訳アリ不審者様をとりあえず玄関まで招き入れる。この蚊の多い時期に何だかんだ1分近く待たせてしまったのはシンプルに申し訳ない。
「──国頭改? だよな」
「国頭改です。どうも」
「他のはどうした。ある程度メンツが揃っていると聞いていたが?」
「いることはいるんですが、2名隣の部屋にいて1人外出中で」
「イカれてんのか」
離島に潜伏しているからと油断しすぎではとご尤もなご指摘をいただきながら居間に着く。スラックスに半袖Yシャツ姿の俺とまんま観光客ファッションのフリーランスが、先程までユタと共に素麺を啜っていた現場に入場した。
「で、別室の2人ってのは」
「さっきまで素麺食ってたんですけどね。気になります?」
「いや。ただ、お前以外には1人しか気配を感じなかったからな」
「本題入りませんか」
「本題入っていいのか。素麺伸びるぞ」
「お構いなく」
それとなく座布団に案内しても頑なに座らないあたり完全にそっち側の人間だ。モンゴロイド系の割には掘りと皺がやけに深い顔。ガタイ自体は中肉中背といったところだが、些細な一挙手一投足から経験値のようなものが滲み出ている。少なくとも今ここでやり合いたくはないな。
そんな俺の思考を察したのか察してないのか、フリーランスが左腕の時計をちらりと見る。その後で、新卒時代に上司が嫌と言うほど向けてきたような眼差しで俺を捉えながら言い放った。
「結論から手短に言うぞ。“水棲ヒトガタ”について即時調査し、可能であれば手として対処をせよ」
「“水棲ヒトガタ”、っすか」
「ああ。以上が伝達内容だが──もう少し子細に、前提から伝えてやろう。昨年8月上旬頃から不定期に確認されている西表島沖での不明な航行活動について、特事課から最新のリークを得た」
「当該不審船舶は海保巡視船などによる強硬接近が行われた際毎度忽然とその姿を消していたわけだが、下手人がどうも日本国内のクラス1パラクリミナルグループのいずれかに所属する実働部隊であること、及び当該組織の目標が“水棲ヒトガタ”であることを掴んでいる」
特事課ってのは公安の秘匿部署だった筈だ。アオの人脈に未だ首を傾げたくなるが、要するにあれか。ゴロツキ共より先にヒトガタを見つけ、保護するのが今回の任務という訳である。場合によっちゃ彼等と衝突する可能性もあるかもしれない。
男はその後も水棲ヒトガタの目撃情報や、ゴロツキ共の動きが最近不穏なのでなるだけ早めに動いた方がいいことなどを教えてくれた。第一印象のわりに案外優しい人かもしれない。
「人を解体することには手慣れているだろう。そのあたりは頭に入れてから臨みな」
「ご丁寧にどうも。麦茶いる?」
「一本貰っていいか」
「どうぞ」
俺が差し出した麦茶を一口で飲み干す男に「伝達者が親切でこちらとしても随分助かるぜ」とそれなりの本音を投げかければ、「そうでもないさ」と男が返した。「前金をそこそこ貰ったんでな。相応の仕事をしているだけだ」
「ちょっと待て、金取ったのかアオから」
「取った」
「ただでさえ運営資金足りてねえのに?」
「それだけお前を気にかけているという点は汲み取ってやれよ」
そう言われると特に返せる言葉がなくなる俺を前に、空のコップを卓袱台に置いた男が「じゃ、検討を祈る」と言いながら背を向ける。そのまま暗がりに消えるようにいそいそとババア宅から去っていった。玄関がぴしゃりと締められる。
離れていく玉砂利の音を聞きながら睨みつけるように玄関の先を見つめていると、事の終結を察知したか、奥からユタが顔を出した。
「カイ~」
「……」
「さっきのお客さん何だったのさ」
「ユタ。婆さんにも同じことを伝えておくから今すぐこれを実行しろ」
「ほ?」
「夜10時から行動開始。それまでにちゃんと寝ておけ。」
──で、来たわけだ。目的地の浜辺まで。婆さんの操作可能な石敢當はこの島にもちゃんと存在していたらしく、地図で目的地を指し示した結果十秒と経たずに浜辺のすぐ近くまで転移させてくれた。知る限りでは図書館の手にもこれ程のアポーターは存在しない。本人曰く沖縄諸島限定の能力らしいが、逆に言うと沖縄県内に限れば世界最速かつ最高峰の転移術者として君臨しているのがこの婆さんなわけである。よく今まで一般人に紛れて潜伏していたものだ。
夜中の砂浜なんぞに立つのは高校3年生ぶりだった。
といっても受験の鬱屈に負けて何度も地元の浜を右往左往していた程度しか思い出が無いわけだが、この潮風と無限に続く暗闇をそこそこ好いていたのは覚えている。実際いざ同じような景色を目の当たりにすればこの通りだ。沖縄に出戻ってコイツらと関わって以来一番胸が透いている。この土地に根差した数少ない「好き」が丁度自分の胸元を掠めている。
「カイ〜」
「……何ですか」
「眠い」
「結局寝てねえからだろ。ああヤニを踏んで消すな! 捨てるな!」
「灰皿ねえんだから仕方ねーだろがい」
「買ってやるから二度とやんな」と叱咤しながら潰れた吸い殻を拾い上げ、丁度やってきた波のしぶきに浸して完全に鎮火する。二重三重にティッシュでくるんでスラックスのポケットにねじ込んだ。「───して、伝えた話というのは何かね」と全てをガン無視して司会進行を務めてくれる平に向き直る。
「今回俺に課せられた任務は未確認ヒトガタ超常の保護だ。その過程でヒトガタを追っている別の何者かと戦闘行動に発展する可能性があり、これは極力避けたい」
「故に?」
「『全員手ェ出すな下がってろ姿は見せるな』。お前らに守ってもらうのはこの3点だけだ。安全を確保した後に婆さんの能力で一度セーフハウスまで退くからな」
「そんじゃ若造。一つ質問するよ」
「何ですか婆さん」
「アタシの同行についてはまあ理解できるとしてやる。何でクソガキと幽霊までここに連れてきた」
婆さんが親指でユタと平を指す。顔を合わせる二人を横目に、用意していた答えを滞りなく唱える。正直なところ、まあ聞かれるだろうなとは思っていた所だ。
「この2人だけをセーフハウスに置いてくるのは、危険だ。財団や連合の連中が押し掛けたとして平だけでそれを対処できるとは思っていない」
「尤もだな。数的有利を取られたら我には為す術がない」
「ンだったら猶更解せないね。固まってりゃ安泰と口にしておいてアタシらは手ェ出すなってのはどういう了見だ。何から何までお前さん一人でどうにかしようって腹かい」
全くもってその通りだ。
「……危険な任務に巻き込んでいる事は俺だって解っているし、アンタにも解っていて欲しい。それでも婆さん、ユタ、平、お前らは俺の、蛇の手の保護対象だ。守らなきゃならん」
「アタシらは重荷ってやつか」
「保護対象だ。それ以上でも以下でもない」
婆さんは半眼で俺を見つめていた。何か言いたげな、しかし何も言わないような。文句があるなら言ってくれたほうが嬉しいのだが。不和は後々響く。
「……ま、聞いといてやるよ」
婆さんはサンダルに入った砂を叩きながら、ぶっきらぼうに言った。「アタシらがお荷物だってんなら、お荷物らしく大人しくしてりゃいいんだろ。ガキじゃあるまいし、その辺の空気くらい読めるさ」「とりあえずさ、うちはカイの言うこと聞いとくから。手ェ出さない、下がってる、姿見せない。オッケー?」
ユタはユタでひらひらと手を振りながら笑う。些か緊張感がなさすぎて心配になってくる。本当にわかってんのかな。聞き分けがいいのも怖いが、信じるしかない。
眼前にずっと広がる海に目をやる。遠目からでも、波打ち際がキラキラと有機的に輝くさまが見て取れた。サイリウムの軌跡を描くように、波が青白く闇に光をのこしてゆく。
「光ってんじゃん。海」
特段の感慨もない様子で呟いたユタに、「石垣はいつもそうさ。夜光虫の時期だからね」と婆さんが返す。そうだ。この現象はいわば赤潮の一種で、大発生したプランクトンが夜にこのような姿を見せている。
「え、あれ全部虫かよキッショ!」
無知を晒しながら喚くユタを横目に、俺は白波のたびに発光の伝播する波打を、じっと見つめていた。当然俺も自然に揉まれながら育った身だ、ヤコウチュウの輝く海は何度ともなく見たことがあるし、その正体だってガキの頃に知っている。
それでも、当時の俺はこの幻想的な光の正体が寄り集まった生命活動の産物だと知って、確かに嬉しく思った記憶がある。全員が必死に生きて、やれるだけのことをやって、その結果たまたまこのような景色が生まれている偶然が誇らしかった。
