くしゃ、しゃか。葉が擦れる音が響いて、ぴゅうと一つ、爽やかな風が馬と手綱を引く青年との間を抜けていった。やや暗い森の中を射刺す光が葉と共に揺れて、この小柄な青年の蜂蜜色の髪の毛を、細かく割れた琥珀のように輝かせた。長かった森の終わりが見える。青年はでこぼこした道に足を取られないよう慎重に歩きながら、ふうと溜息をついた。彼の暗い青の外套が、風に吹かれて控えめにはためいた。
「乗馬が上手けりゃ、そんなに疲れやしないんだがね」
ざらついた電子音がケラケラと笑った。青年は彼の右腕をじっと睨みつける。
「ダヴィ……」
彼はまた何か言おうと小さく息を吸い込んだが、すぐにそれをこぼすように吐きだして、すっと口角を上げた。
「そうだダヴィ、その通りだよ。それでこんな不甲斐ない僕と比べれば、君は相当"乗腕"上手だ。そうだね? さあ、乗りこなしてみせてよ──」
彼は右腕をぶんぶんと大きく振り回す。
「うおおおおおお、ギブ! ギブだから!」
彼の右腕に巻き付く大きめの腕時計じみた機器──ダヴィは、もう無理だといった様子で叫び声を上げるが、青年は腕を止めない。そうしているうちに、叫び声はやがて楽しそうな笑い声に変わって、ときどき聞こえる鳥の声と一緒に森の奥へと吸い込まれていく。青年は腕を止めてダヴィを顔の前に引き寄せた。その液晶には「((@д@_))」と表示されている。
「それはどういう意味なんだい?」
「目が回ってるって意味さ」
「そういう意味の言葉ってことだね」
「ちょっと違う。顔文字っていって、まあ、絵みたいなもんさ。記号を合わせて、表情を再現してるわけだ」
「ああ、なるほど…… なんとなくわかった気がする」
青年は空を見上げながらその場で一回転、くるりと回った。薄灰の虹彩と白い肌が磁器のように滑らかに太陽光を照り返す。それからまた何回転か素早く回って、またダヴィを眼前へ寄せた。
「どうだい」
「どうだいってのは一体どういうことだよ」
「僕はいま目を回した」
「ああー…… そういうことか」
ダヴィは彼の意図を察してゲラゲラと笑った。青年はやや不服そうに眉をひそめる。
「あのなあ、人の目はあんな風にゃあならんよ、普通は」
「じゃあやっぱり写実じゃなくて、象徴的ってことか……」
「さすが、芸術家先生は分析がお得意だ。しかし確かに絵みたいなもんだとは言ったけども、これはそういう芸術的なもんじゃないぜ」
「どれが芸術かなんてのは、僕が決めるよ」
「まあそうだろうな。さすがアーティスト先生は普通じゃ満足できないわけだ」
「そう。そんでもって君は美しくないから芸術じゃない」
「おいおい、それはエニシに失礼だぞ。このボディはあの娘がつくったんだから」
「見た目じゃない。中身だよ。そこは君だろ」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ。大先生!」
青年──エスィは片手で手綱を握りながら、革の肩掛け鞄の中を確認した。ノートや作品の制作道具の他に、用意したいくつかの芸術品が入っている。それには、他の村から買い集めたものや自分で制作したものが含まれていた。この森を抜けて少し行けば今回の目的の村があるはずだ。村に入るときには、芸術品の行商を名乗る。目的がはっきりしている方が、村人も安心して受け入れてくれることが多いからだ。
「それにしてもなんつうか、変なもんだよな」
「ん?」
しばらく黙っていたダヴィが、何かを思い出したように話し出した。
「顔文字なんてフクザツなもの作って、わざわざ自分の感情を伝えるってのが変じゃねえかって話さ」
「まあ、伝えないと伝わらないだろうから」
「"伝え"なくても"分かる"もんじゃないか?」
「どうかな。でも伝えようとしてたってことは、分からなかったんだと思う」
「そうか、面倒なもんだな。非効率だ」
「まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
おしゃべりな右腕の住人は、滅びてしまった古い世界を生き延びた、旧い電子知能だった。それはもとは一つであったが、今はこうして青年の仲間たち──探訪者を自称する人々がもつ機械にそれぞれコピーされて、別個に活動している。多少の個性はあれど、基本同じプログラムで動く彼らにとって、同種の間でわざわざ感情、すなわち刺激に対する反応を確認しなければいけないというのは、非合理に感じられたらしかった。
「煮え切らない返事だな。ま、いつものことか。ほら、森を抜けるぞ。もう引っかかる木もないんだから、存分に馬を乗りまわそうぜ」
視界を覆っていた木々が少しずつ減りはじめ、その先に広がる平原がその姿を見せ始める。エスィは足場が十分安定しているのを確かめて、馬へと軽やかに飛び乗る。ふと風が吹いてそのたてがみが揺れ、染みついた濃い森の匂いがあたりに振りまかれた。葉の隙間を抜ける日差しが徐々に強くなっている。エスィは目を細めて、平原の奥に待つまだ見ぬ目的地を見据えていた。
◇◇◇
周囲を山に囲まれた平原を進む。ときどき風が地面を撫でる以外に騒がしい音もなく、馬が土を踏みしめるテンポのいい音が、エスィの眠気を誘っていた。山を越えずにここへ至る道は、エスィが通ってきたあの道──山峡の森の道しかない。それゆえに、外からの脅威がないのだろう。穏やかな空気が平原全体を覆っていた。
「なあ、情報が間違ってたってことはないのか?」
ダヴィが退屈そうにわざわざため息の音声を流してみせる。そもそも彼らがやってきたのは、ここに大きな村があると聞いたからだった。この平原にはもともといくつも村落があったのだが、その中の一つの村が、他の村を次々に打ち倒して強大化した、というのがその話だった。ところが、森をでてしばらく歩いたものの、まだその村というものが見つからない。
「あるとはいいきれないけども、異類が関わってる可能性がある以上、しっかり調べないと」
「はあ、真面目なこったね」
ただ大きな村というだけなら、彼ら探訪者の出る幕ではない。今回はその村に「異類」が関わっているらしかった。彼らは"同盟"と呼ばれる組織に所属していて、各地の異類──人の理外にある、異常な物品や生物を探している。人々がどう異類と共存し、異類が人々の生活にどんな影響を与えるのかを調べるのが目的だ。決して異類を破壊したり、しまいこんだりすることが主目的ではない。それらはかつて人類が失敗した方法だった。
『──みんな同じ顔でぇ、腕とか切り落とさない限りぃ、傷が浅けりゃ次の日にはケロッと復活してくんだぁ』
ダヴィが男性の声で今回の情報提供者の言葉を再生する。彼はかつてその村に滅ぼされた人々の生き残りの末裔らしく、この村の話も、彼らの伝承であるらしかった。伝承の信憑性というのはかなり低い。それは語り手たちに都合のいいように改竄されるし、仮に本当でも語られた村が今も残っているとは限らない。
「下手な声真似はよしてよ。第一翻訳なんだから、その変な喋り方はダヴィの匙加減じゃないか」
「いーやこんな感じだね。俺の高性能翻訳機能を舐めないでいただきたいよ。喋り方のニュアンスまで完全翻訳だ」
「僕の言葉、まともに翻訳してもらえてるか心配になってきたよ」
「安心しろよ。ちゃんと根暗っぽくしてるさ」
「──この前の村でご老人が変に優しかったのはそのせいか……」
「可哀想な子だと思われたんだろうなあ」
「調査に支障がない範囲なら、まあ、いいけどさ…… あっ」
エスィの目が、一つの窪みを捉えた。雑草が生い茂っていてすぐにはわからないが、おそらく元は長方形に掘られたと思われて、それなりの広さがある。周囲には人工的に土地が均されたのか、他より凹凸が少ない土地が広がっていて、注意深くみると、同じような窪みをいくつか発見できた。
「お、こりゃ村の跡って考えて間違いなさそうだな」
「これが滅ぼされた村ってやつなのかな」
「ああ。ここまで風化してると、だいぶん昔の話なんだろうな。掘ってくか? 土器の類ならあるかもわからんぞ」
「いや、時間がないよ。野宿もいいけど、できれば今日の夕方までには目的地につきたいんだ」
エスィは馬を急がせる。日はまだ高かったが、村がどこにあるかわからない以上、時間に余裕を持っておきたかった。
その後も先ほどのような村の跡がいくつか見つかったが、新たな発見はなかった。ただ、どれもかなり昔に滅ぼされていて、おそらくずっと手入れされていないだろうということは明らかだった。山から下りてきたとみえる子連れの鹿や鳥たちがときどき遠くに見える以外、代わり映えしない景色がずっと続いていた。
森の出口から正面に見えた山がかなり近くなってきたころ、やっとその麓のあたりにいくつかの建物が並んでいるのがうっすら視認できた。
「やっと見えた。きっとあれが"同じ顔の村"だね」
「いやーどうだかね。思ってたより小さくないか? あれくらいだと、人口にしちゃ五十、良くて百人規模だぞ」
「それで、ここは周りから隔絶されてる。他の村との交流もあまりなさそうだよね。だから、きっとそうだよ」
「あ? どういうことだ?」
エスィは期待に満ちた微笑みと共に村をじっと見つめている。ダヴィはエスィの言っていることがよくわからなかっていないようで、訝し気にその内蔵カメラをエスィに向けていたが、やがて意味を理解したのだろう。「あ~」とどこか間の抜けた声をあげた。
「そんなちっぽけな人数じゃ人口は維持できないってことだな。普通は」
「そう。周りの村が滅んでから大分時間が経ってる。その間まともに外との交流──血の交換もなしに村の人口を維持するのは難しいんじゃないかな」
「普通じゃないからこそ異類が絡んでる可能性が高いって、そういう推理なわけだ。ま、徐々に人口が減っていって、今のあの規模まで小さくなっちまったって可能性もあると思うけどな」
「まあ、そういう考え方もあるけど。答えは行ってみればわかるはずだよ」
馬もついに目的地が近いことを察したのだろうか。エスィにはその歩みが軽やかになったように感じられた。
◇◇◇
村に近づいていくと、数十の家を囲むように畑があることがわかった。近くに小さな川が流れていて簡易的な水路が引かれているが、どうやら水田の類ではないようだ。一面にまだ緑色の穂をつけた背の高い作物が植え付けられていて、ダヴィはそれを「きっと小麦の類だろうな」と説明した。畑はさらに堀のようなもので囲まれていた。かつて柵も設置されていたようだったが、今では堀の手入れもされておらず雑草が生い茂り、柵も引き抜かれたあとのようであった。
畑に侵入してしまわないように村の周りをぐるりと回りながら入り口を探していると、畑の中で立ち上がってこちらを向いている人影が見えた。シルエットでつば広の帽子をかぶっているのがわかる。逆光で顔はよく見えないが、敵対的ではないらしく、小さく跳ねながらこちらに手を振っている。
彼はエスィが気付いたことがわかると、大きな身振りで東の方向を指した。そこに入り口があるという意味らしかった。エスィはそれに手を振り返して、彼が示す方に歩みを進めた。
ふいに山を駆け降りる突風が吹いて、一面の緑がざわざわと騒いだ。エスィが彼の方を振り返る。彼のつば広の帽子が、飛ばされて宙に舞っていた。彼は帽子を追いかけて両手を伸ばして駆けだしたが、エスィに気づくと、また飛び上がって手を振った。その間に、帽子はどんどん飛ばされていった。
彼が帽子を追って走っていくのを見送ってから少し歩くと、小石が敷かれた細い道が見つかった。ちょうどその先で、腰をかがめて農作業をしている人影が見える。エスィが馬から飛び降りると、足が小石を踏みしめる音が静かな平野に響いて、人影が背を伸ばしてこちらを振り返った。エスィはスピーカーの仕込まれた黒いマスクを着ける。
「翻訳はできそうかい?」
「情報提供者のオッサンの言葉と地域から、元になりそうな言語は絞り込んである。どんだけ変化してるかはわからないが、まあある程度喋れば理解できるだろうよ」
「ありがとう、助かるよ」
エスィがその場で立ち止まっていると、人影が近づいてきた。男性のようで、農具を持っている。下手に近づいて行っては怪しまれるからと、エスィは両手を上げて彼が近づいてくるのを待っていた。
近付くにつれて、彼の容貌がはっきりしてきた。50歳かそれ以上くらいに見える黄色人種系で、もみあげの付近を中心に白髪が混じっていた。生え際は"アルファベット"でいうところのMの形にやや後退しているものの、肌に皴は少なく、不健康そうには見えない。服は恐らく亜麻か何かの繊維で作られた貫胴衣の一種だ。男性が、お互いに手の届かない位置からこちらに何かを叫んだ。少しの間があって、ダヴィがマスクのスピーカーを通して何かを返答した。
言葉の壁がある村では、エスィが小声で話した内容をダヴィが翻訳、即座にエスィの声を真似てマスクのスピーカーから発声する。村人の発話も、ダヴィが翻訳して耳元の小さなスピーカーを通してエスィに届ける。周りからはまるでエスィが話しているように見えるので、いちいちダヴィの存在を村人たちに理解してもらう手間も省けた。
ただ今回のように初めて触れる言語のときは、ダヴィが独断で話を進めることがあった。(なんて言ったんだい?)と小声で尋ねるエスィに、(あいさつみたいなもんさ)とダヴィは返す。
(で、大丈夫そう?)
