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器は満たされなければいけない。

 
5年ぶりに実家へと戻ってきた。
 
 
 
父ちゃんから、爺ちゃんが床に臥したと電話があったのは仕事がちょうど一段落を終え、缶コーヒー片手に煙草休憩に入った時だった。

元々畑仕事をしていた爺ちゃんだったが、腰を悪くしてからは父ちゃんに畑を任せて自分はめっきり外に出なくなったらしい。

そんなことで運動不足が祟ってか、爺ちゃんは脳卒中に襲われた。

もう長くないかもしれないと言われたら、すぐに戻るしかなかった。
 
 
 
 
 
器には、厭なものが溜まると爺ちゃんから聞いた事がある。

良いものが上に昇ると同時に、厭なものは下に流れる。

囲いが在ればそれは溜まり、濃縮される。

故に福神は天に座すが、禍神は地に滞留するのだと言う。
 
 
 
我が家には不文律があった。

しばらく使わない器は伏せて置くか、中身を満たさなければいけないと。

使い終わった食器やバケツは伏せて置かれた。

鞄や脱いだ靴の中には新聞紙が詰められていた。

風呂には常に水が張られていた。

爺ちゃんの部屋の灰皿にはいつもシケモクが溢れていた。
 
 
 
物心ついたときには当たり前の光景だったため、さほど疑問を持たなかった。

食器やバケツを伏せるのは埃が溜まるからであろうし、鞄や靴の新聞は湿気取りのために、風呂の水は災害時の備えであろうと解釈していた。

また灰皿に関しては爺ちゃんの怠惰だろうと。
 
 
 
ただ、腑に落ちないものもあった。

仏壇のリンは常に伏せられていた。

爺ちゃんの部屋のゴミ箱はいつも溢れていた。

玄関を入ってすぐに飾られた壺には土が詰められていた。

花を生けていない花瓶には米が詰められていた。

誰に聞いても特に明確な答えが得られるわけでもなく、以降触れることはなかった。
 
 
 
 
 
爺ちゃんはいつも言っていた。

盆地には人が住まねばならないと。

山に囲まれた盆地もまた器であると。

住まねば厭なものが溜まり、やがて溢れ出てしまう。

しかし近年の高齢化や若年の街への流出により、盆地に在るこの町も人が少なくなってしまった。

中学校なんて各学年に1クラス、クラスメイトは2人分の指があれば数えられてしまう。

斯く言う私も高校を出てすぐ、働きに町を出た身である。

同級生も実家を継ぐやつ以外はほとんどが、高校卒業を機に町から離れていった。

陰鬱とした空気が漂う、隙間だらけの町には耐えられなかった。
 
 
 
今にももう。
 
 
 
溢れそうな。
 
 
 
 
 
コーヒーの空き缶に灰皿のシケモクを詰め込み喫煙所を出た。

器は満たされなければいけない。

仕事は3日間の休みをもらい、午後の仕事も早めに切り上げ帰路についた。

コンビニでおでんと麦酒を買い、ありったけの小銭を募金箱へと投入する。

器は満たされなければいけない。

町にいた頃は煙草も酒も嫌いだった。

爺ちゃんの紫煙は目に染みるし、流し台に溜められた麦酒の空き缶は異臭を放っていた。

町を出て出会った彼女から別れを告げられたとき、心に穴が開いた。

ふと手を付けた煙草と酒による酩酊感が私に安寧をもたらした。

煙で肺を満たし、酒で胃を満たす。

それ以降手放せないものになってしまった。

蛙の子は蛙である。
 
 
 
泥酔しそのまま寝てしまったようだ。

浴槽から衣服を取り出し湯を溜める。

風呂に入る前に寝てしまうことが多く、朝風呂が日課になっていた。

風呂を出て再び衣服を浴槽に放り込む。

器は満たされなければいけない。

まだ外は暗い。

日が低いうちに家を出れば昼時には着くだろう。

煙草を2本吸い湯呑に押し込む。

器は満たされなければいけない。

ボストンバックに2日分の支度を詰め家を出た。
 
 
 
 
 
実家に着くと母ちゃんが迎えてくれた。

爺ちゃんは自分の部屋にいるから、まずは顔を見せてあげてくれと。
 
 
 
爺ちゃんは介護ベッドに横になり、瞼を閉じていた。

声をかけたが反応はない。

おそらく寝ているのだろう。
 
 
 
寝たきりの影響で顎の筋肉の緊張が解かれ、口は開かれたままであった。

もう自分では閉じることのできない、大きく開いた口。
 
 
 
それは上を向き
 
 
 
厭なものが
 
 
 
溜まる。
 
 
 
 
 
 
私は爺ちゃんの口に、シケモクを詰めた。
 
 
 
 
 
 

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