こうして大人になった今でも、夜光虫にはありがたさを感じざるを得ない。なぜなら貴重な光源であるからだ。一寸先も見えないような夜の海で在るとないとでは、些かではあるが視認性が違う。現にこうやって超常を探すのもずいぶん楽──
「あ?」
「……カイ、あれ」
数百メートル先。ともすれば潮騒に掻き消されそうな程に微弱でドロついた重低音と、微かに青く発行する先端の輪郭。押し寄せられるうちに付着していたのだろう。天然の警戒装置がなければ気づけなかった。
確かに、何かが、近づいてきている。
「……船!? この時間に!?」
明確な異常事態だ。平の気配がふっ、と肩の隣に顕現する。俺よりもずっと利くと思われる視力で船を見つめている。
「例のメッセンジャーが申していたモノとみて間違いないとは思うが、偵察するか?」
「……不明団体の詳細が解らん以上こっちから超常をぶつけるのは逆効果になりかねない。今は控えるべきだ」
「しかしどうするつもりだ。ここからどうあやつを助けるという?」
「ッ何かいるんスか!?」
「ああ。おるぞ。舳先の更に前の方に」
ショルダーバッグからケース入りの双眼鏡を引っ張り出し、素早くそれを目に当てる。上等な代物だが、灯りのない海面では、些か探し物には手間取った。
それでも、青白い波間を目印に、目当ての船と距離を捕捉する。舳先の前、海面を割る特徴的な背鰭と、人の腕も。
「カイそれ貸して」
「アオからの預かりモンだ貸せるか馬鹿。てか隠れる準備しとけ」
「隠れろったってどこにさ」
「どっかにだ。あれは───」
見つけた。ヒトガタ超常。
どことなく鮫のような部分的特徴を併せ持つ超常存在が一体。
が、不審船とほぼ同等の速度で追いかけっこをしている。推察するにあまり深いところまで潜る能力を持たないか、それを断念せざるを得ない何かがあるらしい。潜れるならとっくにあんな漁船撒いている筈だ。
速力から判断するにパターンDのコンタクトを取るのが無難かもしれない。正直一番やりたくなかった方法だが事態が事態だ。危険を冒すつもりは無いが踏み止まったせいで誰も助けられないなんてのはもっと御免だ。スマホを起動し、カメラライトを最大出力で点灯しながら沖合に向かって全力で振る。
「こっちだァ!!」
「うわ何急に」と飛び跳ねるユタを尻目になおもスマホを振る。ババアは一応、ユタを連れて林へ下がる動きを取った。それでいい。
にしたってあまりにも後手後手の対応すぎる。ヒトガタがこちらの誘導に気付いてくれるかどうか、気付いたとして方向転換した後にこちらを目指すだけの余裕があるかも分からない。なんせ不審船は彼/彼女のケツに今すぐにも追い付かんとしているのだ。
我武者羅にスマホを振り続ける中、後ろで平が声を上げる。
「打ち上がったぞ」
平が指す波打ち際、闇と波打の光でぬらりと照らされた何かがあった。
不審船は青飛沫を撒き散らしながら、依然全速で突っ込んでくる。もう猶予はあと僅か。
「意識レベルを確認する!」
「周辺警戒を行うべきではないのか?」
「ンなモンにリソース裂く余裕がない!」
細かい珊瑚砂を一人、滑るように怪人に駆け寄る。闇の中でも視認できる程度の速度でシルエットが変形していた。陸に上がって以降はかなり人間に近い、というか肌の色含めて人間そのもののような風体に変異している。性別は恐らく男性。上半身には何一つとして纏っていないが簡素な短パンを履いているのは解る。
図書館の文献にあった容姿の変異が可能な人妖にも見える。人間相応の文明の中で生きてきた固体か、或いは既存人類の文明のすぐ隣で生きてきた痕跡とみて間違いない。そうとなれば後は発話能力次第で言語による相互コミュニケーションも確立できるかもしれない。
「何処から何処まで人間なのか」はこの際考慮しない。重要なのは意思疎通レベルの確認と意識の有無の把握、必要に応じた各種対応だ。特に患部の確認は必須である。
「現在日本語標準語彙で発話中!聞こえているか!!」
「……キミは……」
「……! 国頭改だ。訳あってお前の保護を委託されている!」
「……保護…?」
ビンゴ。現代日本語での会話が可能なのは非常に助かる。一番厄介なのはこの状況でまともに意思伝達手段が確立できない事態だったし、実際そういった事態を想定して諸島周辺地域で使用するであろう言語は非常に簡単な受け答えが出来る程度に学んできていたわけだが、何にせよ非常に助かる。ありがとう。日本語話してくれて。
それにしても出血が酷すぎる。痣として把握可能な打撲箇所の多さにも目を見張るが、特に大腿部に突き刺さった銛モリは現時点での対処に難を要する。専門の医療機関で摘出すべき異物だ。素人考えで引っこ抜いたら出血多量で最悪死なせかねないし、運よく傷が塞がったとしても壊死なんぞを起こされてはたまったものではない。
「傷むか?」
「身体が萎んだせいかな……何か逆に痛みが無いとこまで来てるっていうか」
「……お前の生命を保証し安全を提供するために行動している。もうすぐ──」
低く、腹の底を震わすような音が会話を遮った。見れば、黒い鉄の塊がすでに俺達の背後に座している。
予想外だった。小型漁船の強硬着岸。一際大きな飛沫が燦爛する。
何の躊躇もなく座礁覚悟で突っ込んで来やがった。後先考えて行動してるなら、まず取らない選択肢だ。一体全体何考えてやがるんだ。
違う。違うぞ国頭改。敵を甘く見るにはあまりにもこの世界の方が残酷過ぎる。認識を改めろ。常識に縛られたまま超常と相対すれば足元を掬われる。
「──は!?」
風切り音。
反射的に回避行動を取る。0.5秒前まで俺の正中線があったエリアを何かが駆け抜けた。
飛翔速度とその大きさから逆算する。矢ではない。そしてやけに覚えのある残像だった。幼少の折から俺は残像を何度か間近で目にしている。
水中銃だ。ちょっと大きめの魚に打ち込むような威力のゴム動力式水中銃で銛を人に発射。正気の沙汰ではない。
「……気狂いどもが!」
叫んだ瞬間更に発射音が聞こえて来た。正気の沙汰ではないが、悲しいことに向こうはいたってクソ真面目に俺とこの怪人を殺しに来ているらしい。正気を疑っている場合では無かったし、連中以上に正気でなければこの先確実に判断を誤る。
満身創痍のサメ怪人を引きずり全速力で後退する。耳元をカーボン製の銛が駆け抜けた。熱い。恐らく出血しているが、耳たぶは辛うじて消して飛んでいない。思考は及ぶ。まだ生きている。俺は生きている。生きている。生きている。生きているからまずはコイツを救う。この身を賭してこの初対面の怪人を守る。それが蛇の手だ。それが俺のなすべきことだ。
「あーぇーそのー……お前。君! アンタ!!」
「……!? ぼく? ですか?」
「君! 名前! 何!」
「……ブニ!」
「ブニ!? ブニね!」
ブニ。なるほどね。覚えやすくて良い名前だ。
飛来するモリを半ばフルオートで叩き落とし、再度出血箇所に目を向ける。貫通している銛は一本。少なくとも2本脚でズンドコ歩けるようなお優しい傷ではない。傷ではないが、そこを圧して動いてもらわねばならない。
「あの、あなたは」
「蛇の手のカイだ。君を守るためにここにいる」
「守るってその、僕は」
「守る。守って見せる。から──」
「あの林まで逃げてくれ」と一言付け足し、とりあえずは強硬着岸した船に仁王立ちで向き直った。船上に動く光源。数は丁度10。単純計算でこっちの戦力の丁度10倍の敵が俺1人を狙っている。
走馬灯ってのは段階的に訪れるものなんだろうか。姉貴と一緒に部位鍛錬に及びものの数秒でリタイアした日の景色が段階的に脳裏をよぎった。
アオと出会ってからの1年、他人の生物学的な死に近づく機会は幾度となくあったが、死そのものが全力で俺に接近するケースはこれが初めてかもしれない。死という可能性が鼻先に迫っている。不可逆の結果が俺と目を合わせている。妙に現実味が逆に笑えてくるし、何ならアレだ。「ようやく俺の出番が来た」という妙な感慨深さがあった。
「逃げてくれ。頼む」
足元に転がったまま唖然としている“ブニ”に再度告げ、漁船目掛けて一歩踏み出す。
事の主体は俺の命のあるなしではない。まだ見ぬ超常の安全保障である。これ以上は追わせない。目先の金銭目当てに鮫の怪人を追っかけ回した挙げ句ここまで傷を付けやがったカス共はここで俺が絶やす。