(ああ、翻訳なら問題ない。今の一語で大体どれの派生か理解できた。理由は分からんが、文法も単語もあまり変化してなさそうだ)
(じゃあここからはいつも通りお願いするよ)
(ああ、まかせとけ)
警戒がとけたのか、男性が笑顔で近づいて、胸の前で手を複雑に動かしたあと、額に手を添えて数秒目を瞑った。エスィはそれを、挨拶の際のジェスチャーであると理解した。首には緑色に染色された紐にいくつかの石をつなげたネックレスのようなものがかかっている。
「旅の方、お迎えできて光栄です。なぜあなたはこの村へ?」
「私は行商の者です。芸術品の取引に来ました。この村を見て回ってもよいでしょうか?」
「"オザ"の者がそれを決めます。私があなたを彼のところまで案内します」
そういって背を向けて歩き出した彼のあとにエスィも続く。オザというのはきっと人名か何かだろうと耳元でダヴィが付け加えた。男は一度も振り返らなかったが、一応こちらの歩くスピードに合わせてゆっくりと進んでくれているようだった。エスィは男の言葉になんとなく違和感を覚えていた。丁寧ではあるものの、どこか形式ばった、単調な言葉。できるだけ会話を短くしたいような、そんな風にも聞こえた。翻訳を介す以上、どうしても言葉のニュアンスは完全には読み取れない。村にすぐに入れてくれる寛容さの裏で、それでもどこか拒絶されているような印象をエスィは拭うことができなかった。
男に言われるまま馬を入り口近くの小屋に預けて、均されて雑草が取り除かれた道を進んでいく。それぞれの住居は木造で、高い位置に窓の役割を果たす目の細かい格子が取り付けられているのが特徴だった。道中で見つけた村跡にあるような竪穴式ではなかった。家一つ一つはそこまで大きくなく、2人か3人が住めば一杯になる程度の広さだ。そしてそのどれもが規格を合わせたように全く同じ形状で、やや間隔をあけて並んでいる。村全体で50以上は家がありそうだったが、見渡せる範囲でもいくつかは手入れがされておらず、人が住んでいないように思われた。そうして、村は想像していたよりもずっと静かだった。ときどき外に出ている住民も遠目に見かけるが、畑にそこまで多くの人がいなかったことを考えると、多くは家の中にいるようだ。
男は少し盛り上がったところに建つ家の前で止まった。家自体は周囲のものとほとんど、いや、何も変わらない、"木造のそこまで大きくない家"だった。"オザ"なる人物がそれなりの権威者であることを、そしてその家が少なくとも多少は他とは違っていることを想像していたエスィは、奇妙なものをみるようにそれを眺めていた。
男が扉に取り付けられた拳ほどの石で四度、トントントトンと扉を叩く。扉には錠がついていたが、金属でできたそれは質素な家とは不釣り合いな、精巧で重々しいものだった。しばらくすると、内側から鍵が開く音がして、扉がゆっくりと開き、中から一人の男があらわれた。
エスィはその顔を見て息をのんだ。あらかじめ聞いていたとはいえ、異様な光景だった。家から出てきた男は、案内の男と全く同じ顔・背丈であったからだ。生え際の後退具合までもが一緒であった。精巧に作られた人形かとも思われたが、肌やその下の筋肉の躍動から、エスィにはそれが全く生身の人間であることがはっきりとわかった。オザと案内の男は向き合うと、全く同じ動きをしてみせた。胸の前で手を動かしてから目を閉じる、挨拶のジェスチャーだ。左右は反転しているものの、それは本当に鏡写しのように見えて、ダヴィが(きもちわりい)とエスィ以外には聞こえないように囁いた。案内の男と二三言葉を交わしたあと、オザはこちらを向いて、やはり案内の男と全く同じ声でこちらに語り掛けた。
「ようこそいらっしゃいました。あなたが行商の方ですね」
「──ええ、はい。芸術品を売っております、エスィと申します」
「エスィさん、ですね。村の紹介をします。我が家にお入りください」
オザはそう言ってエスィを中に招き入れた。後ろから案内の男も続く。家の中は、どこか味気ないものだった。樽・ツボやテーブルのようなもの、それをはさむように置かれた二つの長椅子があって、いくつか設けられた棚の上には、綺麗に磨かれた鏡が一つ置いてあった。他にも暖炉のそばには筵むしろなど、色々なものが立てかけられていたが、鏡以外に装飾と思われるものはなかった。
オザは案内の男を長椅子に座らせた。エスィも見よう見まねでそれに続いて長椅子に腰を下ろそうとしたところ、オザが駆け寄ってそれを止めた。
「お待ちください。他の椅子を用意します」
「いえいえ。そんな──」
「問題はありません」
オザは有無を言わさず部屋の隅から一人掛けの椅子をもってきて、エスィの前に置いた。彼は促されるままにそれに座った。確かに、椅子の上には繊維で編まれたと思しきクッションが敷いてあって、木で作られた長椅子よりは座り心地がよさそうだった。これまで訪れた村々と比べても、かなりの好待遇を受けているような気がして、エスィは気まずそうに額を撫でた。
斜め前に座ったオザがじっとエスィの方を見つめる。決して珍しいものをみる好奇の目ではなかった。頭のてっぺんから足の先までをじろじろと、何かを確かめるように、舐めつくすように視線を動かしていた。そうしてその品定めが終わると、ゆっくりと口を開いた。
「エスィさん、あなた、女性ですか?」
「え?」
想定外の質問にエスィは眉をひそめて聞き返した。オザは答えを待つように、ただ背をぴんと伸ばして黙ったままエスィから目を逸らさなかった。決してその表情は硬くはなかったが、微笑する瞳には尋問官のそれと似た冷やかな光が宿っていた。
「……違いますが」
「そうですか。商品は芸術品ですね?」
「はい。後でお見せします」
「人は売っていますか?」
奇妙な質問に、エスィは言葉を一瞬詰まらせた。一方オザは表情を微塵も変えない。質の悪い冗談というわけではなさそうだった。エスィはダヴィの翻訳ミスも疑ったが、右腕の相棒からは特に何の訂正もない。
「人身売買の類はしていませんが──」
「お知り合いにそういう職業の方は?」
「いません。あの──」
矢次早に行われる質問は拷問か何かの類に感じられた。エスィは自身の精神が縮こまってしまうのを防ごうと、一度息を大きく吸った。
「質問の意図がわからないのですが……」
「──決まりきった確認事項のようなものです。私たちは同じ姿です。外の方は我々を珍しいと思うでしょう」
「だから人攫いを村に入れるわけにはいかないと、そういうことですか?」
「はい。しかしあなたはそういう仕事をしていない」
「そうです」
「大丈夫です。私は信じます」
目の前の男の言うことは確かに筋が通っていた。全く顔の同じ人々。確かに見世物を集めて村を回る集団は存在して、そういったところには高く売れるだろう。だから、オザが人攫いを警戒するのは当然だ。しかしその論理では納得しきれない、どこかもやがかった不信感をエスィは抱えていた。それは男の態度によるものなのか、ただ問い詰められるのが不快なだけだったのかはエスィ自身にもよくわかっていなかった。
「芸術品を見せてください。村の話もしましょう」
エスィはオザの態度を注意深く観察しながら、商品を並べた。それぞれを説明しながら、感想を聞き、そのついでを装って村にまつわる話を聞きだす。それ自体はよくある流れだった。異類の話も、次の作品のためのインスピレーション収集という体で自然に尋ねることができる。
「私たちは同じなんです」と、オザは言った。エスィがオザに名前の由来について尋ねたときだった。
「かつてこの村は、外敵によって窮地に立たされていました」
外敵というのはおそらく道中に会った村々のことだろうとエスィは考えた。オザは語り慣れているのか、淡々と話を続ける。
──あるとき、私たちの神がこの村を訪れ、我々にその姿を分け与えた。我々はそれによって姿も思考も一つとなり、そして最も良い結束を得て、外敵を打ち破った。
──それ以来我々は全く同じ存在で、個人の名前というものはない。
──神は我々にいくつか仕事を与えた。そして土地に名を与え、仕事のために仕方のないとき、その土地の名と首飾りで我々を分けることに決めた。
──だから、オザというのはこの土地の名であって、私の名ではない。
おおよそこのようなことを、オザは語った。エスィはそれをメモに書き留めた。そして、おそらくはこの物語が情報提供者の語った「他の村々が滅ぼされた事件」のことを指しているのだろうと考えた。あたかも被害者のような語り口だが、この村か、他の村か、どちらが先にしかけたのかは判然としない。しかし、それに意味はあまりないだろうとエスィは思った。
「自分の名を持たないという、そういうしきたりなんですね」
そうエスィがいうと、オザは手をたてて、顔の前で左右に揺すった。
「規則ではありません。我々は喜んで同じであり続けています。そのおかげで、この村は平和です。皆が手を取り合って生きるのです」
オザはそういって、にっこりと笑顔を──貼り付けた。エスィの目には男の微笑みが、そう空恐ろしく映っていた。
◇◇◇
「だあああ、気持ちわるっ! キモすぎる! なんなんだあれ──」
オザの家をでてすぐ、ずっと溜めていた水を一気に流し出すように、ダヴィはある限りの暴言を──もちろん村民にはわからない言語でだが──まき散らした。
「こらダヴィ、失礼じゃないか。そっくりな双子くらいに考えれば──」
「バカ、別に俺は顔の話してるわけじゃないんだよ」
「バ、バカって──」
エスィがなだめようとするが、ダヴィの鬱憤はそう容易には収まらないようで、液晶をなにやらぴかぴか光らせている。どうやら人で言う貧乏ゆすりの類らしかった。
「あいつらの言葉、定型文と単純な文ばっかりだ! 親がガキに話すみてえな…… 違和感しかねえよ」
「訳しやすくていいじゃないか。言葉が分からないと思って気を使ってくれたんじゃないかな」
「いいや違うね、案内の野郎とオザが話してるときもあんな感じなんだよ。お前だって違和感くらい感じてんじゃないのか?」
エスィはオザに芸術品を見せたときのことを思い出していた。彼はその中から周囲を映すほど磨かれた黒曜石の平たい石板(それはエスィの作品ではなく、以前の村で得たものだった)を手に取って、「これはいいですね」といった。それに付け加えて「これを頂きましょう」とも。それ以外の感想はなかった。あまりの簡素な反応に、男が本当にそれを欲しているのかどうかを疑ってしまうほどだった。よく思い出してみれば、それ以外の作品に対する感想も、良い、良くない、悪い──すべてそういった言葉で表現されていた。
「確かに、ちょっと語彙が少ない──いや、そういうわけじゃないか」
「ああ、俺らが使った、例えば"美しい"とかって単語は通じてる風だったしな。語彙そのものがない訳じゃない。むしろ元の言語の語彙をかなりそのまま残してる感じなんだよな」
「じゃあ、わざわざ使うことを避けてるってことだね」
「そういうこったな。気味悪いったらありゃしねえ」
「今までも言葉には色々苦戦させられたけど、今回はちょっと毛色が違うみたいだ──っと、ここを左だね」
エスィは手持ちの地図を見ながら角を曲がる。オザによると、この村に泊まるうえでの宿泊所の案内などをする人物がいるらしい。オザはその人物のことを「カンザの者」と呼んだ。やはりカンザは居住地の名前で、個人の名前ではないとのことだった。エスィは正直、この制度をあまりよく理解していなかった。結局のところ、土地の名で個人を識別するならば、土地の名を個人の名として扱っても同じなんじゃないか──と。
「おい、あの家じゃねえか?」
ダヴィが液晶で矢印を向けるほうに二軒の家が見えた。村の中心からやや離れたこともあって家もまばらになってきていたが、それらは木の柵で作られた塀に隔てられてはいるものの、隣り合って建てられていた。この二軒の家の先には曲がりくねった道があり、それは山の麓にある小高い丘に続いているようだった。歩けば20分足らずで到着できそうだ。そして、これ以上先にはもう民家はないようだった。地図によると、手前の方が目的の家らしい。
エスィは扉の前に立って、オザの家で見たのと同じように石で扉を四度叩いた。扉の構造や作りは、やはりオザの家と全く同じようだった。しばらく待つと、薄く扉が開き、そこからゆっくりと男が顔を覗かせた。やはりオザや案内の男と全く同じ顔をしていた。
「……なるほど、旅の方ですね」
「はい。エスィと申します。オザから村に泊まるならあなたのことを訪れるようにと」
「わかりました。入ってください」
男は扉を開ききって、エスィを中に招き入れた。家の中の家具はほとんどオザの家のものと変わらない。彼は机をはさむように置かれている長椅子の一つを引きずって動かした。
「エスィさん、でしたね。オザの地の者とはすでに会いましたか?」
「ええ、はい」
「一つ、初めにお伝えします。オザという呼び方は良くありません」
男はオザがそうしたのと同じように、クッションのついた小さな椅子を一つもってきて、長椅子があったところへ置いた。エスィは促されるままにそこに座って、正面に男──カンザが座った。
「我々はその呼び方を好みません」
「それは、ご忠告をありがとうございます。理由をお伺いしても?」
「我々は我々です。各々は存在しません。したがって、名は持ちません」
回りくどい表現であったが、エスィはなんとなく彼の言いたいことを理解した。全ての住人が同質であり、一人一人を異なった何者かとして特定すべきではないということらしい。とはいえ、口振りからして記憶が共有されているわけでもなく、あくまで物理的には独立した存在であるようだ。つまり、同じ製法で作られた同じ製品──それに製品名はあっても、個体名や個性はない──自分たちはそんな存在であるといいたいようだった。
「どうしても区別をしたいときは、カンザの者、カンザの地の者のように呼びます。相手を直接、地の名前で呼ぶことはありません」
彼は胸の前で手を動かして目を瞑った。エスィももう三度見たそれをぎこちなく真似た。
「挨拶をしていませんでした。この地はカンザです。私はこの地に住んでいます」
彼はそう言って自分の首飾りを外して私の前に掲げた。案内の男がつけていたものとは違って、朱色の紐に一つだけ、眼をモチーフにしたような小さな石の彫刻がついていた。エスィはそれをまじまじと見つめた。オザのものにも案内の男のものにも、石は確かについていたが、それは配置や形から個人──彼らからすると居住地を区別するための役割しか持っていないようで、エスィはそれに美的なものを感じてはいなかった。しかしこれには明らかに意味が込められていた。ただ眼を表していたとしても、なぜそれがカンザという土地を表すのか、そこに意図が介在する。ここには美の余地があり、それがエスィの興味を惹いたようだった。
「あなたが泊まる地は、ニアの地です」
「ニアの地、ですか」
男の言葉で、一気にエスィは現実に引き戻される。男は首飾りを首に戻して、左手の壁を指さした。
「この家の隣に、もう一つ家があります。それがニアの地です」
「では、僕は今からそこに向かえばいいんですね」
「いいえ」
彼は手を立てて、顔の前で左右させた。これもオザがしていたジェスチャーで、どうやら否定の意味を表しているらしかった。
「かの地の者はまだ帰っていません。職務をこなしています。日が沈むまで待つ必要があります」
ちょうど夕日が沈み始めたころだった。高い窓から、橙の光が差し込んでいる。
「では、それまでお話を聞いても?」
「はい。しかし、日が沈むと礼拝の時間です。私は並ぶ必要があります。共に並びながらでもよいでしょうか?」
「礼拝、ですか。私も礼拝に参加してもいいのでしょうか」
「礼拝は村人にだけ許されています。神の姿を借りる儀式であるからです。しかし、並ぶだけならば問題ありません」
「なるほど、つまり日が沈むまで並んで待って、そのニアの地の者が帰ってきたら、私だけでその家に向かうということですね」
男は顔の前で人差し指を三度、位置をわずかに変えながらクロスさせて、「はい」といった。エスィの初めて見るジェスチャーだったが、肯定を表しているようだった。
家を出る前にカンザが少し用意をするというので、エスィはその間、家の中を見て回っていた。まず彼の目を引いたのは暖炉の上に置かれた置き鏡だった。オザの家にも鏡があったが、それとはやや形が違っていた。カンザは形に意味はないという。ただ村には鏡を作る技術がなく、それぞれの鏡はたまに訪れる商人から買ったものだから、形が違ってしまうとのことだった。それぞれの家に鏡があるのは、それが清浄──おそらく宗教的な清らかさ──を守る象徴であるためらしい。その重要性を示すように、オザの家にあったものもこの家にあるものも、一点の曇りさえないように鏡面が磨き上げられていた。おそらく、毎日丁寧に手入れをしているのだろう。
もう一つエスィの目を引いたのは、扉につけられた錠だった。畑が広がる農村の中にあって、その黒ずんだ金属製の錠は、宝箱を守る錠のように他者を拒絶するような重々しさを放っていた。エスィはカンザにこの錠についても尋ねたが、その由来についてはっきりとした答えは得られなかった。ただ、この錠の鍵は二本あって、一本はその家の住人が、もう一本は緊急時に備えてオザが管理しているとのことだった。
カンザの準備が終わって家を出ると、小高い丘へと続く、30人ほどの列が見えた。
「あの丘の上に礼拝所があるんですか。かなり並んでいますね」
「はい。住人のほとんどが毎日礼拝をします」
「しかしこんなに並ばなくても、礼拝は夜からですよね?」
「それはいけません。礼拝の時間は決まっています。並ばなければ、自分の順番の前に礼拝の時間が終わってしまいます」
「時間が決まっている、ということですか」
「はい。我々は一人一人、神が宿る形代に祈ります。日の光は形代を焼き、深い闇は穢れが這い寄るのを助けます。形代を守るために、礼拝の時間が決められています」
やがてエスィの後ろにも住人が並び始めた。カンザは彼らと見慣れた挨拶を交わして、エスィについて説明を加えた。沈むゆく日の中で同じ顔、同じシルエットが一列に並んでいる。エスィはダヴィが見せてくれたことのあった絵の中に、こんな光景を描いていたものがあったことを思い出していた。同じ顔が並ぶその絵は当然不気味ではあったものの、エスィはその絵にどこか安心感のようなものも感じていた。しかし今は、自分が調和の中に紛れ込んだ異物のように思えて、解決しようのない疎外感に襲われていた。もともと自分がこのコミュニティにいたわけでもないのに、あらためて自分が彼らにとって部外者であることを強調されているような気持ちだった。薄暗くなってそれぞれの顔が見えないばかりに、彼らの視線が自分に一点に注がれているような恐怖があった。
並び始めてからしばらくして日が落ちると、エスィはカンザに礼をいってから、そそくさとその場を逃げ出した。昇った月が明るく自分を照らすのを、彼は外套で遮るかのように月へ背を向けた。
◇◇◇
列から少し離れると、夜の暗さが自分を隠してくれているような気がした。エスィは外套に包まるように小さくなって、道の脇の岩に腰かけた。その灰色の虹彩は、静かに月光を反射させながら動き出した列をじっと捉えていた。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫だよ。ここから見る分には。ダヴィはどう思う?」
「列のことか? あー、どうだろうな」
夜風が畑を揺らす音が聞こえる。エスィは目を瞑って、情報収集で散らかってしまった頭の中を、穏やかな自然のノイズで満たした。少し間があって、ダヴィは独り言のようにつぶやいた。
「……やっぱキモチワリイわ」
考え抜かれた末に吐き出された暴言。大体の予想はついていたが、それでもエスィは小さく噴き出した。
「はは、そういうと思ったよ。そうだね、でも──」
「……ああいうのもいい気がするか?」
エスィはダヴィにそっと頷いた。
「まあ、喧嘩もないだろうしな。全員同じ姿、同じ喋り方、同じ考え方。なによりみんな同じなんだから、信頼できる」
「教えてもらった言い伝えでもそう言ってたね。団結できたから勝てたんだって」
信頼。平穏のためにもっとも大切なもの。それを守るために、彼らは自ら進んでこの夜にあの列を作っているのだろう。エスィはそう考えながら、少しずつ短くなっている列を眺めた。それならば、きっと見かけの上では異様でも、あの列は美しいものなのだろう、と。
もう少し座って休みたかったが、ニアに会う必要がある以上あまり長くは休んでいられない。エスィは列から目的地の方角へ視線を移動させた。
「それいえばさ、ダヴィのデータベースでここにある異類が何かとか、わからないのかい?」
「ああ、それか。ここの住人の顔、なーんかみたことあるんだよな。で、ずっと探してんだけど、いかんせん翻訳もあるからもう少し時間かかりそうだ」
「ありがとう。多分あの礼拝されているのが異類だと思うんだけど、事前情報がないと怖いからさ」
カンザは礼拝は特に難しいものではないといった。いくつか細かく、時間のかかる作法はあるが、それは神に敬意を払うためのものであって、それがなくとも恩恵は受けられると。この説明から、エスィは異類が見るだけ、もしくは近くに寄るだけで影響を受けるものであると考えていた。
「あ~、お前があの顔になったら、そんときは俺を川に流してくれ。オッサンの腕に巻かれるのは御免だ」
「ははは、そのときは抱きしめてあげるさ」
「げえ、せっかくマックスのところの筋肉ゴリラから逃げられたと思ったのによ……」