未確認超常は守る。それを追う者は蛇の手の敵であり、少なくとも俺は手の一員だ。超常性は持たず、無論超常技術的な技術を持ち合わせているわけでもない。せいぜい旧日本軍のトンチキな通信設備を空手チョップで復旧させた程度しか「そちら側」に接近した試しの無い真人間だが、それはアオとて同じ事である。
「振り返るな。全力で生き延びろ」
アオは強い人だ。
血縁が災し理不尽にも命を狙われる境遇に置かれたというのに、最終的には自力で生き残り、それどころか非暴力路線で蛇の手運動を貫徹するという馬鹿げたムーヴメントを本当に実現した。大陸に取り残された妖怪兵器を国内に輸送し保護する作戦すら完遂した。
軽トラの助手席に引きずり込まれゲロを吐いたあの日から、俺はあの人に憧れていた。真の孤高。自己犠牲を顧みず声なき弱者に手を伸ばす生き方。決して恋愛的な感情でないと断言出来るが、一言で簡単に言い捨てるには余りに大きな尊敬の念は抱いていた。
「逃げろ!」
最早振り返ることもない。浜辺に降りた合計10の光源が一斉に俺を照らす。直後逆行を帯びて飛来したモリを型通りの廻し受けで逸らし、摩擦火傷と軽い出血で地味な激痛の滲む腕を振りながら、駆け出す。
沖縄が嫌いだ。そう自分に言い聞かせて県立高校での上位成績を勝ち取った。AO入試で都内の大学を認めさせた。テンプレ通りの上京ルートを辿った。
別に上京はゴールじゃない。入学2日目から就活を始めた。足繁くインターンに通い、正式に所属しているわけでもないゼミに顔を出した。「境遇に抗う者の在り方」を何度も自分に言い聞かせ、その都度実行に移した。
「これが趣味だから」と自分に言い聞かせながら参考書片手に電子工作に打ち込み、卒業後も大手インフラ企業でIT土方としてのキャリアを積みながら「有意義な人生」のテンプレを歩んだ。沖縄はクソだ。沖縄県民は更にクソだ。どいつもこいつも楽観を人型に鋳造したような連中だった。俺はクソじゃない。クソじゃないから抗った。抗った先にはテンプレート通りの「成功者の道」が一本だけ伸びていた。
貴女がぶっ壊してくれんたんだ。アオ。境遇に抗うことそのものを人生の目標にしていた俺に、貴女が意味を与えてくれたんだ。
貴女が与えてくれた意味を、完遂したい。変な話だよな。たったそれだけの使命感で俺は、吹っ掛けられた命のやり取りを正面から買っているってんだから。
敵はわざわざ船から降りてじりじりと俺を囲みに来ている様だった。上等だ。行きます命のやり取り。ありがとうアオ。全員ぶっ飛ばしてアイツらのアホ面拝んできますから。安心して本土で待っててください。行きます。行くぞコラ。
近場の光源に約1mの距離で接近する。何せ丘の側からの光源が何も無いせいで射手の表情すら拝めないが、少なくとも光源の正体が高出力の懐中電燈であったこと、及びこのクソ野郎の体格が概ね160cm程度の人間であることは把握した。前方から殺意。来る。
「──ตายッ!」
全長1m弱の飛翔体が脇の下を通り過ぎると同時に、光源の約30cm左上に上段蹴りを叩き込んだ。ジャストミート。人間の頭部がそこそこ駄目な方向にズレた感触が骨越しに伝わってくる。
ほぼ同時に懐中電燈が地に落ちた。一瞬見えた水中銃射手の顔立ちは大凡日本人的とは思えず、直前俺に吐きかけられた罵声からしても明らかに日本人ではなかった。
「อะไรนะ!? เกิดอะไรขึ้นッ!?」
「ฉันโดนเตะ ฉันโดนเตะจนล้มลง!!」
残り9人。感触と倒れ方からして一人目のカスが起き上がることはないと判断する。念の為骨の1、2本は叩き割っておきたいがその猶予は無い。
そもそも飛び道具持ちに完全なる素手で応戦している時点で無謀この上ないが、黒帯一歩手前まで沖縄空手に打ち込んだ俺だ。昇段試験とは一切関係なく、道場の内弟子による十人組手を自力で制した経験がある。即ち「1対1での全力の殴り合いを10人連続、1人あたり2分書けて、休憩を挟まず捌き切る」だけの技量は保証されている。
つまるところ、残る9人同時の処理を極力避け、1対1での対処を貫徹できれば、理論上コイツら全員を倒せるということだ。理論上は。
「理論上はなァッ!!」
理論上はどうにかなる。後はそれをやるだけ。やったな国頭改、受験と何ら変わらんぞ。足元数センチ先に転がった懐中電燈をひったくり、右から左へ撫でるようにザッと照らした。当然のように下手人全員の身体が硬直する。
次の獲物。縮れた髪の毛を雑に後ろでまとめている半袖短パンのお前。お前だ。水中銃の代わりに何かトンカチ持ってるそこのお前。飛び道具持ってねえな。持ってねえならそれで良いんだ。ぶっ飛ばしてやるよタコ。
ライトを顔面部に照射したまま低姿勢で突進する。途中足元を何かが掠めた。当然ながら5人以上の人間から一方的にライトアップされている状況は変わらない。集中放火もやむなし。デッカーの旦那曰く「移動目標を正確に射抜くには血の滲むような修練と長い年月、継続的な練習が必要」とのことだし、少なくともこんな連中が水中銃如きで全力疾走中の俺を射抜けるわけがないんだ。多分。仮に被弾したとするなら相当な不運と割り切るしか無い。止まるな。
トンカチが大振りに振り下ろされる。握り手は見えた。錆びた金属が俺の頭皮を穿つ手前、指先をすぼめたまま瞬間的に硬直させた左手首を、軌道上に、置く。
互いの手首が接触した瞬間、少なくとも人体から聞こえるべきではない破壊音が夜の砂浜に響き渡った。トンカチは闇夜目掛けてすっ飛ぶ。表皮の中で細かく砕けた右手首を押さえ男が絶叫する手前、その口元に正拳突きを叩き込んだ。
虚空に飛び散る赤。或いはそれ以外の色。青と黒以外の明度と彩度を失った世界において物事の輪郭を一番正しく読み取る感覚は案外触覚なのかもしれない。
接触直後の痛みが、熱が、吐息の感触が、前歯か何かが拳の皮を突き破って俺の骨を削った時の「ザリッ」としか形容できないあの感覚が、ある。俺のものとも敵のものとも判別しがたいヌルヌルが潮風と共に味気なく乾燥していく。その全てを脳が言語化して処理している。アドレナリンのせいだ。
「ตายซะ ไอ้สารเลว!」
何言ってんのか分からないが確実に慄いている。俺が確かな脅威として君臨している。そこまで文字に起こした刹那、左の頬に掠った銛が俺の皮膚を二ミリほど抉って闇へと消えていった。誤射のリスクとか考えないらしいな、どうやら脳がついてないっぽいぞ。だが悲しいことに人間と脳無しのデュラハンならば、後者のほうがずっと脅威だ。少なくともこの状況では。認めたくもないが。
そうだ、認めたくもない。浅黒い肌をした小太りのカスがもう一撃銛を発射するのと同時、身をよじって飛び蹴りをかます。呆気なく避けられた。足元には波が訪れていた。勢いが殺されたのだ。結果的に間抜けに浅瀬へとダイブしただけの俺をぞろぞろと殺意が囲っていく。
早くも限界が近い。当たり前だ。8対1。
小太り男が追撃に振り下ろした何かを気合で避けてその正体を拝む。今度はナタだ。二振り目が俺を切り裂く直前、柄を握るクリームパンじみた手指めがけて俺の角ばった拳を衝突させる。ガキィンと骨伝導で伝わるオノマトペが鳴った。ひしゃげた小太りの手から取り落とされたナタが海へと落下する。凶器の着水を確認することは叶わなかった。
瞬間、視界一面に広がったのは、夜の海中。真っ暗闇。足元に誰かが組み付いている。背後から体制を崩されている。俺は顔面から、再び海に倒れている。状況を呑み込むのに0.2秒ほど要した。このロスタイムは死因に成り得る。
「クソが!!」
全力で叫んだが、水中なので野郎が必死に泡吹いてるだけだ。拘束の緩い左の膝で、組み付いてきた野郎の顔面を蹴り飛ばす。俺一人じゃ到底対応が間に合わない。手が、手が、殺意を伴った手が、俺の周りをびっしりと覆っているんだ。
言ってる場合か。足掻け。藻掻くんだよ。血液が総距離10万キロ以上の管を俺の身体の裏側で流れている限りは。敵が眼前にいる限りは。上段蹴り。何かにヒットした手ごたえアリ。だがそれだけだ。俺の背後240°、察知も何もない暗闇から後頭部目掛けて強い衝撃が走る。恐らく銃床による一撃。一瞬意識が夜空の彼方へと吸い込まれそうになるが、すかさず反撃する。何処かから垂れた何かは鉄の味がした。
焦るな。絶えず動いて一対一を作るんだ。
ひたすらタイマンを制し続ければ、勝機はある。
いつまで?