「ああミルさんね。あの人熱いから……」
「あれとバディになるのだけは勘弁だ。おっさんだし、無駄に熱血だし、あれの発言を翻訳したくねえ」
静かな夜に、二人分の小さな笑い声が吸い込まれていった。エスィの気持ちはすっかり軽くなっていた。彼は身を包んでいた外套から抜け出すように立ち上がって、月明りを頼りに、ニアの家へと歩き出した。
◇◇◇
エスィは扉の前で深呼吸をして背筋をピンと伸ばした。宿泊先の住人に悪い印象を持たれるのだけは避けなければいけない。トントントントン。石を握って扉を4度叩く。するとすぐに扉が開いて、一人の男性が中から現れた。顔はやはり他の人々と同じようだったが、頬に手のひら大の布があてがわれていた。その布には血が滲んでいて、ケガをしているのだろうかとエスィは思った。
「ああ、旅人の方ですね!」
彼はエスィを見ると、すぐに中に招き入れて、エスィの前に椅子を用意した。家の中の構造はやはり今まで見てきたものとあまり変わらなかったが、テーブルの上にある藁で編まれたつば広の帽子にエスィは見覚えがあった。
「あ、もしかして入り口を教えてくれた──」
「はい! 無事村に入れたようでよかったです!」
ニアは嬉しそうに笑った。それがこの村に来てから初めて向けられた素直な笑顔のように見えて、エスィの気持ちは少し和らいだ。
エスィが自身が芸術家兼行商人であることを語ると、ニアは驚いたように目を丸くして、旅の話を聞きたがった。中年男性の見た目とはギャップのある素直な食いつき。エスィはやや気圧されたが、しばらく話すうちにそれにも慣れて、今までの旅で出会った人々の話を──異類にはなるべく触れないように──語った。ニアはそれを面白そうに聞いていた。
「へえ、すごいですね…… 色々なところを旅するなんて。」
「あなただって、こんな夜遅くまで働くなんて、立派ですよ」
いえいえ、と彼はそう否定して、目を瞑って小さく笑う。
「私は仕事ができないだけです。育てるのが下手で、その分広く耕さないと、必要な分食べ物が取れないんですよ」
「それで、ずっと畑仕事を?」
「はい。それでも足りなくて、他の方に分けてもらったりもしていますが」
「なるほど……」
確かに、その服はずっと畑仕事をしているせいか、他の村人のものよりくたびれているように見えた。それに、よく見ると脚にも大きな傷があるようだった。ニアはその視線に気付いたのか、「鎌持ったまま転んじゃいまして」と照れ臭そうに笑った。確かに、その傷は刃で切られたもののようだった。
情報提供者の話が正しければ、きっと礼拝されている異類の力で、こんな傷くらい癒せてしまうのだろう── そこで、エスィは彼が礼拝の列に並んでいないことを思い出した。
「毎日こんな遅くまで働いていたら、礼拝に参加できないのでは?」
「……ええ、本当は。でも、オザの地の者が、数日に一度、特別に夜礼拝をさせてくれるんです」
「それは──許されるものなんですね」
「あまり良くないと思います。だから、数日に一度ですし。他の方には秘密にしてくださいね」
エスィは秘密にすると約束した後、「オザの地の者はとても優しい方なのですね」と付け加えた。話を聞く限り、彼は自身が抱いていた印象より、ずっと暖かい人間のようだった。それは自分が部外者で、ニアは彼の仲間だからだろう──と考えると、態度の違いも不思議なものではなかった。
「ええ、オザの地の者には感謝してもしきれません。私をこの村においてくれたのも、あの方ですから」
「というと、あなたはもともとこの村の住人ではなかったということですか?」
彼は目を伏せて少し黙ったあと、つらつらと自身の過去を語りだした。
曰く、彼はもともと奴隷として売られていたらしい。この村を訪れたのも、奴隷商に連れられてとのことだった。しかし、オザの地の者を中心とした村人は、訪れた奴隷商たちを追い出した。
──彼らが逃げるときに置いて行かれた"商品未満"の自分を、オザの地の者が引き取り、言葉を教え、この村の一員としてくれた。
そう話したニアは微笑んでいたが、その口は堅く結ばれていて緊張感があり、その過去が決して軽々しいものではないこと、そして彼の感謝がいまだに絶えていないことを示していた。
「まあ、かなり昔のことで、売られていたときのことや当時の様子はあまり思い出せないんですが」
彼はそう付け加えた。彼はそれから村の話を始めたが、エスィの目に彼は非常に生き生きと映っていた。ずっと働いて疲労困憊しているはずなのに、村のことを語る彼は無尽蔵の活力を持っているようだった。
「この村が好きなんですね」、そう思ったままを口にしたエスィに、彼は力強く「もちろんです」と答える。
「最高の村です。みなが同じで、みなを信じています。誰も仲間外れにされて奴隷商に売られたりはしません。はやく私も、ちゃんとこの村の一員になりたいものです」
「えっと…… それは、どういうことですか? あなたはまだ村民ではないということですか?」
「まだ穢れが残っていますから、正式な一員になりきれたわけではないんです。穢れがあると、どうしても他の村人と考えを同じにできませんから。ただ、やはりオザの地の者は優しくも、神に最も近いこの地を、私にあてがってくれました。ここにしばらく暮らせば穢れは消えるだろうと」
「なるほど、その──穢れというものを消しきらないと、完全には村民になれないわけですか」
「完璧に、というわけではありません。まだ少し穢れの残っているものもいるそうです」
それは誰ですか、という問いに、ニアは声を小さくして答える。
「隣の、カンザの地の者です」
エスィは壁の向こうにあるカンザの家を見遣った。彼の朱に目のオブジェがついたネックレスが思い出された。カンザも村の外から来たのかとエスィは尋ねたが、ニアは彼と話したことがあまりなく、その経歴についてはよく知らないようだった。
「私は彼に嫌われているようで──まあ、仕方ありませんが」
聞くと、ニアがこの村に来る前にこの地に住んでいた(つまり、以前"ニアの地の者"だった)のは、カンザだったらしい。ニアは、自分が来たせいでカンザがこの神に近い神聖な土地を追い出されたために、彼がニアを恨んでいると考えているようだった。
「私自身もあまり信じたくありません。ただやはり、穢れが残っているうちは、そういう愚かな思考も残ってしまうんだと思います」
ニアの語るところによると、実際に、カンザからニアに嫌がらせが行われたこともあったそうだ。ニアの畑に、カンザが勝手に雑草を植え付けたらしい。それを知ったオザはカンザを強く叱り、ニアにはカンザの穢れのことも含めて事情を説明したとのことだった。
エスィは顔には出さなかったが、内心酷く驚いていた。彼の目に映ったカンザは、どちらかというと──これはオザにも共通することだが──冷静で、そういった感情の類には流されない人物だった。もちろんニアの話を完全に信じたわけでもなかったが、目の前の男が嘘をつく理由もないように思えた。なにより、カンザについて話すニアの声色は少し沈んでいて、到底騙りのそれではないように感じられた。
「そろそろ夜も遅いですね。筵を敷きますよ」
「ああ……ありがとうございます。少し外の空気を吸ってきても?」
「ええ、もちろんです」
山に囲まれた平原だけあって、外の空気は気持ちがよかった。礼拝の丘の方をみたが、もう列はないようだった。
「ダヴィ、翻訳ありがとう」
「ああ、あいつ──ニアだっけか。まだマシな話し方で助かるよ」
「やっぱりダヴィもそう思うかい。オザやカンザとはちょっと違って、なんていうか──人間味があるよね」
「そうだな、やっとヒトと喋ってるって感じがしてきたぜ」
ダヴィは先ほどよりは幾分機嫌がよさそうで、饒舌にこの村のことや翻訳の苦労について話しだした。ニアというのは、きっと古いイングリッシュという言葉の"近い"を意味する語が転じたものだろうとか、閉鎖環境だから語彙の変化が少ないとか──かなり話したいのを我慢していたんだなと、エスィは黙って頷きながらそれを聞いていた。
「そういや、喋り方以外にもう一個違うところがあるぞ」
「顔と脚の傷のこと?」
「違う、部屋だよ、部屋」
来客用の椅子、暖炉、テーブルと長椅子──エスィは先ほどまでいた部屋の中を思い浮かべる。確かに、麦わら帽子とニアの話に気を取られて、あまり注意深く部屋を見ていなかった。オザやカンザの家と比べながら、一つ一つ項目をつぶすように確認していくと、確かに一つ、欠けているものがあった。
「あっ、鏡か」
「そう。なんでだろうな。穢れがあるからか?」
「確かに──関係ありそうだね。ちょっと後で聞いてみようか」
それからまたしばらく話を聞いていると、扉が開いてニアが顔を出した。部屋の中にはすでに筵が二つ、一つは部屋の真ん中あたりに、一つは壁沿いに、敷かれていた。
「旅の方は基本的にここに泊まるので、常に二つ筵があるんです。それに、これも」
ニアは二つの小さなコルクのようなものを手渡した。人差し指の第一関節ほどもない円柱形のもので、エスィが受け取ったものとは別に、ニア自身も二つ持っているようだった。
「耳栓です。ここは山に近いですから。夜は獣が鳴いてうるさいことがあって」
エスィは、山峡で一晩を過ごしたときも、狼や鹿かなにかの鳴き声が響いていて、すぐに寝付けなかったのを思い出していた。さすがに獣がここまで来ることはなさそうだったが、その鳴き声はよく響く。むしろ山の中で寝ているという意識がない分、寝ている途中にその声を聞けば危機を感じて飛び起きてしまいそうな気がした。
エスィがそれを試しにつけてみると、さきほどまで聞こえていた風が草木を揺らす音が全く聞こえなくなった。目の前のニアの声もよく聞こえない。
ニアはエスィを壁際の筵に案内すると、家の鍵を閉めて、暖炉の日を消そうとした。エスィは慌てて、鏡のことを尋ねた。
「深い意味はなくて、単純に足りないんですよ。行商の方が最近来ないので」
購入さえできれば、私ももっと村の皆と同じになれるのにと、ニアは嘆いた。エスィはここで1つ合点がいった。オザがエスィから買い取った芸術品についてだ。
「それならきっと、もうすぐ手に入りますよ。オザの地の者が、鏡ほどではないですが、周りを映すものを買ってくれましたから」
オザの買った黒曜石の石板は、黒い分、鏡のように見やすくはないけども、十分鏡の代用になるものだった。ニアから聞く人となりと総合すると、オザはニアに渡すために鏡を買ったのだろうと、エスィは想像した。
これを聞いたニアは小さく飛び跳ねて嬉しがった。そうして、ひとしきり喜んで落ち着いたあと、また明日一緒に村を見て回ろうといって、耳栓をつけてから暖炉の火を消した。
エスィも筵に横になった。暗闇があたりを覆って、窓から入る月光だけが光源だった。耳栓のおかげでノイズもなく、彼は快適な眠りに身を任せた。
◇◇◇
目の前には上半身の焼け焦げた人の死体。床に転がった頭部。右手にべっとりとついた血。不快な臭い。人が焦げる臭い。
──どうして、どうして……
話は少し前にさかのぼる。エスィは窓から差し込む日の光と異様な臭いで目を覚ました。
「──ん?」
彼が目をこすりながら起き上がると、筵にニアの姿がなかった。
その代わり、異様なものが目に飛び込んできた。それは、血で染まった筵と、そこから暖炉へ向かってつながる血痕、そして、暖炉に上半身を突っ込んだ人間の体だった。
瞬間、エスィは動けなくなった。何もわからなかった。数秒、時が止まったようでさえあった。ダヴィが起動して何か呑気なことを言った気がするが、エスィの耳には届かなかった。
暖炉から飛び出した脚の傷が見えて、思考が急に回り始めた。彼は飛び起きて、脚を掴んでそれを引っ張り出した。コロコロと音がして、頭部が転がった。それは焼け爛れているものの、この村に来てから見慣れた顔であった。そして、頬には大きな切り傷があった。
エスィは自分の息が荒くなっていくのを感じた。ニアが殺された。その情報だけで頭が埋め尽くされていくようだった──
「お、おいエスィ! しっかりしろ!」
ダヴィの声で一気に現実に引き戻される。彼もすでに状況を把握しているようだった。
「う、うん。ああ、大丈夫。大丈夫ではないけど」
「落ち着け。どうする? 逃げるか?」
「え、逃げる?」
「そりゃそうだろ! こんな状況!」
確かに、ダヴィの言うとおりだった。この状況、真っ先に疑われるのは自分であろうことは、エスィにもすぐわかった。しかも部外者だ。オザやカンザの態度を思い出すと、何を言っても聞いてもらえそうな気はしなかった。またこの村に来るわけでもない。村の情報もそれなりに集められている。例え自分が殺していないとしても、ここで無罪を主張するメリットはほぼなかった。
ダヴィの提案は合理的だった。エスィはそれを理解していた。だからこそ、彼は合理的でないところで答えを探した。思考がどんどんクリアになっていく。
畑で飛び跳ねながら手を振る姿。外の世界について目を輝かせる純朴さ。村を愛してやまない笑顔。正式に村の一員になる日への希望。それらすべてが、目の前で無惨に焼き焦がされていた。
「でもそれは──美しくないよ」
エスィは扉の錠をあけて外へ走り出した。目指すところは馬小屋ではない。カンザの家だった。とりあえず、誰かにこの惨状を知らさねばならなかった。
すぐにカンザの家に辿り着いたエスィは、石でなんども扉をノックした。しかし、反応はなかった。
「ほら、やめとこうぜ。今ならまだ安全に村を離れられるんだぞ」
──まだ朝も早い。きっとカンザは寝ているのだろう。彼が起きるのを待ってはいられない。他の当ては……
エスィはまた駆け出した。その目はオザの家の方に向けられていた。
「おいおいマジかよ…… ああ、くそ。もうどうなっても知らねえぞ」
ダヴィが舌打ちの音声を再生したが、エスィはそれが協力の拒否を意味するものではないことを知っていた。
今自分は孤独じゃない。きっと、やれる。そう繰り返しながら、エスィは道を駆け抜ける。誰がニアを殺したのか、それを突き止めなければいけなかった。それは自分の身の潔白を守るためというよりも、美しいものを壊したものを明らかにして、そして同時に自分の中の美しいものを守るためでもあった。怒りもあったが、冷静さを欠いてはいなかった。したいからするのではなく、するべきだからするのであった。そうしないと、美しさが失われてしまうように思われた。
エスィはオザの家の扉を何度も叩いた。オザは扉を薄く開けてエスィの表情を確認し、その尋常ではない様子を察したのか、すぐにエスィを家に招き入れようとした。しかし、エスィはその場に立ったまま答えた。
「ニアが──ニアの地の者が、殺されました」
◇◇◇
エスィは無人の家の一つに閉じ込められていた。棚に置かれた鏡が、縄で縛られた青年の哀れな姿を、嘲るように映し出している。
ニアの死を伝えたあと、オザや数人の村人に状況を説明しながら、エスィは現場に向かった。エスィが家に入ると、何かが足にぶつかって、カラカラと転がっていった。オザはそれを取り上げた。それは紛れもなく、ニアの家の鍵だった。
オザは、すぐに他の村人とともにエスィを捕まえて、そしてこの家に閉じ込めてしまった。
「まあ、当然こうなるわな」
と呆れた調子でダヴィは言った。「だって密室なんだからよ」
エスィが家を出たときは、鍵は閉められていた。それはオザにも報告したことだった。そして、その鍵が室内で発見された。となると、外から鍵を閉めることができない以上、犯人は内側から鍵を閉めた──すなわち犯行後ずっと家にずっといた──ということになり、自動的にニアを手にかけることができたのはエスィだけ、となる。
「いや、違うよ。もう1人いる」
エスィは扉をじっと見つめている。その瞳は力強く、まだ諦めてはいないようだった。むしろ、ここまでは当然予測していたと言わんばかりだった。
彼が言う「もう1人」、それは全ての家の合鍵を持っていて、ニアに関係の深い人物だった。
「私のことを疑っているのですか?」
扉が急に開いて、1人の男が入ってきた。オザだ。家の外には数人の男が控えているのがわかる。
「あの死体はニアの地の者で、間違い無いのですね」
村人たちの顔貌は同じだが、足や顔の傷がそれが誰であったかを物語っていた。エスィは黙って頷いた。それが肯定の意味であることはオザに伝わったようだった。
「カンザの地の者が、昨晩ニアの地を訪ねた者はあなた以外にいないと言っています」
カンザ? どうしてここでカンザの名が出るのだろうか。そもそもカンザがなぜ、そんなことを言い切れるのか。いくらとなりとはいえ夜は眠っていただろう。エスィはオザに疑いの視線を向ける。
「待ってください。どうして見てもいないのに──」
「彼は見ていました。彼は夜、礼拝所を守っていましたから。そして、礼拝所からニアの地はよく見えます。礼拝所は重要な場所です。したがって、外の者のいるときは、必ず彼の地の者が礼拝所を守ります」
信頼のおけない部外者がいるから見張りをたてる。納得できる話だった。ただ、真っ向から信頼がおけないといわれると、このような状況でもやや胸に詰まるものがあった。それこそ、ニアの顔が思い出された。あの素直な笑顔が。彼はエスィに不信の目を向けなかった。
「それは夜通しみていたということですか?」
「はい。そして彼の地の者は日が昇ってから帰りました。眠っていたのはそのためです」
それからオザは付け加えた。一応、あなたの話も聞きます。自分ではないというのなら、あなたは他に誰かを疑っているのですか? と。
「私は正直、あなたが疑わしいと思っています。しかし──」
朱色の紐の首飾りが目に浮かんだ。「ニアの地を訪れた者はいない」。それはエスィにとっては重大な矛盾だった。自分が殺していない以上、誰かが──方法は分からないが──やってきて、ニアを手にかけたとしか考えられなかった。
「カンザの地の者も、怪しいと」
「なるほど」
オザの目の奥がギラリと光ったような気がした。やはりこの人は得体が知れないと、エスィは小さく身震いした。単調な言葉とは裏腹に、決して見せない強かさが軽々しい態度を許さなかった。
「私は犯人ではありません。私がきっと、犯人を見つけます。ニアの地の者のために」
エスィは大きく息を吸い込んで、オザをじっと見つめた。オザは少し考えこむように俯いた後、もう一度エスィと視線を交差させる。
「ニアの地の者の無念は、私たちの無念です。我々は一つですから。そして、あなたは殺人を犯していない。そういうのですね」
エスィは静かに頷いた。オザは小さく息をついた。
「わかりました。あなたを少し信じます。ただし、あなたが犯人でないなら、別の犯人がいます。その犯人を見つけてください。今日の日没までです。それまで馬は預かります。逃げようとしても無駄です」
オザは外にいる男たちに何かを伝えた後、エスィを手招きした。
「私の潔白を証明しましょう」
オザに連れられるまま彼の家までやってくると、彼は家の隅を指さした。
「そこに小さな箱があります。あなたが開けてください」
物が積み上げられている中をよく見ると、オザの言う通り小さな木箱があった。エスィはそれを他の物を崩さないようにゆっくりと取り出す。埃をかぶっていて、永らく開かれていないことが分かった。そのままその箱を開くと、中には鍵束が入っていた。ややさびていて、手入れもあまりされていないようだった。
「予備の鍵は、もう長く使っていません」
確かに箱が埃を被っていた以上、これを持ち出すのは不可能だろうと思われた。なにより、錆のせいで実際に使えるかどうかも怪しかった。
「本物かどうか確かめたいでしょう。ニアの地の鍵はあなたに貸します。正真正銘、村にはその一組しか予備がありません」
オザはエスィを連れて外に出た。そして、家自体は他の建物に遮られて見えないものの、ニアの地の方を指さした。
「ニアの地からここまで、かなりの距離があります。あなたはそれを止まらずに走ったのでしょう。それなりの時間がかかるのに、止まらずに。だから、私はあなたを信用する気になりました」
彼は微笑んで、エスィの手にしっかりと鍵を握らせた。彼の目は柔和ではあったが、しかしそれが微笑みで細くなっている間、エスィを捉えて決して離すことはなかった。
◇◇◇
エスィはニアの家の扉の前に立っていた。鍵は開いたままだった。慎重に、オザから借りた鍵を鍵穴に差し込む。鍵をくるりと回すと、ガチャリと静かな音がして、鍵が閉まったのがわかった。これで、オザの潔白はほぼ証明された。
もう一度鍵を開けて部屋に入る。部屋の状況はほぼ変わっていなかった。──そこにある遺体を含めて。
エスィは黙祷を捧げてから、遺体の様子を見る。刃物か何かで刈り取られた首から上。目立った傷は頬と脚の切り傷のみ。上半身は黒く焦げてしまっていて、切り傷のような大きな傷がないという以上、あまり情報は得られなかった。服は暖炉で燃え尽きてしまったようだった。
血で染まった筵から暖炉まで続く、ブラシで擦ったような乾いた血が、遺体が暖炉まで引きずられたことを示していた。遺体にも、このときに着いたと思われる血痕が薄く引き延ばされて全身に付着していた。
部屋の他の部分には血痕もほとんどなく、筵とその周辺の狭い範囲にだけ血がベットリと付着していた。
──犯人は部屋に侵入して、寝ているニアの首をかき切って殺害した。わざわざ完全に切断したのは、間違っても声を立てられないため? 近くには僕が寝ていたから…… それから暖炉に遺体を。この理由もよくわからないけど……
「日没まで、ねえ」
呆れたようにダヴィがつぶやいた。
「信じてるとはいう割に、結構厳しい条件じゃあないか」