「……クソが」
闇に目が慣れた。意識がやけに冴え渡っていた。それゆえかもしれない。丁度体制を崩した俺を捉える、ひとつの人影をハッキリと認識した。キャップを被った男だ。薄汚れた水中銃で、刹那に動けない俺をしっかり狙っている。
返しのついた銛が、この瞬間、確かに俺へ向いている。
避けられない。
眼前まで迫っていた死そのものが、遂に俺の喉元へと追いついた感覚がする。
俺の肩をぽんと叩いた感覚がする。
眼を瞑るつもりはない。睨みつける。
命を奪われた直後くらいまでは、せめて。
「は?」
酷く乾いた音がした。残響が鼓膜を震わせていた。
キャップ男の頭部の上半分は、若干形を変えていた。
「──すっげえ反動!」
振り返る。白いタンクトップ。ロクに整えていない短髪。不健康を絵に書いたような顔色の女が1人。
ユタが笑っていた。グロック片手にケラケラと。
「……何で戻ってきた」
「カイ頭下げて」
爆音が続けざまに3発響き渡る。襲撃者たちはようやく状況を把握したのか、口々に罵詈雑言を吐きながら漁船の方まで後退した。
もう一度ユタの方を振り返る。半身に構えて左肘を前方に突き出し、その上に握り手を添える姿勢でグロックを把持していた。やや歪な構え方だ。
「……何で戻ってきた!?」
マジで何してんのコイツ。
待ってくれ。財団から鹵獲した銃器を発砲したのかこの女。アイツら目掛けて。状況の理解が追いつかないまま棒立ちしていた俺を挟んで何発も。
俺は指示した筈だ。「お前らを巻き込むわけにはいかない。隠れていろ」と。実際コイツらが対超常戦闘の前線に立つ理由はなにもない。一切ない。お前らには享受すべき平穏がある。保証されるべき生活がある。それを守るのが蛇の手だ。それが俺なんだ。
お前は駄目なんだよユタ。お前は確かにクソ女だし、ヤニカスだし、大凡まともな社会性があるとは思えないろくでなしだけど、俺はお前を守るためにここに来たんだよ。
「ソイツを降ろせ馬鹿野郎!」
「やだね」
「自分が何と戦ってんのか解ってんのか!」
「何だっけ。“世界”ってやつ?」
言葉に詰まる。そうかな、そうなのかもしれねえな。何でその自覚がありながらこの女は。
人が死んだ。脳みそをぶちまけて砂にまみれながら。別にそれ自体は何ら驚愕に値することではない。俺とて手として殉ずるつもりで殺すつもりで事に及んでいたのだから。本土での修行時代に何度か他人の死に立ち会ったから、その編は折り合いはついていた。何でお前が真っ先に手を汚しているんだよ。
何でそんなに平然としていられるんだよ。
「あたしの敵なんでしょ?」
射撃姿勢を解き、引き金に指を引っ掛けたままユタが歩き出す。こういうのに関してはまるっきり素人だ。右手にだらりと握られたグロックを奪取出来ないまま接近を許す。保護対象は俺の隣に立った。
「……ッ! そうだお前の敵だ。金品欲しさにお前みたいな奴を攫うような連中だ。この世界のためにお前を否定する連中だ!」
「じゃあぶっ殺さないとね」
「それとこれとは──」
左手を突き出す。4日間の共同生活を経て最早慣れ切った冷気が背中を襲った。俺達のすぐ横を“何か”が掠め、はるか前方の闇夜目掛けて加速していった。
漁船の方向からひときわ大きな叫び声が一瞬聞こえ、途絶えた。誰がどう聞いても断末魔だったし、俺の首根っこのすぐ真横を通り過ぎた物体はどう思い返しても連中が打ち込んできた水中銃用の銛だった。
昨日の今日の話だ。俺はこの能力を知っている。
「──無事か? 若大将」
「何でアンタまで出てくるんだ」
「『玉城サキを守れ』。そなたの命だ」
「言いましたよ。言ったんスけど──」
幽霊テメエこの野郎。お前が一番聞き分けあるもんだと思っていたのに。
ああ言ったさ。言いましたとも。そういう話じゃないんだこういうのは。貴方が取るべき最良の選択は戦闘への参加じゃない。この馬鹿の身体を乗っ取って戦線から離脱することだろうが。
カーボン製の銛を傍らに1本浮遊させ、落ち武者の地縛霊が右隣に顕現した。幽霊ってのはどうにも昼間に限って見えづらいものらしい。夜の闇の中に“平”は確かに存在していた。死に装束を身に纏った無精髭のオッサンがそこにいる。900年前に散った筈の戦士が俺と同じ方向を向いている。
揃いも揃って俺の隣に。
「ไปลงนรก!!」
飛翔物体。緩やかな曲線を描いて銀色が俺の眼前に迫る。相も変わらず回避行動が間に合わない。人間2人倒して息が上がっている。リンチされたせいで全身の筋骨が悲鳴を上げている。足元はどこまでも続いている砂浜だ。
ユタが、平が、更に一歩前に出ていた。平の青白い気配が薄まって、ふたりの背中が一人分に収束していく。
衝突音。鏃にあたる先端部が俺の胸元を貫く直前、蒼い軌道が扇のように薙いだ。
ユタの背中が俺の眼の前にある。先程まで浮遊していた銛を左手に握り、ホームランを放った直後のような立ち姿で。
大気中で最高速度に達した狩猟用の銛を同じく銛の一振りで迎撃しやがった。時代の変化とともに潰えた技術の1つ。戦国以前の武士は自由落下する矢の数本程度なら刀で撃ち落とせたと、高校の日本史教諭が雑談交じりに話していたのを思い出す。
蛇の手失格だ。保護対象に命を救われるなんて。否。失格ならずっと前にしていた。
足の着きやすいタクシーでユタの生活圏に向かい初日でこちらの動向を掴まれたことも。財団相手に無謀にも武力で抵抗した事も。最終的には現地の未確認超常の力を借りてその場を切り抜けた事も。婆さんとの偶然の出会いだってそうだ。
俺は何一つとして、俺だけの力で状況を打破していない。何も守れちゃいない。こいつらを付け狙う「敵」を指し示して逃げろ隠れろと叫ぶだけ叫んで、挙げ句未確認超常の救出の半ばたかが人間如きにいいようにやられて、最終的にはこいつらの助太刀に命を助けられた。
アオ。姉貴。ユタの背中に重ねて2人の女の影を見る。教えてくれ。俺はどう在るべきだったんだ。
「ったく馬鹿ばっかりだね。どいつもこいつも」
「……俺は、どう在るべきだったと思う」
もうこの人でいいや。不在の2人にこれ以上疑問を投げたところで返ってくるのは闇だけだ。わざわざ徒歩でこの砂浜を歩いてきた婆さんに思わずこぼした。
「俺は多分無力だ」
「そうかもしれないね」
「あんたらに助けられなければ今日この世には存在してなかったし、俺の努力だけじゃ誰一人として守れなかった」
「そうだろうとも」
「俺はどう在るべきだった」
「逆に1つ聞くよ若造」
婆さんが言う。戦後混乱期を駆け抜けた女傑。半世紀にわたり己の超常を隠し続けたという三人目の保護対象が。6月中旬では無理のありそうなスカジャンを夜風にはためかせて。
「アオとかいう女がどんな人間なのかは知らない。蛇の手ってのが何を目的にこの世界と殴り合ってんのかもあたしゃ知らん。興味がない。お前らは兎も角この能力だ。誰にも負ける気がしないからね」
そういう連中と戦ってもいないくせに何を宣うとツッコむ他ないが、それにしては説得力のありすぎる出で立ちだった。年の功ってやつか。俺の喉が発声を許してくれない。
「そういうのは関係なしに聞くよ若造。アオってのは今のお前みたいにつまらん自己犠牲で人様にお節介焼くような大和モンなのかい」
「そうだってんならここで終いだ。帰って寝る」と、両手をポケットに突っ込み老婆は不敵に笑った。カミソリみたいな目つきで。落ち武者幽霊に負けず劣らず若々しく。
アオは、そういう奴じゃない。
俺が青大将にいた頃から、アオは常に前を向いていた。自己犠牲とか、お節介とか、そういう言葉で括れるような薄っぺらい人間じゃなかった。ただ純粋に、超常の居場所を作りたいと願っていた。そのために必要なことをやる。それだけの人だった。
俺はアオに憧れていた。アオみたいになりたいと思っていた。だから無意識にアオの真似をしていたのかもしれない。守るべき対象を前にして、自分を犠牲にしてでも守り抜こうとする姿勢。それがアオの姿だと勘違いしていた。
違う。
アオはそんな風には戦わない。アオはもっと、もっと実直で、もっと計算高く、もっと格好いい生き方をする人だ。自分を大切にしながら、仲間を大切にしながら、それでいて目的を達成する。そういう人だ。