「仕方ないよ。もともと信頼があったわけでもないんだから」
「まあ、そうか。そもそも身なりも若干怪しいしな。その外套の下に何隠してるかわかったもんじゃあないし」
「軽口はありがたいけど、その前にちょっと手伝ってほしいことがあるんだ」
エスィはもう一度外に出て扉についている石を掴む。
「これの音の大きさ、覚えてくれないかな」
エスィは石で扉を四度叩く。木と石が打ち鳴らされる軽やかな音が響いた。そして、ダヴィを腕から外してその場に置いて、エスィは部屋の中心に立った。そして、耳栓を着けて言う。
「ちょっとさっきの音、もう一回お願い」
なるほどな、といってダヴィは扉をたたく音を再現して流した。エスィは首をかしげている。聞こえないようだった。ダヴィは徐々に音量をあげていったが、それでもエスィの耳には届かない。
エスィは耳栓を取ってからダヴィを拾い上げて、全然聞こえないやと笑った。
「そうだな。これで、誰かが訪ねてきて、ニアが自分から扉を開けた──って線は無しか」
「うん。まあ、そもそも耳栓つけてても聞こえるような音が鳴ったら、僕も起きるとは思うんだけど」
「じゃあ、犯人は鍵を開けて入ってきたとして、やっぱりその方法はわからないままか」
「ああ、そうだね。どうしようか──」
エスィは小さくため息をついて額に手をやった。予備の鍵もない。ピッキングをして簡単に開けられるようなものでもなさそうだった。
「それならよ、開けるのは無理として、鍵を閉めたほうはどうなんだ? 閉めた後に鍵を投げ入れたとか……」
エスィはかぶりを振った。格子窓は位置が高すぎるし、そもそも目が細かく、鍵がきれいに通りそうもなかった。
ダヴィが小さく唸る。自分が犯人を見つけるといったものの、これといった証拠は全くなかった。ただ、自分以外に犯行が不可能ということだけが明らかになっていく。これではせっかく機会をくれたオザに申し訳が立たない。鍵を手渡したときのオザの顔が浮かぶ。本心かどうかはわからずとも、『私はあなたを信用する気になりました』と言った彼の表情が──
──あなたはそれを止まらずに走ったのでしょう。それなりの時間がかかるのに、止まらずに。
「そうか。 時間があったんだ──」
「お、何かわかったのか?」
「ああ、寝起きとはいえ、馬鹿だったよ」
遺体を見つけてからの自分の行動を振り返る。家の中で確認できたもの。最初に訪ねた家。オザとの会話。戻ってきて蹴飛ばしたもの。
「確かにオザと戻ってきたとき、鍵はこの家の中にあった。でも、それは僕たちが起きたときにこの家に鍵があったってわけじゃない。だって、確認してないんだから」
「……そうか、誰かがお前がオザのところに走ってった隙に、家の中に鍵を放り込んだかもしれないのか」
「そしてそれができるのは──」
エスィがニアの家から離れたことを知り、オザと戻ってくる間に鍵を家に戻すことができた人物。それは、一人しかいなかった。エスィが最初に訪れて、そして家が最も近い者──
「やっぱりカンザ、彼が関係しているんだ」
◇◇◇
エスィはオザから受け取った地図を見ながら、畑を歩いていた。オザが住民たちに家に留まるように言ったようで、畑には誰も人がいなかった。まだ日は高い。タイムリミットまではまだあった。
「うん。やっぱりニアの土地、ひどいよ、これ」
エスィは畑の土を手に取って手で揉んでいる。若干粘土質で水はけが悪く、そのうえ有機物が少ないのか畑全体の土は他の畑と比べてもかなり硬かった。
「ああ、こりゃ農業が下手とかそういう話じゃねえな。土地がワリイわ」
「陶芸ならまだしも、農業向きの土じゃないね」
他の畑はそういった土地を避けるように作られていたが、ニアの畑だけが農業には向かない痩せた土地だった。生えている作物も、周りの作物よりか細く、まともに育っていないものもある。
「だけどよ、これ事件に関係はないよな」
「ほら、ニアがカンザに嫌がらせを受けたっていってたでしょ。何か関係があるかと思って」
「あー、カンザに関わるものはとりあえず調べようってことか」
「でも、やっぱり嫌がらせとかそれらしいものは見つからないんだよね」
エスィはニアの畑を一通り見終えたが、特にこれ以上の収穫はなく、カンザの畑を見に向かった。日没が少しずつ迫ってくるのを感じていたが、手掛かりのない状況ではどんな情報でも欲しかった。カンザの畑はやはりニアの畑よりずっと土地の質が良く、作物も力強く育っていた。
ただ一見すると一面綺麗な麦畑のように思われたが、畑に入っていってよく目を凝らしてみると、一部やや色が違う区画があることに気がついた。彼は作物をかき分けてそこに向かう。すると、周りの小麦とは違う、丈の高めの植物がそこに植えられていた。
「あれ、なんだろうこれ、雑草?」
「雑草だあ? こんな畑の真ん中にか? ちょっと見せてみろ」
ダヴィをその植物に近づける。小さな粒粒としたつぼみが密集した細長い房が、いくつか茎の上部から何本も伸びていた。
「どう、わかりそう?」
「ああ、こりゃあれだ。ヒエだな。雑穀の一種だ」
「雑穀、雑穀か……」
「なんか関係あるのかね。別に食うために作ってただけじゃねえか?」
「そうかもしれないけど──」
「そんなことより、礼拝所行くんだったら早めの方がいいんじゃないか? 日が暮れだしたら、多分また列ができるだろ。オザも礼拝だけは止められないって言ってたしな」
「……そうだね。ちょっと急ごうか」
畑が広いせいで、少し時間を食ってしまっていた。日没まではあと4,5時間程度だろう。彼は早足で畑を離れ、小さな丘の上へと向かった。
◇◇◇
「そういえば、この村の異類のこと、分かったぞ」
礼拝所に向かう途中でダヴィがそういった。エスィは少し歩みを緩めて、その話を聞いた。
それはダヴィがかつて閉じ込められていた組織に保管されていたものらしい。1937-JPと呼ばれたそれは、"ヘイセイ"と書かれた紙だそうだ。それを見たものは、足元から一日かけて、"オブチケイゾー"という人物の姿かたちに変わってしまうが、しばらくすれば少しずつ元の姿に戻れるようだった。
「ジャパンって古い国があってな。"ヘイセイ"ってのはその国の言葉で、時代の名前みたいなもんだ。"オブチケイゾー"はかつてその国の為政者だったやつだな」
「なるほど、傷を癒す力についてはどう?」
「それは明言されてない。ただ、人の姿かたちを丸ごと作り変えるんだ。多少の傷は治せるんじゃないか?」
情報提供者の口ぶりだと、浅い傷なら治せるものの、四肢の欠損までは治せないとのことだったが、この微妙な制限は、どうやらその能力の進行の仕方にあるように思われた。足から順番に、ということは、一気に書き換えるというよりも、元あるものをもとに少しずつ付け足し、組み替えていくような印象だ。だからこそ、「元」が大きく欠けてしまっている場合、そこの再現はできないのではないのだろう。そうエスィは考えた。
これで、礼拝の意味もかなりはっきりしてきた。しばらくこの異類を見なければ姿がいずれ元に戻ってしまう。彼らは同じ姿を維持するために、列に並んでこの異類に祈りを捧げていたのだ。──果たしてそれを毎日するべきなのかは、疑問だったが。
「あとは、これを見続ければ、寿命で死なないらしいぞ」
「老化がないからってこと?」
「そういうことらしい。村のあいつら、何人かはめちゃくちゃ生きてんのかもしれねえな」
異類の細かい情報を聞きながらさらに歩を進めると、小さな窪地が目に入ってきた。どうやらそれは人工的につくられたもののようだった。
「きっとゴミ捨て場だな」とダヴィは言った。確かに、窪地の底にはもう使われなくなったらしい道具などが捨てられていた。幸い生ごみなどは捨てられていないようで、不快な臭いはほとんどなかった。
エスィはゆっくりとその集積物に近づいた。エスィの目を真っ先に惹いたのは、散らばる黒い破片だった。
「これは──」
「お前がオザに売ったやつじゃねえか?」
ダヴィの言う通り、集められる限りの破片を継ぎ合わせてみると、それは確かにエスィがオザに売ったあの黒曜石の板だった。どうしてこんなところに。しかも、割られて──
「あ、おいエスィ、あれ!」
ダヴィが液晶で矢印を向ける先に会ったのは、鎌だった。エスィは黒曜石の破片をバックに詰め込んで、それに駆け寄る。それの刃には、血が一面についていた。
「きっとニアの家から持ってこられたんだろうな。なかったろ、あの家に鎌」
ニアの家には鎌がなかった。家を自由に調べられるようになってまっさきに探したが、どこにも見当たらなかったのだ。きっとこの鎌がそれなのだろう。そして、凶器として使われ、ここに捨てられたのだ。柄の特に刃に近い方には、血で手の形がべたべたとついていた。
窪地にはそれ以上の発見はなかった。窪地と礼拝所は近く、少し歩いただけですぐに辿り着くことができた。
礼拝所は石造りの小屋で、あまり大きなものではなかった。窓の類はなく、扉にはやはり厳重な錠がつけられている。昨晩は見張りであるカンザが、ここをあける鍵を持っていたとのことだった。
礼拝所の脇に立ってニアの家をみると、確かに小高い丘の上ということもあって、かなりはっきりとニアの家周辺をみることができた。昨晩は月明りもあった。誰かが動いていれば見逃すことはないだろう。
「列ができる前にって来てみたけどよ、よく考えたら鍵も持ってねえし、そもそも見たらあのオッサンになっちまうかもしれないんだから、礼拝所の中には入れないよな」
「うん。でも、きっと何か見つけられる」
エスィは礼拝所の周りをぐるぐると何周も回りながら周囲を探した。何か落ちていないか、壁に何かついていないか── そうしているうちに彼は何かに気付いたようで、はいつくばって地面をじっと眺めた。
「みて、ダヴィ。これ」
「ん、ただの足跡じゃないか? 他のやつと同じ形に見えるが」
「形じゃないよ。深さだ」
エスィが指摘した通り、彼の見つめる足跡は周囲よりわずかに深く、はっきりとしていた。「それがなんなんだ?」と尋ねるダヴィに、エスィは「村人はみんな同じ体で同じ重さなんだよ」と答える。
その足跡は一本に連なっていて、礼拝所から真っすぐにどこかへ向かっているようだった。エスィがその足跡を丁寧に追っていくと、やがてニアの家の扉の前に辿り着いた。
「おお……そうきたか── で、これにどんな意味があるんだ?」
「まだわからない。でもきっとこれは大切なヒントだよ」
──他より深い足跡。この持ち主がニアの家を訪れて、そしてニアを殺した犯人なのだろうか。では彼はどうやって家の中に入ったのだろうか。ニアが迎え入れたのか? 内側からにせよ外側からにせよ、鍵をあけられるのはニアしかいなかったはず。
──それに、カンザの関与はどうなるのだろうか。なぜカンザは鍵を持っていた? カンザこそがあの足跡の持ち主なのか? それならどうして、あの足跡は深かったのだろうか?