俺がやろうとしているのは、アオの焼き直しですらない。ただの自己満足だったじゃないか。
「……アオは、そういう奴じゃない」
婆さんに向き直る。彼女は未だ俺の言葉に納得したような素振りを見せなかった。が、流石に俺でも分かる。待ってくれているんだ。アオについて思い返したその先、俺が俺なりに出す結論を。
「あの人は俺みたいに独りで突っ走ったりしない。仲間を信じて、仲間に頼って、それで勝つ。だから──」
「だから?」
「……俺も、そうする」
婆さんはかすかに頷いてから、「じゃあこのサメの言葉も聞いてやるんだねクソガキ」と捲し立てて平たちの方へと歩いていく。たった今若輩者を改めて嚙み締めた身だ、返す言葉もない。振り向いた先には、先程よりずいぶん顔色の良くなったブニがいる。
太ももには銛を固定するための布が巻かれていた。ユタが持っていたものだ。
「ブニ。状態は」
「少し良くなったよ。おかげさまで」
普通この時間で少し良くなる筈もない。超常であることが良く作用したのだろう。でもそれはたまたまブニが強く在ったからだ。俺は何もできなかった。俺一人で戦おうとしたから。
「ねえ、カイさん」
顔を上げる。ブニの瞳が確かに俺を映していた。晴れた日の海、あの泣きたくなる程に透き通った大海原のような色の眼だ。
「……えっ、カイさんであってるよね? 違う?」
「合ってるよ。何だ」
「いや、僕自身も全然上手くは言えないんだけどさ」
そう言うとブニは最適な言葉を探し始めたのか、どもりながら頭を捻りはじめた。あらかた婆さんに何か伝えろとか吹き込まれたのだろう、俺に向けられてるからには精一杯向き合ってやりたい。やりたいのだが何ぶん背後で殺し合いが行われてるものでな、ちょっと、そっちに意識を向けたい気持ちもあるんだがな。
ただ、ブニの気持ちだって痛いほどに分かるのだ。言葉ってのはクソだ、この世は言葉にできないものほど本当みたいに扱われて、口に発した時点で純度はどうしようもなく喪われてしまう。「……キミらが何者なのかは僕も解らないんだけど、なんというか──」
「キミが助けてくれて嬉しかった、とは、思ったかもしれない」
それでも、言葉は胸の奥をじんわりと熱くする。
助けてくれて、嬉しかった。明確に感謝の言葉を向けられた。俺の行動が、誰かの役に立った。誰かを救えた。その実感が、言葉として返ってきた。
「そうか。良かった。間に合って」
「うん。間に合ったよ、カイさん」
ブニの言い方は、どこか曖昧で、はっきりしない。「思ったかもしれない」なんて、随分と遠回しな表現だ。でもそれが逆に、この場の空気を少しだけ和ませた。
命がけの戦闘の最中だというのに、何故か少しだけ肩の力が抜ける。
口角を歪に上げる余裕が、隙間が、確かに生まれる。
「カイ! ねーえ、いつまで井戸端会議してんのさ」
ユタの声に振り返る。
恐らく漁船に積み込まれていたのであろう、まだ生きていた投光器2つが俺達を正面から照らした。残存敵数7。ブニを庇って一歩前へ出る。いつの間にかユタが、平が、婆さんがじりじりと俺達に近づいてきていた。最も単純で効果的なフォーメーションが組まれている。ブニを護る形で、横並びだ。
多勢に無勢の状況は幾らか好転しているらしい。気まぐれでもなんでもない、こいつら一人一人の明確な意思によって。
「เอาฉลามตัวนั้นมา!」
船上に立つ外人野郎が吠える。おそらくタイ語であることは戦闘中に察せられたのだが、相変わらず何を言ってるのかは全く分からない。
「あいつら何言ってるの?」
「知る必要もなかろう」
「"お前ら何なんだ"とかじゃないですか?」
「えっ、ブニ、お前タイ語分かるのか?」
「いや雰囲気です」
ふざけた会話をしている場合ではない。「随分元気じゃねえかサメ小僧」と笑いながら吐き捨てる婆さんも勘弁してくれ。けれども、これが俺達なのかもしれない。俺達は俺達なりに今、確かにこの島に、この夜に立っている。
「で、誰なんだっけ。あたしら」
「確か、若が言うには青だいしょ──」
「いや」
気づけば台詞を遮っている俺がいた。この瞬間、場の全員が俺へと視線をむける。婆さんはニヤついた目で俺のことを眺めていた。音頭取れよ、リーダー。目は口ほどに物を言いやがる。上等だ。
戦後混乱期を駆け抜けた一匹狼。没後900年の暗闇に漂っていた幽霊。自称沖縄最後の霊能力者。そして何処の鮫の軟骨とも知らない怪人。そういう連中が俺を見ている。俺の声を待っている。
声を、待っている。"蛇の手"の声を。
「……俺達は」
見せるのは背中だ。追随するに値する背中。肩を並べて立つに相応しい背中。
島の外に消えた姉貴の背中。アオの背中。
そのどちらでもない、俺だけの背中だ。
俺たちはこの島々に潜む。
踏み躙られる弱者に“手”を差し伸べる。
この毒牙を以て、“人道”の敵に仇為す。
為してみせる。
「俺達は──」
星の一つも見えない曇天を指さし、本能のままに名乗った。
「──"波布"だ」
ハブ。諸島に住まう毒蛇の名。直感でその2文字を口にしたわけじゃない。この諸島に蛇の手活動を再興すると決まったその日から何となく考えていた。仮にまだ見ぬ蛇が集ったところで、「それらは決して青大将たり得ない」と。
御免アオ。俺は多分青大将には戻れない。戻ったところで俺の役割があるのかは疑わしいところだけど、それだけはいつか謝らせて欲しい。市井の草むらに潜み、助けを必要としている誰かにその手を差し伸べる無毒の蛇であってくれ。俺より強い貴女ならきっと為せる筈だ。
「平! 憑依と霊障は同時併用可能か!?」
「可能だが双方とも精度が落ちる。どちらか片方しか使えぬものと考えてくれ」
「前進して道を開く! 飛翔体の迎撃はアンタに任せた! ユタ!」
俺は行くぜ。アオ。非暴力の人道支援を世界屈指の超常密集地帯に掲げた貴女を誇りに思っている。貴女と同じ場所で同じように肩を並べてみたかった。貴女が俺を変えてくれたんだ。クソみたいに燻ぶっていただけの俺を。
けど、俺は貴女になれなかった。成れるわけが無かったんだ。ここは沖縄で、コイツらは殊の外孤独な連中で、その存在を脅かす連中は想像の何十倍かクソみたいな奴らで、俺は何処までいっても俺だったから。
「──あと何発残ってる!?」
「わかんね!」
「牽制射だ! 合図したら全弾船に叩き込め! その隙に俺と平が前進する!」
「あはは! 銃刀法違反じゃんね!?」
「テメエに言っとけ!婆さん!」
揃いも揃って目玉キラッキラさせやがって。人のこと言えねえよな。この鼓動を聞かせてやりたいくらいだ。半開きの口角が徐々に持ち上がる。知らない音楽が頭の中でフル回転してる。脈拍とドラムロールが戦闘本能を駆り立てる。安上がりなライトアップ。切り裂かれた半袖ワイシャツ。革靴の中に混じった砂。流血。波の音。前方から聞こえる怒声。鈍い痛み。握りしめた拳。重症者1名。3人の超常。"人間"が1人。腹の底から怒りを燃やし、胸中で誓う。
今からやるのはある種の原点回帰だ。
「悪いがアンタが最重要戦力だ!前線には出るな!」
「聞こえは良いね。だからどうする?」
「だから……その……どうしたら良いと思います?」
「……」
「ぶはははッ!!」
「うっせバーカ! バーカ! ておい銃口こっち向けんなユタ!」
図書館という絶対的な領域を拠点に現体制へ仇為す攻勢の人道組織が蛇の手であるならば、基底現実に潜み専守防衛に徹する支援組織が青大将だった。
いわばこの二者の間に立つことを意味する宣言だった。俺たちはこの島に潜む。この牙に毒を宿す。基底現実での直接的な実力行使を以て障害を排除し、世の理不尽に抗う。
「──婆さんは何持ってんの」
「手向けってやつさ。持ってきな」
「……土産物の石敢當?」
放り渡されたのは沖縄土産の手持ち石敢當2つ。国際通りで叩き売られてる代物だ。定価780円。
「説明は必要かい」
「合図したら頼むわ」
「ここで待っててやる。行ってきな。ガキ共」
その仕様法は本能で理解できた。滅茶苦茶だなこの婆さん。これで戦闘経験が無いんだから尚更滅茶苦茶だ。