疑問と否定が泡沫のように浮いては消えていた。真実に近づけているような気はしたが、その反面得られた情報はどうしても繋がっていかない。日は傾き、風景が橙に染まり始めていた。
そろそろ何かしらの答えを出さなければ── エスィは何度も額を小突きながら考え込んだが、何も思い浮かんでこなかった。決定的に、何か重要なピースが足りていなかった。日はどんどん低くなっていく。ダヴィは何も言わなかったが、液晶をぱちぱちと点滅させ続けていた。そのとき、馬の嘶きが聞こえた。
間違いなく、エスィの馬の声だった。彼はすぐに馬小屋へと走った。
小屋では馬が不服そうに足を踏み鳴らしていた。どうやら村民が掃除をしようとしたときに、持っていた道具を脚にぶつけてしまったようだった。馬はエスィを見ると少し落ち着いたようだったが、まだその怒りは収まっていないようだった。「どうにかしてください」と村民は言った。「少しなら触ってもいいですから。もちろん、乗るのはいけませんが」
エスィは鼻息を荒くする馬の首に優しく手を当てて撫でた。美しい毛並みが夕日を受けて金糸のように輝いていた。しかし、それはただはかなく可憐なものではない。その美しい毛並みの裏には確かに筋肉が躍動していて、心臓が刻む力強い律動を手のひらを通して感じることができた。
馬はエスィの手のゆったりとした動きに合わせて、少しずつ落ち着いていった。用済みになって馬小屋から追い出されても、エスィの手には確かに拍動の余韻が残っていた。手を胸に当てながら目を瞑ると、馬の首筋に脈打つ血管の生命力溢れるイメージが浮かんでくる。
──そうか。そうだ、あれがおかしいじゃないか。
エスィは駆け出した。邪魔な翻訳用のマスクも外して、とにかく全力で走った。目的地はニアの家。今までバラバラだったピースが繋がっていく感覚があった。
「ダヴィ! 僕たちはかなり前提から間違っていたかもしれない」
「おお、なんか閃いたみたいじゃねえか! 俺も事件に関係あるかどうかわかんねえけど、一個思いついたことがあるんだよ」
「本当かい?」
「ああ、ここの土地の名前、あいつらがいう"神"がつけたってことだったよな。昨日色々予想は話したが、別の考え方もできそうなんだよ──」
静かな村に軽やかな足音が響いて、焼けるような夕日に、その蜂蜜色の髪の毛が舞った。
◇◇◇
長机を挟んで、男と青年が、それぞれ長椅子に座って、向かい合っていた。二人の間には、緊張感が漂っていた。日は沈みかけていて、その時間に青年が話しに来ることにはそれなりの意味があることを、男は知っていた。
「話というのは? 人を殺した者と、あまり話したくはありません」
それでも男は冷たくあしらって。眉をひそめた。朱色の首飾りについた目の形のオブジェがゆらゆらと揺れていた。
「ニアの地で起こった事件の犯人がわかりましたので」
男──カンザは呆気にとられたように口を半開きにして少し黙ったあと、小さく笑った。
「わかった? 犯人はあなたでしょう」
エスィは、小さく首を振る。
「私は最初、オザの者が犯人だと考えました。夜に鍵を開けて侵入できたのは、彼しかいませんから。しかし、それは外れました。予備の鍵は長い間使われていないことが明らかだったからです」
そのまま、エスィはつづける。
「次に私が疑ったのはカンザの者でした。家の中で見つかった鍵が、私が家を出た後に投げ込まれたものだとしたら、それが可能だったのはカンザの地に住む者だけだからです。それに、カンザの者はニアの者を嫌っていると、そう聞いてもいました」
「なるほど。しかし、私は夜に彼の家の鍵を開けることはできません」
「はい。その通り、不可能です。ノックをしても耳栓で聞こえない以上、扉を鍵で開けるしかありません。しかし、その鍵を開けることは、オザの者が不可能である以上、ニアの者にしかできないのです」
「それなら、鍵は開けられなかったし閉められなかった。つまり、最初から中にいたあなたが犯人でしょう」
「いえ。最後にまだ一つ可能性が残っています。それは、ニアの者が鍵を開け、カンザの者が鍵を閉める。そして、私が家を出た隙に、カンザの者が鍵を家に放り込む。そういう方法です」
わけがわからないと、カンザは背もたれに寄りかかった。エスィはそれから決して目を逸らさず、大きく息を吸い込んで、静かに言葉を並べ始めた。
「地面には一続きの他よりはっきりとした足跡がありました。まるで、他の村民より重い者が通ったかのように。礼拝の丘からニアの地へ向かうものでした」
「でたらめでしょう。我々は皆同じ重さです」
「いえ。重さは同じでも、その足跡の主は、何か重い物を背負っていたのでしょう。そしてそれは、足跡の始点ある礼拝の丘で拾われた。では、当時礼拝の丘にあったものとは?」
「そんなこと知り──」
「カンザの者ですよ」
カンザは眉をひそめて、大きくため息をついた。「確かに私は、夜礼拝所で見張りをしていました。しかし、私は背負われてなどいません」
男の言葉を無視してエスィはつづける。
「犯人はカンザの者を背負ってニアの地まで向かった。なぜわざわざ背負ったのか、あなたなら知っているはずです」
「だから、私は背負われてなど──」
「いいえ、あなたは知っています── カンザの者は死んでいたんですよね? いや、殺されたんです」
男は黙ってエスィを睨みつける。「自分の言葉を理解していますか? 私が死人だと?」
「いいえ、"あなた"は、生きています。ただ、あの遺体はニアの者ではなく、カンザの者のものです。遺体が焼かれたのは、二人の相違を分かりにくくするためだったんでしょう。そして犯人は──」
エスィはじっと目の前の男の目を見つめる。黒い瞳の裏の感情を見通そうとする。
「昨日まで”ニアの者”だった、あなたです」
男は口をあんぐりと開けて、それから大きな声を上げて笑い出した。
「とんでもない妄想です。あの遺体がニアの地の者だと、なによりあなたが言ったんでしょう。それに、私が本当はニアの者だという、そんな証拠もなしに……」
「遺体の傷は後からつけたんでしょう。筵の上に飛び散っていた血はその工作の跡です。ただ、それがまずかった。あなたは二点ミスを犯しました」
凶器の鎌も、刃に近い部分を持った形跡があった。おそらくこれは、細かい作業をするために刃の近くを持つ必要があったためだとエスィは考えていた。人を殺すためなら、もっと下の方を持った方が振り下ろしやすいはずだった。
「一つ目は、首を切ってしまったことです。おそらく本当は、首を絞めて殺したんでしょう。その痕跡を消したかったあなたは、ついでに”ニアの者は筵の上で首を切られて死んだ”という偽装も狙って、この工作をした。しかし、もし生きているうちに首を切ったのなら、もっと血が飛び散るはずです。少なくとも私が殺したなら、私が返り血で真っ赤に染まるはずでした。血痕も、筵からもっとはみ出したはずです」
馬の拍動が教えてくれたことは、これだった。馬ほどではないにしても、人間の心臓は力強く脈打っている。そんな状態で首を刈り切れば、勢いよく血が飛び散るのは明白だった。少なくとも、筵周辺がべっとりと血に濡れている、といったような落ち着いたものではなく、「何かが噴き出したような」血痕がなければ不自然だった。
男の瞳の奥が一瞬揺らいだ。どんな論理より、自身の失敗を指摘されることが人の動揺を誘う。ミスについて一番よく理解できるのは、当の本人だからだ。
「二つ目は、脚を焼かなかったことです。傷に注目して欲しかったのか、それとも単に暖炉に足まで押し込められなかったのか──どちらにせよあなたは脚を焼かなかった。しかし、それは重大な矛盾を残すことになってしまいました」
エスィは自分の右手を握りしめて、あのべっとりとした感触を思い出した。
「血が生乾きだったんです。私が遺体の脚を引っ張ったとき、傷に触れた右手にだけ、べっとりと血がついていました。乾いて薄く張っていたかさぶたを剥がしてしまったのでしょう」
確かに両の脚には引きずられたときについた血が付着していたが、もしそれで右手が血で汚れたのなら、左手も同じくらい血がついているべきだった。しかし実際、多くの血がついたのは右手だけだった。引きずられたときの血は、薄く延ばされたせいですでに乾いてしまっていたのだろう。
エスィがここまで言い切ったのを聞いて、男はニヤリと笑った。それは虚勢ではなく、余裕を感じさせるものだった。獣を追い詰める絶好の罠を貼っている狩人の笑顔だった。
「しかしおかしいですよ。あなたが言うように私がニアの者だったとしましょう。どうして私はケガをしていないのですか? 顔と脚の二か所に、傷があったはずです」
「傷は礼拝で治せますよね。カンザの者を殺したとき、あなたは彼が持っていた鍵をつかって、礼拝所の扉を開け、礼拝をしたんでしょう」
「確かに、礼拝で傷は治ります。しかし、時間が足りません。礼拝の効果は下から順に出ます。脚は治っていたとしましょう。しかし顔に影響が出るのは一日の終わり。時間帯的にまだ治っていないはずです」
エスィは言葉に詰まった。右腕の友人は何も返さない。彼の説明する異類の性質に矛盾はないようだった。
「どうしたんですか? 突然言葉が少なくなりましたね」
男はため息をついて、立ち上がった。
「もう何もなければ、早くお帰り下さい。これから礼拝をしなければいけません」
──もう少し、もう少しだ。
エスィは拳を握りしめる。耳元でダヴィが諦めるな、と呟く。何か見落としていることがあるはずだ、と。
「どうしたんですか! 早くお帰りください! 他の村人を呼びますよ!」
男はそういってエスィが座る長椅子を揺らした。置かれていたエスィのバッグが転げ落ちて、中身が散乱する。その中に、暖炉の光を受けて黒く輝くものがあった。エスィが急いでそれを拾い上げようと覗き込むと、外套に身を包んだ自身の姿が、そのひび割れた黒曜石の板に映っていた。
見落としていること── そうか。
──その外套の下に何隠してるかわかったもんじゃあないし
ダヴィの軽口を反芻する。そうだ、"覆われたもの下に何があるかなんて、わからない"じゃないか。
「……待ってください。そもそも、ニアの者は顔にケガなんてしていなかったんですよ」
「はあ? そもそも、彼の顔に傷があったのはあなたも──」
「私が見たのは、血の付いた布に覆われた頬だけです。その下の傷は見ていません」
男は苦虫を嚙み潰したような顔をして、エスィを睨みつけた。全ては用意周到に行われたのだろう。男が旅人を見た瞬間から、彼は行動を開始した。その計画は、ずっと練っていたものに違いなかった。男は絞るように声を出す。
「それでも、それでも私がニアの者だということにはならない…… ただ、ニアの者の顔に傷がなかったというだけだ」
「あなたならきっとそういうと思いました。希望を捨てない方ですから」
エスィの知るニアは、決して諦めない、希望を持った人間だった。それは例えどんな罪に手を伸ばそうと変わらないのだろう。
突然扉が開いた。そこに立っていたのは、オザだった。手には背の高い植物が数本握られていた。エスィはあらかじめ、彼に自身の推理を聞かせ証拠の確認とこの植物の採集を依頼していた。
ニアは入ってきたのがオザだとわかると、すぐに部屋の端から小さな椅子を取り出してオザに差し出した。しかし、オザはそれを断って、立ったままでいた。エスィはオザから植物を受け取る。
「ありがとうございます。これが、カンザの者がニアの者の畑に嫌がらせで植えたもの──そうですね?」
エスィがオザに向き直ってそう尋ねる。彼は人差し指を三度交差させた。肯定のジェスチャーだ。
「その雑草がどうしたって──」
「これは、雑草ではありません」
エスィはその植物を男の前に突き出した。小さな蕾がいくつもついた房が揺れた。
「雑草じゃないって、なにを──」
「ヒエ、と呼ばれる穀物の一種です。麦と比べて、非常に強かな種です」
その植物は、畑で発見したあの植物だった。オザはこれが、カンザの者の畑から採ってきたものであると説明した。
「カンザの者はこれをヒエだと知っていた。だから畑の片隅で、こっそりと育てていたんです。雑草のためにわざわざ畑の一区画を割いたりはしません。あなたが本当にカンザの者ならば、この疑われている状況で、雑草だなんていわなかったはずです」
男は、椅子に崩れるように座り込み、首を垂れた。もう反論の余地はないようだった。
「カンザの者は決して嫌がらせにあなたの畑へこれを植えたわけではありませんでした。あなたの痩せた土地でもたくさんの食料が取れるように、こっそりこれを植えたのです」
「どうしてそんなことを……」
「カンザの者はあなたをずっと心配していたんですよ。彼はもともとニアの地に住んでいた。だからあなたの苦労はよく知っていたんでしょう。しかしあなたはその彼を──」
エスィは静かに、しかし突き付けるように短く言い放った。
「自分の利益のために殺したんです」
エスィは動機について、単純にカンザへの恨みか、カンザの地位を乗っ取って正式な村人になろうとしたのだろうと考えていた。だからこそ、彼が本当はニアのことを想っていたことを理解してもらえば、目の前の男にも謝罪の気持ちが沸き起こってくるだろうと考えていた。
「──私のことを想っていた? カンザの地の者が? だからどうしたというんです」
しかし、返答は想像とは全く違った。その語気には明らかに怒りが込められていた。
「彼が私を特別扱いしたということは変わりません。私は早く皆と同じになりたかったんですよ。でもあいつが邪魔だった。私に好意的であれ、敵対的であれ、どうでもいいんです。私を”他とは違う個人”としてみている者は彼だけでした。彼は、私が皆と”同じ”になることを邪魔していたんです」
今度はエスィが圧倒される番だった。激しい剣幕でまくしたてる目の前の男は、カンザでもニアでもなく、何か別の全く新しい狂信者のように見えた。直感的に同意を阻む論理だったが、そこには一本の筋が通っていた。男にとって、カンザはその精神に関わらず加害者であり、男は完全な被害者だった。
「皆を信じて、信じられるようになりたかった! 早く平穏に暮らしたかった! そのために邪魔な穢れを消したかった! ──それが目的です。成り代わったのは、彼が死んだという結果のおまけでしかありません」
彼はそこまでよどみもなく言い切って、そのあと何も言わなくなってしまった。完全に力の抜けた、精神のない肉の塊のようになってしまった。
オザが合図をすると、数人の村人が部屋に入ってきて、彼を連れ去っていった。彼が家を出る際にたった一つ呟いた、人生の果てに出るにはあまりに子供じみたような言葉が、それでも彼の人生の重みを伴って、エスィの耳に残っていた。
──どうして私だけ、皆と一緒になれないんですか?