俺達は絶望的状況から立て直した。そして連中全員を崩した。機はここにある。右手に安っぽい石敢當が2つ。左手には銛を3本。
大きく息を吸い込み、右斜前方に駆け出した。
「ユタ!」
「っしゃあ!」
手の平サイズの業火。鹵獲品グロックが残り少ない残弾を一気に吐き出す中、そのけたたましい発砲音を背中に闇を這う。一匹の蛇が如く。
投光器の射程の外側である。おまけにユタの発砲に対し連中は対抗手段を持たない。顔を出してその様を確認する術すら与えていない。約30mの道のりをあっという間に駆け抜け、船の反対側を一望できる地点に辿り着く。たかが拳銃一丁に怯える男が恐らく7名。船の上に潜んでいると仮定し、低姿勢でその様を観察する。
「旦那」
「おるぞ」
「5秒後に2本ブチ込め。1本は保険としてアンタに預ける」
「心得た」
息は整った。目は慣らした。鈍痛は噛み潰した。敵は依然崩れたままだ。すべての銛を何も存在しない筈の中空に預け、石敢當の1つを足元に設置する。ユタの集中砲火は止んだ。残り2秒。
俺の頭上で2本の銛が浮遊する。立ち上がり、石敢當のもう1つを連中目掛けて投擲した。
「……婆さん!」
叫ぶ。風切り音と共に銛が飛翔を開始した瞬間、半身に構えて地面を踏みしめ、構えた。
青白い波打ち際で分かたれた敵味方。侵略者と守護者。取る姿勢はナイファンチ。
同時に俺の周辺空間が爆ぜ、収束する。
眼前には座礁した船の腹。
甲板上に俺1人と襲撃者が4名、いつの間にやら腹を銛に貫かれた重症者が1名。波打ち際の境界線は、糸もあっけなく破られる。霊障と転移。2人分の超常を即席で合わせた奇襲だ。送り出された俺が生身であること以外、負け筋は、無い。
衝撃で船体が軋む。土踏まずと足の全指で固い木床を掴み、前へ跳躍。想定外、そう顔に張り付けた無様な男に膝蹴りを一発かませば、毬のように2回3回と跳ね転がっていく。頬骨の一片くらいは持っていった感覚があった。
殺気、右。横目に捕え、迷わず右手をねじ込む。理論値そのまま最高出力の正拳突き。叩き付けられた身体が船体全部を揺らす。拳面の指4本を介し、この男の胸骨が拳半個分は内側にめり込んだことを察した。運が良ければまだ生きている。悪けりゃ死んでる威力。
「อะไร!?」
俺は蛇だ。一匹の毒蛇だ。などと、どれだけ自分に念じてもやはり中身は人間である。感情は揺らいだ。さっきの2人にしたってそうだ。とっくに越えてはならない一線を越えている。感情は揺らぐ。冷や汗は吹き出る。呼吸は揺らぐし体軸は乱れる。動かしてなけりゃ手元は震える。崩れ落ちる人体から引き抜いた拳に俺自身が恐怖している。後悔している。
それで、構わない。大義を掲げた既存事実からの逃避など、蛇の手の、ましてやその首領の行いとしてあってはならない所業だ。噛み締めろ現実を。それでも前に進め。少なくとも俺は──
「──カイ!」
──俺は、一人じゃない。共に命を賭し、隣に立ってくれる仲間がここにいるのだ。今は預けるに値する背中を見せる。彼らが俺を信じたように、俺もまた彼らの信頼に答える。それだけだ。
平が俺の名を呼んだ直後、俺の視界の外側でもう1人が倒れた。さっき緊急用に平に持たせておいた銛、が首に突き刺さっている。鉈か何かを振りかざしている1人を前蹴りで押し倒し、数歩引いて距離を取る。
乱戦状況で一番喰らいたくないのは死にもの狂いのタックルと複数人がかりでのテイクダウンである。押し倒されれば滅多打ちにされる。その危険を僅かでも削ぐための奇襲だった。残りの敵は4人、恐らく全員船上。削ぎに削いでやったりだぜ馬鹿野郎。
「クソが!」
勝てる。勝ってやる。俺が3人。ユタが1人。平が2人仕留めた。数的優位は最早存在しないのだ。十人組手みたいなクソの理論が無くてもどうにかなる。刃物持ちがいること自体相当な劣勢ではあるが戦闘開始時点よか幾分マシだ。
「やったらァッ!」
啖呵切って再び脚を踏み出した瞬間、閃光が俺の視界を潰した。
続けて俺の視界の端っこに何か、線が通る。
「……お?」
他ならぬ本能だけで躱した"それ"が明らかに銛ではない何かであったことを認識した。何だ。俺の視界の先、砂浜に埋もれて傾く船の甲板。その最高標高に位置する男。例に漏れず日系人のカケラもない顔立ちが闇の中に薄らと浮かんでいるが、問題はその獲物である。
50センチと少しの棒、垂直に取り付けられた取手。形状から一目で分かった。一本のトンファーが男の右手に握られている。
その先端が、俺の視界ド真ん中で突如占領面積を広げた。
「──っあぁ!?」
勢いそのまま吹き飛び、後頭部から船上部構造物の壁に激突する。
真正面から食らった。身体が浮いている。見れば、ギチギチと音を立てながら俺の腹を圧迫する一本の長すぎる棒がそこに在る。腹は貫かれていない。内臓も多分潰れてない。そこは問題ない。問題は、その棒の射出元に奴の右手がある事だ。
「……アーティファクトか!」
圧迫が消え、固定された身体が甲板へと着地する。今この瞬間あり得ない伸張を見せたトンファーは、嘘のように50センチの姿へ回帰して男の右手に収まっていた。
アーティファクト、超常武器を使った攻撃。やってることは海賊だが仮にもブニの捕獲を委託されるような連中だ。クライアントだか元締めだかに超常物品の1つや2つは供与されていてもおかしくない。それがあのトンファーだ。どこまでも舐めやがって。
壁を蹴って動き出す。次の瞬間に打ち込まれるもう一撃を躱せるか、俺。否躱さなければならない。ほぼ目視回避が不可能な速度で打ち込まれる、如意棒モドキのトンファー野郎に対して無手の俺である。超常対通常、3vs1。瞬間的かつ圧倒的な劣勢。
そういう構図ができている。
と、奴らは思いこんでいる。
思考とは即ち電気信号であり、雷電の速度を超えられないとして。
それよりもずっと速く、微塵も迷わず、本能で俺は"それ"を蹴り飛ばしていた。
超常トンファーを構えた男が得物を振るう。超速の突起が射出される、その直前。蹴り飛ばされた"それ"は合成されたベクトルによってやや浮き上がり、襲い来る男どもに当たることもなく、奴等の頭上を見下ろすかの如く。ただ悠々と、自らに彫り込まれた文字列を奴等の虹彩へ映した。
"泰山石敢當"──手持ち、叩き売りの土産物。
定価780円。
突如現れた華奢な人影が、奴等の頭上に、降る。
「いい奇襲だ。若」
全速力で駆け出した。石敢當の座標やや上に転移してきた平inユタが、銛銃を構えていた男の首を落下ざまにへし折る。ついさっきやった事の再現、即興の二度漬け奇襲。トンファー野郎の標的が惑ったその一瞬で、出来得るだけ距離を詰めてゆく。
ユタがもう一人を仕留めにかかるのと同時、防衛本能のまま、男が咄嗟にユタへとトンファーを向けている。させてたまるかよ。その獲物は決してお前等が振るっていいモンじゃない。
沖縄空手に取り入れられている櫂や棒、サイ、トンファー等の武器は、武術的な身体動作の正確性確認という重要なチェッカーとして機能する。その中でもトンファーは折り紙付きの超上級者向け、道場の者でも一部の者にしかそもそも触らせてもらえない代物。島の武を修め、継ぐに値する者が初めて手にする代物だ。人の道を外れ、武のカケラすらも持ち合わせていないてめえらに扱えるものじゃないんだ。
傾く甲板の頂点、そこに立つトンファー野郎が眼前に迫る。拳を握りしめる。
「オラァッ!!」
顔面目掛けて拳ごと全体重をぶつけた。
綺麗にぶっ飛んだ男もろとも船体を飛び出し、甲板から飛び降りる形で砂浜へと落下する。重力が一瞬消えたような感覚が胎の底を揺さぶる。世界がスローモーショーンに感じられている。刹那、手を伸ばす。男がその手から離していた、一本の武器へと。
直後、顔面から地面を受け止め、成人男性2名が砂を巻き上げながらゴロゴロと地面を転がった。平衡感覚がゆらぎ、鈍痛は視界を不快にぼやかす。ゆらりと立ち上がりながら鼻息を噴出すれば、ブシャと汚らしい音を鳴らしながら赤色が巻き散った。鼻血が出ている。
「…….痛えなクソ」
本当に痛い。色々と限界である。だが。
俺の右手をちらと見る。先の超常トンファーが握られていた。
この一瞬で掠め取ることに成功したのだ。俺とてまともにトンファーを扱ったことなど殆どない。左右アンバランスの重量差、打突の際意識すべき握りの違いなどを修正しようにも、ンな悠長なことを考えている余裕はない。
されど、構える。
構えるのだ。男は既に立ち上がっている。膝ポッケに仕込んでいた鉈の切っ先をこちらへ向けている。
捕獲船は座礁。船員も大半は死亡し、実働要員は壊滅した。それでも尚俺たちに刃物を向けてくるってんなら、一切の情け容赦はしない。
砂を足の指で掴む。やや猫足気味に、迎撃の構えで。
互いの殺意に、音は伴わないようだった。一対一。最後の殺し合い。
真下から突き上げてくる切っ先をトンファーの一閃で体軸の外側に弾き、右のローキックを大腿骨へ直に叩き込む。敵の足が止まった。中空で膝の向きを変え、膝から先の重量全てを投じて側頭部への上段蹴りにシフトする。
「……ははっ!」
視界がクリアだ。上段蹴り自体は髪束を掠めただけで留まったが、次にどう動くべきなのかが明瞭に判断できる。自分の身体がずっと、前に押し出されていく。蛇の頭のように、果てなく、前へと。
拳の底を叩きつける形でトンファーを振り下ろし鉈野郎の左の鎖骨を強打した瞬間、死に物狂いの雄叫びと共にヘソの高さで刃が唸った。間一髪で後方へ離脱していなければ内臓撒き散らしてあの世行きだった一撃。敵ながら残った方の片腕だけでよくやる。
視界が、クリアだ。2人の女の背中は瞼の裏から消え失せていた。代わりに横並びで立つお前らを時々思っている。
刺突と斬撃が徐々に加速し、鈍重な刃が嘘のように空を切る中、その一切に触れることなくただのステップワークだけで全てを回避した。振り抜き際に右腕を合わせるだけで簡単に敵の骨を砕けた。握り拳の甲にねじ込んだトンファーの先端部がある程度の血に染まる頃、男はついに柄を取り落として後ずさった。
両腕を潰されフラつきながらも2本の足で立ち上がってくるその姿勢については感心するが、お前らは人道に反した。テメエの都合で踏み躙ってはならないものを踏み躙り、剰えそれを生業としていた。故にこれは俺が今行使できる最大の情けだと思え。
「……海の向こうで振れ回れ」
正拳突きの構えで立ち向う。ボタンもレバーも何も見当たらない以上操作法は限られている。
せめてもの情けだ。一発で消し飛ばしてやる。
「波布が生まれたってな」
一撃。
腹にめり込ませたトンファーの先端部がギチギチと唸りを上げ、猛スピードで、伸びた。暗黒の海岸線を斜めに突っ切るように。恐らく70kg近い体格の男を先端に固定し、海面で引きずりながら。遥か彼方へと。
伸ばした右腕を勢いよく引き戻した瞬間、如意棒よろしく異常な長さにまで成長してしまったトンファーは綺麗さっぱり元の形状に戻る。当たり前の話だが男はくっついてきていなかった。
戦闘終了。短いんだか長いんだか解らん死闘だったが、少なくとも十人組手よりは遥かにキツい試しだった。ふらつく膝を叩いて直し、船の方に戻る。3人ともいつの間にか浜の上で俺を待っていた。近くには首のねじれた襲撃者の死体がひとつ血だまりを作っている。さっき平inユタが襲い掛かったやつだ。負ける心配は毛ほどもしていなかったが、こうも鮮やか且つ冷酷な殺人仕草を見せられるとどう声を掛けたものか分からなくなる。
「あ、カイ来た」
「帰って寝るよ」
「鮫男がほったらかしのままだが、アレはどうするつもりだ」
「いっぺんに喋るな。……そろそろ警察か海保が来てもおかしくない」
体力が限界に近い。「故に?」「アイツ回収して婆さんちに帰宅だ」と全員の背中を軽く叩いて促す。何も問題が起きていなければ今も懐中電灯の散乱している方に転がっている筈だ。
疲れた。マジで疲れた。立て続けの実戦もキツかったが心境の変化でハイになりすぎていた面はある。走って転移して殴って転がされて最後はアーティファクトで人間1人ぶっ飛ばしたのだ。やった本人ですら頭の整理が追いつかん。
「……一度に10人か」
「幸いなのはたかが素人10人だったことだな」
「単身嬲られかけた身でそれを言うかね」
「うるせー。……まあ、マジで助けられちまった。礼は後で言わせてくれ」
髭を微かに傾かせ、幽霊が肩を貸す素振りを見せてくれたため反射的に腕を回す。何もない中空に思いっきり体重をかけて転倒した。
「ぶはははッッッ!!」
「幽霊テメー!!」
「いやまさか本当に引っ掛かるとは……カイ」
「あんだよ!!」
「我々は都合何人の敵を屠った計算になる」
「そりゃお前」
まず俺が単独で2人倒しただろ?ほんでユタが1人射殺して、平が銛で1人仕留めて、船に奇襲仕掛けて以降は平が1人、俺が2人倒して、ついでに平inユタが2人捻り殺して、合計9人だな。
やらかしたかもしれない。
「──周辺警戒! まだ1人残っている!」
「今一番危険なのは保護対象なんじゃないのかい若僧!?」
「その通りだ婆さん! 1列縦隊でブニの元へ向かう! 絶対に散開するな!」
砂に塗れた半袖ワイシャツを叩きながら走り出す。ヤバい。完全に失念していた。転移後の乱戦で誰か1人取り逃がしてんだ。予め敵の最大人数が割れておきながらなんて失態を。
無論捕獲船はあのザマで仲間も全員倒してしまった。雑魚一匹残ったところでブニをどうこうできるとは思わないが、人間一番とは言わずとも二、三番目に怖いのはヤケクソで全てを終わらせに掛かるあの無茶っぷりだ。初手で独り善がりの十人組手に挑んだ俺だからこそ理解できる。
というか、仮に取り逃した場合俺たちの人相やら能力やらが全部バレる可能性すらある。この島での蛇の手活動が初手からハードモードに早変わりだ。それだけは困る。
「ブニの安全確保は婆さんに一任する! 平は上空から偵察! 俺とユタは二手に分かれてあのカスを探す!」
「見つけたらどうすんのさ!?」
「始末するしかねえ! 俺たちの存在がこれ以上バレんのはヤバい!」
「その必要もなさそうだぞ」
50m前方に人影。夜行虫の纏わりついたラスト下手人発見。向こうもこっちの存在に気づいたのか全速力で海の方へ逃げて行く。
クソ暗い沖合まで気合で泳いで逃げるつもりだ。見上げた犯罪者根性だがそれをやられると本当に勝ち目が無いんだ。何としてでも奴をこの場で処理する必要がある。
「婆さん!」
「石敢當が無いんじゃ飛べないよ」
「平!」
「飛ばして当てるものが無いぞ」
「ユタ!」
「何するってんだよアタシが! てか足早い! 止まれ!」
「ヤニカス……ッッ!」
異変はそれだけじゃなかった。ブニの姿が見当たらん。目下対処すべきは恐らく泳いで逃げようとするアイツなんだろうが本当に何処に消えやがったんだあの鮫。この期に及んで何でこんなマルチタスクを負わにゃならんのだ俺たちは。
最早やるしかない。俺の右手、ついさっき鹵獲した超常トンファー。こいつを伸ばしてぶち当てる。ただでさえ暗闇、波で変則的に動く対象に当てられるか、ましてや今の俺が。だがやらなければならない。己の慢心により敵一名逃走。保護対象、ロスト。既存人員の喪失こそないが、最悪の部類だ。それだけは避ける。
急げ。ひとり浅瀬へと駆け出し、暗闇へと紛れる人影へ獲物を向ける。
「……あっ!」
遠く視界の先、一人バタ足で遠ざかる逃走者周囲の海面が青白く弾ける。
飛沫が舞う。白波が散る。
その合間にぬらりと光る捕食者のシルエットが、大口を開けていた。
刹那、大口の輪郭が閉じる。何かが舞う。暗闇の中で蒼と赤が混じり合い、荒れ狂う水面の白に呑まれ、沈む。全ては一瞬の出来事だった。何一つ瞬くことを許さず、ひとつの命が呆気なく呑み込まれる光景がそこには在った。
半ば呆気に取られつつ出来事の一部始終を凝視する俺の近く。青白い水面の反射に照らされて、眼前の波打ち際に何かが浮かんでくる。
上下で真っ二つに両断された人体だ。
ついで、鮫の頭部が海面に突出する。
「……ブニ?」
「どうも、えへへ」
まるで何でもないかのように、鮫の怪人が浜に上がってきた。