◇◇◇
「ありがとうございます。おかげで真実を知ることができました」
男が連れていかれた後、オザはそう言って、家を出ようとした。しかし、エスィは先回りしてその扉を閉めてしまった。
「もう一つ、明らかにしなければいけない真実があります」
オザは黙って聞いていたが、その目はじっとエスィの目の奥を覗き込んでいた。エスィの反応は予想外ではないが、しかし本当にその先に踏み入るのかと問うているようだった。
「違和感はずっとありました。その最も大きなものが、この立派な錠です」
「あれは、外の敵から身を守るための──」
「それは違います。もう周囲に敵はいません。それに、外敵を恐れるなら、もっと村の周りの堀をしっかり管理しているはずです。錠前なんて、家ごと燃やされれば終わりなんですから」
エスィが明らかにしようとしているのは、この村の嘘だった。この村の不幸だった。
「あなたがたが恐れていたのは外の敵ではありませんね。内側からの目です。同じ村の仲間の視線を恐れて、彼らが決して勝手に自分の家に入れないようにしたのです。そうしないと、家の中で気を緩めて休むことすらできなかった」
オザは長椅子に座った。それに向き合うように、エスィも腰を下ろす。
「それがどうやって始まったかは知りません。何か裏切りがあったのか、それとも戦いの中で育てられた結束が強すぎたのか。しかし確かなのは、いつしかあなたがたは自分たちと同一の者しか受け入れられなくなった、ということです。そして、自分たちと異なるものは外部の者に、つまり排斥すべき脅威、攻撃対象になりました」
「推測の域を出ませんね。ほとんど証拠がありません」
「礼拝をする限り、あなた方に寿命はありません。戦いのあと、ずっと生き続けている方もいるのでしょう。それなら、礼拝では治せない腕や脚の欠損がある村民がいてもおかしくないですよね。でもそういう方はいない」
「……続けてください」
「村に点々と存在する空き家。きっとそれは、そういう方たち、つまり肉体的に大きな差異を抱えた人々が去った──もしくは殺されたか追い出された跡なのでしょう」
オザの表情は全く揺らがなかった。つまらない物語を聞いているようでさえあった。
「しかし、そういう目立った差異を持つ人々を追い出し終えて、あなたがたは気付いた。肉体的には同一の自分たちも、動作や考え方、言葉遣い──細かい違いが残っていると」
エスィは深く息を吸い込んだ。彼が嘘を暴く側なのに、目の前に座った一人の男性が酷く硬い壁のように思えた。気圧されているのはエスィの方だった。
「あなたがたは幸福のために自ら進んで今の村の体制を維持しているといいました。しかしそんなのは嘘っぱちです」
圧力に抵抗するように、エスィは語気を強める。呑まれてしまわないように、必死に相手と視線を合わせ続ける。
「あなたがたはただ恐れたんですよ。自分が”異物”とみなされることを。だから周りとの差異を減らすために、どんどん言葉が形式的に、そして単純になっていったんでしょう。複雑なことを話せば、話し方に”個性”が出てしまいますから。それでも、どうしても小さな差異を消すことは難しい。だって、あの”形代”に心の在り方を変える効果はありませんから」
エスィはダヴィが語ったことを思い出していた。この土地の名前の秘密。それは"イングリッシュ"ではなくて、"ジャパン"で使われていた言葉の変種だろうと。異類自体がジャパンにあったものだから、神と呼ばれた者も同じ出身であると考えるのが妥当だと。
──土地の名前だが、どうやら最後の文字がアの母音に引っ張られて、場合によっては濁るような、そういう変化をしてんだよ。
──例えば、オザ。これはもともと"オサ"、村長を表す言葉だったんじゃないか? カンザは"カンシ"や"カンシュ"、どれも見ることに関係する言葉だ。そうだとすればあの目のオブジェも納得がいくし、見張りを担当してるってのも理にかなってる。
それならニアは、と問うエスィに、ダヴィは「あくまで予想だが」と前置きしたうえで、こう答えた。
──"ニエ"。神への犠牲や捧げものを指す、贄を表す言葉だ。
「だから、あなた方は画期的な策を思いつきました。もっと大きな異物を用意すれば、その異物を外、自分たちを内とみなして、また自分たちを一つの存在だと思えると。そのために用意されたのが、あのニアの地です」
オザは背筋をまっすぐに伸ばして、エスィの表情を、査定するかのようにじっとみている。彼は落ち着き払っていたが、さきほどより表情は硬くなっているように見えた。緊張というよりも、誠実な態度の表れのようだった。
「ニアの者に割り当てられた耕作地はそもそもの土の質がよくありません。農業の技量は別問題です。どうしても多くの土地を耕す必要があり、労働の時間が長くなってしまう。それは不幸ではなく、あなたがたが意図したことだったんでしょう。
そして、色々と理由をつけて礼拝の時間を制限し、忙しい彼を礼拝から遠ざけました。礼拝できないままでいると、その効果が切れてきて、だんだんと肉体的な差異が見えてくるわけです」
なるほど、とオザは呟く。
「他にもう一つ、ニアの者と他の村人を区別するものがありました。複雑なジェスチャーです。
言語は内面が出てしまう以上、単純化せざるを得なかった。ジェスチャーはいくら複雑化しても所詮は形式です。誰でも真似をして、表面上似せることができます。多少の癖が出るにしても」
「それなら、ニアの者も真似ができるのですよね。区別にならないのでは?」
「いえ、ただ一つ、ジェスチャーを表面上でさえうまく真似られない状況が存在するのです。──それは、自分の動きを確認できない状況です」
そういってエスィは、さきほど落とした黒曜石の板を拾い上げて、テーブルの上に置いた。
「あなたが村を訪れた行商の荷物をチェックするのは、自分の動きを確認できる”鏡”を、ニアの者が得ないようにするためですね? 実際にあなたは、私の商品をわざわざ買って、破壊した。空き家にさえある鏡を、ニアの者には渡さなかった。だから、ニアの者のジェスチャーはかなり歪なものになっていたはずです」
オザは「申し訳ない」と呟いて、黒曜石の板を自らの手元に手繰り寄せた。
「あなたがたはそういう大きな差異を見て、肉体的・形式的に同一の”仲間”と、部外者の”ニアの者”を区別して、自身たちが同一であることを確認していたんです」
エスィは眉間に皴を寄せて、小さく息をついた。その目には幻滅と非難の色が浮かんでいた。
「礼拝の列に並んでいるあなた方は、決して村に献身的な存在なんかではありません。ニアの者のようにはならないようにと願う、ただ自己中心的で、強迫的な怯えに駆られた矮小な存在です」
ニアがもっていた希望は最初から偽物だったのだ。そこに信頼や平穏はなく、あったのは周囲への不信と怯え。皆と同じになりたいという願いは、初めから決して叶えられることがなかった。彼が見せられていたのは全て幻影だった。
「だって、あなたがたは歴史の中で、自分たちが同一にはなれないことをよく知っていましたから。実際、首飾りなんかなくても、ジェスチャーの癖やもっと小さな特徴で村人の区別がついていたんですよね?」
どうしてそう思うんですか、とオザは穏やかに尋ねた。
「あなたが私に捜査をさせたからです。あなたがたは、カンザの者がカンザの者ではない、ということに気付いてはいけなかった。だって建前上、村人は全て同一で、差はないんですから、見分けることはできないんです。でもあなたは、いやあなたがたは、事実それに気づいた。
死体に何か特徴を見出したからなのか、それともカンザの者のジェスチャーが不自然だったからなのか、それはわかりません。でもあなたは、すぐにこの事件の真相に辿り着いた。しかし、自分たちがそれを明らかにするわけにいかなかった。だからわざわざカンザの者の名を出して私に彼を疑わせ、ヒントまで与えたんです。だってそうじゃないと、普通殺人犯かもしれない人間を自由にするなんてありえないですから」
オザは少し黙り込んでから、こぼすように呟いた。
「ニアの地の者の無念を晴らさねばなりませんでした。彼の無念は我々の無念です。結果として晴らされたのはカンザの地の者の無念でしたが── とにかく、あなたが選ばれたのは、我々では真実にたどり着けそうになかったからです」
エスィは震える手をそっと握りしめる。
「さきほどの彼を見ましたか。彼はあなたに椅子を差し出しましたね。私は長椅子に座らされましたが。きっと彼は椅子を差し出すという行為を、来客への礼儀だと思っていたのでしょう。だから、招かれざる私には椅子を用意しなかった」
彼の手は、声は、細かに震えていた。口元は歪んで、その目はオザを睨みつけていた。オザは、否定も肯定もしない。
「でも違いますよね。椅子を出すという行為は、普段自分が使うものに部外者を近づけないための文化だったんです。その証拠に、最初にあなたの家に伺ったとき、私を案内した村人は長椅子に座っていましたよね」
オザは否定も肯定もしない。
「ではニアの者はなぜ、この文化の意図を間違ってしまったのでしょうか。それは、彼が常に椅子を差し出されていたってことじゃないですか? ……もしかしたら、カンザの者だけは彼を長椅子に座らせたかもしれません。残念ながら、それも”嫌われている”という誤解を生むだけでしたが」
オザは否定も肯定もしない。
「何が”ニアの地の者の無念は私たちの無念”ですか。結局あなたたちは、口では”あなたと私たちは同じ”といいつつ、彼を一度も村人だとみとめなかったんです。穢れが残っているとかそういうレベルではなく、彼はこの村では常に部外者だったんですよ。それを──そんなの本当に、本当に美しくないんですよ……」
エスィは続けざまにまくし立てる。認めなくてもいい。せめて否定だけでも、怒りでも、なにか反応をしてほしかった。人の精神が、この非情なシステムを無感情に受け入れているのが最も恐ろしかった。
「そもそもあなたがたは本当にニアの者を奴隷商から救ったんですか? 本当は、贄が必要だったから。私に人を売っているかと聞いたのも、贄を入れ替えるためだったじゃ──」
「もうやめましょう」
オザは立ち上がってきっぱりと言い切った。エスィを見下ろすオザの表情に宿っていたのは、怒りや悲しみではなく、むしろ憐憫であった。
「仮に本当だったとしましょう。あなたはそれを突き付けて、何をしたいのですか? この村を変えたいと?」
彼は静かに扉を開いた。そして振り返らずに、そのまま歩を進めた。
「我々はこれしか生き方を知らないのです」
◇◇◇
明け方のまだうす暗い空の下、一人の青年が馬に揺られていた。暗い青の外套に身を隠すように、昇りくる太陽から逃げるように。右腕の相棒も、何も話しはしなかった。
後ろに見える村はどんどんと小さくなっていく。彼は決して振り返らなかった、その先の森も、見たくなかった。灰色の目はただ、地面の暗い緑を映していた。
集村 - 37
友好度 - 低(敵対的ではないが、根本的に部外者に対する信頼が欠如している)
異類概要 - "ジャパニーズ"と呼ばれる古語で"平成"と書かれた紙。視認すると特定の男性の姿になるが、しばらくすると元に戻るようだ。定期的に見続ければ老化もせず、軽い傷なら治してしまえる。
コメント - 同じ姿を与える異類にできたことは、より小さな差異を恐れさせることだけだった。
探索担当 - エスィ