「僕は、海が本領なんで。これくらいなら、まあ」
「……怪我は」
「少し引き攣れはするけど、まぁ包帯巻いとけば治りますよ、たぶん。人より治りは早い方なんだ」
「馬鹿野郎それはこっちが何とか手配する」
彼の頭は話してるうちにすっかりサメから人へ戻っていくようだった。その牙には未だ血潮が赤黒く残っている。こう見るとしっかり怪物、超常だ。
「だが……まぁ、無事で良かった。それに、尻拭いまでしてもらってすまない」
頭を下げて感謝を述べる。ブニは「そんな、やめてくださいよ!」と浅瀬をばしゃばしゃ叩きながら答えた。
「散々助けてもらいましたからね、カイさん。僕なりの精一杯の共闘ですよ。だから」
一呼吸おいて、少しだけ躊躇って、ゆっくりとブニは手を差し出す。
特徴的などんぐりまなこは、純心とわずかな不安を鮮明すぎる程に映していた。
「だから、僕ももうカイさんたちの仲間じゃだめですか、ね?」
「仲間なら尻拭いとかないもんな!」
「どうせ早いか遅いかの違いくらいしか無いだろうになぁ小僧」
「またそなたの寄り合いが賑やかになるな」
後ろでやいのやいのと騒ぐ連中を尻目に、目の前の青年に、人食いの怪物に、立ち並ぶべき超常に。差し出された手をゆっくりと掴み、確かに握り返す。
そうだったな。弱者を踏み躙る敵に毒牙を掛け、弱者に“手”を差し伸べる。誰しもが肩を並べる共同体。それが俺たち。
「当然だ。ブニ、取敢えずは──ようこそ、波布へ」
"ブニ"
イニシャル: BN
種族: 鮫、人
性別: 男
生年: 2002年頃
職責: 洋上脅威殲滅担当
「──だから靴脱げってんだよクソガキ!」
「せめて玄関先に飛ばせよババア!!」
「室内への直接転移は不合理極まりないな」
「黙ってな幽霊! 本土の人間がアタシんちでガタガタ騒ぐな!」
「ヘイヘイヘイヘイ近所迷惑だ落ち着けアホ共!」
「誰がアホだ万年スーツ」
「お前だよヤニカス!」
婆さんの力も借りて死体を処理し、5人揃ってセーフハウスの広間に飛んだ矢先これである。時刻は午前3時を少し回った頃。大体予想はしていたがブニが一番反応に困っていそうな気配がした。
これから先新たな聞き込み調査やらメンバー全員の手としての登録やら、及びアオに向けた報告書作成など明らかにめんどくさそうなタスクがアホ程待っているわけだが、ひとまずは危機を脱したわけだ。それ自体は祝うべきなのかもしれない。帰って来た。保護対象をちゃんと保護して。誰一人欠けることなく。あろうことかヒトガタ超常を蝕む脅威も排除してしまった。
「……カイさん?」
「カイさんだが」
「この人たちは」
「……波布?」
「それはさっき聞いたんですけどね」
ユタの悪い癖がいつの間にか伝染していたらしい。畳の間に投げ出されて流石に足腰も立たなくなって来た。靴を脱ぎながら血流の滞った頭を前後に揺らし、互いに別の理由で血まみれのまま改めて目を合わせる。
「……“超常”の存在を対象とした人道支援活動に従事する……ことになった、超常の皆さんだ。俺の仲間とも言う」
「僕みたいな境遇の人たちを助ける当事者主体の組織ってことかな?」
「ブニ」
「何でしょう」
「君が一番話が早くて助かる」
「あはははは」
ギザギザの歯を剝き出しに笑うブニの少し向こう側で「俺は?」という顔で待機する超常3人を指さし、とりあえず今捻りだせる語彙力で現メンバーを紹介することにした。
「囚人番号002。霊能力者のヤニカス」
「あたしが先輩だかんな」
「霊能力者とセットで拾った落ち武者幽霊」
「恐らく何も見えとらんし聞こえとらんぞ」
「そんで最強島内タクシーの婆さん」
「海の藻屑にしてやるよ」
「2人しか見えないし2人とも物騒だ」
「で、脱サラ無職でここの臨時首領を受け持つことになった。国頭改だ。よろしく」
「聞きなれない単語が多くてちょっと困ったけどなるほど。ブニです。野良の鮫のバケモノです」
「分かりやすい自己紹介だな」
「爺ちゃんの代とかでは普通に琉球の人たちとも交流あったらしいんだけど……えー……」
「後で聞かせてもらおう」とゆるやかにブニを制止する。ひとまずやることは応急措置だ。
「婆さん、救急品とかってここにあります?」
「棚にあるのを適当に使え」
「ありがたい。ブニ、包帯変えてやるからこっち来な」
そうしてブニの傷に消毒パッドを当て、適当に巻いていた包帯をしっかりと巻きなおす。ついでに未だ平が見えていないのは少々不便なので、例の短刀も寄越して触らせた。
「海に浸かるわ変身するわで傷口開きっぱなしだな。どうしたものか」
「……カイさん、え、これ僕の頭がおかしくなったんですか?」
「表現としてはあながち間違ってもいないだろうな。例の落ち武者だ」
「例の落ち武者だ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします。本当に"そういう人たち"の寄り合い所帯なんですねぇ」
「そう見えるか」
「え、違うんですか」
「腹減った!!」
「うっせえぞユタ! 四日前のサーターアンダギーならあるが」
「お前らいま何時だと思ってんだい! たらふく食ってさっさと寝ちまいな」
「四日前はもう乾パンじゃん!」
「ブニは腹減ってる? てか油物食える?」
「人間の食べ物も大体食べられますよ」
まあ、なんだかんだ。
アオの言っていた「居場所を作ってくれ」という話については、ひとまず達成できたものと考えてもいいのかもしれない。
遠い潮騒が鳴いている。
欠伸と共に、ざぶぅんという間延びした音が意識へと滑り込んでゆく。つい数時間前まで血まみれの超常戦が繰り広げられていたとは思えない程に、呑気な正午前。縁側へ差し込む陽の光の穏やかさには最早可笑しさすら覚えそうだ。寝起きの俺である。
いくら鮮烈な体験だろうとも、あんな一瞬の出来事は、波と南風カーチーペーが全て攫っていくのかもしれない。そんなことをぼんやり思っていると、いつもなら昼下がりまで俺の顔面を蹴りながら寝腐っている筈のユタがいないことに気づいた。新鮮だ。
ともかく、外の光を全身に浴びよう。サンダルを掛けて石垣をだらだら歩いていると、石垣のそばに生えるマングローブの根本に、人影を見つけた。
ユタである。
煙草片手にしゃがみこんでいる。一服か?
「何してんの?」
俺の問いかけには応じず、ユタがおもむろに、半分ほど残っている煙草を地面に擦りつけた。もみ消した跡はずいぶん綺麗な円の軌道を描き、まだ全然吸えるはずだった煙草は無事土まみれのゴミと化す。本当に何をしてるんだコイツ。
ユタは自らが描いた煙草の円をじっと見つめていた。半ばドン引きしながら遠巻きにその奇行を見物していると、突如、円の内部から何かが生えた。
生えた。いや違う、表現として正しくない。
何かが、しかも数体、ポコポコと湧き出している。
「おいコラ」
「何」
「いや何だそいつ」
慌ててユタの元へ駆け寄り、腕を掴んで問いただす。今しがた湧いたソレをむんずと片手で掴んだまま、ユタが振り返った。思わずソレへと目がいく。
ハンドボールサイズの頭部に左右不均等なデカ目玉を搭載し、その下部からちまっとオマケみたいな手足を伸ばした、「黄色くてキモい何か」。どっかで見たことある気がする。
「……本当に何? こいつ」
「……した」
「……何て?」
「召喚、した」
「何を」
「コイツを」
「何これ」
『……ムナー』
「……」
『ムナー、ムナー』
未だにユタが描いた煙草痕から際限なくポコポコ湧き出るキモいボール共と目が合った。出目金の如き目ん玉の端々は血管が充血し、焦点は交わらず、それでもって俺の眼前をふよふよと漂っている。
半ば本能で右手を薙ぎ払うように掴みかかれば、起毛感と弾力の混じった嫌なスクイーズみたいな触感が、俺の、手に。なんで触ることができるんだよ。普通ダメだろこういうの。
「……もう一度聞くが、何これ?」
半ばヤケクソ気味で問いかければ、悠然と今日の晩飯を伝えるかのような声色でユタが答えた。
「キジムナー」
"キジムナー"
イニシャル: KZ
種族: 妖怪?
性別: 有無を調査中
生年: 不明
職責: 要検討
02.集結





